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御家中親子方迚、家康公ハ信長方、信康公ハ勝頼方也

2021年07月18日 17:47

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/18(日) 15:58:49.02 ID:JzsDNW3T
若宮(岡崎投町)ならびに観音の由来。元禄6年に再興これあり。ならびに鳥居は北向に成立、
昔はこの所を根石原という。すなわち観音堂あり。

天正7年頃、岡崎三郎信康公、同御母築山殿の御生害につき、信長公家康公より御吟味あり。
御家中親子方として、家康公は信長方、信康公は勝頼方なり。

(御家中親子方迚、家康公ハ信長方、信康公ハ勝頼方也)

御家中は勝頼方へ逆心無き旨を身血にて起請文を書き申すとして、投村は当時は大塚村といい、
この観音の前で書きけり。今の東の方田の所、その頃は野であったこの所で書いた。

その後、三郎信康公、同御袋築山の亡魂による御城への色々のケザシあり。諸寺院にて御祈念
御弔があったが鎮まらなかった。この時、観音堂の森の内に若宮八幡の勧請を申し達し、御袋
様には40間北に神明を勧請申し奉ったところ、ついに収まった。

これ以後、若宮八幡とも、また起請宮ともいう。神明は岡崎城主水野監物殿の御代、正保時代
に欠山に移し奉る。

――『三河東泉記



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三郎殿、築山様の事

2021年07月17日 18:18

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/17(土) 14:01:10.78 ID:g/7Ali2z
一、築山様は関口刑部殿(親永)の御息女、御娵子様は信長公の御息女(徳姫)でかねてより
  御仲も良くなかった。
  
  信康公がヨウシ(「楊枝」か)を落とさせ給いし時、御前様に御取り給われと御申しにな
  るが御返事もなくおられた。信康公は局を大いに御叱りになり、「諸事仕るに付け悪しき
  によりこの如し!」と仰せられた。

  (徳姫は)その事をふくれて、信康公の御事ナケ状を書いて信長公へ遣わした。信長公は
  驚かせ給いて、家康公の御家老へ申し来たり、御袋築山様と御一味の事が顕れて信康公は
  遠州二俣清立寺で、天山山城守が介錯して切腹なされた。

  大久保七郎右衛門(忠世)、二俣の城主平岩七之助(親吉)、この両人が検使、(その他
  に)成瀬吉蔵、服部中務などである。そのため、大久保七郎右衛門と平岩主斗両人ともこ
  の報いにて、相模守(大久保忠隣)と申して小田原にて落居、主斗は跡絶えけり。

  築山様は野中三五郎(今ハ水戸ニ有)、酒井図書(今水戸ニ有)に仰せ付けられ自殺なり。

一、小河城主の石川修理亮、子の豊前守一同に切腹を仰せ付けられ候。  

一、天正3年、参州岡崎にて大岡弥四郎(大賀弥四郎)逆心の事。

一、天正3年の秋、家康公御父子の御仲不和にならせられ、服部半蔵岡崎に仰せて岡崎を退か
  せ給う。年号相違なり。勝頼(武田勝頼)も期日を極めて足助まで来たが、この事を聞き
  付けて甲州に引く。

  三郎殿の御前は信長の御娘にて、京の本多下屋敷にて80に及び死去なり。

  ――『三河東泉記



848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/17(土) 14:20:30.15 ID:eZj1fNgG
信長がこんなことで切腹させるわけないよなぁ
部下の家庭環境にまで気を配るのに格下とはいえ同盟相手にそんな命令出すはずない
秀忠が春に産まれてその秋に腹切らせてるんだから、そもそも後継者として考えてなかった信康が血統的にも邪魔になったから家康が始末したんだろ

逆心の企みは

2021年06月19日 18:06

築山殿   
815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/19(土) 17:30:35.32 ID:J7jDc0MV
この節、家康公は浜松におられ、天正3年には岡崎は三郎信康公、御守は小河の城主・石川備前守(数正)、
平岩七之助(親吉)などなり。家康様の御前・築山様は菅生の築山に御屋敷あり。信康公の御屋敷は城外の
北東に当たってあり、今の久右衛門町である。この節、御前築山様が御留主にて、殊に御仲も不和なりし。

その頃、甲州より口寄せ巫女数多来たりて、家中町村を廻って口寄せした。この時、勝頼(武田勝頼)より
巫女を騙して築山殿の御内にて下女に色々取らせて取り入り、下女より中間に取り入り、後には奥上﨟たち
までにいろいろの進物を致して取り入り、ついには御前様に御目見え申し上げてよく取り入り、折を見合わ
せて申し上げるには、

「もし御前様が今度勝頼と御一味なされば、(欠字)御前は天下の御台と備え天下無双に仰せられ、若殿は
若君と天下を仕り相譲るべし」と申し上げた。

その頃、西慶と申す唐人医がいて御屋敷へ節々出入りし御前様の御意に入った。これを談合して巻き込み、
大将分は大岡弥四郎(大賀弥四郎)が欠村に居り申し、松平新右衛門、江戸右衛門八、渡利村の小谷九郎左
衛門が大将にて申し合わせ、勝頼から知行の御判を取りかため申したのである。

時にその頃、(此処三字不知)城主は鳥井久兵衛で小谷もこの家来だった。朋輩に山田八蔵という者がいて、
ある時にこの者と九郎左衛門が取り分け入魂なれば「その方なども某どもと万事一味すれば、終いには欠綏
もせ申すべし」と申した。この時、山田八蔵は喜び「左様のことならば、何様にも一味仕り申すべし。ぜひ
ぜひ頼み入る」との由を誓言して申した。この時に九郎左衛門は山田八蔵を一味した。

逆心の企みは岡崎の城より南の方の吉良庄に旗百本ほどを並べて人数を見せかけて、甲州勢を城より北の足
助大樹寺口より引き入れ、城中では南表へさばき出る所を見て、北口より押し入り、城を固めて城外を放火
し、いよいよ甲州勢を入れ、三河を甲州へ取る企みであった。

この事を九郎左衛門が山田に話して同心となり、勝頼より2万石の御判を取り申したのである。

――『三河東泉記』

続き
捨て置けよ。新右衛門は退く者にあらず


信康事件について

2020年07月08日 17:45

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/08(水) 13:20:09.92 ID:sYb4nnxC
天正七年、岡崎三郎(松平)信康(家康公一男)が牢人された。これは信長の婿であると言えども、父家康の
命を常々違背し、信長公をも軽んじ奉り、被官以下に情けをかけず、行いが非道であったため、その旨を
去月酒井左衛門尉(忠次)を以て信長に内証を得た所、「左様に父、臣下に見限られている上は是非に及ばず、
家康の存分次第にせよ。」と返答された。

家康は岡崎にお越しになると、信康を大浜に退き下らせ、岡崎城へは本多作左衛門を移した。信康はこの措置を
当座の事と心得られていた。家康公は西尾の城に移られ、信康は遠州堀江に移され、さらに二股に移られた。
九月十五日、彼の地に於いて生害された。信康の母公も浜松に於いて生害された。

当代記

信康事件について。ここだと酒井忠次は家康の指示で信長の意向を尋ねたという事になっていますね。