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小西行長捕縛

2019年10月11日 16:53

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 16:37:31.03 ID:zZQFSs+H
(前略 >>495

かくて行長(小西行長)は「大坂へ忍び行こうか、または薩州へ落ち行こうか、ただ居城へ赴こうか」と様々
に思案したけれども、敗北の従臣共は1人も尋ねて来ない。あまつさえ東兵は八方に充満し、落人を探し求め
たので、翼が無くてはこの場を漏れ出る様子も無い。

行長は今は運命これまでと思い切り、住僧に向かって「不覚者に与して快き戦もせず、無下に敗北したことは
口惜しい。しかしながら、いつまでもここに忍んでも運の開く我が身にあらず。自害しようと思っても、私は
年久しく耶蘇宗門を崇んでいる。天帝の法として、自らその身を傷つけることを深く慎み嫌う。御僧が今まで
深く労り隠しなさった厚志の返礼に、この命を進上する。徳川殿へ注進なされ」と言った。

これに住僧は「『窮鳥懐に入る時は、猟人も之を殺さず』と言うのだとか。ましてや僧侶の身であれば猶更で
す。ただいつまでもここに忍んで、時を待って運を開きなされ」と、もっとも頼もしく返事した。

ここに関ヶ原の近所に林蔵主という僧あってこれを聞き出し、9月18日、家康公が江州八幡山に陣しなさる
所へ参り、竹中丹後守重門を頼んで「行長は山中の賀須川寺に忍んでいます。人数を向けなさるならば、案内
して虜にします」と訴えることにより、かの僧に竹中丹後守を添えてその他大勢を遣わしなさった。

林蔵主は寺へ帰り強力の悪僧5,6人を伴って行くと、討手の輩を門外に残して自ら悪僧共を連れて、小西の
いた座敷へ忍び入って窺うと、小西は前後も知らずに伏していた。僧従は喜んで密かに側に置いていた刀脇差
を盗み取って俄に押し入り虜にしようとした。その音に小西は驚いて起き上がり、僧2人を取って押さえ膝下
に押し込み刺し殺そうとすると太刀脇差が無い。そこへ悪僧4人が前後左右より飛び掛かり組み留めようとす
るのを、小西はすかさず取って投げ付け押さえた2僧を押し殺した。

時に門外にいた竹中重門は大勢を率いて押し込み、ついに虜にして疲馬に乗せ八幡へ来たり、小西を献じた。
家康公の御感あって、抜群の功として竹中に小西が差していた光忠の刀と兼光の脇差を当座の褒美として賜わ
り、次に林蔵主を召されて黄金10枚を賜った。

諸人は皆、かの出家に似合わぬ任侠をあまねく憎み謗ったが、天罰かまたは小西が怒れる報いなのか、かの僧
が黄金10枚を賜わり帰るのを近辺の盗賊共が聞き付けて押し込み、僧従を残らず搦め置き、かの黄金宝物を
ことごとく奪い取り、あまつさえ林蔵主の耳鼻手足を断って逃げ行けば、林蔵主はその夜中に狂死した。因果
歴然の道理また宜かなと、聞く者は舌を巻き恐懼した。

さて行長は10月朔、石田・安国寺と共に各々雑車に乗せて洛中・洛外・大坂・伏見を引き渡し、三条河原に
おいて首を刎ね梟首せらる。嗚呼憐れむべし。

――『古今武家盛衰記』



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前田慶次が大事にしていた召使い

2016年07月29日 14:03

999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/28(木) 14:08:18.50 ID:U/gwoNap
前田慶次は関ヶ原で活躍することはできなかった。しかし関ヶ原の戦い
のちょうど一年後、関ヶ原をちょうど通過していた。
そのときに、前田慶次の朝鮮人召使いが体調不調がいちじるしくなり、
馬に乗せることもできないほど重態になった。
前田慶次はその朝鮮人を斬首して捨てていった
わけではなく、竹中ハンベエの息子がちょうど近くで城主をやっていたため
入院の招待状?を書いて、召使いを竹中氏に預けている。
前田慶次が大事にしていた召使いであった。



1000 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/28(木) 14:09:24.54 ID:U/gwoNap
入院の紹介状、だな。大体の意味は。
1000ゲット

竹中重門の書く本能寺の変

2015年06月03日 14:35

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/03(水) 00:01:53.21 ID:rHAXdTQh
昨日は本能寺の変の日だったので、関連の逸話を。


備中高松城を攻めている羽柴秀吉より、安土の織田信長に、備中に軍を出すことの要請が来ると、
信長は自身が軍を率いると伝え、5月に嫡男の信忠とともに都に上り、三条の本能寺に宿泊した。

その頃、明智日向守光秀は丹波国の主で亀山という所に居住していたが、織田信長に恨みがあったのか、
彼を討とうという心を日頃から差し挟んでいたが、よき折と思い立って、6月1日の夜半より兵どもを進め、
大江の坂を越えて、2日の夜明け頃、本能寺の四方を囲み攻め立てたが、本能寺には警護の武士すら無く、
塀も一重すら満足に構築されていなかったので、防戦にすら及ばず、信長は自害し、寺に火をかけ共に
煙と上った。

織田信忠は妙覚寺という寺に居たが、信長が自害したと聞くと、
「明智がここにも攻め寄せてくるだろうが、ここでは防ぐことも出来ない。どうすべきか」
と家臣たちに問うと、「親王の二条の御所(二条城)こそ宜しいでしょう」と人々言うので、
であればと、親王を御輿に乗せて内裏に避難させ、信忠は二条御所に移った。
本能寺で信長とともに死ねなかった者達もここに集まった。

明智軍はたちまち攻め寄せて戦ったが、この二条御所も築地一重ばかりの防御しか無く、
一方、明智の兵は具足に身を固め弓鉄砲を先に立て攻撃した。
信忠の侍達は、一重の防塁では戦うに便無く、信忠もここに自害した。

都のうちは、墨をすったかのような状況だった。今朝までは、誰がこんな事が起こると
予想しただろうか。手のひらを返すよりも早いのは世の転変であり、今も昔もそういうものだと
言いながら、驚きあうのも理ではないだろうか。

明智日向守光秀は、美濃国土岐郡明智という里に生まれ、昔は土岐の一門だったそうだが、
光秀の頃には貧しくなりはて、下郎の一人も持たず、越前国などをさすらっていた。
そんな中、思いもかけす信長に宮仕えし、思いにかない、近江の志貨郡を知行し、坂本という所に
城を構えた。天正6年の頃には丹波国を攻め、波田野などという国人たちを討ち滅ぼし国の主となり、
さらに西近江をも知行した。

このように時めき富盛したというのに、なお飽きたらず日本を取ろうと信長を討ったこと、
欲心によって道を損ない名を汚し、浅ましいとしか言いようがない。

明智がやったようなことは、なかなか起こるものではない。信長がこんな事に成るとは知らず、国を与えて
かえって滅ぼされてしまった事は、人を知ることが明らかでなかった科であろう。
与えれば恵みを破るなと、孟子が言っていることも理であろう。
(豊鏡)

竹中重門の書く本能寺の変についての記事である




豊鑑、後書き

2015年02月28日 18:12

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/28(土) 01:41:06.59 ID:y03jN6Nc
ここまで長々と著述してきたが、思いもよらず外病の霧に冒され、もはや我が身は
秋の露と消えようとしている。思いの程を残すことが出来ないのは、口惜しい限りである。
もし心ざしを同じくする人がいるなら、この後を継いでほしい。

この書は清書にすら及んでいないので、もとより拙い私の著述であるが、なお拙く、
人の官名、氏なども、前後が正しくないこともあるだろう。これも病のせいだと見て
許して頂きたい。

秀吉公は慶長4年8月18日に、例ならぬ心地にて薨ぜられたのだが、東山に葬られ、
豊国大明神と崇められた。
その嫡男である右大臣秀頼公がその後を継がれたが、未だ幼少であったので、
世の掟は松平源家康公により計らわれるようになった。

元和元年5月8日、家康公によって秀頼公は摂津国大阪の城にて自害し、煙と上られ、
豊臣氏は跡無く成った。

 残しをく 筆の跡さへ末とけで あだに消えにし秋のゆふづゆ
(残し置くべき文書でさえ最後まで書けなかった。意味もなく消えてしまう秋の夕の露のような生涯であった)

竹中丹後守刺史源重門取筆
(豊鑑)

竹中重門の書いた豊鑑の、後書きの部分である。




豊鑑より、小牧長久手の講和

2015年02月12日 18:46

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 23:26:07.65 ID:cpXwsAt5
小牧長久手の合戦の後も徳川家康織田信雄連合軍との戦争が続いていた羽柴秀吉は、
伊勢の桑名にて織田信雄の軍と対峙すると、元織田信長の近習であった富田左近、津田隼人の
両人を呼んで、このように言った。

「私が、信長公の恵みを受け、その慈しみの深かったこと、古にも聞かないほどであった。
私が明智光秀を討って信長公の亡魂の怒りを鎮め、亡くなられたその跡を清めた忠義は
決して小さな物ではないが、それでも猶信長公から受けた慈しみには及ばない。

そんな私が、信雄様を始めとした信長公の御曹司たちを、どうして疎かに思うだろうか。
しかし私を仇として滅ぼそうとされたために、仕方なくこの戦を行ったのだ。
全く、私の本意からのものではない。
であるので、信雄様には一度私と和平をして、対面していただけないかと思い願っているところであるのだ。」

これを聞いた富田、津田は喜びに涙を流して
「誠にそのように思し召しになっているのですか!であれば我々、信雄様の元に行き秀吉様の
お心の中を述べてまいりましょう。」

そう言って両名直ぐに桑名を越えて、信雄の陣にて対面し、かくかくと秀吉の言葉を伝えると、
信雄も
「私も一時の事でこうなったに過ぎない。ならば和平をしよう。」と答えたため、両人立ち帰って
これを秀吉に告げた。

次の日、秀吉、信雄の両名は桑名の南の河原に出、共に御座して対面した。
この場で秀吉は膝を折って地面に手を付き、言葉を出さず、ただただ涙を流していた。
そして秘蔵の刀を信雄に進上し、本陣へと帰った。
これに両軍は太平の歌を歌い互いに喜び合った。
尾張国犬山の城は元より信雄の物だったのでこれが返還され、そうして都へと帰った。

秀吉は信長の家臣でありながらその子信雄に従わず刃を研いだ。その罪は明らかである。
また信雄が父の仇を討った秀吉を滅ぼそうとしたのは義ではない。
この出来事をどのように筆するべきであろうか。愚かな私(竹中重門)の心では解らないことである。

その冬の頃、秀吉は再び富田左近、津田隼人を呼んで、徳川家康の元に遣わしこう伝えさせた
「元来私と家康殿の間に遺恨は無い。信雄卿と和平が成った上は猶そうである。であるので
あなたには上洛して頂きたい。萬の事を語り合いたいと思っている。」

しかしこれに、家康の家臣たちが猛反発した。
「秀吉の軍勢が押し寄せてくるならそこまででです!我ら皆、命をひとつにいたします!」
皆がそういった事を異口同音に言ったため、家康もそれに同意し、富田、津田を返した。

これを秀吉は聞くと、「私を疑うのも仕方のない事だ。母上を質に下すべし。」
と、母大政所を遠江に下した。家康も「この上は上洛も異議に及ばず」と遂に上洛し、秀吉と対面し、
秀吉はこれを二無く饗した。そしてこの時期家康には定まった正室が居なかったので、秀吉は
自身の妹を嫁がせた。そして両名はいよいよ隔たりなく心も融けて、何事も朝夕語り合われた。

(豊鑑)

豊鑑より、小牧長久手の講和についての記事である。




豊鑑より、上月城の戦いの模様

2015年01月20日 18:44

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 19:33:34.32 ID:LX2L6gSV
天正6年、大江(毛利)の輝元は吉川、小早川といった同族の者達を大将として、
備前美作の宇喜多直家をかたらい、5,6万ほどの大軍で西播磨へ進出し、山中鹿之介らが籠もる
上月城を幾重にも囲んだ。

これに鹿之助より後攻め(救援)を請われ、羽柴秀吉は小寺氏などを従えて高倉山に陣を張った。
毛利の軍勢は大軍であったので、城攻めの軍勢の中から軍勢を別け秀吉へも攻めてきたので、
秀吉はその方への備えをして、『このような状況であります』と織田信長へ早馬を打たせたところ、
太郎城介信忠を大将として佐久間右衛門(信盛)、滝川左近(一益)などが援軍として送られ、
また信長自身も近く出陣すると表明した。

ところがこの援軍は、明石高砂の傍に留まり、戦場である高倉表には向かおうともしなかった。
あまつさえ信長に対しその出陣を何度も止め、『高倉より撤退すべきです』と言い送った。
そこで信長も彼らの提言に従い、ついに『筑前守(秀吉)、軍を引くべし』と命じたため、
秀吉も、心得ぬことではあったが、力及ばずそれに従った。

これは援軍の者達が、秀吉に功を立てられる事を妬んで、この様に計らったという。
『私の妬みにて公を疎かにするのは、正しき道ではない。心ない人間はああいうものなのか』と、
当時の人々はみな嘲ったそうである。

秀吉はどうにかして、毛利と戦って上月城を救おうと心をもみ砕いたが、大軍が硬く陣を守っていたため
自分の軍勢だけではどうすることも出来なかった。

ある時は、毛利方が野伏を伏せて、秀吉方で馬草を取るために出かけた下郎たちを討った。
これに秀吉の兵たちは物の具を着けるのももどかしく陣より駆け下りて野伏共を打ち払ったが、
そこに毛利はまた兵を出した。
秀吉方の、尾藤氏、戸田氏と言った人々は先駆けをして傷を負い、中村氏は敵をよく防いだ。
宮田氏は命を失った。これらの人々は名を現し、禄を給わった。
このような合戦に及んだため。秀吉の軍は危うい状況になったものの、竹中某(半兵衛重治)が下知をして
その日は何とか治めた。

織田信長からは『戦いを止め即刻撤退するように』と、使いによって重々命ぜられ、秀吉も力なく、
高倉山を退いて書写山帰った。
上月城の者達は後詰こそを頼りにしていたので、この様に退かれては致し方なく、毛利に和を請うて
降伏した。その後、山中鹿之助は備中国神戸川にて殺されたそうである。

(豊鑑)

竹中重門の書いた豊鑑に見える、上月城の戦いの模様である。



275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 20:31:10.70 ID:Lz9nt3w0
「某」にしたのは謙遜のため?それとも諱を書かないため?

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/20(火) 10:35:32.67 ID:X/XtxoRm
豊鑑はよくある先祖顕彰のための家譜軍記とは一線を画した公平な歴史書として書いてあって
息子が書いたのに半兵衛の活躍がほとんど書いてない。某と濁したのもその一環じゃないかな

黒田長政、関ヶ原の古戦場にて

2014年04月25日 18:46

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 19:06:42.28 ID:4Mkt4lor
元和9年7月、大御所徳川秀忠公、将軍家光公の上洛があり、黒田長政・忠之親子は、
御先に上洛したいという旨を申し上げ、土井利勝を上使として、御暇を賜った。
黒田親子はすぐに御礼として江戸城に登城すると、親子ともども、御太刀を下された。
この時、木曽路を通って上洛したいということを、土井利勝を通じて言上したところ、
『心のままにせよ』と赦されたため、親子共に、東山道を上ることとなった。
またこの時、松浦肥前守久信もこれに同道した。

長政は、美濃国合渡川の傍で忠之、松浦久信を待ち受け、ここに暫く留まり、二人に、
先年の岐阜城攻めの折、大垣の城の敵方が後攻めをしようとして大勢が川向うに備えていたのを、
長政がここを渡り、合戦して追い崩し、勝利を得たこと。田中、藤堂など諸将が渡川した場所、
戦いの形勢など、たった今、目の当たりに見るように詳しく語った。
これには付き従った者達まで、志あるものは耳を傾けて聞いたそうである。

このあたりの領主であった竹中丹後守重門は、その子である権之佐を迎えとして合渡川まで参らせた。
その夜は竹中氏の居館のある岩出という場所に宿泊した。
ここでは竹中重門自身が接待をした。

翌日、岩手を出て関ヶ原に至った。ここでは、また先年、家康公の先手として陣し、西軍の大敵と
大いに戦い、天下泰平の礎を作り上げた場所であったので、「若年の人に教学の為に」と、
忠之にその時の戦の有り様、地形、方角を、指さしながら詳細に語り聞かせた。
これに、付き従う士卒たちも、ただただ心耳を澄ますばかりであった。

長政はここで時刻を過ごし、いにしえの戦場に感じ入り、昔を恋しく思って落涙された。
心ある人中には、これを見て共に涙を落とす者もあった。

後で思い返してみれば、この時黒田長政は既に年老いて、しかも病を患っていたので、
もう一度ここを通りたいと思い、今回は忠之を伴って、こうしてここを見せ、語り置かれたのであろう。

(黒田家譜)

黒田長政、息子に関ヶ原の古戦場にて自分の戦いを語り聞かせる、という逸話である。




840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 20:34:53.12 ID:ZKXY3hr0
熱く語る長政と興味無さそうに適当に相槌打つ忠之の姿が目に浮かぶようだ。

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 23:31:27.99 ID:zogf4qTm
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5662.html
この話か

842 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/25(金) 08:52:47.72 ID:PicnZp9z
幼馴染との邂逅ってやつですかね~

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/25(金) 20:26:11.04 ID:KnPSQksW
> 付き従う士卒たちも、ただただ心耳を澄ますばかりであった。

もう当時を知らない若者ばかりになってたんだろうと思うと何とも寂しい話だ

安楽の空

2011年08月04日 23:03

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/04(木) 00:31:24.53 ID:5A63yjq8
安楽の空

元和9年(1623)7月、江戸詰めだった黒田長政は、将軍秀忠親子の上洛への随行を命じられた。
「何か」を予感した長政は上洛に嫡男・忠之を伴ない、東海道ではなく中山道を行く事を願い出て許された。

美濃国合渡川で、忠之の友人の松浦隆信なども合流したところで、長政は若者たちを前に
かつて合渡川の川辺で行なわれた激戦を語った。
田中・藤堂とともに、自らも大水牛の兜まで水に漬けて戦った川辺での激闘の様を、忠之と隆信ばかりか
付き従う者たちも、耳を傾けて聞き入った。

その夜は、近隣の領主であり長政の旧友である竹中重門が迎えてくれた。
「長政殿、せっかくここまで来てくれたのじゃ。明日は関が原に行こうではないか。」
「うむ。」

===========================================

「あれじゃ。あの笹尾山から松尾山の麓に西軍はビッシリと陣を構え、上から我らを睨み付けておったわ。
この時、長政殿は合渡川の戦いの功として御先手を任され、石田治部少輔の陣と相対した。」

のちに軍記『豊鑑』を書く文筆家でもある重門は、地形方角を示しつつ、天下分け目の戦いについて
雄弁を振るった。
「石田隊の先鋒は、その名も高き島左近!その武勇と大音声は怖気をふるうほどのものであったが、
黒田隊は、この戦を天下泰平の基にせんと大いに戦い、これを良く防ぎ・・・」

文人武将の講釈に、青年達は時を忘れて耳を澄まし、長政は自身が筑前五十二万石の大封をつかんだ
昔時の戦に思いを馳せ、思わず落涙した。その姿は、見た者の涙をも誘ったという。(黒田家譜より)

元和9年8月4日。黒田筑前守長政、京にて死去。享年56。

「大軍を指揮できる身代となりながら、存分に使うことなく死ぬのは残念。」
と言い残したと伝えられる長政だが、その辞世の句は
“ 此のほどは 浮世の旅に 迷い来て 今こそかへれ あんらくの空 ”だった。




竹中半兵衛と座り小便・いい話

2008年10月16日 00:07

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/04(金) 18:32:51 ID:sLw6T0ur
名将言行録にあった竹中半兵衛の話

ある日、半兵衛が人々の前で合戦の話をしていると、その最中に息子の左京(後の竹中重門)が
座を立って退出し、しばらくしてから戻ってきた。
 戦物語の途中に座を立つことがあるか、と、半兵衛が息子に対して叱りつけると、左京は
小便に行っていたのです、と言い訳した。すると、半兵衛は「ならなぜ小便をその場で垂れ流さないのか。
竹中の子が合戦の話に夢中になるあまり、小便をもらす粗相をしたと言われるのは当家にとって名誉なことだ」
と、言った。




287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/04(金) 22:12:48 ID:W6iw6qV+
ノブヤボ天下創世やってるとどこでも起こるあのイベントか。



291 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/04/05(土) 22:43:47 ID:c/4K8Fzw
竹中半兵衛には逸話が多いよね。

ある時、黒田官兵衛が「秀吉様から恩賞として約束頂いた領地が、いっこうに頂けない。約束の書状が溜まるばかりだ。」
それを聞いた半兵衛は、ではその書状を見せて欲しいと言った。
官兵衛から書状を受け取った半兵衛は、そのまま囲炉裏に放り込み、すべて灰にしてしまった。
唖然とする官兵衛にこう言った。
「この様な書状があるから、欲が出て秀吉様に疑心を抱く事になります。
秀吉様にあらぬ嫌疑を抱かれぬ様、ご懸念致して下され。」
さすがに官兵衛はその意味を悟り、黙ってうなずいた。



292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/05(土) 23:18:34 ID:8P5N4Yqt
なんか政宗の百万石の書状の話に似てるな。
家康以下の偉大なやつらがみんな死んだ後に政宗が百万石の話を蒸し返して脅したら井伊の息子が激怒して書状を破いて「こんなものは御家の為になりません」と威圧されて
政宗が恥じ入ってショボーンした話。