620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/21(水) 04:18:50.68 ID:MTdHNTUu
さて、同年(1520)2月27日に難波より三好筑前守之長が京へ上りなさり、都での威勢は
申しようもなかった。同3月16日、神咒寺より澄元(細川澄元)は伊丹城へ御入りになった。
「この分ならば千年万年」と諸人は思い申していたところに、また高国(細川高国)が近江国の
両佐々木殿(六角定頼・京極高清)を御頼みになって同5月3日に京東山白川表へ上りなさった。
この由を三好筑前守之長は聞きなさり、二条・三条・四条・高倉表へ陣取って心は猛く、樊カイ
の勇みをなされたが、敵は猛勢3万余騎、味方は5千に満たなかった。殊に頼みの香川・安富・
久米・川村は高国へ降参致したので、三好之長は叶わないと5月5日に賀茂の祭りを見捨てつつ
方々へ落ち行きなさった。そうして三好之長父子3人は曇華院殿へ忍び申されたのである。
澄元(細川澄元)は摂津伊丹城で御歓楽されていたが、京の合戦のことを聞こし召し、他を差し
置いて同7日早朝より生瀬口へ落ち行きなさったところ、瓦林対馬守(正頼)は堺津にいたが、
早くも船を拵えて渡海し、逃げなさる御跡を追っ掛けて雑兵以下2百人ほどを討ち取った。しかし
ながら澄元は支障なく播磨へ御退きになった。瓦林方より数々の首が京へ上げられ高国の御感あり。
さて三好之長父子3人は運が尽きてしまったのだろう、その夜の内にどこへも落ち行きなさらず
曇華院殿に忍びなさることは隠れなく、この寺を二重三重に取り巻かれたため、之長父子3人は
腹を切らんとなされたが、「今一度命を長らえねば」と思いなさり、高国へ御詫言を申されて、
誠に儚きことだが降参に参られた。子息・芥川次郎(長光)と同じく弟の孫四郎(三好長則)が
まず寺を出て同10日に高国へ御対面なさり、上京安達の宿所へ入りなさる。同11日に高国は
之長と三好新四郎(新五郎)も御許しになるとして、両人は曇華院殿を出なさった。
しかし、淡路彦四郎殿(細川彦四郎。父は淡路守護の細川尚春で前年5月11日に之長によって
殺害された)が「まぎれもない親の仇だから」と申し乞いなさり、之長は上京の百万遍(知恩寺)
で腹を切りなさった。三好新四郎がその介錯をして、御自身も腹を切った。淡路守殿(尚春)の
迎えり月(一周忌?)にこのようになったため、「ただ人間の因果が巡るのは早きものかな」と
人々は申したのである。同じく子息の次郎と孫四郎のことも、彦四郎殿より高国へ色々と申され、
「降参人を殺すのはいかがなものか」と高国は思し召されたが「それならば生害させなされよ」
と御返事があったので、彦四郎殿の御家来衆はかの兄弟の宿所へ同12日に押し寄せて「御親父
の之長は昨日百万遍で腹を切りなさった! 方々も只今腹を切りなされ!」と申したところ、
兄弟は親のことを聞いて涙を流して、「同じ腹を切るならば一緒に死んだというのに」と嘆き、
ややあって申して「人々よ、しばらく御待ちくだされ。国へ文を送りたいのです」として硯を
乞うと、2人は思い思いに書き留めてある人の方へ渡された。
その有様は、古の早離・即離兄弟が海岸波濤にいた時(南伝大蔵経の説話)もこうだったのかと
思い出されて、一段と哀しみも大きなものであった。そうしてまずは孫四郎が腹を切りなさり、
次郎が介錯をなさった。その後に御自身も腹を切られ、次郎が「侍はお互い様、誰でも介錯なさ
ってくだされ」と申されると、しばらくして槍長刀でその首を取った。
見た人が皆々涙した出来事や、かりそめながら人が死んだ出来事はこれまで七千余(大蔵経)に
記されている。もしこれを御覧なさった人は念仏の一遍も御唱えして供養なさって頂きたい。
あなかしこあなかしこ。
――『細川両家記』
621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/22(木) 04:46:27.17 ID:pTCzHqK1
>>620
息子たちの別れの手紙はちゃんと届けられたのかな?
硯を渡すくらいだから届けたとは思うけど
さて、同年(1520)2月27日に難波より三好筑前守之長が京へ上りなさり、都での威勢は
申しようもなかった。同3月16日、神咒寺より澄元(細川澄元)は伊丹城へ御入りになった。
「この分ならば千年万年」と諸人は思い申していたところに、また高国(細川高国)が近江国の
両佐々木殿(六角定頼・京極高清)を御頼みになって同5月3日に京東山白川表へ上りなさった。
この由を三好筑前守之長は聞きなさり、二条・三条・四条・高倉表へ陣取って心は猛く、樊カイ
の勇みをなされたが、敵は猛勢3万余騎、味方は5千に満たなかった。殊に頼みの香川・安富・
久米・川村は高国へ降参致したので、三好之長は叶わないと5月5日に賀茂の祭りを見捨てつつ
方々へ落ち行きなさった。そうして三好之長父子3人は曇華院殿へ忍び申されたのである。
澄元(細川澄元)は摂津伊丹城で御歓楽されていたが、京の合戦のことを聞こし召し、他を差し
置いて同7日早朝より生瀬口へ落ち行きなさったところ、瓦林対馬守(正頼)は堺津にいたが、
早くも船を拵えて渡海し、逃げなさる御跡を追っ掛けて雑兵以下2百人ほどを討ち取った。しかし
ながら澄元は支障なく播磨へ御退きになった。瓦林方より数々の首が京へ上げられ高国の御感あり。
さて三好之長父子3人は運が尽きてしまったのだろう、その夜の内にどこへも落ち行きなさらず
曇華院殿に忍びなさることは隠れなく、この寺を二重三重に取り巻かれたため、之長父子3人は
腹を切らんとなされたが、「今一度命を長らえねば」と思いなさり、高国へ御詫言を申されて、
誠に儚きことだが降参に参られた。子息・芥川次郎(長光)と同じく弟の孫四郎(三好長則)が
まず寺を出て同10日に高国へ御対面なさり、上京安達の宿所へ入りなさる。同11日に高国は
之長と三好新四郎(新五郎)も御許しになるとして、両人は曇華院殿を出なさった。
しかし、淡路彦四郎殿(細川彦四郎。父は淡路守護の細川尚春で前年5月11日に之長によって
殺害された)が「まぎれもない親の仇だから」と申し乞いなさり、之長は上京の百万遍(知恩寺)
で腹を切りなさった。三好新四郎がその介錯をして、御自身も腹を切った。淡路守殿(尚春)の
迎えり月(一周忌?)にこのようになったため、「ただ人間の因果が巡るのは早きものかな」と
人々は申したのである。同じく子息の次郎と孫四郎のことも、彦四郎殿より高国へ色々と申され、
「降参人を殺すのはいかがなものか」と高国は思し召されたが「それならば生害させなされよ」
と御返事があったので、彦四郎殿の御家来衆はかの兄弟の宿所へ同12日に押し寄せて「御親父
の之長は昨日百万遍で腹を切りなさった! 方々も只今腹を切りなされ!」と申したところ、
兄弟は親のことを聞いて涙を流して、「同じ腹を切るならば一緒に死んだというのに」と嘆き、
ややあって申して「人々よ、しばらく御待ちくだされ。国へ文を送りたいのです」として硯を
乞うと、2人は思い思いに書き留めてある人の方へ渡された。
その有様は、古の早離・即離兄弟が海岸波濤にいた時(南伝大蔵経の説話)もこうだったのかと
思い出されて、一段と哀しみも大きなものであった。そうしてまずは孫四郎が腹を切りなさり、
次郎が介錯をなさった。その後に御自身も腹を切られ、次郎が「侍はお互い様、誰でも介錯なさ
ってくだされ」と申されると、しばらくして槍長刀でその首を取った。
見た人が皆々涙した出来事や、かりそめながら人が死んだ出来事はこれまで七千余(大蔵経)に
記されている。もしこれを御覧なさった人は念仏の一遍も御唱えして供養なさって頂きたい。
あなかしこあなかしこ。
――『細川両家記』
621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/22(木) 04:46:27.17 ID:pTCzHqK1
>>620
息子たちの別れの手紙はちゃんと届けられたのかな?
硯を渡すくらいだから届けたとは思うけど
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