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政宗が無理に取ってしまいました

2019年02月07日 09:40

725 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/02/07(木) 00:59:18.95 ID:3cF+4286
元和六年二月五日付
長舟十右衛門宛 細川忠利書状より

吉田にていただいた水差しですが、政宗(原文ママ)が無理に取ってしまいました。
不便で迷惑しております。
もし国産の水差しができましたら、一ついただきたく思います。
いつもいただいている御道具で数寄を嗜むことができ、忝いことです。

伊達政宗細川忠利から水差しを奪っていたという話。



726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/07(木) 05:35:29.89 ID:RuVOwh95
呼び捨てw

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/07(木) 14:25:34.01 ID:lGDi4mrv
>>725
ワロタw

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 10:11:00.86 ID:JqmSKtn5
DQN四天王迷惑w

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 10:27:57.27 ID:daUYsr3e
中に小便を入れて返すまでがデフォ

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 12:04:18.83 ID:CuHW1AF+
>>725
こいついつも人の物パクってんな
732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 23:42:54.67 ID:WGPZr6ec

>>725
ここは喧嘩両成敗ということで半分にして双方で持とう
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陣佐右衛門一揆の長四郎が首を取る事

2018年06月23日 18:42

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 17:15:43.68 ID:K53k58Oq
陣佐右衛門一揆の長四郎が首を取る事

一揆の長、四郎が首を細川家の足軽陣佐右衛門取りけり。二の丸にて鉄砲に中り、倒れし
者の首を斬りしに、忠利前髪有る首を選り出させ、鞭にて彼首を指し、四郎が首とも覚し
きに、誰か見知りたる、と問う。須佐見権之允、四年以前に四郎を召使いし事の候。紛い
無き四郎なり。左の耳の下に瘤の候。是其証なり、とて生捕りたる四郎が母に見すれば、
吾子なり、とて泣倒れしかば、忠利使を立てて首を石谷十蔵の方に送られけり。後陣に千
石の禄を与えらる。

(常山紀談)

 誰か分かって取ったわけではないのだな。二の丸で銃弾に当たって倒れていたというの
が不審。吉村豊雄『天草四郎の正体」によれば、量産型天草四郎が一杯いたそうだが。

 千石の俸禄を得ているにしては、その後、細川家の家臣団に陣氏って見かけないような。
どうなったんだろう。


川北九大夫肥後国川尻を守る事

2018年06月13日 17:53

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 16:37:50.26 ID:NO0axVvC
川北九大夫肥後国川尻を守る事

細川忠利の士川北九大夫と言う者有り。川尻の代官を勤めよ、となりしに、出陣の時供に
連れられなれば代官の職勤むべし、と言いければ、尤とて、出陣の時供すべし、と定めら
る。天草はややもすれば一揆をなす所と西国の人の言いける事なれば、心に掛けて、川尻
は海辺、船の着く所にて細川家の米蔵あり。天草へ海上七里と聞ゆ。川北兼ねて地鉄砲の
数を調べ置けり。(地鉄砲とは猟師の事也)天草の一揆起ると聞きて、川尻の海岸に一間
に一本宛竹を立てさせ、一本毎に火縄を結い付け、五本に一人の地鉄砲を配りけり。後に
天草にて生捕られし者の言いけるは、其夜川尻の米を取らん為に船を押出して見しに、川
尻に幾らとも無く鉄砲を備えて見えたる故、さては熊本より軍兵の早川尻に来たれり、と
て船を戻しけるとなり。川北なかりせば川尻の米を取られ、天草の糧容易く破れまじかり
しに、川北が謀にて天草の糧早く尽きてけり。

(常山紀談)

 竹を2メートル間隔で立てて、それに火縄を結びつける。5本ごとに一人の地元猟師が担
当。つまり、臨戦態勢の鉄砲隊がたくさんいるように見せかけたということなのかな。
 これで川尻の米蔵を略奪されていたら、切腹が一人や二人ですまない大恥。ナイス計略。

 しかし、天草・島原の乱で、川尻襲撃の準備があったという話は、聞いたことないなあ。
 天草四郎が一揆の直前まで宇土町の郊外に住んでいて、母や姉を連れ出そうと船が送り込まれたが失敗した話ならあるけど。


寛永2年6月17日の。肥後地震被害について

2018年05月16日 21:34

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 19:06:21.10 ID:7w2utxgu
肥後へ御使に被遣御鉄砲衆両人、今日罷もとり候、御書之返事御座候、御文箱を則 を以、
上ケ申候事
肥後に先月十七日の夜、大なえゆり、殿主其外城中の家、から木立斗残り、かわらひき物
も皆々おちくづれ、城中に人五十人ほと死申候、塩硝倉ともずりに火出候て、跡もなくふ
きちらし、あたり五町八町之間の家無残ふきちらし、ゑんせう八万斤の上有之つる故に、
倉の下の石かき何もやねかわら六り五りほとふきちらし申候、斉藤伊豆守殿・防庵の家も損、少しつつ作事被仕候
 (細川家文書 万覚書寛永二(1625)年七月二十一日条)


 寛永2年6月17日の地震被害について、一月後に肥後を訪問した使者が報告している。豊
後時代の執務日誌から。


 50トン近くの火薬を貯蔵していた煙硝蔵が爆発。周囲500から800メートル四方ほどが吹
き飛び、瓦礫が3から4キロの範囲に飛散したという。黒色火薬とはいえ、50トンもあれば、
それだけの被害がでるかな。
 痕跡が残っていそうなものだが。今度の震災復旧で、見つからないだろうか。


 最初の方、「ひき物」というのが、よく分からないけど、建物が柱ばっかりになったと
いうことだろうか。「城中」の死者についても、煙硝蔵の爆発の死者がこれだけなのか、
本丸の建物被害で死者がこれだけでたのか、細かいところでよく分からない。


 地震被害の話なので、当然こっちに。



757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 20:27:04.77 ID:xYUxUbly
>かわらひき物

瓦葺き物かな?

少之御普請も御堪忍、御尤候事

2018年05月13日 17:22

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/13(日) 11:57:27.51 ID:hgZsim4a
寛永十一年(1634)八月晦日 細川忠利書状案

御門わき石垣、はば五六間程くみ申候由、如元可被仰付哉与被仰越候、中々御無用にて御
座候、道へ崩れかかり候はば、人の通候道御座候程にお引のけ候而、少しも少しも石垣御
築直之儀御無用に而御座候、城之見苦事は何方も同前儀候、不被得御意候而は、少之御普
請も御堪忍、御尤候事

 ここでは、父・祖父よりも影が薄い忠利さんを、ダイマ。
 有馬直純から、城の修復について相談を受けたときのお返事。城の修理はくれぐれも慎
重に。ちゃんと幕府の許可を得よう。城のメンテナンスが行届いていないのは、どこも同
じだから気にすんなだって。
 関ヶ原以前に築かれた近世城郭が、数十年を経て、いっせいにメンテナンスが必要な状
況になってきたそうだ。ついでに、この年は家光の上洛で、この種の事務も滞っていたの
だろうな。
 しかし、道を塞いだら、人が通るところだけ石をよけて、あとはそのままにしとけって…




748 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/13(日) 12:19:44.01 ID:mMOiDVzU
>>747
寛永11年なら戦国も終わって太平の世真っ盛りだしなぁ… もうちょっとしたら天草の乱が有るけれど。
しかし、届出してやるにしても金はかかるは幕府に睨まれかねないは、やらなきゃやらなかったでお咎め食らいそうだわ… しかし、平山城も草生えたり木が伸びて道が荒れる事もあるし、お手入れはどうしてたんだろうなぁ
外様大名は辛いわねぇ…

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/13(日) 14:23:41.11 ID:VWNosI8F
草刈りと木の手入れは副産物貰って帰る条件で
むらかた、町方に。
草は家畜の餌とか肥料になるし木は焚き木に使える。

不届者ハかたはしよりなて切りニ

2018年05月11日 08:04

885 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/10(木) 22:34:20.70 ID:BIlSsFh8
肥後へ下候而、新国ニ候間、下々事之外成敗無之候者成間敷候条、不届者ハかたはしよりなて切りニ可仕之由、御年寄衆へも申合候へ共、一人も科人無之候故、至今日、下々迄一人も成敗人無之候、か様之不思議成儀ハ、無之と存事候
 (寛永十年二月十八日 細川忠利書状)

 肥後入国直後の細川忠利の書状から。歯向かう者は、なで斬りにする覚悟だったけど、誰も切らなくて済んで良かったねという話。国持ち大名の改易の時には、誰しもが緊張するものなのだろうか。



886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/10(木) 23:31:00.75 ID:ShWcSbQT
籠城して一戦交えようとする血気盛んな老兵もいるからね

中々あふなき事にて候事

2018年05月11日 08:03

739 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/10(木) 23:39:15.98 ID:BIlSsFh8
一、熊本地震之事、少ツヽ切々淘候へ共、此程者遠のき候、あふなく候て、庭のなき本丸
にハ被居不申候、本丸ニハ二条敷と有之庭ハ無之、四方高石垣、其上矢倉、天守、中々あ
ふなき事にて候事
一、罷下、得 御意、地震屋を仕候庭を取不申候へハ、本丸ニハ被居不申候、此由を柳生
殿へ物語可申候事
  以上
 五月十一日      狩野是斎

 上は、熊大図書館で昨年行われた講演会「細川忠利の領国支配と熊本城」で紹介された
史料。細川家は、なぜ本丸御殿を使わず、花畑屋敷を新設したのかという長年の謎が解決。
建物が建て込んでいる本丸は、地震のときに避難場所がなくて危険というのが理由と。山
を登るのがきついみたいな軟弱な理由ではなかったわけだ。
 加藤家時代の寛永2年(1625)に地震で火薬庫が爆発するなどの大損害を被って、その
後、寛永9年に改易。その翌年には、群発地震にみまわれると、この時期、熊本は頻繁に
地震に襲われたらしい。それで、本丸御殿に居住するのを諦めた模様。
 熊本城本丸御殿の安全性が悪かった話。



740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/11(金) 03:14:55.88 ID:R+xT4pm8
建物もそうだろうし、見るからに崩れやすい石垣だから、
今回の熊本地震以前にも何回も崩れているんだろうなぁ

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/11(金) 10:29:15.22 ID:j2KvLsgt
歴史的に見て、1625年の地震、明治の熊本地震、そして、今回の熊本地震と、都合三度ほど、大損害を受けているという。それより小規模なのは、よく分からない。1625年の煙硝倉爆発は、考古学的な痕跡も残ってそうだけど、発掘調査で出てこないかね。

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/11(金) 13:11:49.28 ID:ScGW0x/W
熊本城は建物詰め込み過ぎで昔から有名だったしな

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/11(金) 13:38:40.04 ID:848BrPl1
その何回かの大地震でも耐えてる石垣があるのは当時の技術でも最先端だったんだろうなあ。

秀頼公が降らせたとしたら

2018年03月04日 21:07

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 18:25:56.35 ID:dDdfXZzE
寛永八年五月八日、江戸にて霰が降る。
この霰はとても大きく屋根をつきぬけ死人が出たほどであるという。
この日は豊臣秀頼の十七回忌であり秀頼の祟りであると皆噂した。
そんなときに三斎様が忠利への手紙に書いた一言
「秀頼公が降らせたとしたら小米ほどの霰にしかならねーだろ」

ひどい言いようである。



576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 21:52:24.34 ID:1/g86kDk
>>575
面白いw

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 02:35:05.49 ID:WZikKtO0
なんで小米なのか説明よろしく

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 08:12:54.52 ID:SRBMFBnt
小物だから、てことじゃダメなのか

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 20:27:09.16 ID:+GYwg/Yu
普通に考えて 、秀頼は高く評価仕様がない

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 22:42:42.32 ID:E7L7esSF
確かにひどいなw

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 23:10:37.02 ID:22URxcVa
後のシャオミである

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 23:12:06.25 ID:ib5vEmNz
信雄や足利義昭のようにはいかなかったんだな。

加藤の亡魂

2017年06月14日 19:00

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:02:25.08 ID:OUrzwPNV
加藤肥後守(忠広)が没落以後は、
熊本の城は細川肥後守(忠利、越中守?)が横領して入城したが、
その後には城内外で家鳴り等がして騒がしかった。
加藤の亡魂が念を残したからだと申し伝わっていたので、
細川公は残念な事であると、菩提寺にある加藤が着ていた具足を乞い受けて、
天守の四重目に納められたら、その後に静かになったとか。


『武士としては』



25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:05:07.82 ID:e6F4knWm
横領とは酷い表現だな

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:34:30.30 ID:WE0HmbYS
「横領」は明治中期以降に出来た言葉らしいが、原文はどうなんだろう

27 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/14(水) 09:53:05.94 ID:xVPK1Uvj
>>22
              :ill||||||||||l:
             :i|||||||||||||||
           /''';:|||||||||||||||||l:、
          /:i  :||||||貞|||||||i `'!
          / :|  :||||||||||||||||||l ノ!
          | ヽ |||||||||||||||||||| :|
          ! !;ヽ:||||||||||||||||||||!; |
      .__|  |/|||||||||||||||||||||; |____
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      | |::::::::::::|:::      ノ }::::::::=::::::| |
      |  ̄ ̄~|:::      川リ ̄ ̄ ̄ ̄ |
      | ̄l ̄ ̄|::::      | ~ ̄ ̄ ̄| ̄|
      |_|:.::.:.:.:|:::::      |:.:.:.:.:.::..:.:.:|_|
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28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 10:16:45.54 ID:TDMsc1AT
忠広の生霊か

「肥後のからしれんこん」

2017年05月22日 18:00

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 20:04:20.94 ID:X+MXQU0X
「肥後のからしれんこん」

肥後国熊本、細川藩初代藩主、細川忠利公は名君で武術の腕も確かだったが、生まれつき食が細く病弱であった。
細川幽斎公・三斎公のように個性的な存在ではなく、どちらかというと律儀で真面目な人柄だった。
少食であることを心配した水前寺の玄沢和尚は、滋養のある食べ物がないかと考えていた。
そこで、加藤清正公が非常食にとお城の外堀で栽培していた蓮根に目をつけた。
賄い方の平五郎というものに煮物にさせ、忠利公に差し出した。
忠利「蓮根か・・・泥の中にあったと考えると、どうも食う気が起きんのう」
玄沢「仏教には、泥中の花という言葉がございます。例え根は泥中でも、そこから美しい花が咲くのでございます!」
忠利「ほう」
玄沢「殿にもここから一花咲いて頂きたいのでございます!!」
忠利「でも無理。こんなの食えん」

続く

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 20:04:44.44 ID:X+MXQU0X
蓮根の煮物を食べてもらえなかった玄沢和尚は、平五郎と相談し、今度は蓮根に衣をつけて揚げてみた。
これは忠利公も多少箸をつけたが、3日で飽きてしまった。
そこで平五郎は毎日飽きずに食べられる、見た目の美しい蓮根料理を考えることになった。
(蓮根の穴に何か詰めたらどうだろう?見た目が美しく、食欲増進効果があるもの・・・)
(そうだ!辛子を使ってみよう。辛子には食欲を増す効果があると言うからな)
辛子を麦味噌と合わせて蓮根の穴に詰め、麦粉・そら豆粉・卵の衣をつけ、菜種油で揚げてみた。
これを忠利公にお出しすると、
忠利「美しい見た目じゃな。どれ、味は・・・」
忠利「ツーンと来て辛いけど・・・うまーい!!!」
忠利「これは誰が作ったのか?」
玄沢「賄い方の平五郎というものでございます」
忠利「すぐにその者を呼べ!」

ごめんもうちょっと続く

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 20:06:48.90 ID:X+MXQU0X
忠利「その方が平五郎か。この料理を考えたのはそちじゃな?」
平五郎「へい。その通りにございます」
忠利「ツンと来る辛さで食欲がわき、非常に美味じゃ。しかもこの断面を見よ」
玄沢「は?断面が何か・・・?」
忠利「わが細川家の家紋、九曜紋にそっくりじゃ。これは縁起が良い。これ平五郎よ」
平五郎「はっ」
忠利「わが細川藩門外不出の料理として、これからもこの辛子蓮根を大事に作り続けてくれ」
平五郎「ありがたき幸せにございます」
その後、忠利公は毎日辛子蓮根を食べて元気になり、辛子蓮根は藩の重要な料理として、明治維新まで庶民は食べられなかったという。
出典はテレ東日曜朝9時~放送のふるさとめぐり日本の昔ばなし「肥後のからしれんこん」より。
今朝、子供とテレビで見て、
「たしかに幽斎や三斎は個性的だなw」
「あの2人と比べたら誰でも地味だろw」
「坊主が上手いこと言ってるんだから、我慢して食えよw」
「いやいや庶民にも食わせてやれよw」
的になかなか楽しい話だったので思わず書いてみた。
庶民は食えなかったが、忠利公の体が良くなったので、いい話スレの方に。



933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 20:49:21.15 ID:z5SDL7DR
子供とそんな話できるのかw

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 21:20:47.97 ID:X+MXQU0X
「この人のじーちゃんは握撃の使い手」
「とーちゃんは手討ちが趣味のヤンデレ」
等は解説したよ。
小学校低学年の娘相手なので、ヤンデレの詳しい解説は控えたけど。

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 21:22:53.77 ID:7UjI6uS0
>>934
いやそもそもヤンデレって言葉を使うなよw

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 21:48:18.87 ID:X+MXQU0X
街中で手を繋いだカップル見かけたら、「爆発しろ」と呟く程度の基本教練は済んでるので、ヤンデレくらい教えてもいいんだけどね。

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 22:56:58.22 ID:k0AZsbIn
>今度は蓮根に衣をつけて揚げてみた。
>これは忠利公も多少箸をつけたが、3日で飽きてしまった。


一度食べたからって同じもの3日も出すなよ・・・

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 23:25:37.77 ID:XWHSy3hI
ケンミンショーで紹介されてた熊本名物のちくわサラダ。
ちくわにポテトサラダを詰めて天ぷらにしてあるんだが、熊本人はアレか?
穴の空いた食材を見ると、何かを詰め込みたくなる習性があるのか?

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 00:00:12.88 ID:rKmpoToj
ポテサラの天婦羅ってのもかなり珍しいな

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 00:58:08.32 ID:7W5Pp/hk
肥後ずいきも突っ込むためのものだしな

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 07:08:37.87 ID:EyVcBlKt
>>939
だがちょっと待ってほしい、それはほぼコロッケの中身ではないだろうか

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 07:26:11.00 ID:rKmpoToj
>>944
ほう君のところのコロッケはマヨネーズで会えたり胡瓜やら玉葱やら入ってるのか
とても変わってるね興味深い

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 07:35:09.11 ID:EyVcBlKt
>>945
いやいや、ポテサラを素であげてみてw
かなりコロッケの中身だからw

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 08:20:58.93 ID:mQhKxntK
穴に詰めたくなるのは男の性

948 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/22(月) 08:55:39.28 ID:Um6DWmHX
石子詰めですねわかります

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 19:21:25.43 ID:v1NKW731
秋田県にはポテトサラダの寒天があるそうだが率直に言うといたく不味そうである…

「功者の料理人」

2017年04月28日 18:08

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/28(金) 02:41:06.00 ID:TMuztBgN
肥後(細川家)の志水伯耆は島原で攻め口の先頭から、にわかに指物を取り
に人を小屋へ遣した。この際、留守に居た料理人がその理由を尋ねた。

使いに来た者はこうこうだからと言い、指物を取って行った。すると料理人は
その使いを追い掛けて、やむなく指物を奪って帰った。

その仔細は、いま急に攻め口に臨んで乗り入ろうという時に、これから指物を
持って行けば、「伯耆は遅れたのだろうか」と、人々に言われるであろうとの

深い配慮であった。そのため、料理人は「功者の料理人」と、言われたという。
この者は老人であったという。

――『武功雑記』


細川さんちが小倉で国産ワインの製造を命じた文書が見つかったというお話

2016年11月03日 15:13

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 22:14:22.27 ID:MIvruat+
http://news.biglobe.ne.jp/domestic/1102/mai_161102_4352371837.html

細川さんちが小倉で国産ワインの製造を命じた文書が見つかったというお話
他にも、「いかにも甘き」ワインを輸入するよう命じた忠利直筆の手紙も見つかったそうです



286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 22:54:54.53 ID:oFK8FDpW
>>285
甘いワインってことはシェリーやマデイラみたいな酒精強化ワインだったのかなあ
野ブドウを醸してワインにしても、あんまり甘くはならないだろうし
忠利が理想のワインに巡り合えたのかが気になる

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 23:06:56.57 ID:wccSttQ4
       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩< 甘き葡萄を栽培しよう!
    (つ徳本丿 \_________
    ⊂_ ノ
      (_)

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 23:07:11.99 ID:RxU77vvr
ドイツの白ワイン(シュペートレーゼとアウスレーゼ)や貴腐ワインなら、文句なしの甘さ

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/03(木) 00:05:13.00 ID:9LycuP5d
そういえば江戸期の茶会では、ワインが「甘味」として出されたとか。

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/03(木) 00:43:33.79 ID:M2mN9eiG
葡萄酒作りの記録は以前から確認されてたけどもうちょっと詳細に古文書で確定って所なんだろうか

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/03(木) 03:07:50.26 ID:Ft/TeWNl
>>286
甲州ブドウは空海が日本に伝えたんだぞ(逸話的には)

嶋原の賊矢文

2016年10月25日 21:22

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/25(火) 05:15:08.44 ID:dsNNs2EC
嶋原の賊矢文


薩州の支、佐土原侯〔島津筑後守〕の臣の某が持ち伝えている、
寛永中の耶蘇一揆のときに、原の城中から寄せ手に射遺した矢文として、
伝写したものを見た。
本書は今なおかの臣の家にあるという。
その文は憎むべきものだ。
これがまさに彼らが賊徒であるゆえんである。


「矢文


『一、当城之土民、宗門ノ為メニ尸ヲ山ニ捨て、名ヲ後代ニ留メント欲ス。
之ニ加ルニ忝モ上使板倉内膳正ヲ討チ奉リ、生前死後之本望、之ニ過グベカラズ候。
冀クハ近日一戦遂、万死ヲ顧ズ、尽ク相果ン。
且又余慢有ルニ依テ、狂歌ヲ綴リ軍中ニ放ツ者乎。一笑セヨ。』


一戦功成テ古城ヲ鎖ス、 三軍ガ死ヲ望テ責レドモ成シ難シ、
九州ノ大勢十余万、   一冬立チ尽シテ花ノリヲ待ツ。


島原や有馬の城を責かねて 心づくしに見ゆる上使衆


肥後守いかに心は細川や なかながし日をあかし暮らして


物数寄は越中流とききければ 敵にあふてはならぬ物数寄


有吉や頼むかひなき先手にて 敵をばうたで味方をぞうつ


信濃路や敵に心をかけ橋の かいがい敷もあぐるせい楼


立花や袖の香ふれし昔より 猶かふばしき武士の道


有馬山すそのの桜咲みだれ 軍は華を散す古城


寛永十五年寅三月日」


(甲子夜話)



細川忠利「うつけ者!」+「おまけ」

2016年10月05日 11:54

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/04(火) 23:20:15.20 ID:EUk1JjrN
細川忠利「うつけ者!」

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3506.html
↑この話で森忠政の跡継ぎになった長継と細川忠利のその後の話

将軍家光公の御上洛の折、森美作守(森忠政)様が京都で亡くなられたのを、
忠利公は代々心安く(森家に)出入りされていたので既に存じられていた。

何某とか名は覚えていないが「最早お亡くなりになられました」と(忠利に)申し上げると
「うつけ者!」とお叱りになられ(忠政が)ご存命のときの如く(森家へ)直に行き
「内々お願いしていた通り、内記(長継)殿ご養子のお願いは妥当だと思われているので
正式に認められるまでの間、少しも気になさらない様に」
と高々と引き受けられ、お帰りの時にご家来共歴々に
「最期のお願いは聞き届けられました、いずれも安心して下さい」とおっしゃられたので
先程叱られていた人も感涙し、その他の歴々ご家来共もまた涙を流しありがたがった。

このような様子だったので、内記様は美作十八万石と津山城を無事拝領された。
内記様という御名も(長継の)御所望にて(忠利の初任官時の官職、内記にちなんで)
おつけになられたと承っている。

――『旦夕覚書』

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/04(火) 23:20:56.20 ID:EUk1JjrN
おまけ

寛永十四年十月十二日 森長継細川忠利書状

「一筆申し入れます。貴方から鹿毛の馬を頂いたとき『よそへやるようなことがあれば
貴方に絶対お返しします』と約束しました。この馬を肥後守(光尚、忠利嫡男)が見る度に
『乗りたい!』と言って借りるので、常時貸すことになってしまいました。
もっとも貸すことはないと言っていましたが、貸したと言っても我らの所にいるのは変わらず
(光尚は他人ではないので)この馬を借りたときのまま約束は破っていません。このことを
お聞きになられて、肥後守に勝手にやったのかと思われたら迷惑なので書きます。恐惶謹言」

――『細川家史料』




223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/04(火) 23:45:37.14 ID:yrg8J4ID
>>221-222
…まあ三斎様の息子らしい、としか言えんw

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 00:29:50.65 ID:gOIwRA7i
できすぎ君忠利

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 01:14:22.18 ID:OZ+2mprs
忠利は優等生なイメージもあるけどやる事はやる

一度後れては3年失せぬ

2016年02月26日 17:14

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 14:59:51.90 ID:BOOoXAE2
島原の役の時、真田信之細川忠利にこう言った
「今回、板倉内膳正重昌が討ち死にした事で、敵を急ぎ踏み潰すためにあなた方を
遣わされるようですが、ただし、手間取って思ったようには成らないでしょう。
そのように心得ておくべきです。

私が昔、忍城の成田氏を攻めた時のことです、
軍勢は勇まず、下知を聞こうとしませんでした。帰陣した後、私は父の安房守(昌幸)に言いました
『あのような腰抜けばかりを選んで私に付けられたので、今度の合戦で勇まないのです。』
安房守は怒って申しました
『若輩者が!何を不智な事をいうか!?それはお前が、去年合戦で後れを取ったためだ。
一度後れては3年失せぬものである!』

今度の島原も、内膳正は討ち死にし、軍勢は損害を受け、みな恐怖心を持っているでしょうから、
軍勢は勇もうとしないでしょう。であれば、手間取ります。
その分別をして、ご出陣すべきです。」

(名将言行録)



239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 15:29:09.86 ID:wJbS32Th
そりゃあ総大将がアレですから

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 16:05:21.65 ID:linV+D2a
>>238
小童!ではないのか。

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 17:55:57.98 ID:DxkpIThN
去年合戦で遅れをとった、て名胡桃城取られたこと?
信幸に責任あったっけ

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 18:23:49.08 ID:rVEZlCrD
沼田の責任者だからだろ

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 18:34:42.29 ID:vERWSTmf
そのお陰で北条攻めの名分が出来たのに…

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 12:16:09.29 ID:fqUtjaJs
>>242
その時沼田は小田原に割譲済だけど?

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 12:27:16.72 ID:nDdVzJi9
つ名胡桃

武将感状記が伝える巌流島の決闘

2015年10月26日 18:50

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/26(月) 02:11:33.31 ID:v7c2s4a3
宮本武蔵は二刀を好んだ。細川忠利に仕え、京都から豊前の小倉へ赴く時のこと。
巌流という剣術者が、下関で待って武蔵に試合をしようと言い遣わしてきた。

武蔵は「心得た」と言って、棹郎に櫂を請い、それを2つに割って手元を削り、
長いものを2尺5寸、短いものを1尺8寸にして、舟から上がって巌流と闘った。

巌流の刀は3尺余りであった。下関の者たちは、残らず囲んでこれを見物した。
武蔵が二刀を組んで巌流にかかると、巌流は拝み打ちに斬りかかったが、
武蔵はこれを受け外して巌流の頭を打とうとした。

しかし、巌流は身を振ったので左肩に当たった。巌流はその勢いのまま踏み込んで
横に払った。武蔵は足を縮めて飛び上がり、彼の皮袴の裾が3寸ほど切れて落ちた。
武蔵は全力を出して巌流を打ち、彼の頭は微塵に砕けて即座に死んだ。

巌流は墓が築かれて、今もその跡がある。

――『武将感状記』

武将感状記が伝える巌流島の決闘という話。




黒田と細川が不仲に成ったわけ

2015年09月19日 12:28

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 21:03:25.49 ID:Vnj4IQdC
稲葉丹後守が諸侯を饗応したことがあった時、細川越中守、黒田筑前守を上座と定めてた。
その当日に至って、取持ちの一人が気づいて言った

「細川黒田は代々音信不通の間柄である。今日の対座、如何すべきか…」

そう評議している所に「両家が到着された」との知らせがあり、ともかく上座へと案内したが、
それから膳部など出たものの、互いに挨拶もなく不興のままであった。

両家がこのような関係になった理由は、島原の一乱にあったという。
この時、細川黒田の両家とも江戸城において出陣の命を蒙ったが、細川家より黒田家に相談があった

「これより直に出立すべきだろうか、それとも一旦帰宅して、それぞれの用意をして今日中に
出立すべきだろうか?」

「我々はひとまず帰宅して夫々の準備をし、出立しようと考えている。」

そう云うので、細川は屋敷に帰った。ところが黒田はそこから直に品川へと出るので、
家来たちに直ぐに品川に駆けつけるようにと命じ、品川に出ると餅の類、その他携帯に便利な食料を
みな買い取って出立した。

その後にやって来た細川家は、既に黒田家が出立していることを知ると、急いで後を追ったものの、
終始追い付くことは出来ず、その上黒田の大人数が、行く先々で食物を皆買い切ったため細川家は
大いに差し支えたという。そして島原に着いても半日出陣が遅れた。

これより両家は不快の仲になったという。しかし近年、和解したそうである。

(明良洪範)

細川家と黒田家の仲が悪いことについて、江戸時代にはこういう説も在ったらしい、というお話。




336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 22:33:14.89 ID:AN7xn6ev
食い物恨みかよ

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:11:07.16 ID:X61MWy+V
細川家のあとに出立した家は大丈夫だったのだろうか、とマジレスしてみる。

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:14:25.97 ID:dvVVq3zU
一緒に走ろうねって言って裏切るのと同じやな あるある

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:26:57.69 ID:xuujyMtY
こういう補給のことを全く考えずに出陣を下命すればそれで終わりっていう幕府が無能なんだよな。
現代の感覚で言えば

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:55:50.68 ID:AN7xn6ev
あほなの?

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 02:06:03.87 ID:+P7FxBVx
お前がね

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 02:41:04.79 ID:vrpbk1yq
細川くん「テスト勉強した?」
黒田くん「いや全然してない(ほんとはめちゃくちゃしてる)」
テスト前の高校生かよ

楯岡光直翁之亊

2015年03月02日 18:27


684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 12:49:07.47 ID:SOa/h9Hp
楯岡光直翁之亊

1622(元和8)年最上家が改易されると、出羽の主立った者たちは国外退去となり、最上騒動の中心人物とされた楯岡光直は、
幕府の命令で九州小倉の細川忠利に預けられることになった。
忠利は、江戸表にいたが国元の家臣に手紙を書いて楯岡光直の処遇についての指示を出した。

「甲斐守(光直)が小倉に着きしだい、百人分の手当てをせよ。
宿舎はしばらくは寺をあてよ。
屋敷については自分がそちらに行ってから申し付ける。
(光直は)家来を百二、三十人も連れているのだから、その心得をするように。
光直は最上義守の※次男にて、義光の弟、其姉は伊達政宗の母堂なり。」

『細川実記』細川忠利の手紙

光直はしばらくは蟄居の身柄であったが幕府から猶予されると忠利に請われ細川家に仕え、その子孫は千石の家老職として明治維新を迎えた。

※義守の次男は長瀞義保(ながとろよしやす・ながとろよしもち)。光直は三男ともされる。




これより両家は不快の仲となったのである

2014年09月03日 18:52

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 00:37:37.74 ID:BVaVGKK7
稲葉丹後守(正往か)が諸侯を饗応することがあった時、細川越中守(綱利か)
と黒田筑前守(綱政か)を上座と定めなさった。

既にその日になって取持衆の一人は気付いて、「細川と黒田は代々音信不通だ。
今日の対座はどうしたものだろうか」と申し、評議する間に、両家ともに入って
来たと申すので、上座へと案内した。

それから食膳などが出たけれども、互いに挨拶も無く不興だったそうである。

その理由は島原一乱の時にある。細川と黒田は両家とも出陣の命を受けた。

細川(忠利)が「これから直ちに出発いたすべきか、帰宿して出発いたすべきか」
と言って相談になり、これに黒田(忠之)は「ひとまず帰宅いたして、それぞれの
用意をし、今日中に出立しよう」と言うので、その約束により細川は屋敷へ帰った。

すると黒田は「これより直ちに品川へ出るので、家来はすぐに品川まで駆け付けよ」
と申し、直ちに品川へ出て、餅の類やその他便利な良い食物を皆買い取り出発した。

その後で細川がやって来て聞いたところ、「黒田は先刻出立した」と申したので、
それから細川は急いだけれども、始終黒田の後になった。かつ黒田の大人数が
先々で食物を皆買い切るため、細川は大いに差し支えがあったということである。

島原へ着いても半日出陣が遅れ、これより両家は不快の仲となったのである。
しかし、近年和親になったとのことだ。

――『明良洪範』



118 名前:117[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 01:55:56.69 ID:BVaVGKK7
>>117
本筋に関係ないけど「便利な良い食物」じゃなくて「便通に良い食物」
と解釈したほうが正しかったかもしれない。(餅類其外便利能食物)

細川忠興「おかしくてたまらぬ」

2013年09月04日 19:53

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 04:27:47.17 ID:P8HCoiTH
恒例の細川忠興から忠利宛の書状ネタ。
 
  あの茶釜を(忠興弟の)興元が欲しがっているようだが、おかしくてたまらぬ。
  興元にあの良さがわかるはずがない。
  あの釜は貴方が思っている以上に良い物だ。
  他の者にやるなどと言わず、是非とも自分に譲って欲しい。
  興元には別の釜をやればいい。

忠興、興元兄弟和解後の元和期に書かれた書状だが、
利休高弟の自負心溢れるいかにも忠興らしいお手紙でした。




270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 09:27:57.80 ID:yDSF2cya
本当に良い釜だったのか?ただの興元さんへの嫌がらせなのか?それが問題だ