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細川政元は飯綱の法を行い

2021年10月12日 15:22

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/11(月) 20:41:39.46 ID:kFj4sQth
植松左衛門尉(資信)が曰く、

「私は乱世に生まれて諸々の道を知らない。しかしながら武士はただ
下手でも文武の道を学んでこれを行おうとして過ぎることはあるまい。

神道仏道は至って善とはいえども、これを行おうとして禍を得る者は
多い。細川政元は飯綱の法を行い、管領の家は断絶したのだ」

――『南海通記老父夜話記)』



88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/11(月) 23:38:24.08 ID:8WidEI55
>>87
なんか前段後段で文意がつながってないような気がする・・・ 

「過ぎることはあるまい」だと「いくらやってもやり過ぎではない」→「どんどんやりなさい」って意味だよね?

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 02:55:09.59 ID:LNSxAag1
>>87
魔法半将軍様の場合飯綱の法を行ったからというより
もっと別の因果からじゃないんですかね…?

90 名前:87[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 08:20:11.90 ID:QEbcGYk+
>>88
史料叢書版の原文は「文武ノ道ヲ学テコレヲ行ントシテハ過アルベカラズ」
武士には文武を学び実践する以上のことはなくて他の道にとらわれると家を滅ぼすってことかと
ちなみに史籍集覧版だと単に「武ノ道」とあって植松は武辺の人だからこっちの方が正しいかもしれない

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 13:21:50.44 ID:2E9AxWS5
過=あやまち

学テ 行ントシテ と動詞には送り仮名付けてる書き方してる以上
送り仮名がない時点で 過 は名詞と解釈するのが自然

92 名前:87[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 20:31:59.24 ID:QskEwL65
>>91
ご指摘ありがとうございますm(_ _)m

93 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/12(火) 21:01:03.28 ID:SVFHvk5E
>>89
南海通記の見解では
飯綱に凝る→男色に耽る→浮気を疑って無実の人間を罰する→そいつに恨まれて殺される
ってことらしい

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 21:53:29.37 ID:LNSxAag1
>>93
あくまで南海通記の見解へのツッコミなんだけど
女人禁制で男色に耽るまでは関連性として判らんでもないけど
そこから先はやっぱこじつけでは…?

そもそも南海通記って香西氏が書いたもので
政元の暗殺って香西元長が首謀者だって言われてるよね
要因を飯綱に求める事で飯綱に凝った政元が殺されるのは仕方ない的な
祖先の所業の正当化のこじつけなんじゃ…?

95 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/13(水) 12:30:19.92 ID:6rFIMn48
香西氏の自己弁護が入ってる可能性や、暗殺が個人的な恨みかは疑わしい点は同意だけど
暗殺を招いた政治的混乱の原因が実子のいないことによる養子の乱立なら、実子がいない原因になった
飯綱の法を根本原因にするのは、全くの無理筋ではないと思えるけども
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永正の錯乱前の情勢

2020年05月09日 18:48

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 22:51:57.48 ID:L7iFoqfE
永正元年(1504)十二月二十五日、畠山尾張入道卜山(尚順)と、同苗上総介義英と、両家和睦して
河内国富田の八幡宮に会し互いに和平の酒宴をして、年来の遺恨を忘れた。これは公方家(足利義澄)の
後下知によっての事であった。であれば、和平の驗として、この八幡宮に鎧、太刀等を両家より奉納して
誓約をあい堅めた。これにより紀伊、大和、河内の人々国民等まで和睦し、悦び合うこと限りなかった。
このため、五畿内は暫く安治されたのだが、兵乱の世となるべき妖怪は既に顕れていた。

同二年の春、天下大飢饉となり、餓死する者が道に満ちた。例えば十人の内九人まで死ぬほどであった。
同三年、諸国に億萬の鼠出て耕作の米穀、山林の竹木を悉く喰い損じさせた。これは凶年において
餓死した者の亡霊であろうと、諸国在々所々に於いて、餓死者の骨を取り集め、これを収めて寺を建て
弔い祭ったところ、たちまちこの鼠が静まったことこそ不思議である。
同年の秋、春日山の大木七千余本が枯れ果てた。これは藤原氏の人々にとっての凶事であると取り沙汰された。

ともかく、このような奇怪の上は、近日またいかなる乱が起こるのかと、諸人は安堵できず、いまいましく
見ていた。

そのような中、細川六郎澄元は、その頃未だ阿波国に在ったが、祖父の慈雲院入道成之は細川一族の
宿老であり、知恵深き人であったので、京都の有り様を察し、「政元の行跡、日を逐って昏乱している。
これでは当家の安否も計り難い、澄元は急ぎ上洛して養父の行衛をも見届け、一家の治乱をも執り計るべし」
との旨を下知され、澄元も「畏まり候」と、阿州を立って上洛した。この時四月二十一日であった。
この澄元は未だ十三歳の若輩故に、実父讃岐守義春より、三好筑前守之長、並びに高畠与三郎の二人が、
共に武勇の達者として選ばれ、澄元後見の執事として、補佐の臣に命じられた。

中でもこの三好は、阿波国の守護代であり、これも小笠原の末孫、名誉の者と聞こえ、後には改名して
長輝と号し、剃髪の後は希雲居士と称した。

また政元の家臣、香西六郎元近という者有り、武勇にも長じており、讃岐国の守護代として、一方の将と
成っていたが、常に三好と仲悪く、互いに確執の心をはさみ、それぞれの威勢を嫉みあっていた。
またその頃、薬師寺の三郎左衛門(長忠)は兄の与一(元一)の誅殺より、政元に寵せられ、重恩に耽り権威に
募って傍若無人の振る舞いをしていたが、今度三好之長が澄元の後見として在京して以来、香西、薬師寺の
非法の下知を用いず、威勢高く振る舞うほどに、これを見た洛中の諸人は我も我もと澄元を崇敬して
三好らに奔走した。これを香西、薬師寺の二人は共に大いに妬み憤って、その確執は日々に重なった。
それよりしてこの者共は、

「あはれ、六郎殿にいかなる事も出来るものか。三好等を滅ぼして、本意を遂げん」と思い巡らせた。
これぞ早くも、大兵乱の根ざしであった。

應仁後記

いわゆる永正の錯乱の前の情勢について



然るに政元は

2020年05月07日 18:23

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/06(水) 21:32:50.59 ID:ypGZd1q7
昔、皇胤二流に分かれ、北朝の持明院殿と南朝の大覚寺殿と天下を争いましましけるに、終に北朝一統して
南方は帰服ましましけり。

公方家、近年両派にして、今出川殿(足利義材系)と堀越殿(足利義澄系)と、大樹の位を代謝あり、
また応仁の乱前より、畠山も両派に分かれ、斯波家も二方に立ち並んで合戦互いに止むことなし。
ただ細川家だけは、先祖常久禅門(細川頼之)の遺徳深き故であろうか、今に仁孝を厚くし、一家も
睦まじく、六代まで繁昌して大名高家の手本とも成る家風であった。しかし世は既に澆季に及び、時運
衰微に至ったのか、この時の管領である右京太夫政元は行跡はなはだしく、思慮邪である故に、これも
子孫二流に分かれ、終に兄弟世を争って互いに戦いあった。その始まりは政元の不義無道、先祖の人々の
志を違えた故である。

聴く所によると細川家の先祖と云うは(以下細川氏歴代のの行跡が延々と語られるが略)

…(応仁の乱で)細川方の者共は、軍の仕様は鈍かったが、細川勝元の忠義に効き、御敵となる名を恥じて
一人も主人に叛く者無く、西陣へ降る人は無かった。これを以て莫大の戦功成就して終に勝元・畠山政長は
運を開き領国を失わず、一方山名方の一族は京都にも留まり得ず、散々に成って亡んだ。これはただ、勝元が
忠義を守り先祖の志を崇めていた故なのだ。然るに政元はその子として、亡父の志を引き違え、
上総介(畠山)義豊に一味して畠山政長を討ったのみならず、公方家の御敵と成って将軍の御位を
恣に替え奉ること、主君への不忠、先祖への不孝これに過ぎる物はないと見え、天下の人望に背いているので、
滅亡は近きに有ると、人々は皆囁きあった。

(中略)

細川政元の奢侈は世に超えたものであった。
聞く所によれば、政元は世の人とは違い、行年四十歳の頃まで女人に近寄ることを禁じ、
精進潔斎を繰り返し、魔法飯綱の法、愛宕の法を行い澄まし、経を誦し陀羅尼を呪し、さながら出家山伏の
如くであり、見る人聞く人、皆身の毛をよだてるばかりであった。
そうであるので、男子も女子も無く、家督を継ぐべき者が無かったため、家長(家老)の面々色々に、ただ
この事を諫言した。

應仁後記


細川政元について



53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/07(木) 21:15:52.00 ID:/n7fNnNP
>>52
>この時の管領である右京太夫政元は行跡はなはだしく、思慮邪である故に、これも
子孫二流に分かれ、終に兄弟世を争って互いに戦いあった。

オーソン・ウェルズ「一人足りなくない?(第三の男BGM)」

足利義材の脱出

2020年05月04日 18:41

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/03(日) 22:03:19.95 ID:lGyj4K0H
(明応の政変によって)この年四月、前公方(足利義材)は、上原左衛門大夫(元秀)と云う者によって
大和筒井城で身柄を確保され、直ぐに細川政元に計らい、将軍職を解官あって、忝なくも前将軍
義稙(義材)公を、伯々下部紀伊守に預け置き奉り、獄舎を造って入れ置き参らせ、遁世者ただ一人を
配膳の役に侍らせた。そして男女ともにかの獄舎に出入りすることは堅く制禁したが、前将軍家の
伯母御前の比丘尼御所が、通賢寺におられ、ただこの御方だけは、番人の免許を得られ、折々に
獄中へ御見廻さて、御物語あられた。

ある時、配膳役の遁世者が密かに、前将軍へ申した
「君、いかにもして早速にこの御所を落ちさせ給い、何方にも御座を移し、御運を開かれて下さい。
もし御本意を遂げられたならば、某の子孫を必ず取り立てて下さい。某は御跡に残り留まって、
水火の責めに遭おうとも、御行方は申しません。」

このように年頃に申し上げると、前将軍家はこれを聞き召され
「ならば、その意に任すべし。汝が忠義のほど、生々世々に忘れるべからず。子孫に至りては
必ず取り立て召し仕わん」と御約束有あった。

その後、前将軍家はすぐに御伯母御前と同じ乗輿に召されて獄舎の中を忍び出、安々と遁れ落ちられ、
北国へ御下向あった。

さて、その御跡にかの遁世者は、この事を深く隠し、何事も無かったかのように御座の場所に毎日
御膳を捧げつつ、また一人で御物語を申し上げ、今も前将軍家がここに御座有るようにもてなし、人知れぬ
ようにしていた。これは昔、鎌倉における頼朝卿の御時、清水冠者(源)義高が囚われ、落ち行き難き
状況だったのを、乳母子の海野小太郎幸氏が計らった事に相似ている。(源頼朝が木曽義仲の子である源義高を
誅殺しようとしたのを、彼の妻で頼朝の娘であった大姫の頼みで、海野幸氏が助けた故事)

こうして、十日ばかり過ぎてこの事は隠れなく顕れた。政元よりこの遁世者を搦め捕り、様々に拷問し
公方の御行方を尋問したが、ついにこの者は落ちず、後には河原に引き出され頸を刎ね捨てられた。

その日、伯々下部紀伊守の父である豊前守が頓死した。これを世の人々は皆、「伯々下部が公方に
悪しくあたり申せし御罰である。」と言い合った。また、この遁世者の行動を褒めぬものも居なかった。

應仁後記

明応の政変で幽閉された足利義材の脱出について



右大将拝賀

2020年04月30日 17:52

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/29(水) 20:25:12.64 ID:JuT1MqJg
文明十七年秋八月、新将軍(足利義尚)は右大将に任じられた。そして細川政元も、未だ弱冠ではあるが、
父祖代々の職を継いで管領と成り、右京太夫に補任された。

翌文明十八年秋七月二十九日、右大将拝賀の為に新将軍家は御参内あり、御供の人々は(応仁の)乱後の
微力の身なれども、我劣らじと綺羅を尽くし、辺りを払って供奉した。
洛中洛外の貴賤上下、これを見物し奉った。
東山殿(足利義政)も桟敷を構えて御覧有り、大変に嬉しく思われたという。

礼儀の故実は二階堂判官政行に仰せ付けられ、次第作法を定められた。
先ず小侍所は細川右馬頭政賢が先陣を承り、騎馬十人を進ませた。その次に、雲客二十余人、その次に重代の
武士の行進で、番長(奉公衆の番頭)が随身した。次に帯刀左右十二番、その次に将軍家が御車に召され
参向あった。次に衛府官人、次に公卿二十人が御供した。菊亭大納言(今出川)公興卿が御簾の役、
柳原別当重光卿は御沓の役を勤められた。次に畠山政長の嫡子、御児丸尚順、佐々木治部少輔経秀(京極材宗)、

伊勢備中前司貞陸、富樫介政親、等が各々騎馬で、後陣は時の管領、細川右京太夫政元が、騎馬十騎を
従え、辺りを払って供奉した。

行列正しく、天気も更に快晴で。珍しいほどの壮観であった。

應仁後記

室町将軍は、征夷大将軍よりも右近衛大将の任官が重要視されていたと言われますが、
公武を挙げてそれを祝う様子がよくわかる記事かと。



132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/30(木) 19:54:58.97 ID:SWuOrQ+n
>>131
義昭が結局なれなかったやつね>右近衛大将

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/01(金) 12:30:29.09 ID:dv9W74xS
大樹は主上への貢献がちと足りなかったておじゃる

永正の錯乱

2019年10月26日 20:59

539 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/10/26(土) 11:54:57.21 ID:X38jfGoH
京都の管領であるある細川右京太夫政元は四十歳の頃まで女人禁制で魔法飯綱の法、愛宕の法を行い、
さながら出家の如く、山伏の如きであった。
ある時は経を読み陀羅尼を弁じ、見る人身の毛もよだつほどであった。

このような状況であったので、お家相続の子が無く、御内・外様の人々は色々と諌めた。
その頃の公方(足利)義澄の母は、柳原大納言隆光卿の娘であったが、これは今の九条摂政太政大臣
政基の北政所と姉妹であった。つまり公方と九条殿の御子とは従兄弟であり、公家も武家も尊崇した。
この政基公の御末子を政本の養子として御元服あり、公方様の御加冠あり、一字を参らせられ、
細川源九郎澄之と名乗られた。この人はやんごとなき公達であるので、諸大名から公家衆まで皆、
彼に従い奉ったので、彼が後継となった細川家は御繁昌と見えた。そして細川家の領国である丹波国が
与えられ、彼の国へ入部された。

そのような所、細川家の被官で摂州守護代・薬師寺与一一元という人があった。その弟は与ニといい、
兄弟共に無双の勇者であった。彼は淀城に居住して数度の手柄を顕した。
この人は一文字もわからないような愚人であったが、天性正直であり理非分明であったので、細川一家の
輩は皆彼を信頼していた。また先年、細川政元が病に臥せっていた頃、細川家の人々は評定して
阿波国守護である細川慈雲院殿(成之)の子、細川讃岐守之勝(義春)に息男があり、これが器量の人体
であるとして政元の養子と定めることを、この薬師寺を御使として御契約があった。これも公方様より
一字を賜って細川六郎澄元と名乗った。

この時分より、政元は魔法を行われ、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、後には御心も乱れ
現なき事を言い出した。この様ではどうにも悪しき事であると、薬師寺与一と赤沢宗益(朝経)は相談して
六郎澄元を取り立て細川家の家督を相続させ政元を隠居させようと、ここに謀反を起こし、薬師寺与一は
淀城に立て籠もり、赤沢は二百余騎にて伏見竹田に攻め上がった。
しかし永正元年九月の初め、薬師寺与一の舎弟である与ニ(長忠)が政元方の大将となり、兄の籠もる
淀城を攻めた。城内をよく知る与ニの案内が有ったために、城は不日に攻め落とされ、与一は自害することも
出来ず生け捕りにされ京へと上らされたところ、与一はかねて一元寺という寺を船橋に建立しており、
与ニはこの寺にて兄を生害させた。与ニには今回の忠節の賞として桐の御紋を賜り摂津守護代に補任された。
源義朝が父為義を討って任官したのもこれに勝ることはないだろうと、爪弾きに批判する人もあった。
赤沢は色々陳謝したため一命を助けられた。

このような事があり、六郎澄元も阿州より上洛して、父・讃岐守殿(義春)より阿波小笠原氏の惣領である
三好筑前守之長と、高畠与三が共に武勇の達人であったため。補佐の臣として相添えた。

540 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/10/26(土) 11:55:20.60 ID:X38jfGoH
薬師寺与ニは改名して三郎左衛門と号し、政元の家中において人もなげに振る舞っていたが、三好が
六郎澄元の後見に上がり、薬師寺の権勢にもまるで恐れないことを安からず思い、香西又六、竹田源七、
新名などといった人々と寄り合い評定をした
「政元はあのように物狂わしい御事度々で、このままでは御家も長久成らぬであろう。しかし六郎澄元殿の
御代となれば三好が権勢を得るであろう。ここは政元を生害し申し、丹波の九郎澄之殿に京兆家を継がせ、
われら各々は天下の権を取ろう。」
そう評議一決し、永正四年六月二十三日、政元はいつもの魔法を行うために御行水を召そうと湯殿に入られた
所を、政元の右筆である戸倉と言う者がかたらわれており、終に生害されたことこそ浅ましい。
この政元の傍に不断に在る、波々伯部という小姓が浴衣を持って参ったが、これも戸倉は切りつけた。
しかし浅手であり後に蘇生し、養生して命を全うした。

この頃政元は、丹波(丹後)の退治のために赤沢宗益を大将として三百余騎を差し向けており、河内高屋
へは摂州衆、大和衆、宗益弟、福王寺、喜島源左衛門、和田源四郎を差し向け、日々の合戦に毎回打ち勝ち、
所々の敵たちは降参していたのだが、政元生害の報を聞くと軍勢は落ち失い、敵のため皆討たれた。

政元暗殺に成功した香西又六は、この次は六郎澄元を討ち申せと、明けて二十四日、薬師寺・香西を
大将として寄せ行き、澄元方の三好・高畠勢と百々橋を隔てて切っ先より火を散らして攻め戦った。
この時政元を暗殺した戸倉が一陣に進んで攻め来たのを、波々伯部これを見て、昨日負傷したが主人の敵を
逃すことは出来ないと、鑓を取ってこれを突き伏せ郎党に首を取らせた。
六郎澄元の御内より奈良修理という者が名乗り出て香西孫六と太刀打ちし、孫六の首を取るも修理も
深手を負い屋形の内へ引き返した。
このように奮戦したものの、六郎澄元の衆は小勢であり、敵に叶うようには見えなかったため、三好・高畠は
澄元に御供し近江へ向けて落ちていった。

この時周防に在った前将軍・足利義材はこの報を聞いて大いに喜び、国々の味方を集め御上洛の準備をした。
中国西国は大方義材御所の味方となったが、安芸の毛利治部少輔(弘元)を始めとして、義材を保護している
大内氏の宗徒の大名の多くは京都の御下知に従っていたため、この人々の元へ京より御教書が下された。

(足利季世記)

永正の錯乱についての記事



541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/26(土) 20:58:53.41 ID:04mm58w+
この時の魔法って鬼道とか陰陽師みたいなイメージかな

己は正しく主君の敵である

2018年08月04日 16:50

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 13:45:24.58 ID:2hjMYhnQ
永承4年の夏、香西又六郎元長、薬師寺三郎左衛門(長忠)、竹田孫七、新名某などが寄り合って密謀した。

「我らの主君である細川政元は近年物狂わしく、行跡政道粗略である。この人が存命するならば、
当家は必ず滅亡するだろう。また六郎殿(細川澄元)の世とならば、彼に従う三好家は益々権威に誇り、
やがて世を傾けて覆すだろう。であれば、我々は彼らに先立って、政元を弑し奉り、丹波の源九郎御曹司澄之を
細川の家督に立て京兆家を相続して、六郎殿を退け三好党を滅ぼすべきである!」

そう謀反一決し、細川政元の右筆である戸倉という者を語らい置いた。

同六月二十三日、政元は例のごとく愛宕精進潔斎して、沐浴のためとして湯殿へ立ち入った所を、戸倉が
するすると走り寄って政元を刺殺した。時に生年四十二。無残と言うも言葉が足りない。

この時、常々政元の傍を離れず近仕していた波々伯部という小姓の少年が、何も知らず湯帷子を持ってきた所、
戸倉はこれも切りつけた。しかしそれは幸いにも浅手で、後に蘇生して一命を助かり、傷もすぐに癒えた。

さて、細川政元が滅びたことで香西、薬師寺たちは力を得、次は六郎殿(澄元)を討ち取ろうと、同二十四日。
香西又六、同孫六、彦六の兄弟、多勢を引き連れ澄元の館へ押し寄せた。澄元の家臣である三好、高畠といった
人々はこれを予想しており、百々ノ橋を隔てて対峙し、ここを先途と防ぎ戦った。

敵方には政元を殺した戸倉の一陣があり、この部隊が進んできたのを、あの政元の小姓、波々伯部が見つけ
キッと睨んだ

「昨日は負傷させられらが、己は正しく主君の敵である、逃すまじ!」

そう名乗りを上げ散々に突き合い、終に鑓にて戸倉を突き伏せ、その頸を郎党に取らせた。
天晴忠義の若武者かなと、人々はみなこれを褒め称えた。

(應仁後記)



113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 17:35:27.06 ID:jGmxs8bD
>>112
義朝「湯殿はいいぞー」

薬師寺騒動

2018年08月03日 16:08

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 12:59:17.06 ID:wIiR5RyB
薬師寺は細川京兆家被官の中でも歴々の者であり、今の薬師寺与一元一は摂津の守護代で淀城に在し、
その弟与二(長忠)と共に、その頃の名高き勇士であった。度々の合戦で手柄を顕し、忠功は諸人に越えていた。
その中でも薬師寺与一は一文不通にて文才無き者であったが、天性正直で理非に厚い徳が有り、細川一門の
人々は、皆彼を重んじていた。されば、この元一ならばこそ、この年月、細川政元へ様々に諫言し、
終に一門である阿波守護細川家より澄元を養子とさせたのだ、

しかし近年細川政元は、政務を粗略にし、専念して魔法を行い、空の上へ飛び上がり空中に立つなど、
不思議を顕し、後々はうつつ無き事のみを喜び、時々狂乱のごとくとなった。

この有様に元一も、このままでは当家の滅亡は近いと諫言するも及ばず、赤澤宗益入道と相談し、
六郎冠者澄元を家督に取り立て政元は隠居させ、細川家を末長久に治めるべしとすぐに評議一決して、
永正元年九月四日、薬師寺元一は淀城に立て籠もり、同六日、赤澤宗益は京を落ちたが、巷説では
彼もまた多勢を催して淀、鳥羽へと攻め上がるのだという。
かつ又、西岡では土一揆が起こり、これも京へと攻め入った。
このようなわけで洛中では風聞頻りにして人々はみな騒動した。

細川政元はこの事態に驚き、薬師寺元一の弟である薬師寺与二を討ち手として多勢を遣わし淀城を
攻め囲んだ。与二はこの淀城攻めの案内者であり、兄に劣らぬ剛の者であり、彼は淀城へ攻め寄せたが、
城兵も能く防ぎ、同十日、寄せ手の一人、讃岐の守護代である安富某が討ち取られた。

同十四日、西岡の土一揆は散々に打ち負け、その指導者である四ノ宮という父子は淀城へ落ち入った。
そのような中、薬師寺たちが味方と頼んだ前将軍家(足利義材)勢力、細川慈雲院(成之)の阿波細川家、
畠山卜山(尚順) らの後詰めの出勢が遅れ、故に久しく持ちこたえること出来ず、同二十日、終に
淀城は攻め落とされ、四ノ宮父子を始めとして尽く討ち死にした。

城将の薬師寺元一は生け捕りとなり、かくして京勢は帰陣した。
この戦果に細川政元は大いに喜び、大将であった薬師寺与二に「与一は汝の心に任せて腹を切らせろ」と
命じ、与二は「畏まり候」と、兄与一元一を、彼が先年船橋の当たりに菩提寺として建立した一元寺という
寺へ送り、そこで腹を切らせた。

薬師寺与一元一は、最期にこう言った
「私は主君へ野心の企てがあったのではない。ただ細川家が長久にと思い、事を起こしたのだ。
私は一世の間、終に二心を持たなかった。故にその心を名に顕し、与一と言い元一と名乗り、
寺をも一元寺と名付けたのだ。

只今、腹をも一文字に切るべし!」

そう、腹一文字に切って死んだ。生年二十九歳であったという。

(應仁後記)

薬師寺騒動についてのお話



8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 16:02:51.21 ID:JyAogICI
>>4
魔法に専念すれば空も飛べるのか
普通は滅亡話のフラグとして変な術に凝ってるとか言われるのに
少なくともこのエピソードでは普通に勝ってるしw

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 18:22:18.80 ID:DzoYyfFj
花の乱でも政元は魔法の練習してたな

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 23:16:32.62 ID:sLqMHVzg
>>4
>しかし近年細川政元は、政務を粗略にし、専念して魔法を行い、空の上へ飛び上がり空中に立つなど、

⊂⊃                      ⊂⊃
        ⊂ \        /⊃
          \\ /政ヽ//
   ⊂⊃  ((   \( ^ω^)    ))
            /|    ヘ       空も飛べるはず
          //( ヽノ \\
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        |    /       ブーン
         ( ヽノ
         ノ>ノ
     三  レレ


13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 11:18:44.07 ID:DylmrFnz
このAA、春先も貼られてなかったかな

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 11:20:41.01 ID:2hjMYhnQ
>>13
きっと細川政元が空を飛ぶ度に

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 16:54:12.41 ID:ZwjgR1TT
魔法の修行してたのは知ってたけど
普通に飛べるようになってるの草

政元養子の事

2018年08月02日 11:18

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/02(木) 10:47:04.16 ID:rEFEdP0l

その頃、公方足利義澄卿の御母堂は柳原大納言隆光卿の娘で、今の摂政九条太政大臣政基公の北政所とは
御連枝であった。故に公武の貴賤、おしなべて九条殿を崇敬した。

しかし細川政元は公方家の権を執り驕りを極める余りであろうか、あらぬ心出来て、九条政基公の
御未子の公達を己が養子に申し受け、自分の童名を付け聡明丸と号し、その後今年12月10日、
この聡明丸の元服の時は忝なくも公方御手づから加冠なされて細川源九郎澄之と名乗らせた。

こうして公家武家相共にこの澄之を崇敬しかしずき、九条殿も繁盛した。

古、鎌倉の征夷大将軍頼常卿と申すのは光明峰寺摂政殿(九条道家)の公達であったのを、
武家の上将となした。これも珍しい例であったが、それは右大将頼朝卿の親戚であったからであり、
右大臣実朝公の跡目であったから、軽々な話ではない。しかし、今の澄之はまさしく摂政相国の公達で
あるが、将軍家の執事である細川政元の子として、盛んな事とするのは、末世とは言いながら浅ましい
次第であると批判する人々も多かった。

その後、またどうしたわけか、細川政元は熟考した
「我家は代々公方の管領を相勤め親類も数多ある所に、他家の子を養いて家督を立てるのも
謂れなき所業であり、細川一族の面々も、他家の大名も、これに同心し挙用しないだろう。」
そのように突然考え、かの九郎澄之には丹波国の主語を譲り彼の国へ差し遣わし、永正元年の春頃、
家臣の薬師寺与一郎元一を使いとして阿波国へ差し遣わし、彼の国の一族である細川成之の孫で、
讃岐守義春の子である11歳に成る男子があり、これを養子にしたいと所望した。

成之も義春も細川一族であり、すぐに同意すべきであったが、政元の行跡見届けがたいと感じ、
何事か後難があるのではないかと、様々に辞退したが、薬師寺元一が古今の例を引いて様々に
理を尽くして説得し、漸く成之、義春も同意し、ならば養子に参らせると固く契約した。

政元は喜び直ぐにこの子を元服させた。彼にも公方家より御一字を申し受け、細川六郎冠者澄元と名乗らせ、
未だ若年であるとして、上洛もさせず阿波国の屋形に差し置いていた。

下の屋形とは阿波国の守護所である。昔、常久禅門(細川頼之)は大忠功の人であったため、摂津、丹波、
阿波、讃岐の四ヶ国の守護に任じられた時、自身は在京して管領職を勤め、守護する四ヶ国には一族を置いた。
中でも阿波国には舎弟讃岐守詮春を留め置いて分国の政事を執行させ、これを下の屋形と号した。
そして細川頼之嫡流の管領家を上の屋形と名付けた。現在の義春も詮春の子孫であり、上の屋形に
子無き時は必ず下の屋形より相続するのが筋目であった。

そのような由来がありながら、政元はどうしたことか、身の栄耀に飽き足らず、驕りを極めるあまり、
摂家の貴族を養子にして、ついに一家に二流を作り、後日の災いを招いた。その不遠慮の義、只事ではない。

政元は不忠不孝であったので、すなわち天罰を被って一家は滅亡するのだが、その先触れであったと
考えるべきだろう。

(應仁後記)


細川政元九条政基から澄之を養子にとった件、家格のことで当時から批判があったらしい、というお話


薬師寺元一の乱

2018年03月24日 21:13

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/23(金) 20:47:41.65 ID:bBDupAtw
京の管領である細川右京太夫政元は、40歳の頃まで女人禁制にて、魔法飯綱の法、
愛宕の法を行い、さながら出家の如く、山伏の如く、ある時は経を読み陀羅尼を弁じ、
見る人身の毛もよだつものであった。

このようであったので、御家相続の子もなく、御内外様の面々より、色々と諌め申し上げた。
その頃、公方足利義澄の母は柳原大納言隆光卿の娘であり、今の九条摂政太政大臣政基の
北の方と姉妹で、九条殿の子と義澄は従兄弟であったので、公家も武家も九条殿の子を
尊崇していた。
そこで九条政基の末の子を政元の養子とし、元服の際、公方様によって加冠され、一字を与えられて
細川源九郎澄之と名乗った。彼はやんごとなき公達であったので、諸大名から公家衆まで、
皆彼に従い、これにて細川家はさらに繁栄すると見えた。そして細川家の所領である
丹波国に参られ彼の国に入部した。

一方で、細川の被官であり摂津守護代であった薬師寺与一元一という人があった。
その弟は与二(長忠)といい、兄弟ともに無双の勇者であった。淀城に居住して数度の手柄を
表した。彼は一文字不通(文字の読み書きができない)の愚人であったが、天性正直にて
理非のはっきりした人物であったので、細川家の人々は皆、彼を尊敬していた。

また過去に政元が病気を患ったとき、細川家の人々は評定して阿波国守護細川之勝(義春)の
子息が器量の人体であったため、これを政元の養子と定め、この事は薬師寺を通して契約された。
彼も公方より一字を頂き、細川六郎澄元と名乗った。

この時分より、政元は魔法を行うようになり、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、
後には御心も乱れ、うつつ無き事を宣うようになった。

この様では何とも良くないと、薬師寺与一は赤澤宗益(朝経)と相談し、六郎澄元を取り立て
家督を相続させ、政元は隠居せしめんとした。これにより謀反を起こし、薬師寺与一は淀城に
立てこもり、赤澤は二百余騎にて伏見竹田口へ攻め上がった。
しかし永正元年九月の初め、与一の弟である薬師寺与二は兄に同意せず、彼が大将となって
淀城を攻めた、与二が案内者であったので、淀城は不日に攻め落とされ、与一は自害も出来ず
生け捕りにされ、京へと輸送された。

かねて薬師寺与一は、一元寺という寺を船橋に建てたのだが、与二は其の寺において、兄与一を
切腹させた。与二には今回の忠節の賞として桐の御紋を賜り、摂津守護代に補任された。
かつて源義朝が、父である為義を討って任官したが、それすらこれには勝らないと、批判する
人もあった。また赤澤は様々に陳謝したため一命を助けられた。

(足利季世記)

主君が魔法使いな事を不安に思って挙兵した、薬師寺元一の乱について



625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/25(日) 22:01:23.60 ID:IKpyqQxE
>>623
>この時分より、政元は魔法を行うようになり、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、
> 後には御心も乱れ、うつつ無き事を宣うようになった。

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     三  レレ

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 23:42:43.20 ID:WS7TdV3k
>>623
なお、童貞のことを魔法使いと呼ぶようになったのはこの故事に由来する
(民明書房刊「戦国魔法使い大全」より)

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/27(火) 00:10:33.93 ID:uQ7lCX9E
民明書房版ウィキペディア
の「魔法使い」の関連項目には細川政元がすでに入ってるのだった

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/27(火) 00:23:53.40 ID:4d9A1EEK
でも男はやってたわけやん?
童貞というんか?

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/27(火) 08:11:22.19 ID:6zrOuqmt
男色はノーカンであると弘法大師も言っている

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/27(火) 16:04:08.23 ID:p77ZQlKn
管領という要職にありながら宗教にはまって妻帯せず
複数養子をとったせいで後継者争いは血で血を洗う始末
家臣もしょっちゅう謀反を起こすし
ほんとひどい奴だよな

上杉謙信

畠山政長の最後

2018年03月15日 21:29

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/14(水) 22:27:07.05 ID:MY/3Tvpu
文明一統(応仁の乱の終結)以来、畠山義就も逝去し、細川勝元も山名宗全も逝去し、
応仁の乱の中心人物の中では、畠山尾張守政長だけが残った。
政長は元より一方の棟梁であり、位も従三位に叙し、再び管領にも就任したため、
三管領四職から御供衆に至るまで、彼の風下に立ち、政長による書状の文面は、
四職に対してはまるで被官に下すような書礼であった。

このような状況に、赤松一色山名といった人々、様々にこの不当を訴え、政長への恨みを
つのらせた。

この頃、畠山総州義豊(義就流畠山総州家)は、河内国誉田に在城して、政長と対立していたが、
さらに上意にも背くこと有り、公方足利義材は政長に心を寄せ、正覚寺に御動座あって、義豊を
退治しに向かった。

しかし、細川右京太夫政元も畠山政長に恨みがあった。
そのため彼は義豊方に加勢した。
すると、桃井、京極、山名、一色といった人々も皆義豊方に加わり、逆に正覚寺へと攻め寄せた。

政長方では、遊佐、斉藤、杉原、貴志といった人々が、ここを先途と防いだが、敵は四万余騎、
見方は二千余人という絶望的な状況であった。
そのため、先ずは公方義材を夜に紛れ、馬を召して、大和国筒井の城へと落とした。
そして夜が明けると、敵は徐々に四方より取り巻き、落ちのびる道もない状況となった。
正覚寺に籠もる者達は皆、自害せんと心を沈めていたが、政長は平某を召して、御児丸殿といって
この時13歳になる若君、彼は三才の時、常徳院殿(足利義尚)より一字を賜り尚慶と申したが、
これを呼び出し平に

「この君を汝に預ける。いかなる謀をも廻らせて彼を落とし、再びの当家再興の時を待て。」

そう命じたが平は

「私は最期のお供をすると決心しています。私の一族の、平ノ三郎左衛門に仰せ付けください。」

そのため三郎左衛門に命じたが、彼も最期のお供をしたいと申し出た。これに政長は大いに怒り

「汝は不覚を申しようだ!死を一時定めるのは却って易い、若君を落としそれに付き従うのは
大事である!」

こう言われて、平三郎左衛門も泣く泣く座敷を立ち、この時正覚寺の中には、公方様への
御慰みとして歌舞などを行う桂の遊女たちが居たのだが、その装束を借り、若君に着させ、
若君を桂の遊女に扮装させ、女たちの中に紛れさせ、自分は桂遊女に従う男の風情となり、
馬の腹帯の類に装束などを包み入れ、畠山重代の長刀(粟田口藤右馬則國が作)を竹の筒に
入れて背負い、敵陣の前を通った。
敵方にも、この桂の遊女たちを見知っている者達が居たので、問題なく通行が許可された。
敵陣を通過すると、若君を馬に乗せ、鞭を進めて大和国奥郡へと落とした。

明応二年四月九日の夜に入り、政長は心安しと、葉室大納言以下籠城の人々と最期の盃をし、
真っ先に腹を切った。しかしこの時、政長は藤四郎の刀にて三度まで腹を切りつけたが
全く切れず、そのため投げ捨てた所、側にあった薬研に当たり、その薬研を真っ二つに切り裂いた。
このためこの脇差は、薬研藤四郎とも申す。

「さては重代の刀にて、主を惜しみけるか、いかがすべきか。」

そう困惑する政長に、家臣の丹下備後守、かむり落としの信国の刀を抜いて、己の腿を二つ、
突き通し
「いかにも、良く切れます」
と、政長に奉った。政長はこれを逆手に取って、腹を十文字に掻っ切り、そのままその刀を
葉室大納言光忠卿へと渡した。その後、みな順次腹を切り、二百余人、一人も残らず自害し、
城に火をかけた。

(足利季世記)



605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 01:53:33.13 ID:XPawPm2/
長文起こしてくれる人ありがとう

永正の錯乱

2018年02月25日 17:26

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/25(日) 05:53:09.00 ID:oc9UB2Xe
同2年(1505)乙丑夏の頃、六郎澄元の御迎のためとして薬師寺三郎左衛門(長忠)が
御使になり阿波国へ下された。御約束のことなので澄元は御上洛し、

御供には三好筑前守之長、高畠与三などを召し連れなさって御上洛された。京童たちは
これを見て「これこそ細川の2つにならんずるもとぞ」と、ひそひそと申した。

そして政元は九郎殿(細川澄之)へ丹波国を差し上げ、かの国へ下向させ申されたので、
九郎殿はいよいよ無念に思召されたところに、魔の業ではないだろうか、

政元42歳の時、永正4年(1507)丁卯6月23日の夜、御月待の御行水をなさっていた
ところを、御内の侍である福井四郎と竹田孫七新名という者たちが、薬師寺三郎左衛門、
香西又六(元長)兄弟に同心して政元を誅殺し奉った。

そのため都は誰もが「これはさてどうなってゆくとも分からない」と騒ぐことは、中々申し様
もない有様であった。さてこの頃の政元は近国を切り取らんと、赤沢宗益(朝経)を御許し
になって丹後国へ遣わされ、この他に軍兵を相添えなさっていた。

河内国へは摂津上下の国衆を出立させなさって切り取り、大和国へは宗益の弟・福王寺、
また喜島源左衛門、和田源四郎を遣わせて切り取りなさっていた。

ところが、政元御生害のことが風聞したので国々の諸陣は破れ、国々にて大将格の人々
は腹を切って討死した。その数は3千余人と申す。

しかしながらこの企みは薬師寺三郎左衛門と香西兄弟が談合して、丹波にいらっしゃる
九郎殿を御代に立て天下を我等がままに振舞おうとの企みにより、かの3人が相語らい、
政元を誅し申したのである。

同じく六郎澄元をも誅し申すべしと、澄元がおられる御屋形へ明くる24日、薬師寺と香西
は押し寄せて終日に渡り合戦した。両方の手負い死人は数を知らず。

上京の百々橋では、澄元方の奈良修理亮が名乗って香西孫六と渡り合い、太刀打ちして
孫六は討死する。修理亮は手負いて屋形の内へ退いたのだった。その高名の振舞いは、
澄元や筑前守を初めとして感心しない者はいなかった。

合戦が夜に入ったので両方は互いに退き、澄元はここでは叶わないと思召してその夜に
近江の甲賀へ三好筑前守之長の御供で落ち行きなさった。案の定、相手方は九郎殿を
都へ上らせ奉り、細川の家督へ据え申した。

――『細川両家記』


めいどには 能わか衆のありければ

2018年02月21日 20:23

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 03:39:28.52 ID:aA/6Utkz
そのようなところに、政元(細川政元)はあまりに物狂わしくおられたため、御内・外様の
人々は、「この分ではどうしようもない」と悲しみ合っていた。

その折に薬師寺与一(元一)はつくづく考え出して、赤沢宗益(朝経)という法師と相語らい、
「政元を誅し奉り、阿波の六郎澄元をその上に崇め申しようぞ!」と語ると、

かの宗益は同心した。しかし、ある文に“好事門を出でず 悪事千里を行く”というが、道理
ではないだろうか。包み隠してもこの事はわずかに表れてしまい、叶わずして宗益は伏見
竹田口へと切り上った。

頃は永正元年(1504)甲子9月初めに与一は淀城へ立て籠もった。そのため京や田舎
では仰天して物言い取り取りであった。

そうとはいえども政元の御内衆は与一の弟の与次(長忠)を初めとして御屋形様へと参り、
評議をなしてすぐに諸勢を催し、淀城へと押し寄せて川とも堀ともいわずに攻めなさった。

城中でもここを先途と戦ったが、まことに攻め手は国々の勢たちが一つになって新手を
入れ替え攻めていった。そうして城中ではここかしこで5人、10人ずつ討死していった。

そのようにばかりで、どうして堪えることができるだろうか。9月18日申刻、ついに城は
落ちてしまった。与一は今一度謀反を企てようと思い、川の畔の葦の中で弛んでいたが、
因果の道理に任せて生け捕りとなり、都へと上った。

船橋に一元院といって、与一が世にありし時に建立した寺があった。与一はそこへ移り、
色々の物語りをして一首の歌にかくばかり。

「めいどには 能わか衆(我が主)のありければ おもひ立ぬる 旅衣かな」
(あの世には良い主君がいるので、思い立って旅立つとしよう)
(あの世には良い若衆がいるから、お前も早く来るといいぞ)

このように親しき方へ文などを遣わし、最後の時の申し様は、

「皆々御存知のように我は一文字好みの薬師寺与一。名乗りも元一、この寺も一元院と
名付けた。されば腹をも一文字に切ってやろう!」

と言って腹一文字にかき切り、朝の露とぞ消えにける。上下万民押し並べて皆涙を流した。

さるほどに弟の与次は御感を蒙り、今回の恩賞に桐の薹の御紋を賜り、三郎左衛門と
改名なされ、兄の与一の跡を賜って摂津国上下守護代となり栄華に誇った。

昔も主君の仰せに従い、源義朝が父・為義の首を取りなさったのである。ましてや末世の
以下の侍であれば、主君の下知に従って兄の立て籠もる城を攻めるのは道理である。

――『細川両家記』



549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/22(木) 11:34:46.20 ID:/G4E2NbT
死に様一つで見事にキャラがたった与一さん
なぜか万民が涙を流す

細川の流れが2つになってしまう原因

2018年02月20日 16:23

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 04:19:24.31 ID:pTzW/K4q
さても世間の有り様を見聞すると、その道のならぬこと多し。

諸法をもっぱらに行うべき僧形は兵具を帯び、また弓箭を旨とすべき大俗は顕密の
両流に立ち入り、座禅の窓に心掛けている。まことに風変わりな時節である。

さて、この類ここにあり。

細川右京大夫政元と申す人は都の管領の職をお持ちになり、天下の覚え隠れなし。
しかしながら、細川の流れが2つになってしまう原因であったということだ。

40の齢に及ぶまで夫婦の語らいなきゆえ、御子は1人もいらっしゃらなかった。
常には魔法を行って近国他国を動かし、またある時は津々浦々の御船遊びばかり
行っていたのである。

そのため家子や老衆は詫言し、ある時に皆々相談して、かたじけなくも九条関白殿
の末の御子(細川澄之)を申し受けなさり養子となし奉った。すなわち政元の幼名と

同じく聡明殿と申した。光陰を送り程なく御成人され、御元服されて九郎殿と号し、
皆々深く慕い申し上げた。さて政元は何と思召されたのか、御心中は相変わって、

「よくよく物事を考えると、我が家は一門中の誰かが持たなければ良くないであろう」
と思し召した。阿波国に住みなさる細川讃岐守(成之)は御出家なさって慈雲院殿と
申し、この御孫に六郎澄元という人がいた。

政元は「この人を養子にして我が家を譲りたいものだ」と思し召し、摂津国守護代の
薬師寺与一元一を御使にして阿波国へ差し下した。与一はたいそう畏まって兵庫の
浦より船に乗り、絵島明石を打ち眺め、鳴門の渡りを漕ぎ過ぎて阿波国へ到着した。

慈雲院殿へこの由を申し上げると、入道殿は聞こし召して「どうしたものか」と、暫く
御思案されたが、与一は武略を巡らせて漢家本朝の例を色々と申されたので、

斟酌ながら御了承されたため、与一は御返事を頂き、時の面目を施して都へ上った。
この由を申し上げると、政元は御悦びになること限りなし。

――『細川両家記』



545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 11:21:32.09 ID:/W40+KPc
あれ?一人足りないぞ?

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 13:54:30.42 ID:QeNsa6BB
俺のことか!

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 23:20:28.14 ID:jlZaj6kt
???「なんか足んねぇんだよなぁ」

明応二年四月二十八日の怪異

2016年06月16日 12:26

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 21:08:19.93 ID:0Q9E5mRm
明応2年(1493)4月22日、明応の政変が起こり、将軍足利義材が細川政元によって廃され、義澄が新将軍となった。

4月28日、新将軍義澄が細川政元の邸を将軍御所として移った事を祝う宴が行われ、それが終わり人々退出し、
四半時ほども経った頃である。

大館尚氏がこの屋敷から出て半町ほど過ぎた頃、退去した屋敷の方から、数百人が騒ぐような声を
尚氏とその供の者達全員が聞いた。しかし程なく、そのまま静かになった。
ところがこの騒ぎの中、尚氏の被官である松本蔵人という者が、主人の太刀を預かっていながら
忽然と姿を消した。

翌日、尚氏は人を出して方々を探させた所、松本蔵人は京の外れの野の中にある、小さな庵で
発見された。何故こんな所にいるのか尋ねたが、松本は「鞍馬の僧正が、谷に所用がある」と言い捨て
出て行ってしまった。探索の者達は松本の後を追い捉えると、松本は

「僧正は谷まで行ってまた戻ってきたが、その時、桐の小枝を持っていた。彼はそれを指し示し
『これは枝が枯れている。細川家に難儀が降りかかるであろう。』と言った。」

そう語った。

この後、松本蔵人は京に連れ戻されたが、一向に正気を取り戻さなかった。これらはすべて天狗の所業であると
言われた。

(後法興院記)



723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 21:19:44.81 ID:ZSZT4DHF
>>722
わけわからんwそりゃ天狗のせいにするわ

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 22:29:25.01 ID:ktDOEWmB
京兆家では良くある事

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 22:29:32.40 ID:3H7wGKyS
細川政元→飯綱の法→飯綱三郎天狗→八天狗→鞍馬山僧正坊


なんとなく話は繋がってる

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 23:47:26.13 ID:rHhvGcTa

     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー-----' |__////
          松本蔵人

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 00:17:28.80 ID:/6VPyBFD
>>726のAAが出てきて一安心

薬研藤四郎

2015年03月11日 18:52

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/11(水) 00:02:34.27 ID:aFyOPpo+
薬研藤四郎

明応の頃のことである。
畠山政長は細川政元のために包囲され、ついに自害に及ぼうとした。(明応の政変)
彼は帯びていた吉光の担当を抜くと、もろ肌脱いで腹に突き立てようとした。
しかしどうしても切れない。三度刺したが腹が切れないのである。
政長は怒って吉光の短刀を投げつけた。ところが、それは傍らにあった薬研に当って貫いた。
政長はこれを眺めると

「累代の短刀、さすがにその主人を殺すに忍びないと見えるわ」

そう嘆じた。
その時重臣の丹下備前守、自身の帯びた信国の短刀を抜き放ち、自分の体や腿を刺して試みた上で

「殿、この刀、切れ味よろしゅうござる」

そう言って渡した。そこで政長は快く腹を斬って斃れた。

この藤四郎吉光作の短刀は、薬研を貫いたという所からその後「薬研藤四郎」と呼ばれ、
後に松永弾正(久秀)の手に入って秘蔵されたのであるが、更に織田信長に献じられた。
しかし本能寺の変とともに消えた。

(古今名家珍談奇談逸話集)



546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/11(水) 00:35:08.25 ID:N/WhovJN
薬研藤四郎「お、大将……太っ腹だなぁ」

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/11(水) 16:35:24.29 ID:YQr/l5mb
ビビって腹切れなかっただけじゃ・・・とか言っちゃいけないか

恵林院殿御事

2014年03月23日 19:16

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/23(日) 02:11:42.81 ID:Lz8X/cqC
恵林院殿御事

先の将軍義稙公(十代将軍足利義稙)は、お心正直にて優しき生まれつきであり、武臣家僕のともがらは
言うに及ばず、公家の人々へも心を配らせ、不便の無いようにされていた。
しかし乱世の国主であったので、将軍と言っても名前ばかりの存在であり、下の者達が計らって
上意と称し我儘をふるい、これによって領地を無くした者達により、批判されることも些かあった。

こういった状況のため、武臣たちの罪によって将軍である義稙が恨まれ、いよいよ騒動も静まり難く見えた。

この頃の公方の様子を観察すると、将軍というものは寺院の長老のようなものであり、武臣は
その塔頭の寺僧であると言えた。長老は尊い。しかし寺僧たちがその前に横たわって、住持をも
排除してその寺院を思いのままにする。この頃の公方はそう言う風情であったのだ。

ある時、義稙公は大納言の某というものを召されて談笑した。そこで仰られたことには

「私は書物を読むのも乏しくはないし、天下の広さを一瞬で見ることも難しくはない。
何でも心にかなう四海の主であるので、多くの人民が、毎日痛ましきことを訴えに来る。
その事は耳に入ると不憫であるが、目の当たりにしたわけではないので、身にしみるような
哀しみはない。
畢竟、自分が苦しんだことがなければ、人の悲しみを理解できないものなのだ。

私は先年、政元(細川政元)によって苦しめられたことにより(明応の政変)、下民への労りを
思う事を学んだ。

これは、死を恐れたわけではないのだが、近くに味方が居ない時は、非常に心細いものであった。
そこから、鰥寡孤独(身寄りの居ない孤独な状態)の者が普段どんなに無力な心でいるかを
推し量ることが出来た。

慈悲の心がない者には、生きるかいもない。ましてや天下を知る者ならなおそうではないか。
第一に不憫の心を先に立てねばならない。
つらつらと古今の歴史について考えてみたが、北条泰時、北条時頼は唯人ではない。
我が朝の武賢と呼ぶべきは、彼らの振る舞いであろう。

私は壮年の頃から、常に下僕を撫で匹夫を憐れむの心を持っていたが、今は我が身さえ
心に任せることのできない世の中であるので、人々に対してその気持ちを充分に表すことも出来す、
時ばかり過ぎてしまった。いま少し世の中にあって状況を伺い、我が志を遂げたいと思うのだが、
月日ばかり過ぎていき、人生ももはや終盤となってしまった。終にはその思いも虚しくして、
憤りを胸にいだいたまま泉下に行くのだろうと思っている。

人々は衰朽の状態になれば、自らを察して心を諦めてしまう。だから、一日でも生きているうちは、
その身に応じて人を扶助するべきなのだ。」

そう、しめやかに雑談されると、大納言の某もこれを聞いて、涙で狩衣の袖を絞られ、返答することも
出来なかった。誠に大樹(将軍)の身として、このような御心ばえは世に有難きことである。
義稙公が都落ちして田舎に移られた後は、京の貴賎は皆、灯火が消え暗くなったように思ったものである。
その時にも公は人々に暇乞いをされ、仰せおかれたことに関して、皆、優しきお振る舞いであったと、
現在でもそのことを語る人が多く居るのである。
(塵塚物語)

足利義稙の、下々を想う心についての記事である。





薬師寺元一、一の文字へのこだわり

2012年09月30日 20:12

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 14:18:30.19 ID:lDqfzO4N
永正元年(1504年)9月初旬、右京兆細川政元の家臣である薬師寺与一元一は、赤沢宗益(朝経)と共に、
政元の養子細川澄元を擁立するとして政元に反旗を翻した。

しかしこの反乱に追随するものはおらず、逆に元一の弟・薬師寺長忠によって攻撃を受けるなどし失敗、
9月18日には元一の籠る淀城は追討軍により落城、自害者数名、討たれたもも数知れずという状況になったが、
それでも薬師寺元一は脱出した。しかし水中村という所の葦の中に潜んでいた所を発見され、
生け捕られて薬師寺氏の菩提寺である一元院に監禁された。
10月2日には赤沢宗益討伐の軍勢も出発した。

この様な中薬師寺元一は切腹の処分と決まった。
元一は住持に引導を請うた時、この様に言った

「ご存知のように私は常に一の文字を好んでいる。
故に名は与一、実名は元一、寺は一元院と号しておる!
しかれば腹も一文字に斬り申す!」

そうして見事真一文字に腹を斬って死んだ。

文字通り最後まで一の文字に拘った、薬師寺元一についての逸話である
(陰徳太平記)

ちなみにこの薬師寺元一の辞世の句は
『地獄には よき我が主(若衆)のあるやとて 今日おもひたつ旅衣かな』
と伝わる。
彼が主君政元と衆道関係にあったとも言われる所以である。




618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 14:50:10.47 ID:UYXoHlot
細川政元はホモで天狗とかイズナの術が得意で、天下を権を握って、その上、最期は暗殺される・・・
ぜひ大河ドラマの主人公になって欲しいキャラだな

明応2年閏4月。このごろ怪鳥が出没し

2012年06月30日 21:00

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 01:39:19.44 ID:nurx7Nrg
明応2年閏4月。
このごろ怪鳥が出没し、細川政元の家人がそれを図にした。

陰涼軒日録には次のように記されている。

「世間に化鳥あり」という話を聞いた。
その頭は馬、尾は蛇、蹄は牛のようであり、「無常引導骨積天」という鳴き声を上げるそうだ。
その図は右京兆屋形(細川政元邸)より出でて、天竜寺に在るという。

また、昨日20日、右京兆屋形の辺りで羊角風(つむじ風)が大いに吹き荒れ、人々を驚かせた。
その羊角風の中には鳶が居て、火を纏って飛行していたという。
(後鑑)

よ、呼び出してしまったのですか・・・ 管領様・・・。




242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 01:44:00.74 ID:5eQHhM/Q
右京兆様の逸話独特の禍々しさは何なんだろうなw

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 05:09:04.41 ID:sP8V6lEQ
さすがや!!

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 08:34:45.33 ID:A6gePg3A
ま~た半将軍が召喚したんか

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 10:09:35.19 ID:AW0Zc9N9
この前湘南に現れたアザラシみたいに
珍しい動物が中世に出現したら漏れなく妖怪認定されるのかな・・・

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 10:12:52.32 ID:NvhdMRCN
権現様が駿府城で見たという肉人の正体はなんだったのか

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 10:14:23.52 ID:k9LnvroQ
本物の徳川家康

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 12:15:15.30 ID:jEcZJefm
>245、大王イカのゆるくなってるのとかだとまずそうなるだろうね・・・


249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 12:28:24.78 ID:3zG53xIi
ダイオウイカは同時期の西洋でも魔物認定されてたな

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 12:43:34.97 ID:NvhdMRCN
クラーケンも北斎にかかればhentaiに


260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 23:58:23.92 ID:rEKRKzUO
>>246
妖怪「でびっどはっせるほふ」ぢゃ

通玄寺襲撃

2012年04月13日 21:33

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/13(金) 18:39:21.53 ID:TYX8umqh
明応2年(1493)4月22日、右京兆・細川政元によるクーデター、いわゆる『明応の政変』が起こる。
京では足利義材派の畠山政長、葉室光忠などの屋敷が次々と破壊された。

さてその時、河内に出陣していた将軍足利義材の後室など、将軍家の女性たちは多くが、
義材の姉が尼として入っている通玄寺に避難していたが、クーデター派はこの尼寺にすぎない
通玄寺も襲撃に及んだ。

と、ここで襲撃部隊は残忍な仕打ちをした。
彼らはここに避難していた将軍後室、その女官たち、さらには義材姉をはじめとした寺の尼達まで
衣服を全て剥ぎ取って京の町中に放り出した。

赤裸にされたこの高貴な女性たちは、致し方なく、ある者は筵を身にまとい、ある者は経典を体に巻き付け、
泣き叫びながらあちこちに逃げ惑い、路頭をさまよった。

『北野社家日記』には「前代未聞の事件であり、筆にするのもはばかられる」と、
この事件を憤りを持って記録している。

明応の政変で高貴な女性たちに降りかかった悲劇についての記録である。





633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/13(金) 19:15:31.52 ID:UNIoX2XR
義材も将軍なのに身一つで政元の陪臣に過ぎない上原元秀に降伏するという屈辱を味わったな

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/13(金) 22:02:50.07 ID:JQzYxAtY
さすがに高貴な女性たちの中身には手を出さなかったのか

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/13(金) 22:08:37.01 ID:BldyANpm
出されたけどそこまで書き残すのは憚ったんじゃない?

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/13(金) 23:22:09.91 ID:CTSV4MoP
尼寺を襲撃して身ぐるみ剥ぐほどの無法者たちだからな…

筆者自身が書き残した通り、「筆にするのもはばかられ」たんだろう