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その時は秀吉に内通して

2020年12月19日 16:07

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 22:06:27.21 ID:Z7QWz4kr
大和国は京都将軍家が末となり、武威が衰えた頃から天正の頃までは、国侍が相互に自立の
志を立てて、尽く戦国と成り、各地でせり合いが止まなかった。
そのような中で、筒井順慶は弓矢強く、殊に一門が広く有ったために、大半の国侍を討ち従え、
そして筒井という場所に城を築き居城とした。

さて、織田信長公が上方を御手に入れられた頃、順慶は明智光秀を頼んで信長公に出仕し、
松永久秀を倒し国中を従え、大和の旗頭となった。順系と松永については後に記す。

その後、天正十年六月、信長に対する明智光秀の逆心の時、光秀は筒井に使いを送り、

『信長公への怨み甚だにより、本能寺に押し寄せ、御腹を召された。それより二条の屋形に取り詰め
信忠公も御生害遊ばされた。しかれば、あなたと私との数年の親しみはこの時のためであり、
味方に与されるのであれば本望である。そうであれば、大和・紀伊・和泉の三ヶ国を与えるだろう。』

との内容を申してきた。順慶は家臣を集め、評議を行わせ様々な意見が出たが、家老達は何れも
「とにかく、明智の味方を仕るべきです。」との旨を申し上げた。しかしここで、松倉右近(重信)
がこう申した

「先ず出馬するという旨を、明智には御返答し、八幡山まで御出になり、彼の地は良き要害ですので、
暫くそこに御在陣されて様子を見られるべきです。定めて秀吉公は中国を引き払い打ち上がり、
明智退治を仕るでしょうから、その時は秀吉に内通して、逆徒を裏切るべきです。」

そう、たって諫めたため、順慶は一万余の人数で出馬し、八幡山に在陣していた所に、案の定
秀吉公が中国を扱いにして引き揚げ、尼崎に到った所に、順慶は使者を遣わし、明智に対して
裏切りを仕る事を申し上げると、秀吉公も御満足に思し召されたか、お頼みに成るとの御返答であった。

そして山崎表の合戦の時、秀吉公の先手、高山右近、中川瀬兵衛は明智の先手を突き崩したが、
この時筒井順慶も八幡山より人数を下し、淀川の辺りにて、敗軍の敵を五、六百ほど討ち取った。
順慶は、秀吉公に味方は仕ったが、勝負を見合わせた事について、秀吉公も無二の志とは思し召されて
いるものの、この時のことの故であろうか

筒井順慶は、信長公の時に、「相替わらぬ大和の大将である」と仰せ付けられていた。
そして秀吉公天下御統一の時、天正十三年、四郎殿(筒井定次)に伊賀一国を給わり遣わされ、
「伊賀守」と受領仕った。そして大和には、秀吉公の御舎弟である美濃守秀長に、紀伊・和泉・大和三ヶ国を
給わり御越になった。そして秀吉公の指図にて、筒井城を割り、郡山に新城を築き居城にせよとの事で、
郡山に城を取り立てたが、この縄張りも秀吉公御指図であった。
そこに秀長は在城し、大和の国侍達は何れも秀長の家来として成り置かれた。

大和軍記



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筒井順慶について

2020年11月29日 17:46

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/29(日) 14:09:44.75 ID:ytRvdkqs
筒井順慶の先祖は近衛の家より出た人であるという。
順慶の親は順興といい(正確には順興は祖父。父は”元の木阿弥”の逸話で有名な順昭)、
順慶は一度は南都に出家として在ったが、彼は器量の人であり、還俗して武威を振るい、
国中の過半を討ち従え、添下郡筒井という所に平城を築いて居城とした。

その頃の領地は、現代の知行高で六万石ほどであったが、甥、或いは妹聟多く、一門広き故に
勢力が手広くなり、大和国の大半を手に入れられた。

大和軍記

大和軍記の、筒井順慶についての説明



734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/29(日) 20:01:30.24 ID:jy++18Cl
>>733
親子でことわざに残るようなことをやるってなかなか凄いな
大して大物でもないのに

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/29(日) 20:20:59.79 ID:ajwkpj2B
順慶は洞ヶ峠を決め込むの元ネタ(史実ではないけれど)にもなってるね
まあ戦国時代の名のある武将なら一つや二つはあるんじゃね

『多聞院日記』より、本能寺前後の話

2020年08月28日 17:10

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/27(木) 23:42:02.81 ID:+of7yAKA
多聞院日記』より
本能寺前後の話(一部、まとめにもあり)。奈良の僧侶が見聞きした、ウソも真実も混じった当時の情勢記録。
もろもろ、論文などに引用されていますが、改めて見返すと、あのときの世情を追体験できる記録なので、抜粋します。
また、多聞院英俊が一日の終わりに日記を記しているのではなく、なにか興味深いことを聞くとすぐに日記に記していたことも分かると思います。
英俊はかなりのニュースマニアだったと思われます。追記で「ウソ」などと記してもいますし。


天正10年4月
近頃、乾の方角から彗星が現れた。光の元は戌亥、末端は辰巳の方角。光の長さは10丈もあるように見えて、近年は見なかった長さだった。恐ろしいことだ(追記、「信長生涯ノ先端也」)
6月2日
筒井順慶が今朝、京都に上ったところ、「上様」(信長)がすぐに西国に出馬するといって、安土へ帰ったそうだ。なので、順慶も奈良へ帰った
信長が京都で殺害されたらしい。信忠も殺されたようだ。明智光秀と津田信澄が申し合わせて殺したという。(追記、「コレハウソ」)
未明のことで、朝方に漏れ伝わってきた。盛者必衰の金言があるので、驚きはしない。
諸国がことごとく(織田家に)反逆してくるだろうか。世は常ならず。日を追って眼前になった。状況はたしかにはわからない、どうなるのだろうか。
3日、未明から大雨が降った、京都の様子は確実な情報は届いていない。二条御新造に信忠が逃げ入り、正親町天皇を人質に取り、今上天皇も殺害された(追記、「ウソ」)。
京より注進があって、信長は本能寺で、信忠は二条御新造で殺害された。菅屋長頼、村井父子3人、福富秀勝、このほか小姓衆500~600人が殺された。
光秀はまず坂本へ入り、大津、松本、瀬田に陣取ったらしい。「細川殿」も死んだようだ。
今日、奈良の軍勢はことごとく大安寺、辰市、東九条、法花寺のあたりに陣取ったようだ。どうなることか。
4日
順慶と南方衆、井戸の軍勢が光秀勢のもとへ出陣したようだ、どうなんだろうか
5日
昨日、京へ出陣した筒井軍は撤退したそうだ。ならば織田信孝と申し合わせてのことだろうか。ありそうな話だ。
大坂において津田信澄が殺されたそうだ。光秀の婿で、一段の器量のある者だった。信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆などがやったのか。ただ、ウソかも知れない(追記、本当だった)
伊賀では織田信雄の勢力の城が空城になり、浪人衆が入城したようだ
安土は4日に光秀方の手に落ちた。佐和山(長秀の居城)には山崎片家が入った。長浜には斎藤利三が入った。
筒井軍は先日、京都へ向けた軍を近江に向けた。順慶は光秀と堅く盟約を交わしているとも言う。どうなるのだろうか。
9日
今日、河内へ筒井軍が出撃するという沙汰があったが、にわかに繰り延べになったらしい。また、郡山城へ米と塩をにわかに入れたという。なぜ方針を転換したのか。不審である。
10日
先日、京都へ向かった筒井軍は近頃、帰ってきていた。羽柴秀吉が近いうちに上洛するのが決まったので、これによって判断を変えたと聞こえてきた。
14日
昨日、光秀より藤田伝五が順慶のところに来て、同心せず交流を絶ったが、木津まで帰ったところでまた呼び返したという。なんなのか、心苦しい。
秀吉に順慶は味方すると誓紙を送っている、村田と今中が使いだったらしい
井戸覚弘、この間に病を患い、9日に死んだ。深くその死を隠したと言うが、本当かどうか。まったくのウソだった。
今日の朝方に郡山で順慶が切腹したと連絡があった。とてつもなくびっくりしていたところ、「順慶ではない、藤田伝五に腹を切らせた」と言ってきた。
肝を消していたが、それもウソだった。奈良中でそんな状態だった、天魔の所業である。
奈良中で資産を隠しだした。光秀の家来が隠したものを盗んだ者を2人殺したという。気持ちが沈む。
12日(後記か)
秀吉が摂津にやってきた、「猛勢ニテ上」。家康はすでに安土に着いて陣取りしているらしい。どうなるのか。光秀軍は八幡と山崎にいる。
。淀のあたりまで光秀軍は撤退するのではと噂されている。これによって奈良中は静かになった。
隠し物を盗んでいたのは井上九郎三郎の者どもで、3人を殺害し、いよいよ奈良は静まった。
13日
勝竜寺城が落ちた。秀吉は京に上り、光秀は坂本へ逃げ落ちたという。本当だろうか。

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/27(木) 23:42:56.34 ID:+of7yAKA
(続き)

14日
日中まで大雨が降った。うち続く大雨、これまでになかったことだ
15日
夜を通して雷鳴が鳴り、大雨が降った
去る12日、光秀軍は数千人の損害を出した。坂本へわずか30人ばかりで逃げ帰り、秀吉は大津まで前進した。
今日、山から見て見ると、比叡山の東の方が大きく焼けていた、と(誰かが)いっていた。必ずや、坂本の町を焼いて城を攻めていると風聞があった。
順慶は今朝、1000人ばかりで出陣した。昨今は6000~7000人ばかりで出陣していたという。
今夕、醍醐に陣取りしたが、秀吉が陣を見て、「曲事である」と言い、「すべて天下は信長の御朱印のようにしなければならない」と命じた。もっともなことだ。
5月の23日まで雨は降らなかった。24日より降り始め、20日以上降っていた。今日は雨がやんで天気がよかった(私の注記、本能寺前後はずっと雨が降っていた)
先日の合戦で光秀が討ち死にしたのは間違いないという、時が終わった
(日付不明)
順慶の行動は曲事と(秀吉方から)沙汰があって、またも奈良中で資産を隠す。気持ちが沈む。
17日
光秀は12日に勝竜寺から逃げて、山科にて一揆にたたき殺された。首も胴体も京都に移されたという。あさましきことだ。
細川幽斎の中間だったのを引き立て、信長が厚く恩を与えて召し使ったのに、大恩を忘れて曲事に至った。天命かくのごとし。
斎藤利三が生け捕られて安土へ勾引されたという。天命天命。
18日
本能寺では光秀をはじめ、首が3000ほどあるという。斎藤利三は17日に京で引き回され、首を切られたという。
21日
近衛前久が死んだというので、一乗院はもってのほか取り乱した。間違いなく(近衛生害は)ウソだろう。
29日
大乗院殿が安土より帰った。信孝と昵懇で礼があったというので、めでたいめでたい。信雄と信孝の考えが合わないので、諸軍勢がいまだ帰陣していないようだ。
7月6日
天下の様相は、柴田勝家、秀吉、長秀、池田恒興、堀秀政、以上の5人で「分取ノ様」にその沙汰があった。信長の子供はその議論の俎上にも上がらなかったようだ。あさましいことだ。
7日
天下の様相、信雄と信孝が争いをやめないので、両人とも秀信の名代を辞退し、信雄は伊勢と尾張、信孝は美濃、信包は伊賀(追記、「ウソ」)。
柴田は長浜(20万石)、堀は秀信のおもり、これによって近江中郡の20万石、長秀は高島郡、志賀郡、恒興は17カ所と大坂を知行した。
秀吉は山城と丹波(丹波は羽柴秀長の知行)、西ノ岡と勝竜寺以下、河内の一部を得た。
おおむね、秀吉が主張した通りだった。それなので下京六条に城をつくるという。(秀信の)名代はいないまま、5人で議論を交えて(秀信を)もり立てようということになった。
順慶は大和一円と宇治郡、宇多郡も知行したらしい。秀吉が推薦したそうだ。これで奈良は平穏か(追記、「ウソ」)。もっともなことだ。
このように決まり、欲がまざってまた、信長の子供がたくさんいるのに、まったく議論にならなかった、「クルイ」が出てきたのではないだろうか。
8日
今日、秀信(3歳)が秀吉のお供で京にいる。諸大名が御礼をしたそうだ



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/28(金) 14:01:20.05 ID:X7bjes8W
コウモリが思ってた以上にふらふらしてた
信長様が生きてても判断が遅い!ってどっかで粛清されてたかも

天正五年十月、和州信貴山城攻め顛末

2020年04月16日 17:15

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 00:12:26.93 ID:FJJW3kJb
天正五年十月、和州信貴山城攻めがあった。
この城主である松永弾正少弼久秀は、大阪の附城を守っていたのだが、信長公に恨みを含み、本願寺門跡、
雑賀の兵を語らい、大阪を退き信貴山城に立て籠もった。それにはこのような理由があった。

家康公御登城の時、久秀も参会したのだが、信長公が家康公に向かってこのように言った

「この翁は松永久秀である。彼については天下に及び難い事が多い。彼は公方足利義輝を弑し奉り、
主君三好義長(義興)を毒殺し、三好一家(三人衆)と戦い東大寺を焼いて大仏を滅ぼした。
また三好長慶次男義継(実際には養子)を欺いて永禄八年より同十一年まで天下を守り大いに奢り、
終に義継を離れこれを殺した。」

久秀は赤面し、額に汗し、頭より烟を立て、その憤りを以て謀反を企んだ。これによって十月、
城介(織田)信忠は大軍を率い和州に御発進され、佐久間信盛、明智光秀、筒井順慶らも大阪の
対城を出て河州より向かい、その通り道であり、久秀の従党である片岡城を攻め落とし、城主・森、海老名を
討ち捕らえ、十月五日に信忠と合流し信貴山城の久秀久通父子を攻めた。

しかし松永父子は激しく防戦し、味方が不利と成った時、佐久間信盛筒井順慶と相談し、雑賀の兵であると
謀って、信盛の兵を交えて城中に入れたいと告げた。そして雑賀の兵に扮した信盛の兵が、順慶の兵と
追いつ返しつつ挑み戦った所に、久秀は予てより雑賀の者と謀り合っていたので、城門を開いて彼らを
引き入れた。

十月十日、信盛、順慶は、先に入れた兵の手引きにより城に入ると火を放った。久秀は天守に上り、
「たとえ骨と成っても信長の最後を見届けようぞ!(タトヘ骨トナリテモ信長ヲ見ハテン物ヲ)」と
言って自殺した。右衛門佐久通は生け捕りと成って斬られた。久秀の悪逆積り、東大寺を焼き
大仏を滅ぼしたのも十月十日であり、その日に滅亡した事も、世に不思議を成すと云われた。

佐久間軍記



980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 11:49:48.22 ID:O4ZY5yYd
義継を攻め滅ぼしたのは誰だったからしらw

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 21:34:47.03 ID:SRx78Wxe
ノブさんの脳内ではそうなってるのかもしれん…

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 22:01:43.47 ID:nEUH2pgM
ダンジョー多過ぎ問題

983 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/18(土) 17:35:20.90 ID:25IT3XhX
佐久間軍記だから当然かも知れんけど、信盛さんの活躍が記されてるね

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/18(土) 23:30:44.65 ID:tlLr7j1U
石田軍記には三成の活躍が?

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/19(日) 15:49:05.80 ID:/eXYOJJ0
ある意味「活躍」は描いているな

筒井筒 五つに割れし井戸茶碗

2019年07月26日 17:43

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 13:21:54.29 ID:JJznDzuF
世間で『筒井の井戸茶碗』と呼ばれたものは、元々は南都(奈良)の水門町に居た善玄という侘び者が
所持していた高麗茶碗であったが、筒井順慶がご所望され彼の持ち物となり、その後順慶より秀吉公へ
献上されたのである。

ところがどうしたわけか、この茶碗を秀吉公の御前で割ってしまい、御機嫌を非常に損ねられた。
この時、居合わせた細川幽斎がとっさに狂歌を詠まれた

『筒井筒 五つに割れし井戸茶碗 咎をば誰が負いにけらしな』
(謡曲「井筒」の「筒井筒 井筒にかけしまろが丈 生ひにけらしな妹見ざるまに」をふまえている)

そう申し上げた所、殊の外よく出来た歌であると、秀吉公はすぐに機嫌を直されたという。

(長闇堂記)

なおこれは「多聞院日記」天正十六年二月九日条にも記載されており、どうも実際にあった事らしい

参照
秀吉の筒井茶碗と細川幽斎・いい話


117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 14:30:22.88 ID:F4qiylrx
政宗「俺の正宗、振分髪も持ってこようか」

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 16:25:54.00 ID:AwYufllE
幽斎がとりつくろわなかったら誰か死んでいたのだろうか

順慶の小姓

2018年10月20日 11:51

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 09:11:19.83 ID:k5oh/zxF
明智光秀が織田信長を弑した時、筒井順慶は光秀と親しかったため、彼は必ず光秀に与すると
人々は考えていた。

池田紀伊守(恒興)は家臣の日置猪右衛門、土倉四郎兵衛、丹羽山城の三人を使いとして順慶のもとに
派遣させることにした。三人はこれを承って「順慶がもし明智に与するようであれば、我々が刺殺します。」
と申し上げた。紀伊守は
「いやいや、汝らが死ねば私は片手を折られたのと同じだ。」
と、これを制したが、三人は

「順慶と戦した場合、どれほどの手負い討死が出るでしょうか?この三人を以て、多くの味方と
変えるのです。順慶を打ち取れば、光秀も必ず敗北します。」

そう申して順慶の元へと向かった。

筒井順慶は彼等に対面すると
「どうして光秀の不義に与しようか!すぐに信長公の弔い合戦をしよう!」と言った。
それを語る内容は偽りとも思えなかったため、三人は喜んで帰っていったが、その道すがら、
丹羽山城が語った

「今日、順慶が否と言えば刺し殺そうと考え座中をきっと見回した所、彼の傍らにあった
16,7歳ほどの男、順慶の刀を持って居たが、その面魂は只者ではなかった。
私が順慶に飛びかかれば、即座にこの頭を二つに切り割られそうだった。」

これを聞くと日置も土倉も「そうであったか、我らもそう思っていた。」と頷いた。

その刀持ちの小姓は牧野兵太といって、武者修行をして世に聞こえた剛の者であったという。

(常山紀談)


「ああ天なるかな!」

2018年09月01日 21:21

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 02:23:17.54 ID:raZtNnU0
秀吉の義兵は3万余騎と聞こえ、光秀の狼狽は大変なものであった。丹波亀山の居城を一子・十兵衛光慶に
守らせ安土は明智左馬助に、佐和山は荒木山城(氏綱)に守らせて淀城は修築半ばにして洞ヶ峠まで出張し、

二男の阿古丸といって12歳の者を2度大和の筒井へ送り援兵を請うもやって来ないため、光秀は大いに
恨み嘆いた。味方に来たらずして叶わぬ長岡与一(細川藤孝)も筒井順慶も心を変じてやっては来ない。

織田七兵衛(津田信澄)は討たれ、徳川殿は伊賀路を経て帰りなさると推量しなにとぞ徳川殿を討って来た
者には士農工商の差別なく恩賞をその望みに任せるとその道々へ触れ流し、きっと一揆が取り籠めて

討ち止めるだろうと思ったが、思いのほか討ちもらして捨て置いても害にもならぬ穴山梅雪を討ち殺した。
よもや急には打って上るまいと思った羽柴は大軍、しかも食い止めるか討って上るかと思う毛利も加勢して

羽柴は早くも摂津を打ち立ったと聞こえた。イスカの嘴、このようにまで物事に齟齬が生じたことを光秀は
「ああ天なるかな!」と空を仰いで嘆息し、悔やんで泣きに泣いた。

――『改正三河後風土記』



76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 13:55:32.52 ID:EcywMg4w
イスカの嘴
「ああ天なるかな!」

ラノベでありそう(小並感)

片岡新助の事

2018年05月26日 21:18

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 00:04:52.15 ID:JTn93BHt
大和国葛上郡片岡という所に、片岡新助という人物が居た。この人はもともと小身であったが、
和州における代表的な武功の人であり、筒井順慶の姪聟となり、徐々に身代も増え、八千石ほどを
得た。

ところが、筒井順慶が松永久秀に敗れ宇陀郡にて牢々した。この時は国侍から筒井一門の
歴々まで久秀に随臣したのであるが、片岡新助ただ一人は久秀に従わず彼の敵と成った。
そこで久秀は2度に渡り片岡に攻め寄せた。

久秀の居城である信貴山城からわずか三里ほどの場所に河合という砂河があり、通常は歩いて
渡れるが、水の出る時には船で越す必要があった。
片岡勢はこの河端まで、山伝いに打ち出た。そして松永勢が半分ほどこの河を渡った所で
横合いの木立より急襲したため、松永勢は持ちこたえることが出来ず敗軍。この時松永勢の
能き者達多く討ち死にしたという。

その後、再び攻め寄せてきた時は、片岡新助は城を出ず、城下まで敵が押し寄せたとき、城の西北
より人数を突撃させたところ、寄せ手は敗軍に及び首級多く片岡に取られたという。
その後は松永勢が片岡を攻めること難しく、龍田方面に抑えの城を造り番勢を入れ置いた。

ところがそんな中、片岡新助が35,6歳という若さで急死した。彼には弥太郎という子があったが、
これは若輩で、しかも病弱であったため、満足な戦働きも出来ず、武勇も新助ほどの才能は無かった。
そのため、程なく松永勢は片倉に攻め寄せ、難なく城を乗っ取った。弥太郎は落ち延び、在々にて
牢々した。

その後、大阪の陣の時に譜代の者たちを召し連れ豊臣方として籠城をし、大阪落城後は
法体となり雲巴と号し大和に居住した。近年に成って亡くなられたという。

(大和軍記)



799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 11:34:56.24 ID:J33s2xgX
大和の国侍って、大坂の陣で没落した連中が多いなあ。
一族の大黒柱を失って、一気に勢力が解体した話か。最初の二戦の大勝で、おおすごいと思ったら。

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 14:12:01.83 ID:CDR2q/8a
大和の国衆はなんだかんだで興福寺が中核だったけど、信長の頃から国主を別に定めた事で
より結束を失ってバラバラになって行った感じ

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 16:36:09.08 ID:w7NzEW19
松永が謀反するからダメなんだ
筒井の台頭を許した

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 19:39:17.29 ID:3YltmG36
仮に松永が大人しくしていたら、もっとはやく大和周辺の寺社勢力の弱体化ができたのかな

あの兄弟が振る舞いに

2016年03月26日 17:47

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 11:26:39.93 ID:sD2szMy3
天正5年(1577)の、松永久秀による信長への反乱に従い、松永久秀の与力である海老名某も、
河内国片岡城に立て籠もった。これに対し信長は、長岡(細川)藤孝父子、惟任(明智)光秀、
筒井順慶に「3人で押し寄せ、蹴散らせ」と命じた。
これにより十月朔日未明に、この3名による片岡城攻めが始まった。

ここで、長岡藤孝の嫡男與一郎(細川忠興)15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳、
この兄弟が真っ先に駆け入った。

しかし片岡城の者達は河内国でも聞こえ有る兵であったので、全く騒ぐことなく彼らを防いだ。
しかしこれを見た長岡家の郎党たちは「あれを討たすな!続けや!」と我先に駆けつけ、これもあって
兄弟は良き兵たちを討ち取り、それを見た藤孝は両眼をうるませた。

筒井順慶、惟任光秀もこれを見ると、士卒に向かって
「あの兄弟が振る舞いに、恥じない者は居るか!?この程度の城にいつまで手間取っている?
早々に乗り入れろ者共!!」
そう大音声を上げ目を怒らせて罵ると、皆々「尤もである!」と螺鐘を鳴らし喚き叫んで攻め入った。

それでも片岡城の兵たちは、義を重んじ命を軽んじて「一歩も引くな!」と、
それぞれが担当した場所から少しも引き退かず防ぎ戦った。しかし織田勢は新手を入れ代わり立ち代わりに
攻め立てさせたため、死傷者多く出て残り少なくなると、「今や叶わじ」と思ったか、城主の海老名は
腹を十文字に掻っ切って伏せ、残る兵たちも、みな思い思いに自害して、同じ枕に臥した。

信長は與一郎、頓五郎の働きを聞くと、即座に感状を下した。
兄弟が感状を頂戴したことは、天晴勇々の事であると、羨ましがらない者はいなかった。

(甫庵信長記)

細川忠興・興元兄弟の片岡城攻めのお話



536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 13:42:16.65 ID:EmgUfXaA
片岡城て大和じゃないのか?

久秀の運がついに尽きる時

2015年02月19日 18:50

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/19(木) 02:23:59.48 ID:9ypTrVnC
天正5年(1577)、松永久秀織田信長の反逆し信貴山城に籠もる。
織田方は嫡男城之介信忠を大将として、信貴山城へ軍勢を派遣した。

この事態を、かねてから大和で久秀と対立していた筒井順慶は、幸いな事と喜んだ。
実は筒井家譜代の侍の一人で、順慶が松永久秀に大和を追われ浪々していた時に、久秀に奉公に出た者があったのだ。
順慶はかねてからこの者と連絡を取り様々に賄いなどを与え、『返り忠の良き手段が有る時は、内通するように』と
言い含めていたの。

そんな中、久秀の運がついに尽きる時が来た。久秀が大阪の門跡(石山本願寺)に加勢を請う遣いを出したが、
その使者に彼の者を行かせたのである。
彼は信貴山城を出ると順慶の元に行き、久秀より受けた指示の内容を詳しく申し上げた。
すると順慶は、二百人ほどの軍勢を、石山本願寺からの加勢に偽装し、夜に間に河内の平野に集合させておき、
彼の者が大阪に行って主命を果たし帰る頃の時刻に、この軍勢を従えさせ、夜に紛れ信貴山城内へと引き込んだ。

翌日未明より、織田軍による総攻めが始まった。
そこで先に入れ置いた順慶の人数が、城に火をかけ裏切りを行ったのだ。
これに松永方は大混乱となりついに討ち負け、久秀は天守に上がり切腹した。
子息の松永久通は、多聞城へ落ちて行きそこで切腹したとも、また父子一所にて切腹したとも
伝えられる。

これより大和一国は皆、筒井順慶が手に入れ、武威盛んとなったが、
不幸にも天正11年(1583)5月13日に病死した。

(大和記)




大和布施氏の無念

2015年02月14日 18:51

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/14(土) 18:45:16.75 ID:l6hEP72v
布施左京進という大和国の国人は、越智、十市といった大和の有力国人の兄弟分で、
合戦の時も互いに筋々の働きを協力しあっていた。

ところがこの布施左京進が病死すると、その息子は武功も父に劣り、周辺の勢力からその所領の方々を
切り取られるような状況になった。

この頃、箸尾氏(為綱か)は近辺を切り従え、勢力が強盛となっていたため、布施へ使いを以ってこのように申し越した
『布施氏は我々の旗下になるように。これを拒否するのなら一戦仕ろう。』
これを見た布施氏は、箸尾氏に従いたくはなかったが、当面の計策として、和談し従った。

され、そのような所に、筒井順慶が織田信長に出仕し、大和国の旗頭と成った。
このため大和の大身衆は皆、筒井の元に参り振舞いをした。その座席に箸尾氏は先立って
参着したが、その後に布施氏が参った所、箸尾氏はこう主張した

「布施は我が旗下であるから、この一座に有ることは出来ない!」

これに対し布施は怒り
「それは一旦の謀として和した事に過ぎない!我々が箸尾の旗下であるという証拠はない!」
と反論した。

その座の雰囲気が大変危うくなったのを見た筒井順慶は、双方にこのように言った
「一端の計策としてそのようにするのは、言われなき物ではない。その上、武士として偽りなく
有り様を申し述べられたのは、神妙なことである。」
そういって仲直りをさせたが、しかし「上座はありえない」と、それ以後、布施は箸尾の下座に付けられる
事となった。それ故、布施氏は箸尾氏の旗下であると記録されているが、実際には、布施氏も
大和の新庶にて自分の知行を、現在でいうところの二万石ほど持っており、その上旗下の者達も多く有り、
箸尾に劣らぬ大身であったので、完全な旗下とは言えないものであった。

先に箸尾から旗下になるよう要求が来た時から、筒井順慶への振舞いまで、わずか50日ばかりの事であった。
少しの難儀を我慢しきれずそのように成ってしまったのは、無念のことであると、布施殿も申し、
またその家来の者達も口惜しんだ。

(大和記)

少しのタイミングのズレで、他の国人の家来扱いと成ってしまった布施氏についてのお話。




臆病権内

2014年12月19日 18:50

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 00:17:58.46 ID:t0QMj00O
筒井順慶の家臣に板倉権内と言う者がいた。

この権内、どうしたわけか彼のことを「臆病者である」と誰かが言い始め、
やがて家中は勿論、隣国までその評判は伝わり、臆病者の話が出ると「筒井家の権内か」と
世間で言われるまでになった。

権内はこのことを大変口惜しく思っていたが、誰がということではなく、世間一般にそう言われる事なので、
致し方もなく日を送っていたが、何分不快なことであり、終に筒井家を立退き牢人となった。
そして諸大将の器量を見て回り、蒲生家に出向くとこのように申し上げた

「拙者の事、きっと聞き及ばれた事もあるでしょう。臆病者の板倉権内です。
臆病者であってもお使い下さるのなら、御奉公仕らん。」

居合わせた蒲生家の侍たちは、「これが臆病者の権内か」と言いながら、非常に軽蔑した様子で
奥に行きその事を言上すると、蒲生氏郷が出てきて聞いた

「その方が権内か。どうして私に仕えようと思って来たのか?」

権内は答えた
「臆病者を抱える主君は、あなた以外にはあり得ないと考えましたので、この様にまかり出ました。」

氏郷は深くうなずき、即座に彼を召抱えた。

その後、合戦が起こり氏郷はこの権内を連れて出陣した。
この戦場で権内は抜群の働きを成し、大将分の首を二つ取った。
氏郷は大喜びし「まるで吾妻鑑に出てくるような武功だ!」と、即座に二千石を与え物頭とした。
これより権内の臆病者の名前は消えうせ、諸国に勇名を轟かせた。
これに「家臣が豪胆か臆病かは、主君が用いるか捨てるかにあるのだ」と、その頃の人は言ったそうである。

(明良洪範)




403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 01:46:51.41 ID:lSjFHYWZ
人の上に立つようになると「ワシが育てた」をやりたがるものなんですかね

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 03:43:22.97 ID:VLfieFcQ
あー、また雇っちゃったよこの人って思いました。

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 04:07:41.36 ID:1I2zabS8
氏郷は戦場で先陣きっていく御仁だからお前も我に続け的な感じだったんかね

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 04:17:16.49 ID:9PiUghCr
板倉さん汚名返上できて良かったよ
臆病者は洞ヶ峠の方だった

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 08:23:49.13 ID:B90+8CPy
どうせやっかみから始まった陰口でしょ

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 08:38:47.40 ID:GBhxa6qI
その根拠は?

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 23:35:34.17 ID:i/c7bF2+
戦国時代にタイムスリップして仕官するなら、蒲生氏郷
農民として住むなら北条領

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 23:43:04.21 ID:Utuf3/Mp
小便しに行って斬られるのか

それがしなどは弁慶くらいの働きさえも

2014年06月11日 18:52

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/10(火) 18:42:03.62 ID:3SWQ1Lw8
井戸十郎筒井順慶の家来で武功の優れた人である。御家(徳川家)へ
召し出されて若狭守といい、剃髪して覚斎と号す。十郎は物語って、

「只今などに何事かでもあれば、それがしなどは弁慶くらいの働きさえも
することであろう。その理由は、それがしは年寄って命が惜しくないからだ。
一日も早く死にたいだけである。この心ならば比類の無い働きさえもする
ことであろう」

と笑ったそうである。

――『武功雑記』





洞が峠の順慶

2011年05月15日 00:00

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 18:03:44.26 ID:ncSSilCw
洞が峠の順慶

本能寺の変より数日経てのことである。
池田常興からの三人の使者が大和郡山の筒井順慶のもとを訪れた。
何れも思いつめた表情である。
主人池田紀伊守からは、光秀と姻戚関係であり、日頃親しい筒井順慶
彼の意中を探るように命じられていた。
三人は、筒井順慶と刺し違える所存であったが、
主人は「お前たちを死なせれば、私はわが腕を失うようなものである。」と三人を諌めた。
が、彼らは「自分たちが死すとも、味方が助かればそれでよい。」と捨て身の構えであった。

が、思いのほか、筒井順慶は信長公を弔う気持ちはあれども、光秀への加担する気持ちは
露ほども伺われず、まことに神妙な面持ちでもあった。
三人は安堵と共に気勢をそがれ帰途に就いた。

が、帰途の途中、順慶の傍らに静かに侍していた牧野兵太という若侍、
その姿が三人の使者の脳中にありありと蘇ってきた。
そのただならぬ眼光は殺気を放っていた。

筒井順慶ならではの用心深さであった。

常山奇談より




172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 18:06:16.40 ID:wlrmg0NX
若い頃から苦労してるもんなー、この人

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 21:36:34.99 ID:iuXQRL32
三人の使者も相当な殺気を放っていたと思われるがw