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義冬を義賢が介抱したのは、

2019年06月24日 14:47

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 22:57:31.83 ID:wQi0OLzi
  義冬(足利義維)に付下侍之覚。

  富永豊後守據宗。           和州高市住人。(兵部少輔父也。)
  結城但馬守重正。           駿州志多住人。
  小寺新右衛門。            阿州松原住人。
  荒川民部少輔珍国。          三州八名住人。(弥三郎父也。)
  森小平太時常。            越前長坂住人。
  村井権内。              関東者。
  天代十郎左衛門。           武州者。
  浅田将監延房。            摂州浅田住人。
  乾鵜之助定直。(後号太郎右衛門。)  河州谷江住人。
  西山源八。              讃州志渡住人。
    今の志渡の玄雪という者はこの源八の孫である。
  堀喜左衛門景盛。           江州之住人。
真淵伊豆守忠元。           但州出石住人。
    親は出石刑部という者である。
  安井源右衛門。            中国者。
  三江兵庫。              播州野口住人。
  湯浅次太夫兼綱。(小次郎父也。)   阿州長山住人。
    
    侍分以上15人。
    都合360人が付き下ったということである。

  以上の侍どもは義冬に仕え忠義は浅からぬものであったが、牢人した事故、扶持すること叶わず、
  三江・富永・結城・乾・荒川・湯浅、以上の6人が残り、その他は暇を遣わしたのである。


一、義賢(三好実休)は持隆(細川持隆)を討ち取って以後、三好民部入道を使いにして義冬へ申す
  には、「徳雲院殿(持隆)は御身を失わせ給うとしても、義冬の御事は別儀もございませんので、
  御領地はまったく相違ありません。只今までのように当地におられますよう」との由を申し越す。

  「徳雲院殿なき以上は、どこへでも立ち退く」との由を義冬は仰せなさるも、民部入道が達て制
  し申すことにより、それならば重ねて御返事なさると宣った。

  持隆の失せた後に、清雲院殿(養父・足利義稙の正室。本書では義維の生母)は勝瑞に居合わせ
  なさる。「もしかすると、義冬はいずこへも立ち退きなさるかもしれない」と、義賢は清雲院殿
  を勝瑞に2,3年も留め置いて平島へ戻し申さぬ故、義冬はどうしようもなく留まりなさった。

  義冬を義賢が介抱したのは、その時の将軍義輝公はいかがなされたのか義冬を親切に思し召した
  ことにより、義賢も少しは敬ったのだということである。

  そんなところに天文23年(1554)3月、清雲院殿は病死なさる。一周忌の後、御下りなさ
  る旨を義冬が仰せられると、義賢ももっともと思い、大船3艘を調えて弘治元年(1555)4
  月10日に周防へ下りなさった。

  供した侍6人の内、乾定直は上方の様子を知るために河内へ戻しなさる。湯浅は阿波の者なので
  義賢に預け置き、残る4人は妻子までも供をした。大内介(大内氏)は殊の外もてなし、小原と
  いう所に居所を構えて義冬を居住させ置いて、大切に致したので永禄6年(1563)の秋まで
  周防に居住した。

――『阿州将裔記』



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細川持隆謀殺

2019年05月30日 15:26

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 15:18:13.68 ID:w6dJrsKv
一、細川讃岐守持隆の内室は、周防国の大内介(大内義興)の息女なり。この内室の妹を持隆は呼び越し、
  義冬(足利義維)の御台にした。義冬の行末のことを持隆は思って、このように調えたのだという。

一、細川讃岐守持隆がある時に家老と三好一族を呼び集めて申したことには、「義冬公を当国に長く置き
  奉ることは、いたましく存ずるなり。各々の知略をもって義冬を一度天下に据え申したいと念願して
  おるのだ。どのようにすれば良いか」と申せば、いずれの者も同心した。

  そんなところで三好豊前守義賢(実休)1人がこの事に同心せず、あまつさえ顔色を変え持隆を散々
  に罵った。持隆は言うに及ばず、座中の皆が案に相違すると思ったのである。

  持隆はこの事を口惜しく思い、まず義賢を討ち果たして憤りを散じようとして近習の侍どもに密かに
  内談し給うと、四宮与吉兵衛という者は義賢に返忠して、これを告げ知らせたのである。

  これにより義賢は思案して近習の者をもって申したことには、「先に持隆が仰せになられたことをそ
  の時に同心仕らず、私としてもその事で戸惑っています」との由を、持隆の機嫌の良きように申しな
  した。さてその後に手勢、また近き所の一族を義賢は密かに呼び寄せ、勝瑞に近いあちこちの村里に
  隠し置いた。

  義賢はかの四宮をもって持隆へ申し、「北の河原で御逍遥(散歩)なされませ」と諸々謀り申した故、
  持隆は逆心とは思いも寄らず、天文21年(1552)8月19日に見性寺の前へ出給う。義賢が隠
  し置いた人数は一度に押し寄せ、持隆を取り囲んで鬨の声を揚げた。
  
  持隆はかねて無勢の上、供の者どもは落ち散り防ぐ術もなく、どうしようもないところで星合弥三郎
  と蓮池清助という者2人が踏み止まって持隆を見性寺へ退かせた。

  義賢の弟・一存(十河一存)が込み入って持隆をただちに討ち取ろうとしたのを、清助が押し隔てて
  防ぐ中、持隆は切腹して星合が介錯した。この2人の者は常々持隆の厚恩もない者どもであったが、
  義を守り2人ともに立ったままで切腹した。

一、持隆の外戚腹に六郎という幼少の男子がいた。義賢が申すには「持隆を討ち奉ったのは身の災いを逃
  れるためである。六郎殿に恨みはない。主君に崇めん」として、六郎を育て置いた。細川六郎掃部頭
  真元(真之)これなり。この真元の母は阿波国西条村の岡本美濃守の息女である(小少将)。持隆の
  死後に義賢は真元の母を妻とし男子2人をもうけた。一男は彦次郎長治、次男は孫六郎存保という。

一、返忠の四宮与吉兵衛は「無道の者なり」として、義賢は四宮を翌年の春に誅した。

――『阿州将裔記』



主君と、兄弟と、息子の舅の仇から感状をもらった

2019年05月13日 15:39

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/12(日) 22:30:14.96 ID:gJMRiBMX
まとめの10249「久米の乱」という
勝瑞事件の後に三好実休の舅であり、細川持隆の家臣の久米安芸守義広が
三好実休の主君殺しに怒って仇討のために起こした乱(鑓場の戦い、鑓場の義戦)があるけど
自分の娘をさしおいて主君の妾を奪うとは!という動機もあったとかなかったとか。

ついでにこのとき、久米義広に従って三好実休と戦い、ともに討ち死にした者に佐野丹波守(丹後守?)範房という人物がいた。
「源氏赤松之族 阿波佐野氏系図」によれば範房(系図には「丹波守 三好乱軍之節討死」とある)には
持貞という兄弟がいたようだが、佐野持貞については
18世紀末から19世紀初めにかけて徳島藩により成立した「阿波志」第六巻(三好郡)に記述があり、それを読むと

「源持貞 佐野次郎左衛門。赤松の族。三好に従い阪東に戦う。
持貞の子・左馬允範成、平義広(久米義広)の女を娶る。
源義賢(三好実休)が持貞に与えた感状を代々伝えている。」

「持」は細川持隆からの偏諱だろうから
主君と、兄弟と、息子の舅の仇から感状をもらった、という戦国らしいどろどろしたお話。

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/12(日) 23:20:42.11 ID:gJMRiBMX
と書いたところで
「義賢」は三好実休のことではなく息子の十河存保(義堅とも称した)のことで
「阪東」の戦いは長宗我部との戦いのような気がしてきた。
これだと代替わりしてそれほど悪い話じゃなかった。申し訳ない。



29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 12:36:38.24 ID:rANbibdw
>>26
妾といえど主君の母なので格が上
なので正室の娘が妾に格下げされたのに怒ったのでしょうね

そこで法体となり“実 休”と呼ばれ

2019年05月13日 15:38

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/12(日) 21:10:14.32 ID:kaPKSgKx
勝瑞事件後)

さて、細川殿(細川持隆)の妾である岡本美濃守の娘・小少将の腹に男子1人あり(細川真之)。
実休(三好実休)はこれを聞いて男子を主君と仰ぎ、母儀を内室とする。そこで法体となり“実
休”と呼ばれ、殺奪の罪を補った。

――『三好別記』


一、実休は計りをなして讃岐守持隆の子息・掃部頭を取り立てる。掃部頭は阿波国の屋形に居住
  致したけれども、事あるごとに実休の所為に任せたのだという。

一、細川讃岐守持隆の妻女は周防国大内介(大内義興)の息女である。(持隆の自害によって)
  故郷に帰って、発心なされたのである。小少将という持隆の妾女は、岡本美作守の娘である。
  (持隆の)男子を1人生んだ。実休はこれを娶って妻とし、また男子2人女子1人を生んだ。
  長子は彦次郎長治、次男は孫六郎存保(十河存保)と称す。

――『三好家成立記』











細川持隆の滅亡

2019年05月05日 17:30

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 20:30:24.56 ID:ULCC/Ej6
さて、永義(三好長慶)はその時(三好元長死去の時)10歳ほどであったのを、三好宗三(政長)と
松永久秀が心を一つにして盛り立てた。17歳から弓矢を取り、武功は比類なくして畿内に打って上り、
摂津の木戸・近江の佐々木(六角氏)・越前の朝倉・紀伊の畠山と挑み戦い、度々名誉を顕したという。

また弟の三好実休は阿波に留まり、細川殿の家内を治めるところにその時の細川殿(細川持隆)、後に
徳雲院と申した人が、「実休を成敗するべきだ」と家老の四宮与吉兵衛に内談なされたのを、四宮はす
ぐに実休に告げ知らせた。

それ故、天文21年(1552)3月5日に細川殿が勝瑞龍音寺へ出られたのを聞きすまして、実休は
2千ほどで打ち出て取り掛けた。このため細川殿の衆は尽く落ち失せ、星合と蓮池清介の2人が残った。
細川殿は是非なくその辺りの賢昌寺(見性寺)へ取り入って切腹したのである。

蓮池は細川殿の政道が正しくないことについて度々諫言し、勘当を蒙って扶助にも及ばない折であった
けれども、心良く腹を切って死んだという。また四宮与吉兵衛には実休が過分に加増を遣わしたが、一
年あって成敗となったのである。

――『三好別記』


久米の乱

2016年09月26日 16:10

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/26(月) 09:29:22.17 ID:Ro9cT0DI
徳雲院様(細川持隆)が切腹された時、柴原と申す在所に久米殿という武士が有った。
彼は三好実休の舅であり、細川持隆の家臣であった。
佐野河内という在所の野田義介という武士も、同じく細川持隆の家臣であった。
下八幡の二木日向殿という人は、持隆の一族だった。

彼らは持隆が切腹させられたことを口惜しく思い、必ず三好実休を討ち果たし本望を遂げようと
話し合った。久米殿は三好実休の舅であったのに、主君を殺したのは曲事であると、実休への
反乱を企てたため、これは後に久米の乱と言い伝えられた。

その頃、三好実休は勝端の町に在住していた。
久米たちに与する小倉佐介という者は、ここで実休の動向を探って来たが、帰る途中、
勝端の野辺において広言を吐いた
「実休を討果すのはいと容易いことである。」

仲間が聞いた「それはどういう事か?」

「彼の周囲には年若き小姓衆20人ばかり、あとは台所の人数だけで、いざという時
役に立つ人間が一人も居ないからだ。」

ところがこの会話を、そこで放牧していた牛飼いたちが聞いていた。
彼らは親方にこれを話し、この反乱計画が発覚する。勝端の町人たちは足具足を着けて
千人ばかりが雑兵姿となり実休の屋敷の警護を申し出、同時にこの小倉佐介の広言を申し上げた。

久米の在所である柴原とこの勝端との距離は一里ほどの近距離であり、また勝端は
久米側の人々の親類縁者も多かった。
そのため実休の所に町人たちが駆け付けたとの情報はすぐに久米側に伝わった。
これを聞いて久米たちは勝端を攻めることを諦め、実休の重臣である一宮長門守(成祐)を
夜討ちすることに方針を変更した。

一宮長門はこの時下屋敷に住んでおり、この四方は大竹藪であった、
夜討ち勢は大勢であったため、たやすく門を打ち破り屋敷に侵入した。
この時、一宮長門家臣に木村備前という人がいた。彼の宿所は一宮長門の屋敷から十町ばかり離れて
いたが、この夜討ち騒ぎを素早く聞きつけ、大竹藪の中をくぐり抜け長門の寝所にまっすぐに
駆け入ると、長門を引き出し藪の中に押し入れた。

夜討ちの軍勢が追い駆けてくるのも構わず、木村備前は長門を連れて逃げた。この時木村備前は背中を
二刀切られたが、藪の中であったので何とか逃げ切った。
一宮長門の妻は三好実休の妹であったので、夜討ちの衆はこれを生け捕り柴原へと連行した。

久米の反乱が発覚して三日の間に、実休の人数が上郡および淡路より、三千人ばかり駆け付けた。
久米方の人数は八百人ほどであり、方々の実休方に対処するため黒田原に軍勢を集結させていた。
そこで実休方は勝端より三千の軍勢で中富尾まで進出したところ、久米方八百人のうち、六百人ほどが裏崩れし逃亡した。
残ったニ百人は、破れかぶれに斬りかかったが、実休方は三千の人数でこれを包囲し、彼らを一人も残らず討ち果たした。

この戦いの中で、久米方の野田内蔵介という武士は普段から七十人力と呼ばれていた。
実休の三千人の人数のうち、五百人ほどが負傷したのだが、その大半はこの野田内蔵介によって
切られたのだと伝わる。

しかしこの野田蔵介も数多の敵に疲労した所に、淡路の住人である野口肥前という人が彼に挑戦した。
野口は二十人力と言われ、淡路においては一番の相撲取りであった。
野口は内蔵介と組み合い、大腰に投げつけた。しかし地力が違い、内蔵介はあっという間に
野口を押さえつけ上乗りとなった。
この時奥野右衛門(一説に左衛門)という者が駆け付け、内蔵介の首を打ち落とそうとして、
彼と組み合っていた野口肥前の手を切り落としてしまった。こうして野口は片手となったが、
死にはしなかった。

(三好記)

三好実休支配下の阿波における、久米の乱についての記述である。



三好実休、良かれと思って

2016年09月25日 17:30

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 17:22:56.44 ID:WSppQdy/
徳雲院様(細川持隆)の北の方は、周防の大内殿の娘であった。
彼女は、岡本美濃守の娘の小少将殿と申す人を小女房として奉公させていた。
ところが北の方には御子がなく、持隆は小少将殿に目をかけられ、やがて若君一人(細川真之)を産んだ。

三好実休細川持隆を切腹させた後、「主君に御腹召させたのは天道恐ろしき事であり、
この若君を置いて前々のように主君として崇めよう。」とし、そうして小少将殿を自身の
妻に据えた。やがて実休とこの小少将の間に子ができた。この子は幼名を千代松といい、
烏帽子名は彦次郎。御名乗を長治という。

(三好記)

三好実休、良かれと思って細川真之を擁立し小少将を妻にした、というお話。なお



120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 19:39:11.35 ID:OjONIPR6
ワハハ奸婦め!

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 21:01:41.34 ID:pd/6K8CZ
小少将はサゲマンという説が(元親の側室は単に同名のようだけど)

「小少将」の犠牲者の一覧
細川持隆 小少将の最初の夫。細川真之を設けたが、家臣の三好義賢に殺害された。
三好義賢 細川持隆謀殺後に小少将を嫁にして三好長治と十河存保を設けるも、久米田の戦いで戦死。
篠原長房 三好義賢戦死後に弟が小少将を嫁にしたが、弟の讒言により三好長治に攻められて敗死。
三好長治 小少将と三好義賢の子。小少将と細川持隆の子で異父兄の細川真之に討たれた。
細川真之 小少将と細川持隆の子。小少将と三好義賢の子で異父弟の十河存保に討たれた。
十河存保 小少将と三好義賢の子。小少将が側室になった長宗我部元親と共に参加した戦いで戦死。
長宗我部元親 小少将を側室にした四国の英雄。その後長男が九州で戦死し後を追うように病死。
長曾我部右近太夫アンド十河存英(存保の息子) 共に大坂の陣で大坂方について死亡

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 21:41:39.15 ID:YOONVF6X
       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩< 嫌な奴に小少将を押し付ければ!
    (つ久秀丿 \_________
    ⊂_ ノ
      (_)

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 21:46:31.79 ID:OjONIPR6
>>121
篠原長房じゃのーて一族の自遁な

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 21:51:16.34 ID:OjONIPR6
サゲマンて言うなら通じた奴の名で十分やろ

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/26(月) 21:50:10.39 ID:baLYiMg9
篠原長房の弟が自遁だから、>>121も>>123も合ってるよね。
一宮長門守(成祐)は後に三好実休(義賢)と小少将の息子三好長治を殺す側に回ってる。
一宮長門守(成祐)の妻である三好実休の妹はこの後どうなったか三好記に記述はありますか?

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/26(月) 22:01:51.02 ID:8NuzwDHO
>>126
残念ながらサゲマンというのはエッチした男じゃないとその効果は発揮しないのだよ
だから篠原長房の死は小少将とは無関係であって自遁にとって長房の死は得なのでサゲマンじゃのーてアゲマンとなる

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/26(月) 22:34:56.02 ID:baLYiMg9
>>127 そっちの話ね。失礼しました。

ところで阿波の小少将については、息子たちを仲裁しようとして細川真之の元に
行く途中、真之の家臣たちに襲われて落命した話もあるようだけれど、
これも出典が分からない。

表裏して主君を果たした事は

2016年09月22日 21:29

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 14:26:37.91 ID:Dv6EZXBZ
天文22年、阿波守護である徳雲院様(細川持隆)は腹立ちの事があり、奉行人の四宮与吉兵衛という者と
談合し、

三好実休を相撲があると知らせ呼び寄せ、討ち果たそう』

そう仰せに成った。この時、相談相手の四宮与吉兵衛が実休に返り忠をしているとは、持隆は夢にも
知らなかった。
持隆は用心もなく勝端の町の北の河端に、龍音寺という寺が在ったが、そこに遊山に出かけた所、
実休は上郡の人数二千を呼び寄せこの付近に集結させた。

これを知った持隆は肝を潰し、そこから堅昌寺という寺に移ったが、お供の者達は藪へ隠れ方々に
逃散して、最後には星相殿と蓮池清助という者の2人のみがお供をしているという有様であった。

ここで実休は持隆の無道を悪み、「たった今、お腹を召されよ」と申し付け、これにより
星相殿が介錯をして切腹された。蓮池清助という者は不肖者ではあったが、常々持隆の悪しき点を
申し上げ諫言していたため、御意に違い御扶持も枯れ枯れの状態であったにもかかわらず、
「お供申す」と立ち腹を切って果てた。この清助の最後を褒めぬ者は居なかった。

実休はこの後、返り忠をした四宮与吉兵衛に知行を与えたが、1年間召し使った後に成敗した。
この時実休はこう言った
「どんな身の上であっても、表裏して主君を果たした事は、悪きことである。」
この処分を人々は褒め称え、また四宮与吉兵衛を悪まぬ者はいなかった。

(三好記)




94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 20:13:44.66 ID:5ZQAlpas
>「どんな身の上であっても、表裏して主君を果たした事は、悪きことである。」

爆弾正「果たしてそうでござろうか?」

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 21:11:25.97 ID:aXC+X0IO
持隆の側室を妻にした下剋上男が何を言うか

むくいのつみやめぐいくるらん

2015年09月12日 15:20

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/11(金) 18:45:59.04 ID:G6QpP7XT
まず、阿波国に屋形があった。細川三周(讃州?)公(細川持隆)といい、彼を三好實休が
生害させ、実休が阿波の惣主となった。屋形には子が一人もなく、實休は屋形の御台を自分の妻とし(小少将)、
この腹に若君一人産まれた。後に長治と称する。この母が三周公の御台であったので、實休は長治を
屋形と号し籠め置いた。
實休は威勢おびただしく成り、天下に上り威を振るった。また實休には本腹の男子が多数あった。

年を経て、和泉の久米田を實休は本陣として、明日は一戦すべきという夜、實休が寝ていた
枕元に彼が殺した細川持隆が立ち、歌を詠んだ

『草からす 霜またけふの日に消て むくいのつみやめぐいくるらん』

實休は夢から醒め、あたりにいた人々に「明ければ討ち死に疑いない」と言い、案のごとく
敵に囲まれて實休は自害した(久米田の戦い)

三周公生害の日が三月二十一日、實休も三月二十一日に果てたのだという。

(十河物語)