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続武家閑談より「洛中放火の企て顕れて悉く斬戮の事」

2023年02月07日 19:11

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 18:36:01.12 ID:m1SOtcLP
続武家閑談より「洛中放火の企て顕れて悉く斬戮の事」

古田織部正は徳川方の陣から敵に内通し、味方の事情を矢文で城中に送っていた。
その事は権現様はご存じでなく素知らぬようになさっていたため、大坂方はこれ幸いと間者に用いなさっていた。
権現様が大坂夏の陣にお立ちになる時、織部は茶友の宗喜に「大坂方から洛中に放火せよとのことだ」と実行を頼んだ。
しかし法制が厳しく、尾張義直(徳川義直)の陪臣である甲斐庄三郎、金井伊兵衛両人に放火犯二人をからめとられた。
成瀬隼人正(成瀬正成)に言上させ、伊賀守勝重(板倉勝重)が五更から明け方にかけて罪人を召し捕り、七日のうちに徒党をことごとく斬刑にした、
ほかにも助力している者どもがいるだろうということで、五月三日より上杉景勝に命じ八幡山に布陣させ、遊軍させなさった。

甲斐庄三郎は「管窺武鑑」「佐久間軍記」などでは甲斐庄三平のようで(甲斐庄が苗字)
続武家閑談の作者・木村高敦か書写した人物が「甲斐庄」という苗字を知らず「甲斐・庄三郎」と思ったのかもしれない

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 18:50:43.34 ID:m1SOtcLP
冒頭は「続武家閑談」だと
古田織部正は吾陣より敵へ内通し味方の事城中へ矢文ありしけれども其事権現様御ぞんじなかりしが左あらぬ様になされこれを幸ひと間者より用ひ給ふ也」で

管窺武鑑」だと
「此織部、旧冬の御陣の時、御方にて御供し、味方の事を聞いて、矢文を射て城中へ告げたるを、権現様御存なれども、御存じなき体になされ、御武術になさる。
是れ反間を用ひなさる御名将の微妙なり。」

「給うなり」がついてるから「管窺武鑑」のように反間という意味が正しいと思います。
「ぞんじなりし」を「ぞんじなかりし」と間違えたのかもしれない



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直江の誤りと見るのが正道である。

2021年08月06日 18:08

下秀久   
903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/06(金) 15:18:04.32 ID:JIwzFV+j
長谷堂城の戦いから、直江兼続軍の撤退の時、最上領谷地の城に下次右衛門(秀久)が残し置かれており、
周辺の仕置を申し付けられていたが、彼は石田三成が滅亡した以上、行く末上杉家頼りなしと思い、
最上に従い、最上衆を庄内に引き入れ切り取らせた。
そうなれば、直江さえ会津に呼び返される程であったので、庄内に置かれた城持ち衆も留守居を
少々残して皆会津に召喚されており、そのためやすやすと、何の手間取ることもなく庄内三郡は
最上義光の手に入った。

この次右衛門は謙信公の下男であったのを、御眼力を以て御取り立てになり、騎馬の列になさて、
その御推察の如く数度武功を顕したことで次第に立身した。この者は隠れなき算術の上手であった。

景勝公の御代に、四人御領分として、勘定奉行の下次右衛門は庄内を、川村彦左衛門は佐渡国、
窪田源右衛門は信州川中島、山田喜右衛門は越後国旗本に有り、その様子、御仕置の作法は
武道の助けとされた。

今度、最上へ直江が出陣した折、谷地、寒川江の領城を乗っ取れたのは、この下次右衛門の分別
宜しき故であった。しかし武道は良しと雖も、元来下臈であるため義理を知らぬため逆心した。
然れば、その原因は直江が谷地城に次右衛門を残し置いた為であり、直江の誤りと見るのが
正道である。

(管窺武鑑)

実際には下秀久は直江から撤退を知らされておらず取り残される形になっていたとか。



905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/07(土) 03:36:42.47 ID:arSrnCGw
管窺武鑑が執拗に藤田age直江sageしてんなと思って
どういう書物かと調べてみたらああ…納得ってなったわ

三家については以上の通りであり

2021年08月05日 17:23

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/05(木) 16:06:56.12 ID:tRQNg+FM
上杉景勝公は石田三成と陰謀を示し合わされた

石田三成が上方に於いて逆謀の色を顕せば、諸国より三成と内通していた者達が打って出て、
徳川家康と取合いを始めるだろう。私はそれを聞いて兵を発し、奥羽筋を打って上方と首尾を
あわせるべきか。であれば、仙台の(伊達)政宗(筆者注・この頃は岩出山城)、出羽の最上(義光)、
越後の堀(秀治)、この三人は燐競にて大身であると雖も、三人共にこの景勝の、物の敵とは思われない。
何故ならば、

一に、堀久太郎(秀治)は昨今の若将であり、弓矢の術を知らず、家法正しからずして家中は
二、三に割れ、殊に上方風であり。押し掛けには強いが後道に弱く、領民は堀家の新仕置に飽きはて、
古主である上杉家を慕っている。
また堀家を取り立てた太閤の御厚恩を忘れて家康に従う不義の兵であるから、これを踏み潰すに
手間はいらないだろう。

二に、伊達政宗は久しき家では有るが、その父である輝宗より二代に渡って境争い、坪弓箭をも
賢く取り、政宗一身の覚悟も無類で、能き大将である。
しかし家中は前代の悪風儀に慣れ、我儘を仕る士共は、現代の新仕置を迷惑がり、それを実行しようとすと、
手荒き政宗であるとし、心で疎み身を虚しくして。家中は意志が一致していない。

また大敵であると言っても上杉家と比べれば小身である。七手組の頭が、一両備えで押し向かえば、
政宗が手を出すことは出来ないだろう。
殊に政宗の心の有り様は、弓箭の正道について誠の吟味も入れようとせず、ただその時節に任せて
敵にも成り味方にも成り、自分の家を恙無く相続する事こそ至高であるとの奥意であるから、
我が方に少しでも強みがあると判断すれば、すぐに手のひらを返し当方に頼み従うだろう。

三に、出羽の最上(義光)は数代相続の家であるが、弓箭について然りとするような誉れが無く、
身にかかる火を払うばかりにて、他国遠国へ取り掛かるような武道のこだわりも無く、
家中の者共は事毎に居丈高にばかり仕り、武功誉れの者が有っても、新参譜代筋どちらでも、
小身であれば家老や出頭人の前では頭を挙げさせぬ故に、彼らが十考えている内三、四を言ってすら、
家老や出頭人の威に押され、一言を躓いただけでも善悪の批判を受ける。

そのため言葉少なく手短に計り言おうとして、その理屈が伝わらず、四つ言ったとしてもその内三つは
みな戯言となり、残った一つの理も、相手には生聞こえとなり、それを言った人物が不合点者と
取りなされる。故に以後は控えて物も言わなくなる。或いは、いかほど能き者であっても、口が
不調法であっては面出しも成らぬ。故に下の理が上に達しない。

最上家中では新参であっても大身であれば、譜代を押しのけ上座に在り、我意を振る舞う。
元より古参にて大身であれば、心は鈍くても我儘に口をきく。
執権に於いてこのような国法なのだから、軍法も未練なものであろう。であれば、上杉家に対せば
手に立つような事はない。

三家については以上の通りであり、であれば、石田が上方にて兵を起こせば、私は奥北国を
討ち靡かせるか、でなければこの大身の三家には押さえを置いて、家康の持つ関東へ働き出れば、
常陸の佐竹を始め当方への志の衆、東国にも多いのだから、攻め上がり家康を取り挟んで
一戦を遂げれば勝利を得るだろう。」

管窺武鑑

上杉景勝の堀家、伊達家、最上家への評価について。



902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/05(木) 16:37:19.76 ID:WRarKSNv
管窺武鑑って黒歴史ノートなのか

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/12(木) 17:35:12.09 ID:fqhsEK9r
>>896
>>901

べらべらよく喋る景勝だな
無口って誰が言ったんだ

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/12(木) 19:47:27.12 ID:TruHcJ9v
>>920
上杉景勝は一言も喋ってない。
心の声として芥川隆行のナレーションが流れてるだけだ。

先を越されて宿割をされた事

2021年08月04日 19:11

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/04(水) 16:47:42.11 ID:l4zrfRRo
朝鮮出兵により上杉景勝公が肥前名護屋へ向かう途中、芸州宮島にお泊まりという時、
陣場奉行衆に安田上総介(能元)を添えて、その準備のため先に宮島に参った。
総じて備大将衆が一組ごと順番に、陣割衆と両組にて先行し、陣場を準備して待つという
作法である故に、このようにされたのである。

ところが徳川家康公の御人数の宿割衆六、七百が、宮島の能き町を選んで既に
宿札を打っていた。これに対し安田らの衆は徳川の衆に向かい

「宮島に入るのは景勝の次に家康公であったのに、先を越されて宿割をされた事、
思いもよらぬことだ。あまつさえこの町の能き所を既に選び取っておられる。
それらを早々に明け渡して頂きたい。そこに景勝が本陣を打ち申す!」

これが口論となり、双方既に衝突しようという様子になったところで、
藤田能登守(信吉)、彼はいつも先陣であったので早くも追い付き、中人(仲介人)となって
双方の間を取り繕った。

「家康公の衆を残らず追い立てるというのも現実的ではない。だからと言って先陣である上杉勢の
本陣を立てるべき場所に、後陣の衆が先立って取り堅められているのを、そのまま黙認してしまうのは
大法に背くものであり、また景勝の宿割の者達への不調法にもなる。

そこで、景勝本陣と近習の陣所となる場所だけを明けて頂きたい。その場所の徳川勢の衆は、
軍陣に赴いている以上、後に下るのは不吉であり、先に進むのは吉事でありますから、繰り上げて
先に陣所を取るのが尤もであると存ずる。その他の徳川方の衆はそのままここに陣取られよ。」

これに対し、家康公の御内衆である村越茂助などを初め、その場に参っていた者達が相談し、
この提案を受け入れこの場は無事に相済んだ。

この事は後で家康公も聞き召され、藤田を御褒めになり、配下に対し「重ねてこのような事が
無いように。」と堅く仰せ付けられた。そして名護屋に到着すると藤田方へ、永井右近太夫(直勝)、
大久保七郎右衛門(忠世)の両人を使いとして仰せ下さり
「その方の取り持ち故に、我が方の者共は面目を失わずに済んだ。」
との事であった。

この事は、後に永井右近太夫殿が夏目舎人に直に語られた事である。また大久保七郎右衛門殿も
舎人に語られた事であり、相違無い。

管窺武鑑



この上は朝鮮国御征伐あって、武威を異域に輝かし

2021年08月03日 18:35

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/03(火) 16:55:47.55 ID:xXeMvxoh
小田原の役、奥州仕置により関白秀吉公は日本を平均さなれ、この上は朝鮮国御征伐あって、
武威を異域に輝かし、たとえ御本意を遂げられなくても、その名は末代までの誉れであると
御奥意を持たれていた所、御嫡男である八幡太郎殿(鶴松)が天正十九年、五歳にて早世された。
御母は浅井備前守息女淀殿であった。源義家の先規を用い、八幡太郎と名付け、限りなく
御寵愛されていた中での御逝去であり、御嘆きのあまり仰せに成られた事には

「私は数年粉骨して天下を取り布いたと雖も、それを譲り与えんと思っていたその子は死した。
何を頼んで何時を期せばいいのか。漸く歳も老いた、天下は諸大名が手柄次第に治めるべし。
私は後世善所を志し、発心して送るべし。」

そう言って東福禅寺へ引き籠もられた。然れば小大上下の族、このような事は勿体無しと涙を流し、
たってこれを諌め奉った。これに対し秀吉公は仰せられた

「私は道心する事に決心したが、それが却って天下の苦しみ、悪逆の元になると万民押し並べて存ずると
これ有る上は、考え直すべし。ではあるが、我が子孫の後栄を考えずに行う事であるのだから、一事所望を
叶えてほしい。そうでなければ再びこの寺を出ない。」

と仰せになった。諸大名は何れも「御意、違背仕るまじ。」と請け負った所を聞かれた後に、
朝鮮征伐の事を仰せ出された。それ故に何れも異議に及ばず同心した。これによって御陣触れを出された。

管窺武鑑

秀吉が上杉謙信みたいに寺に引きこもって朝鮮出兵をみんなに飲ませた、というお話。

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/03(火) 17:12:49.00 ID:P3JEToLn
平和になったらなったで戦闘しか取り柄ない兵士数万をどうするか問題が起こるからな



首奪い

2021年08月02日 17:29

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/02(月) 16:01:28.09 ID:V9FYJm3n
小田原の役、上州宮崎砦の戦いの時の事。上杉景勝勢のうち藤田能登守(信吉)、甘糟備後守(景継)らの
軍勢は北条方の宮崎砦を乗り崩し、敵勢を追撃した。

藤田信吉の組の夏目舎人助は組子を呼び寄せ真っ先に進むと、宮崎坂口にて敵を追い詰めた。
その敵の中に、茜の羽織を着け、味方に下知して殿をする武者があった。舎人はそこに乗り付け、
互いに馬上にて名乗りかけ、鑓を組んで突き落とし、組子の澤田作左衛門に「首を取れ!」と申すと、
作左衛門も上に乗り掛かって首を擦り落とした。とこそがその時、甘糟備後守の手明(予備兵)の者である
湯浅七右衛門が奔り来て、作左衛門を押し倒し、その首を取って逃げた。そこに舎人助が乘り付け、
湯浅の差物の絹を少し切り落とし、それを取り置いた。しして又組衆を下知し、南西方向へ追い打ちをかけた。

(中略)

湯浅七右衛門が奪い首をしたことについて、合戦後夏目舎人助は自分の組の澤田作左衛門を召して
甘糟備後守の所へ行き、申し上げた

「御内の衆が奪い首を致されましたので、その首を返して頂きたく、急度仰せ付けられますように。」

備後守はこれに
「我らの内に、そのような比興者が有るはずがない。しかしながら調べよう。その方にそれについての
証拠は有るか。」

舎人は澤田を呼び出し、「この者が取った首を、御内の者、彼は白地に黒二引の差物をしていましたが、
後から来て澤田を押し倒し首を奪いました。その証拠はここにありますので、その差物に
名札をつけてここに出して下さい。」
そう申して差物を取り寄せると、彼の差物は切り裂かれており、そこに舎人の持ってきた切れを
当てるとピタリと一致し、紛れもない事が解った、これに備後は殊の外立腹し

「このような臆病者を召し使ったのは私の不吟味である。それをそのまま置いては、諸人に悪事を
教えるようなものだ!」

と。かの者を召し出し手打ちにすると申されるとこを、舎人は制して「先ず我が方の大将である
藤田と御相談なさってください。他の備えの為でもあります。」と、奪われた首を持って帰り、
高名帳に付けた上で、藤田にこの事を申し伝えると、藤田はすぐに甘糟を招き、二人伴って御本陣へ参り
上杉景勝公に言上した。

これについて景勝公はこう仰せに成った
「武士であっても武道を知らない者は下人である。武士は本心の臓より思案工夫して分別する者である
故に、科があれば切腹をする。

下人は首元で思案する故に締まり無く、落ち着いた分別も無い。これ故に科あれば首を斬る。

女人は鼻先ばかりの智である故に、科があれば鼻切る事、古来よりの掟である。

その者は下人同然の臆病を働いた。諸人への見せしめの為にも、縄を付け陣中を引き廻し、首を斬り
獄門に懸け、札を添えて首を晒し置くように。」

と仰せ出されたために、斯くの如く仕った。

『この湯浅七右衛門と申す者、甘糟備後守被官である。今度宮崎表に於いて夏目舎人助が敵を突き落とし
組子の澤田作左衛門に首を取らせる所で、湯浅はこれを奪い取った、この事は大臆病者の働きであり、
筆にも尽くしがたい。その科により、御掟通りに申し付けた。湯浅の子々孫々は言うに及ばず、彼の
組にまで悪名が遁れられない。仍って件の如し。

 天正十八年三月十八日     奉行 甘糟備後守 』

このような札を添えて、七日の間路に晒した。これを見た加賀衆も一層、上杉家の弓矢の法を知った。

管窺武鑑



その方の被官を仕置したため、梟首

2021年08月01日 17:17

889 名前:1/2[sage] 投稿日:2021/08/01(日) 13:13:10.34 ID:rsFX6Ceo
小田原の役の時、上杉景勝の越後勢は碓氷峠を越えると、真田、蘆田ら信州衆の先に在る坂本に入った。

この時、越後勢において藤田信吉の相備えであった甘糟備後守(景継)の小荷駄の牛が放れ、
真田の陣所の馬草を食った故に、その牛を真田方へと奪い取った。
備後守はこれを聞くと、藤田に「この牛を取り返さなければならない」と相談した故に、藤田の方より。
先ずその牛を取った者の方へ使いを遣わし、

『此の方の小荷駄に付けた人夫が牛を取り放し、そちらの陣内に参ったのを捕らえ置いていると
言う事だという。こう言ったことは互いに有ることでもあり、お返しして頂きたい。』

このように藤田能登守が申したことを、夏目舎人方より申し遣わした。
ところがその者の返事に

『牛はこちらには参っていない。例え参ったとしても、そちらの作法が悪くて他陣に参った牛なのだから、
これを取っても苦しからぬ事であるのだから、返さないだろう。況やこちらには参っていない。』

と申し越したため、甘糟は「ならば無理にでも押し入って取り返すべし!」と申すのを、藤田が
これを抑えて、真田方へこれまでの経緯を申し遣わした所、執り成しの者よりの返事に
「安房守(昌幸)は散々の虫気(腹痛)にて臥せておりますので、その事については後ほど申し聞かせます。」
と申し越してきた。

このため藤田も立腹し、「牛一疋の事であるが、天下の大事である!甘糟も牛を奪われては堪忍ならず、
堪忍成らねば押し込んで取り返すべし。その時は真田は返し兼ねるであろうから、我らは真田を
踏み潰すより他無い。その所を分別できないような真田では無いはずだが、我々を浅く見てこのような
態度をとっているのだろう。この上は私が切腹に及んだとしても是非もない。押し入って取り返す!」

そして組中に触れを出したが、その内容は『物頭・物奉行の他は、刀脇差を初め刃物の携帯は無用である。
棒を持つように。』との事であった。

これは景勝公の御耳にも達し、「藤田の申し分尤もである。真田どもを一人も残さず踏み殺すように。」
と、加勢を仰せ付けられたが、「彼程度の者を殺すのに、藤田は加勢を請たのだ、などと言われるのも
如何かと思います。藤田の組中だけでやります。」と仰せられたのであるが、侍大将衆より若者共を
忍んで差し添えたという。

藤田の備え九千余り、何れも素肌(甲冑をつけない状態)になり、刃物を持たず、棒二、三本ほどを
腰に差し、手に持って真田陣へと押し寄せた。

そのような所に丁度、佐野天徳寺が景勝公見廻りとして坂本の町に参っており、真田は彼に景勝への
詫言を頼んだ。佐野天徳寺が藤田に会って申された
「真田は牛を取った本人一人を成敗すると申している。これで堪忍致されるように。」

藤田は同心申さなかったので、天徳寺は先ず真田陣へと向かう人数に、何れにも説得してその場に留めた上で、
景勝公に対面されて、直に真田よりの詫言を伝えた。これに対して景勝公は
「私が少しも関知する事では有りません。きっと藤田の覚悟なのでしょう。その事は藤田に仰せになって下さい。
関知しない事ですから、私が下知するわけにもいきません。」と仰せに成られた。

故に天徳寺はまた藤田の元へ行って申した、「景勝公さえ関知していない事なのだから、堪忍されるように。」
これに藤田は「この事のそもそもは、甘糟備後から起こった事であり、それは備後に仰せ聞かせて下さい。
私はともかくも備後次第です。」と申した。

故に甘糟の元に行って仰せられると、甘糟の返答は「私は切腹するしか無いと思い極めての事であり、
この件を起こした本人一人ばかりにての御詫言では承服出来ません。牛を取った本人の傍輩は申すに及ばず、
その主人と、また藤田方より真田方への使いの時、虫気に返事をした取次の者、これらを我が方へ渡し、
真田昌幸がここまで出て降参を仕れば、これほどに思いつめた事ではありますが、和尚様の御詫言もあり、
又合戦前でもあるのですから、堪忍いたします。」と、天にかけて誓った。

890 名前:2/2[sage] 投稿日:2021/08/01(日) 13:14:26.83 ID:rsFX6Ceo
天徳寺は真田方に戻り、様々に申し繕われた事で、先の三ヶ条の内、虫気の返事は真田昌幸自身が
申したことであったので、実行することは出来ないと、天徳寺よりまたこれについて御詫言があった。
残りの二ヶ条は甘糟の望み次第に任せるとの事であったので、藤田はたって甘糟に申して、彼に
堪忍させた。

天徳寺はこの事を真田に伝え、そうしてあの牛を曳かせ、牛を取った科人、その主従八人、
そのうち本人には縄をかけ、残る七人を放囚人にして、刀脇差を差させ、真田家家臣の丸子が同道して
召し連れて参った。甘糟はこれを請け取り申すべしと望み、自分の家臣の豊野伝左衛門、五十嵐十助などという
覚えの者十人を申し付けた。藤田方よりは検使として増毛田島、夏目舎人が出た。

両人、丸子と挨拶仕る内に、縄をかけた本人を、甘糟の小者である伝吉という者に請け取らせ、
残る七人の放囚人を、甘糟の衆が請け取りに出た時、七人の者共、一度に刀を抜いて斬り掛かってきた。
あの科人の主人は、増毛、夏目、丸子が相談している所に斬り掛かった。増毛は老功であったので、
その方を見向きもしなかった。夏目組の伊藤太佐衛門が立ち会い、この者に刃向かい、脇から
かの者を組み留めた。
その他の六人の放囚人の内、三人は即刻成敗し、三人は豊野、五十嵐、上坂藤兵衛、并びに舎人組の
者共が組み留め、主人共に四人を生け捕った。
藤田旗本の神保五左衛門も、この時甘糟に色々申して請取手に出、放囚人一人を斬り留めた。
神保も含めて味方十一人、真田方放囚人七人を請け取った様子は、このようであった。

さてまた、天徳寺が同道して、真田安房守(昌幸)は半途(両陣の中間)まで降参に出た。
この場に藤田、甘糟も出て、先に生け捕っておいた五人を安房守の眼前に引き出し成敗し、
一礼して帰った。その後科人八人の首を真田陣前に獄門に梟け、札を添えた。ここには
真田方への口上として『その方の被官を仕置したため、梟首した。』と断りが書かれていた。
故にさすがの真田と雖も、これを取り捨てることは出来なかった。

管窺武鑑

最初は甘糟景継が怒ってるのを藤田信吉が間に入って穏便に済ませようとしたのだろうけど、
相手の態度が気に入らず余計こじれているのがまた



891 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/01(日) 16:17:59.07 ID:KEXzl7pS
私のために争うのはモウやめて!

     AA
  /⌒▼⊂・・つ
*~L● ( (_ω)
  UU~UU

このような虎落一重二重にて

2021年07月31日 16:55

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 15:20:33.79 ID:/kVgA5gC
小田原の役が始まり、関東へ向かう上杉景勝勢が途中、信州上田を押し通った時、
真田が申し付けたと見え本来、本街道は上田の町を通っているのだが、景勝の憎しみを受けている
真田であるので、定めてその下々が上田の人々に対して狼藉をすると考え、新道を本道の北の方に
造り。本道には虎落(もがり・竹を組違いに組み合わせた柵)を置いて封鎖していた。

この時、藤田信吉が先手としてここに行き当たったため、これを見て怒り言った

「真田の分際で、景勝公をこのような虎落一重二重にて防げようか!
たとえ鉄の柵を並べて籠もったとしても、我々に向かって来るのであれば、どうして踏み殺さないで
済むであろうか。しかり秀吉公が様々に詫言されたために、景勝公は真田の命を助け置かれたのだ。

そもそもこう言った機会を幸いと思い、自身は出陣していても、留守居に申し付けて我らに御馳走を
するという気概も無く、自身の臆病な心に引き合わせ、この機会に仇を討たれるのではないかと
景勝公について推察するとは。

我が方より、弓矢の習いに従って行動するのは格別である。然れば本道を避けて脇道を通るというのは
弱みとなる。」

として、真田方が拵え置いた柵木を引き倒し虎落を蹴散らして、上田城下の本道を押し通り、
一人も新道へ向かった者は無かった。

管窺武鑑



880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 15:49:21.44 ID:e48q9Pkk
昌幸の仲介で沼田城明け渡して北条から武田に鞍替えしておいてこの言い草

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 16:35:21.17 ID:hE2IjCkN
あれ藤田って関ヶ原直前の上杉征伐のきっかけ(もちろん家康の仕込みだろうけど)作ってなかったっけ?

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 16:59:20.79 ID:e48q9Pkk
>>821のように管窺武鑑では藤田信吉は上杉家の忠臣扱い
なお信吉のもともとの姓である用土氏は藤田氏の分家なのに
管窺武鑑では、
藤田康邦が北条氏邦に藤田氏の家督を譲ったのちに用土氏と改姓し、幼い信吉を残して頓死した
つまり藤田信吉(用土新六郎)は藤田氏の嫡流である、と捏造している疑惑が

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 17:43:18.51 ID:77g1fQyy
景勝時代の史料は捏造疑惑が多いな

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 18:27:43.62 ID:LiriPFef
この資料の信憑性は置いといて
これらの逸話通りだと藤田は方々に仕えて重用される辺り有能ではあるんだろうけど
人柄的には些か難があるような

885 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/31(土) 19:53:23.48 ID:a1YBs5Gx
景勝への悪評の元ネタである奥羽永慶軍記こそ、その信憑性ってやつが・・

安房守については「表裏の士」であると

2021年07月30日 18:50

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/30(金) 15:45:51.63 ID:B1SsKwpE
信州上田の真田安房守(昌幸)は上杉景勝公の御留守中に、太閤(秀吉)家臣の大谷刑部少輔(吉継)と
内縁の筋目が有ることを以て、大谷に頼り才覚仕り、次男源次郎(信繁)を秀吉に差し上げ、
景勝公との関係を引き切った。
彼が総領である伊豆守(信之)を自分の所に差し置いていたのは、安房守は老巧であり、末を考え、
今後権現様(家康)へ進上仕るべしと思案し、よって次男を太閤に差し上げたのだという。

こう言った事であったため、太閤に対し景勝公より御断りを仰せ入れられ、源次郎の身柄を
是非お返し下されるようにと訴えたが、太閤に大谷が能く取り繕った故に、太閤より様々に
御詫言が有ったことで、事済んだ。

これ故に安房守については「表裏の士」であると、彼を咲わない者は無かった。

管窺武鑑

上杉も真田昌幸には相当思う所あったんだろうな。


御簾中を御上らせられた

2021年07月29日 17:11

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/29(木) 13:26:06.87 ID:UwDYuRbt
天正十七年、上杉景勝公の御簾中(武田信玄公の息女、勝頼公の妹)に、平坂対馬守を尾輿添に
仰せ付けられ、上方へ御上らせなされた。これは景勝公が宿老たちとの密談によって斯くの如く
なったのである。景勝公はこのように仰せになった

「来年太閤(秀吉、この時期は未だ関白)は小田原への発向について、我らと前田筑前守(利家)と
合流して、関東筋へ相働くべしと定められた。
秀吉について、彼は古今類なき果報明発の人である。匹夫より登場して、天下を一統した。

であるが私に対しての和睦は工夫才智を以て、私への疎意が無いようにしたのは、私が名将である
謙信公の跡を継ぎ、北条三郎(上杉景虎)を討亡して越後を治め、信州に発向しては小勢を以て
北条氏直を追い払い、川中島四郡、その他佐久、小縣にも手をかけ切り治め、或いは会津領の
所々を切りしぎ、佐渡一国恙無く平均し、去冬は羽州庄内三郡を治めた。
殊更天正十年、信長家の者共に対して上杉家の弓矢の手柄、その後、越中宮崎にての様子は、木村(吉清)が
見て帰り、それらの事によって私のことを、秀吉も手浅く見られないのだ。

であれば、私の心が振れないようにと存じられ、人質を乞おうとされないのは流石名将である。
しかし内心には、私の事を気遣いに思っているのだろう。

殊に関東への陣触れについては、猶以て心許なく、人質を乞いたいと思っては居るのだろうが、そのようでは
誠の道をすり抜けてしまうと、私に蔑まれては却って悪しくなるとして、その事を申し越されず、
正道を嗜む所を知らせ、いよいよ私には心安く思わせよう、という底意であると察する。

しかし一度和睦を結んだ以上は、私からは未来尽くすまで、心を変ずるべきではない。
武士は大小上下、共に心を変じない事を本意とするものだ。そういった所を考え知りながら、
秀吉に疑われるのは甲斐のないことだ。」

そうして家老たちと御密談を以て、御簾中を御上らせられた。
太閤はこの人質の請取を堅く御辞退されたが、景勝公のこのような思し召しにより、受け入れられたのである。

管窺武鑑

実際にはこの天正十七年に秀吉が「諸国の大名家は悉く聚楽へ女中衆を同道し今より在京すべきこと」と、
妻女を人質に出すよう命じたようで、景勝もその命令に従ったに過ぎないのでしょうが、家中向けには
こんなふうに「自主的にやった」と説明したのかもしれません。



872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/29(木) 23:01:59.31 ID:dIhQHoBU
>>871
己の行為を粉飾歪曲して喧伝するのは謙信から続く「上杉」の常套手段。
「軍神」とか「義将」とかの幻想もそうやって築き上げた。
本物の山内上杉時代には無かったことだから、これは越後長尾の田舎者体質の顕れだろう。

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/30(金) 04:33:56.14 ID:u03GKxRD
武田さんお疲れ様です
と思ったけど武田は上杉とは呼ばずに長尾呼びしてたんだったか
じゃあ北条辺りのレスかな

874 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/30(金) 13:28:45.19 ID:MGpttgjN
北条氏康は山内殿と謙信宛書状に書いてたのよ

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 00:16:38.32 ID:ONAz3fbO
>>874
それはかなり後年の越相同盟の頃で、
それまでは御互いに「長尾」「伊勢」とオトナゲナイ罵り合いを繰り返していた。

北條氏康の禅坊主相手に逆ギレとか、
上杉謙信の「佐藤ばかもの」とか、
オトナゲナイ沸点の低さがなかなか良い♪

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 00:20:50.95 ID:hE2IjCkN
>>876
大人げなくていいなw

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 05:41:53.95 ID:LiriPFef
戦国時代は権威も今よりもっと影響力あったから
呼び方一つとっても相手の権威の肯定になるような事を言うのは
実利的な面でも憚られたんだろうな
現代の視点だとこいつら……ってなるけど

「本庄正宗」由来

2021年07月28日 18:28

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/28(水) 16:45:08.06 ID:PxtMUnPr
天正十六年(1588)八月、出羽国庄内における十五里ヶ原の戦いで、上杉軍の本庄繁長
東禅寺義長を討ち取った。この時、義長の弟である東禅寺右馬頭(勝正)は敵中を斬り抜けていたが、
そこで義長の討死を聞いて、涙を流して申した

「私が多くの敵に後ろを見せて、ここまで逃げ延びたのは、夜中でもあり、屋形(義長)の
討死を知らず、屋形が生存していれば、重ねて人数を催し、本庄を討って再び庄内の地を踏み、
本意を達しようと思ったからである。しかし屋形が討ち死にした以上、我一人、生きて更に益なし」

そう言って取って返した。その頃、本庄繁長は戦勝後の首実検をしており、右馬頭は旗も前立も
相印もかなぐり捨てて、黒糸縅の鎧を着、右の手には抜き刀を持ち、左の手には六十二間の星釜、
全小札三枚下りの錏(シコロ)を付けた首一つを掲げて、敵の備えの中を押し分けて通った。
これを咎むる者があれば「越前守(本庄繁長)被官なり!大浦民部が首を取って、実検に参り候!」
と言って、難なく繁長の旗本へ来ると、越前に呼びかけ、「高名致し候!」と言いながら近寄り、
その首を本庄に投げつけて

「東禅寺右馬頭!」

と名乗り、三尺八寸の太刀を以て、本庄の直額を、割れよ砕けよと二打打った。

しかし本庄繁長は勝って兜の緒を締めて、首実検をしていたため、兜は斬り割られず、左の
吹き返しが斬り割られ、さらに眼尻より顎にかけて斬り付けてきた。
本庄は素早く側に横たえてあった薙刀を追い取り、床几を少しも去らずして、右馬頭を跳ね返し、
脇より立ち会い、右馬頭が起き上がらない内に斬り殺した。

本庄はそのまま再び首実検をし、首帳を認めさせ、凱歌の儀式を執り行い、武名を世に高くした。

右馬頭の刀は相州正宗であった。これを本城は上杉景勝公へと差し上げた。
その後、これは景勝から太閤秀吉に進じ遣わされ、太閤より又、権現様(家康)へ進じられ、
現代は紀伊頼宣卿の元に、『本庄正宗』として所蔵されている旨を承っている。
しかし「寸長し」として、今は二尺五寸に尾磨り上げられたとも伝え聞いている。

管窺武鑑

「本庄正宗」の由来について



358 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/28(水) 21:39:09.52 ID:tRsnVVM2
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/36/15/22/src_36152261.jpg
src_36152261.jpg

現在、かつての本庄氏の本拠地、現在の村上市・村上市郷土資料館にこのときのものと言われる本庄兜が所蔵されている

>兜は斬り割られず、左の吹き返しが斬り割られ

とはあるものの画像をご覧の通り、額右上側に星(トゲトゲ)が崩れた部分が見て取れると思う
ここに刀を受けたらしい

なお画像内解説文の上州八幡銘は、現在の群馬県高崎市八幡(やわた)町の職人ではないかとみられる
上州職人による上州兜と呼ばれる逸品は、上杉、武田共に愛用されている


金沢市の加賀本多博物館にも本庄兜と呼ばれる派手目の当世兜が伝来する
これは本庄長房が本多政重のもとに一時仕えた折に置いて行ったのではないかとも推測されている

359 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/28(水) 21:46:14.65 ID:tRsnVVM2
おっと、甲冑用語としては上州兜っていうか上州鉢でしたね

直江兼続の愛の兜もこの上州八幡の上州鉢で、現存する銘入り上州八幡は三つしかありません



360 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/29(木) 18:32:42.26 ID:vKpBEX+E
勢力圏内だった順番に上杉、武田、北条で職人に発注してたってことですかね?

大名家他に伝来して現存するっていうと上杉家以外はどういう残り方してんのか、研究者の方々に聞いてみたいところ。

五段三段と工夫して、不敗の地をふまえ、必勝の旗を掲げる。

2021年07月27日 17:10

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/27(火) 15:44:16.93 ID:IgnKSJfC
天正十五年の本庄繁長による庄内の尾鐺攻めの時の事について、本庄は夏目舎人助に物語された。

「尾鐺において攻め合いの際、最上方である上山田がこちらに内通し、堅く申し合わせたが、
必ずしもこれを頼りにしなかった。戦国の最中では、こういった軍略は敵味方ともにあるものだ。
『我を欺くべし』と深く企む心根は、不明の智では知り難い。世間の約束などは、手のひらを翻すような
ものであり、思い定めた志でさえ変わることもあるのだから、上山田が内通を悔いて取りやめる可能性も
ありえる。しかしそういった事を疑っていては、出勢することも合戦することも出来なくなってしまう。

こういう所をよく思案し、予定通り上山田が裏切れば、勝利は手中にしたようなものであるが、
万一これが、上山田が越後勢を討つための詭計であったならば、これこれの武略を以て変を打ち、
それに勝つための備えを定め、五段三段と工夫して、不敗の地をふまえ、必勝の旗を掲げる。
これこどが誠に、危うからざる戦法である。」

この事を夏目舎人助は訓戒されたのだと、後に私(著者・夏目軍八定房)に伝えたのである。

管窺武鑑



河田豊前守が勇智深き故に

2021年07月25日 17:18

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/24(土) 23:51:38.51 ID:Gcr6Dmv+
天正十年の夏(筆者注・天正九年の誤りか)、河田豊前守(長親)は越中松倉城に籠もった。
織田信長の軍勢が五万余の兵で押し寄せたが、河田の武勇に恐れ、二方より遠巻きした。

この時、城中の神保肥後守という者、越中先方の侍大将にて、河田の相備えであったのだが、
彼には敵と内通しているのではないかという疑いがあった。しかしその証拠となるような
ものはなく、ここにおいて、河田は自分の家臣の中で頼もしき勇士を一人、下郎の出で立ちにさせ、
夜忍んで敵陣へ遣わした。即ち敵はこれを捕らえて怪しみ問うと、彼はこのように答えた

「私は城内の神保肥後守の透破である。どのような内容かは知らないが、佐々(成政)殿への
一通の書状を持って出た。城中の者に取られないようにして、佐々殿へ奉れと申し付けられた。
ところが近くの森の中の道にて若侍五、七人に出会い、彼らに刀、脇差、羽織、そしてかの書状を
入れた打飼袋まで剥ぎ取られ、ようやくここまで逃げ参った。あの書状がその後この陣に来ているので
あれば問題はないが、城中の者達に取られたのであれば大事である。このこと調べられるように。」

これに対し、敵方も警戒をし、後途の様子を見るまでとし、その上「心を許すな」と、彼を
搦め置き陣中の穿鑿をしたが、彼の言ったような者はおらず、如何と思案する内に、城中より
矢文が射られた。抜いてみれば、河田豊前守より佐々に宛てた書状であった

『当城の神保に対しての密議の計略は既に露見した。その身柄は獄に籠め、首を刎ねようと
欲している。これは武道不功、軍理未熟によるものであり、弓箭の恥辱、末代までの汚名となること、
どうして疑いがあるだろうか。
しかしながら神保は十年以来の新たに仕えた者であり、立場が定まっていたわけではない。
頻りに赦しを乞うており、その身柄をそちらの陣に引き渡そうと決まった。回答を待つ。』

これについて敵は寄り合い、返事をすべきか、ただ置いて返事をしないでおくか
決断しなかった。城内に於いては矢留の幕を打ち、二時ばかり返礼を待ったが来なかった。

河田の考えには
「返書が来たなら、その文体によって真偽を知ることは簡単であった。然るに返報が来ない以上、
神保の逆意は明らかである。何故なら神保が内通して居ないのであれば、さっそく返書し、その
文面にあやをなして、内部の和を破る手段として吉兆であると、急ぎ返事をするはずである。
そうせずに返答が遅いのは、どうにかしてこの陰謀が顕れないよう、事を誤魔化すべしと
談合しているであろうこと、疑いない。」

こうして、河田は神保を召すとこれを虜にし、その家老、身近の者合わせて七人、主従妻子ともに十三人、
城外の堀際でこれらを磔にした。神保が首に懸けていた守袋の中に、佐々、柴田(勝家)両判にて、
「今回の儀が終結した後、松倉城に五万石を添えて充てがうべし」との一状があった。
河田豊前守が勇智深き故に、この陰謀を察し擬慮を定めること、斯くの如し。

(管窺武鑑)



346 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/25(日) 07:26:47.45 ID:3Kt+VyKp
>>345
織田陣に入った河田方の勇士はどうなったんだよ えーっ?

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/26(月) 18:44:33.74 ID:lfSNcW2A
>>346
勇士は荼毘に付したよ…
骨はある場所に置いてある

348 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/27(火) 07:24:20.51 ID:OvNmFwAu
>>347
ふぅん、そういうことか

能州の武士道の吟味、諸人の勇気を励ます事、

2021年07月22日 17:08

326 名前:1/2[sage] 投稿日:2021/07/22(木) 09:42:43.72 ID:moX1rXdG
天正13年三月二日、藤田能登守(信吉)の家来で武笠藤兵衛という武士が、春日山下町において
上杉景勝公の御小姓衆と喧嘩を仕出した。武笠は郎党と二人で相手を三人斬り殺し、五、七人を
追い散らして町家の奥へ走り入り、小座席口のある所に取り籠もり、主従にて両口を堅めた。

この事を藤田の衆が聞いて駆けつけ町家を取り囲んでいた所に、奉行衆の者共も来た。
夏目舎人助も駆けつけ、様子を聞くとこれこれと説明された。
これに舎人助は
「他所の者が取り籠もったとしても、行きがかりの上は、状況によるにしても、見物で済ませるなど
出来ないことだ。況や藤田配下の者であり、手遅れして奉行衆の者に身柄を取られては名が廃る。」
と言って、その近隣にて木刀を一本取って差し、表口より押し入った。

籠もっていた者一人が「待ち受けたり!」と言って、飛び懸かって打ってきた太刀を受け止め、
引き組んで押し倒し、「取りたるぞ!」と言葉をかけた。そこにもう一人の取り籠もった者が
助け懸る所に、荒川山三郎という者が裏口の方に居たが、舎人の声を聞いて「先を越され口惜し」
と言うと裏口の板戸を蹴破り飛び入った。先のもう一人の男は、舎人に組まれた男を助けるのを止め
荒川に向かった。荒川も刀を抜かず、二尺余りの木刀を持ち、一つ二つ打ち合うと引き組んだ。
そこに、これも裏口から、彦部勘左衛門という者があったが、彼も荒川の跡に続いて押し入った。
荒川は早くも相手を組み伏せていたため、彦部は舎人の方へ助けようと駆け寄ったが、舎人は最初の者を
踏み伏せ、首に刀を当てて縄をかけた。

この様子を見て、また荒川の方を助け取り堅めたが、荒川は太刀、大脇差で、しかも抜けず、
科人の抜いたものは刀で、腰に挿していたのは、これも二尺ばかりの大脇差であったので、組んだ時の
役に立たなかった故、運の勝負を極めかね、剰え、上になり下になり、雌雄決し難く見えたため、
彦部は荒川を助け、共にこれを捕り固めた。

これらの科人のうち、舎人が絡め捕らえたのは下人で、荒川が捕らえたのが、主の武笠であった。
両人の大小を取り、二人の囚人を先へ遣わし、舎人はその後、春日山三の曲輪の藤田屋敷に帰った。

327 名前:2/2[sage] 投稿日:2021/07/22(木) 09:43:34.85 ID:moX1rXdG
然るに翌日、兼ねてからの約束にて藤田宅に、直江山城守(兼続)御近習の丸田周防、横目付の
山上三郎左衛門、その他五、七人が招待された饗宴があり、その場でかの武笠の喧嘩の事を語り、
最も無道にて重科であるとして、斬罪に決められた後、夏目舎人、荒川山三郎彦部勘左衛門
三人と、藤田の下の隊長・奉行が呼び集められ、これらの前で、藤田能登守が、かの武笠主従二人を
召し捕った事についての批評を述べられた

「今度の三人の働き、舎人助が第一、荒川が第二、彦部がその次である。
大勢押し寄せた中、一番に励んで押し入った性根は勝れている。相手は下人であったが、それは外からは
知り難かった。小座敷の両口を二人で堅めているというだけで、どちらに武笠が居るか知り難かった。
押し入るとそのまま楯突く者を相手にするとなれば、たとえ二人の者共が一所に立ち並び斬り向かったと
しても、少しも臆するような者だとは思われない。生死は運による事なのだから、たとえ討たれ斬死しても、
抜きん出た志は無類の誉れである。

荒川は主の武笠と組んだので、その功は上と言われるだろうが、常の作法とは吟味が違う。
常の法であれな、主従高下は遥かに隔たり、その状況での働きであれば、主を討ったものを上とし、
下人を討ったのを次とする。これは戦場、野合の場合である。それであっても、その場その時の緩急難易の
違いはある。殊更今回、主従の居所が解らなかったため、押し入った志の次第を吟味するに、
荒川は「舎人が組みたるを」という言葉を聞いて飛び入った。尤も荒川も心が臆していたわけではない。
待ち構えている所に、舎人が踏み入り、下人を取り詰めたのを、武笠がこれを助けようとした時に、
荒川に飛び入られて動転した所を、荒川は引き組んだ。舎人の働きほどではないが、普段から
「天晴人に劣るまじ」と心に油断無き故に、舎人に続いて間断なく押し入った故に、武笠も下人も
助け合う事が出来なかった。然れば第二の働きである。

彦部勘左衛門は、荒川が組み漏らさないとする所を助けて、取り堅めた事、勝負の結果の働き、
尤もの事である。であるが、舎人、荒川両人にて二人の者を組み、彦部には逢い手が無かった。
しかし荒川に劣らず急いで押し入った事であり、分別に於いて遅き心根では全く無い。今少し早ければ
必ず武笠と組んでいただろうが、それは荒川に越されたと言うだけである。一方で遅ければ、荒川は
禍に遭っていたかも知れず、それを助けたのは良き心繰りである。

さてまた、舎人は相手を一人で取り堅めたが、荒川は取り堅め難く見えるを以て、彦部はこれを助けて
ようやく両人にて取り堅めた上に、大勢が重なって刀脇差を奪ったという。荒川以外が太刀を打つのは
武士道不穿鑿である。

舎人の相手は舎人より力がなかった故に、抑えて縛ることが出来た。
荒川は武笠と力量が同じくらいであり、そのため取り堅めかねたのであろう。
人の力量は勇臆で異なるわけではない。その場その場の様子を以て、志の浅深を穿鑿して、勇の上中下を
定めることが尤もであると、私は存じている。各々は如何思し召すか。」

と申されると、一座の衆も、尤もと感じ入られた。この事は景勝公のお耳に達し、藤田を召し出され、
「少しの事にも、諸人が勇むように、善悪を能く批評して、勇怯を正しく穿鑿仕ること、偏に忠勤の
志浅からず。」と、呉服十重を下された、そのうち三重を舎人助に、二重は荒川に、一つは彦部に
配分された。能州の武士道の吟味、諸人の勇気を励ます事、このようであった。

管窺武鑑



328 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/22(木) 10:07:29.15 ID:3kVbbLt2
>春日山下町において上杉景勝公の御小姓衆と喧嘩を仕出した。武笠は郎党と二人で相手を三人斬り殺し、五、七人を追い散らして


最低でも景勝の小姓衆は8人は居たわけだけど、年端も行かない前髪だったとかで主従2人の武笠に遅れを取ったのかな?
8対2で遅れを取るって相当だけど小姓衆の顛末はお咎め無しだったのだろうか?また、喧嘩に至った発端も気になる。

花の慶次で景勝の小姓13人が慶次1人に全滅させられて、13対1で遅れを取るとは何たる醜態と兼続から評されてたけど、実際この事件で生き残った小姓衆も面目が立たない希ガス

謙信公が遺言の如く、弓箭の神と成り給い

2021年07月20日 17:31

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/20(火) 16:26:19.98 ID:iLrxlNOV
天正十七年(1589)、上杉景勝による佐渡攻めの時のこと

景勝公は六月十日、佐渡国沢根の湊に御着岸され、先衆の構築していた陣城に御旗を立てられた。
直江、泉澤、島津、小倉喜八郎、そして景勝公が御渡海と聞いて、吉井城の城主はその前からの
先陣からの攻撃にさえ手こずっていたためこれを恐れ、早々に城を開いて羽持へ逃げていった。

十一日、十二日は御休息。十三、十四の両日、河原田佐渡守をはじめ、北佐渡衆は景勝公に
御礼を申し上げた。
十六日、南佐渡を御退治あるべしと決定された。

そのような所に、越国御留守大将である甘糟近江守(景持)より、奇異の注進があった。
去る十三日暮れ方、毘沙門が夥しく鳴動した後、五尺(約150センチ)廻りほどの光る物体が
一つ飛び出た。その跡から大小五、六千の光る物が列をなして続き、佐渡の方へ飛んでいった。
これは越国の諸人が、確かに見たものである。

「これは定めて、謙信公が遺言の如く、弓箭の神と成り給い、光を輝かせ加護されること明瞭である。
今度の戦は全く御勝利疑いなし。」

そう、下民に至るまで喜悦謳歌したという。この事は広く申し上げられた故に、敵味方ともに知らぬ者は
無かった。この事口伝。

管窺武鑑

軍神謙信公出撃の模様。



311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/20(火) 16:31:34.88 ID:oSNL/R0z
故光瀬龍が知ったらこのネタを元にSFを書きそうな話だな

312 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/20(火) 16:56:47.72 ID:FdJyY6Im
時期的にみずがめ座η流星群か、うしかい座流星群とかかな?

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うぬは北斗七星の横に蒼く輝く星が見えるかな?

景勝公も御上洛然るべし

2021年07月18日 17:48

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/18(日) 13:30:08.25 ID:mTDifYH3
秀吉公は去年(天正十三年)、越中より落水までお越しになり、上杉景勝公と会見された。
その後も秀吉公より浅からず御心入あり、御和平の状態であるから、景勝公も御上洛然るべしと、
宿老衆が申し上げると、「尤もである」と思し召され、御上洛あるべき旨を、先立って仰せ入れられると、
秀吉公は悦ばれた。

天正十四年四月下旬、秀吉公より御礼のため、また木村弥一右衛門(吉清)を差し越された。この時も品々
御音物があった。

同五月十一日、景勝公は春日山を出発された、御供の人数、僅か五千足らずを召し連れられた。
これには御底意があった。木村弥一右衛門も御供した。秀吉公よりの、道中の御馳走は

一、越中は木村が請け取って、越後衆上下を賄い仕った。観世太夫、今春太夫を連れ、
  御宿ごとに、隔日に能を仕った。(尾山に於いては城主の前田又左衛門(利家)饗応)
二、加賀まで、石田治部少輔(三成)が御使に来た。
三、越前までは、増田右衛門尉(長盛)が御使に来た。
  付・北ノ庄にては堀久太郎(秀政)饗応、府中は木村常陸介(重茲)、敦賀は大谷刑部太夫(吉継)饗応
四、近江でも大谷は諸事御馳走した。その中でも大溝では、その城主が饗応した。

五月二十七日、洛陽(京都)本圀寺にお着きになり、その夜、秀吉公が忍んでお出でになった。
御礼の御盃を出すと、秀吉公は頻りに御辞退あったが、景勝公の御盃を戴き、直江(兼続)に御盃を下され、
その盃を無理に取り上げて召し上がられた。その他の衆をも召し出され、御盃を下された。
明日、聚楽に景勝公が御出になることを御約束された。そして今夜、景勝の旅館に秀吉公が忍んで
来られた事について口外しないようにと仰せ合わされ、御帰りの時、御次の庇門に、梅津宗賢が伺候
していたのを御覧になると

「これは川中島合戦の時、武田典厩(信繁)を討ったと聞く梅津宗賢であろう」

と言って銚子を乞い、御盃を下された。
諸人、これを不思議に思った。かの梅津は譜代の士であり、他国へ行ったこともなく、秀吉公が
見覚えているはずがないと、様々に沙汰されたのだが、これについて藤田能登守(信吉)が、
南詰宮圍に申し聞かせた事には

「秀吉公は、越後衆入洛の様子を御見物されるため、粟田口の町に御出になったと聞く。
上方には関東、北国の者も多くある。この方面を見知った者を御側に於いて、尋ね問うて
見置かれたのであろう。私の推量ではあるが、恐らく間違っていないはずだ。
奇妙不思議などというものは無い。理の本を吟味し、我心に落として、他のことを計るべきである。

秀吉公のこの事は、名誉であるとは言えない。そういった御志があるのを感じ、御大将の器に
応じていると誉める事こそ、正道である。」

と申された。

景勝公の在京中、秀吉公より御賄として木村弥一右衛門を付け置かれ、御馳走された。そして
秀吉公の御指図にて、景勝公は宰相に任じられ、直江は四品に叙し、藤田、安田を初め七人が
五位に叙し、七月に御帰国された。

管窺武鑑

上杉景勝の初上洛について。景勝のときにも秀吉はその宿舎に忍んで来るようなことやってたのか。



真田の詫び言を御許容され

2021年07月15日 17:58

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/15(木) 14:23:05.84 ID:tKhjrNPc
天正十年、本能寺の変後、信州の真田(昌幸)、小笠原、蘆田らは上杉に降ったが、すぐに北条に随心し、
真田はまた北条を背いて、家康公に属した。これによってその年の極月より翌年まで、上州沼田を始め、
八ヶ所の城を乗っ取り、剰え北条家との数度の攻め合いに真田は勝利した。大いなる誉れである。

その翌年、天正十二年、家康公と秀吉公は御弓箭を取り給う時(小牧長久手の戦い)、北条家は
家康公より加勢を乞われたが、北条氏政・氏直は表裏の大将故遅達した。
この年の御取合はその度毎に家康公が御勝利し、秀吉公は退散された。
これによって、その年、天正十三年春、北条より家康公に仰せ入れられた

「羽柴と重ねて御取合となった場合は、加勢致すであろう。しかし先年(天正壬午の乱の)和睦の時、
上州は北条家に賜るはずの所、真田は沼田を取って保持している。それをこちらに渡すように、
仰せ付けられ下さるべし。」
との儀であった。

これによって家康公より、「沼田を北条に渡すように」と仰せ遣わされたが、替えの地を真田に
下されなかった事で、沼田を渡さず、ここに於いて真田昌幸上杉景勝公に、須田相模守、島津淡路守の
両人を頼んで訴え申し上げた。

『先年志を翻し、北条に頼った事は、愚意の仕る所であり、これについて述べるにも及びません。
しかし、もし御赦免頂けるに於いては、当年十八歳になる愚息・源次郎(信繁)に、百騎を差し副えて
永代御被官仕り、春日山に差し上げ申します。

これこれの仔細を以て、家康に対し野心を挿んだために、家康より上田へ手遣いがあるでしょう。
この時貴国より、御加勢を請け、御助成を得たいと思っています。然るに於いては、今後は
御屋形(景勝)に対し、悪意を存じまじき」

という旨を、牛王誓詞を添えて、新発田表の御陣所へ申し越した。

景勝公はこれを聞かれると、仰せに成った
「真田の事、先年上杉に背いて北条に従い、北条を非に見て、家康に降り、今度は家康に不足を言い、
家康より打ち手到来という状況になって、現在近辺に頼る者が無くなってしまったことで、又この方に
申し越してくるというのは、万策尽きての儀であると考える。

しかし、武士は大小共に頼み頼まれて、家が絶えないように分別するものである。
今回、私が同心しなかった場合、十方より敵を受け、殊に名将である家康に対し盾を突いたのだから、
真田の滅亡は疑いない。それを見捨てるというのは、一つには不憫であり、また一つには景勝の
弓矢の規範とも異なる。その上加勢を遣わさなかった場合、小身の真田を見捨て、大身老巧の家康に
気兼ねをしたのだと評価されるだろう。」

と仰せになり、真田の詫び言を御許容され、御加勢なさると堅諾された。これによって新発田表より
御帰陣された。

管窺武鑑

上杉景勝は何事につけても面目とかプライドを大事にする話が多いですね。



信長公の御眼力も相違していたかのように

2021年07月14日 17:45

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/14(水) 15:20:34.80 ID:5gAw/g0d
佐々内蔵助成政は秀吉の越中征伐の結果降参し、命を助けられ、同朋衆となって二年ほどあったが、
この時秀吉公は思し召された

「昔、信長公に召し仕われた時には、私よりも上位の者であったが、今はこのようになった。
これは私の弓矢の威光故である。もはやこのように成った以上、このまま差し置いていては、
信長公の御眼力も相違していたかのようになってしまう。」

こうして九州平均の後、天正十五年六月、肥後一国を成政に賜り、陸奥守と改めて、肥後熊本に
在城した。

ところが佐々は、国の政道悪しく、諸事逆絽である故に、肥後国菊池郡の隈部親永・親泰父子が
一揆を催し、佐々を追い払おうとした。
佐々は単独でこれを鎮定する事ができず、秀吉公はこれを聞かれ、梁川城主の立花飛騨守宗茂、
その頃は左近将監と申したが、加勢を仰せ遣わされ、押し向かって勇功を顕した。
その後浅野弾正(長政)を遣わされ、一揆悉く退治有って、肥後国を加藤虎之助(清正)に賜り、
佐々は摂州尼崎まで呼び上げられ、彼の地に於いて切腹仰せ付けられた。

管窺武鑑

佐々成政を敗将の立場のままにしておくと信長の権威にも傷がつく、みたいな発想もあったですね。



846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/15(木) 00:53:04.43 ID:Wi+6/tQp
成政を肥後の統治者にするにあたっての箔付けや
周囲からの反発を抑える意味合いもあったんじゃないか?
秀吉は成政に期待して肥後を与えたようだけど
抜擢に対して名分的な物があるにこしたことはないだろうし

秀吉からの和平の呼びかけについて

2021年07月13日 18:35

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/13(火) 17:47:39.63 ID:YdDzYbfJ
羽柴秀吉公は越後柏崎・妙楽寺の御坊をお頼みになり。木村弥一右衛門(吉清)を差し副え、上杉景勝公へ
和平についての御取扱を仰せ越された。

この妙楽寺は日蓮宗の智識であるため、景勝公も御懇になされ、御出陣の時に彼も具足を着て、
日蓮上人自筆の曼荼羅を差物にして供を仕り、武道も標準以上の巧者であり、合戦で斥候として
敵を見積もられた事も、二度三度とあった。

しかし、この秀吉からの和平の呼びかけについて、景勝公はこのように思し召された
「謙信公が切り従えられた国々の内、未だ五分の一も自分の手に属していない中、
現在天下に猛威を振るう秀吉と和平を結べば、それ以後、その国々を切り取ったとしても、
世間では景勝の鋭鋒のためとは言わず、秀吉の太刀影を以て。そのようなことが出来たのだと
評価されるであろう、」

そして秀吉方より使者が再三仰せ越されたのだが、その儀に応じなかったのであるが、
この年の九月上旬、また木村を以て仰せ越された。その内容は

 一、内々に申し入れていた通り、和平を是非御同意して頂きたい。もし疑わしく思し召されて
   いるのであれば、秀吉自信がそちらに罷り越してでもその疑いを解こう。無二に
   申し合わせたい心中である

として、熊野牛王に誓詞を認めて差し越された。

 二、和平が出来なくなれば、北国筋の働きはどうするのか。越中の佐々内蔵助(成政)は、
   信長公の厚恩を受けながら弔い合戦にも罷り上がらなかった。私が君敵の明智を誅伐
   したのだから、私に対しても一応の礼儀があるべきなのに、そのような事もなく、
   信長滅亡を却って悦び、柴田、滝川と言い合わせ、各々の居館に引き籠もり、私を
   非難すること、法外であり人倫の道ではない。であるので、去年正月、滝川を悉く
   仕詰め、長島一城に追い込んだ時、柴田が江州に討って出た故に、賤ヶ岳に馬を向け、
   一戦を遂げ勝利を得、直ぐに越前北ノ庄に追い詰め成敗したこと、これも去年四月である。
   偏に上を軽んじ、我が身の邪欲に引かれた逆心の不義は、天刑遁れ難く、あのようになったのだ。
   佐々も同罪であるので、成敗するのだが、その時に佐々が隣国を頼るとして、上杉家に対し
   御加勢を乞うてきても、御同心の無いように、一向に頼み入る。

この二ヶ条を申し来た事について。景勝公はこのように仰せに成った
「越中への加勢の事は、秀吉公より言われるまでもないことだ。去々年の夏、魚津城において
佐々成政の攻撃のため、私の家臣たちが自害したことについては、秀吉も聞き及んでいるだろう。
その弔い合戦のため、我々こそ早々に越中へ攻め寄せるべき所に、信州への出馬、国内での
新発田との戦い、そして今年、佐渡への働きも中途であり、遅々に及んだことは、心外の至である。

越中は謙信が切り取った国であるので、本来なら景勝の手柄によって切り従えたいものなのだが、
佐々の不義の様子を委しく仰せ越された以上、秀吉の働きを抑えるのもいかがなものか。

ではあるが、景勝が働きを止めてしまうと、「遂に越中へ手勢を遣わさず、秀吉に渡した」と
言われることも無念である。そこで今度、越中へ出馬し、越後家の弓矢を木村弥一右衛門に見物させ、
上方への土産の物語とするように。」

と仰せに成られた。

管窺武鑑

和平には消極的だが佐々成政に与しない姿勢を見せた、という事かと



軍八という名について

2021年07月12日 18:36

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/12(月) 14:48:58.57 ID:A0+ls0qT
私(著者・夏目軍八定房)の軍八という名について、藤田信吉が語り聞かせてくれた事によると、

「私に縁のある神保主殿殿が幼い頃、上杉謙信公の越中御発向の御備えに召し連れられ、
十七歳の春、御使番役で武功の者であった長尾甚左衛門討ち死にの跡を仰せ付けられたのだが、
これについて、使番の相役の衆一同が、このように申し上げた

「我々は御使番役を、御吟味の上で申し付けられたと存じており、忝なく思い、働いていたのですが、
そこに東西も知らぬような童を同役に仕ること、考えられぬことであります。
憚りながら我々を一人ずつ召し出されて、御穿鑿なさって下さい。為景公より御当代に至り、
戦場の数が十五度以下の者は無く、御感状も八つ、九つ、十通に余り頂戴致しております。

であれば、我々を御成敗されるか、御追放なされた後ならともかく、かの倅と同役など、罷り成りません!」
そう、御城へ詰めて、奉行衆を以て言上仕った。

謙信公はこれを聞かれると、彼ら全員を召し出され、直に仰せ聞かされた
「内々にこの事を言い渡そうと思っていたのだが、その前にその方共より言ってきた事、家の弓矢盛んなる
故であり、吟味深い。」と御悦びになり、物頭や奉行達何れをも召し集められ、聞き手とされ、
重ねて仰せに成った事には

「その方達申す如く、使番、物見番の使者は私の眼目、片腕とも思うほどの者でなければ申し付け
難いものであるから、随分吟味穿鑿した故に、前々より各々に申し付けた。

今回、甚左衛門の後役についての吟味をしたが、武役を勤める者の中に、残念ながら各々と同役に
すべきと思うほどの者を思いつかなかった。だからといって五度七度、合戦で首尾を合わせた程度の
若者に言いつければ、各々は相役に不似合いであるとして、腹立ちを覚えると思い、そこで未だ
そういった評価の一切無い若者の主殿を、私の眼力にて申し付けたのだ。各々が指導すれば、
後々は必ず仕損ずる事のない者であると思い、申し付けたのだ。」

と宣われた。これに対して御使番の者達は何れも「斯様の思し召しとは中々考えず、忝なく思います。
随分と指導いたします。」と御請け申した。

謙信公の眼力は相違なく、その翌年、永禄十一年四月二十日、加州に御発向して尾山城攻めをされると
して、垣崎和泉(景家)、吉江喜四郎、本越越前、甘糟近江(景持)の四人を頭として押し寄せた。

(中略)

翌日、十二度の攻め合いに、かの神保主殿十八歳、甘糟近江守の手の検使として、大石播磨と
両人で行き、三度は一番に槍を入れ、五度は五度ながら敵を討って首を取った。その二度目で
組み合った時には、自分の脇差を敵に取られたのを、また押し込んでその敵を討って、脇差を
取り返した。この時深手を負い、その後の二度の攻め合いでは、旗本に帰って敵と手を合わせなかった。

この戦いの落着の跡、神保への御感状には
『十度の攻め合いに十度合わせ、首尾の内三度は緒軍に先んじて槍を入れ、剰え高名八つ、
そのうち二つは采配首であった。千強を越え萬剛に勝る働き、無類の誉れである。
謙信の眼力が相違無かった事、併せて欣然莫大の至りである。』
との文章が、黒々と書かれてるものを頂戴した。その時、主殿の名を改め、「軍八」と書きつけて
下された。そしてこれを渡される時

「大唐の武備に八陣がある。これを知って用いれば、国法、軍法共に、この理に漏れる事はない。
即ち一心の神是である。であるが、その深理を会得して行う志が無い故に、弱人となり悪人となる。
これを能く胃に落とせば、心身明潔、治乱常変の善悪を知る。陣は軍であれば、八陣を自分の名に用い、
常に忘れず怠らず、心を砕き身を修め、鍛錬の二文字尤もである。」

と仰せ聞かされた。それ以後、数度武勇を顕し、天正五年、能州七尾城にて、大剛の働きをして
討ち死にされ、その名を残した。
その軍八に、似られるようにとの心である。帰陣の時、景勝公に呈上しよう。」
と、舎人に申し渡された。

(管窺武鑑)