秀頼公が降らせたとしたら

2018年03月04日 21:07

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 18:25:56.35 ID:dDdfXZzE
寛永八年五月八日、江戸にて霰が降る。
この霰はとても大きく屋根をつきぬけ死人が出たほどであるという。
この日は豊臣秀頼の十七回忌であり秀頼の祟りであると皆噂した。
そんなときに三斎様が忠利への手紙に書いた一言
「秀頼公が降らせたとしたら小米ほどの霰にしかならねーだろ」

ひどい言いようである。



576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 21:52:24.34 ID:1/g86kDk
>>575
面白いw

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 02:35:05.49 ID:WZikKtO0
なんで小米なのか説明よろしく

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 08:12:54.52 ID:SRBMFBnt
小物だから、てことじゃダメなのか

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 20:27:09.16 ID:+GYwg/Yu
普通に考えて 、秀頼は高く評価仕様がない

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 22:42:42.32 ID:E7L7esSF
確かにひどいなw

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 23:10:37.02 ID:22URxcVa
後のシャオミである

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 23:12:06.25 ID:ib5vEmNz
信雄や足利義昭のようにはいかなかったんだな。
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御最後の時、さぞかし私の事も

2018年02月09日 21:04

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/09(金) 08:31:11.41 ID:LuXzig//
細川幽斎・忠興父子により、丹後弓木城主である一色五郎(義定)が謀殺された後、
幽斎の娘であったその内室は宮津へと帰った。そこで一色五郎の討たれた終止を聞くと、
その最期の時を想い深く嘆いて過ごした。彼女はこのように語った

「過ぎし八日の卯の刻(午前6時ころ)、殿は私に向かってこう仰られました

『今日は細川殿と対面する。我が家と細川殿、互いの先祖は親しくして代々公方様へ仕えつつ。
ここかしこの戦において、互いに頼み頼まれ、力を合わせてきたと見える、古い文なども
今に残っている。子孫の末となったが、昔を思えば懐かしく、またこのように親子の縁となった
宿縁の浅からぬ不思議さよ。』

そうしていつもより丹念に、馬鞍をきれいに装わせて弓木を出発されました。
私が一色に嫁いでより、あのように賑々しい供人にて、いづくの地へも出かけたことはありません
でしたから、私もひとしお嬉しく、城の窓から一行を見送りました。
須津の浜道を過ぎ山路に差し掛かると、そのあたりを覆っていた朝霧も吹き払われ、とても幽幻な
姿に写りましたが、それもやがて松陰に見失い、供人も見えなくなり、心の中にやるせない思いを成し、
そぞろに涙がこぼれそうになりましたが、忍んでそのような姿を人に見せませんでしたが、なにやら
不吉な気もして、盃を出させ、女房たちも慰めました。

それなのに、思いの外の事があって失せさせられた哀しさよ。
このような企てが有ったとは、夢にも知りませんでしたが、御最後の時、さぞかし私の事も
恨まれたでしょう。」

そう、明け暮れに嘆かれたという。

(丹州三家物語)



529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 14:30:50.66 ID:xivEyj3j
兄が基地外だと普通の男が優しく見えるようだ

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 15:31:24.86 ID:7B7liXrt
三斎様の眉間の刀傷ってこれが原因か?

上下の間の作法を申し付けぬ人

2018年01月30日 18:04

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 00:02:00.17 ID:0It5AjrQ
上下の間の作法を申し付けぬ人


寛永9年12月に、細川忠興が熊本に四男の立孝を呼び寄せたところ
立孝に付くことになった地元の従者が"上下の作法"を知らなかったので
笑ってしまったという話を嫡男の忠利宛てに書き送っている。その手紙の中で

寛永9年12月14日の忠利宛て忠興書状(細川家史料)
『古肥後(加藤清正)は一切上下の間の作法を申し付けぬ人であった。
 高麗などでも左様に見えた』

と40年以上前の話を持ち出して、清正のせいで熊本の侍の
態度が悪いと皮肉っている。よっぽど不快だったのだろうか?



517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 11:39:32.08 ID:+FDuZGLA
下人から成り上がった者は下々と親しく振る舞うからね
将軍に仕えてたお大尽とは接し方が違う

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 12:26:31.16 ID:wMisgGOo
儀礼をわきまえてないのと親しくするのは全然違うことでしょう。
現代でも「親しき仲にも礼儀あり」と言いますからね。

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 21:43:00.66 ID:BKmLaQWd
>>518
無礼講って言ってたのに機嫌が悪くなるクソ上司に似てるな

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/31(水) 00:03:56.08 ID:rz1wIjlV
>516-517
真田丸で豊臣系の成り上がりの家に不快感を示してたのはこの辺の話がベースだったっぽいね
ただ加藤家が残ってる頃だと黒田家とは違い付き合いは一応してたので
「熊本から贈られた海苔美味しい」とか言ってる三斎様

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/31(水) 00:35:45.02 ID:qyN129Vt
>>520
肥後治めるのに清正を最大限立ててもいたしなぁ。結果、熊本で何かといえば全部清正に。

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/31(水) 08:35:08.35 ID:r/L94H6H
>>519
ゴメン。
この話題からその感想は理解不能。

三斎は実は

2017年06月08日 00:27

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 02:47:35.45 ID:/PRBbIyV
幽斎は細川への養子で、本名は三淵である。幽斎の兄を三淵大和(藤英)
という。光源院殿(足利義輝)の弟(義昭)は幽斎を頼みにして信長に頼った。

(信長と義昭の間には)20ヶ条の掟があったが、(義昭は)後にこの掟を
用いずして槇島に籠城した。信長は(義昭を)熊野に追い込みなさった。

光源院殿の御宮妾が懐妊3ヶ月の時に、幽斎は御宮妾を与えられたので、
三斎は実は光源院殿の子である。三斎は光源院殿に顔が似ていた。

本願寺東泰院の父(教如)も光源院殿の落胤という。稲葉能登守(信通)は
三斎の孫である。

(光源院殿妾御宮。懐妊三月に幽斎は被下候ゆへ。三斎は実は光源院殿子
也。光源殿に顔似たり。本願寺東泰院父も。光源院落胤と云。稲葉能登守は
三斎の孫。)

――『武功雑記』


松井康之が利休最後の手紙を

2017年06月05日 21:10

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/04(日) 21:10:27.63 ID:1YzJkvJp
トーハクの茶の湯に最終日に行ってきたが
実物の伊賀焼き花入れの生爪見た。
松井康之が利休最後の手紙を受け取ったというのも初耳だった



985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/05(月) 02:50:22.57 ID:DEb+6auF
松井康之は利休←→忠興の身分差が大きいから形式上は間に居て取り次いでた
その一方で個人的にも利休と親しかった様子

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/05(月) 16:24:11.36 ID:bu89Ei3i
天皇から号もらってもダメなもんはダメか

中里介山「大菩薩峠」の「伊達政宗と細川忠興で半分こ」

2017年05月30日 18:10

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/30(火) 15:31:13.86 ID:RaAvraES
伊達政宗=文化財クラッシャーってことで王羲之の書をまっ二つにしたことがネタにされてるけど
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-376.html
「伊達政宗と細川忠興で半分こ・いい話?」

>政宗と忠興と言えば、朝鮮出兵時に漢陽(ソウル)の王宮で見つけた
>王義之の書(写本)を取り合って、結局山分けして半分ずつ持ち帰った話が
>2人らしいエピソードで印象深い

中里介山「大菩薩峠」を読んでたらこのエピソードが載っていて、その内容は
細川三斎の部下甲がソウルの王城で王羲之の孝経(李世民親筆の序つき)を見つける。
伊達政宗の部下乙もそこに来て、甲に伊達に譲るよう言うが、早い者勝ちということで甲が自軍に持って帰る。
→乙から聞いた伊達政宗が細川三斎の陣を訪れて、王羲之の孝経を見ようとする
→細川三斎が「このままでは政宗に持っていかれる」と思い、政宗に両家の結婚話を出す。
→政宗が両家の婚姻を承知する。
→細川三斎が王義之の孝経を2つに裂き、両家が一つずつとり結納代わりとする。
この後
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-845.html
のとおり、細川宗孝が板倉勝該に人違いで斬殺された際に伊達宗村(小説では父親の吉村)が機転を利かせて
細川家取り潰しを回避し、恩を感じた細川家から王羲之の書が伊達家に与えられ、王羲之の孝経がもとに戻る。

てことになっていた。
これだと三斎様のほうが文化財クラッシャーになってしまうけど、もともとの話ではどうだったんだろう。
中里介山の創作がここで戦国エピとして語られたんじゃなきゃいいが


尼ヶ崎侯家紋九曜を用る由来

2017年02月14日 10:09

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 01:09:14.70 ID:BgQ72oq0
尼ヶ崎侯家紋九曜を用る由来

 大阪の乱のとき、塩賊は尼崎侯の葵紋がついた兵器や提燈を観て驚愕落胆した。
この尼崎の祖先は御当家松平の御同族で信定といい、三河国桜井城に住んでいた。
よってその子孫を桜井の松平家と称す。このためであろうか桜花を家紋としている。
しかし松平の族なので葵が元来の家紋である。

 しかし桜花の家紋には違う理由があるのだとか。
あるとき彼の祖先の誰かが、細川三斎〔忠興〕の宅に行って碁をしていたが、
その時に神君に招かれるということがあった。
すぐに赴こうとして、その者が三斎に

「今、それがしが今着ている服は殊に汚れている。
よろしかったら君の衣を借りて着たいのだが。」

と言うと三斎は喜んで彼の家の服を与えた。
よって今桜井の家は九曜星の紋を用いるのはこれから始まったという。
〔細川氏の家紋は、今も九曜星である〕

 また桜井の家は今はもっぱら九曜を用いているが、もとは葵葉が正式の家紋なので、
この家の者は皆は正式の時には葵紋を用いている。
葵紋を用いるのは変事に限らないという。

(甲子夜話三篇)
参照:桜井松平家『桜井桜』
桜井桜



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 02:16:00.22 ID:clIcZdKw
塩賊がわからん

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 07:37:43.53 ID:+WvvCSyd
塩の密売人

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 07:42:04.94 ID:clIcZdKw
それとこれがどう関係するん?

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 08:06:11.49 ID:RoaBpj1c
大塩平八郎の一党の事じゃないの>塩賊

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 16:59:51.38 ID:8P63j5pE
超時空関羽のことだよ

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 20:20:51.66 ID:mYu93Acq
塩派とタレ派で騒動があったんだよきっと

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 22:56:32.10 ID:4eHEPjx1
俺塩派

朝鮮飴〔細川氏家製〕之事

2017年02月01日 09:18

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 22:28:57.14 ID:BhaUGTgD
朝鮮飴〔細川氏家製〕之事

 細川氏の家で作られているものに、朝鮮飴と呼ぶものがある。
予は時々彼の家の知り合いの者からもらっている。
 ある日思った。
これはきっと彼の祖が朝鮮討のときに、渡海してかの国から伝えてきたものである、と。
 そこで肥州(松浦熈※松浦静山の息子)に細川氏の者に尋ねさせた。
支家の細川能州(利用)が答えられるに、
「本家の二代越中守忠興が、文禄元年〔壬辰〕に、秀吉の命により朝鮮へ渡り、翌年冬に帰国しました。
そのときから製法が家伝したと思われます。」
とのことであった。
ならばやっぱりかの俘囚から得たものか。
 予の家の陶器(平戸焼)と同類である。

(甲子夜話三篇)



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 22:35:06.58 ID:FoQj+jav
ウィキみると清正由来だな

この清水の作の脇差を帯び、

2016年12月08日 17:18

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/08(木) 00:12:35.81 ID:J91C5wri
>>390の続き

 寛永中、細川三斎入道忠興は、帰国の際に別辞を述べるため猷廟(家光)と対面し
そこで御馬を贈られた。
それから西の丸に登り、台廟(徳川秀忠)の御前に召された。
旅中に服用するようにと御薬を与えられ、直接清水藤四郎の御脇差を下された。
その時の仰せで

「我が前にお前たちと共に太閤の前にいて談話していたときから、お前はこの脇差を見て、
『ああ、この清水の作の脇差を帯び、利休の尻膨れ茶入がある茶事を催せたら、
生涯の至楽に足れるのに』
と申していたな。
その言葉は今も耳底に残っていたのでお前にこの脇差を授けたのだ。」

とあり、忠興は感謝して退いたという。
〔この頃には尻膨れの茶入が既に細川家の物となっていたという〕。


(甲子夜話)



400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 10:36:20.98 ID:Db/1OrV5
>>394
これ忠興は利休に散々「茶室に脇差差して入るな」って注意されてたのに
その教えをガン無視して、利休の茶入れで脇差差して茶会やるっていう悪い話でもある

嶋原の賊矢文

2016年10月25日 21:22

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/25(火) 05:15:08.44 ID:dsNNs2EC
嶋原の賊矢文


薩州の支、佐土原侯〔島津筑後守〕の臣の某が持ち伝えている、
寛永中の耶蘇一揆のときに、原の城中から寄せ手に射遺した矢文として、
伝写したものを見た。
本書は今なおかの臣の家にあるという。
その文は憎むべきものだ。
これがまさに彼らが賊徒であるゆえんである。


「矢文


『一、当城之土民、宗門ノ為メニ尸ヲ山ニ捨て、名ヲ後代ニ留メント欲ス。
之ニ加ルニ忝モ上使板倉内膳正ヲ討チ奉リ、生前死後之本望、之ニ過グベカラズ候。
冀クハ近日一戦遂、万死ヲ顧ズ、尽ク相果ン。
且又余慢有ルニ依テ、狂歌ヲ綴リ軍中ニ放ツ者乎。一笑セヨ。』


一戦功成テ古城ヲ鎖ス、 三軍ガ死ヲ望テ責レドモ成シ難シ、
九州ノ大勢十余万、   一冬立チ尽シテ花ノリヲ待ツ。


島原や有馬の城を責かねて 心づくしに見ゆる上使衆


肥後守いかに心は細川や なかながし日をあかし暮らして


物数寄は越中流とききければ 敵にあふてはならぬ物数寄


有吉や頼むかひなき先手にて 敵をばうたで味方をぞうつ


信濃路や敵に心をかけ橋の かいがい敷もあぐるせい楼


立花や袖の香ふれし昔より 猶かふばしき武士の道


有馬山すそのの桜咲みだれ 軍は華を散す古城


寛永十五年寅三月日」


(甲子夜話)



細川三斎先見〔大坂陣起こらんとする前〕

2016年10月08日 21:10

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/07(金) 22:16:35.47 ID:ydBTguYg
細川三斎先見〔大坂陣起こらんとする前〕

軍講者宗耕の話である。

 大坂陣起ころうとする前、細川三斎は領国にいた。
宇土から熊本に行く途中、何者かが馬上で深網笠をかぶって行く者に会った。
三斎はその者と間近くで行き過ぎざまに振り返った。

三斎は左右に問うた。
「今の馬上の士、お前たちは何者かを知っているか。」

「知りません。」

「あれは塙団右衛門だ。どうしてこの地に来たのか。
我はあやうく打ち捨てようと思ったが、そのままにしておいた。
もしかすると、遠からず変事が起こるだろう」

 果たして、その後間もなく大坂の乱が起こったという。
後に思うと、塙は薩摩へ行く途中であろう。そうならば大坂の戦の最後で
秀頼も薩摩へ落ちて行ったが、なにか薩州と由縁があるのだろうか。
神君にも御弁えられていることなので、捨て置かれしとのことなのだろうかと。

 またこのことをある席上で細川の留守居へ問うと
「この話にでてくるのは、まさしく三斎である。」
と言ったそうだ。
薩摩の留守居も居たが、
「これはどうしたことであろうか、よく知りません。」
と答えたそうだ。
思うに、薩摩の留守居は憚ったのだろうか、そもそも知らなかったのだろうか。
(甲子夜話三篇)



227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/07(金) 23:46:30.86 ID:hBlmd/qS
細川の肥後入りって大坂の陣より後じゃね?

ガラシャの鐘とディエゴ加賀山の殉教

2016年08月25日 14:55

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 14:21:09.55 ID:vy/UI/bB
ガラシャの鐘とディエゴ加賀山の殉教

永青文庫にて所蔵・展示されている「九曜紋付南蛮鐘」は、記録がないため詳細は不明だが
現存する4つの南蛮鐘(キリシタンベル)の内の一つで大変貴重なものであり
現代の細川家/永青文庫では通称『ガラシャの鐘』と呼ばれている。



細川忠興は妻の珠(ガラシャ)とは生前信教のことで対立することも多かったものの、
珠が自害した翌年には焼跡から珠の遺骨を拾ってくれたオルガンティノに教会葬を頼み、自身も参列。
慶長7(1602)年からは、小倉城下ではセスペデス神父や家臣の加賀山隼人の指揮の下
天主堂や集会所等を作ることを許し、キリシタンに対して非常に寛容な態度で接していた。
忠興がこの南蛮鐘を鋳造させたのは、恐らく天主堂に寄進するためだったのだろう。
加賀山は10歳のときにフロイスから洗礼を受け、安土のセミナリヨで学んだという筋金入りの
キリシタンだったので、小倉の教会では中心的人物になったという。

しかし慶長11(1606)年のセスペデス神父の急死や、慶長18(1613)年の幕府の禁教令により
キリシタンに同情的だった忠興の態度はついに硬化し、天主堂を初め関連する建造物は全て破却された。
この鐘も小倉城下に音を響かせることは終ぞなく、櫓の隅に仕舞い込まれたと言われる。

当然細川家中でのキリシタンへの目も厳しいものとなり、六千石の禄を得ていた加賀山も幽閉され、
忠興に「自分と一緒に地獄へ行こう!」とまで言われ棄教するように説得を受けたが、拒否し続けた。
元和5(1619)年在京中に信者52人が処刑された京都の大殉教を見た忠興は、加賀山の説得を諦め処刑を命じ
10月15日、加賀山隼人(洗礼名:ディエゴ)は小倉城下町の西、干上りの丘で斬首された。

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 14:21:50.71 ID:vy/UI/bB
おまけ

細川忠興の親友森忠政はいろいろあって津山城を完成させ、お祝いに忠興から鐘をもらっている。
(参考:ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1154.html)



通称『朝顔の半鐘』とも『篇笠の釣鐘』とも言われる鐘だが、『ガラシャの鐘』と九曜紋の位置や大きさを
除けば、非常に似通っている。
確証こそないものの津山城完成が元和2(1616)年で同時期のため、
ガラシャの鐘を鋳造するときに一緒に作られたのではないかという論考がある。
こちらの方は津山城の天守閣の最上階に吊るされ、時を告げる鐘として毎日鳴らされ続けたらしい。




松平の家がある限り

2016年08月12日 18:56

森忠政   
72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/12(金) 13:27:31.42 ID:s4KcRqqy
松平の家がある限り


慶長三年の冬、石田三成が家康を暗殺しようとしているという噂があり、
その警戒のために伏見向嶋の家康の屋敷に諸大名が毎日出入りしていた。
森忠政細川忠興と示し合わせ、御供には具足と食物を挟箱に入れて持ってくるように言って
家康邸に三日三晩一緒に詰めて(自分の)屋敷には帰らなかった。

夜中に家康公は井伊直政に手燭を持たせ(忠政と忠興を書院に呼び出して)お出ましになると
「両人の懇志は言葉に言い尽くせないほどです。大坂方には詮なきことを企んでいる者がいること
聞き及んでいますが、もし万一そのような者が(本当に)いたときは
大坂方面に信頼できる者を配置しているので大坂勢が出陣することがあればすぐに注進があるでしょう」

「そうなればこの屋敷にいても守るのは難しいので大仏へ閉じこもり防戦をする覚悟です。
両人の衆もそのときは大仏で戦ってもらうことになるので自分の屋敷へ帰って一報を待って下さい。
必ず使者が参ります。いずれの衆(他の諸大名)にもこのことは伝えませんでしたが
両人の深切は他と異なるので内々に申し合わせておこうと思いました」

そうして家康公は御両将(忠政・忠興)の御手を一度にお握りになると
「松平の家がある限り末々まで今回の心遣いを忘れません」と仰せられたと言う。

――『森家先代実録』



雪舟渡唐ノ富士云云

2016年07月08日 16:33

雪舟   
918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 12:28:22.81 ID:/8qXeXoP
雪舟渡唐ノ富士云云

 谷文晃の話に以下のものがあった。
 今細川家[隈本]秘蔵の雪舟渡唐富士の幅は妙心寺の什物である。
三斎の時、妙心寺の住職に求めてそれを借りて、江戸に至り茶席に掛けて愛賞していた。
しかし、表装が粗末であったので佐久間将監に頼んで、趣向を凝らした表装に替えられた。
帰国の時に上方へ持って行かれ。
しばらく国元まで借りたいといって持ち去り、また翌年の参勤の時もそのように断って江戸に持参され、
年月を送る内にいつの日か細川家の物となったという。

 その図は、清見寺の山を前に描いたものである。雪舟が唐国にいて、うっかり寺山列樹の間に塔を描いてしまった。
帰って清見寺を過ぎると塔は無かった。雪舟は嘆いて、
「私は唐人を欺く意がはなかった。ふと描くいてしまったが、今見ればでたらめになってしまった。」
と寺から十八町ほど隔てた所に、新しく塔を建立した。
その方角だとちょうど描いた場所になったという。
 しかし寺の境内ではない所の塔であれば、守る者は誰もいなく、遂に乞食の住家となった。
そして、或る日失火して灰燼となった。
天明中のことであったという。古人の物に厚いこと感ずるに余りある。
 以上は林述斎の話である。

この話で思い出したことに、先年享和壬戌夏、狩野養川院の粉本を見たことがある。
その時に模写しておいた。取り出して見れば、雪舟渡唐富士と記してあり、内に、
此本紙細川越中守殿所持と記してあった。
(甲子夜話続編)

http://www.eiseibunko.com/collection/chusei3.html

どうやらこの絵の逸話だそうで



武士ハ加様ノ事ハセヌモノト

2016年07月06日 10:02

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/06(水) 03:00:14.63 ID:vu4jWaA7
細川忠興は、袖から出して撃つ鉄砲を徳川家康に差し上げた。

すると家康は、「武士はこのようなことはせぬものである」と言って、即座に
その鉄砲を返したという。

これは小幡景憲が物語ったことである。

(細川三斎袖ヨリ出候テ打鉄砲ヲ権現様ヘ被差上候処武士ハ加様ノ事ハ
セヌモノト被仰候テ則坐ニ御カヘシ被成候由小幡勘兵衛物語)

――『武功雑記』



807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/06(水) 03:44:30.70 ID:fSBYD8il
タクシードライバーのスリーブガンですねわかります

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/06(水) 07:28:53.05 ID:noUy087A
撃てば歴史変わったのにな

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/06(水) 13:12:42.43 ID:jk5WTJCv
>>806
暗殺用の鉄砲?なんでそんなもんもっててんだ忠興w

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/06(水) 19:30:02.01 ID:6gWpd17c
嫁に近づく庭師を遠くにいても討てるようにだろう

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/06(水) 23:01:43.74 ID:FPpJUk7/
刃物でたたき切らなきゃ満足できなさそうだが

だから越中に謀られたのだ

2016年06月17日 17:55

732 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/17(金) 11:15:30.85 ID:GEmWGYBE
三成の柿の話は綿考輯録(細川家譜)だろうからたしかに違うがこのコメント4も訂正しないので自分が
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-886.html

慶長4(1599年)年3月26日家康は向嶋の屋敷に移動した。
これより以前三成はどうしても忠興を味方にしないと家康を倒せないと考え、多くの人に頼みその中には前田玄以もいて
「忠興と仲が悪いのは大いなる誤りで何とかして和睦できるよう、お頼み申す」とひたすら頼まれたので玄以は忠興の所に行き、このことを告げた。
しかし忠興は許さないので玄以は重ねて「太閤の大恩をもし忘却してなければ私恨を捨て三成と和睦してください」と再三説得してきたのでついには納得して三成と会うことを決めた。

長束大蔵大夫(正家)は和睦のことを聞き大いに喜び、「忠興から三成の所に行くのも、三成から忠興の所に行くのもどうかと思うので、我が屋敷にて共に会って和解するといいでしょう」と
と玄以を通して申し入れたので、日を定めて行くことになった。

三成は早くから来ていて手には盤上の柿を忠興の前に仲直りの挨拶もせずに置き、三成は「以前好物だと聞いていたので持ってきました。
お先に召し上がりください」と言うので忠興は挨拶してから柿を食した。
その席にて三成が内府の専横を数えあげては言い「これをそのままにしては天下は穏かならずことになり終いには天下は内府を主とするに至るでしょう。
まことに遺憾で何とかして秀頼公に奉公仕り権勢を欲する内府をを討ち果たべきと決意しました。
太閤への大恩を忘れてなければ我々に味方してはくれないでしょうか
秀頼公への忠節に対しては、お望み次第にどこでも好きな国を二ヶ国を拝領することを三成が周旋することをお誓いしよう」と丁重に言うと
(忠興も)「我々に目をかけてそのようなことを頼むことに大変嬉しく思う。この上は不肖を捨て一命をかけ、お味方しよう。さて、内府を討つ手立ては?」
(三成は)「こんな時のために、太閤存命の頃から内府の屋敷を取り巻き、味方の面々の屋敷を変えさせました。
今夜即夜討ちをするつもりで宮部善祥坊(宮部継潤)と福原右馬助(福原長堯)は家康の近隣で屋敷が高いところにある。
これらのところから火矢を打ちかければ火が出て何の備えもない家康方は慌てて屋敷を出るところを井楼から一人一人鉄砲にて討ち取る。
僅か二千の兵と聞いているので仮に逃げだす者がいても、こちらの多兵をもって討ち取る算段なので何の手間もいらないので(忠興にも)兵を出していただきたい」

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 11:20:29.37 ID:GEmWGYBE
忠興もこれはもっともな手段だと思ったが、少しも合点がいかないふりをして、
「いやいやそれでは駄目だろう。火矢を打つのは地の高下とは限らない。
内府も堀裏に走り、櫓などを付け、火矢の用意もあるだろう。その上近辺の諸将には、常に忍を置いていると聞くので今夜の企みもはやくから知っているだろう。
こちらから火矢を10射出す時、向こうからは100も射かけてくるだろう。そうすると、敵の屋敷より味方の屋敷が先に燃えてしまいます。
内府は数度の武名を顕し、場数の勇士も多い。2000人が心を一つにして必死の働きをすれば、討つことは難しい。
その内に彼と親しい諸大名が聞き付けて駆けつければ、却って御味方の敗北は疑いようがない。
例えその状況でなんとか勝利を得ても、『弱きの巧みな臆病なる手立』などと後々まで嘲りを受けるのは大変悔しい。

しかしながら、それほどまでに思い定めているのなら、私に一策があるので聞いていただきたい」と言い三成も「その意見を承る」と返した
「今夜の先手を私に命じろ。無二無三に切り入るから各々は二の目を取れ。そうすれば内府を討ち取ることもあるだろう。
例え敗死したとしても、潔い英名は後代に残る」

と申したところ三成はそれを聞かず「あなたを捨て駒にしてそのようなことはできません。お願いだから最初に私が提案した意見にしてください」というが
忠興は納得せずお互いに意見を引かないため論争になった
「忠興殿もあのように言うしどのような意見でまとめるにしろ時間も大分過ぎて夜も深いし、今夜はお開きにしませんか」と提案があったのでそのとおりとなってその日は皆帰った。

後日この話を聞いた小西行長の反応は
「なんて口惜しいことだ。五奉行は世間事には賢い者達だが軍事には拙い。だから、越中(忠興)に謀られたのだ。もはや内府を討つ事など思いもよらないことだ」と、言い頭を抱えて悔いたと聞いた。

忠興はその夜、幽斎を通して「このような事があったので、向嶋に立ち退くように」と言ったが、「彼らにどのようなことができるのか」との返事だった。
翌日忠興自ら家康の所に赴き、そのことを全て話して早く向嶋に立ち退くようにと提案した。
家康はその計画を知り大いに驚き、「命を落とす所だった。この御恩は子々孫々までも忘れない」と語ったという。

関連
柿と三成と忠興・悪い話


あの兄弟が振る舞いに

2016年03月26日 17:47

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 11:26:39.93 ID:sD2szMy3
天正5年(1577)の、松永久秀による信長への反乱に従い、松永久秀の与力である海老名某も、
河内国片岡城に立て籠もった。これに対し信長は、長岡(細川)藤孝父子、惟任(明智)光秀、
筒井順慶に「3人で押し寄せ、蹴散らせ」と命じた。
これにより十月朔日未明に、この3名による片岡城攻めが始まった。

ここで、長岡藤孝の嫡男與一郎(細川忠興)15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳、
この兄弟が真っ先に駆け入った。

しかし片岡城の者達は河内国でも聞こえ有る兵であったので、全く騒ぐことなく彼らを防いだ。
しかしこれを見た長岡家の郎党たちは「あれを討たすな!続けや!」と我先に駆けつけ、これもあって
兄弟は良き兵たちを討ち取り、それを見た藤孝は両眼をうるませた。

筒井順慶、惟任光秀もこれを見ると、士卒に向かって
「あの兄弟が振る舞いに、恥じない者は居るか!?この程度の城にいつまで手間取っている?
早々に乗り入れろ者共!!」
そう大音声を上げ目を怒らせて罵ると、皆々「尤もである!」と螺鐘を鳴らし喚き叫んで攻め入った。

それでも片岡城の兵たちは、義を重んじ命を軽んじて「一歩も引くな!」と、
それぞれが担当した場所から少しも引き退かず防ぎ戦った。しかし織田勢は新手を入れ代わり立ち代わりに
攻め立てさせたため、死傷者多く出て残り少なくなると、「今や叶わじ」と思ったか、城主の海老名は
腹を十文字に掻っ切って伏せ、残る兵たちも、みな思い思いに自害して、同じ枕に臥した。

信長は與一郎、頓五郎の働きを聞くと、即座に感状を下した。
兄弟が感状を頂戴したことは、天晴勇々の事であると、羨ましがらない者はいなかった。

(甫庵信長記)

細川忠興・興元兄弟の片岡城攻めのお話



536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 13:42:16.65 ID:EmgUfXaA
片岡城て大和じゃないのか?

関ヶ原のあと、細川忠興は憤っていた

2015年11月16日 16:33

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/16(月) 07:30:32.74 ID:zgdpCvHx
関ヶ原のあと、細川忠興は憤っていた

「父入道(幽斎)が、いかに勅命だからといって、城を退去したことの口惜しさよ!
また嫡子与一郎(忠隆)の妻が、如何に女の身だからといって、正しく姑(ガラシャ)の自害するのを見捨て、
逃げ落ちたことの不覚さよ!」

そして与一郎に「お前の妻を必ず追い出すように!」と命じた。

これに与一郎は
「父上の仰せ、謹んで承りました。私もこのことを知って、すぐに推問に及んだ所、我が妻、ならびに
それに付き従う者達の証言によると、当時、事態が急変する中、母上は我が妻に対し、
『このような時に大勢うち連れて落ちるのは現実的ではありません。まずあなたが早く忍び出て、
その後私達が追いつきます。』
と仰せられたため、屋敷を出たのだということです。妻は
『あのように御自害するのだと知っていれば、どうして忍び出たでしょうか!』と申していました。
であれば、妻には誤り無きに似ていると存じます。」

この答えに忠興は激怒した。
「父の命に背くとは、甚だ以って奇怪である!今後、長く対面に及ぶべからず!」
そう言って即座に勘当した。
これより細川忠興は、父とも子とも、良からぬ仲となった。

その後、細川与一郎は妻に向かい
「私は思いも寄らず、御身のためにかかる不孝の身となった。こうなった上にも連れ添っていては、
世の人、この忠隆が妻に惑ったため、父から勘当を受けたのだと思われてしまう。それはとても
恥ずかしいことだ。

また、この忠隆は既に貧賤の身となった。妻の兄である加賀中納言(前田利長)が大名であるのを
頼っている、などと言われるのも口惜しい。」

そう言って妻を実家に返し、やがて入道して休無と号した。

(藩翰譜)




黒田と細川が不仲に成ったわけ

2015年09月19日 12:28

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 21:03:25.49 ID:Vnj4IQdC
稲葉丹後守が諸侯を饗応したことがあった時、細川越中守、黒田筑前守を上座と定めてた。
その当日に至って、取持ちの一人が気づいて言った

「細川黒田は代々音信不通の間柄である。今日の対座、如何すべきか…」

そう評議している所に「両家が到着された」との知らせがあり、ともかく上座へと案内したが、
それから膳部など出たものの、互いに挨拶もなく不興のままであった。

両家がこのような関係になった理由は、島原の一乱にあったという。
この時、細川黒田の両家とも江戸城において出陣の命を蒙ったが、細川家より黒田家に相談があった

「これより直に出立すべきだろうか、それとも一旦帰宅して、それぞれの用意をして今日中に
出立すべきだろうか?」

「我々はひとまず帰宅して夫々の準備をし、出立しようと考えている。」

そう云うので、細川は屋敷に帰った。ところが黒田はそこから直に品川へと出るので、
家来たちに直ぐに品川に駆けつけるようにと命じ、品川に出ると餅の類、その他携帯に便利な食料を
みな買い取って出立した。

その後にやって来た細川家は、既に黒田家が出立していることを知ると、急いで後を追ったものの、
終始追い付くことは出来ず、その上黒田の大人数が、行く先々で食物を皆買い切ったため細川家は
大いに差し支えたという。そして島原に着いても半日出陣が遅れた。

これより両家は不快の仲になったという。しかし近年、和解したそうである。

(明良洪範)

細川家と黒田家の仲が悪いことについて、江戸時代にはこういう説も在ったらしい、というお話。




336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 22:33:14.89 ID:AN7xn6ev
食い物恨みかよ

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:11:07.16 ID:X61MWy+V
細川家のあとに出立した家は大丈夫だったのだろうか、とマジレスしてみる。

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:14:25.97 ID:dvVVq3zU
一緒に走ろうねって言って裏切るのと同じやな あるある

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:26:57.69 ID:xuujyMtY
こういう補給のことを全く考えずに出陣を下命すればそれで終わりっていう幕府が無能なんだよな。
現代の感覚で言えば

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:55:50.68 ID:AN7xn6ev
あほなの?

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 02:06:03.87 ID:+P7FxBVx
お前がね

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 02:41:04.79 ID:vrpbk1yq
細川くん「テスト勉強した?」
黒田くん「いや全然してない(ほんとはめちゃくちゃしてる)」
テスト前の高校生かよ

細川三斎の時、衆道の停止を申し付けたが

2015年09月14日 14:12

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/14(月) 13:20:38.12 ID:Sov8g0eq
細川三斎(忠興)の時、衆道の停止を申し付けたが、「命をかけ切腹の覚悟である!」と励むため、
厳しく申し付けるほど、いよいよ衆道は止まなかった。そして三斎秘蔵の小姓と近習の者が、
兄弟の契約をいたしたことが訴えられた。

三斎は両人を呼び出すと、言った
「衆道の事、これ程までに厳しく申し付けても、一命をかけて契約したこと、天晴、健気である。
その健気を以って戦場において粉骨を成すなら、なお一層目に立つべき者であれば、許し遣わす。
よって兄弟の交わりをなし、忠勤を励むべし。」
そう懇ろに申し、両人に加恩を与えた。

しかしその後は、彼らに役職も言い付けず放置したため、何となく不埒者のような立場に成り、
以後は心やすく出会うことも無いようになり、彼らの衆道関係は自然と止んだ、という。

(明良洪範)



314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/14(月) 20:18:40.63 ID:6Dlbalmf
秘蔵の小姓というワードから
NTRの腹いせ的なにおいがほんのりしないでもないような