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細川勝元、料理の賞翫について

2014年03月19日 18:58

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/18(火) 21:38:28.03 ID:9DuFYx0x
幕府管領である細川右京太夫勝元は、一家無双の栄耀人であり様々な遊興に財宝を費やし、奢侈の聞こえも
あったという。普段の珍膳・妙衣は言うに及ばず、客殿屋形の美々しきこと、言語道断であると言われた。

この勝元は常に鯉を好んで食されていたので、家来の大名たちは勝元におもねって、数えきれないほどの
鯉を贈った。

ある日、とある人が勝元を招いて、様々の料理を尽くして饗した。この時もまた、
鯉を料理して出された。この時相伴の人3,4が、恭しく陪膳していた。

さて、この鯉料理を人々は多く賞翫し、それをよろしき料理であるとばかり褒めたが、
他の言葉がなかった。勝元も料理に一礼を述べたが、この時さらに言葉を進めて

「この鯉は、名物であると感じました。きっと客への饗しのため、使いをはせて求められたのでしょう。
それに対して、この場の人々の褒め様はあまりに無骨です。それはおおむね、膳部を賞翫するまでの
有り様についてです。折角の饗しに、その素材について語らないのは、あっていいはずがありません。

この鯉は、淀より遠来したものであると見ました。その印があります。他の国の鯉は、捌いて酒に浸すと、
一度箸を入れればその汁は濁ってしまいます。しかし、淀の鯉はそうではありません。
どれだけ浸しておいても、汁の色は薄く、濁りがありません。これこそ名物である淀の鯉の印です。

皆さんの中で、重ねてこのような饗しを受ける人が有れば、この勝元の言葉を忘れないようにして
料理を褒められるように。」

そう申された。

誠に淀の鯉のみに限らず、名物は大小となくその徳のあるべきものである。こういった心を持って、
よろずに心配りをして味あうべきであると、その時陪膳した人の子という人物が、ある人の所で
語ったという。

(塵塚物語)

細川勝元の、グルメマンガみたいな料理の賞翫についての教訓。


関連
淀川の鯉


650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/18(火) 21:42:35.02 ID:Ytxw/L/I
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4016.html
淀川の鯉
同じ話のはずなのに勝元の口調が違うのがなんか面白い

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/18(火) 23:34:27.03 ID:AYAz2v/O
ここだけ見たら人畜無害な風流人のようだ

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今日は細川政元の誕生日

2010年12月21日 00:00

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/20(月) 17:50:35 ID:Bz+orXp5
今日は天狗になろうとした管領・細川政元の誕生日らしいので彼にまつわる話を。

細川政元は八幡神と愛宕の観音の申し子、更には聖徳太子の化身である。

元々は政元の父である細川勝元が臨終の際、秋庭備中守元明に語った話だ。
曰く、
「私が死んでも九郎(政元)がいるので心配はいらない。
なぜならあの子は愛宕の観音に祈願した日の明け方、あの子の母の夢枕に聖徳太子が立たれ
「我は聖徳太子である」と仰せになって口の中に飛び込まれた夜から七日目に授けられた子だからだ。
故に必ず威勢があるだろう」
そう、密かに語られたそうだ。

また、蓮如上人が弟子に語った話がある。

曰く、
細川政元殿のことを、人々はみな、聖徳太子の化身と申している。
というのは、政元殿は、愛宕の観音と八幡神とに祈請して授かった子であるからだ。
その九郎政元殿が十二の年に、一宮大輔が九郎殿を奪って丹波へ下ったことがあった。
その夜の明け方の夢に、愛宕の観音よりの歌で、

 君が代を 久しかれとぞ 祈りける 念彼観音の 力にまかせて
(君が代が久しく続け 観音菩薩にそのように祈り託するばかりである。)

とあり、九郎殿は夢に返歌をされて、

 白妙の 雪は積もれど 八幡山 ゆくへ久しく 神にまかせん
(真白な雪がたとえ八幡山(男山八幡)に降り積もったとしても、我が代の行方は遠い将来まで、
神の御意向にお任せすることにしたい。)

と詠まれた。そのような不思議なお方であった」

これらの話から、特に本願寺では細川政元は聖徳太子の化身、観音と八幡の申し子と言われていたらしい。
出典は『蓮如上人行實』所収「空善聞書」。
何故か政元の出生に関して第四四条、第九三条と二度語られている。
細川勝元・政元親子の信仰心の篤さを語る話でもあるが、後々の政元の愛宕信仰の結果を考えると
ちょっと悪い話かもしれない。




文明元年(1469)3月16日、忍びを使って

2010年10月26日 00:01

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 01:11:25 ID:jkxbSDOS
文明元年(1469)3月16日の事。

将軍義政の養子、足利義視を迎えて意気上がる西軍に対し、東軍の総帥細川勝元

「西軍は遠国の兵が多く、長い滞陣に気力も衰え、守備の怠りもあるだろう。」

と、伊賀、河内の忍びの者数百人を集め西軍の陣に忍び込ませ、さらに夜軍の準備をした。

この作戦、忍びの者達のうち西軍総帥、山名宗全の陣に忍び込んだ者が合図の燧火を上げる。
それと同時に西軍の陣を放火、これに混乱している間の夜討ちの軍が攻め入る、という物であった。

時間は五更(夜明け前)、決行の時間である。敵が深く寝ていることを計り、忍びは火を放ち
東軍の軍勢は攻め込もうとしていた…が、

山名宗全はそう甘くはなかった。彼は普段から守りの備えに対し万全を期していたため、
東軍は攻めいること全く出来なかった。
その間に山名宗全自身が甲冑をつけ現れ自ら指揮をし、そのため潜入させた忍びの多くが
殺され、夜討ち軍も逃げ帰ることになったという。


長い応仁の乱の中の、忍者を使った作戦とその失敗についてのお話。