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細川忠興、結城秀康に行列の先を譲る

2018年11月07日 19:37

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/07(水) 08:53:33.90 ID:xWVo5T5h
細川忠興結城秀康に行列の先を譲る


慶長8年3月25日、征夷大将軍となった家康は御所に参内し拝賀の礼を行った。
その参内の行列のうち、武臣の参議少将の衆は塗り輿で供奉した。
越前参議(結城)秀康卿、豊前参議(細川)忠興卿、若狭参議(京極)高次卿、
播磨少将(池田)輝政朝臣、安芸少将(福島)正則朝臣である。

結城秀康卿は従四位の参議にて、忠興君が上首(従三位の参議)であったので
秀康卿の上に列するところを、(忠興君は)ご辞退なさろうとしたが
家康公は「官位の次第は乱すべきではない」と仰せられた。
しかしそのように取り計らおうと、(家康公が)前もって奏上されたため
秀康卿は(同年の2月25日に)従三位に叙され、忠興君はその次に付けられた。
これは家康公が(忠興君の辞退に)感心されたからだという。


――『細川家記』


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忠興の母 麝香

2018年09月27日 18:58

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 13:17:03.94 ID:2yVq14zA
細川忠興の妻、玉が関ヶ原の折に壮絶な死を遂げたことは有名だが、
同じ頃忠興の母である麝香も激しい戦いをに身を投じていた。
麝香は夫の幽斎と共に息子の居城である丹後国田辺城の留守を守っていたのだが、
ご存知の通り敵の大軍に包囲されてしまった。
幽斎の指揮の下、三十倍もの敵を相手に城兵達は奮戦したが、その中には武装した壮年女性の姿が。
それは具足を付けて兵達を叱咤激励する麝香であった。この時御年五十五歳。

結局勅命を受け田辺城は開城したのだが、後に嫁である玉の死を知ると衝撃を受け、また深く悲しんだ。
関ヶ原の翌年、麝香は受洗しマリアの洗礼名を授かった。
宣教師オルガンチノの書簡によれば、麝香はかつてキリシタンに対して非常に冷たい態度で接していたという。
そんな麝香が受洗したのは玉の死の影響とも言われる。

忠興の周囲の女性と言えば妻の玉や妹の伊也が有名だが、母もまた激しい人だったという話。



308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 16:03:51.31 ID:9cb7b1Pn
名前なんて読むのよこれ

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 17:16:56.71 ID:41f1YXYa
普通に「じゃこう」と読んでた…違うの?

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 17:41:57.80 ID:DY2JVs++
>>307
戦国時代は妻が武装して手伝うのは当たり前じゃないの?
この手の逸話何度か見たことあるし。と思ったけど珍しいから逸話になるのかな。

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 18:33:05.94 ID:R5OgqE8H
叱咤激励がめちゃくちゃ怖かったのかもしれない

312 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/09/27(木) 19:08:08.55 ID:zo2AY+oz
実父の死で嫁がキリシタン化

嫁の死で姑がキリシタン化

なわけか

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 19:40:08.61 ID:PPuWtRjN
嫁と実母がキリシタン化してしまった忠興ってめっちゃ可哀想な人なのでは…嫁のために宣教師呼んでキリシタン風の葬儀出してあげたくらいには優しいのに

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 20:32:37.31 ID:1TWMicDa
忠興がやさしい、、、、うーむ。

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 21:02:01.94 ID:xn0shDsC
スターリンは優しいおじさんとかポルポトはアジア的優しさとか言うのと同じ

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 21:13:09.07 ID:KIVsCtkv
小田氏治は佐竹に滅ぼされないくらいには名将
大関高増は那須家を滅ぼさないくらいには忠臣
武田晴信は義元存命中に今川に攻め込まないくらいには信義の人

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 22:58:56.49 ID:eTq+O+Z8
>>310
忠勝も、ワシが若い頃は女も武装して戦ったって言ってたな

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 23:20:23.43 ID:usJFDe+8
細川一家激しすぎ。似た者一族なのか

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 19:17:47.74 ID:WbciJMTk
>>307
そういえばまとめの9144
雑談・明智光秀は信長に会う前に城持ちだった?
に、明智光秀が1566年に田中城に籠城した際に沼田勘解由という人物に書き写させた医薬の秘伝の話があるけど
麝香はこの沼田勘解由の姉妹か一族だとか

小出吉政ノ内通

2018年07月19日 17:56

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/19(木) 16:28:39.69 ID:byt+X2Jt
小出吉政ノ内通

7月26日(1600年)、忠興君は(細川忠興)“ふき”という宿に御泊りになった。
同27に上蓑<一本ニ上美濃>の方へ赴きなさったところ、向こうから来た者が下馬した。

「誰の御衆で候か。乗り通られよ」と御使者を遣わされたところ、「小出大和守吉政より
家康公へ使者に下り申した。その途上にて(忠興に)御目にかかって次第を申し上げよと

吉政が申し付けました」とその者は申した。「もしや敵方の者が関東の様子を窺おうとの
術ではないか」と忠興君は思し召し、玄蕃殿(細川興元)は吉政と常に睦まじい間柄で

あったので御見知りであろうとして、その旨を仰せ渡された。興元主は在家に入ってその
者と対面なさると、かねてより御存じの者であった。さてその口上は、

「今回心ならず丹後の攻衆に加わり申した。御城中への御用がありましたら大和守の手へ
人を御遣しください。通路を用意仕ります。また大坂の御屋敷は7月17日戌の刻ほどに

火にかかり、御簾中(細川ガラシャ)は御自害されました。忠隆公(細川忠隆)の御奥様
は乗物三挺でこちらの御屋敷の前を御通りになり、前田肥前守殿(利長)の屋敷へ御入り

になったのを見申した」とのことだった。これに玄蕃殿を始め御前様(忠興)は御義心を
感じ、各々落涙された。忠興君もいっそう石田(三成)の無道を御怒りになり、

「すぐにも三成を滅ぼして復讐を果たす!」と、ますます恨み深く思し召されたのである。

――『日本戦史 関原役補伝(細川家記)』


忠興其子忠隆ノ優柔ヲ怒ル

2018年07月14日 16:36

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 21:00:22.32 ID:j2a9VVjX
忠興其子忠隆ノ優柔ヲ怒ル

6月27日、忠興君(細川忠興)は宮津で御門出(会津征伐のため)となった。御万様(烏丸光賢室)が
もってのほか御病気のため御見合わせになられて今日まで御延期されていた。昼は田辺<今ノ舞鶴>にて

御暇まで御饗応をなされた。その夜は若狭国安濃津に御泊りになって、2日御逗留されて御歯の御養生を
なさった。29日の暁に近江今津浦より夜舟に乗られて、あくる日の出に朝妻に御着船された。忠興君は
御人数を召し連れなさって、朝妻にて(後続の軍勢を)御待ち受けなさった。

7月朔日の日の出に朝妻を御出立され、その夜に美濃美江寺に御陣を取られた。御人数は合渡に陣取って、
同2日、美濃鵜沼の町で御昼休みになられ、町はずれの船渡しで向かうと、犬山の城より少し川上に舟は
着いたのであった。御人数は川向いに立って忠興君の御渡りを待ったので、忠興君は、

「これからは左様にはせず、予定通り先へ押し進み申すように」との旨を仰せ渡された。その晩、忠興君
は太田<一本ニ戸田>の宿に御陣を取りなさった。翌日3日、忠興君は御嶽<一本ニ見竹>の宿において
御機嫌が悪くなり、与一郎様(細川忠隆)との御仲は御不快となった。

その詳細は、忠隆君が先陣として若狭小浜の城下を御通りになった時、城中より使者が来て「城の周辺は
御避けになって下道を御通りくだされ」と申したので、その意に任せられて脇道を御通りになられた。

それから二番目に玄蕃殿(細川興元)が御押し通りになると、城中よりまた前述の趣を断りに遣してきた。

玄蕃殿は「出陣の門出で端の道を通るなんてことがあるか。異議に及ぶならば、打ち破ってでも通る!」
と仰せになって進み行きなさった。城内からもこれを妨害する支障もなく、玄蕃殿は押し通りなさった。

忠興君はこの事を御聞きになって玄蕃殿に御褒美なされ「与一郎は軍法を知らぬ!」と御怒りになられた。

――『日本戦史 関原役補伝(細川家記)』


あれでも能の上手か!?

2018年07月08日 18:20

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 22:15:35.57 ID:9Qmq/53U
細川越中守忠興の家臣に、中村庄兵衛といって千石を取りし侍が有ったが、その子である左馬介は
能の脇を良くして、役者にも勝っていると、その時代の評判であった。

有る時、法楽の能で船弁慶を勤めた時、白洲の見物の中から「あれでも能の上手か!?」と、声高に
あざ笑う声が聞こえた。左馬介はこれを聞きとがめ、能が済んだ後、これを言った者を引き止めどう言うことか
尋ねた所

「私は船頭ですから、能の事は良く解りませんが、ただし波風の荒い時の船の漕ぎ様は、ああではありません。
艫の押し方、抱え方、間違っています。
またいくら弁慶と言っても、波風の荒い時はあのように船中に立つことは出来ません。」

これを聞いた左馬介は、彼から波風の荒い時に船中で立ち応える方法、並びに船の漕ぎ方を詳しく尋ね、
以降の船弁慶にこの心得を活かした。

左馬介は後に中村靭負と名乗った。何事もこのように、その道の人間に尋ねるべきである。

(渡邊幸庵對書)




63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 22:39:49.02 ID:8XKizmlU
左馬介「悪口言ってたのはお前か」
船頭(やべえ…)

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 23:05:53.00 ID:nc14XRd9
いつ血生臭い話になるかとドキドキした

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/08(日) 09:01:24.43 ID:ETD5YrSf
途中まで、ぶった切る話かと思ったw
芸の道と武士のメンツは、違うということか。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/08(日) 09:44:35.67 ID:9qBl9iy9
観客の中にプロがいて、劇中の役柄に文句をつける

役者が真摯に教えを乞うて芸が一段上がる




これ芸能の故事によく出てくるテンプレの流れな

松野亀右衛門鉄砲修練の事

2018年06月20日 20:59

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 15:32:11.38 ID:88yyrNxx
松野亀右衛門鉄砲修練の事

島原の城攻に、細川家の士大将松野亀右衛門井楼より見るに、本丸と二の廓の間に坂有り
て人集る。中に大紋の羽織著たる者在り。松野指ざして鉄砲を打ちたるに、五町許にてた
だ中に中りてけり。夫より空箭無く打ちしかば、彼坂を夫より後たまたま通る者、身を屈
め走り通りけるとぞ。松野は、鉄砲の妙手留刑部一火に学びて妙を得たり。

(常山紀談)

 500メートルをスナイプ。確かに原城の縄張りを見ると、本丸の出入り口は内陸を向い
ているから、狙撃しやすいポイントと言えそう。しかし、ライフリングの無い火縄銃で、
外した弾がないというのは、すごいなあ。


 ちなみに、この松野亀右衛門、大友氏の末裔らしい。



26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 17:20:25.75 ID:A/bNT0zJ
大友宗麟の次男親家が立花宗茂を経て細川忠興に客分として士官し利根川道孝と名乗る
子の(織部)親英は蜂須賀に使えたあと細川忠興に召し寄せられて直臣となる
大友改易後に田原親盛が細川忠興に使え松野半斎と名乗っていることから松野衆として名を改めたのだろうか?
亀右衛門は親英の子である

なお松野家はもともと切支丹であったが棄教した、このため代々家老に起請文の提出が義務付けられていたようだ


心の問はば如何こたへん

2018年06月19日 18:12

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/19(火) 00:25:10.18 ID:LF7ESyC8
長岡越中守(細川)忠興が蒲生氏郷に、蒲生家重代の宝である”佐々木鎧”を所望したことがあった。
氏郷の家臣である錦利八右衛門は、「似せの鎧を遣わしましょう」と申し上げたが、氏郷は

「『なきなどと 人には言て有なまし 心の問はば如何こたへん』という古歌がある。
お前の言う事、我が心は恥ずかしい。

確かに佐々木鎧は天下に一足の鎧であるから、それが如何なるものか知る者はほとんど居ない。
だが、私は一度忠興に遣わすと言ってしまったのだ。そうである以上、後に残ったとしてもそれは重宝ではない。」

そう言って佐々木鎧を忠興へと遣わした。後になって忠興は、その鎧が蒲生家重代の宝であることを知り
様々に返還しようと働きかけたが、氏郷は決して受け取ろうとしなかった。

この鎧は氏郷逝去の後、跡を継いだ秀行へ返還されたという。

(氏鄕記)



20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/19(火) 05:34:44.11 ID:PX6q8q1U
半分にされなくてよかったな

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/19(火) 08:36:19.46 ID:FtljizKO
後で知って慌てる三斎さんw
ちょっと珍しいパターンかも。

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/19(火) 17:39:01.63 ID:780zjbW0
忠興さんええ人やな
氏郷さんもええ人やな

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/19(火) 18:55:35.55 ID:TBSus3I3
>忠興さんええ人やな
ええっ?……

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/19(火) 19:13:09.28 ID:MQw5BSy8
鎧の由来とか説明を聞いてなかったのね

物事に分別のある人

2018年06月17日 17:47

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/17(日) 15:34:15.91 ID:p3ch8gs1
ある時、蒲生氏郷が伏見の前田利家の屋敷を訪ねた時、蒲生家と前田家はもとより縁辺であるので
(利家の次男・利政の妻が氏郷の娘)、供の侍たちは蒲生家、前田家共に座敷に入るのであるが、
その時は蒲生家の侍たちは、座敷には入らなかった。

ところが、氏郷の小姓である岡半七という者、これを知らずいつものように番所の戸を開けて
座敷に入ろうとした所、傍輩が一人も居ないことに気が付き、驚いて座敷の戸を閉めて退出した。
この姿を番所に居た者たちが小声で笑った。

その瞬間、岡半七は太刀の柄に手をかけた
「汝ら何を笑うのか!?」

声高に過ぎたその声を氏郷は聞き付け
「また半七めか。いつもの大声だな。」と、つるつると座を立ち半七を呼んで、特に用があったわけでは
無かったが、当座の事について長岡越中守(細川忠興)への使いに出した。これによって喧嘩を止めたのである。
このように氏郷は、物事に分別のある人であった。

(氏鄕記)



18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/17(日) 17:04:59.83 ID:UyI9nnUz
ぷーくすくすされたら、刀を抜かないといけない。これ、侍の掟。

秀頼公が降らせたとしたら

2018年03月04日 21:07

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 18:25:56.35 ID:dDdfXZzE
寛永八年五月八日、江戸にて霰が降る。
この霰はとても大きく屋根をつきぬけ死人が出たほどであるという。
この日は豊臣秀頼の十七回忌であり秀頼の祟りであると皆噂した。
そんなときに三斎様が忠利への手紙に書いた一言
「秀頼公が降らせたとしたら小米ほどの霰にしかならねーだろ」

ひどい言いようである。



576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 21:52:24.34 ID:1/g86kDk
>>575
面白いw

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 02:35:05.49 ID:WZikKtO0
なんで小米なのか説明よろしく

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 08:12:54.52 ID:SRBMFBnt
小物だから、てことじゃダメなのか

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 20:27:09.16 ID:+GYwg/Yu
普通に考えて 、秀頼は高く評価仕様がない

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 22:42:42.32 ID:E7L7esSF
確かにひどいなw

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 23:10:37.02 ID:22URxcVa
後のシャオミである

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 23:12:06.25 ID:ib5vEmNz
信雄や足利義昭のようにはいかなかったんだな。

御最後の時、さぞかし私の事も

2018年02月09日 21:04

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/09(金) 08:31:11.41 ID:LuXzig//
細川幽斎・忠興父子により、丹後弓木城主である一色五郎(義定)が謀殺された後、
幽斎の娘であったその内室は宮津へと帰った。そこで一色五郎の討たれた終止を聞くと、
その最期の時を想い深く嘆いて過ごした。彼女はこのように語った

「過ぎし八日の卯の刻(午前6時ころ)、殿は私に向かってこう仰られました

『今日は細川殿と対面する。我が家と細川殿、互いの先祖は親しくして代々公方様へ仕えつつ。
ここかしこの戦において、互いに頼み頼まれ、力を合わせてきたと見える、古い文なども
今に残っている。子孫の末となったが、昔を思えば懐かしく、またこのように親子の縁となった
宿縁の浅からぬ不思議さよ。』

そうしていつもより丹念に、馬鞍をきれいに装わせて弓木を出発されました。
私が一色に嫁いでより、あのように賑々しい供人にて、いづくの地へも出かけたことはありません
でしたから、私もひとしお嬉しく、城の窓から一行を見送りました。
須津の浜道を過ぎ山路に差し掛かると、そのあたりを覆っていた朝霧も吹き払われ、とても幽幻な
姿に写りましたが、それもやがて松陰に見失い、供人も見えなくなり、心の中にやるせない思いを成し、
そぞろに涙がこぼれそうになりましたが、忍んでそのような姿を人に見せませんでしたが、なにやら
不吉な気もして、盃を出させ、女房たちも慰めました。

それなのに、思いの外の事があって失せさせられた哀しさよ。
このような企てが有ったとは、夢にも知りませんでしたが、御最後の時、さぞかし私の事も
恨まれたでしょう。」

そう、明け暮れに嘆かれたという。

(丹州三家物語)



529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 14:30:50.66 ID:xivEyj3j
兄が基地外だと普通の男が優しく見えるようだ

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 15:31:24.86 ID:7B7liXrt
三斎様の眉間の刀傷ってこれが原因か?

上下の間の作法を申し付けぬ人

2018年01月30日 18:04

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 00:02:00.17 ID:0It5AjrQ
上下の間の作法を申し付けぬ人


寛永9年12月に、細川忠興が熊本に四男の立孝を呼び寄せたところ
立孝に付くことになった地元の従者が"上下の作法"を知らなかったので
笑ってしまったという話を嫡男の忠利宛てに書き送っている。その手紙の中で

寛永9年12月14日の忠利宛て忠興書状(細川家史料)
『古肥後(加藤清正)は一切上下の間の作法を申し付けぬ人であった。
 高麗などでも左様に見えた』

と40年以上前の話を持ち出して、清正のせいで熊本の侍の
態度が悪いと皮肉っている。よっぽど不快だったのだろうか?



517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 11:39:32.08 ID:+FDuZGLA
下人から成り上がった者は下々と親しく振る舞うからね
将軍に仕えてたお大尽とは接し方が違う

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 12:26:31.16 ID:wMisgGOo
儀礼をわきまえてないのと親しくするのは全然違うことでしょう。
現代でも「親しき仲にも礼儀あり」と言いますからね。

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 21:43:00.66 ID:BKmLaQWd
>>518
無礼講って言ってたのに機嫌が悪くなるクソ上司に似てるな

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/31(水) 00:03:56.08 ID:rz1wIjlV
>516-517
真田丸で豊臣系の成り上がりの家に不快感を示してたのはこの辺の話がベースだったっぽいね
ただ加藤家が残ってる頃だと黒田家とは違い付き合いは一応してたので
「熊本から贈られた海苔美味しい」とか言ってる三斎様

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/31(水) 00:35:45.02 ID:qyN129Vt
>>520
肥後治めるのに清正を最大限立ててもいたしなぁ。結果、熊本で何かといえば全部清正に。

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/31(水) 08:35:08.35 ID:r/L94H6H
>>519
ゴメン。
この話題からその感想は理解不能。

三斎は実は

2017年06月08日 00:27

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 02:47:35.45 ID:/PRBbIyV
幽斎は細川への養子で、本名は三淵である。幽斎の兄を三淵大和(藤英)
という。光源院殿(足利義輝)の弟(義昭)は幽斎を頼みにして信長に頼った。

(信長と義昭の間には)20ヶ条の掟があったが、(義昭は)後にこの掟を
用いずして槇島に籠城した。信長は(義昭を)熊野に追い込みなさった。

光源院殿の御宮妾が懐妊3ヶ月の時に、幽斎は御宮妾を与えられたので、
三斎は実は光源院殿の子である。三斎は光源院殿に顔が似ていた。

本願寺東泰院の父(教如)も光源院殿の落胤という。稲葉能登守(信通)は
三斎の孫である。

(光源院殿妾御宮。懐妊三月に幽斎は被下候ゆへ。三斎は実は光源院殿子
也。光源殿に顔似たり。本願寺東泰院父も。光源院落胤と云。稲葉能登守は
三斎の孫。)

――『武功雑記』


松井康之が利休最後の手紙を

2017年06月05日 21:10

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/04(日) 21:10:27.63 ID:1YzJkvJp
トーハクの茶の湯に最終日に行ってきたが
実物の伊賀焼き花入れの生爪見た。
松井康之が利休最後の手紙を受け取ったというのも初耳だった



985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/05(月) 02:50:22.57 ID:DEb+6auF
松井康之は利休←→忠興の身分差が大きいから形式上は間に居て取り次いでた
その一方で個人的にも利休と親しかった様子

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/05(月) 16:24:11.36 ID:bu89Ei3i
天皇から号もらってもダメなもんはダメか

中里介山「大菩薩峠」の「伊達政宗と細川忠興で半分こ」

2017年05月30日 18:10

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/30(火) 15:31:13.86 ID:RaAvraES
伊達政宗=文化財クラッシャーってことで王羲之の書をまっ二つにしたことがネタにされてるけど
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-376.html
「伊達政宗と細川忠興で半分こ・いい話?」

>政宗と忠興と言えば、朝鮮出兵時に漢陽(ソウル)の王宮で見つけた
>王義之の書(写本)を取り合って、結局山分けして半分ずつ持ち帰った話が
>2人らしいエピソードで印象深い

中里介山「大菩薩峠」を読んでたらこのエピソードが載っていて、その内容は
細川三斎の部下甲がソウルの王城で王羲之の孝経(李世民親筆の序つき)を見つける。
伊達政宗の部下乙もそこに来て、甲に伊達に譲るよう言うが、早い者勝ちということで甲が自軍に持って帰る。
→乙から聞いた伊達政宗が細川三斎の陣を訪れて、王羲之の孝経を見ようとする
→細川三斎が「このままでは政宗に持っていかれる」と思い、政宗に両家の結婚話を出す。
→政宗が両家の婚姻を承知する。
→細川三斎が王義之の孝経を2つに裂き、両家が一つずつとり結納代わりとする。
この後
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-845.html
のとおり、細川宗孝が板倉勝該に人違いで斬殺された際に伊達宗村(小説では父親の吉村)が機転を利かせて
細川家取り潰しを回避し、恩を感じた細川家から王羲之の書が伊達家に与えられ、王羲之の孝経がもとに戻る。

てことになっていた。
これだと三斎様のほうが文化財クラッシャーになってしまうけど、もともとの話ではどうだったんだろう。
中里介山の創作がここで戦国エピとして語られたんじゃなきゃいいが


尼ヶ崎侯家紋九曜を用る由来

2017年02月14日 10:09

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 01:09:14.70 ID:BgQ72oq0
尼ヶ崎侯家紋九曜を用る由来

 大阪の乱のとき、塩賊は尼崎侯の葵紋がついた兵器や提燈を観て驚愕落胆した。
この尼崎の祖先は御当家松平の御同族で信定といい、三河国桜井城に住んでいた。
よってその子孫を桜井の松平家と称す。このためであろうか桜花を家紋としている。
しかし松平の族なので葵が元来の家紋である。

 しかし桜花の家紋には違う理由があるのだとか。
あるとき彼の祖先の誰かが、細川三斎〔忠興〕の宅に行って碁をしていたが、
その時に神君に招かれるということがあった。
すぐに赴こうとして、その者が三斎に

「今、それがしが今着ている服は殊に汚れている。
よろしかったら君の衣を借りて着たいのだが。」

と言うと三斎は喜んで彼の家の服を与えた。
よって今桜井の家は九曜星の紋を用いるのはこれから始まったという。
〔細川氏の家紋は、今も九曜星である〕

 また桜井の家は今はもっぱら九曜を用いているが、もとは葵葉が正式の家紋なので、
この家の者は皆は正式の時には葵紋を用いている。
葵紋を用いるのは変事に限らないという。

(甲子夜話三篇)
参照:桜井松平家『桜井桜』
桜井桜



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 02:16:00.22 ID:clIcZdKw
塩賊がわからん

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 07:37:43.53 ID:+WvvCSyd
塩の密売人

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 07:42:04.94 ID:clIcZdKw
それとこれがどう関係するん?

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 08:06:11.49 ID:RoaBpj1c
大塩平八郎の一党の事じゃないの>塩賊

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 16:59:51.38 ID:8P63j5pE
超時空関羽のことだよ

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 20:20:51.66 ID:mYu93Acq
塩派とタレ派で騒動があったんだよきっと

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 22:56:32.10 ID:4eHEPjx1
俺塩派

朝鮮飴〔細川氏家製〕之事

2017年02月01日 09:18

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 22:28:57.14 ID:BhaUGTgD
朝鮮飴〔細川氏家製〕之事

 細川氏の家で作られているものに、朝鮮飴と呼ぶものがある。
予は時々彼の家の知り合いの者からもらっている。
 ある日思った。
これはきっと彼の祖が朝鮮討のときに、渡海してかの国から伝えてきたものである、と。
 そこで肥州(松浦熈※松浦静山の息子)に細川氏の者に尋ねさせた。
支家の細川能州(利用)が答えられるに、
「本家の二代越中守忠興が、文禄元年〔壬辰〕に、秀吉の命により朝鮮へ渡り、翌年冬に帰国しました。
そのときから製法が家伝したと思われます。」
とのことであった。
ならばやっぱりかの俘囚から得たものか。
 予の家の陶器(平戸焼)と同類である。

(甲子夜話三篇)



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 22:35:06.58 ID:FoQj+jav
ウィキみると清正由来だな

この清水の作の脇差を帯び、

2016年12月08日 17:18

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/08(木) 00:12:35.81 ID:J91C5wri
>>390の続き

 寛永中、細川三斎入道忠興は、帰国の際に別辞を述べるため猷廟(家光)と対面し
そこで御馬を贈られた。
それから西の丸に登り、台廟(徳川秀忠)の御前に召された。
旅中に服用するようにと御薬を与えられ、直接清水藤四郎の御脇差を下された。
その時の仰せで

「我が前にお前たちと共に太閤の前にいて談話していたときから、お前はこの脇差を見て、
『ああ、この清水の作の脇差を帯び、利休の尻膨れ茶入がある茶事を催せたら、
生涯の至楽に足れるのに』
と申していたな。
その言葉は今も耳底に残っていたのでお前にこの脇差を授けたのだ。」

とあり、忠興は感謝して退いたという。
〔この頃には尻膨れの茶入が既に細川家の物となっていたという〕。


(甲子夜話)



400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 10:36:20.98 ID:Db/1OrV5
>>394
これ忠興は利休に散々「茶室に脇差差して入るな」って注意されてたのに
その教えをガン無視して、利休の茶入れで脇差差して茶会やるっていう悪い話でもある

嶋原の賊矢文

2016年10月25日 21:22

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/25(火) 05:15:08.44 ID:dsNNs2EC
嶋原の賊矢文


薩州の支、佐土原侯〔島津筑後守〕の臣の某が持ち伝えている、
寛永中の耶蘇一揆のときに、原の城中から寄せ手に射遺した矢文として、
伝写したものを見た。
本書は今なおかの臣の家にあるという。
その文は憎むべきものだ。
これがまさに彼らが賊徒であるゆえんである。


「矢文


『一、当城之土民、宗門ノ為メニ尸ヲ山ニ捨て、名ヲ後代ニ留メント欲ス。
之ニ加ルニ忝モ上使板倉内膳正ヲ討チ奉リ、生前死後之本望、之ニ過グベカラズ候。
冀クハ近日一戦遂、万死ヲ顧ズ、尽ク相果ン。
且又余慢有ルニ依テ、狂歌ヲ綴リ軍中ニ放ツ者乎。一笑セヨ。』


一戦功成テ古城ヲ鎖ス、 三軍ガ死ヲ望テ責レドモ成シ難シ、
九州ノ大勢十余万、   一冬立チ尽シテ花ノリヲ待ツ。


島原や有馬の城を責かねて 心づくしに見ゆる上使衆


肥後守いかに心は細川や なかながし日をあかし暮らして


物数寄は越中流とききければ 敵にあふてはならぬ物数寄


有吉や頼むかひなき先手にて 敵をばうたで味方をぞうつ


信濃路や敵に心をかけ橋の かいがい敷もあぐるせい楼


立花や袖の香ふれし昔より 猶かふばしき武士の道


有馬山すそのの桜咲みだれ 軍は華を散す古城


寛永十五年寅三月日」


(甲子夜話)



細川三斎先見〔大坂陣起こらんとする前〕

2016年10月08日 21:10

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/07(金) 22:16:35.47 ID:ydBTguYg
細川三斎先見〔大坂陣起こらんとする前〕

軍講者宗耕の話である。

 大坂陣起ころうとする前、細川三斎は領国にいた。
宇土から熊本に行く途中、何者かが馬上で深網笠をかぶって行く者に会った。
三斎はその者と間近くで行き過ぎざまに振り返った。

三斎は左右に問うた。
「今の馬上の士、お前たちは何者かを知っているか。」

「知りません。」

「あれは塙団右衛門だ。どうしてこの地に来たのか。
我はあやうく打ち捨てようと思ったが、そのままにしておいた。
もしかすると、遠からず変事が起こるだろう」

 果たして、その後間もなく大坂の乱が起こったという。
後に思うと、塙は薩摩へ行く途中であろう。そうならば大坂の戦の最後で
秀頼も薩摩へ落ちて行ったが、なにか薩州と由縁があるのだろうか。
神君にも御弁えられていることなので、捨て置かれしとのことなのだろうかと。

 またこのことをある席上で細川の留守居へ問うと
「この話にでてくるのは、まさしく三斎である。」
と言ったそうだ。
薩摩の留守居も居たが、
「これはどうしたことであろうか、よく知りません。」
と答えたそうだ。
思うに、薩摩の留守居は憚ったのだろうか、そもそも知らなかったのだろうか。
(甲子夜話三篇)



227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/07(金) 23:46:30.86 ID:hBlmd/qS
細川の肥後入りって大坂の陣より後じゃね?

ガラシャの鐘とディエゴ加賀山の殉教

2016年08月25日 14:55

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 14:21:09.55 ID:vy/UI/bB
ガラシャの鐘とディエゴ加賀山の殉教

永青文庫にて所蔵・展示されている「九曜紋付南蛮鐘」は、記録がないため詳細は不明だが
現存する4つの南蛮鐘(キリシタンベル)の内の一つで大変貴重なものであり
現代の細川家/永青文庫では通称『ガラシャの鐘』と呼ばれている。



細川忠興は妻の珠(ガラシャ)とは生前信教のことで対立することも多かったものの、
珠が自害した翌年には焼跡から珠の遺骨を拾ってくれたオルガンティノに教会葬を頼み、自身も参列。
慶長7(1602)年からは、小倉城下ではセスペデス神父や家臣の加賀山隼人の指揮の下
天主堂や集会所等を作ることを許し、キリシタンに対して非常に寛容な態度で接していた。
忠興がこの南蛮鐘を鋳造させたのは、恐らく天主堂に寄進するためだったのだろう。
加賀山は10歳のときにフロイスから洗礼を受け、安土のセミナリヨで学んだという筋金入りの
キリシタンだったので、小倉の教会では中心的人物になったという。

しかし慶長11(1606)年のセスペデス神父の急死や、慶長18(1613)年の幕府の禁教令により
キリシタンに同情的だった忠興の態度はついに硬化し、天主堂を初め関連する建造物は全て破却された。
この鐘も小倉城下に音を響かせることは終ぞなく、櫓の隅に仕舞い込まれたと言われる。

当然細川家中でのキリシタンへの目も厳しいものとなり、六千石の禄を得ていた加賀山も幽閉され、
忠興に「自分と一緒に地獄へ行こう!」とまで言われ棄教するように説得を受けたが、拒否し続けた。
元和5(1619)年在京中に信者52人が処刑された京都の大殉教を見た忠興は、加賀山の説得を諦め処刑を命じ
10月15日、加賀山隼人(洗礼名:ディエゴ)は小倉城下町の西、干上りの丘で斬首された。

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 14:21:50.71 ID:vy/UI/bB
おまけ

細川忠興の親友森忠政はいろいろあって津山城を完成させ、お祝いに忠興から鐘をもらっている。
(参考:ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1154.html)



通称『朝顔の半鐘』とも『篇笠の釣鐘』とも言われる鐘だが、『ガラシャの鐘』と九曜紋の位置や大きさを
除けば、非常に似通っている。
確証こそないものの津山城完成が元和2(1616)年で同時期のため、
ガラシャの鐘を鋳造するときに一緒に作られたのではないかという論考がある。
こちらの方は津山城の天守閣の最上階に吊るされ、時を告げる鐘として毎日鳴らされ続けたらしい。