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『老人雑話』より、信長?の意外な発明など

2020年09月10日 18:11

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/09(水) 22:11:14.28 ID:uTWXNuJz
老人雑話』より、信長?の意外な発明など

・お弁当箱
織田信長の(初期の)時代には弁当というものはなかった。安土城ができて、弁当というものができた。小芋くらいの大きさの中にいろいろなものを詰めていたそうだ。
信じない者がいそうだが、また挟み箱というものもなかった。挟み竹というものを使っていた。
挟み箱は大坂の(織田一族)津田信成が初めて作ったそうだ。

・江村老人が見た信長、細川忠興、そして思い出
織田信長は二条御新造を築き、将軍の足利義昭を従えて慶賀の能があった。「老人」(江村専斎)も4歳くらいで、乳母に抱かれて見物した。
その日、信長は自ら小鼓を打っていた。細川忠興は私よりも年が上で、6歳くらいで猩々を1番舞っていた。
そのとき、帰りに門外にて盗人に(乳母が担いでいた?それとも持ち物の?)後ろのひもを切られたことを覚えていると語った。
その頃、盗人は小柄・笄などを抜き取ることがあった。このために盗人を「ぬき」といった。いまの「すり」と同じことだ。

・三斎さまの母もファッション発明家
木綿足袋がいまのような製法になるのは、細川忠興の母(沼田麝香)が初めて作り、忠興の茶会に出るときに足が冷えるので履いたそうだ。

・自分の昔を思い出した?太閤秀吉
あるとき、太閤秀吉は宇喜多秀家の屋敷で能見物を楽しんだ。
庭に降りるとき、家康が先に降りて(秀吉の)草履をそろえた。
秀吉は家康の肩に手を置いて、「徳川殿に草履を直させるとはねえ」と言ったという。



527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/09(水) 23:24:45.40 ID:UVHCOss5
>>526
こういう話好きだわ

528 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/10(木) 15:27:01.51 ID:k5JSoFGR
一番下の、家康が嫌味なやつになってない?

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 15:57:50.37 ID:Ffsvj1im
妖説太閤記で
家康が秀吉の草履を揃えて秀吉が
「わしもとうとう家康に草履を揃えさせるまでになったか」
と大喜びするシーンがあったけど

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 21:21:32.16 ID:c8+1bs8C
しかしまさか脱ぎっぱなしで放ってあった訳でもあるまいに礼儀的に草履に手を添えてみたぐらいかな
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三人目は事の外きらひ申事の由

2020年08月02日 18:15

千姫   
239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/01(土) 18:43:07.48 ID:M3sPawsy
三人目は事の外きらひ申事の由


豊臣秀頼の正室であった千姫徳川秀忠の長女)は、大坂の陣の後本多忠刻に再嫁した。
しかし寛永3年(1626年)に忠刻も亡くして、また寡婦となってしまった。
ところが三年後の寛永6年(1629年)、前田利常との縁談の噂が持ち上がった。【細川忠興文書 七五一号】
利常は千姫の妹の珠姫と結婚し嫡男もいたが、元和8年(1622年)に死別していた。
実際は千姫本人や利常の母である寿福院が嫌がって再婚することはなかったが
その理由について細川忠利が忠興あての書状に書き留めている。【細川家史料 細川忠利文書 三三一号】

一、加賀筑州(前田利常)へ播磨の御姫様(千姫)がおましになる話(縁談)は、筑前殿御母儀(寿福院)が
  事の外迷惑がっています。子細は秀頼様・中書殿(本多忠刻)が亡くなられてしまったので
  三人目になってしまうのをとりわけ嫌がっていて[原文:三人目は事の外きらひ申事の由]
  それが並大抵ではないためまだ済んでいません。その上御姫様も迷惑がっています。

忠興は「迷惑がるのはしょうがないが、嫌と申すような事ではない。もっとも筑州の母だから申し上げた
のかなと嘲笑されるようなことだ」と返書で反応している。【細川忠興文書 七六七号】
千姫は翌年にもいとこの松平忠昌と再婚する噂が出たが、続報はなかった。
この二つの縁談は恐らく、寛永9年(1632年)に亡くなる父・秀忠の意向だったのだろう。



加藤肥後、黒田筑前については別ですので

2020年07月11日 17:25

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:15:57.34 ID:EFbVF9nF
此あぢ分別肝要候事


以下は細川忠興が嫡男・忠利に送った書状の意訳。

  わざわざ申すべきのところ、江戸へ(忠利が)人を下されたので申します。

一、上洛する道中で、羽三左(池田輝政)、羽左太(福島正則)、蜂阿州(蜂須賀至鎮)などの家臣と
  行き違いました。どの家中も我々への慇懃さ(礼儀正しさ)が申せない程(よいもの)でした。
  それにつき、我々が諸大名に(今までのように応対すると)たちまち無礼になってしまうので
  右の衆のほかも(我々の)奉行衆が諸大名に対して無礼がないように、堅く申し触れて下さい。
  横目(監視役)も置いて、無礼の者があれば厳しく申し付けるようにしましょう。ただし成敗はせず
  押し込めてこちらへ申し越されるのがよいでしょう。

一、加藤肥後(加藤清正)、黒田筑前(黒田長政)については別ですので、そのつもりで申し付けて下さい。
  ただし両人の家中も、あなたがその場にいるときは上手く捌いてくることもあるでしょうから
  そういうときは見合わせて指図するのがよいでしょう。もしあの家中の者があなたに対して無礼を
  したのに、こちらの者が両人に対して慇懃にいたせば曲事になってしまいます。
  この案配の分別は大切です。[原文:此あぢ分別肝要候事]

一、右の条々は、一度申し触れただけでは変わらないでしょうから、度々申し触れて下さい。
  岡村半右衛門・中嶋左近・戸田助左衛門にもこの書中を見せて下さい。恐々謹言。
       (慶長十五年)三月廿三日            忠(花押)
                内記殿 

――『細川家史料 一六九八号文書』



『鯖の頭の塩出し』

2020年04月22日 16:44

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/22(水) 01:23:08.00 ID:we8d9f7r
細川三斎は中古(上古と当世の間。なかむかし)の茶の湯の者であった。茶菓子に、能登の鯖刺(鯖の
鱗と内臓を取り、背開きにして塩漬にし串に刺したもの)の頭を切って、折敷に椎の葉を敷き、それに
のせて箸を添えて出した。これを『鯖の頭の塩出し』といい、切り方に口伝が有った。

椎の葉を二つばかりに切って、それを添えて面々に出す。客はその葉で掬って喰う。無類の茶菓子である。
以前は、香の物を鉢に入れる事がなかったのだが、三斎の時代より香の物を鉢に入れて出すようになった。
彼の父である兵部大輔藤孝は丹波知行の時、三百石ばかりであったという。将軍義輝公に勤仕の時、今の
千石ばかりの身上であったそうだ。

渡邊幸庵對書
鯖の頭も茶菓子だったのか。



67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/22(水) 02:54:58.22 ID:hkP8sVeK
頭じゃなくて塩鯖の中身の塩を掬って舐めるんだろ
やばいくらいしょっぱいと思うぞ

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/22(水) 07:19:06.37 ID:qR+rnLpT
>>67
謙信が能登を落とした理由はそれか!
茶ではなく酒のために

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/22(水) 12:27:28.01 ID:AeW9hv7m
茶請けに沢庵食ったりするし、そういう感じか
考えるだけでしょっぱくて唾液出てくるなぁ

井目も武蔵が強い

2020年04月21日 17:32

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/20(月) 22:24:55.75 ID:+n0zh/da
私(渡辺幸庵)は柳生但馬守宗矩の弟子であり、免許印可も取った。
竹村武蔵という者があり。自己で剣術を練磨して名人と成った。彼は但馬守と比べると、
碁で言えば井目も武蔵が強い。彼は細川越中守忠興の客分として、四十人扶持を合力された。
その子を竹村与右衛門といって、これも武芸に達した。

武蔵について、武芸は申すに及ばず、詩歌、茶の湯、碁将棋など総じて諸芸に達していた。
ではあるが、第一の疵があり、洗足行水を嫌い、一生沐浴する事がなかった。
外に裸足で出て汚れても、これを拭くだけですませた。そのようであったので、衣服は汚れ、
それを隠すために、天鵞絨(ビロウド)両面の衣服を着た。
こういった事の為に、歴々の人たちは彼を疎んじて近づかなかった。

彼の子孫に久野覚兵衛といって、松平摂津守殿に奉公す、またもう一人は久野団七といって、
松平出羽守義昌に奉公した。この人物は隠れ無き馬数寄であり、身上は五百石であったが、
金五十両より下の馬を求めず、いつも高額の良き馬を揃えていた。

渡邊幸庵對書

いわゆる宮本武蔵についてのお話ですね



56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/20(月) 22:55:42.70 ID:Mp0bJvmp
そういえば播州生まれでおそらく黒田家に仕えてたっぽい武蔵が細川家に客分になってるってなかなか凄いな
後藤又兵衛は確か黒田細川間の関係がこじれてる中、細川家との連絡の取りすぎで出奔する羽目になったと記憶してるけど

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/21(火) 07:39:04.39 ID:H87ejegQ
稲富さんもなんだかんだ許されてる(?)し武芸者は普通の士分とは別枠なのかもね

58 名前:あさだかなた[] 投稿日:2020/04/21(火) 09:25:54.06 ID:M92QWwh2
徳川家康は年貢を3公7民にして農民に対して
思いやりがあったらしい

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/21(火) 11:55:39.04 ID:fWjA91Hf
>>56
後年の知名度はともかくとして武蔵と又兵衛では身分や主君との関係でもかなり差があるのでは?

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/21(火) 13:17:59.71 ID:nn+0BpMQ
又兵衛は武功を地道に積み重ねて出世したけど武蔵には何もないからね

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/21(火) 16:56:53.34 ID:mmKzAu2o
>>59
まぁそうですよねー、城主の又兵衛とだと全然違うんでしょうね、いつ武蔵が黒田家から出たのかもわからないし
とはいえなんかいつの間にか小倉藩と関わり持ってたり、なんか偉くなってるっぽいんすよねー武蔵

当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき

2020年03月27日 17:44

799 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 11:21:43.27 ID:zmuEJTUZ
(豊臣秀吉の死後)
前田肥前殿(利長)が、細川忠興様の元を訪れ、このように仰られた

「石田治部少輔(三成)が、大納言殿(前田利家)にこのように申し上げました
『家康の事ですが、早くも我儘を申し、御寄合場へ切々と出てきません。今のままで召し置いておけば、今後
秀頼様の御為には悪しき事になるでしょう。ですので今すぐにでも、討ち果たすべきです。』
そう色々に申したことで、大納言殿も尤もに思し召され、討ち果たすという事になり、大阪より伏見へ御上がりに
なりました。これ程の事をあなたにお知らせしなければ、以後に御恨みが有ると思い、その要体を語り申します。

討ち果たす手立てとして、治部少輔申す所によると、
『家康の屋敷は落窪に有り、向かいの高い場所に有る宇喜多屋敷より火にて焼き立てれば下々騒ぎ出すでしょう、
そこで表に出てきた所を、宇喜多屋敷より出て討ち取る。もし裏から出たならば、我等(石田家)の者達で討ち取る。
兼ねてからそのように考えていたので、家康の屋敷の後ろは私の下屋敷にしてあり、只今佐和山より動員している
人数が四千有り、手間の要ることではありません。』

そのように申しているのです。」

そう肥前守殿が語った所、忠興様はこのように仰せになった
「家康公を討ち果たすとの事ですが、治部少輔の手立てではうまく行かないでしょう。」
「それはどういう御分別で、そのように思われるのでしょうか。」
忠興様のお答えに、肥前守殿はお顔の色が変わられた。忠興様は仰られた
「私を縁者であると思し召し、一大事をお知らせに成ったことが既に、御後悔しているように見えます。
この事は破れるのも、無事に成るのも御父子の御分別次第です。

この事が破と成った時は御身上が逃れたいと思っても、人は逃さないでしょう。
また私の身上も、逃れたくとも人は逃さないでしょう。
破と極まるのであれば、何時も一所と心得ましょう。

私の考えとしては、治部少輔にとって日本に恐ろしいと思っている人物が二人あります。一人は内府であり、
もうひとりの大納言殿は既に病であり、大納言殿が果てられた以後は、己が主人となろうと考え、色々様々に
申しているのです。あなたを批判するような事を言いますが、大納言殿が御死去なされたら、あなたの事は、
今の十分の一も人は用いないでしょう。御分別を専らにするべきです。
今後、内府を主人とするのか、治部少輔を主人とするのか。
私は治部少輔を主人とするなど罷りならぬことだと考えています。」

肥前守殿はこれを聞くと、
「一々至極と承った。然れば大納言殿に御異見を申したいのだが、蓮々御存じのように、私が申すことは
たとえ良いことであっても聞いてくれない。ましてやこの事については既に、治部少輔の言うことを尤もと
思われている。それを、私の無調法な口では中々説得する事は出来ないだろう。是非御同道してほしい。」
そう、たって仰せに成ったため、大納言殿の元へ御出に成った。

大納言殿が居られる又次の間まで進むと、そこからは先ず肥前守殿がお入りに成り、要体を語られた所、
病にて臥せって居られた大納言殿はむくと起き上がり、畳を叩き悪口を仰せになった。これに肥前殿は
「私は口不調法にて、物のあやを申せないため、御合点参らないのでしょう。そのため越中殿をここまで
御同道しました。」
そう仰せに成ると「然らば越中殿を出候へ」と仰せにつき、大納言殿の居られる間にお入りになられた。

800 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 11:22:02.91 ID:zmuEJTUZ
そうして忠興様が要体を語られると

「其の方の仰せになる所は解ったが、内府が何の御談合にも出てこないという事をしている以上、このままでは
以後秀頼様の御為に成らない。私の息のある内に、家康を討ち果たすべきだと考えている。」と仰せになった。
忠興様はこれに
「批判を申すようですが、御分別を更に重ねられるべきと存じ奉ります。例え家康に対して御談合の場に出ることを
堅く無用と申したとしても、家康が御座有った頃と同じようには出来ません。貴殿が合点していただければ、
家康が出てくるように仕りましょう。そのようにすれば如何でしょうか?」

「家康さえ出てくるのであれば、何も言うことはない。常々、意趣が有ったわけではない。」
大納言殿はそう仰せに成ったため、忠興様は直ぐに、家康公を大納言殿の元へ同道なされ、入魂の御盃を取り交し、
首尾よく家康公は御帰りになった。
忠興様は残り、大納言殿へ仰せになった

「家康の現在の屋敷は無用心であるので、向島へ移されるべきだと考えます。」
「この上は如何様にも。其の方に任せよう。」

そのように仰せに成ったため、即刻向島へお移りになった。

この一ヶ状は三斎様の御物語で承った事である。そして家康公と御老中御連判状に、
『当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき。』とある、六、七人の御連判状を私(細川忠興軍功記の作者)が
預かったことがあり、覚えている。

細川忠興軍功記



802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 12:19:08.70 ID:28ctvBqZ
徳川の治世と豊臣の治世だったら当然豊臣のほうがいいだろうなあ
徳川に味方して得たものはなんなのさw

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 13:25:20.20 ID:k+lBAxIa
少なくとも領地は広がったな。前田も細川も

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 13:33:31.03 ID:JVQBGdYo
豊臣だったら領地は増えてないな

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 15:31:27.93 ID:xqag71KY
○ 太閤蔵入地の解消
× 基本的に政権運営に参画できない

国持クラスの大名はともかく、中小の大名なら江戸幕府の方がやりやすいだろうね
まあ、財政的に余裕が無くて悠々と藩経営できてたケースは少ないけど

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 15:48:32.81 ID:SfIo6kA4
大大名も必ずしも政権運営に参画したかった訳でもないと思うぞ
というか極論三成だけが異常にやりたがってたようにも見える

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 16:18:25.61 ID:pQMysm+j
三成よか輝元のがあやしい

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 17:19:12.35 ID:00FCvUDV
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 17:19:12.35 ID:00FCvUDV
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 18:22:26.61 ID:SfIo6kA4
政宗が誰を嫁にしようと老中にはなれない
変に梟雄的に取り上げられることあるけど
普通に安定求めた婚姻だわな

輝元は三成に乗せられたお調子者だね
乗せられた分野心あったと言えるが

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 01:00:33.06 ID:rNuJGc1p
参勤交代が藩財政を逼迫させたんじゃないの?
知らんけど

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:02:34.16 ID:enxJZdyv
参勤交代は徳川家光の時の政策だし、そもそも江戸在府が基本だった大名への
負担軽減策だったわけで。

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:06:14.65 ID:MVE+KsKB
ずっと当主が天下人の城下に屋敷構えて許可ないと全然帰れませんよりよっぽど安く済むらしいわよ、参勤交代
しかも当主が遠国にいるから領国の統治もむずいし下手すりゃ領地で政治執るやつが実権握りかねんし

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 07:19:02.81 ID:EEZk3pD1
>>813
太平の世で大っぴらに出来る貴重な軍務。
我が武威を世間に見せ付けられる場なのでどの藩も行列を豪華にすべく無駄金使ったせいでもあるので。

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 09:16:16.15 ID:Zk6eD4N+
江戸時代の武家財政の逼迫は本質的には
何も生み出さない雇用守らなきゃ行けないから

仔細が有り、丹波路を行く

2020年03月26日 17:57

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 10:09:52.35 ID:++oLtex7
慶長五年、奥州会津の城主・長尾景勝御討伐の時、細川越中守忠興は家康公の御味方にて宮津より出陣された。
父・幽斎は隠居の身であったので、田辺の城に居られ、忠興だけが出た。

こうして忠興は雑兵たち三千の人数にて六月十一日に宮津城を出馬された。この折に、御暇乞い申さんと、
田辺城に立ち寄り、その夜は田辺に宿陣した。幽斎は天守に上り、軍勢の行列を見物された。

忠興は若州を経て近江路へ打ち出ようと、丹後・若狭の境である吉坂まで進んだ。ここに、若州熊川には
近年関所が有るのだが、ここに敦賀の城主・大谷刑部少輔(吉継)が下知を加え、熊川の関所をいよいよ
堅固にして往来容易からざる様子が聞こえたため、忠興はこのように申した

「若州より近江路へ打ち出ようと思ったが、仔細が有り、丹波路を行こう。」

そうして吉坂より取って返し丹波路を山家へかかり、伏見へと出た。
幽斎はこの事を聞くと、こう申された

「刑部少輔になにか計りが有ったとしても、それで忠興の通行を妨害する仔細はない。
この頃世間物騒の時節であるのだから、むしろ関所に行き掛り、仔細を見届けて通るべきなのに、
吉坂まで進んでおきながらそこから取って返し、丹波路へ向かったのは不覚悟の至である。
忠興がもし存命して帰陣したとしても、対面は致すまじ!」
そう奥歯を噛み締めて怒鳴られた。

また一方、それから程なくして小野木重勝が田辺城を攻めた時、勅命とは言いながら、今少し永らえずして
幽斎が城を渡して京都に上ったことを忠興も悦ばなかった。

こうして互いに隔心が出来、段々と不和に成っていき、後にそれは次第に募り、父子の間の侍共が、一日に
二度に渡って鑓を合わせる事件も有った。

丹州三家物語



937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 12:43:09.56 ID:R6yK/SZl
サイコパス親子

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 12:52:06.74 ID:/s+X6SpC
命がけの親子喧嘩は戦国あるある

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 20:16:46.18 ID:MxcE7X8S
でも、もうちょっとこう広い心があってもいい二人

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 08:59:42.36 ID:vfGRF0A/
本人同士はまだいいが配下にやらせるのはちょっとなあ

黄金百枚の儀

2020年03月25日 18:11

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:24:30.66 ID:K2dn1Ud1
細川忠興様は豊臣秀次公より別して御懇にされており、どうしたわけか、黄金百枚を拝領していた。
その上秀次の家老である前野但馬守(長康)殿の子息・出雲守(景定)は忠興様の聟であり、
秀次事件が起こると、御縁者故「秀次の一味である」と治部少(石田三成)の申立があり、これに
是非無く思し召され、聚楽の屋敷へは米田助右衛門(是政)殿が遣わされ、伏見での状況次第では、
御上様(正妻)、御子様たちを仕舞(生害)させ、御屋敷へ火を掛け、助右衛門殿は切腹するようにと、
忠興様は命ぜられた。

伏見に於いて、黄金百枚の儀は、「薬院法印(施薬院全宗)の肝煎りで秀吉公(秀次の間違いか)より借用した
ものであって、拝領ではない。」との弁明を、米田助右衛門、徳善院(前田玄以)より、太閤様へ申し上げた所、
太閤様はこのように仰せになった

「先年、明智謀反の時、信長公への御恩を存じ出、明智に一味しなかった。
たとえ今度、秀次と一味したとしても、その時の忠節により赦免しよう。」

この旨を徳善院が仰せ渡すと、忠興様は御安堵なされ、この時も助右衛門殿の一命をとした御奉公であったと、
忠興様より度々そのお話を承った。

細川忠興軍功記



788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:29:19.10 ID:5/kImDAj
>>787
しれっと治部と太閤を貶める悪い話。

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:36:18.45 ID:airvD0sC
金借りただけなんですもらってないんです、って言い訳になるんだろうか

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:39:25.29 ID:/mRIgf+N
佐吉があえなく負けた理由がよく分かるな

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 21:37:06.12 ID:NfHJ2VF6
この話へうげものにあったね

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 22:54:05.24 ID:aUbdaYvf
>>789
猪瀬直樹、徳洲会の5000万円事件思い出した

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 13:15:13.15 ID:jvpr6x/q
口先で借りただけだから許せやって話じゃなく
だから御公儀にお返しするので許してください
って話なので

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 19:33:11.35 ID:5lQO7ZEJ
>>794
なるほどそういう文脈なのか
これは勉強になりました

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 20:29:48.46 ID:MxcE7X8S
石田さんほんとにどういう人だったんだろな
全員にこんな感じでちょこちょこ当たってたんだろうか

小野木縫殿頭切腹の事

2020年03月24日 16:41

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 22:27:15.18 ID:aD4lGeCD
小野木縫殿頭切腹の事

関ヶ原表は家康公の御利運と成ったため、諸大名には御暇が下され、彼らは国々へと帰った。
この時、細川越中守(忠興)が権現様に申し上げた

「小野木縫殿頭の居城は、幸いにもそれがしが在所に帰る道ですから、通りがけに踏み潰し、小野木の首を見て
まかり通るべきと考えます。」
(筆者注:小野木重勝は関ヶ原で西軍に属し、細川幽斎の籠もる田辺城を攻撃し、開城させた)

家康公も「そのように考えていたところだ。忠興の思った通りに成すべき。」と仰せが有り、慶長五年十月十七日、
福知山の城を取り巻いて、ただ一乗にと揉み立てる。
去る十月(原文ママ。正確には七月である)、縫殿頭は田辺城を攻めており、その意趣は甚だ深く、
「小野木の首を見るまでは、日夜を分けじ!」と下知された。

この福知山の城は、巽の方角より差出て、油崎に本城を取っていた。その下は蛇が鼻といって、東西に引き廻した
大河の内に堀を掘り、この堀は要用の堀であるので、その高さは幾尋という限りも無いほどであった。
然し乍らここには浮草が覆い浅く見えたために、細川衆先手の人数は我先にと飛び入った。これゆえ若干の人数が
溺死した。後方が非常に堅固な縄張りであると見えた。

忠興はこの様子を見て、蛇が鼻表は先ず置いて、南の丘より攻めた所に、忠興の旧友である山岡道阿弥(景友)が
馳せ来て両者の扱いに入ったため、小野木は城を開き、自身は剃髪染衣と成って上方へと退いた。
ところが忠興は憤りなお醒めず、また兵に追いかけさせ、亀山にて捕らえ、嘉仙庵という寺にて敢え無く腹を切らせた。

丹州三家物語

細川忠興の福知山城攻めと小野木重勝の最期についてのお話



稲富一夢が事

2020年03月22日 15:34

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/22(日) 09:49:41.35 ID:+xP3v1b/
稲富一夢が事

稲富一夢(祐直)、初めの名は伊賀である、丹波国の住人にて、一色五郎満信(義定)の家臣であったが、
義定が滅んだ後、細川忠興の侍と成った。
この度、大阪屋敷の留守として忠興が置かれた所に、主人の用に立たず、剰えその行方も知られなかったため、
忠興は深くこれを憎み、何としてもこの者を捜し出し火あぶりにせんと捜索された。

しかし、「稲富が大阪城中に罷り在って、主君の役に立たなかったのは是非無き次第であった。」とも聞こえ、
その故いかにとなれば、稲富伊賀は鉄砲の名人ゆえ、大阪衆の歴々に、弟子である人多かった。故に稲富が
滅びることを惜しみ、鉄砲稽古に事寄せて、予め城中に呼び入れた。この時は未だ敵味方の分色も無い時であったので、
鉄砲の稽古もすぐに済むことだと心得て、稲富が城中へ参ったのも仕方のない事では無いだろうか。

この稲富という者は、奇妙稀代なる鉄砲の上手であった。その妙を語っても、未だ見ぬ人で、「信じられない」と
思わぬ人は居なかった。
稲富が常に用いる鉄砲は、玉目一両より八匁までを限りとし、その町間も八町(約870メートル)以上を好まなかった。
八町以内であれば、火蓋を切って中らずという事無かった。
或いは暗夜に孤狼の声を聞き据えて、闇中に撃ち留める事も、ただ箱の中のものを拾うようなものであった。

稲富は二十五歳の時、橋立大明神に一七日断食して、目くら打という工夫をしたと聞こえる。
十能十藝、古より手練の者は多いが、離切りたる飛び道具を、稲富ほど精緻に扱う者は未だ聞いたことがない。

関ヶ原の戦いが鎮まった後、畏くも権現様(徳川家康)が御直に越中守(忠興)に御詫言あそばされ、頭剃らせて
一夢と号し、世上の師となされた。

丹州三家物語

稲富祐直についてのお話



一色義定室・伊也姫の事

2020年03月21日 16:47

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/21(土) 02:23:17.00 ID:7Ug6HP5N
>>928の続き

細川忠興は予てより米田監物(求政)と密談して、
「一色五郎(義定)を打ち留めた時は、汝は早く義定の居城である弓木城に馳向かい、
(忠興の妹である)五郎の室受取るのだ。もし城内の侍たちで、少しでも擬議する輩があれば、
一々に頸を刎ね城を破却して帰るべし。出馬の合図は狼煙である。」
と伝え、騎馬十四、五騎に足軽を付けて置かれた。

宮津から西に向かって、のろしが嶽よいう高山があった。この山に予め煙の役人を付け置かれ、一色を討つと等しく、
城内に煙を上げると、山上にも狼煙を立てた。かの十余騎の兵ども、その方々の一味の者、この煙を見ると
監物に従って弓木に押し寄せ、城内に言い入った

「御内室の迎えとして、米田監物ここまで来たり候也。この上は仔細無く渡し給え!」

そう申し使わしたが、城内からは返答にも及ばず、夥しい鉄砲を打ち出した。
城内には天下無双の鉄砲の上手、稲富伊賀(祐直)という者が在り、極めて正確に射撃すると、寄せ手は
たちまち死人多く出た。
監物は先ず野田の橋詰まで引き取り、重ねて使者を以て城中に申し使わした

『内室のみを渡し給わば、面々には仔細無い。只今卒爾の働きをし給う故、味方に手負いが少々出来たが、
それは武士の作法であればどうして苦く思うだろうか。これは私が、藤孝の前で宜しく取りなし申す。』

そう懇ろに申し遣わしたが、城内の評議は喧々にして、とやかくという間に、傍の者共が内室を人質に取って
後ろの山より忍び出て、但馬を指して落ちていった。
監物はこれを聞くと即座に諸鐙にて追いかけ、但馬国藤の森にて追いつき、恙無く内室を取り返して、
米田は宮津へ帰った。

(中略)

一色(義定)殿の御内室は、宮津へ帰られた後に五郎殿の打たれ給わった終始をお聞きに成り、最後の時を思い
深く嘆かれ、このように仰られた

「過ぎし八日の卯の刻(午前六時ころ)、殿は私に向かって宣われた。

『今日は細川殿と対面する。我等が家と細川殿、互いの先祖は親しくしていて、代々公方様に仕えつつ、
ここかしこの戦いに、互いに頼み頼まれて力を合わせていたと見え、そういった古き文なども残っている。
その子孫の末と成っても、昔を思えば懐かしいものだ。
それが、このように親子の縁と成ったのも、宿縁の浅からぬ不思議さよ。』

このように宣われ、誠にいつもより睦まじく、馬鞍綺麗に装わせ。弓木を出給うたのだ。

去年の夏の五月の頃に私が一色殿の元に参ってから、このように賑々しい供人で、どこの地にも出かけられた
事はなかった。私も一入嬉しくて、城の窓より見送ると、須津の浜道を過ぎられ山路にかかられた所で、
また朝霧が吹き払われてとても幽玄に見えた。しかしそこから、生い茂る松陰に見失い参らせ、
供人も見えなくなると、心の内に味気なく、そぞろに涙がこぼれるのを、忍んで人に見せなかったが、
殿が城を出られたことに涙を流したのは忌まわしいことだと思い、盃を出させ女房たちをも慰めたのだ。

それなのに、思いの外のことが有って失せさせ給う哀しさよ。このような企てが有るなどとは、私は夢にも
知らなかったが、御最期のその時に、さぞ私を恨まれたであろう。」

そう、明け暮れに嘆かれた。

丹州三家物語



930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/21(土) 07:19:29.62 ID:9tXeVMOo
>>929
まさに悪い話…

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/21(土) 18:57:41.06 ID:cNtRGQG+
光秀「手段は選ばぬ。勝つためならば。」

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 06:17:42.39 ID:An2HW4k+
米田監物って、針薬方に出てくるあいつか。光秀とは深い付き合いだったのかな、田中城籠城以来

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 17:41:19.37 ID:CHPz+jBH
一色が光秀に味方し長岡が秀吉に味方した
長岡の内室は光秀の娘
生き残る選択肢は少なかったと思う

一色義定謀殺

2020年03月20日 15:42

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/20(金) 03:55:08.86 ID:xMBLyZ5b
天正九年の三月に、細川藤孝・忠興父子は丹後に入国され、明智光秀が予てより取り持たれた契約の事であったので、
その年の五月に細川藤孝の息女を一色(義定)殿に嫁がされた。

同十年九月八日、五郎(一色義定)殿が宮津の城に聟入りあって、細川父子に対面した。
この時、未だ宮津の城は完成していなかったため、はかばかしい座席も無く、そのため大手の内にあった、家臣・
有由士郎右衛門の宅に於いて五郎殿を饗応し、既に酒宴に及んだ。

細川藤孝が抔を一色殿に差し、五郎が抔を取り上げて、頂こうとしたその時、忠興が一色を討った。
しかし少しかわしたか、弓手の肩を討たれた。
五郎も流石壮士にて、勇猛をふるったものの、大勢が出合い、取り籠めて遂に討たれ給うた。
いたわしき有様であった。

五郎の扈従に蘆屋千八、金川与藤という者たちが有り、彼ら二人は常に一色の身近くに仕えていたため、
この時も召し具され次の間に在ったのだが、彼らについても予め討手を用意し、一色殿と同時にこの二人も
討たせた。蘆屋、金川は勇士であり、即座に抜き合い、討ち手も手負ったが、多勢に無勢であり、叶わずして
二人共討たれた。
その他の一色衆は、予め大手の門外に町家を建て、そこに置かれていたのだが、城内が何やら騒がしく、
一色討たれ給うと聞こえると、「すわ!我先に!」と抜き連れて追手の門へ入り込もうとしたが、細川衆
切って出て、大手の橋を轟かせ追い返して戦った。手負い、死人多く出て、一色方は十三人が枕を並べて討たれた。
生き残った一色衆は皆、弓木に引き取って堅固に城を固めた。

丹州三家物語

細川父子による一色義定謀殺についてのお話

続き
一色義定室・伊也姫の事


細川父子の入部と丹後

2020年03月19日 17:07

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/19(木) 02:20:30.21 ID:5aU48FEL
細川藤孝・忠興父子が丹後に入国してくることが聞こえると、国中の侍たちは、隣城縁家もよりよりに通談した。

現在、つらつらと世の盛衰を考えてみると、元亀天正の頃は天下未だに半治半乱とは申せども、織田信長が天下を
知ろしめす事、掌を指す如き状況であり、その信長のほど近くに在る細川がこの国に来ること、皆信長の指示であると
考えるべきであろう。

であれば、恣に細川に楯突いて後難を招くよりも、早く和睦を以て細川に対面すべきか、
又は国中の各々が合わさって軍を催し、難所を前に細川勢に当たり防戦すべきか、
或いは所々の険城に国衆たちの大将が立て籠もり、細川の人数を所々へ引き分けて討つべきかと、
評議まちまちであった。

また、そうは言っても、親しき者は遠路を隔てており、近所の者は年来仇を結び、或いは煩わしい関係の者共であり、
この事遂に熟談せず、それぞれの心々になった。

ここに、与謝郡大島の城主・千賀兵太夫、日置むこ山の城主・日置弾正という者、両人語らい細川入部の迎えとして
普申峠の麓まで、互いに連騎いたしたが、日置弾正は隠れなき美男にて、衣装・馬鞍に至るまで、華麗な出で立ちで
あった。
一方の千賀兵太夫は元より貧にして、にくさけ男の違風者であり、衣服、馬具まで見苦しかった。
そこで日置弾正は千賀に対して戯言を言った

「初めて細川殿と会うべき身であるのに、そのような見苦しい装束があるだろうか。戻って肩衣に着替えてくるべきだ。」

これに千賀は大いに腹を立て、口論募り、喧嘩に至って両人即座に打ち果てた。家来も互いに斬り合って、
忽ちに死人七、八人に及んだ。

丹州三家物語



927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/19(木) 20:45:52.59 ID:Zi+2cZjs
どうなるのかと読み進めたら、斜め上過ぎる結果になって驚愕です

これぞ一色滅亡の基であった

2020年03月18日 18:05

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/18(水) 00:51:26.24 ID:F8JL/9mO
丹波福知山の住人、細川兵部太夫藤孝の子息、與一郎忠興の丹後入国の由来を詳しく尋ねるに、
天正の頃、織田上総介平信長は弓箭盛んにましまして、東は美濃尾張、西は播州を限りに、五畿内南海、
悉く信長に属し奉った。しかし丹後国は未だ御手に入らざりしを、明智日向守光秀が謀して、
河北石見という者を大将に仕り、雑兵二、三〇〇ばかりにて丹後国を大物見にて差し越しける。

河北石見、先ず与謝郡石川谷に討ち入り、堡塁二、三ヶ所落とし、その勢いに国中を遵見しようとしたが、
国侍たちは強く、在々所々にて河北の人数は打ち留められ、河北石見はほうほうの体にて丹波を差して逃げ帰った。

猶も明智は当国に謀をめぐらし、終に一色五郎(義定)を欺き、細川の聟に仕ることを取り持った。
細川與一郎忠興は光秀の聟である故にだろうか、丹後半国を細川父子に参らせ、一色・細川両旗にて
堅固に治め給えば終始然るべしと、光秀が強いて取り持ったのである。

一色殿は代々丹後の国主として、一色五郎は近年は宮津八幡山に居城していたが、天正三年、父左京大夫(義道)
卒去の後、国中の諸士五郎殿を背き、それぞれ不敬を以て会うような時節であったため、本意ではなかったが、
流れに棹さす心地して、光秀の計らいに任せた。

中郡、竹野郡、熊野郡は一色殿、与謝郡、加佐郡は細川と定め、その上一色殿は奥郡手使いのためとて弓木の城に
移し、八幡山は細川に渡されすべしと定まって、細川父子入国のことを了承された。
これぞ一色滅亡の基であった。

かくて細川父子の人々、天正九年の三月に宮津に入り、八幡山に入城されたが、こうして河守あたりより奥宮津までの
地侍、百姓たちは細川に従った。城持ちでは、公庄但馬下村の城主。上原徳壽軒、奥宮津の小倉播磨、惣村の城主
北庄鬚九郎、これらの者達が先ず細川殿に従った。

翌年子の年よりまた、宮津の平地、海寄りの場所に城郭を築いたが、丹波国より明智の人足が多く来て、
城普請を致した。

丹州三家物語

丹後国と一色義定明智光秀、細川父子について



「三斎公の蛸壺」

2019年12月19日 16:08

420 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/19(木) 00:36:16.43 ID:4rxsPK0U
有名な逸話らしいけどまだ出ていないみたいなので

細川氏が熊本藩主になってからも、細川忠興は中津の領民との交流が忘れられなかった。
かねてから中津の漁師たちは蛸壺を望んでいたので、忠興は八代の赤土で焼いた蛸壺1000個を藁に包み、
荷駄として漁師に送り届けた。
内径約8cm、高さ約12cmのこの蛸壺は、今でも時折建て干し網にかかったり、台風後の浜辺に打ち上げられたりし、
「三斎公の蛸壺」として村人が大切に保存している。


出典は中津市制五十周年記念刊行会発行『ふるさとの歴史』
昭和54年の本なんだけど流石に現在では地元民も知らない話だろうか?



421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/19(木) 01:43:38.31 ID:64OlwEx/
耶馬の史話伝説には釣り場で仲良くなった老人に頼まれて三千作ったという話が載っているらしい

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/19(木) 20:10:35.82 ID:DX9A7xAW
忠興は愛刀の越前信長の拵に蛸の目貫をつけてたというけど
もしかして中津を偲んでのものだったのかな?
家臣が信長拵を真似た拵を作るのは許しても、
蛸の目貫だけは許さなかったというくらい、お気に入りの目貫だったようだ。

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/19(木) 20:10:35.82 ID:DX9A7xAW
忠興は愛刀の越前信長の拵に蛸の目貫をつけてたというけど
もしかして中津を偲んでのものだったのかな?
家臣が信長拵を真似た拵を作るのは許しても、
蛸の目貫だけは許さなかったというくらい、お気に入りの目貫だったようだ。

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/20(金) 12:42:05.56 ID:q0KbXsGL
>>422
中津には30年以上いたから、そりゃ愛着もあったでそ。わざわざ幕府に働きかけて中津城を残して隠居地にしたぐらいだし。

その上、12万石の加増があったとはいえ、熊本は加藤氏が治世に失敗しているしね…

小田原城、早川口攻めと豊臣秀吉

2019年11月09日 18:28

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/09(土) 12:33:12.19 ID:vMeEitIm
笠懸山に一夜城を築いた豊臣秀吉は、その高台よりつくづくと小田原城を見下ろすと
「北条家五代の間、面々と工夫をこらし修営を加えた名城だけ有って、塁壁高く、
水流は深く掘られ、要害堅固である。」と感心し、これを力攻めすればいかに多くの損害が
出るか、またそれによって敵に利を与える事を悟った。そこで、後はただ長陣を張って
ゆるゆると攻め落とすことだと考えた。

そうして間断なく攻めはするが無理押しをせず、連日鬨の声を上げて敵を脅かし、矢弾を飛ばすことを
一日も怠らなかった。毎日数万の鬨の声と、数千の銃声が山野にこだまして天地を轟かせ、
磯山嵐か沖津風の如く五里十里の間に響いた。それが昼夜を分かたず行われたのである。

しかしながら城中でも、早雲以来累世の恩を被る関東武者四万五千余りが、既に生命を投げ出して
城の要所要所を固め、大筒を仕掛け、盛んに寄せ手に撃ちかけるので、上方勢も城壁に
近づくことが出来なかった。

秀吉は韮山城攻めに加わっていた北畠内大臣(織田)信雄、細川幽斎・忠興父子、福島左衛門太夫(正則)を
呼び戻して小田原城の攻め口に向かわせた。その中より特に細川忠興を呼ぶと

「小田原城の、早川口の松山に敵は砦を築いた。これまで色々と攻撃したがどうにも落ちない。
そなたが計略を以て落とすように。」

と命じた。忠興は「畏まって候」とこれを受け、早速早川口に向かうと、先ず土嚢を用意し、弾除けの
竹束を作って砦へ近づいたが、その夜、たまたま城兵が打って出たのを、忠興の家人がこれを迎え撃って
戦い、敵の首級三つを得た。

翌日、忠興自身が指揮をして。堀際六、七間ほどまで接近した。

その翌日、笠懸山より早川口を見下ろしていた秀吉が、側に在った大谷刑部(吉継)に尋ねた
「遠くの大松の影に夥しい旗が立っている。あれは敵の旗か?」
「いいえ、あれは細川越中殿の旗印でございます。」
「なんと、よくあれほどの近くまで。」
「細川殿はご自身の働きで、今夜にもあの堀を埋めるのだと申されていました。」
「そうか、あれを落とせば今度の城攻めで一番の手柄である。」
秀吉はそう言ってにっこりと笑った。そしてその通り、程なく忠興は早川口の松山砦を落とした。

しかしこのような長陣に成ると必ずこういった事が起こるように、「徳川家康織田信雄はが
敵方に内通して反旗を翻す。」との噂が流れ、これが秀吉の耳にも入った。しかし秀吉は素知らぬ顔を
していた。

そして天正十八年四月十五日のこと、秀吉は突然、先達の案内も立てず近習の侍童五、六人を連れただけで
家康と信雄の陣を訪ねた。当然ながら家康も信雄も秀吉を快く迎え、陣中に酒宴を張った。
鼓、太鼓の音も心地よく、謡も出て、三人は何の拘りもなく歓談し、秀吉は家康、信雄の陣に
夜明けまでのんびりと過ごした。

これ以降、謀反の噂はたちまち霧散し、誰もが安堵に胸をなでおろした。

(関八州古戦録)

秀吉が細川忠興の活躍を促し、また家康信雄謀反の噂を消す、というお話。



安国寺肩衝・異聞

2019年08月15日 17:16

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 00:16:37.96 ID:ADdXVEMj
一つの肩衝と呼ばれる茶入を、安国寺長老(恵瓊)が甚だ珍重していたのだが、
これを榊原康政が甚だ賞美して、「宝貨に替えん」と思っていたが、安国寺は全く承知しなかった。

しかしながら上杉征伐として大神君(徳川家康)が宇都宮まで御動座あった頃、上方にて石田(三成)の
反逆の事が起こり、奥に上杉、後ろに上方の蜂起と、諸軍も驚き、君にも御心痛有ったが、ここで
康政が満座の中御前に出て

「上方蜂起、さてさて恐悦です。」

と、殊の外喜ぶ様子で語った。

「いかなれば康政はかく申すぞ。」家康が尋ねると

「上杉は旧家と雖も思慮が過ぎ、その上急速に御跡を付けるような事は無いでしょうから、聊かの押さえの
兵を難所に残して置かれれば、決してお気遣いされることはありません。

また上方は烏合の集まり勢ですから、何万騎有ったとしても恐るるに足りません。この康政が一陣に
進めば一戦に打ち崩すでしょう。

そして後勝利の上は、安国寺も石田の余党ですから、御成敗されるでしょうから、その時に彼の肩衝を
この康政の軍賞として頂きたい。」

そう申し上げると御心良くお笑いあそばされ、さらに諸士、諸軍とも勢いいや増しに強くなったという。

関ヶ原の勝利後、願っていたものを御約束通りに、かの肩衝は康政に下され、彼は秘蔵していたのだが、
台廟(台徳院:徳川秀忠)の御代、この肩衝を頻りにお好みになされ、康政に献上するよう命じたものの、

「これは軍功の賞として賜った重宝です、この義は御免を相願う」

と従わなかったため、秀忠も思し召しに任せること出来なかった。

ある時、康政が細川三斎(忠興)を正客として茶事があったとき、康政が水こぼしを取りに茶室を出た時、
三斎はこの肩衝を奪い、馬を乗り跳ばして御城へ出、上へ差し上げた。

康政の所では未だ客も帰らない内に、上使が現れ
『この茶入は兼ねて御懇望のところ、康政が差し上げないのも尤もな事であったので。今回三斎に仰せ付けられ
奪わせたのだ。』

とのよしを仰せ付けられ、康政には黄金何百枚かを下されたという。

この肩衝の茶入は現在は田安殿(御三卿田安家)の御物となり、甚だ大切にお取り扱いに成っていると、
これは肩衝を拝見した者が物語ったものである。

(耳嚢)

>>233 の内容が江戸後期の耳嚢になると、津田秀政だったのが榊原康政に変わっていたり、忠興が
これを奪った理由が徳川秀忠に命じられたために成ってたりと、時間が経つと逸話というものはこんなに変化
すると言うことがよく分かる内容である。

参照
安国寺肩衝


古田織部などでもあろうか

2019年08月13日 14:52

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/13(火) 13:55:02.76 ID:Pv9b1yua
千利休は同子の道菴(道安)と古田織部について、細川三斎(忠興)が「貴老が五百八十年後
(長寿した後)に果てなさったとして、以後天下の茶湯指南は誰なのでしょう」と問うた時、

利休は答えて曰く、「世倅の道菴は働いた茶湯である。しかしながら人柄が悪い(然トモ人柄
悪シ)。天下の指南はなるまい。古田織部などでもあろうか」と申したという。果たしてその
如くである。

――『烈公間話』



世の中すべての床天井は高くなった

2019年07月25日 16:25

千利休   
112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/25(木) 13:59:39.80 ID:CM8ckPJ8
芝山監物は秀吉公の御伽衆であった。
住吉にある一休禅師の寺の方丈に『初祖菩提達磨大師』という一休の墨跡が残されており、
これを佐久間甚九郎が購入し、芝山へと差し上げた。
すると千利休が、これが村田珠光の表具である事に気がつき
「珠光以外の誰がこのような表具を出来るでしょうか。さてもさても。」と絶賛した。
村田珠光は一休に参禅していたと言われる。

ところがこれは非常に長い掛物だったため、床に掛けることが出来なかった。
芝山監物蒲生氏郷と細川三斎(忠興)に、「利休に表具のことを頼みたいので、仲介をお願いしたい。」
と頼んだ。

ある時、利休、氏郷、三斎の三人を、芝山監物が茶会に呼んだ。この時あの墨跡を、床天井の前に、
上を巻ため、弱竹で角を押し入れて掛け、下の方も巻きためて置いた。
そして芝山は「この掛物を床に掛かるようにして頂きたい。」と利休に頼んだ。

しかし利休は「これに誰が手を入れることが出来るでしょうか。」と同意しなかった。

これに芝山は憤り
「たとえ珠光であってもナニ光であっても、床に掛かるよう直して頂けませんか。竹で押し入れているので、
毎回壁も傷み、どうしても掛けられないのです。」と訴えた。
相客の氏郷、三斎も「あれほど望まれているのですから、お直し下さい。」と言った。

だがこれに
「それはどういう事でしょうか。良いものを悪くする事を私は致しません。どうしてもそうしたいのであれば、
あなた方がなされば良い!」と、利休は散々に叱りつけ、不機嫌になられた。

「珠光のされたことを決して変えてはならないのだ。であるから、床の天井を高くして掛けられよ。」
そう利休は言った。

この事が有ってから、世の中すべての床天井は高くなった。利休の功績である。確かに文字は
高く掛けたほうが見事である。寺の山門の額も、上に打ってこそ見事であるからだ。

この掛物は今は将軍様の元にある。『天下一の一休』とはこれの事である。

(三斎伝書)



119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 23:51:50.50 ID:amHD0ylJ
>>112
>「たとえ珠光であってもナニ光であっても、床に掛かるよう直して頂けませんか。

鮭様「一体ナニ光なんだ」

三ヶ所手が違った

2019年07月23日 15:51

千利休   
106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/23(火) 01:23:47.89 ID:3NtwR41t
織田信長殿には、天王寺屋宗及が台子の茶湯をお教えした。
ところがこの宗及の茶湯を宗易(利休)が批判をしたとの噂が耳に入られ、信長殿は宗易を召して
台子で茶を点てさせた。

信長殿は立ちながら宗易が茶を点てる様子をご覧になり、「三ヶ所(宗及のやり方と)手が違った。」と
仰せになった。
宗易はこれに「その事でございますが、このように致しますと手間が入って悪くございます。また
こうすると手がねじれます。」と、一ヶ所につき三つほどの理由を申し上げた。

この事が有ってから、宗易の名が天下に上がったという。

(三斎伝書)



107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/23(火) 14:14:37.91 ID:wFZ44Ll2
マナー講師の戦いみたいだ

108 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/07/23(火) 15:31:01.11 ID:3VAbEL3P
信長は合理主義だから無駄が嫌い
でも一見無駄と思えることに意味を持たせるのが侘び寂びでもあるんだよね
そういうのは信長に教えずに秀吉にしたり顔で教えた