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渡辺幸庵が見た戦国武将

2022年09月26日 16:46

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/25(日) 21:47:46.27 ID:2kIRZglE
渡辺幸庵対話』より
130まで生きた怪老人、渡辺幸庵が見た戦国武将

・家康の悪口
権現様は無筆同然の悪筆だった
三河の宝蔵寺で手習いをしたそうだが、せいぜい「いろは」くらいのものだ
自筆でないといけないときだけ「ほつほつ」(ぽつぽつ)と書かれた
それゆえ、御判も「きたなき」御判だった

・三斎様の奇抜な料理
細川三斎は中古の茶の湯者である
茶菓子に能登の「鯖刺」(シメサバか)の頭を切り、折敷に椎の葉を敷いて、「著」(箸か)を添えて出していた
塩出しと切り方に口伝がある

・大坂夏の陣秘話と家康の強がり
真田左衛門佐(信繁)は強き大将で士卒も勇壮だった
ただ、徳川の備えが敗軍したのは真田の勇気ばかりではない
寄せ手は太陽に向かって戦ったので働かず、真田は太陽を背にしてこちらをよく見分けて戦ったからだとささやいて神君も生玉まで退いた



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しっかり覚えてもいなかったのに

2022年03月26日 17:12

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/26(土) 13:58:25.11 ID:Gnrc7AWs
慶長五年(1600)七月二十六日
津田小平次(秀政)が、小山において徳川家康公の御前に罷り出でると、家康公は非常に御機嫌能く
「今度の合戦(関ヶ原)に勝てば、何であっても望みを叶えてやろう、今から約束をせよ。」
との御意があった。小平次は申し上げた

「御合戦は思召のままに御勝利致すでしょう。何も望むようなものは有りません。」

「人として、望みが無いということはありえない。何か望むように。」

この御意に小平次は
「左様でありましたら、安国寺恵瓊が所有している肩衝(安国寺肩衝)を下さりますように。」
と申し上げると、「いと易きこと。」と仰せになった。

この年の十一月末、大阪城に(関ケ原の結果処分された)安国寺恵瓊の闕所より諸道具が送られてきた。
書籍に関しては兌長老(西笑承兌)の学校に御前に於いて下され、小平次には「約束の肩衝である」と
安国寺肩衝が下された。この時小平次は

「小山にて当座の御挨拶に申し上げ、しっかり覚えてもいなかったのに拝領してしまった」
と、御前を退いた後、御次の間にて語った。

この安国寺肩衝、元々は細川幽斎が所持していたのだが、仔細が有って手放し、その後安国寺の所有となり、
そこから今回小平次に渡った。
この小平次が所持した肩衝を、細川三斎(忠興)が所望し、黄金を過分に返礼として出すと言ってきたが、
三斎と小平次は関係が良かったため、(黄金)五百枚にて譲った。三斎は満足し、『中山』と名を付け
秘蔵した。そして三斎が隠居した時、越中守(細川忠利)に譲られた。

寛永三年(1625)四月から八月まで旱魃が有り、越中守の家来の者達の生活も危うくなった。
そのため越中守は諸道具を手放し、これを売って家来の者達の生活を支えたいと、土井(大炊頭)利勝へ
訴えた。そして大炊頭肝煎りにて、安国寺肩衝は酒井宮内大輔(忠勝:酒井佐衛門尉家)の所に、
(黄金)千八百枚にて遣わされ、宮内大輔の所持となった。越中守はその黄金を家来の者達へ分配した。

ある人が、津田小平次にこのように申した。
「あなたが拝領した肩衝を他所に遣わすというのは如何であろうか。遺産として遺すべきではないか。」
これに対して小平次はこのように答えた
「それについては、もはや欠けること無く遺しているので入らぬ事である。秀忠公家光公の御代に、
一門三人に黄金を分け与え、自分には二十枚を、存命の茶代として残し置いた。知行についても、
五千石のうち三千石を跡目に譲り、二千石を隠居分として残し、死後に仕置を良くするようにと
しておいた。」

慶長年中卜齋記

安国寺肩衝についてのお話



細川藤孝の出生などについて

2022年03月04日 19:38

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/04(金) 19:06:52.10 ID:yxs+maSQ
或る本に、細川忠興の父は兵部少輔藤孝と云う。剃髪して幽斎と称し、従二位法印に叙任された。
彼は(足利)尊氏将軍十二代の後胤・義晴公の四男であった。母は環翠軒宣賢(清原宣賢)の息女であり、
飯川妙佐の妹であった。
(別記に、幽斎は三淵伊賀守(晴員)の子であると云う)

義晴公が東山鹿ヶ谷に移住された時に、清原宣賢の娘が寵愛され、程なく懐妊して男児を産んだ。
義晴公の嫡男は義輝公、二男は北山鹿苑院の周暠という。三男は南都一乗院の御門主覚慶(後に還俗され
将軍となり義昭公と称し、慶長二年八月二十八日、六十八歳で薨去された。霊陽院殿と諡す)

四男が即ち藤孝であるが、彼の母が藤孝を連れて、三淵伊賀守に嫁いだ。

後年、藤孝は細川右馬頭元常の養子となった。また現在、細川氏を長岡氏と言うのは、昔日藤孝が、
京都勝竜寺での合戦に戦功があり、故に織田信長公より、その息忠興へ、別に長岡の荘を所領として
拝領したことに依るのだという。

新東鑑

細川藤孝の出生などについて



79 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/05(土) 15:13:49.23 ID:Eoip3YAd
新東鑑は刊本の序文、跋文によると、安永2年(1773年)までに氏名不詳の近江人某氏が編纂したということですが、
誰が書いたにしろこの頃までにそういう話が広まってて、細川家でもいちいち否定とかはしなかったってことか

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/05(土) 15:53:35.20 ID:n7DgMSO6
そもそも細川家の家史である
「綿考輯録」の初っ端に「実は将軍義晴公御胤」と書かれているわけで

しかれば太閤は父の讐なるに

2022年01月30日 16:32

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 22:24:03.26 ID:Q0n5+Jsm
朝野雑載」からガラシャの話

秀吉公、ある時猿楽を興行して、諸大名の奥方に見せられしに、
細川忠興の内室は病気といいて、能を見たまわず。
その故を聞くに、
ガラシャ「父日向守は秀吉と戦いて亡びたまいぬ。
しかれば太閤は父の讐なるに、まのあたりその顔かたちを見るべきようなし」
と密かに語りたまいしとかや。



そのうめる子、越中守忠興なり

2022年01月27日 15:05

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/25(火) 20:28:46.88 ID:FAwjF8BT
貝原益軒による武将の逸話や面白話を集めた「朝野雑載」より

信長公の妾を細川幽斎に給う。松井佐渡はその妾に付いて来たる。
信長の子を懐胎せり。
そのうめる子、越中守忠興なり。よく信長に似たり。
これ人のしらざる事なり。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3578.html
倅めが、吠えをるわ。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6595.html
そんな信長の死後55年経った1637年

信長が忠興をかわいがり、忠興も信長を敬愛していたのがそんな話になったのだろうか



【ニュース】細川忠興が記した書物の裏に石田三成らの自筆書状

2021年09月18日 18:40

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 10:21:23.91 ID:heYgV3tr
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210917/k10013263731000.html
NHK 細川忠興が記した書物の裏に石田三成らの自筆書状

2021年9月17日 6時27分

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、細川家が九州の有力大名となる礎を築いた細川忠興が記した書物の裏に石田三成古田織部の自筆の書状があることが
東京大学史料編纂所などの調査でわかりました。専門家は豊臣秀吉に仕えた武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だとしています。

細川忠興は戦国時代から江戸時代初期の武将で、豊臣秀吉などに仕え、細川家が九州の有力大名になる礎を築いたほか、茶道などにも通じた文化人としても知られています。

細川家の史料を保管している東京 文京区にある永青文庫と東京大学史料編纂所は共同で巻物になっていた忠興が記した書物を調べたところ、忠興が受け取った書状などの裏側を再利用していることがわかりました。

その中には、1586年ごろ、秀吉に一緒に仕えていた石田三成古田織部が自筆で忠興に宛てた書状が含まれていました。

石田三成の書状では、秀吉から受け取った金の使いみちについて忠興に「自分たちは恵まれているのだから、金をため込むのではなく周りに配るよう」説いていて、
専門家は押しつけがましいともとれるほど生真面目な三成の性格や人間性がよく表れているとしています。

また、古田織部の書状は、織部を名乗る前の「左助」という名前で「刀を貸してほしい」という趣旨が記されていて、専門家はほとんど残っていない織部の若い頃の書状だとしています。

戦国時代の武将の書状は、公的なものほど書き記す家臣によって代筆されたものが多く、調査を行った史料編纂所の村井祐樹准教授は「緊密に交流する様子が
自筆の書状からわかり、豊臣秀吉配下の武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だ」と指摘しています。

46 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/18(土) 10:22:16.34 ID:heYgV3tr
今回、調査されたのは細川忠興が能に関して記し、その後、巻物にして保管されていた書物です。

調査を行った東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授によりますと、一部で裏側に書かれた文字が透けて見える部分があり、何かの裏紙を再利用したものと思われていましたが、
詳しいことはわかっていませんでした。

解体すると15点ほどの書状や記録の裏紙が使われていました。

この中には、石田三成古田織部、それに前田玄以といった一緒に豊臣秀吉に仕えていた武将から忠興に送られた書状が5点、忠興が自分で記した書状の下書きが3点、
闘茶と呼ばれるお茶を飲んでその銘柄を当てる当時の遊びを行った際の記録が3点などでした。

石田三成の書状は、前段部分であいさつとして忠興が参加した茶会の感想を尋ねたあと、秀吉からもらった金の使いみちについて記しています。

三成の自筆の文字は黒くはっきりと記されていて、後段にいくにつれ書きたいことを詰め込むように行の間隔が狭くなっています。

また、古田織部からの書状では、忠興に対して「刀を貸してほしい」という趣旨に続いて、「あまり大きいものは困る」と細かい要望を記しています。

専門家はこの時期に行われた後陽成天皇の即位式に持って行くための刀を借りる用件だったと考えられるとしています。

古田織部からの書状は合わせて3点あり、いずれも織部を名乗る前の「左助」という名前が差出人として記されていました。

このほか、忠興が記した書状の下書きには、秀吉配下の武将である蒲生氏郷や高山右近などと連れだって京都の相国寺に行く途中に、予定を変更して秀吉のところに行ったことが記されています。



47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 11:46:31.16 ID:Y7Yr55+I
専門家もツッコんでるけど
褒美としてもらった金の使い道について横から口出しするの、まじで押し付けがましいな

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 12:13:26.31 ID:4EEgrKPK
へうげものキャラでそのまま想像できるなw

51 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/18(土) 15:34:47.84 ID:4JKoITUS
>>49
豊臣秀次からも借金が有ったと言うし、本能寺から豊臣政権下で戦も重なってたとはいえ、現代感覚だと道楽とも取れる茶の湯やその他の趣味にも三成からチクリと言われちゃうほど注ぎ込んでいたのかねぇ?

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 15:49:47.42 ID:akBVD7N6
三成面白いキャラしとるわ

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 13:55:19.49 ID:0ISUQ5f6
まぁ三成の性格からして公儀から貰ったお金なんだから
公的な事(部下への褒美とか内政)に使えよって考えなのは理解できる
忠興は数寄関係でで金使ってたし

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 01:28:08.62 ID:mMAai4VO
>>51
刀貸してくれって織部に言われる辺り
見栄えの良い刀も数持ってたんだろうなって想像つくし
甲冑のデザインしてたって事は相応に色んな甲冑も所持してるだろうなって思うと
趣味に思いっきり散財してそうな感じではある

誰のことか分かるかな?

2021年08月15日 17:34

413 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/13(金) 05:54:08.55 ID:P/11D0BH
藤いつミ、黒筑、大夫殿

細川忠興吉川広家が書状に書いた略称、誰のことか分かるかな?

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/13(金) 18:00:09.85 ID:0VH69/Gq
>>413
藤堂和泉守高虎、黒田筑前守長政、福島左衛門大夫正則
かな?

419 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/13(金) 18:12:54.90 ID:vo1uthUt
>>418
正解にござる

420 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/13(金) 18:30:21.40 ID:L6mwb0mW
直江山城守兼続 → 直山
北條新九郎氏綱 → 北新
藤堂和泉守高虎 → 藤いつミ
黒田筑前守長政 → 黒筑
福島左衛門大夫正則 → 大夫殿
木下藤吉郎秀吉 → 禿げ鼠

421 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/14(土) 07:31:30.90 ID:aOqQbOoe
直山ってのは誰が書いてたんだ?

424 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/15(日) 20:09:30.02 ID:SsJkB02U
>>421
本人?が島津家(信州島津氏)宛の文書に狩野秀治と連名で何度かそう署名したみたい。
狩野秀治は狩讃秀如、直江兼続は直山兼続と署名

https://monjo.spec.ed.jp/wysiwyg/file/download/1/590

↑の8P、9P参照されたし。

425 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/16(月) 06:35:04.74 ID:re35JeRj
野球メジャーリーグ関連のレスで直江が続出してて笑えないw

426 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/16(月) 07:09:19.96 ID:PFP1x7zD
>>425
どう言うこと?

427 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/16(月) 15:40:22.17 ID:XlIacSS/
エンゼルスの大谷翔平選手が大活躍して注目されてるが、エンゼルスは投手の中継ぎと抑えがダメダメでよく負ける
それで、

大谷選手は◯奪三振、◯号ホームランを放ち活躍
なおエンゼルスは敗北した

というのがほぼ定番になってて
これを、なおエ、直江と書くようになった



天下の茶湯指南は、

2021年04月21日 18:46

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/21(水) 16:01:16.20 ID:sY+axhzY
千利休、同道庵(道安)、古田織部についての事、
細川三斎(忠興)が利休に問うた
「貴老が五百八十年後にあい果てるとして、それ以後に天下の茶湯指南は、誰にて有るべきでしょうか」

利休答えて曰く
「倅の道庵については、彼はハタラキタル茶湯であります。しかしながら人柄が悪く、天下の指南は
成らないでしょう。古田織部がそう有るべきでしょう。」
と申した、その後、果たしてその様になった。

烈公間話



権現様が上総殿になされたことを御覧になっているので

2021年02月12日 17:45

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 00:57:21.20 ID:GC8RmT/X
権現様が上総殿になされたことを御覧になっているので

細川忠興が徳川家光の弟・忠長の乱行と処分について述べた条を抜粋して意訳。

一、駿河大納言殿(忠長)はこのごろ御手討ちが重くなり、小浜民部(光隆)の子を御成敗し、その後
  御伽の坊主も御成敗したとのことです。きっと並大抵でない曲事があったのかもしれませんが
  民部は西国の船頭に仰せ付けられているのに、あまりにひどいことです。これ以前に御年寄衆から
  固く意見を申されて(手討ちを)しない約束をしたのに、こんなことになっています。その上
  切った者を(切ったことを覚えておらず)次の日に呼ぶこともあるらしく、言語に絶します。
  この分だと一白殿(松平忠直)のような御身上になるのではないかと上下で取り沙汰されているので
  相国殿(秀忠)は何とも御沙汰をしにくいのではないかと思います。しかしながら、権現様が
  上総殿(松平忠輝)になされたこと(対面禁止処分)を御覧になっているので、不安です。
  他の例は置いておいて、(きちんと)罰せられるようにと思います。

――『細川家史料 細川忠興文書 八六四号』

忠興の危惧した通り、秀忠が生きている間は重い処分が下ることはなかった。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 14:53:28.33 ID:7LaluMsR
忠興にここまで言われるって狂うにも程があるだろ

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 17:41:28.60 ID:RJrUUo6C
秀忠も家老の朝倉宣正の力不足ということで一件落着させようとしたが
忠長が宣正は無関係って訴え出たということで本人の蟄居処分だからなぁ

単なる発狂と切って捨てるには色々事情がありそうだったりする

Wikipediaの津田秀政の項目一部抜粋

2021年02月10日 18:25

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/10(水) 00:35:27.60 ID:dCK4U9vQ
Wikipediaの津田秀政の項目一部抜粋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E7%A7%80%E6%94%BF


慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)、家康に従い会津征伐、関ヶ原の戦いで功を挙げ、3,000石を
与えられて計4,010石余の大身旗本となった[1]。この時、名物唐物茶入の「安国寺肩衝(あんこくじかたつき)」を拝領したが、後に細川忠興に持ち去られた。
細川忠興に持ち去られた「安国寺肩衝」(現:五島美術館蔵)は、寛永3年(1626
年)の旱魃の際に細川忠利から金1,800枚で庄内藩主・酒井忠勝に売却され、領民救済の資金となったと伝わる。

参考
細川忠興と『有明の茶入』


細川忠興が雪舟の画を分割した話

2021年01月10日 15:00

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/09(土) 16:07:13.94 ID:bulrWr5U
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-376.html
伊達政宗と細川忠興で半分こ・いい話?

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10773.html
中里介山「大菩薩峠」の「伊達政宗と細川忠興で半分こ」


細川忠興と伊達政宗が朝鮮で見つけた王羲之の孝経の書を切断して2人で分け合った逸話が昔出ていたけど、
細川忠興が雪舟の画を分割した話もあった。

山口県立美術館所蔵の雪舟「倣高克恭山水図巻」の木下俊長(木下延俊の孫)添状によれば
木下延俊が義兄の細川忠興に招かれた時、画工の長谷川某がこの雪舟の掛け軸を持ってきた。
某「困窮しているためどうか買ってほしい」
忠興「長いから短くして木下殿と分けよう。
それぞれ足りない部分は長谷川が模写して、お互い真筆と模写一つずつ持つことにしよう」
というわけで細川家、木下家で雪舟の真筆を分け合うことになったとか。
(細川家の方はその後、明暦の大火で焼けてしまったらしい)



徳川秀忠の追善供養に対する違和感

2020年12月01日 19:49

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/29(日) 21:35:00.62 ID:w2E/PteA
徳川秀忠の追善供養に対する違和感


将軍・秀忠が亡くなった際、譜代衆を始め国持大名の中でも追善供養をする動きがあった。
ただ家康が亡くなった際は追善供養をしていなかったこともあり、細川忠利は父・忠興に
追善供養を申しつけられるまで指図を待つことを伝えている。【細川忠利文書 四九〇号】

以下はその後の続報を意訳して抜粋。【細川忠利文書 四九八号】

一、相國様(秀忠)の御弔に、右衛門佐(黒田忠之)・松阿波守(蜂須賀忠英)・浅但州(浅野長晟)
  なども千部経を修したことについて、森作州(森忠政)が申されたので、残らず左様に
  (申し付けられるのならば)どうするべきかと話しました。(忠政は)
  「このほかははっきりと存じませんが、私は不要と強く思っていたので申し付けられませんでした。
   三斎様(細川忠興)も(不要だと思っているので)仰せつけられないでしょう」
  とのことでした。
  
――『細川家史料

『老人雑話』より、信長?の意外な発明など

2020年09月10日 18:11

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/09(水) 22:11:14.28 ID:uTWXNuJz
老人雑話』より、信長?の意外な発明など

・お弁当箱
織田信長の(初期の)時代には弁当というものはなかった。安土城ができて、弁当というものができた。小芋くらいの大きさの中にいろいろなものを詰めていたそうだ。
信じない者がいそうだが、また挟み箱というものもなかった。挟み竹というものを使っていた。
挟み箱は大坂の(織田一族)津田信成が初めて作ったそうだ。

・江村老人が見た信長、細川忠興、そして思い出
織田信長は二条御新造を築き、将軍の足利義昭を従えて慶賀の能があった。「老人」(江村専斎)も4歳くらいで、乳母に抱かれて見物した。
その日、信長は自ら小鼓を打っていた。細川忠興は私よりも年が上で、6歳くらいで猩々を1番舞っていた。
そのとき、帰りに門外にて盗人に(乳母が担いでいた?それとも持ち物の?)後ろのひもを切られたことを覚えていると語った。
その頃、盗人は小柄・笄などを抜き取ることがあった。このために盗人を「ぬき」といった。いまの「すり」と同じことだ。

・三斎さまの母もファッション発明家
木綿足袋がいまのような製法になるのは、細川忠興の母(沼田麝香)が初めて作り、忠興の茶会に出るときに足が冷えるので履いたそうだ。

・自分の昔を思い出した?太閤秀吉
あるとき、太閤秀吉は宇喜多秀家の屋敷で能見物を楽しんだ。
庭に降りるとき、家康が先に降りて(秀吉の)草履をそろえた。
秀吉は家康の肩に手を置いて、「徳川殿に草履を直させるとはねえ」と言ったという。



527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/09(水) 23:24:45.40 ID:UVHCOss5
>>526
こういう話好きだわ

528 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/10(木) 15:27:01.51 ID:k5JSoFGR
一番下の、家康が嫌味なやつになってない?

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 15:57:50.37 ID:Ffsvj1im
妖説太閤記で
家康が秀吉の草履を揃えて秀吉が
「わしもとうとう家康に草履を揃えさせるまでになったか」
と大喜びするシーンがあったけど

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 21:21:32.16 ID:c8+1bs8C
しかしまさか脱ぎっぱなしで放ってあった訳でもあるまいに礼儀的に草履に手を添えてみたぐらいかな

三人目は事の外きらひ申事の由

2020年08月02日 18:15

千姫   
239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/01(土) 18:43:07.48 ID:M3sPawsy
三人目は事の外きらひ申事の由


豊臣秀頼の正室であった千姫徳川秀忠の長女)は、大坂の陣の後本多忠刻に再嫁した。
しかし寛永3年(1626年)に忠刻も亡くして、また寡婦となってしまった。
ところが三年後の寛永6年(1629年)、前田利常との縁談の噂が持ち上がった。【細川忠興文書 七五一号】
利常は千姫の妹の珠姫と結婚し嫡男もいたが、元和8年(1622年)に死別していた。
実際は千姫本人や利常の母である寿福院が嫌がって再婚することはなかったが
その理由について細川忠利が忠興あての書状に書き留めている。【細川家史料 細川忠利文書 三三一号】

一、加賀筑州(前田利常)へ播磨の御姫様(千姫)がおましになる話(縁談)は、筑前殿御母儀(寿福院)が
  事の外迷惑がっています。子細は秀頼様・中書殿(本多忠刻)が亡くなられてしまったので
  三人目になってしまうのをとりわけ嫌がっていて[原文:三人目は事の外きらひ申事の由]
  それが並大抵ではないためまだ済んでいません。その上御姫様も迷惑がっています。

忠興は「迷惑がるのはしょうがないが、嫌と申すような事ではない。もっとも筑州の母だから申し上げた
のかなと嘲笑されるようなことだ」と返書で反応している。【細川忠興文書 七六七号】
千姫は翌年にもいとこの松平忠昌と再婚する噂が出たが、続報はなかった。
この二つの縁談は恐らく、寛永9年(1632年)に亡くなる父・秀忠の意向だったのだろう。



加藤肥後、黒田筑前については別ですので

2020年07月11日 17:25

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:15:57.34 ID:EFbVF9nF
此あぢ分別肝要候事


以下は細川忠興が嫡男・忠利に送った書状の意訳。

  わざわざ申すべきのところ、江戸へ(忠利が)人を下されたので申します。

一、上洛する道中で、羽三左(池田輝政)、羽左太(福島正則)、蜂阿州(蜂須賀至鎮)などの家臣と
  行き違いました。どの家中も我々への慇懃さ(礼儀正しさ)が申せない程(よいもの)でした。
  それにつき、我々が諸大名に(今までのように応対すると)たちまち無礼になってしまうので
  右の衆のほかも(我々の)奉行衆が諸大名に対して無礼がないように、堅く申し触れて下さい。
  横目(監視役)も置いて、無礼の者があれば厳しく申し付けるようにしましょう。ただし成敗はせず
  押し込めてこちらへ申し越されるのがよいでしょう。

一、加藤肥後(加藤清正)、黒田筑前(黒田長政)については別ですので、そのつもりで申し付けて下さい。
  ただし両人の家中も、あなたがその場にいるときは上手く捌いてくることもあるでしょうから
  そういうときは見合わせて指図するのがよいでしょう。もしあの家中の者があなたに対して無礼を
  したのに、こちらの者が両人に対して慇懃にいたせば曲事になってしまいます。
  この案配の分別は大切です。[原文:此あぢ分別肝要候事]

一、右の条々は、一度申し触れただけでは変わらないでしょうから、度々申し触れて下さい。
  岡村半右衛門・中嶋左近・戸田助左衛門にもこの書中を見せて下さい。恐々謹言。
       (慶長十五年)三月廿三日            忠(花押)
                内記殿 

――『細川家史料 一六九八号文書』



『鯖の頭の塩出し』

2020年04月22日 16:44

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/22(水) 01:23:08.00 ID:we8d9f7r
細川三斎は中古(上古と当世の間。なかむかし)の茶の湯の者であった。茶菓子に、能登の鯖刺(鯖の
鱗と内臓を取り、背開きにして塩漬にし串に刺したもの)の頭を切って、折敷に椎の葉を敷き、それに
のせて箸を添えて出した。これを『鯖の頭の塩出し』といい、切り方に口伝が有った。

椎の葉を二つばかりに切って、それを添えて面々に出す。客はその葉で掬って喰う。無類の茶菓子である。
以前は、香の物を鉢に入れる事がなかったのだが、三斎の時代より香の物を鉢に入れて出すようになった。
彼の父である兵部大輔藤孝は丹波知行の時、三百石ばかりであったという。将軍義輝公に勤仕の時、今の
千石ばかりの身上であったそうだ。

渡邊幸庵對書
鯖の頭も茶菓子だったのか。



67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/22(水) 02:54:58.22 ID:hkP8sVeK
頭じゃなくて塩鯖の中身の塩を掬って舐めるんだろ
やばいくらいしょっぱいと思うぞ

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/22(水) 07:19:06.37 ID:qR+rnLpT
>>67
謙信が能登を落とした理由はそれか!
茶ではなく酒のために

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/22(水) 12:27:28.01 ID:AeW9hv7m
茶請けに沢庵食ったりするし、そういう感じか
考えるだけでしょっぱくて唾液出てくるなぁ

井目も武蔵が強い

2020年04月21日 17:32

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/20(月) 22:24:55.75 ID:+n0zh/da
私(渡辺幸庵)は柳生但馬守宗矩の弟子であり、免許印可も取った。
竹村武蔵という者があり。自己で剣術を練磨して名人と成った。彼は但馬守と比べると、
碁で言えば井目も武蔵が強い。彼は細川越中守忠興の客分として、四十人扶持を合力された。
その子を竹村与右衛門といって、これも武芸に達した。

武蔵について、武芸は申すに及ばず、詩歌、茶の湯、碁将棋など総じて諸芸に達していた。
ではあるが、第一の疵があり、洗足行水を嫌い、一生沐浴する事がなかった。
外に裸足で出て汚れても、これを拭くだけですませた。そのようであったので、衣服は汚れ、
それを隠すために、天鵞絨(ビロウド)両面の衣服を着た。
こういった事の為に、歴々の人たちは彼を疎んじて近づかなかった。

彼の子孫に久野覚兵衛といって、松平摂津守殿に奉公す、またもう一人は久野団七といって、
松平出羽守義昌に奉公した。この人物は隠れ無き馬数寄であり、身上は五百石であったが、
金五十両より下の馬を求めず、いつも高額の良き馬を揃えていた。

渡邊幸庵對書

いわゆる宮本武蔵についてのお話ですね



56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/20(月) 22:55:42.70 ID:Mp0bJvmp
そういえば播州生まれでおそらく黒田家に仕えてたっぽい武蔵が細川家に客分になってるってなかなか凄いな
後藤又兵衛は確か黒田細川間の関係がこじれてる中、細川家との連絡の取りすぎで出奔する羽目になったと記憶してるけど

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/21(火) 07:39:04.39 ID:H87ejegQ
稲富さんもなんだかんだ許されてる(?)し武芸者は普通の士分とは別枠なのかもね

58 名前:あさだかなた[] 投稿日:2020/04/21(火) 09:25:54.06 ID:M92QWwh2
徳川家康は年貢を3公7民にして農民に対して
思いやりがあったらしい

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/21(火) 11:55:39.04 ID:fWjA91Hf
>>56
後年の知名度はともかくとして武蔵と又兵衛では身分や主君との関係でもかなり差があるのでは?

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/21(火) 13:17:59.71 ID:nn+0BpMQ
又兵衛は武功を地道に積み重ねて出世したけど武蔵には何もないからね

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/21(火) 16:56:53.34 ID:mmKzAu2o
>>59
まぁそうですよねー、城主の又兵衛とだと全然違うんでしょうね、いつ武蔵が黒田家から出たのかもわからないし
とはいえなんかいつの間にか小倉藩と関わり持ってたり、なんか偉くなってるっぽいんすよねー武蔵

当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき

2020年03月27日 17:44

799 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 11:21:43.27 ID:zmuEJTUZ
(豊臣秀吉の死後)
前田肥前殿(利長)が、細川忠興様の元を訪れ、このように仰られた

「石田治部少輔(三成)が、大納言殿(前田利家)にこのように申し上げました
『家康の事ですが、早くも我儘を申し、御寄合場へ切々と出てきません。今のままで召し置いておけば、今後
秀頼様の御為には悪しき事になるでしょう。ですので今すぐにでも、討ち果たすべきです。』
そう色々に申したことで、大納言殿も尤もに思し召され、討ち果たすという事になり、大阪より伏見へ御上がりに
なりました。これ程の事をあなたにお知らせしなければ、以後に御恨みが有ると思い、その要体を語り申します。

討ち果たす手立てとして、治部少輔申す所によると、
『家康の屋敷は落窪に有り、向かいの高い場所に有る宇喜多屋敷より火にて焼き立てれば下々騒ぎ出すでしょう、
そこで表に出てきた所を、宇喜多屋敷より出て討ち取る。もし裏から出たならば、我等(石田家)の者達で討ち取る。
兼ねてからそのように考えていたので、家康の屋敷の後ろは私の下屋敷にしてあり、只今佐和山より動員している
人数が四千有り、手間の要ることではありません。』

そのように申しているのです。」

そう肥前守殿が語った所、忠興様はこのように仰せになった
「家康公を討ち果たすとの事ですが、治部少輔の手立てではうまく行かないでしょう。」
「それはどういう御分別で、そのように思われるのでしょうか。」
忠興様のお答えに、肥前守殿はお顔の色が変わられた。忠興様は仰られた
「私を縁者であると思し召し、一大事をお知らせに成ったことが既に、御後悔しているように見えます。
この事は破れるのも、無事に成るのも御父子の御分別次第です。

この事が破と成った時は御身上が逃れたいと思っても、人は逃さないでしょう。
また私の身上も、逃れたくとも人は逃さないでしょう。
破と極まるのであれば、何時も一所と心得ましょう。

私の考えとしては、治部少輔にとって日本に恐ろしいと思っている人物が二人あります。一人は内府であり、
もうひとりの大納言殿は既に病であり、大納言殿が果てられた以後は、己が主人となろうと考え、色々様々に
申しているのです。あなたを批判するような事を言いますが、大納言殿が御死去なされたら、あなたの事は、
今の十分の一も人は用いないでしょう。御分別を専らにするべきです。
今後、内府を主人とするのか、治部少輔を主人とするのか。
私は治部少輔を主人とするなど罷りならぬことだと考えています。」

肥前守殿はこれを聞くと、
「一々至極と承った。然れば大納言殿に御異見を申したいのだが、蓮々御存じのように、私が申すことは
たとえ良いことであっても聞いてくれない。ましてやこの事については既に、治部少輔の言うことを尤もと
思われている。それを、私の無調法な口では中々説得する事は出来ないだろう。是非御同道してほしい。」
そう、たって仰せに成ったため、大納言殿の元へ御出に成った。

大納言殿が居られる又次の間まで進むと、そこからは先ず肥前守殿がお入りに成り、要体を語られた所、
病にて臥せって居られた大納言殿はむくと起き上がり、畳を叩き悪口を仰せになった。これに肥前殿は
「私は口不調法にて、物のあやを申せないため、御合点参らないのでしょう。そのため越中殿をここまで
御同道しました。」
そう仰せに成ると「然らば越中殿を出候へ」と仰せにつき、大納言殿の居られる間にお入りになられた。

800 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 11:22:02.91 ID:zmuEJTUZ
そうして忠興様が要体を語られると

「其の方の仰せになる所は解ったが、内府が何の御談合にも出てこないという事をしている以上、このままでは
以後秀頼様の御為に成らない。私の息のある内に、家康を討ち果たすべきだと考えている。」と仰せになった。
忠興様はこれに
「批判を申すようですが、御分別を更に重ねられるべきと存じ奉ります。例え家康に対して御談合の場に出ることを
堅く無用と申したとしても、家康が御座有った頃と同じようには出来ません。貴殿が合点していただければ、
家康が出てくるように仕りましょう。そのようにすれば如何でしょうか?」

「家康さえ出てくるのであれば、何も言うことはない。常々、意趣が有ったわけではない。」
大納言殿はそう仰せに成ったため、忠興様は直ぐに、家康公を大納言殿の元へ同道なされ、入魂の御盃を取り交し、
首尾よく家康公は御帰りになった。
忠興様は残り、大納言殿へ仰せになった

「家康の現在の屋敷は無用心であるので、向島へ移されるべきだと考えます。」
「この上は如何様にも。其の方に任せよう。」

そのように仰せに成ったため、即刻向島へお移りになった。

この一ヶ状は三斎様の御物語で承った事である。そして家康公と御老中御連判状に、
『当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき。』とある、六、七人の御連判状を私(細川忠興軍功記の作者)が
預かったことがあり、覚えている。

細川忠興軍功記



802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 12:19:08.70 ID:28ctvBqZ
徳川の治世と豊臣の治世だったら当然豊臣のほうがいいだろうなあ
徳川に味方して得たものはなんなのさw

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 13:25:20.20 ID:k+lBAxIa
少なくとも領地は広がったな。前田も細川も

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 13:33:31.03 ID:JVQBGdYo
豊臣だったら領地は増えてないな

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 15:31:27.93 ID:xqag71KY
○ 太閤蔵入地の解消
× 基本的に政権運営に参画できない

国持クラスの大名はともかく、中小の大名なら江戸幕府の方がやりやすいだろうね
まあ、財政的に余裕が無くて悠々と藩経営できてたケースは少ないけど

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 15:48:32.81 ID:SfIo6kA4
大大名も必ずしも政権運営に参画したかった訳でもないと思うぞ
というか極論三成だけが異常にやりたがってたようにも見える

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 16:18:25.61 ID:pQMysm+j
三成よか輝元のがあやしい

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 17:19:12.35 ID:00FCvUDV
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 17:19:12.35 ID:00FCvUDV
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 18:22:26.61 ID:SfIo6kA4
政宗が誰を嫁にしようと老中にはなれない
変に梟雄的に取り上げられることあるけど
普通に安定求めた婚姻だわな

輝元は三成に乗せられたお調子者だね
乗せられた分野心あったと言えるが

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 01:00:33.06 ID:rNuJGc1p
参勤交代が藩財政を逼迫させたんじゃないの?
知らんけど

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:02:34.16 ID:enxJZdyv
参勤交代は徳川家光の時の政策だし、そもそも江戸在府が基本だった大名への
負担軽減策だったわけで。

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:06:14.65 ID:MVE+KsKB
ずっと当主が天下人の城下に屋敷構えて許可ないと全然帰れませんよりよっぽど安く済むらしいわよ、参勤交代
しかも当主が遠国にいるから領国の統治もむずいし下手すりゃ領地で政治執るやつが実権握りかねんし

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 07:19:02.81 ID:EEZk3pD1
>>813
太平の世で大っぴらに出来る貴重な軍務。
我が武威を世間に見せ付けられる場なのでどの藩も行列を豪華にすべく無駄金使ったせいでもあるので。

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 09:16:16.15 ID:Zk6eD4N+
江戸時代の武家財政の逼迫は本質的には
何も生み出さない雇用守らなきゃ行けないから

仔細が有り、丹波路を行く

2020年03月26日 17:57

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 10:09:52.35 ID:++oLtex7
慶長五年、奥州会津の城主・長尾景勝御討伐の時、細川越中守忠興は家康公の御味方にて宮津より出陣された。
父・幽斎は隠居の身であったので、田辺の城に居られ、忠興だけが出た。

こうして忠興は雑兵たち三千の人数にて六月十一日に宮津城を出馬された。この折に、御暇乞い申さんと、
田辺城に立ち寄り、その夜は田辺に宿陣した。幽斎は天守に上り、軍勢の行列を見物された。

忠興は若州を経て近江路へ打ち出ようと、丹後・若狭の境である吉坂まで進んだ。ここに、若州熊川には
近年関所が有るのだが、ここに敦賀の城主・大谷刑部少輔(吉継)が下知を加え、熊川の関所をいよいよ
堅固にして往来容易からざる様子が聞こえたため、忠興はこのように申した

「若州より近江路へ打ち出ようと思ったが、仔細が有り、丹波路を行こう。」

そうして吉坂より取って返し丹波路を山家へかかり、伏見へと出た。
幽斎はこの事を聞くと、こう申された

「刑部少輔になにか計りが有ったとしても、それで忠興の通行を妨害する仔細はない。
この頃世間物騒の時節であるのだから、むしろ関所に行き掛り、仔細を見届けて通るべきなのに、
吉坂まで進んでおきながらそこから取って返し、丹波路へ向かったのは不覚悟の至である。
忠興がもし存命して帰陣したとしても、対面は致すまじ!」
そう奥歯を噛み締めて怒鳴られた。

また一方、それから程なくして小野木重勝が田辺城を攻めた時、勅命とは言いながら、今少し永らえずして
幽斎が城を渡して京都に上ったことを忠興も悦ばなかった。

こうして互いに隔心が出来、段々と不和に成っていき、後にそれは次第に募り、父子の間の侍共が、一日に
二度に渡って鑓を合わせる事件も有った。

丹州三家物語



937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 12:43:09.56 ID:R6yK/SZl
サイコパス親子

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 12:52:06.74 ID:/s+X6SpC
命がけの親子喧嘩は戦国あるある

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 20:16:46.18 ID:MxcE7X8S
でも、もうちょっとこう広い心があってもいい二人

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 08:59:42.36 ID:vfGRF0A/
本人同士はまだいいが配下にやらせるのはちょっとなあ

黄金百枚の儀

2020年03月25日 18:11

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:24:30.66 ID:K2dn1Ud1
細川忠興様は豊臣秀次公より別して御懇にされており、どうしたわけか、黄金百枚を拝領していた。
その上秀次の家老である前野但馬守(長康)殿の子息・出雲守(景定)は忠興様の聟であり、
秀次事件が起こると、御縁者故「秀次の一味である」と治部少(石田三成)の申立があり、これに
是非無く思し召され、聚楽の屋敷へは米田助右衛門(是政)殿が遣わされ、伏見での状況次第では、
御上様(正妻)、御子様たちを仕舞(生害)させ、御屋敷へ火を掛け、助右衛門殿は切腹するようにと、
忠興様は命ぜられた。

伏見に於いて、黄金百枚の儀は、「薬院法印(施薬院全宗)の肝煎りで秀吉公(秀次の間違いか)より借用した
ものであって、拝領ではない。」との弁明を、米田助右衛門、徳善院(前田玄以)より、太閤様へ申し上げた所、
太閤様はこのように仰せになった

「先年、明智謀反の時、信長公への御恩を存じ出、明智に一味しなかった。
たとえ今度、秀次と一味したとしても、その時の忠節により赦免しよう。」

この旨を徳善院が仰せ渡すと、忠興様は御安堵なされ、この時も助右衛門殿の一命をとした御奉公であったと、
忠興様より度々そのお話を承った。

細川忠興軍功記



788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:29:19.10 ID:5/kImDAj
>>787
しれっと治部と太閤を貶める悪い話。

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:36:18.45 ID:airvD0sC
金借りただけなんですもらってないんです、って言い訳になるんだろうか

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:39:25.29 ID:/mRIgf+N
佐吉があえなく負けた理由がよく分かるな

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 21:37:06.12 ID:NfHJ2VF6
この話へうげものにあったね

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 22:54:05.24 ID:aUbdaYvf
>>789
猪瀬直樹、徳洲会の5000万円事件思い出した

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 13:15:13.15 ID:jvpr6x/q
口先で借りただけだから許せやって話じゃなく
だから御公儀にお返しするので許してください
って話なので

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 19:33:11.35 ID:5lQO7ZEJ
>>794
なるほどそういう文脈なのか
これは勉強になりました

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 20:29:48.46 ID:MxcE7X8S
石田さんほんとにどういう人だったんだろな
全員にこんな感じでちょこちょこ当たってたんだろうか