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細川澄之の敗北と切腹

2018年08月06日 19:24

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/06(月) 18:40:54.70 ID:eGdBHg/i
細川政元暗殺の後、畿内は細川澄之の勢力によって押さえられた。
しかし細川澄元家臣の三好之長は、澄元を伴い近江国甲賀の谷へ落ち行き、山中新左衛門を頼んで
近江甲賀の軍士を集めた。
また細川一門の細川右馬助、同民部省輔、淡路守護らも味方に付き、さらに秘計をめぐらして、
畠山も味方に付け大和河内の軍勢を招き。程なくこの軍勢を率いて八月朔日、京に向かって
攻め上がった。

昔より主君を討った悪逆人に味方しようという者はいない。在京の者達も次々と香西、薬師寺を背き
捨てて、我も我もと澄元の軍勢に馳加わり、程なく大軍となった。そこで細川澄元を大将とし、
三好之長は軍の差し引きを行い、九郎澄之の居る嵯峨の嵐山、遊初軒に押し寄せ、一度に鬨の声を上げて
入れ代わり立ち代わり攻めかかった。そこに館の内より声高に「九郎殿御内一宮兵庫助!」と名乗り
一番に斬って出、甲賀勢の望月という者を初めとして、寄せ手の7,8騎を斬って落とし、終には
自身も討ち死にした。

これを合戦のはじめとして、敵味方入り乱れ散々に戦ったが、澄之方の者達は次第に落ち失せ、残る
香西薬師寺たちも、ここを先途と防いだが多勢に無勢では叶い難く、終に薬師寺長忠は討ち死に、
香西元長も流れ矢に当たって死んだ。

この劣勢の中、波々下部伯耆守は澄之に向かって申し上げた
「君が盾矛と思し召す一宮、香西、薬師寺らは討ち死にし、見方は残り少なく、敵はもはや四面を取り囲んで
今は逃れるすべもありません。敵の手にかけられるより、御自害なさるべきです。」

九郎澄之
「それは覚悟している」
そう言って硯を出し文を書いた
「これを、父殿下(九条政基)、母政所へ参らすように。」
そう同朋の童に渡した、その文には、澄之が両親の元を離れ丹波に下り物憂く暮らしていたこと、
また両親より先に、このように亡び果て、御嘆きを残すことが悲しいと綴られていた。
奥には一種の歌が詠まれた。

 梓弓 張りて心は強けれど 引手すく無き身とぞ成りける

髪をすこし切り書状に添え、泪とともに巻き閉じて、名残惜しげにこれを渡した。
童がその場を去ると、澄之はこの年19歳にて一期とし、雪のような肌を肌脱ぎして、
尋常に腹を切って死んだ。

波々下部伯耆守はこれを介錯すると、自身もその場で腹を切り、館に火を掛けた。
ここで焼け死んだ者達、また討ち死にの面々、自害した者達、都合170人であったと言われる。

寄せ手の大将澄元は養父の敵を打ち取り、三好之長は主君の恨みを報じた。
彼らは香西兄弟、薬師寺ら数多の頸を取り持たせ、喜び勇んで帰洛した。

澄之の同朋の童は、乳母の局を伴って九条殿へ落ち行き、かの文を奉り最期の有様を語り申し上げた。
父の政基公も母の北政所も、その嘆き限りなかった。

(應仁後記)

細川澄之の敗北と切腹についてのお話


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政元養子の事

2018年08月02日 11:18

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/02(木) 10:47:04.16 ID:rEFEdP0l

その頃、公方足利義澄卿の御母堂は柳原大納言隆光卿の娘で、今の摂政九条太政大臣政基公の北政所とは
御連枝であった。故に公武の貴賤、おしなべて九条殿を崇敬した。

しかし細川政元は公方家の権を執り驕りを極める余りであろうか、あらぬ心出来て、九条政基公の
御未子の公達を己が養子に申し受け、自分の童名を付け聡明丸と号し、その後今年12月10日、
この聡明丸の元服の時は忝なくも公方御手づから加冠なされて細川源九郎澄之と名乗らせた。

こうして公家武家相共にこの澄之を崇敬しかしずき、九条殿も繁盛した。

古、鎌倉の征夷大将軍頼常卿と申すのは光明峰寺摂政殿(九条道家)の公達であったのを、
武家の上将となした。これも珍しい例であったが、それは右大将頼朝卿の親戚であったからであり、
右大臣実朝公の跡目であったから、軽々な話ではない。しかし、今の澄之はまさしく摂政相国の公達で
あるが、将軍家の執事である細川政元の子として、盛んな事とするのは、末世とは言いながら浅ましい
次第であると批判する人々も多かった。

その後、またどうしたわけか、細川政元は熟考した
「我家は代々公方の管領を相勤め親類も数多ある所に、他家の子を養いて家督を立てるのも
謂れなき所業であり、細川一族の面々も、他家の大名も、これに同心し挙用しないだろう。」
そのように突然考え、かの九郎澄之には丹波国の主語を譲り彼の国へ差し遣わし、永正元年の春頃、
家臣の薬師寺与一郎元一を使いとして阿波国へ差し遣わし、彼の国の一族である細川成之の孫で、
讃岐守義春の子である11歳に成る男子があり、これを養子にしたいと所望した。

成之も義春も細川一族であり、すぐに同意すべきであったが、政元の行跡見届けがたいと感じ、
何事か後難があるのではないかと、様々に辞退したが、薬師寺元一が古今の例を引いて様々に
理を尽くして説得し、漸く成之、義春も同意し、ならば養子に参らせると固く契約した。

政元は喜び直ぐにこの子を元服させた。彼にも公方家より御一字を申し受け、細川六郎冠者澄元と名乗らせ、
未だ若年であるとして、上洛もさせず阿波国の屋形に差し置いていた。

下の屋形とは阿波国の守護所である。昔、常久禅門(細川頼之)は大忠功の人であったため、摂津、丹波、
阿波、讃岐の四ヶ国の守護に任じられた時、自身は在京して管領職を勤め、守護する四ヶ国には一族を置いた。
中でも阿波国には舎弟讃岐守詮春を留め置いて分国の政事を執行させ、これを下の屋形と号した。
そして細川頼之嫡流の管領家を上の屋形と名付けた。現在の義春も詮春の子孫であり、上の屋形に
子無き時は必ず下の屋形より相続するのが筋目であった。

そのような由来がありながら、政元はどうしたことか、身の栄耀に飽き足らず、驕りを極めるあまり、
摂家の貴族を養子にして、ついに一家に二流を作り、後日の災いを招いた。その不遠慮の義、只事ではない。

政元は不忠不孝であったので、すなわち天罰を被って一家は滅亡するのだが、その先触れであったと
考えるべきだろう。

(應仁後記)


細川政元九条政基から澄之を養子にとった件、家格のことで当時から批判があったらしい、というお話


今をさかりの みよしのの花

2018年03月29日 20:45

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/28(水) 05:12:19.77 ID:fjPerZTv
(細川澄之討伐後)

さて、京都は静謐の様子となり、澄元(細川澄元)も近江より上洛された。京都の成敗は
万事につけて三好(之長)が務めた。そのため次のような落書が作られた。

「はけしかりし 嵐の風は 音たへて 今をさかりの みよしのの花」

(吉野山に咲き誇る花の如く、三好の権勢は絶大なものとなった。今や之長に刃向かう者
など、誰一人として存在しないのである)

――『瓦林正頼記』


わか世のはての 近きうれしさ

2018年03月26日 19:21

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 17:55:37.85 ID:7SI4Sz+W
(細川政元の暗殺と細川澄元の都落ちの後)

都では九郎澄之(細川澄之)が家督の御内書を頂戴なさり、丹波より7月8日に上洛された。
同11日に政元の葬送を取り行いなさり、戒名は大心院と申した。

中陰の儀式は大心院で厳重に取り行われて、同25日に七日の仏事を勤め終えなさった。その
夕刻に佐々木六角四郎(六角高頼)が大心院に参って焼香し、ただちに近江へ逃げ下ったため、
それより京都以外の場所に人々は騒動して資財雑具を持ち運び、目も当てられぬ有様となった。

果たして8月1日には澄元の御味方として右馬助政賢(細川政賢)、淡路守尚春(細川尚春)、
そして今の右京兆、その時は未だ民部少輔高国と申されたが、各々が同心して猛勢を率いて、

澄之に攻め掛かり申された。そのため澄之の馬廻らは一合戦致すべく覚悟していたが、大心院
の生害を澄之は内々に存じていたとの風聞が流れると、それなら(高国らの挙兵は)曲事無き

次第であるとして皆々心替えしたため、ついに澄之は遊初軒で自害なされた。波々伯部伯耆守
入道宗寅が心静かにその介錯を致し、遊初軒に火を放って腹を切ったのである。

その時に宗寅は一首を詠じて、小さい幼児が高雄にいたのでその子にその歌を遣わした。

「なからへて 思わすいとと うかるへし わか世のはての 近きうれしさ」

(たとえ生き延びたとしても、思わずいっそうの物憂さを覚えるだけであろう。ここで最期を
迎えることを、私は嬉しく思っている)

――『瓦林正頼記』


三好之長切腹

2018年03月21日 11:58

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/21(水) 04:18:50.68 ID:MTdHNTUu
さて、同年(1520)2月27日に難波より三好筑前守之長が京へ上りなさり、都での威勢は
申しようもなかった。同3月16日、神咒寺より澄元(細川澄元)は伊丹城へ御入りになった。

「この分ならば千年万年」と諸人は思い申していたところに、また高国(細川高国)が近江国の
両佐々木殿(六角定頼・京極高清)を御頼みになって同5月3日に京東山白川表へ上りなさった。

この由を三好筑前守之長は聞きなさり、二条・三条・四条・高倉表へ陣取って心は猛く、樊カイ
の勇みをなされたが、敵は猛勢3万余騎、味方は5千に満たなかった。殊に頼みの香川・安富・

久米・川村は高国へ降参致したので、三好之長は叶わないと5月5日に賀茂の祭りを見捨てつつ
方々へ落ち行きなさった。そうして三好之長父子3人は曇華院殿へ忍び申されたのである。

澄元(細川澄元)は摂津伊丹城で御歓楽されていたが、京の合戦のことを聞こし召し、他を差し
置いて同7日早朝より生瀬口へ落ち行きなさったところ、瓦林対馬守(正頼)は堺津にいたが、

早くも船を拵えて渡海し、逃げなさる御跡を追っ掛けて雑兵以下2百人ほどを討ち取った。しかし
ながら澄元は支障なく播磨へ御退きになった。瓦林方より数々の首が京へ上げられ高国の御感あり。

さて三好之長父子3人は運が尽きてしまったのだろう、その夜の内にどこへも落ち行きなさらず
曇華院殿に忍びなさることは隠れなく、この寺を二重三重に取り巻かれたため、之長父子3人は

腹を切らんとなされたが、「今一度命を長らえねば」と思いなさり、高国へ御詫言を申されて、
誠に儚きことだが降参に参られた。子息・芥川次郎(長光)と同じく弟の孫四郎(三好長則)が

まず寺を出て同10日に高国へ御対面なさり、上京安達の宿所へ入りなさる。同11日に高国は
之長と三好新四郎(新五郎)も御許しになるとして、両人は曇華院殿を出なさった。

しかし、淡路彦四郎殿(細川彦四郎。父は淡路守護の細川尚春で前年5月11日に之長によって
殺害された)が「まぎれもない親の仇だから」と申し乞いなさり、之長は上京の百万遍(知恩寺)

で腹を切りなさった。三好新四郎がその介錯をして、御自身も腹を切った。淡路守殿(尚春)の
迎えり月(一周忌?)にこのようになったため、「ただ人間の因果が巡るのは早きものかな」と

人々は申したのである。同じく子息の次郎と孫四郎のことも、彦四郎殿より高国へ色々と申され、
「降参人を殺すのはいかがなものか」と高国は思し召されたが「それならば生害させなされよ」

と御返事があったので、彦四郎殿の御家来衆はかの兄弟の宿所へ同12日に押し寄せて「御親父
の之長は昨日百万遍で腹を切りなさった! 方々も只今腹を切りなされ!」と申したところ、

兄弟は親のことを聞いて涙を流して、「同じ腹を切るならば一緒に死んだというのに」と嘆き、
ややあって申して「人々よ、しばらく御待ちくだされ。国へ文を送りたいのです」として硯を
乞うと、2人は思い思いに書き留めてある人の方へ渡された。

その有様は、古の早離・即離兄弟が海岸波濤にいた時(南伝大蔵経の説話)もこうだったのかと
思い出されて、一段と哀しみも大きなものであった。そうしてまずは孫四郎が腹を切りなさり、

次郎が介錯をなさった。その後に御自身も腹を切られ、次郎が「侍はお互い様、誰でも介錯なさ
ってくだされ」と申されると、しばらくして槍長刀でその首を取った。

見た人が皆々涙した出来事や、かりそめながら人が死んだ出来事はこれまで七千余(大蔵経)に
記されている。もしこれを御覧なさった人は念仏の一遍も御唱えして供養なさって頂きたい。

あなかしこあなかしこ。

――『細川両家記』



621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/22(木) 04:46:27.17 ID:pTCzHqK1
>>620
息子たちの別れの手紙はちゃんと届けられたのかな?
硯を渡すくらいだから届けたとは思うけど

高国近江落ち

2018年03月16日 15:59

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 04:26:55.72 ID:l34Vc7iF
このため高国(細川高国)は丹波・山城・摂津国に触れを出しなさり、同年(1519)11月21日、
都を出立され、同12月2日に池田城へ御着きになった。越水城の御詰のために小屋野間九十九町・

高木・河原林・武庫・寺部・水堂・浜田・大島・新田・武庫川の方面に上から下まで陣を取り続けて、
折々合戦なさったのである。年は暮れて永正17年(1520)庚辰になり、1月10日に高国より

諸陣へ触れを出しなさり、2万余騎で打ち出た。諸口では合戦が終日あり、高国方の丹波守護代・内藤
備前守(貞正)は火花を散らして合戦され、切り負けて2百人ほどが討たれて退却した。阿波衆も百人
ほどが討死し、双方手負いは数を知れない。また高国方の摂津国の住人・伊丹兵庫助国扶は中村口へ

攻め掛かり、木戸や逆茂木を切り落として内へ込み入って申の刻から酉の終わりまで合戦し、伊丹衆は
打ち勝って阿波衆の首50余を討ち取り、勝鬨を作って制圧した。また同日に城中より、正門の木戸を
開いて2人の者が「我ら当国大島の住人、雀部与一郎!」「同しく弟の次郎太郎!」と名乗り、

「高国のため、また家のために命は惜しくない! 敵方は誰でも寄り合いなされ!」と、大声で叫ぶと、
澄元方の田井蔵人が名乗り寄せて切り合ったのである。雀部は切り勝って蔵人の首を討ち取ったが、

雀部兄弟も痛手を負って城中へ入り、それから4,5日して死去したのだった。対馬守(瓦林正頼)を
始めとして上下ともに惜しまぬ人はいなかった。城中では月日を送るにつれて気力を失い、

同2月3日の夜半に対馬守は安部の蔵人と談合して、城を開けなさった。この時、若槻伊豆守は老体で
あったため「どこまで」と思い切り、腹を十文字に切って死去した。

これにより後詰勢の衆は地田・伊丹・久々知・長例・尼崎へ引き籠った。そのため澄元方の三好筑前守
之長は難波へ陣取りなさる。他に澄元方は小屋・富松・生島・七松・浜田・新田へ陣取り、同16日に

1万7千余騎で尼崎・長洲へ攻め掛かり合戦となった。大物北の横堤には、高国方の香西与四郎が打ち
出て、三好孫四郎(長則)と渡りあって太刀打ちし、双方名を上げなさった。その日は暮れて雨も降る
ので両方は互いに退いた。このため高国は叶わないと思し召し、城々へ仰せ合わせられて、その夜中に

高国方は一同に京へ上りなさった。このような成り行きは「1月10日は西宮の御狩神事の日である。
“居籠”といって人音もしない日だというのに、攻め掛かけなさった御罰である」と人々は申した。

されば落武者の哀しさよ、高国は京にもいらっしゃらずに近江国へ落ち行きなさった。今度は公方様
(足利義稙)は澄元に一味して京におられた。さて伊丹城の中では伊丹但馬守と野間豊前守の2人が

申して「当城はこの数十年の間、諸侍や土民以下の者たちが苦労して拵えたというのに、その甲斐も
なく逃れては口惜しいことよ。我ら2人はこの城の中で腹を切ろう」と、四方の城戸を閉ざして家々
へ火をかけ、天守で腹を切った。これまた剛なる人かなと感心しない人はいなかったのである。

――『細川両家記』


越水城の戦い

2018年03月15日 21:30

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/15(木) 05:11:26.73 ID:0dI25yIH
時に永正16年(1519)己卯歳、秋の頃より澄元(細川澄元)は四国と播磨の勢を催して切り
上らんとの御談合をなされた。御家中の摂津の住人・池田前筑後守(貞正。細川高国方と戦い討死)

の子息・三郎五郎(信正)が申されて「今度、御上洛されるならば、摂津国口の先陣はそれがしが
仕ります!」と申し受けし、摂津有馬郡田中というところへ上って軍勢を揃えていると、高国方の

瓦林対馬守正頼、池田民部丞、塩川孫太郎が相談して、かの田中へ同10月22日夜半に夜討した。
ところが田中の勢へ通じた者がいたため、田中の勢は整えて待って戦ったので、攻め手は案内も

分からず、20日あまりのことなのでとても暗く、雨は降り、さんざんに切り散らされて塩川衆も
瓦林衆も身を変えられぬ人たちが数多討たれて、やっとのことで退却した。池田三郎五郎は首30
あまりを討ち取り、すなわち阿波国へ注進申された。

これにより澄元の御感あって三郎五郎に豊島郡一色を御与えになり、弾正忠になされ申したという
ことである。さて澄元は四国や淡路・播磨の勢を催し、三好筑前守之長の御供で兵庫浦へ着いて、

灘へ上りなさった。高国方の瓦林対馬守(正頼)は今度は越水城に立て籠り、澄元は「まずこの城
を攻めよ!」と、1万余騎で城を取り巻きなさる。澄元は神咒寺の南の鐘の尾山という山に陣取り

なさり、三好・海部・久米・川村・香川・安富は広田・中村・西宮・蓮華畑に陣取って、毎日合戦
なさった。城中には究意の弓ども(弓を極めた者たち)あり。中でも一宮三郎は比類なく聞こえた

者である。それゆえ三郎が矢を十放すれば7,8人に射当ててみせた。攻め手の人々はこれを見て、
例えば異国の養由基、我が国の源頼政や那須与一などの化身ではないかと、

この矢に恐れて月日を送った。そのため一宮三郎は一張の弓の威徳により、長らく御勘当を蒙って
いたのだが今回御許しを受けて、丹波国の本領は申すに及ばず、重ねて御領を賜ったのである。

――『細川両家記』



700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/15(木) 09:54:18.87 ID:Ea6WYNfJ
何気に越水城を検索したら見聞が広がった

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 03:47:30.01 ID:8Nb7SmTw
???「弓を極めたのなら合戦中で最初の警告と最後に残った矢を門に打ち込んだ以外はすべて命中させて一矢で3~4人射抜くくらいできるよな?」

船岡山合戦

2018年03月10日 18:47

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/10(土) 05:34:38.36 ID:3d2Fy6J6
このために澄元(細川澄元)よりもなおさら三好筑前守之長は無念に思い、都への望みをなさった。

さて、永正8年(1511)辛未7月に、澄元は武略を巡らせて赤松殿(赤松義村)を御頼みになり、
播磨勢を催しなさった。先軍の大将には、御一門の右馬頭政賢、同和泉守護殿(細川元常)、他にも
山中遠江守(為俊)や諸牢人を御立てになった。

また畠山上総介(義英)より遊佐河内守(順盛)などが立てられた。こうしてまず和泉国へ切り入り
なさった。この由を高国(細川高国)は聞こし召され、「追討せよ!」と摂津国勢を差し下された。
さて、澄元方の諸勢は和泉深井に陣を取り、高国方の諸勢は同万代庄というところに陣取り、同7月
13日に深井へ押し寄せて合戦となった。(深井の合戦)

京の高国方は1万余騎、阿波方は城中には無勢で籠の中の鳥であったという。漏れ出ることができる
様子ではないので、阿波方は思い切り面も振らずに高国方へ切り掛かった。高国方の衆は切り負けて
大将格は皆々討死し、雑兵以下3百余人が死んでしまった。残る勢は和泉堺へようやく逃げ入った。

こうして、その日に澄元方は欠郡中島まで切り上った。このため、淡路守殿(細川尚春)は摂津国
兵庫口へ渡り、灘へ上りなさった。ここに高国方の兵・河原林対馬守正頼(瓦林正頼)は摂津芦屋庄
の上鷹尾城に立て籠った。淡路守殿は「この城を攻めるべし!」と、灘深井というところに陣取り

なさった。この由を正頼より京の高国へ注進申し、高国は聞こし召して今度は馬廻の柳本又次郎入道
宗雄、子息の波多野孫右衛門、能勢因幡守(頼則)、荒木大蔵らをはじめとして30余頭を差し下し
なされた。この人々は思い切って、同7月26日に芦屋河原で合戦となる。(芦屋河原の合戦)

また鷹尾より河原林の手勢を合わせて戦ったところ、京の高国方は打ち勝って、淡路衆の首を百余り
討ち取り、京勢はすなわち明くる27日に上洛してこの由を申し上げられると、高国は聞こし召して、
たいへんな御感であった。このため、播磨衆はこの合戦のことを聞き思案に及びなさったが、

一度約束した上のことなので8月の初め頃に播磨国を立ち、同8月9日に鷹尾城を取り巻き、険しい
谷とも高い岸ともいわずに攻めなさった。そのため城内でもここを先途と戦ったのでその日は暮れて
攻め手も麓へ退いた。しかしながら、正頼は「城の中でこの分では叶わない」と思い、

同10日の夜半に城を開けてしまった。播磨勢は喜んですぐに伊丹城へ取り掛かった。そのため河内
からと播磨からの二手になって京へ切り上ったため、叶わないと思ったのか、

8月16日に公方様(足利義稙)と高国、大内左京大夫殿(義興)は都を他所に見なしつつ、丹波国
へ落ち行きなさった。その後、御談合されてやがて丹波より切り上りなさり、同8月24日、船岡山
で合戦となる。(船岡山合戦)

阿波澄元方は切り負けて大将の典厩政賢、畠山方の遊佐河内守が討死し、この他の人々も1千余人
が討死した。すなわち諸陣が破れたため、御所様(義稙)、高国、大内殿は悦の眉を開き、都へ
入りなさった。播磨勢は播磨伊丹城を攻め戦ったが“一陣破れて残党全からず”という本文の如く、

船岡山合戦のことを聞き同26日に生瀬口へ落ちて行った。此度の合戦において大内方の太刀打ちの
有様を褒めない人はいなかった。

――『細川両家記』


こうして民部少輔高国と申す人を家督に据え申した

2018年03月06日 10:39

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/06(火) 05:14:02.98 ID:j8Oj/9Vd
さて澄元(細川澄元)が家督を取りなさって目出度いところに、御内の
三好筑前守之長や高畠与三らはあまりに無道の振舞いなどがあったので、

「この分ではどうしたものか」と内々に呟かれ、京では奈良修理亮元吉、
摂津では伊丹兵庫助元扶、丹波では内藤備前守貞正が相談し謀反を企て、

「安房守典厩政国の子息・高国(細川高国)を主君となし申すべし」と、
永正5年(1508)戊辰4月9日、六郎澄元に背き申したたのである。
突然のことであったため、澄元はすぐに近江甲賀へ落ち行きなさった。

三好筑前守の子息・下総守(長秀)は伊勢国山田へ落ちなさったところ、
国司(北畠材親)より仰せつけられて生害させられ、(その首は)京の
高国へ上らせられたのであった。

こうして細川安房守の御子・民部少輔高国と申す人を家督に据え申した。
殊に筑紫の御所様(足利義稙)は大内左京大夫殿(義興)の御供により
堺津へ御上洛なされたので、事故もなく崇め申された。そんな折に、

摂津国の池田筑後守(貞正)は澄元方として自城に立て籠ったのである。
高国は聞こし召されて「それならば退治せよ」と仰せになり、

同5月初めの頃、高国方の典厩尹賢を大将にして猛勢が押し寄せると、
筑後守は物の数ともせず戦ったが、同名遠江守が高国へと参られたので、
攻め手はこれに意気込んで、5月10日に堀を埋めさせ厳しく攻めると、

城中より思い思いに切り出て、同名諸衆20余人は腹を切り、雑兵70
余人が討死したのである。「国中に同心する者もいないのに、かように
振舞ったことよ。大剛の者かな」と、感心しない人はいなかった。

――『細川両家記』



585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/07(水) 01:56:03.74 ID:n9jSo1KL
戦国初期も初期

九郎殿は御腹を召され

2018年02月28日 22:31

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/28(水) 02:13:22.65 ID:/FwJ4UQm
香西又六(元長)と薬師寺三郎左衛門(長忠)が天下を我等がままに振舞うところに、
やがて50日ほどあって、同(1507)8月1日に、

澄元(細川澄元)は三好筑前守之長の算段で、甲賀の谷の山中新左衛門を御頼みになり、
京へと切り上った。九郎殿(細川澄之)のいらっしゃる遊初軒へ攻め掛かると、

一宮兵庫助が門より外へ切り出て、手元へ進む兵を7,8騎切り伏せ大勢に手を負わせ、
東西へ追い散らし、そののち自身も討死したのであった。中昔の源判官殿の御内である
武蔵坊弁慶もこうであったのかと思い出される。

さて兵庫助討死の由は、波々伯部伯耆守が九郎殿の御前へ参り申し上げ、「早く早く、
御腹を召され候へ」と申すと、九郎殿は「もとより覚悟のことである。しかしながら、
九郎の父・関白殿(九条政基)と北の御方へ御文を参らせたい」と硯を御乞いなさり、

「このたび丹波にて物憂きことなどがあり、また御二人より先立ち、後生菩提逆さま
に弔われ申さんことの口惜しさよ」と言いなさって、奥に一首の歌を遊ばしなさる。

「あづさ弓 はりてこころはつよけれど 引手すくなき 身とぞ成ぬる」

このように書き留めなさると、鬢の髪を少しそえて涙とともに巻き込め、御自身の文
ながら、ひとしお名残惜しげに御覧になり、局の方へ御渡しになった。そののち伯耆
を御呼びになり、「我はいまだ腹の切りようを知らぬ」と仰ると、伯耆は答えて

「十方仏土とは申しますが、自害と申すものは、まず西へ向かって十念し、御腰の
物を抜いて左の脇に刺し立て、右手の脇へ引き回し、返す刀で御心元に刺し立てて、
袴の着際へ押し降ろします」

と申し、九郎殿は御了承されて御腹を召された。伯耆は涙とともに介錯申し上げて、
そののちに腹を切った。薬師寺三郎左衛門、香西兄弟は皆々討死して朝の露となった。
このたびの討死は170余人である。

さて、その時の有様を局は九条殿へ参って詳しく申され、父の関白殿と北の御方様は
「これは夢か現か。夢ならば覚めてくれ」と、しばし消沈なさった。

ややあって関白殿が仰せになり、「人間に限らず生を受けたものは皆その上々を望む。
鳥類・畜類さえこうであるのに、それに引き換え、我が子は細川の家に養われて家に
疵を作ったことよと朝暮これを思っていたが、このようなことが起こってしまった」

と、御文を胸に当て顔に当て嘆きなされば、その他の女房たちや仲居の人、侍たち、
上下に至るまで流涕し、焦がれなさった。

これがあの釈尊御入滅の折、十大御弟子・十六羅漢・五十二類に至るまで、御別れを
悲しんだのも、こうであったのかと思い知られつつ、他人の袂も涙に濡れた。

このように因果の回ることは、ただ車が庭の中を巡るようなものである。

――『細川両家記』


永正の錯乱

2018年02月25日 17:26

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/25(日) 05:53:09.00 ID:oc9UB2Xe
同2年(1505)乙丑夏の頃、六郎澄元の御迎のためとして薬師寺三郎左衛門(長忠)が
御使になり阿波国へ下された。御約束のことなので澄元は御上洛し、

御供には三好筑前守之長、高畠与三などを召し連れなさって御上洛された。京童たちは
これを見て「これこそ細川の2つにならんずるもとぞ」と、ひそひそと申した。

そして政元は九郎殿(細川澄之)へ丹波国を差し上げ、かの国へ下向させ申されたので、
九郎殿はいよいよ無念に思召されたところに、魔の業ではないだろうか、

政元42歳の時、永正4年(1507)丁卯6月23日の夜、御月待の御行水をなさっていた
ところを、御内の侍である福井四郎と竹田孫七新名という者たちが、薬師寺三郎左衛門、
香西又六(元長)兄弟に同心して政元を誅殺し奉った。

そのため都は誰もが「これはさてどうなってゆくとも分からない」と騒ぐことは、中々申し様
もない有様であった。さてこの頃の政元は近国を切り取らんと、赤沢宗益(朝経)を御許し
になって丹後国へ遣わされ、この他に軍兵を相添えなさっていた。

河内国へは摂津上下の国衆を出立させなさって切り取り、大和国へは宗益の弟・福王寺、
また喜島源左衛門、和田源四郎を遣わせて切り取りなさっていた。

ところが、政元御生害のことが風聞したので国々の諸陣は破れ、国々にて大将格の人々
は腹を切って討死した。その数は3千余人と申す。

しかしながらこの企みは薬師寺三郎左衛門と香西兄弟が談合して、丹波にいらっしゃる
九郎殿を御代に立て天下を我等がままに振舞おうとの企みにより、かの3人が相語らい、
政元を誅し申したのである。

同じく六郎澄元をも誅し申すべしと、澄元がおられる御屋形へ明くる24日、薬師寺と香西
は押し寄せて終日に渡り合戦した。両方の手負い死人は数を知らず。

上京の百々橋では、澄元方の奈良修理亮が名乗って香西孫六と渡り合い、太刀打ちして
孫六は討死する。修理亮は手負いて屋形の内へ退いたのだった。その高名の振舞いは、
澄元や筑前守を初めとして感心しない者はいなかった。

合戦が夜に入ったので両方は互いに退き、澄元はここでは叶わないと思召してその夜に
近江の甲賀へ三好筑前守之長の御供で落ち行きなさった。案の定、相手方は九郎殿を
都へ上らせ奉り、細川の家督へ据え申した。

――『細川両家記』


細川の流れが2つになってしまう原因

2018年02月20日 16:23

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 04:19:24.31 ID:pTzW/K4q
さても世間の有り様を見聞すると、その道のならぬこと多し。

諸法をもっぱらに行うべき僧形は兵具を帯び、また弓箭を旨とすべき大俗は顕密の
両流に立ち入り、座禅の窓に心掛けている。まことに風変わりな時節である。

さて、この類ここにあり。

細川右京大夫政元と申す人は都の管領の職をお持ちになり、天下の覚え隠れなし。
しかしながら、細川の流れが2つになってしまう原因であったということだ。

40の齢に及ぶまで夫婦の語らいなきゆえ、御子は1人もいらっしゃらなかった。
常には魔法を行って近国他国を動かし、またある時は津々浦々の御船遊びばかり
行っていたのである。

そのため家子や老衆は詫言し、ある時に皆々相談して、かたじけなくも九条関白殿
の末の御子(細川澄之)を申し受けなさり養子となし奉った。すなわち政元の幼名と

同じく聡明殿と申した。光陰を送り程なく御成人され、御元服されて九郎殿と号し、
皆々深く慕い申し上げた。さて政元は何と思召されたのか、御心中は相変わって、

「よくよく物事を考えると、我が家は一門中の誰かが持たなければ良くないであろう」
と思し召した。阿波国に住みなさる細川讃岐守(成之)は御出家なさって慈雲院殿と
申し、この御孫に六郎澄元という人がいた。

政元は「この人を養子にして我が家を譲りたいものだ」と思し召し、摂津国守護代の
薬師寺与一元一を御使にして阿波国へ差し下した。与一はたいそう畏まって兵庫の
浦より船に乗り、絵島明石を打ち眺め、鳴門の渡りを漕ぎ過ぎて阿波国へ到着した。

慈雲院殿へこの由を申し上げると、入道殿は聞こし召して「どうしたものか」と、暫く
御思案されたが、与一は武略を巡らせて漢家本朝の例を色々と申されたので、

斟酌ながら御了承されたため、与一は御返事を頂き、時の面目を施して都へ上った。
この由を申し上げると、政元は御悦びになること限りなし。

――『細川両家記』



545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 11:21:32.09 ID:/W40+KPc
あれ?一人足りないぞ?

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 13:54:30.42 ID:QeNsa6BB
俺のことか!

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 23:20:28.14 ID:jlZaj6kt
???「なんか足んねぇんだよなぁ」