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筒井筒 五つに割れし井戸茶碗

2019年07月26日 17:43

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 13:21:54.29 ID:JJznDzuF
世間で『筒井の井戸茶碗』と呼ばれたものは、元々は南都(奈良)の水門町に居た善玄という侘び者が
所持していた高麗茶碗であったが、筒井順慶がご所望され彼の持ち物となり、その後順慶より秀吉公へ
献上されたのである。

ところがどうしたわけか、この茶碗を秀吉公の御前で割ってしまい、御機嫌を非常に損ねられた。
この時、居合わせた細川幽斎がとっさに狂歌を詠まれた

『筒井筒 五つに割れし井戸茶碗 咎をば誰が負いにけらしな』
(謡曲「井筒」の「筒井筒 井筒にかけしまろが丈 生ひにけらしな妹見ざるまに」をふまえている)

そう申し上げた所、殊の外よく出来た歌であると、秀吉公はすぐに機嫌を直されたという。

(長闇堂記)

なおこれは「多聞院日記」天正十六年二月九日条にも記載されており、どうも実際にあった事らしい

参照
秀吉の筒井茶碗と細川幽斎・いい話


117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 14:30:22.88 ID:F4qiylrx
政宗「俺の正宗、振分髪も持ってこようか」

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 16:25:54.00 ID:AwYufllE
幽斎がとりつくろわなかったら誰か死んでいたのだろうか
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順慶の小姓

2018年10月20日 11:51

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 09:11:19.83 ID:k5oh/zxF
明智光秀が織田信長を弑した時、筒井順慶は光秀と親しかったため、彼は必ず光秀に与すると
人々は考えていた。

池田紀伊守(恒興)は家臣の日置猪右衛門、土倉四郎兵衛、丹羽山城の三人を使いとして順慶のもとに
派遣させることにした。三人はこれを承って「順慶がもし明智に与するようであれば、我々が刺殺します。」
と申し上げた。紀伊守は
「いやいや、汝らが死ねば私は片手を折られたのと同じだ。」
と、これを制したが、三人は

「順慶と戦した場合、どれほどの手負い討死が出るでしょうか?この三人を以て、多くの味方と
変えるのです。順慶を打ち取れば、光秀も必ず敗北します。」

そう申して順慶の元へと向かった。

筒井順慶は彼等に対面すると
「どうして光秀の不義に与しようか!すぐに信長公の弔い合戦をしよう!」と言った。
それを語る内容は偽りとも思えなかったため、三人は喜んで帰っていったが、その道すがら、
丹羽山城が語った

「今日、順慶が否と言えば刺し殺そうと考え座中をきっと見回した所、彼の傍らにあった
16,7歳ほどの男、順慶の刀を持って居たが、その面魂は只者ではなかった。
私が順慶に飛びかかれば、即座にこの頭を二つに切り割られそうだった。」

これを聞くと日置も土倉も「そうであったか、我らもそう思っていた。」と頷いた。

その刀持ちの小姓は牧野兵太といって、武者修行をして世に聞こえた剛の者であったという。

(常山紀談)


「ああ天なるかな!」

2018年09月01日 21:21

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 02:23:17.54 ID:raZtNnU0
秀吉の義兵は3万余騎と聞こえ、光秀の狼狽は大変なものであった。丹波亀山の居城を一子・十兵衛光慶に
守らせ安土は明智左馬助に、佐和山は荒木山城(氏綱)に守らせて淀城は修築半ばにして洞ヶ峠まで出張し、

二男の阿古丸といって12歳の者を2度大和の筒井へ送り援兵を請うもやって来ないため、光秀は大いに
恨み嘆いた。味方に来たらずして叶わぬ長岡与一(細川藤孝)も筒井順慶も心を変じてやっては来ない。

織田七兵衛(津田信澄)は討たれ、徳川殿は伊賀路を経て帰りなさると推量しなにとぞ徳川殿を討って来た
者には士農工商の差別なく恩賞をその望みに任せるとその道々へ触れ流し、きっと一揆が取り籠めて

討ち止めるだろうと思ったが、思いのほか討ちもらして捨て置いても害にもならぬ穴山梅雪を討ち殺した。
よもや急には打って上るまいと思った羽柴は大軍、しかも食い止めるか討って上るかと思う毛利も加勢して

羽柴は早くも摂津を打ち立ったと聞こえた。イスカの嘴、このようにまで物事に齟齬が生じたことを光秀は
「ああ天なるかな!」と空を仰いで嘆息し、悔やんで泣きに泣いた。

――『改正三河後風土記』



76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 13:55:32.52 ID:EcywMg4w
イスカの嘴
「ああ天なるかな!」

ラノベでありそう(小並感)

片岡新助の事

2018年05月26日 21:18

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 00:04:52.15 ID:JTn93BHt
大和国葛上郡片岡という所に、片岡新助という人物が居た。この人はもともと小身であったが、
和州における代表的な武功の人であり、筒井順慶の姪聟となり、徐々に身代も増え、八千石ほどを
得た。

ところが、筒井順慶が松永久秀に敗れ宇陀郡にて牢々した。この時は国侍から筒井一門の
歴々まで久秀に随臣したのであるが、片岡新助ただ一人は久秀に従わず彼の敵と成った。
そこで久秀は2度に渡り片岡に攻め寄せた。

久秀の居城である信貴山城からわずか三里ほどの場所に河合という砂河があり、通常は歩いて
渡れるが、水の出る時には船で越す必要があった。
片岡勢はこの河端まで、山伝いに打ち出た。そして松永勢が半分ほどこの河を渡った所で
横合いの木立より急襲したため、松永勢は持ちこたえることが出来ず敗軍。この時松永勢の
能き者達多く討ち死にしたという。

その後、再び攻め寄せてきた時は、片岡新助は城を出ず、城下まで敵が押し寄せたとき、城の西北
より人数を突撃させたところ、寄せ手は敗軍に及び首級多く片岡に取られたという。
その後は松永勢が片岡を攻めること難しく、龍田方面に抑えの城を造り番勢を入れ置いた。

ところがそんな中、片岡新助が35,6歳という若さで急死した。彼には弥太郎という子があったが、
これは若輩で、しかも病弱であったため、満足な戦働きも出来ず、武勇も新助ほどの才能は無かった。
そのため、程なく松永勢は片倉に攻め寄せ、難なく城を乗っ取った。弥太郎は落ち延び、在々にて
牢々した。

その後、大阪の陣の時に譜代の者たちを召し連れ豊臣方として籠城をし、大阪落城後は
法体となり雲巴と号し大和に居住した。近年に成って亡くなられたという。

(大和軍記)



799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 11:34:56.24 ID:J33s2xgX
大和の国侍って、大坂の陣で没落した連中が多いなあ。
一族の大黒柱を失って、一気に勢力が解体した話か。最初の二戦の大勝で、おおすごいと思ったら。

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 14:12:01.83 ID:CDR2q/8a
大和の国衆はなんだかんだで興福寺が中核だったけど、信長の頃から国主を別に定めた事で
より結束を失ってバラバラになって行った感じ

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 16:36:09.08 ID:w7NzEW19
松永が謀反するからダメなんだ
筒井の台頭を許した

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 19:39:17.29 ID:3YltmG36
仮に松永が大人しくしていたら、もっとはやく大和周辺の寺社勢力の弱体化ができたのかな

あの兄弟が振る舞いに

2016年03月26日 17:47

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 11:26:39.93 ID:sD2szMy3
天正5年(1577)の、松永久秀による信長への反乱に従い、松永久秀の与力である海老名某も、
河内国片岡城に立て籠もった。これに対し信長は、長岡(細川)藤孝父子、惟任(明智)光秀、
筒井順慶に「3人で押し寄せ、蹴散らせ」と命じた。
これにより十月朔日未明に、この3名による片岡城攻めが始まった。

ここで、長岡藤孝の嫡男與一郎(細川忠興)15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳、
この兄弟が真っ先に駆け入った。

しかし片岡城の者達は河内国でも聞こえ有る兵であったので、全く騒ぐことなく彼らを防いだ。
しかしこれを見た長岡家の郎党たちは「あれを討たすな!続けや!」と我先に駆けつけ、これもあって
兄弟は良き兵たちを討ち取り、それを見た藤孝は両眼をうるませた。

筒井順慶、惟任光秀もこれを見ると、士卒に向かって
「あの兄弟が振る舞いに、恥じない者は居るか!?この程度の城にいつまで手間取っている?
早々に乗り入れろ者共!!」
そう大音声を上げ目を怒らせて罵ると、皆々「尤もである!」と螺鐘を鳴らし喚き叫んで攻め入った。

それでも片岡城の兵たちは、義を重んじ命を軽んじて「一歩も引くな!」と、
それぞれが担当した場所から少しも引き退かず防ぎ戦った。しかし織田勢は新手を入れ代わり立ち代わりに
攻め立てさせたため、死傷者多く出て残り少なくなると、「今や叶わじ」と思ったか、城主の海老名は
腹を十文字に掻っ切って伏せ、残る兵たちも、みな思い思いに自害して、同じ枕に臥した。

信長は與一郎、頓五郎の働きを聞くと、即座に感状を下した。
兄弟が感状を頂戴したことは、天晴勇々の事であると、羨ましがらない者はいなかった。

(甫庵信長記)

細川忠興・興元兄弟の片岡城攻めのお話



536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 13:42:16.65 ID:EmgUfXaA
片岡城て大和じゃないのか?

久秀の運がついに尽きる時

2015年02月19日 18:50

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/19(木) 02:23:59.48 ID:9ypTrVnC
天正5年(1577)、松永久秀織田信長の反逆し信貴山城に籠もる。
織田方は嫡男城之介信忠を大将として、信貴山城へ軍勢を派遣した。

この事態を、かねてから大和で久秀と対立していた筒井順慶は、幸いな事と喜んだ。
実は筒井家譜代の侍の一人で、順慶が松永久秀に大和を追われ浪々していた時に、久秀に奉公に出た者があったのだ。
順慶はかねてからこの者と連絡を取り様々に賄いなどを与え、『返り忠の良き手段が有る時は、内通するように』と
言い含めていたの。

そんな中、久秀の運がついに尽きる時が来た。久秀が大阪の門跡(石山本願寺)に加勢を請う遣いを出したが、
その使者に彼の者を行かせたのである。
彼は信貴山城を出ると順慶の元に行き、久秀より受けた指示の内容を詳しく申し上げた。
すると順慶は、二百人ほどの軍勢を、石山本願寺からの加勢に偽装し、夜に間に河内の平野に集合させておき、
彼の者が大阪に行って主命を果たし帰る頃の時刻に、この軍勢を従えさせ、夜に紛れ信貴山城内へと引き込んだ。

翌日未明より、織田軍による総攻めが始まった。
そこで先に入れ置いた順慶の人数が、城に火をかけ裏切りを行ったのだ。
これに松永方は大混乱となりついに討ち負け、久秀は天守に上がり切腹した。
子息の松永久通は、多聞城へ落ちて行きそこで切腹したとも、また父子一所にて切腹したとも
伝えられる。

これより大和一国は皆、筒井順慶が手に入れ、武威盛んとなったが、
不幸にも天正11年(1583)5月13日に病死した。

(大和記)




大和布施氏の無念

2015年02月14日 18:51

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/14(土) 18:45:16.75 ID:l6hEP72v
布施左京進という大和国の国人は、越智、十市といった大和の有力国人の兄弟分で、
合戦の時も互いに筋々の働きを協力しあっていた。

ところがこの布施左京進が病死すると、その息子は武功も父に劣り、周辺の勢力からその所領の方々を
切り取られるような状況になった。

この頃、箸尾氏(為綱か)は近辺を切り従え、勢力が強盛となっていたため、布施へ使いを以ってこのように申し越した
『布施氏は我々の旗下になるように。これを拒否するのなら一戦仕ろう。』
これを見た布施氏は、箸尾氏に従いたくはなかったが、当面の計策として、和談し従った。

され、そのような所に、筒井順慶が織田信長に出仕し、大和国の旗頭と成った。
このため大和の大身衆は皆、筒井の元に参り振舞いをした。その座席に箸尾氏は先立って
参着したが、その後に布施氏が参った所、箸尾氏はこう主張した

「布施は我が旗下であるから、この一座に有ることは出来ない!」

これに対し布施は怒り
「それは一旦の謀として和した事に過ぎない!我々が箸尾の旗下であるという証拠はない!」
と反論した。

その座の雰囲気が大変危うくなったのを見た筒井順慶は、双方にこのように言った
「一端の計策としてそのようにするのは、言われなき物ではない。その上、武士として偽りなく
有り様を申し述べられたのは、神妙なことである。」
そういって仲直りをさせたが、しかし「上座はありえない」と、それ以後、布施は箸尾の下座に付けられる
事となった。それ故、布施氏は箸尾氏の旗下であると記録されているが、実際には、布施氏も
大和の新庶にて自分の知行を、現在でいうところの二万石ほど持っており、その上旗下の者達も多く有り、
箸尾に劣らぬ大身であったので、完全な旗下とは言えないものであった。

先に箸尾から旗下になるよう要求が来た時から、筒井順慶への振舞いまで、わずか50日ばかりの事であった。
少しの難儀を我慢しきれずそのように成ってしまったのは、無念のことであると、布施殿も申し、
またその家来の者達も口惜しんだ。

(大和記)

少しのタイミングのズレで、他の国人の家来扱いと成ってしまった布施氏についてのお話。




臆病権内

2014年12月19日 18:50

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 00:17:58.46 ID:t0QMj00O
筒井順慶の家臣に板倉権内と言う者がいた。

この権内、どうしたわけか彼のことを「臆病者である」と誰かが言い始め、
やがて家中は勿論、隣国までその評判は伝わり、臆病者の話が出ると「筒井家の権内か」と
世間で言われるまでになった。

権内はこのことを大変口惜しく思っていたが、誰がということではなく、世間一般にそう言われる事なので、
致し方もなく日を送っていたが、何分不快なことであり、終に筒井家を立退き牢人となった。
そして諸大将の器量を見て回り、蒲生家に出向くとこのように申し上げた

「拙者の事、きっと聞き及ばれた事もあるでしょう。臆病者の板倉権内です。
臆病者であってもお使い下さるのなら、御奉公仕らん。」

居合わせた蒲生家の侍たちは、「これが臆病者の権内か」と言いながら、非常に軽蔑した様子で
奥に行きその事を言上すると、蒲生氏郷が出てきて聞いた

「その方が権内か。どうして私に仕えようと思って来たのか?」

権内は答えた
「臆病者を抱える主君は、あなた以外にはあり得ないと考えましたので、この様にまかり出ました。」

氏郷は深くうなずき、即座に彼を召抱えた。

その後、合戦が起こり氏郷はこの権内を連れて出陣した。
この戦場で権内は抜群の働きを成し、大将分の首を二つ取った。
氏郷は大喜びし「まるで吾妻鑑に出てくるような武功だ!」と、即座に二千石を与え物頭とした。
これより権内の臆病者の名前は消えうせ、諸国に勇名を轟かせた。
これに「家臣が豪胆か臆病かは、主君が用いるか捨てるかにあるのだ」と、その頃の人は言ったそうである。

(明良洪範)




403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 01:46:51.41 ID:lSjFHYWZ
人の上に立つようになると「ワシが育てた」をやりたがるものなんですかね

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 03:43:22.97 ID:VLfieFcQ
あー、また雇っちゃったよこの人って思いました。

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 04:07:41.36 ID:1I2zabS8
氏郷は戦場で先陣きっていく御仁だからお前も我に続け的な感じだったんかね

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 04:17:16.49 ID:9PiUghCr
板倉さん汚名返上できて良かったよ
臆病者は洞ヶ峠の方だった

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 08:23:49.13 ID:B90+8CPy
どうせやっかみから始まった陰口でしょ

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 08:38:47.40 ID:GBhxa6qI
その根拠は?

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 23:35:34.17 ID:i/c7bF2+
戦国時代にタイムスリップして仕官するなら、蒲生氏郷
農民として住むなら北条領

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 23:43:04.21 ID:Utuf3/Mp
小便しに行って斬られるのか

それがしなどは弁慶くらいの働きさえも

2014年06月11日 18:52

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/10(火) 18:42:03.62 ID:3SWQ1Lw8
井戸十郎筒井順慶の家来で武功の優れた人である。御家(徳川家)へ
召し出されて若狭守といい、剃髪して覚斎と号す。十郎は物語って、

「只今などに何事かでもあれば、それがしなどは弁慶くらいの働きさえも
することであろう。その理由は、それがしは年寄って命が惜しくないからだ。
一日も早く死にたいだけである。この心ならば比類の無い働きさえもする
ことであろう」

と笑ったそうである。

――『武功雑記』





洞が峠の順慶

2011年05月15日 00:00

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 18:03:44.26 ID:ncSSilCw
洞が峠の順慶

本能寺の変より数日経てのことである。
池田常興からの三人の使者が大和郡山の筒井順慶のもとを訪れた。
何れも思いつめた表情である。
主人池田紀伊守からは、光秀と姻戚関係であり、日頃親しい筒井順慶
彼の意中を探るように命じられていた。
三人は、筒井順慶と刺し違える所存であったが、
主人は「お前たちを死なせれば、私はわが腕を失うようなものである。」と三人を諌めた。
が、彼らは「自分たちが死すとも、味方が助かればそれでよい。」と捨て身の構えであった。

が、思いのほか、筒井順慶は信長公を弔う気持ちはあれども、光秀への加担する気持ちは
露ほども伺われず、まことに神妙な面持ちでもあった。
三人は安堵と共に気勢をそがれ帰途に就いた。

が、帰途の途中、順慶の傍らに静かに侍していた牧野兵太という若侍、
その姿が三人の使者の脳中にありありと蘇ってきた。
そのただならぬ眼光は殺気を放っていた。

筒井順慶ならではの用心深さであった。

常山奇談より




172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 18:06:16.40 ID:wlrmg0NX
若い頃から苦労してるもんなー、この人

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 21:36:34.99 ID:iuXQRL32
三人の使者も相当な殺気を放っていたと思われるがw