fc2ブログ

Wikipediaの津田秀政の項目一部抜粋

2021年02月10日 18:25

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/10(水) 00:35:27.60 ID:dCK4U9vQ
Wikipediaの津田秀政の項目一部抜粋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E7%A7%80%E6%94%BF


慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)、家康に従い会津征伐、関ヶ原の戦いで功を挙げ、3,000石を
与えられて計4,010石余の大身旗本となった[1]。この時、名物唐物茶入の「安国寺肩衝(あんこくじかたつき)」を拝領したが、後に細川忠興に持ち去られた。
細川忠興に持ち去られた「安国寺肩衝」(現:五島美術館蔵)は、寛永3年(1626
年)の旱魃の際に細川忠利から金1,800枚で庄内藩主・酒井忠勝に売却され、領民救済の資金となったと伝わる。

参考
細川忠興と『有明の茶入』


スポンサーサイト



関東の馬のようではなく、弱くて異なるもの

2020年12月26日 18:06

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/26(土) 14:02:32.02 ID:JQ/PrDbx
関東の馬のようではなく、弱くて異なるもの


寛永15年(1638)、九州中の牛が病気で死ぬということがあった。【細川家史料 細川忠利文書四八二九号】
当時の忠利には知る由もなかったが、これは牛疫で西日本で五十万頭以上が死ぬ大流行であったとされる。
同時期に朝鮮半島でも牛疫が流行っており、病気の牛が漂着したのではないかと推測されている。
九州の牛死について詳しく述べている部分を抜粋して意訳。

一、九州の牛死についてですが、(どうせ牛が死んでしまうので)みな一人として世話をしようとせず
  少しも忙しくありません。また牛の薬が来ましたが、薬を飲ませるべき牛もいません。
  そうとはいえ、在所によっては一匹や二匹ずつ牛は残っているそうです。只今は馬に田畑を
  耕させていますが、(九州の馬は)関東の馬のようではなく、弱くて異なるもののようです。
  牛が二万三万も死ぬことはなかったので、(牛を家臣に用意するよう)申し付けることも出来ず
  (自分で)買うことも出来ません。上様(家光)にもどうしようもないことでしょう。
  薩摩の馬を買ったのですが、あちこちで(牛が死んでいるので)、乗る為の馬より高くなっていました。
  これも役には立たなかったので、熊本(城)の普請は止めて下々に知行をやって百姓を助けさせています。
  来年はいかほど(田畑が)荒れるか分かりません。苦々しい九州の様子です。

――『細川家史料 細川忠利文書 五〇二〇号』



徳川秀忠の追善供養に対する違和感

2020年12月01日 19:49

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/29(日) 21:35:00.62 ID:w2E/PteA
徳川秀忠の追善供養に対する違和感


将軍・秀忠が亡くなった際、譜代衆を始め国持大名の中でも追善供養をする動きがあった。
ただ家康が亡くなった際は追善供養をしていなかったこともあり、細川忠利は父・忠興に
追善供養を申しつけられるまで指図を待つことを伝えている。【細川忠利文書 四九〇号】

以下はその後の続報を意訳して抜粋。【細川忠利文書 四九八号】

一、相國様(秀忠)の御弔に、右衛門佐(黒田忠之)・松阿波守(蜂須賀忠英)・浅但州(浅野長晟)
  なども千部経を修したことについて、森作州(森忠政)が申されたので、残らず左様に
  (申し付けられるのならば)どうするべきかと話しました。(忠政は)
  「このほかははっきりと存じませんが、私は不要と強く思っていたので申し付けられませんでした。
   三斎様(細川忠興)も(不要だと思っているので)仰せつけられないでしょう」
  とのことでした。
  
――『細川家史料

『駿府記』から権現様の老いてなお元気な話や怪奇話、珍しい贈答品の話(悪い話を含む)

2020年08月18日 18:42

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/18(火) 18:23:32.60 ID:rP7c6Hcr
駿府記』から権現様の老いてなお元気な話や怪奇話、珍しい贈答品の話(悪い話を含む)
慶長16年
8月13日、朝、御浅間に出られ、鉄砲を放たれた。的を2町より遠くに置かれ、的に5度も当たった。近侍の者はみな、当たらなかった。
午刻に前殿の櫓の上に鳶が止まっていた。鉄砲を放たれ、3発とも当たった。鳶2羽を撃ち落とし、1羽は足を撃たれて飛び去っていった。距離は50間だったという
(江戸在府中の)9月19日、海上に白鳥が多いことを大御所が聞こし召され、鉄砲の上手な家臣を数人召し連れ出御されたが、風波が悪く、お船が揺れ動き、照準が定まらないので還御された
慶長17年
2月3日、遠州堺川にて鹿狩り。およそ5、6千人を引き連れ、大御所は鉄砲の巧みな者数十人を供にして撃たせた。イノシシ2、30頭を捕獲した。大雨が降ってきたので狩りを中止し、浜松に到着した
12月20日、「寒食」(古代中国で、冬至から105日目に、火気を用いないで冷たい食事をしたこと)として麺料理を出したところ、お気に召さなかった。与安法印が策を練り、ショウガ汁を多くして麺を柔らかくしたところ、ご機嫌が直った
同月26日、藤堂高虎細川忠利がお目見え、島津忠恒は「焼酒(アハモリ、琉球酒)」2壺と砂糖5桶を献上した
慶長18年11月18日、鷹狩り。路地において百姓が目安を差し出したので、代官深津八九郎と百姓を御前において対決させ(遂対決)、直に訴えを聞いた。すこぶる代官に私曲があったのですぐに代官の職を召し上げた(24日にも目安あり)
慶長19年4月5日、駿府面前の浜で亀に似た肴が引き揚げられた。漁師が20人あまりで担いで持ってきた。背中は黒く亀甲のようで、頭は犬の顔のよう、尾は三つ叉になっており、大きなひれがあり、腹の色はぶちだった。諸人がこれを見た

12月、このたび、平野の御殿を阿部正次が普請したところ、小壺1個が出土した。壺の中には黄金30両、「金具」9塊、南鐐(美しい銀)100両が入っていた。伊丹康勝が持ってきて語るには「5、60年前に埋めたものではないでしょうか」。発掘された金は阿部が賜った

慶長20年11月10日、大御所は越谷に渡御されたが、お鷹場に水が溜まっており、鷹狩りはなされなかった。このため代官が勘気を被った
12月9日、引き続き中原に逗留。御小人頭の稲垣権右衛門を誅殺した。鷹狩りのときに御鷹を損じたからである



450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 11:45:50.55 ID:SM/T+GPd
>背中は黒く亀甲のようで、頭は犬の顔のよう、尾は三つ叉になっており、大きなひれがあり
マンボウか何かだったのかな

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 12:57:48.29 ID:ChT2jncQ
家康は大将は自ら戦うものではないとか言ってたと思うが、鉄砲が上手かったというのはほんとなのかね?
とこで学んだんだ?

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/20(木) 00:06:44.13 ID:gTXp9QmS
>>451
一揆の頃は自らノリノリで戦ってたよ。人手不足だったんだろうけど
鬼武蔵を打ち取る鉄砲の名人もいるし
教える人はごろごろいたんだろ。

三人目は事の外きらひ申事の由

2020年08月02日 18:15

千姫   
239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/01(土) 18:43:07.48 ID:M3sPawsy
三人目は事の外きらひ申事の由


豊臣秀頼の正室であった千姫徳川秀忠の長女)は、大坂の陣の後本多忠刻に再嫁した。
しかし寛永3年(1626年)に忠刻も亡くして、また寡婦となってしまった。
ところが三年後の寛永6年(1629年)、前田利常との縁談の噂が持ち上がった。【細川忠興文書 七五一号】
利常は千姫の妹の珠姫と結婚し嫡男もいたが、元和8年(1622年)に死別していた。
実際は千姫本人や利常の母である寿福院が嫌がって再婚することはなかったが
その理由について細川忠利が忠興あての書状に書き留めている。【細川家史料 細川忠利文書 三三一号】

一、加賀筑州(前田利常)へ播磨の御姫様(千姫)がおましになる話(縁談)は、筑前殿御母儀(寿福院)が
  事の外迷惑がっています。子細は秀頼様・中書殿(本多忠刻)が亡くなられてしまったので
  三人目になってしまうのをとりわけ嫌がっていて[原文:三人目は事の外きらひ申事の由]
  それが並大抵ではないためまだ済んでいません。その上御姫様も迷惑がっています。

忠興は「迷惑がるのはしょうがないが、嫌と申すような事ではない。もっとも筑州の母だから申し上げた
のかなと嘲笑されるようなことだ」と返書で反応している。【細川忠興文書 七六七号】
千姫は翌年にもいとこの松平忠昌と再婚する噂が出たが、続報はなかった。
この二つの縁談は恐らく、寛永9年(1632年)に亡くなる父・秀忠の意向だったのだろう。



加藤肥後、黒田筑前については別ですので

2020年07月11日 17:25

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:15:57.34 ID:EFbVF9nF
此あぢ分別肝要候事


以下は細川忠興が嫡男・忠利に送った書状の意訳。

  わざわざ申すべきのところ、江戸へ(忠利が)人を下されたので申します。

一、上洛する道中で、羽三左(池田輝政)、羽左太(福島正則)、蜂阿州(蜂須賀至鎮)などの家臣と
  行き違いました。どの家中も我々への慇懃さ(礼儀正しさ)が申せない程(よいもの)でした。
  それにつき、我々が諸大名に(今までのように応対すると)たちまち無礼になってしまうので
  右の衆のほかも(我々の)奉行衆が諸大名に対して無礼がないように、堅く申し触れて下さい。
  横目(監視役)も置いて、無礼の者があれば厳しく申し付けるようにしましょう。ただし成敗はせず
  押し込めてこちらへ申し越されるのがよいでしょう。

一、加藤肥後(加藤清正)、黒田筑前(黒田長政)については別ですので、そのつもりで申し付けて下さい。
  ただし両人の家中も、あなたがその場にいるときは上手く捌いてくることもあるでしょうから
  そういうときは見合わせて指図するのがよいでしょう。もしあの家中の者があなたに対して無礼を
  したのに、こちらの者が両人に対して慇懃にいたせば曲事になってしまいます。
  この案配の分別は大切です。[原文:此あぢ分別肝要候事]

一、右の条々は、一度申し触れただけでは変わらないでしょうから、度々申し触れて下さい。
  岡村半右衛門・中嶋左近・戸田助左衛門にもこの書中を見せて下さい。恐々謹言。
       (慶長十五年)三月廿三日            忠(花押)
                内記殿 

――『細川家史料 一六九八号文書』



政宗が無理に取ってしまいました

2019年02月07日 09:40

725 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/02/07(木) 00:59:18.95 ID:3cF+4286
元和六年二月五日付
長舟十右衛門宛 細川忠利書状より

吉田にていただいた水差しですが、政宗(原文ママ)が無理に取ってしまいました。
不便で迷惑しております。
もし国産の水差しができましたら、一ついただきたく思います。
いつもいただいている御道具で数寄を嗜むことができ、忝いことです。

伊達政宗細川忠利から水差しを奪っていたという話。



726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/07(木) 05:35:29.89 ID:RuVOwh95
呼び捨てw

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/07(木) 14:25:34.01 ID:lGDi4mrv
>>725
ワロタw

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 10:11:00.86 ID:JqmSKtn5
DQN四天王迷惑w

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 10:27:57.27 ID:daUYsr3e
中に小便を入れて返すまでがデフォ

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 12:04:18.83 ID:CuHW1AF+
>>725
こいついつも人の物パクってんな
732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 23:42:54.67 ID:WGPZr6ec

>>725
ここは喧嘩両成敗ということで半分にして双方で持とう

陣佐右衛門一揆の長四郎が首を取る事

2018年06月23日 18:42

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 17:15:43.68 ID:K53k58Oq
陣佐右衛門一揆の長四郎が首を取る事

一揆の長、四郎が首を細川家の足軽陣佐右衛門取りけり。二の丸にて鉄砲に中り、倒れし
者の首を斬りしに、忠利前髪有る首を選り出させ、鞭にて彼首を指し、四郎が首とも覚し
きに、誰か見知りたる、と問う。須佐見権之允、四年以前に四郎を召使いし事の候。紛い
無き四郎なり。左の耳の下に瘤の候。是其証なり、とて生捕りたる四郎が母に見すれば、
吾子なり、とて泣倒れしかば、忠利使を立てて首を石谷十蔵の方に送られけり。後陣に千
石の禄を与えらる。

(常山紀談)

 誰か分かって取ったわけではないのだな。二の丸で銃弾に当たって倒れていたというの
が不審。吉村豊雄『天草四郎の正体」によれば、量産型天草四郎が一杯いたそうだが。

 千石の俸禄を得ているにしては、その後、細川家の家臣団に陣氏って見かけないような。
どうなったんだろう。


川北九大夫肥後国川尻を守る事

2018年06月13日 17:53

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 16:37:50.26 ID:NO0axVvC
川北九大夫肥後国川尻を守る事

細川忠利の士川北九大夫と言う者有り。川尻の代官を勤めよ、となりしに、出陣の時供に
連れられなれば代官の職勤むべし、と言いければ、尤とて、出陣の時供すべし、と定めら
る。天草はややもすれば一揆をなす所と西国の人の言いける事なれば、心に掛けて、川尻
は海辺、船の着く所にて細川家の米蔵あり。天草へ海上七里と聞ゆ。川北兼ねて地鉄砲の
数を調べ置けり。(地鉄砲とは猟師の事也)天草の一揆起ると聞きて、川尻の海岸に一間
に一本宛竹を立てさせ、一本毎に火縄を結い付け、五本に一人の地鉄砲を配りけり。後に
天草にて生捕られし者の言いけるは、其夜川尻の米を取らん為に船を押出して見しに、川
尻に幾らとも無く鉄砲を備えて見えたる故、さては熊本より軍兵の早川尻に来たれり、と
て船を戻しけるとなり。川北なかりせば川尻の米を取られ、天草の糧容易く破れまじかり
しに、川北が謀にて天草の糧早く尽きてけり。

(常山紀談)

 竹を2メートル間隔で立てて、それに火縄を結びつける。5本ごとに一人の地元猟師が担
当。つまり、臨戦態勢の鉄砲隊がたくさんいるように見せかけたということなのかな。
 これで川尻の米蔵を略奪されていたら、切腹が一人や二人ですまない大恥。ナイス計略。

 しかし、天草・島原の乱で、川尻襲撃の準備があったという話は、聞いたことないなあ。
 天草四郎が一揆の直前まで宇土町の郊外に住んでいて、母や姉を連れ出そうと船が送り込まれたが失敗した話ならあるけど。


寛永2年6月17日の。肥後地震被害について

2018年05月16日 21:34

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 19:06:21.10 ID:7w2utxgu
肥後へ御使に被遣御鉄砲衆両人、今日罷もとり候、御書之返事御座候、御文箱を則 を以、
上ケ申候事
肥後に先月十七日の夜、大なえゆり、殿主其外城中の家、から木立斗残り、かわらひき物
も皆々おちくづれ、城中に人五十人ほと死申候、塩硝倉ともずりに火出候て、跡もなくふ
きちらし、あたり五町八町之間の家無残ふきちらし、ゑんせう八万斤の上有之つる故に、
倉の下の石かき何もやねかわら六り五りほとふきちらし申候、斉藤伊豆守殿・防庵の家も損、少しつつ作事被仕候
 (細川家文書 万覚書寛永二(1625)年七月二十一日条)


 寛永2年6月17日の地震被害について、一月後に肥後を訪問した使者が報告している。豊
後時代の執務日誌から。


 50トン近くの火薬を貯蔵していた煙硝蔵が爆発。周囲500から800メートル四方ほどが吹
き飛び、瓦礫が3から4キロの範囲に飛散したという。黒色火薬とはいえ、50トンもあれば、
それだけの被害がでるかな。
 痕跡が残っていそうなものだが。今度の震災復旧で、見つからないだろうか。


 最初の方、「ひき物」というのが、よく分からないけど、建物が柱ばっかりになったと
いうことだろうか。「城中」の死者についても、煙硝蔵の爆発の死者がこれだけなのか、
本丸の建物被害で死者がこれだけでたのか、細かいところでよく分からない。


 地震被害の話なので、当然こっちに。



757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 20:27:04.77 ID:xYUxUbly
>かわらひき物

瓦葺き物かな?

少之御普請も御堪忍、御尤候事

2018年05月13日 17:22

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/13(日) 11:57:27.51 ID:hgZsim4a
寛永十一年(1634)八月晦日 細川忠利書状案

御門わき石垣、はば五六間程くみ申候由、如元可被仰付哉与被仰越候、中々御無用にて御
座候、道へ崩れかかり候はば、人の通候道御座候程にお引のけ候而、少しも少しも石垣御
築直之儀御無用に而御座候、城之見苦事は何方も同前儀候、不被得御意候而は、少之御普
請も御堪忍、御尤候事

 ここでは、父・祖父よりも影が薄い忠利さんを、ダイマ。
 有馬直純から、城の修復について相談を受けたときのお返事。城の修理はくれぐれも慎
重に。ちゃんと幕府の許可を得よう。城のメンテナンスが行届いていないのは、どこも同
じだから気にすんなだって。
 関ヶ原以前に築かれた近世城郭が、数十年を経て、いっせいにメンテナンスが必要な状
況になってきたそうだ。ついでに、この年は家光の上洛で、この種の事務も滞っていたの
だろうな。
 しかし、道を塞いだら、人が通るところだけ石をよけて、あとはそのままにしとけって…




748 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/13(日) 12:19:44.01 ID:mMOiDVzU
>>747
寛永11年なら戦国も終わって太平の世真っ盛りだしなぁ… もうちょっとしたら天草の乱が有るけれど。
しかし、届出してやるにしても金はかかるは幕府に睨まれかねないは、やらなきゃやらなかったでお咎め食らいそうだわ… しかし、平山城も草生えたり木が伸びて道が荒れる事もあるし、お手入れはどうしてたんだろうなぁ
外様大名は辛いわねぇ…

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/13(日) 14:23:41.11 ID:VWNosI8F
草刈りと木の手入れは副産物貰って帰る条件で
むらかた、町方に。
草は家畜の餌とか肥料になるし木は焚き木に使える。

不届者ハかたはしよりなて切りニ

2018年05月11日 08:04

885 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/10(木) 22:34:20.70 ID:BIlSsFh8
肥後へ下候而、新国ニ候間、下々事之外成敗無之候者成間敷候条、不届者ハかたはしよりなて切りニ可仕之由、御年寄衆へも申合候へ共、一人も科人無之候故、至今日、下々迄一人も成敗人無之候、か様之不思議成儀ハ、無之と存事候
 (寛永十年二月十八日 細川忠利書状)

 肥後入国直後の細川忠利の書状から。歯向かう者は、なで斬りにする覚悟だったけど、誰も切らなくて済んで良かったねという話。国持ち大名の改易の時には、誰しもが緊張するものなのだろうか。



886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/10(木) 23:31:00.75 ID:ShWcSbQT
籠城して一戦交えようとする血気盛んな老兵もいるからね

中々あふなき事にて候事

2018年05月11日 08:03

739 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/10(木) 23:39:15.98 ID:BIlSsFh8
一、熊本地震之事、少ツヽ切々淘候へ共、此程者遠のき候、あふなく候て、庭のなき本丸
にハ被居不申候、本丸ニハ二条敷と有之庭ハ無之、四方高石垣、其上矢倉、天守、中々あ
ふなき事にて候事
一、罷下、得 御意、地震屋を仕候庭を取不申候へハ、本丸ニハ被居不申候、此由を柳生
殿へ物語可申候事
  以上
 五月十一日      狩野是斎

 上は、熊大図書館で昨年行われた講演会「細川忠利の領国支配と熊本城」で紹介された
史料。細川家は、なぜ本丸御殿を使わず、花畑屋敷を新設したのかという長年の謎が解決。
建物が建て込んでいる本丸は、地震のときに避難場所がなくて危険というのが理由と。山
を登るのがきついみたいな軟弱な理由ではなかったわけだ。
 加藤家時代の寛永2年(1625)に地震で火薬庫が爆発するなどの大損害を被って、その
後、寛永9年に改易。その翌年には、群発地震にみまわれると、この時期、熊本は頻繁に
地震に襲われたらしい。それで、本丸御殿に居住するのを諦めた模様。
 熊本城本丸御殿の安全性が悪かった話。



740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/11(金) 03:14:55.88 ID:R+xT4pm8
建物もそうだろうし、見るからに崩れやすい石垣だから、
今回の熊本地震以前にも何回も崩れているんだろうなぁ

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/11(金) 10:29:15.22 ID:j2KvLsgt
歴史的に見て、1625年の地震、明治の熊本地震、そして、今回の熊本地震と、都合三度ほど、大損害を受けているという。それより小規模なのは、よく分からない。1625年の煙硝倉爆発は、考古学的な痕跡も残ってそうだけど、発掘調査で出てこないかね。

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/11(金) 13:11:49.28 ID:ScGW0x/W
熊本城は建物詰め込み過ぎで昔から有名だったしな

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/11(金) 13:38:40.04 ID:848BrPl1
その何回かの大地震でも耐えてる石垣があるのは当時の技術でも最先端だったんだろうなあ。

秀頼公が降らせたとしたら

2018年03月04日 21:07

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 18:25:56.35 ID:dDdfXZzE
寛永八年五月八日、江戸にて霰が降る。
この霰はとても大きく屋根をつきぬけ死人が出たほどであるという。
この日は豊臣秀頼の十七回忌であり秀頼の祟りであると皆噂した。
そんなときに三斎様が忠利への手紙に書いた一言
「秀頼公が降らせたとしたら小米ほどの霰にしかならねーだろ」

ひどい言いようである。



576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 21:52:24.34 ID:1/g86kDk
>>575
面白いw

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 02:35:05.49 ID:WZikKtO0
なんで小米なのか説明よろしく

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 08:12:54.52 ID:SRBMFBnt
小物だから、てことじゃダメなのか

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 20:27:09.16 ID:+GYwg/Yu
普通に考えて 、秀頼は高く評価仕様がない

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 22:42:42.32 ID:E7L7esSF
確かにひどいなw

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 23:10:37.02 ID:22URxcVa
後のシャオミである

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 23:12:06.25 ID:ib5vEmNz
信雄や足利義昭のようにはいかなかったんだな。

加藤の亡魂

2017年06月14日 19:00

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:02:25.08 ID:OUrzwPNV
加藤肥後守(忠広)が没落以後は、
熊本の城は細川肥後守(忠利、越中守?)が横領して入城したが、
その後には城内外で家鳴り等がして騒がしかった。
加藤の亡魂が念を残したからだと申し伝わっていたので、
細川公は残念な事であると、菩提寺にある加藤が着ていた具足を乞い受けて、
天守の四重目に納められたら、その後に静かになったとか。


『武士としては』



25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:05:07.82 ID:e6F4knWm
横領とは酷い表現だな

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:34:30.30 ID:WE0HmbYS
「横領」は明治中期以降に出来た言葉らしいが、原文はどうなんだろう

27 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/14(水) 09:53:05.94 ID:xVPK1Uvj
>>22
              :ill||||||||||l:
             :i|||||||||||||||
           /''';:|||||||||||||||||l:、
          /:i  :||||||貞|||||||i `'!
          / :|  :||||||||||||||||||l ノ!
          | ヽ |||||||||||||||||||| :|
          ! !;ヽ:||||||||||||||||||||!; |
      .__|  |/|||||||||||||||||||||; |____
       |  _|  .|/||||||||||||||||||||; |_____  .|
      | |:='ヾ‐イ:||:|l|l|l|l|l|l|ll|||||' |::::::::::::| |
      | |:::::::: | |;:|||||:l|:l|l|l|:l|:||||| イ=::::::| |  ザー ……
      | |:::::::::/ };|||||||||l|:l|l|l|:l|:|||.ノ:=:::::| |
      | |:::=!川!;|||||!l|||l|:l|l||||ー'‐'.;:::::::::::| |
      | |:::::::::!l.|ノ      / ./:::::=:::::::| |
      | |::::::::::::|:::      ノ }::::::::=::::::| |
      |  ̄ ̄~|:::      川リ ̄ ̄ ̄ ̄ |
      | ̄l ̄ ̄|::::      | ~ ̄ ̄ ̄| ̄|
      |_|:.::.:.:.:|:::::      |:.:.:.:.:.::..:.:.:|_|
      .:.:.:.:.:.:.:.:.:|;;;::::      .|.:.:.:.:.:.:.:.:.:..:.:.:.:

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 10:16:45.54 ID:TDMsc1AT
忠広の生霊か

「肥後のからしれんこん」

2017年05月22日 18:00

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 20:04:20.94 ID:X+MXQU0X
「肥後のからしれんこん」

肥後国熊本、細川藩初代藩主、細川忠利公は名君で武術の腕も確かだったが、生まれつき食が細く病弱であった。
細川幽斎公・三斎公のように個性的な存在ではなく、どちらかというと律儀で真面目な人柄だった。
少食であることを心配した水前寺の玄沢和尚は、滋養のある食べ物がないかと考えていた。
そこで、加藤清正公が非常食にとお城の外堀で栽培していた蓮根に目をつけた。
賄い方の平五郎というものに煮物にさせ、忠利公に差し出した。
忠利「蓮根か・・・泥の中にあったと考えると、どうも食う気が起きんのう」
玄沢「仏教には、泥中の花という言葉がございます。例え根は泥中でも、そこから美しい花が咲くのでございます!」
忠利「ほう」
玄沢「殿にもここから一花咲いて頂きたいのでございます!!」
忠利「でも無理。こんなの食えん」

続く

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 20:04:44.44 ID:X+MXQU0X
蓮根の煮物を食べてもらえなかった玄沢和尚は、平五郎と相談し、今度は蓮根に衣をつけて揚げてみた。
これは忠利公も多少箸をつけたが、3日で飽きてしまった。
そこで平五郎は毎日飽きずに食べられる、見た目の美しい蓮根料理を考えることになった。
(蓮根の穴に何か詰めたらどうだろう?見た目が美しく、食欲増進効果があるもの・・・)
(そうだ!辛子を使ってみよう。辛子には食欲を増す効果があると言うからな)
辛子を麦味噌と合わせて蓮根の穴に詰め、麦粉・そら豆粉・卵の衣をつけ、菜種油で揚げてみた。
これを忠利公にお出しすると、
忠利「美しい見た目じゃな。どれ、味は・・・」
忠利「ツーンと来て辛いけど・・・うまーい!!!」
忠利「これは誰が作ったのか?」
玄沢「賄い方の平五郎というものでございます」
忠利「すぐにその者を呼べ!」

ごめんもうちょっと続く

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 20:06:48.90 ID:X+MXQU0X
忠利「その方が平五郎か。この料理を考えたのはそちじゃな?」
平五郎「へい。その通りにございます」
忠利「ツンと来る辛さで食欲がわき、非常に美味じゃ。しかもこの断面を見よ」
玄沢「は?断面が何か・・・?」
忠利「わが細川家の家紋、九曜紋にそっくりじゃ。これは縁起が良い。これ平五郎よ」
平五郎「はっ」
忠利「わが細川藩門外不出の料理として、これからもこの辛子蓮根を大事に作り続けてくれ」
平五郎「ありがたき幸せにございます」
その後、忠利公は毎日辛子蓮根を食べて元気になり、辛子蓮根は藩の重要な料理として、明治維新まで庶民は食べられなかったという。
出典はテレ東日曜朝9時~放送のふるさとめぐり日本の昔ばなし「肥後のからしれんこん」より。
今朝、子供とテレビで見て、
「たしかに幽斎や三斎は個性的だなw」
「あの2人と比べたら誰でも地味だろw」
「坊主が上手いこと言ってるんだから、我慢して食えよw」
「いやいや庶民にも食わせてやれよw」
的になかなか楽しい話だったので思わず書いてみた。
庶民は食えなかったが、忠利公の体が良くなったので、いい話スレの方に。



933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 20:49:21.15 ID:z5SDL7DR
子供とそんな話できるのかw

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 21:20:47.97 ID:X+MXQU0X
「この人のじーちゃんは握撃の使い手」
「とーちゃんは手討ちが趣味のヤンデレ」
等は解説したよ。
小学校低学年の娘相手なので、ヤンデレの詳しい解説は控えたけど。

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 21:22:53.77 ID:7UjI6uS0
>>934
いやそもそもヤンデレって言葉を使うなよw

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 21:48:18.87 ID:X+MXQU0X
街中で手を繋いだカップル見かけたら、「爆発しろ」と呟く程度の基本教練は済んでるので、ヤンデレくらい教えてもいいんだけどね。

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 22:56:58.22 ID:k0AZsbIn
>今度は蓮根に衣をつけて揚げてみた。
>これは忠利公も多少箸をつけたが、3日で飽きてしまった。


一度食べたからって同じもの3日も出すなよ・・・

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 23:25:37.77 ID:XWHSy3hI
ケンミンショーで紹介されてた熊本名物のちくわサラダ。
ちくわにポテトサラダを詰めて天ぷらにしてあるんだが、熊本人はアレか?
穴の空いた食材を見ると、何かを詰め込みたくなる習性があるのか?

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 00:00:12.88 ID:rKmpoToj
ポテサラの天婦羅ってのもかなり珍しいな

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 00:58:08.32 ID:7W5Pp/hk
肥後ずいきも突っ込むためのものだしな

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 07:08:37.87 ID:EyVcBlKt
>>939
だがちょっと待ってほしい、それはほぼコロッケの中身ではないだろうか

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 07:26:11.00 ID:rKmpoToj
>>944
ほう君のところのコロッケはマヨネーズで会えたり胡瓜やら玉葱やら入ってるのか
とても変わってるね興味深い

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 07:35:09.11 ID:EyVcBlKt
>>945
いやいや、ポテサラを素であげてみてw
かなりコロッケの中身だからw

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 08:20:58.93 ID:mQhKxntK
穴に詰めたくなるのは男の性

948 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/22(月) 08:55:39.28 ID:Um6DWmHX
石子詰めですねわかります

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 19:21:25.43 ID:v1NKW731
秋田県にはポテトサラダの寒天があるそうだが率直に言うといたく不味そうである…

「功者の料理人」

2017年04月28日 18:08

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/28(金) 02:41:06.00 ID:TMuztBgN
肥後(細川家)の志水伯耆は島原で攻め口の先頭から、にわかに指物を取り
に人を小屋へ遣した。この際、留守に居た料理人がその理由を尋ねた。

使いに来た者はこうこうだからと言い、指物を取って行った。すると料理人は
その使いを追い掛けて、やむなく指物を奪って帰った。

その仔細は、いま急に攻め口に臨んで乗り入ろうという時に、これから指物を
持って行けば、「伯耆は遅れたのだろうか」と、人々に言われるであろうとの

深い配慮であった。そのため、料理人は「功者の料理人」と、言われたという。
この者は老人であったという。

――『武功雑記』


細川さんちが小倉で国産ワインの製造を命じた文書が見つかったというお話

2016年11月03日 15:13

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 22:14:22.27 ID:MIvruat+
http://news.biglobe.ne.jp/domestic/1102/mai_161102_4352371837.html

細川さんちが小倉で国産ワインの製造を命じた文書が見つかったというお話
他にも、「いかにも甘き」ワインを輸入するよう命じた忠利直筆の手紙も見つかったそうです



286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 22:54:54.53 ID:oFK8FDpW
>>285
甘いワインってことはシェリーやマデイラみたいな酒精強化ワインだったのかなあ
野ブドウを醸してワインにしても、あんまり甘くはならないだろうし
忠利が理想のワインに巡り合えたのかが気になる

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 23:06:56.57 ID:wccSttQ4
       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩< 甘き葡萄を栽培しよう!
    (つ徳本丿 \_________
    ⊂_ ノ
      (_)

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 23:07:11.99 ID:RxU77vvr
ドイツの白ワイン(シュペートレーゼとアウスレーゼ)や貴腐ワインなら、文句なしの甘さ

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/03(木) 00:05:13.00 ID:9LycuP5d
そういえば江戸期の茶会では、ワインが「甘味」として出されたとか。

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/03(木) 00:43:33.79 ID:M2mN9eiG
葡萄酒作りの記録は以前から確認されてたけどもうちょっと詳細に古文書で確定って所なんだろうか

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/03(木) 03:07:50.26 ID:Ft/TeWNl
>>286
甲州ブドウは空海が日本に伝えたんだぞ(逸話的には)

嶋原の賊矢文

2016年10月25日 21:22

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/25(火) 05:15:08.44 ID:dsNNs2EC
嶋原の賊矢文


薩州の支、佐土原侯〔島津筑後守〕の臣の某が持ち伝えている、
寛永中の耶蘇一揆のときに、原の城中から寄せ手に射遺した矢文として、
伝写したものを見た。
本書は今なおかの臣の家にあるという。
その文は憎むべきものだ。
これがまさに彼らが賊徒であるゆえんである。


「矢文


『一、当城之土民、宗門ノ為メニ尸ヲ山ニ捨て、名ヲ後代ニ留メント欲ス。
之ニ加ルニ忝モ上使板倉内膳正ヲ討チ奉リ、生前死後之本望、之ニ過グベカラズ候。
冀クハ近日一戦遂、万死ヲ顧ズ、尽ク相果ン。
且又余慢有ルニ依テ、狂歌ヲ綴リ軍中ニ放ツ者乎。一笑セヨ。』


一戦功成テ古城ヲ鎖ス、 三軍ガ死ヲ望テ責レドモ成シ難シ、
九州ノ大勢十余万、   一冬立チ尽シテ花ノリヲ待ツ。


島原や有馬の城を責かねて 心づくしに見ゆる上使衆


肥後守いかに心は細川や なかながし日をあかし暮らして


物数寄は越中流とききければ 敵にあふてはならぬ物数寄


有吉や頼むかひなき先手にて 敵をばうたで味方をぞうつ


信濃路や敵に心をかけ橋の かいがい敷もあぐるせい楼


立花や袖の香ふれし昔より 猶かふばしき武士の道


有馬山すそのの桜咲みだれ 軍は華を散す古城


寛永十五年寅三月日」


(甲子夜話)



細川忠利「うつけ者!」+「おまけ」

2016年10月05日 11:54

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/04(火) 23:20:15.20 ID:EUk1JjrN
細川忠利「うつけ者!」

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3506.html
↑この話で森忠政の跡継ぎになった長継と細川忠利のその後の話

将軍家光公の御上洛の折、森美作守(森忠政)様が京都で亡くなられたのを、
忠利公は代々心安く(森家に)出入りされていたので既に存じられていた。

何某とか名は覚えていないが「最早お亡くなりになられました」と(忠利に)申し上げると
「うつけ者!」とお叱りになられ(忠政が)ご存命のときの如く(森家へ)直に行き
「内々お願いしていた通り、内記(長継)殿ご養子のお願いは妥当だと思われているので
正式に認められるまでの間、少しも気になさらない様に」
と高々と引き受けられ、お帰りの時にご家来共歴々に
「最期のお願いは聞き届けられました、いずれも安心して下さい」とおっしゃられたので
先程叱られていた人も感涙し、その他の歴々ご家来共もまた涙を流しありがたがった。

このような様子だったので、内記様は美作十八万石と津山城を無事拝領された。
内記様という御名も(長継の)御所望にて(忠利の初任官時の官職、内記にちなんで)
おつけになられたと承っている。

――『旦夕覚書』

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/04(火) 23:20:56.20 ID:EUk1JjrN
おまけ

寛永十四年十月十二日 森長継細川忠利書状

「一筆申し入れます。貴方から鹿毛の馬を頂いたとき『よそへやるようなことがあれば
貴方に絶対お返しします』と約束しました。この馬を肥後守(光尚、忠利嫡男)が見る度に
『乗りたい!』と言って借りるので、常時貸すことになってしまいました。
もっとも貸すことはないと言っていましたが、貸したと言っても我らの所にいるのは変わらず
(光尚は他人ではないので)この馬を借りたときのまま約束は破っていません。このことを
お聞きになられて、肥後守に勝手にやったのかと思われたら迷惑なので書きます。恐惶謹言」

――『細川家史料』




223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/04(火) 23:45:37.14 ID:yrg8J4ID
>>221-222
…まあ三斎様の息子らしい、としか言えんw

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 00:29:50.65 ID:gOIwRA7i
できすぎ君忠利

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 01:14:22.18 ID:OZ+2mprs
忠利は優等生なイメージもあるけどやる事はやる