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細川澄之の敗北と切腹

2018年08月06日 19:24

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/06(月) 18:40:54.70 ID:eGdBHg/i
細川政元暗殺の後、畿内は細川澄之の勢力によって押さえられた。
しかし細川澄元家臣の三好之長は、澄元を伴い近江国甲賀の谷へ落ち行き、山中新左衛門を頼んで
近江甲賀の軍士を集めた。
また細川一門の細川右馬助、同民部省輔、淡路守護らも味方に付き、さらに秘計をめぐらして、
畠山も味方に付け大和河内の軍勢を招き。程なくこの軍勢を率いて八月朔日、京に向かって
攻め上がった。

昔より主君を討った悪逆人に味方しようという者はいない。在京の者達も次々と香西、薬師寺を背き
捨てて、我も我もと澄元の軍勢に馳加わり、程なく大軍となった。そこで細川澄元を大将とし、
三好之長は軍の差し引きを行い、九郎澄之の居る嵯峨の嵐山、遊初軒に押し寄せ、一度に鬨の声を上げて
入れ代わり立ち代わり攻めかかった。そこに館の内より声高に「九郎殿御内一宮兵庫助!」と名乗り
一番に斬って出、甲賀勢の望月という者を初めとして、寄せ手の7,8騎を斬って落とし、終には
自身も討ち死にした。

これを合戦のはじめとして、敵味方入り乱れ散々に戦ったが、澄之方の者達は次第に落ち失せ、残る
香西薬師寺たちも、ここを先途と防いだが多勢に無勢では叶い難く、終に薬師寺長忠は討ち死に、
香西元長も流れ矢に当たって死んだ。

この劣勢の中、波々下部伯耆守は澄之に向かって申し上げた
「君が盾矛と思し召す一宮、香西、薬師寺らは討ち死にし、見方は残り少なく、敵はもはや四面を取り囲んで
今は逃れるすべもありません。敵の手にかけられるより、御自害なさるべきです。」

九郎澄之
「それは覚悟している」
そう言って硯を出し文を書いた
「これを、父殿下(九条政基)、母政所へ参らすように。」
そう同朋の童に渡した、その文には、澄之が両親の元を離れ丹波に下り物憂く暮らしていたこと、
また両親より先に、このように亡び果て、御嘆きを残すことが悲しいと綴られていた。
奥には一種の歌が詠まれた。

 梓弓 張りて心は強けれど 引手すく無き身とぞ成りける

髪をすこし切り書状に添え、泪とともに巻き閉じて、名残惜しげにこれを渡した。
童がその場を去ると、澄之はこの年19歳にて一期とし、雪のような肌を肌脱ぎして、
尋常に腹を切って死んだ。

波々下部伯耆守はこれを介錯すると、自身もその場で腹を切り、館に火を掛けた。
ここで焼け死んだ者達、また討ち死にの面々、自害した者達、都合170人であったと言われる。

寄せ手の大将澄元は養父の敵を打ち取り、三好之長は主君の恨みを報じた。
彼らは香西兄弟、薬師寺ら数多の頸を取り持たせ、喜び勇んで帰洛した。

澄之の同朋の童は、乳母の局を伴って九条殿へ落ち行き、かの文を奉り最期の有様を語り申し上げた。
父の政基公も母の北政所も、その嘆き限りなかった。

(應仁後記)

細川澄之の敗北と切腹についてのお話


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政元養子の事

2018年08月02日 11:18

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/02(木) 10:47:04.16 ID:rEFEdP0l

その頃、公方足利義澄卿の御母堂は柳原大納言隆光卿の娘で、今の摂政九条太政大臣政基公の北政所とは
御連枝であった。故に公武の貴賤、おしなべて九条殿を崇敬した。

しかし細川政元は公方家の権を執り驕りを極める余りであろうか、あらぬ心出来て、九条政基公の
御未子の公達を己が養子に申し受け、自分の童名を付け聡明丸と号し、その後今年12月10日、
この聡明丸の元服の時は忝なくも公方御手づから加冠なされて細川源九郎澄之と名乗らせた。

こうして公家武家相共にこの澄之を崇敬しかしずき、九条殿も繁盛した。

古、鎌倉の征夷大将軍頼常卿と申すのは光明峰寺摂政殿(九条道家)の公達であったのを、
武家の上将となした。これも珍しい例であったが、それは右大将頼朝卿の親戚であったからであり、
右大臣実朝公の跡目であったから、軽々な話ではない。しかし、今の澄之はまさしく摂政相国の公達で
あるが、将軍家の執事である細川政元の子として、盛んな事とするのは、末世とは言いながら浅ましい
次第であると批判する人々も多かった。

その後、またどうしたわけか、細川政元は熟考した
「我家は代々公方の管領を相勤め親類も数多ある所に、他家の子を養いて家督を立てるのも
謂れなき所業であり、細川一族の面々も、他家の大名も、これに同心し挙用しないだろう。」
そのように突然考え、かの九郎澄之には丹波国の主語を譲り彼の国へ差し遣わし、永正元年の春頃、
家臣の薬師寺与一郎元一を使いとして阿波国へ差し遣わし、彼の国の一族である細川成之の孫で、
讃岐守義春の子である11歳に成る男子があり、これを養子にしたいと所望した。

成之も義春も細川一族であり、すぐに同意すべきであったが、政元の行跡見届けがたいと感じ、
何事か後難があるのではないかと、様々に辞退したが、薬師寺元一が古今の例を引いて様々に
理を尽くして説得し、漸く成之、義春も同意し、ならば養子に参らせると固く契約した。

政元は喜び直ぐにこの子を元服させた。彼にも公方家より御一字を申し受け、細川六郎冠者澄元と名乗らせ、
未だ若年であるとして、上洛もさせず阿波国の屋形に差し置いていた。

下の屋形とは阿波国の守護所である。昔、常久禅門(細川頼之)は大忠功の人であったため、摂津、丹波、
阿波、讃岐の四ヶ国の守護に任じられた時、自身は在京して管領職を勤め、守護する四ヶ国には一族を置いた。
中でも阿波国には舎弟讃岐守詮春を留め置いて分国の政事を執行させ、これを下の屋形と号した。
そして細川頼之嫡流の管領家を上の屋形と名付けた。現在の義春も詮春の子孫であり、上の屋形に
子無き時は必ず下の屋形より相続するのが筋目であった。

そのような由来がありながら、政元はどうしたことか、身の栄耀に飽き足らず、驕りを極めるあまり、
摂家の貴族を養子にして、ついに一家に二流を作り、後日の災いを招いた。その不遠慮の義、只事ではない。

政元は不忠不孝であったので、すなわち天罰を被って一家は滅亡するのだが、その先触れであったと
考えるべきだろう。

(應仁後記)


細川政元九条政基から澄之を養子にとった件、家格のことで当時から批判があったらしい、というお話


わか世のはての 近きうれしさ

2018年03月26日 19:21

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 17:55:37.85 ID:7SI4Sz+W
(細川政元の暗殺と細川澄元の都落ちの後)

都では九郎澄之(細川澄之)が家督の御内書を頂戴なさり、丹波より7月8日に上洛された。
同11日に政元の葬送を取り行いなさり、戒名は大心院と申した。

中陰の儀式は大心院で厳重に取り行われて、同25日に七日の仏事を勤め終えなさった。その
夕刻に佐々木六角四郎(六角高頼)が大心院に参って焼香し、ただちに近江へ逃げ下ったため、
それより京都以外の場所に人々は騒動して資財雑具を持ち運び、目も当てられぬ有様となった。

果たして8月1日には澄元の御味方として右馬助政賢(細川政賢)、淡路守尚春(細川尚春)、
そして今の右京兆、その時は未だ民部少輔高国と申されたが、各々が同心して猛勢を率いて、

澄之に攻め掛かり申された。そのため澄之の馬廻らは一合戦致すべく覚悟していたが、大心院
の生害を澄之は内々に存じていたとの風聞が流れると、それなら(高国らの挙兵は)曲事無き

次第であるとして皆々心替えしたため、ついに澄之は遊初軒で自害なされた。波々伯部伯耆守
入道宗寅が心静かにその介錯を致し、遊初軒に火を放って腹を切ったのである。

その時に宗寅は一首を詠じて、小さい幼児が高雄にいたのでその子にその歌を遣わした。

「なからへて 思わすいとと うかるへし わか世のはての 近きうれしさ」

(たとえ生き延びたとしても、思わずいっそうの物憂さを覚えるだけであろう。ここで最期を
迎えることを、私は嬉しく思っている)

――『瓦林正頼記』


九郎殿は御腹を召され

2018年02月28日 22:31

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/28(水) 02:13:22.65 ID:/FwJ4UQm
香西又六(元長)と薬師寺三郎左衛門(長忠)が天下を我等がままに振舞うところに、
やがて50日ほどあって、同(1507)8月1日に、

澄元(細川澄元)は三好筑前守之長の算段で、甲賀の谷の山中新左衛門を御頼みになり、
京へと切り上った。九郎殿(細川澄之)のいらっしゃる遊初軒へ攻め掛かると、

一宮兵庫助が門より外へ切り出て、手元へ進む兵を7,8騎切り伏せ大勢に手を負わせ、
東西へ追い散らし、そののち自身も討死したのであった。中昔の源判官殿の御内である
武蔵坊弁慶もこうであったのかと思い出される。

さて兵庫助討死の由は、波々伯部伯耆守が九郎殿の御前へ参り申し上げ、「早く早く、
御腹を召され候へ」と申すと、九郎殿は「もとより覚悟のことである。しかしながら、
九郎の父・関白殿(九条政基)と北の御方へ御文を参らせたい」と硯を御乞いなさり、

「このたび丹波にて物憂きことなどがあり、また御二人より先立ち、後生菩提逆さま
に弔われ申さんことの口惜しさよ」と言いなさって、奥に一首の歌を遊ばしなさる。

「あづさ弓 はりてこころはつよけれど 引手すくなき 身とぞ成ぬる」

このように書き留めなさると、鬢の髪を少しそえて涙とともに巻き込め、御自身の文
ながら、ひとしお名残惜しげに御覧になり、局の方へ御渡しになった。そののち伯耆
を御呼びになり、「我はいまだ腹の切りようを知らぬ」と仰ると、伯耆は答えて

「十方仏土とは申しますが、自害と申すものは、まず西へ向かって十念し、御腰の
物を抜いて左の脇に刺し立て、右手の脇へ引き回し、返す刀で御心元に刺し立てて、
袴の着際へ押し降ろします」

と申し、九郎殿は御了承されて御腹を召された。伯耆は涙とともに介錯申し上げて、
そののちに腹を切った。薬師寺三郎左衛門、香西兄弟は皆々討死して朝の露となった。
このたびの討死は170余人である。

さて、その時の有様を局は九条殿へ参って詳しく申され、父の関白殿と北の御方様は
「これは夢か現か。夢ならば覚めてくれ」と、しばし消沈なさった。

ややあって関白殿が仰せになり、「人間に限らず生を受けたものは皆その上々を望む。
鳥類・畜類さえこうであるのに、それに引き換え、我が子は細川の家に養われて家に
疵を作ったことよと朝暮これを思っていたが、このようなことが起こってしまった」

と、御文を胸に当て顔に当て嘆きなされば、その他の女房たちや仲居の人、侍たち、
上下に至るまで流涕し、焦がれなさった。

これがあの釈尊御入滅の折、十大御弟子・十六羅漢・五十二類に至るまで、御別れを
悲しんだのも、こうであったのかと思い知られつつ、他人の袂も涙に濡れた。

このように因果の回ることは、ただ車が庭の中を巡るようなものである。

――『細川両家記』


永正の錯乱

2018年02月25日 17:26

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/25(日) 05:53:09.00 ID:oc9UB2Xe
同2年(1505)乙丑夏の頃、六郎澄元の御迎のためとして薬師寺三郎左衛門(長忠)が
御使になり阿波国へ下された。御約束のことなので澄元は御上洛し、

御供には三好筑前守之長、高畠与三などを召し連れなさって御上洛された。京童たちは
これを見て「これこそ細川の2つにならんずるもとぞ」と、ひそひそと申した。

そして政元は九郎殿(細川澄之)へ丹波国を差し上げ、かの国へ下向させ申されたので、
九郎殿はいよいよ無念に思召されたところに、魔の業ではないだろうか、

政元42歳の時、永正4年(1507)丁卯6月23日の夜、御月待の御行水をなさっていた
ところを、御内の侍である福井四郎と竹田孫七新名という者たちが、薬師寺三郎左衛門、
香西又六(元長)兄弟に同心して政元を誅殺し奉った。

そのため都は誰もが「これはさてどうなってゆくとも分からない」と騒ぐことは、中々申し様
もない有様であった。さてこの頃の政元は近国を切り取らんと、赤沢宗益(朝経)を御許し
になって丹後国へ遣わされ、この他に軍兵を相添えなさっていた。

河内国へは摂津上下の国衆を出立させなさって切り取り、大和国へは宗益の弟・福王寺、
また喜島源左衛門、和田源四郎を遣わせて切り取りなさっていた。

ところが、政元御生害のことが風聞したので国々の諸陣は破れ、国々にて大将格の人々
は腹を切って討死した。その数は3千余人と申す。

しかしながらこの企みは薬師寺三郎左衛門と香西兄弟が談合して、丹波にいらっしゃる
九郎殿を御代に立て天下を我等がままに振舞おうとの企みにより、かの3人が相語らい、
政元を誅し申したのである。

同じく六郎澄元をも誅し申すべしと、澄元がおられる御屋形へ明くる24日、薬師寺と香西
は押し寄せて終日に渡り合戦した。両方の手負い死人は数を知らず。

上京の百々橋では、澄元方の奈良修理亮が名乗って香西孫六と渡り合い、太刀打ちして
孫六は討死する。修理亮は手負いて屋形の内へ退いたのだった。その高名の振舞いは、
澄元や筑前守を初めとして感心しない者はいなかった。

合戦が夜に入ったので両方は互いに退き、澄元はここでは叶わないと思召してその夜に
近江の甲賀へ三好筑前守之長の御供で落ち行きなさった。案の定、相手方は九郎殿を
都へ上らせ奉り、細川の家督へ据え申した。

――『細川両家記』


細川の流れが2つになってしまう原因

2018年02月20日 16:23

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 04:19:24.31 ID:pTzW/K4q
さても世間の有り様を見聞すると、その道のならぬこと多し。

諸法をもっぱらに行うべき僧形は兵具を帯び、また弓箭を旨とすべき大俗は顕密の
両流に立ち入り、座禅の窓に心掛けている。まことに風変わりな時節である。

さて、この類ここにあり。

細川右京大夫政元と申す人は都の管領の職をお持ちになり、天下の覚え隠れなし。
しかしながら、細川の流れが2つになってしまう原因であったということだ。

40の齢に及ぶまで夫婦の語らいなきゆえ、御子は1人もいらっしゃらなかった。
常には魔法を行って近国他国を動かし、またある時は津々浦々の御船遊びばかり
行っていたのである。

そのため家子や老衆は詫言し、ある時に皆々相談して、かたじけなくも九条関白殿
の末の御子(細川澄之)を申し受けなさり養子となし奉った。すなわち政元の幼名と

同じく聡明殿と申した。光陰を送り程なく御成人され、御元服されて九郎殿と号し、
皆々深く慕い申し上げた。さて政元は何と思召されたのか、御心中は相変わって、

「よくよく物事を考えると、我が家は一門中の誰かが持たなければ良くないであろう」
と思し召した。阿波国に住みなさる細川讃岐守(成之)は御出家なさって慈雲院殿と
申し、この御孫に六郎澄元という人がいた。

政元は「この人を養子にして我が家を譲りたいものだ」と思し召し、摂津国守護代の
薬師寺与一元一を御使にして阿波国へ差し下した。与一はたいそう畏まって兵庫の
浦より船に乗り、絵島明石を打ち眺め、鳴門の渡りを漕ぎ過ぎて阿波国へ到着した。

慈雲院殿へこの由を申し上げると、入道殿は聞こし召して「どうしたものか」と、暫く
御思案されたが、与一は武略を巡らせて漢家本朝の例を色々と申されたので、

斟酌ながら御了承されたため、与一は御返事を頂き、時の面目を施して都へ上った。
この由を申し上げると、政元は御悦びになること限りなし。

――『細川両家記』



545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 11:21:32.09 ID:/W40+KPc
あれ?一人足りないぞ?

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 13:54:30.42 ID:QeNsa6BB
俺のことか!

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 23:20:28.14 ID:jlZaj6kt
???「なんか足んねぇんだよなぁ」