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そこで法体となり“実 休”と呼ばれ

2019年05月13日 15:38

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/12(日) 21:10:14.32 ID:kaPKSgKx
勝瑞事件後)

さて、細川殿(細川持隆)の妾である岡本美濃守の娘・小少将の腹に男子1人あり(細川真之)。
実休(三好実休)はこれを聞いて男子を主君と仰ぎ、母儀を内室とする。そこで法体となり“実
休”と呼ばれ、殺奪の罪を補った。

――『三好別記』


一、実休は計りをなして讃岐守持隆の子息・掃部頭を取り立てる。掃部頭は阿波国の屋形に居住
  致したけれども、事あるごとに実休の所為に任せたのだという。

一、細川讃岐守持隆の妻女は周防国大内介(大内義興)の息女である。(持隆の自害によって)
  故郷に帰って、発心なされたのである。小少将という持隆の妾女は、岡本美作守の娘である。
  (持隆の)男子を1人生んだ。実休はこれを娶って妻とし、また男子2人女子1人を生んだ。
  長子は彦次郎長治、次男は孫六郎存保(十河存保)と称す。

――『三好家成立記』











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三好実休、良かれと思って

2016年09月25日 17:30

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 17:22:56.44 ID:WSppQdy/
徳雲院様(細川持隆)の北の方は、周防の大内殿の娘であった。
彼女は、岡本美濃守の娘の小少将殿と申す人を小女房として奉公させていた。
ところが北の方には御子がなく、持隆は小少将殿に目をかけられ、やがて若君一人(細川真之)を産んだ。

三好実休細川持隆を切腹させた後、「主君に御腹召させたのは天道恐ろしき事であり、
この若君を置いて前々のように主君として崇めよう。」とし、そうして小少将殿を自身の
妻に据えた。やがて実休とこの小少将の間に子ができた。この子は幼名を千代松といい、
烏帽子名は彦次郎。御名乗を長治という。

(三好記)

三好実休、良かれと思って細川真之を擁立し小少将を妻にした、というお話。なお



120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 19:39:11.35 ID:OjONIPR6
ワハハ奸婦め!

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 21:01:41.34 ID:pd/6K8CZ
小少将はサゲマンという説が(元親の側室は単に同名のようだけど)

「小少将」の犠牲者の一覧
細川持隆 小少将の最初の夫。細川真之を設けたが、家臣の三好義賢に殺害された。
三好義賢 細川持隆謀殺後に小少将を嫁にして三好長治と十河存保を設けるも、久米田の戦いで戦死。
篠原長房 三好義賢戦死後に弟が小少将を嫁にしたが、弟の讒言により三好長治に攻められて敗死。
三好長治 小少将と三好義賢の子。小少将と細川持隆の子で異父兄の細川真之に討たれた。
細川真之 小少将と細川持隆の子。小少将と三好義賢の子で異父弟の十河存保に討たれた。
十河存保 小少将と三好義賢の子。小少将が側室になった長宗我部元親と共に参加した戦いで戦死。
長宗我部元親 小少将を側室にした四国の英雄。その後長男が九州で戦死し後を追うように病死。
長曾我部右近太夫アンド十河存英(存保の息子) 共に大坂の陣で大坂方について死亡

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 21:41:39.15 ID:YOONVF6X
       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩< 嫌な奴に小少将を押し付ければ!
    (つ久秀丿 \_________
    ⊂_ ノ
      (_)

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 21:46:31.79 ID:OjONIPR6
>>121
篠原長房じゃのーて一族の自遁な

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 21:51:16.34 ID:OjONIPR6
サゲマンて言うなら通じた奴の名で十分やろ

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/26(月) 21:50:10.39 ID:baLYiMg9
篠原長房の弟が自遁だから、>>121も>>123も合ってるよね。
一宮長門守(成祐)は後に三好実休(義賢)と小少将の息子三好長治を殺す側に回ってる。
一宮長門守(成祐)の妻である三好実休の妹はこの後どうなったか三好記に記述はありますか?

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/26(月) 22:01:51.02 ID:8NuzwDHO
>>126
残念ながらサゲマンというのはエッチした男じゃないとその効果は発揮しないのだよ
だから篠原長房の死は小少将とは無関係であって自遁にとって長房の死は得なのでサゲマンじゃのーてアゲマンとなる

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/26(月) 22:34:56.02 ID:baLYiMg9
>>127 そっちの話ね。失礼しました。

ところで阿波の小少将については、息子たちを仲裁しようとして細川真之の元に
行く途中、真之の家臣たちに襲われて落命した話もあるようだけれど、
これも出典が分からない。

三好長治の最期

2015年03月09日 18:42

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/09(月) 09:41:18.66 ID:x1Ydy5is
阿波の三好長治は大酒遊覧を好み、甚だ無道な人物であった。
天正3年(1575)5月5日の夜、長治の屋形の上に、五丈(約15メートル)ばかりの巨大な山伏が現れ
終夜立っていた。
同7日酉の刻、西方より光る物体が複数現れ、相戦って消えた。
同18日、宵より彗星が出現した。その光は月日のようであった。
同夜、月明かりの無い中、大麻山より大船が二艘虚空を渡り、焼山寺の峰にかかったところで消えた。
人々は皆、いったい何事が起こるのかと恐れた。

長治の異父兄である細川掃部頭(真之)殿は、長治が驕り、様々な無礼をすることに遺恨浅からず、
これによって天正4年12月5日の夜、勝端城を忍び出てた。お供は仁木伊賀守、林喜内、そして中間2,3人ばかり
召し連れ、伊井谷まで落ちて福浦出羽守を頼った。
福浦は、里に近い場所では危険だと思い、仁宇山の奥に要害を構え真之をここに隠し置いた。
細川真之に旧功の侍である大栗右近、服部因幡、森監物、粟田宇右衛門、中津野六郎左衛門、
その他義士が数多集まりこれを守った。

三好長治はこのことを知ると軍勢を集め、天正5年3月上旬に荒田野口に在陣した。
ところが仁宇川は難所であったため、寄る事もかなわず徒に日を送った。

そういう所に細川真之勢は、一宮長門守成助、伊澤越前守頼俊を大将として後詰を仕掛けた。
三好長治の勢はこれは叶わないと判断し、火縄銃も残したまま、長治は重臣の篠原玄蕃頭の今切城に
引き退いた。そして篠原と相談し、再び軍勢を集め仁宇川まで押し出そうとしていた所に、
細川真之を大将として、一宮、伊澤、吉井左衛門大夫行康、多田筑前守吉次らが二千騎あまりで
今切城に押し寄せた。

篠原玄蕃は叶わぬと思い、城を捨て郡勘助の宿所へと逃げ落ちた。勘助は篠原を浅い古井戸に隠したが、
その上でこれを敵に知らせ討たせた。

一方、三好長治は土佐の国人である森志摩守を頼り落ていった。
長治と森志摩守は合図を決め、助任川に迎えの船を遣わしたが、その時期、弥生の雨の名残で
霧に霞み、船の水主が山を見違えて佐古の山下に乗り入れてしまった。
長治は助任川で迎えの船を尋ねたものの、これを見つけることが出来ず、そのため別宮へと移動し、
その里の庄を頼った。しかし里の庄は敵方に注進した。
一宮、伊澤ら二千騎あまりの細川勢が馳来て長治の宿舎を十重二十重に取り巻くと、
長治は最期の時世に

 三好野の 梢の雪と散る花を 長治とや人の云らん

そう詠んで天正5年3月28日辰の刻、自害して果てた。姫田佐渡守の介錯であった。
浜隠岐守、梶井又五郎(18歳)、原弥助正道も同じく自害した。

三好式部少輔康俊という人があった。彼は長治所縁の者で近習を勤め、長治に折々諌めたため、
金言耳に逆らうの習いだろうか、外様のような扱いをされていた。
しかし昔の情を感じ、一首を詠んで共に自害した。

 三好野の 花の数にはあらねども 散るには洩ぬ山桜哉

(三好家成立之事)

三好長治の最期についての記録である。




543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/09(月) 10:34:31.57 ID:y02EE4gA
真之は長宗我部の支援を受けてるのに土佐に逃げようとしたのか

三好長治の最期

2013年04月01日 19:58

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/01(月) 00:47:06.98 ID:H78FbwLS
三好長治の最期

対織田戦線を主導していた篠原長房父子を滅ぼした三好長治だったが、
篠原父子討伐にかつて長治の父・実休が滅ぼした阿波守護・細川持隆の子
真之を担ぎ出したため、、阿波守護細川氏の軍事動員権復活を許してしまう
事態となった。さらに篠原父子を討ってまでして模索した織田信長との
和睦工作(※)も不調に終わってしまうなど散々な結果になってしまった。

※長房討伐の少し前には、十河存保が織田信長と接触を図っている。
  長治も信長に和睦を請うているが、結局拒絶されてしまっている。

やがて細川真之に攻められた長治は今切城へ逃れ、そこで土佐泊城を拠点とする
阿波水軍の将・森志摩守に救援を要請し、両者は助任川で合流することとなった。
森志摩守は早速船を出したものの、土佐泊から海を廻って河道に入り助任川へ入る
ルートは河道が複雑で潮流の見極めが難しかったらしく、志摩守の出した船は誤って
助任川よりも南の佐古山の麓に進入してしまい、結局長治の待つ助任川へたどり
着くことが出来ず、結局両者は合流しそこねてしまった。

やむなく長治は別宮浦へ向かったが、別宮浦一帯は土佐泊や撫養に比べて、三好
氏の支配が深く及んでおらず、結局長治はこの別宮の里長に密告されてしまい、
自害に追い込まれることになってしまったのだった。

水軍が道を誤ったために長治の予定が狂い、結局追い詰められて自害する羽目になった
というちょっと悪いお話。ちなみに、森志摩守は水軍の長という特殊なポジションから、
蜂須賀氏の阿波入国後も旧三好氏系の豪族ではほぼ唯一、その地位を保ち、蜂須賀水軍の
将として幕末まで阿波藩の上士として存続している。




140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/01(月) 02:21:08.23 ID:mvZbEfP1
吉野川の河口部はいまでも迷路みたいだな

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/01(月) 06:57:32.95 ID:Km/1NTLe
うわーまよっちゃったわーこれじゃえんぐんまにあわないわーこまったわー(棒

三好長治の治世は混乱を極め

2011年11月07日 22:00

862 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/11/06(日) 21:46:02.01 ID:CmBgDe5Y
 細川管領体制の領国経営が戦国期に入っても生き残っていた畿内、及び東四国では、
領内の諸豪族が代々受け継ぐ所領が当然の権利として継承される傾向にあった。
 例えば讃岐国の場合、東讃は安富氏が守護代を司り、香西氏や寒川氏、植田氏らを傘下とする。
 一方の西讃は守護代香川氏のもと、奈良氏らを傘下に置く。

 この体制は時に大内や毛利の干渉を受けつつも不変であり、
諸家は互いに争いつつも概ねの所領は父祖代々の範囲を維持しつつ戦国後期を迎えつつあった。

 さて、先に上げた讃岐諸氏の内、東讃守護代たる安富氏は些か不本意な立場にある。
 というのも守護代の地位にありながら安富氏の本領は雨滝城を中心とした三木郡一郡のみであり、
西讃守護代香川氏の三郡支配に及ばないどころか、東讃内で四郡を支配する香西氏にも大きく水を空けられていた。
 この為、安富盛方は細川家の混乱が募るとはじめ大内義隆に属して寒川氏と争うが、
これは阿波守護細川持隆の命を受けた三好義賢・十河一存兄弟の援兵もあって失敗、再び細川家に帰参する。
 しかしその持隆が義賢に殺害されると盛方は三好家に接近、特にその重臣篠原長房の娘を嫡子盛定の妻に迎え、
元亀元年に三好長治の後ろ盾を得て寒川元隣を恫喝、大内郡を接収することに成功した。
 これは三好氏に忠実であった安富氏を中心に讃岐支配を立て直すことと、特に篠原長房の所領と安富氏の領地を
直接連結するために大内郡が必要であったからだともされている。

          === ここまで前史 ===

 さて、こうした三好氏の慣例を無視した動きを、当然讃岐の諸氏は快くは思わなかった。
 特に激しく反発したのが、もともと細川京兆家の与党であり三好一門とは度々干戈を交えた香川元景である。
 さらに十河一存、存保に忠実であった香西佳清も呼応した。
 ちょうどこの頃、三好長治の治世は混乱を極めている。
 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5441.htmlのような事件を讃岐国内で発生させたばかりか、
元亀四年(天正元年)には良くも悪くも三好氏の柱石であった篠原長房が長治の不興を買って故なく誅殺された。
 この前後には反信長包囲網の一翼として摂津や備後の織田方への攻撃と敗北が重なるなど、軍事的失敗も重なった。
 方向性定まらず、暴虐の度を深める長治の治世に讃岐の人心はますます三好氏から離れて行き、
 ついに元景、佳清両名は同二年に長治の実弟十河存保に最後通告を叩き付けるのである。

863 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/11/06(日) 21:46:49.62 ID:CmBgDe5Y
「存保くんへ。
 阿波と讃岐は細川公の支配からずっとなんだかんだいってみんな仲良く共存してきたよね?
 でも去年、こないだくたばった篠原の野郎が安富のボケと吊るんで寒川くんから伝来の領土奪ったじゃん。馬鹿なの?死ぬの?
 あのね、そんなことやってると阿讃の諸将は三好さんから離れてくよ? 篠原ぬっ殺したなら大内郡は寒川くんに返してあげてよ。
 別に僕らは三好さんに異心はないけど、今後を思って忠告だけはしておくから。忠告だけは、ね」

 この書状を受け取った存保は事態の深刻化を大いに憂え、すぐさま使者を立てて長治の非道な振る舞いを諌めようとした。
 それを受けての長治の反応。

長治「そうか、よし、殺す」

 ごらんの有様だよ!
 長治は早速六千の兵を仕立て、三好越後守に香西氏を、矢野駿河守に香川氏をそれぞれ攻めさせた。
 存保や彼の配下の讃岐諸将の名前がこの攻撃に一切出てこないあたり、どうやら長治の単独行動だったようである。
 そして派手に負けた。割とどうしょうもない。
 かくしてこの時より讃岐の西半分が三好方より離反し(東讃の香西佳清はのち十河氏に帰参)、三好家の軍事力は激減した。
 十河存保は讃岐での巻き返しに躍起となりつつ、長治の暴政に諫言を続けていくのだが、
その甲斐もなく分国領民へ法華宗への改宗を強要するなど迷走の末に異母兄細川真之に長治が討たれるのはこの四年後のことである。

うっかりageちまったすまん




864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/07(月) 00:03:51.72 ID:peYfAzZ2
もうなんつーか…。
これは酷いとしか言い様が無いな。