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安国寺肩衝・異聞

2019年08月15日 17:16

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 00:16:37.96 ID:ADdXVEMj
一つの肩衝と呼ばれる茶入を、安国寺長老(恵瓊)が甚だ珍重していたのだが、
これを榊原康政が甚だ賞美して、「宝貨に替えん」と思っていたが、安国寺は全く承知しなかった。

しかしながら上杉征伐として大神君(徳川家康)が宇都宮まで御動座あった頃、上方にて石田(三成)の
反逆の事が起こり、奥に上杉、後ろに上方の蜂起と、諸軍も驚き、君にも御心痛有ったが、ここで
康政が満座の中御前に出て

「上方蜂起、さてさて恐悦です。」

と、殊の外喜ぶ様子で語った。

「いかなれば康政はかく申すぞ。」家康が尋ねると

「上杉は旧家と雖も思慮が過ぎ、その上急速に御跡を付けるような事は無いでしょうから、聊かの押さえの
兵を難所に残して置かれれば、決してお気遣いされることはありません。

また上方は烏合の集まり勢ですから、何万騎有ったとしても恐るるに足りません。この康政が一陣に
進めば一戦に打ち崩すでしょう。

そして後勝利の上は、安国寺も石田の余党ですから、御成敗されるでしょうから、その時に彼の肩衝を
この康政の軍賞として頂きたい。」

そう申し上げると御心良くお笑いあそばされ、さらに諸士、諸軍とも勢いいや増しに強くなったという。

関ヶ原の勝利後、願っていたものを御約束通りに、かの肩衝は康政に下され、彼は秘蔵していたのだが、
台廟(台徳院:徳川秀忠)の御代、この肩衝を頻りにお好みになされ、康政に献上するよう命じたものの、

「これは軍功の賞として賜った重宝です、この義は御免を相願う」

と従わなかったため、秀忠も思し召しに任せること出来なかった。

ある時、康政が細川三斎(忠興)を正客として茶事があったとき、康政が水こぼしを取りに茶室を出た時、
三斎はこの肩衝を奪い、馬を乗り跳ばして御城へ出、上へ差し上げた。

康政の所では未だ客も帰らない内に、上使が現れ
『この茶入は兼ねて御懇望のところ、康政が差し上げないのも尤もな事であったので。今回三斎に仰せ付けられ
奪わせたのだ。』

とのよしを仰せ付けられ、康政には黄金何百枚かを下されたという。

この肩衝の茶入は現在は田安殿(御三卿田安家)の御物となり、甚だ大切にお取り扱いに成っていると、
これは肩衝を拝見した者が物語ったものである。

(耳嚢)

>>233 の内容が江戸後期の耳嚢になると、津田秀政だったのが榊原康政に変わっていたり、忠興が
これを奪った理由が徳川秀忠に命じられたために成ってたりと、時間が経つと逸話というものはこんなに変化
すると言うことがよく分かる内容である。

参照
安国寺肩衝


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古田織部などでもあろうか

2019年08月13日 14:52

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/13(火) 13:55:02.76 ID:Pv9b1yua
千利休は同子の道菴(道安)と古田織部について、細川三斎(忠興)が「貴老が五百八十年後
(長寿した後)に果てなさったとして、以後天下の茶湯指南は誰なのでしょう」と問うた時、

利休は答えて曰く、「世倅の道菴は働いた茶湯である。しかしながら人柄が悪い(然トモ人柄
悪シ)。天下の指南はなるまい。古田織部などでもあろうか」と申したという。果たしてその
如くである。

――『烈公間話』



世の中すべての床天井は高くなった

2019年07月25日 16:25

千利休   
112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/25(木) 13:59:39.80 ID:CM8ckPJ8
芝山監物は秀吉公の御伽衆であった。
住吉にある一休禅師の寺の方丈に『初祖菩提達磨大師』という一休の墨跡が残されており、
これを佐久間甚九郎が購入し、芝山へと差し上げた。
すると千利休が、これが村田珠光の表具である事に気がつき
「珠光以外の誰がこのような表具を出来るでしょうか。さてもさても。」と絶賛した。
村田珠光は一休に参禅していたと言われる。

ところがこれは非常に長い掛物だったため、床に掛けることが出来なかった。
芝山監物蒲生氏郷と細川三斎(忠興)に、「利休に表具のことを頼みたいので、仲介をお願いしたい。」
と頼んだ。

ある時、利休、氏郷、三斎の三人を、芝山監物が茶会に呼んだ。この時あの墨跡を、床天井の前に、
上を巻ため、弱竹で角を押し入れて掛け、下の方も巻きためて置いた。
そして芝山は「この掛物を床に掛かるようにして頂きたい。」と利休に頼んだ。

しかし利休は「これに誰が手を入れることが出来るでしょうか。」と同意しなかった。

これに芝山は憤り
「たとえ珠光であってもナニ光であっても、床に掛かるよう直して頂けませんか。竹で押し入れているので、
毎回壁も傷み、どうしても掛けられないのです。」と訴えた。
相客の氏郷、三斎も「あれほど望まれているのですから、お直し下さい。」と言った。

だがこれに
「それはどういう事でしょうか。良いものを悪くする事を私は致しません。どうしてもそうしたいのであれば、
あなた方がなされば良い!」と、利休は散々に叱りつけ、不機嫌になられた。

「珠光のされたことを決して変えてはならないのだ。であるから、床の天井を高くして掛けられよ。」
そう利休は言った。

この事が有ってから、世の中すべての床天井は高くなった。利休の功績である。確かに文字は
高く掛けたほうが見事である。寺の山門の額も、上に打ってこそ見事であるからだ。

この掛物は今は将軍様の元にある。『天下一の一休』とはこれの事である。

(三斎伝書)



119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 23:51:50.50 ID:amHD0ylJ
>>112
>「たとえ珠光であってもナニ光であっても、床に掛かるよう直して頂けませんか。

鮭様「一体ナニ光なんだ」

三ヶ所手が違った

2019年07月23日 15:51

千利休   
106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/23(火) 01:23:47.89 ID:3NtwR41t
織田信長殿には、天王寺屋宗及が台子の茶湯をお教えした。
ところがこの宗及の茶湯を宗易(利休)が批判をしたとの噂が耳に入られ、信長殿は宗易を召して
台子で茶を点てさせた。

信長殿は立ちながら宗易が茶を点てる様子をご覧になり、「三ヶ所(宗及のやり方と)手が違った。」と
仰せになった。
宗易はこれに「その事でございますが、このように致しますと手間が入って悪くございます。また
こうすると手がねじれます。」と、一ヶ所につき三つほどの理由を申し上げた。

この事が有ってから、宗易の名が天下に上がったという。

(三斎伝書)



107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/23(火) 14:14:37.91 ID:wFZ44Ll2
マナー講師の戦いみたいだ

108 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/07/23(火) 15:31:01.11 ID:3VAbEL3P
信長は合理主義だから無駄が嫌い
でも一見無駄と思えることに意味を持たせるのが侘び寂びでもあるんだよね
そういうのは信長に教えずに秀吉にしたり顔で教えた

千利休の切腹と石灯籠

2019年07月21日 16:59

千利休   
103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 01:13:32.35 ID:tvy6NoWG
千利休の切腹は堺で行うと、秀吉公の御意があり、この時、淀に於いて船に乗るまでの乗物を、
三斎公(細川忠興)と古田織部殿の両人が手配された。利休の内儀がこの時礼を申されたが、
利休は
「もはや、それも要らぬことです。日本国の人々は皆私を知っていますが、このお二人ほどの事は
有りません。」と言った、

切腹を行う堺の屋敷に於いて、四畳半の小座敷で利休は「少しお待ち下さい。」と、炭を直した。
湯がたぎった時に四尺床に腰を掛けたが、勝手方に臂がつかえたので、「この置き合わせではない。」と、
床真中に寄った。

そして「介錯の人々は声を掛けるまでお待ち下さい。もし言葉が出ないようであれば、手を上げて
合図致します。」と言って、脇差を腹に突き立てた。

しかし思うように行かなかったため、また引き抜き、同じ所に突き立て直し、引き回して腸袋を
自在の蛭釘に掛け、そこで介錯があった。古今に無いものであった。

利休切腹の後、秀吉公の後悔は限りないものであった。彼が切腹した後は、秀吉公は釜の形の切紙が
上手く切れず、誰彼にかかわらず切らせたが、御意に入るものはなかった。
蒲生氏郷と三斎公が行かれた時も、「ハァ、一応参りましたというだけの面だ。」と仰せになった。
「たしかにその通りだった。」と、後に三斎公は語られた。

利休が天下一と褒めた石灯籠が有った。利休自身が打ち欠いて、色々に直し、天下無双であると気に入った
ものであった。
その石灯籠を三斎公が所持され、任国が代わる度、丹後に取り寄せ、小倉へ下し、肥後の八代に下し、
現在はまた京へ上らせておられる。そしてこれを大徳寺高桐院に立て置き、三斎公自身の墓標として、
名を彫りつけるおつもりでおられる。「灯明などを灯せば丁度よい。」と仰られている。
少し手軽く見える灯籠で、角々が丸く、大形では無いものである。

(筆者注・現在この石灯籠は細川忠興の墓石として、大徳寺高桐院の墓地に有る。)

(三斎伝書)



104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 13:52:30.21 ID:cN9uq2nD
お茶くらい気にすんなよ

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/22(月) 12:12:38.25 ID:umL4DwKU
よく知ってるね

千利休の身上が相果てた理由について

2019年07月19日 14:58

千利休   
279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 00:03:31.80 ID:0NM0kJP3
千利休の身上が相果てた理由についての事である。木下祐桂(秀吉の右筆とも言われる。不明)が
秀吉公に逆らって浪人したことが有ったが、その時知人であったにも係わらず、利休が見舞いの人を
遣わさなかったことに祐桂は非常に腹を立てた。

その後秀吉公に許されたため、その祝いに利休が祐桂の元を訪ねた所、祐桂は
「利休などという人は知らない。」と言って取り合わなかった。このため互いにひどく腹を立てたが、
表向きは仲直りをした。

ところが、秀吉公が祐桂に「この頃何か珍しいことはないか」とお尋ねになった時、祐桂は
利休の娘のことを申し上げた。「それでは」と秀吉公は祐桂を御上使として利休の内儀の元に
(娘を秀吉の側に上げるよ)2度も遣わしたが、内儀は「利休へ申されないのでは困ります。」と
同意しなかった。そして利休はこれを聞くと「とても納得できません」と申し上げた。
祐桂はいよいよ利休に対して腹を立て、秀吉公に報告した。

その頃、前田玄以も秀吉公に対して利休を散々に言った。これらによって、切腹となったのである。
前田玄以は胴高という茶入を取り出して、肩衝と言って利休に見せた所、全く返事すら無かったことを
恨んでいたのだ。

後にこの胴高の茶入は池田三左衛門殿(輝政)が所持し、今は備前の宮内殿の元にある。
習いが有って、胴高というのは茶入の中でも特別なものであり、習いが有れば見分けやすいものなのであるが。
(玄以はその心得がなかったのである)

(三斎伝書)




282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 12:19:20.92 ID:KpYWaZEK
>>279
心得がないなら教えてあげればいいのに
思い上がってる奴を擁護するのは取り巻きだけ
まるで何処かの芸人のようだ

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 12:42:58.45 ID:1RTOYgSs
>>282
そして、偉い人の庇護のもとででかい顔。偉い人から嫌われたらその瞬間に終了。
今の芸人と完全に一緒。

ただし一ヶ所、下手な部分が

2019年07月16日 15:51

千利休   
90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/15(月) 21:11:40.97 ID:Utl8jJEh
当時、北京大仏(方広寺)の小屋場で茶会が盛んに行われていた。
ある時、天王寺屋宗及が「利休と三斎公(細川忠興)の両人へ御茶を差し上げたい。」と言われた。
この時、利休は聚楽の屋敷に居り、三斎公が「泊りがけで私の小屋へ今晩御出下さい。」と
申した所、「そういたしましょう」と同意された、「それでは先に参り掃除を致します。」と言って
三斎公は帰られた。

早くも五つ時分(午後八時頃)に利休は三斎公の小屋へ御出になり、そのまま雑談をされた。
夜に入り大雪となったが、利休は九つ時分(深夜0時頃)に、「もう参りましょう」と出かけられた。
この時三斎公はそっと人を宗及の所に遣わしてこれを知らせたが、宗及の方も予期しており、既に
露地口を開けて迎えに出ていた。そこから灯籠の火が見えた。夜なので手水柄杓は置かれていなかった。
雪の掃除は難しいものだが、この時は習いの通りの見事なものであった。

席入すると、床の中央に千鳥の香炉が盆にのせず置かれ、また床の勝手の方には堆朱の香合があった。
客が席入してから、宗及は香炉を下ろした。この上げ下ろしには習いが有る。
宗及が香を焚くと、利休はその香銘を尋ねた。宗及は「月」と答えた。
続いて利休が香を継ぎ、宗及が同様に香銘を尋ねた所、利休は「もちろん東大寺(蘭奢待)です。」
と答えた。

さて、利休が香炉を床へ上げるよう宗及に言った所、宗及は「私が下ろしましたので、利休様が
お上げ下さい。」と申したため、「それでは」と利休が上げた。
それから炉中を直し、この茶会は宗及一代の上出来の数寄となった。

帰りに三斎公は自分の乗物に利休を乗せ、自分は乗物の脇を歩いた。
利休は「今日は宗及一世の上出来の数寄でした。ただし一ヶ所、下手な部分がありました。
見つけられましたか?」と言われたが、三斎公はそれが解らなかった。
利休は言った
「月の香を焚いたのがいけません。月に雪という発想は平凡で悪い。よって東大寺の香を
焚かねばならないと思い、私は東大寺を継いだのです。」

三斎公が乗物から降りて利休を乗せ、自身はその乗物に付いて歩かれるのは毎度のことであった。
その朝は大雪であったので、宗及は手洗鉢へ水を入れず、くぐりの前に手付きの水、次に湯を入れ、
新しい盥を添え置いてあったとの事である。

(三斎伝書)

信長の蘭奢待切り取りの時に利休も分け与えられたとは有ったけれど、それを茶会に使っていたのですね。



95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:34:25.20 ID:Krpjzwco
利休は性格悪いエピソードしかないのな

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:40:11.71 ID:A8uhVPMk
商人ですからなぁ

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:55:51.62 ID:6H5Y9heX
>>95
利休を嫌われものの銭ゲバとして描いた作品あったなぁ。
真田丸の利休も石田三成や大谷吉継から蛇蝎のように嫌われる俗物という描写だったような。

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:55:51.62 ID:6H5Y9heX
>>95
利休を嫌われものの銭ゲバとして描いた作品あったなぁ。
真田丸の利休も石田三成や大谷吉継から蛇蝎のように嫌われる俗物という描写だったような。

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 22:29:05.32 ID:5gA42Ipr
切腹言われても仕方ないわけですね

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 02:26:28.35 ID:z7/Ij/C3
利休と芭蕉は食えないからなw

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 12:22:51.24 ID:KpYWaZEK
芭蕉の利休煮か

三斎公はいつも利休に蒲生氏郷の悪口を言い、また氏郷も

2019年07月13日 15:20

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 00:45:39.47 ID:Kk+VP0qq
若い頃、三斎公(細川忠興)はいつも利休に蒲生氏郷の悪口を言い、また氏郷も利休に三斎公の悪口を
言っていた。

ある時三斎公は利休の所で
「氏郷は数寄者ぶっていますが、裏口を開けてみれば乗馬用の沓や鼻紙などが散らばっている有様です。
彼は絶対に数寄者などではありません。」
と言った所、利休は
「それも良いでしょう。数寄さえすれば、それでも構いません。」
と答えられた。

そうしているうちに蒲生氏郷が勝手の障子を開け
「誰だかが私の悪口を言ったようだ。しかしその者が恥をかいたのは嬉しい」
と言った。

後で三斎公は「誰かがすぐに告げ口したのだ」と大笑いされた。

(三斎伝書)



255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 11:19:11.37 ID:YjWTGmPq
どんだけ仲悪いんだよ

花入はご覧になりましたか

2019年07月12日 16:48

千利休   
83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 01:02:31.24 ID:BhNSOonv
千利休より「花入が到来しましたので、今お待ちしています。」と、前田肥前守(利長)、
蒲生氏郷、細川三斎(忠興)の元に使いが来た。早速三人で出かけて席入したものの、初座、後座ともに
花入は出なかった。三人は利休に花入を所望すべきかと相談したが、恐れてついに言い出せず、退席した。

利休が露地に送りに出た時、「今日は花入をお見せするためお招きしましたが、花入はご覧になりましたか。」
と尋ねた。客である三人は「とうとう花入を拝見出来ませんでした。座敷、露地ともよく見廻したのですが、
花入はありませんでした。」と答えた。

利休は「尤もです。」と言って、露地の塵穴を示した。そこには落ちた椿の花を、なるほど見事に入れてあった。
「その見事さには驚き入った。」と、後に三斎様がお話になった。

またある時、利休よりこの三人が御茶に呼ばれた。にじり口を開けると、そこに茶壺が置いてあり席入することが
出来なかった。三人は困惑し、どうして良いか解らず様々に相談したが、勝手に床に上げるわけにもいかないと、
先ず座敷の真ん中に茶壺を移して席入し、亭主である利休に「茶壺を床へ」と申した。利休は機嫌よく
これを床へ上げた。「客の思案が良かったのでしょう」と、後にお話になった。

(三斎伝書)



85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 05:26:24.74 ID:FVr7QC+1
>>83
わびってるなあ

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 08:12:56.70 ID:kTIihdCu
>>83
深すぎてわかんねーw

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 11:50:52.94 ID:YjWTGmPq
わびさび俺には無理だと分かった

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/14(日) 04:25:07.42 ID:9odMhzGb
とんち比べかな?奇をてらって遊んでる風にしかみえない

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/15(月) 10:07:51.99 ID:wf+p/I6R
こういうのが和歌の世界だと古今伝授みたいになるんだな

細川忠興と茶入

2019年07月11日 16:10

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 21:06:40.96 ID:txMoZn0l
寛永十四年十月五日 吉田御屋敷、三斎様御茶湯、御座敷開き
                辻七右衛門殿、久重、誓願寺永玉、守顕。(茶会記略)

三斎公(細川忠興)が薄茶入を出された時、辻七右衛門殿が「この茶入はなんと言う名でしょうか。」
とお尋ねになった所、三斎公は「吹雪と申します。」と答えられた。

「この茶入の形は三斎様のお好みであると、世間では言われています。」と七右衛門殿が申されると、
「いやいや、これも利休が形を切り出されたものです。しかし最初に私が写したので、世間でそのように
言われているのでしょう。」と答えられた。

三斎公は、唐物茶入を持たずに、瀬戸の山の井肩衝(古田織部が天下一と称賛した古瀬戸肩衝)ばかりを
秘蔵していてもいかがかと思われ、唐物を持った上で、瀬戸を唐物よりも秘蔵すれば良いとして、
古田織部に、彼が所蔵する勢高肩衝(織田信長が所持し、本能寺で罹災した)を所望した。

すると織部は「金子二千枚頂ければ進上いたします」と返答した。三斎公が「肩衝に金子二千枚も出す
取引は聞いたことがない。」と申されると、
「それでは金千枚と、山の井肩衝を残りの千枚分として頂きたい。」と言った。

これに三斎公は
「それは駄目だ、勢高肩衝を所望したのも山の井のためであり、それは出来ない。」
とお答えになったという。

(三斎伝書)



安国寺肩衝

2019年07月09日 13:25

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:25:24.04 ID:0PpH8yMY
三斎公(細川忠興)は、父幽斎より譲られた肩衝(茶入)を、心にかなわないと安国寺恵瓊へ一千貫で売られた。
その後、安国寺恵瓊が処刑された折、この肩衝は徳川家康公の元に献上された。

ところで安国寺恵瓊の処刑の原因と成った石田三成の乱(関ヶ原の戦い)の時、津田平左衛門(正しくは小平次、
秀政)が家康公に
「天下がお手に入ること必定でしょう、その仕置の際、多数の肩衝が献上されると思います。その中から
必ず拝領をいたしたく思います。」
と申し上げた所、家康公は非常に機嫌よく「そのこと、そのこと」と申された。

合戦後、予想した通りに1日だけで肩衝が16も献上された。この時津田にも新たに領地を与えるとの
上意であった所、「忝ない事ですが、青野ヶ原(関ヶ原)で申し上げましたように、御加増よりも
御茶入を拝領いたしたいのです。」と重ねて言上したため、「尤もである」と、この安国寺肩衝を拝領した。

その後これを三斎公が一万貫で買い取り、中山と銘をつけた。
(筆者注:この時忠興は安国寺肩衝を黙って懐に入れ持ち帰り、後で代銀を届けたという)

この肩衝を見た時、三斎公はこのように詠まれた

 年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山

これは西行法師が関東での修行から帰る時に詠まれたもので、「下るときはまた越えねばならないとは
思っていなかったのだが、今越えることとなった。命が有ればこの佐夜鹿峠のような難所を越えるという
憂鬱な目にも逢うものだ。」という意味である。

この茶入は子息の越中守(忠利)に譲られましたが、後に越中守は金子1600枚で酒井宮内少輔(忠勝)に
売却されたという。

(三斎伝書)

関連
細川忠興と『有明の茶入』
安国寺肩衝・異聞


その心持が面白かった

2019年07月08日 17:50

千利休   
71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 21:56:58.28 ID:v9H8Sln5
ある時、千利休が、「圜悟(えんご)の墨跡(中国宋代の臨済宗の僧、圜悟克勤の墨跡。村田珠光が
一休宗純より印可証明として与えられたとされる)を御覧ください。」と、前田肥前守(利長)、蒲生氏郷
牧村兵部、細川三斎(忠興)の四人を、その墨跡を所持する人の茶会に案内する段取りを付けた。

ところがこの茶会の当日、急にこの利休ら5人に豊臣秀次公よりお召があり、時刻も過ぎて茶会に間に合わなく
なったため、利休は人を遣わして「御前に用が出来たのでご容赦していただきたい。料理も結構ですので、
御用意なされませんように。菓子にて御茶を頂きたいと思います。」と伝えた所、「やむを得ません、
御用が終わり次第お出で下さい。」と返事が有った。

そうして日が暮れてから、手燭を出しての席入と成った。入る時に利休が「手燭を持って床の掛け物をよく
御覧になって下さい。」と申した所、亭主である墨跡の所有者は障子を開けて出て、利休に対し
「どうぞ墨跡をお焼き下さい。」と言った。これに利休は「面目を失った。」と言った。

中に入ると金銀を散りばめ、土器などにも絵を描いた豪華な料理が出た。これを見た利休が
「料理は無用と御連絡したではないですか。さてさて合点の行かないことです。」と申した所、亭主は
「ご尤もです。しかしこれは、食事を召し上がるように、との事ではありません。皆様が私のところへ
お出でになられるということで、ただ忝なさのあまりこれを用意したのです。召し上がるには及びません。」
と答えた。利休は「また恥をかいた。」と言った。

後に三斎公は「その心持が面白かった。」と言われた。

(三斎伝書)



72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 22:17:22.94 ID:3+H2OFSP
いわゆる小者

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 05:56:03.31 ID:PErBWv+E
当日キャンセルをかます成り上がり者に対する亭主の抵抗が窺える

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 19:30:32.72 ID:FDy5Rb+b
戦国時代とはいえ割と面倒くさいこともしてんだなw

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 21:10:55.98 ID:6lk5Uw6S
小者ってのは いつの時代も大して変わりゃしない

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:31:12.85 ID:BTnI+Yho
どこの誰なんでしょうね

老人雑話は忠興に厳しい

2019年04月15日 18:03

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/15(月) 15:52:31.57 ID:gYpH4/WZ
・小田原開陣の後、太閤が諸将を会して宣うには、「会津は関東八州の要地、優れた大将を置いて鎮めなけ
 ればならない地である。各々は遠慮なく所存を書き付けて見せよ」と言った(原注:今はそのような事を
 “入札”という。その頃は“かくし起請”という)。
 
 すると「細川越中守(忠興)が然るべき」という者が10人中8,9人であった。太閤は開き見て曰く、
 「汝らは愚昧も甚だしい。私が天下を容易く取ったのも道理である。この地は蒲生忠三郎(氏郷)でなけ
 れば、置くべき者なし」と言い、忠三郎を会津に置いた。

・額田と小牧は皆尾張の内なり。小牧は東、額田は西にある。太閤は額田に陣を取りなさった。常真(織田
 信雄)と大御所(徳川家康)は小牧におられた。
 
 この時、太閤方の先手は蒲生飛騨守(氏郷)と細川越中守なり。敵と相向かう時、額田の東2里ほどの二
 重堀という所で、越中守は飛騨守を捨てて敵に追い下ろされた。飛騨守は踏み止まって敵を防ぎ、太閤の
 陣へ敵は来なかったということである。

・細川越中守はついに戦功なし。一度信長死去の年に、「甲斐国の合戦で良き陣を張った」と太閤が褒美し
 たが、この一事のみという。

――『老人雑話』

老人雑話は忠興に厳しい



三斎は刀を取り、御屋形を抜き打ちに

2019年04月13日 21:37

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 19:26:00.37 ID:IjfD7tgB
丹後には一色という屋形(一色義定)あり。信長は天下を得て後、細川幽斎に丹後一国を与えた。
一色を幽斎の婿にして、幽斎の所領内に僅かな領地を与え、弓木という城に居住させた。

信長死去の明日に三斎(細川忠興)は御屋形を呼び寄せ、手討ちにして城をも取った。御屋形は
三斎の姉婿である。

その時、米田監物という者は刀を持って来て、誤って三斎の右側の傍に置いた。三斎が刀を取る
のに利便が悪く、米田は悟って傍へ行くついでに過ちを装って足で刀を蹴り、取り直す様子で左
の傍に置いた。

そして盃酒の間に三斎は刀を取り、御屋形を抜き打ちに斬ったという。

――『老人雑話』



福島正則、岐阜城を落とした後の書状

2018年12月09日 19:09

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 21:11:53.48 ID:ad9LGzCa
福島正則、岐阜城を落とした後の書状


遠路よりの書状ありがたく拝見いたしました。私は羽三左殿(池田輝政)、
左京殿(浅野幸長)と相談しているところです。

一昨日の廿二日に三左衛門尉殿、左京殿、遠州衆が川越えをしようとした際
岐阜衆が少々出てきたので、一戦に及ばれ敵を追い崩し手柄とされました。
昨日は羽越州殿(細川忠興)、加左馬殿(加藤嘉明)と私が稲葉山へと取り詰め
すぐに(岐阜城は)落去しました。
中納言殿(織田秀信)のことですが、色々と降参のことを申されてきたので
小姓ども二、三人と共に尾州へ送りました。

こちらのことで歯がゆいこともあるでしょうが、羽三左、左京殿と談合し
秀頼様の御為によいようにするつもりですので、御心を穏やかにして下さい。
恐惶謹言

                        羽左衛門大夫
  (慶長五年)八月廿四日                 正則 
浅弾正様(浅野長政)


――『浅野家文書』


細川忠興、結城秀康に行列の先を譲る

2018年11月07日 19:37

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/07(水) 08:53:33.90 ID:xWVo5T5h
細川忠興結城秀康に行列の先を譲る


慶長8年3月25日、征夷大将軍となった家康は御所に参内し拝賀の礼を行った。
その参内の行列のうち、武臣の参議少将の衆は塗り輿で供奉した。
越前参議(結城)秀康卿、豊前参議(細川)忠興卿、若狭参議(京極)高次卿、
播磨少将(池田)輝政朝臣、安芸少将(福島)正則朝臣である。

結城秀康卿は従四位の参議にて、忠興君が上首(従三位の参議)であったので
秀康卿の上に列するところを、(忠興君は)ご辞退なさろうとしたが
家康公は「官位の次第は乱すべきではない」と仰せられた。
しかしそのように取り計らおうと、(家康公が)前もって奏上されたため
秀康卿は(同年の2月25日に)従三位に叙され、忠興君はその次に付けられた。
これは家康公が(忠興君の辞退に)感心されたからだという。


――『細川家記』


忠興の母 麝香

2018年09月27日 18:58

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 13:17:03.94 ID:2yVq14zA
細川忠興の妻、玉が関ヶ原の折に壮絶な死を遂げたことは有名だが、
同じ頃忠興の母である麝香も激しい戦いをに身を投じていた。
麝香は夫の幽斎と共に息子の居城である丹後国田辺城の留守を守っていたのだが、
ご存知の通り敵の大軍に包囲されてしまった。
幽斎の指揮の下、三十倍もの敵を相手に城兵達は奮戦したが、その中には武装した壮年女性の姿が。
それは具足を付けて兵達を叱咤激励する麝香であった。この時御年五十五歳。

結局勅命を受け田辺城は開城したのだが、後に嫁である玉の死を知ると衝撃を受け、また深く悲しんだ。
関ヶ原の翌年、麝香は受洗しマリアの洗礼名を授かった。
宣教師オルガンチノの書簡によれば、麝香はかつてキリシタンに対して非常に冷たい態度で接していたという。
そんな麝香が受洗したのは玉の死の影響とも言われる。

忠興の周囲の女性と言えば妻の玉や妹の伊也が有名だが、母もまた激しい人だったという話。



308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 16:03:51.31 ID:9cb7b1Pn
名前なんて読むのよこれ

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 17:16:56.71 ID:41f1YXYa
普通に「じゃこう」と読んでた…違うの?

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 17:41:57.80 ID:DY2JVs++
>>307
戦国時代は妻が武装して手伝うのは当たり前じゃないの?
この手の逸話何度か見たことあるし。と思ったけど珍しいから逸話になるのかな。

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 18:33:05.94 ID:R5OgqE8H
叱咤激励がめちゃくちゃ怖かったのかもしれない

312 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/09/27(木) 19:08:08.55 ID:zo2AY+oz
実父の死で嫁がキリシタン化

嫁の死で姑がキリシタン化

なわけか

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 19:40:08.61 ID:PPuWtRjN
嫁と実母がキリシタン化してしまった忠興ってめっちゃ可哀想な人なのでは…嫁のために宣教師呼んでキリシタン風の葬儀出してあげたくらいには優しいのに

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 20:32:37.31 ID:1TWMicDa
忠興がやさしい、、、、うーむ。

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 21:02:01.94 ID:xn0shDsC
スターリンは優しいおじさんとかポルポトはアジア的優しさとか言うのと同じ

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 21:13:09.07 ID:KIVsCtkv
小田氏治は佐竹に滅ぼされないくらいには名将
大関高増は那須家を滅ぼさないくらいには忠臣
武田晴信は義元存命中に今川に攻め込まないくらいには信義の人

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 22:58:56.49 ID:eTq+O+Z8
>>310
忠勝も、ワシが若い頃は女も武装して戦ったって言ってたな

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 23:20:23.43 ID:usJFDe+8
細川一家激しすぎ。似た者一族なのか

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 19:17:47.74 ID:WbciJMTk
>>307
そういえばまとめの9144
雑談・明智光秀は信長に会う前に城持ちだった?
に、明智光秀が1566年に田中城に籠城した際に沼田勘解由という人物に書き写させた医薬の秘伝の話があるけど
麝香はこの沼田勘解由の姉妹か一族だとか

小出吉政ノ内通

2018年07月19日 17:56

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/19(木) 16:28:39.69 ID:byt+X2Jt
小出吉政ノ内通

7月26日(1600年)、忠興君は(細川忠興)“ふき”という宿に御泊りになった。
同27に上蓑<一本ニ上美濃>の方へ赴きなさったところ、向こうから来た者が下馬した。

「誰の御衆で候か。乗り通られよ」と御使者を遣わされたところ、「小出大和守吉政より
家康公へ使者に下り申した。その途上にて(忠興に)御目にかかって次第を申し上げよと

吉政が申し付けました」とその者は申した。「もしや敵方の者が関東の様子を窺おうとの
術ではないか」と忠興君は思し召し、玄蕃殿(細川興元)は吉政と常に睦まじい間柄で

あったので御見知りであろうとして、その旨を仰せ渡された。興元主は在家に入ってその
者と対面なさると、かねてより御存じの者であった。さてその口上は、

「今回心ならず丹後の攻衆に加わり申した。御城中への御用がありましたら大和守の手へ
人を御遣しください。通路を用意仕ります。また大坂の御屋敷は7月17日戌の刻ほどに

火にかかり、御簾中(細川ガラシャ)は御自害されました。忠隆公(細川忠隆)の御奥様
は乗物三挺でこちらの御屋敷の前を御通りになり、前田肥前守殿(利長)の屋敷へ御入り

になったのを見申した」とのことだった。これに玄蕃殿を始め御前様(忠興)は御義心を
感じ、各々落涙された。忠興君もいっそう石田(三成)の無道を御怒りになり、

「すぐにも三成を滅ぼして復讐を果たす!」と、ますます恨み深く思し召されたのである。

――『日本戦史 関原役補伝(細川家記)』


忠興其子忠隆ノ優柔ヲ怒ル

2018年07月14日 16:36

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 21:00:22.32 ID:j2a9VVjX
忠興其子忠隆ノ優柔ヲ怒ル

6月27日、忠興君(細川忠興)は宮津で御門出(会津征伐のため)となった。御万様(烏丸光賢室)が
もってのほか御病気のため御見合わせになられて今日まで御延期されていた。昼は田辺<今ノ舞鶴>にて

御暇まで御饗応をなされた。その夜は若狭国安濃津に御泊りになって、2日御逗留されて御歯の御養生を
なさった。29日の暁に近江今津浦より夜舟に乗られて、あくる日の出に朝妻に御着船された。忠興君は
御人数を召し連れなさって、朝妻にて(後続の軍勢を)御待ち受けなさった。

7月朔日の日の出に朝妻を御出立され、その夜に美濃美江寺に御陣を取られた。御人数は合渡に陣取って、
同2日、美濃鵜沼の町で御昼休みになられ、町はずれの船渡しで向かうと、犬山の城より少し川上に舟は
着いたのであった。御人数は川向いに立って忠興君の御渡りを待ったので、忠興君は、

「これからは左様にはせず、予定通り先へ押し進み申すように」との旨を仰せ渡された。その晩、忠興君
は太田<一本ニ戸田>の宿に御陣を取りなさった。翌日3日、忠興君は御嶽<一本ニ見竹>の宿において
御機嫌が悪くなり、与一郎様(細川忠隆)との御仲は御不快となった。

その詳細は、忠隆君が先陣として若狭小浜の城下を御通りになった時、城中より使者が来て「城の周辺は
御避けになって下道を御通りくだされ」と申したので、その意に任せられて脇道を御通りになられた。

それから二番目に玄蕃殿(細川興元)が御押し通りになると、城中よりまた前述の趣を断りに遣してきた。

玄蕃殿は「出陣の門出で端の道を通るなんてことがあるか。異議に及ぶならば、打ち破ってでも通る!」
と仰せになって進み行きなさった。城内からもこれを妨害する支障もなく、玄蕃殿は押し通りなさった。

忠興君はこの事を御聞きになって玄蕃殿に御褒美なされ「与一郎は軍法を知らぬ!」と御怒りになられた。

――『日本戦史 関原役補伝(細川家記)』


あれでも能の上手か!?

2018年07月08日 18:20

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 22:15:35.57 ID:9Qmq/53U
細川越中守忠興の家臣に、中村庄兵衛といって千石を取りし侍が有ったが、その子である左馬介は
能の脇を良くして、役者にも勝っていると、その時代の評判であった。

有る時、法楽の能で船弁慶を勤めた時、白洲の見物の中から「あれでも能の上手か!?」と、声高に
あざ笑う声が聞こえた。左馬介はこれを聞きとがめ、能が済んだ後、これを言った者を引き止めどう言うことか
尋ねた所

「私は船頭ですから、能の事は良く解りませんが、ただし波風の荒い時の船の漕ぎ様は、ああではありません。
艫の押し方、抱え方、間違っています。
またいくら弁慶と言っても、波風の荒い時はあのように船中に立つことは出来ません。」

これを聞いた左馬介は、彼から波風の荒い時に船中で立ち応える方法、並びに船の漕ぎ方を詳しく尋ね、
以降の船弁慶にこの心得を活かした。

左馬介は後に中村靭負と名乗った。何事もこのように、その道の人間に尋ねるべきである。

(渡邊幸庵對書)




63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 22:39:49.02 ID:8XKizmlU
左馬介「悪口言ってたのはお前か」
船頭(やべえ…)

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 23:05:53.00 ID:nc14XRd9
いつ血生臭い話になるかとドキドキした

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/08(日) 09:01:24.43 ID:ETD5YrSf
途中まで、ぶった切る話かと思ったw
芸の道と武士のメンツは、違うということか。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/08(日) 09:44:35.67 ID:9qBl9iy9
観客の中にプロがいて、劇中の役柄に文句をつける

役者が真摯に教えを乞うて芸が一段上がる




これ芸能の故事によく出てくるテンプレの流れな