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細川の流れが2つになってしまう原因

2018年02月20日 16:23

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 04:19:24.31 ID:pTzW/K4q
さても世間の有り様を見聞すると、その道のならぬこと多し。

諸法をもっぱらに行うべき僧形は兵具を帯び、また弓箭を旨とすべき大俗は顕密の
両流に立ち入り、座禅の窓に心掛けている。まことに風変わりな時節である。

さて、この類ここにあり。

細川右京大夫政元と申す人は都の管領の職をお持ちになり、天下の覚え隠れなし。
しかしながら、細川の流れが2つになってしまう原因であったということだ。

40の齢に及ぶまで夫婦の語らいなきゆえ、御子は1人もいらっしゃらなかった。
常には魔法を行って近国他国を動かし、またある時は津々浦々の御船遊びばかり
行っていたのである。

そのため家子や老衆は詫言し、ある時に皆々相談して、かたじけなくも九条関白殿
の末の御子(細川澄之)を申し受けなさり養子となし奉った。すなわち政元の幼名と

同じく聡明殿と申した。光陰を送り程なく御成人され、御元服されて九郎殿と号し、
皆々深く慕い申し上げた。さて政元は何と思召されたのか、御心中は相変わって、

「よくよく物事を考えると、我が家は一門中の誰かが持たなければ良くないであろう」
と思し召した。阿波国に住みなさる細川讃岐守(成之)は御出家なさって慈雲院殿と
申し、この御孫に六郎澄元という人がいた。

政元は「この人を養子にして我が家を譲りたいものだ」と思し召し、摂津国守護代の
薬師寺与一元一を御使にして阿波国へ差し下した。与一はたいそう畏まって兵庫の
浦より船に乗り、絵島明石を打ち眺め、鳴門の渡りを漕ぎ過ぎて阿波国へ到着した。

慈雲院殿へこの由を申し上げると、入道殿は聞こし召して「どうしたものか」と、暫く
御思案されたが、与一は武略を巡らせて漢家本朝の例を色々と申されたので、

斟酌ながら御了承されたため、与一は御返事を頂き、時の面目を施して都へ上った。
この由を申し上げると、政元は御悦びになること限りなし。

――『細川両家記』



545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 11:21:32.09 ID:/W40+KPc
あれ?一人足りないぞ?

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 13:54:30.42 ID:QeNsa6BB
俺のことか!

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 23:20:28.14 ID:jlZaj6kt
???「なんか足んねぇんだよなぁ」
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細川成之と一色義直の、三河争奪戦

2010年12月08日 00:00

細川成之と一色義直の、三河争奪戦


細川成之 一色義直


933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/06(月) 23:05:09 ID:UuTp9Kdw
室町時代前半、三河国は一色氏が四代にわたって守護を務め勢力を扶植していた。
60年にわたる一色氏の支配が崩れたのは永享12年(1440年)のこと。
当主である一色義貫が、「ミスター万人恐怖」足利義教に大和の陣中で謀殺されたのである。
一色氏の領国のうち、若狭・三河はそれぞれ謀殺の実行者である武田・細川両氏に奪われた。
残る丹後守護職も嫡流である義貫の子には渡されず、傍系の一色教親へと移ってしまった。

それから四半世紀後。

応仁の乱勃発。

成人した義貫の子一色義直は丹後守護職を奪取し、更に細川成之の領する三河にも一族を派遣、
徐々に勢力を回復していた。当然、反細川の西軍中核メンバーとなり、成之の軍勢と激しく
戦った。

戦いの舞台が地方へ移ると、三河において成之の守護代と一色一族が火花を散らす。

文明8年(1476年) 三河において成之の守護代である東条国氏が切腹
文明9年(1477年) 三河宝飯郡で一色時家が討死、渥美郡で一色政照が没落

文明9年9月、京都において前年敗死した東条国氏の後継者である東条修理亮の屋敷を一色軍が
攻め、一族郎党300人が奈良へ没落する事件が起きる。


しかも、「修理亮を討伐せよ」 という足利義政の御教書により事件は正当化された。


完全に面子を潰された修理亮の主人細川成之は、幕府出仕を拒否、館に引き篭もった。

11月、東西両軍の和睦により、長い戦乱に一応の終止符はうたれたが、細川・一色両軍は
そんなこと何処吹く風という調子で堀を掘って館を要塞化し戦支度に余念がなかった。
一触即発のぴりぴりした状態が続く。さあどうする?

明くる年の2月、成之の館を使者が訪れる。

「一色義直から誓書を提出してもらいました。二度と三河には手を出さないという内容です。
 将軍義尚様は貴方の出仕拒否をひどく心細く思っています。どうかお腹立ちをおさめて
 再出仕くださるようお願いします。」

さすがの成之も辞を尽くしての懇願に負け、幕府に出仕することに同意した。
こうして三河国をめぐる一色・細川の争いは決着がついた?が、この後、同国に守護が任じられた
形跡はなく、同国の情勢はより混迷の度合いを増し、一足先に戦国時代へと突入したようである。


「ご苦労であった」

京都では、やっかいな問題を一応片付けることが出来たとして、使者を労う日野富子の姿があった。



( ゚д゚) あれ?




935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/07(火) 01:19:46 ID:Lep7ejhJ
>>933
それで幕府や有力守護につながった国人たちの勢力闘いになって松平氏が急拡大したり、
一向宗が一気に信者を増やしたりとカオスな状況になるんだよなー。

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/07(火) 03:14:54 ID:/+EbqQ+2
東条は東条吉良氏のことで良いのかな?

三河守護を巡っては御料地の経営を巡って将軍家を後ろ盾とする伊勢氏が
暗躍していた様子だね。
一色氏や西条・東条の両吉良氏が地盤固めを抑制された結果、隣国から
今川氏や斯波氏(と被官の織田氏)が浸透を図るようになり、伊勢氏の被官
である松平氏が台頭したわけだね。

阿波国内で犬神を使う輩がいる

2010年08月28日 00:02

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 00:58:39 ID:0q3CVpYq
徳島でオカルトチックな話題ということで

文明4(1472)年のこと。
阿波守護細川成之の奉行人から三好式部少輔に対して
「近頃阿波国内で犬神を使う輩がいるとのことだが、早々にこれを探し尋ね罪科に
処するように阿波三郡の領主に触れて下知を下すように」という命令が下されている。

さてこの奉書、史料的には三好之長より以前の代の三好氏の活動の様子や地位(おそらく
阿波三郡の守護代)を推定する上で重要な史料だったりするんだけど、
注目すべきはこの内容。

犬神というのは、人に取り付く犬の霊であり、こういった特定の動物の霊を使役して呪詛を行う
犬神使いと呼ばれる人々もいたて、記録によれば「奸険の徒」であり、「その怨嫉するところに
祟る」とあり、「犬神憑き(犬神を使役したり取り付かれたり)」となった家系は通婚を忌避される存在だった
とのこと。

崇徳院が流された地だけあって、この手の逸話が結構多い気がします徳島。





784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 01:25:06 ID:6iGKNzcF
お犬様か。
式神・眷属ってやつだな。

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 01:48:46 ID:N6T1ogM8
>>783
崇徳院は讃岐(香川)のような
それはそうと、讃岐出身とも言われる安倍晴明には、「白狐の子供」という伝承があるが、
これは狐憑きや犬神の一族が意図的に流した噂という説だと聞いたことがある。
英雄視される安倍晴明を自分たちの仲間とすることで、狐憑きや犬神の格を上げ、
差別を排除しようとしたとか

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 12:52:42 ID:mN3TWYaw
憑かせるわけではないけど、
ギャンブルのツキも、あれは狐が憑いていてお金を運んでくるんだよね
昔話の成金話によくあるけど、大抵は欲をかきすぎて自滅するんだけどさ

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 22:48:18 ID:0q3CVpYq
>>785
・・・・あ、そうだ讃岐だっけ。お恥ずかしいw
守護権力がわざわざ取り締まりを命じているのが興味深いよね