FC2ブログ

小出吉政ノ内通

2018年07月19日 17:56

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/19(木) 16:28:39.69 ID:byt+X2Jt
小出吉政ノ内通

7月26日(1600年)、忠興君は(細川忠興)“ふき”という宿に御泊りになった。
同27に上蓑<一本ニ上美濃>の方へ赴きなさったところ、向こうから来た者が下馬した。

「誰の御衆で候か。乗り通られよ」と御使者を遣わされたところ、「小出大和守吉政より
家康公へ使者に下り申した。その途上にて(忠興に)御目にかかって次第を申し上げよと

吉政が申し付けました」とその者は申した。「もしや敵方の者が関東の様子を窺おうとの
術ではないか」と忠興君は思し召し、玄蕃殿(細川興元)は吉政と常に睦まじい間柄で

あったので御見知りであろうとして、その旨を仰せ渡された。興元主は在家に入ってその
者と対面なさると、かねてより御存じの者であった。さてその口上は、

「今回心ならず丹後の攻衆に加わり申した。御城中への御用がありましたら大和守の手へ
人を御遣しください。通路を用意仕ります。また大坂の御屋敷は7月17日戌の刻ほどに

火にかかり、御簾中(細川ガラシャ)は御自害されました。忠隆公(細川忠隆)の御奥様
は乗物三挺でこちらの御屋敷の前を御通りになり、前田肥前守殿(利長)の屋敷へ御入り

になったのを見申した」とのことだった。これに玄蕃殿を始め御前様(忠興)は御義心を
感じ、各々落涙された。忠興君もいっそう石田(三成)の無道を御怒りになり、

「すぐにも三成を滅ぼして復讐を果たす!」と、ますます恨み深く思し召されたのである。

――『日本戦史 関原役補伝(細川家記)』


スポンサーサイト



徳川秀忠の御咄の衆(安西衆)

2016年08月20日 17:38

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 06:20:58.88 ID:AuGd7sRl
徳川秀忠の御咄の衆(安西衆)

立花立斎(宗茂)…九州のことを良く知っている。

九鬼大隅守…水軍のことを良く知っている。

脇坂中書(安治)…四国のことを良く知っている。

平野遠江守(長泰)…太閤のことを良く知っている。

佐久間備前守(安政)と同大膳(勝之)
…北国ならびに奥州のことを良く知っている。

細川玄蕃頭(興元)…上方のことを知っている。

――『武功雑記』




93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 07:20:42.29 ID:eKeT/cdb
で、どういった話を聴いていたのかな?

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 09:34:13.86 ID:if6gLazI
>>92
丹羽長重「あれ、僕は・・・」

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 10:07:10.99 ID:s01bNQ/W
>>94
秀忠<「棚倉で藩主にしてやっただろ。不満?」

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 11:07:08.14 ID:p+lYpupN
>>92
九鬼大隅守って蘇ったのか?

あの兄弟が振る舞いに

2016年03月26日 17:47

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 11:26:39.93 ID:sD2szMy3
天正5年(1577)の、松永久秀による信長への反乱に従い、松永久秀の与力である海老名某も、
河内国片岡城に立て籠もった。これに対し信長は、長岡(細川)藤孝父子、惟任(明智)光秀、
筒井順慶に「3人で押し寄せ、蹴散らせ」と命じた。
これにより十月朔日未明に、この3名による片岡城攻めが始まった。

ここで、長岡藤孝の嫡男與一郎(細川忠興)15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳、
この兄弟が真っ先に駆け入った。

しかし片岡城の者達は河内国でも聞こえ有る兵であったので、全く騒ぐことなく彼らを防いだ。
しかしこれを見た長岡家の郎党たちは「あれを討たすな!続けや!」と我先に駆けつけ、これもあって
兄弟は良き兵たちを討ち取り、それを見た藤孝は両眼をうるませた。

筒井順慶、惟任光秀もこれを見ると、士卒に向かって
「あの兄弟が振る舞いに、恥じない者は居るか!?この程度の城にいつまで手間取っている?
早々に乗り入れろ者共!!」
そう大音声を上げ目を怒らせて罵ると、皆々「尤もである!」と螺鐘を鳴らし喚き叫んで攻め入った。

それでも片岡城の兵たちは、義を重んじ命を軽んじて「一歩も引くな!」と、
それぞれが担当した場所から少しも引き退かず防ぎ戦った。しかし織田勢は新手を入れ代わり立ち代わりに
攻め立てさせたため、死傷者多く出て残り少なくなると、「今や叶わじ」と思ったか、城主の海老名は
腹を十文字に掻っ切って伏せ、残る兵たちも、みな思い思いに自害して、同じ枕に臥した。

信長は與一郎、頓五郎の働きを聞くと、即座に感状を下した。
兄弟が感状を頂戴したことは、天晴勇々の事であると、羨ましがらない者はいなかった。

(甫庵信長記)

細川忠興・興元兄弟の片岡城攻めのお話



536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 13:42:16.65 ID:EmgUfXaA
片岡城て大和じゃないのか?

細川忠興「おかしくてたまらぬ」

2013年09月04日 19:53

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 04:27:47.17 ID:P8HCoiTH
恒例の細川忠興から忠利宛の書状ネタ。
 
  あの茶釜を(忠興弟の)興元が欲しがっているようだが、おかしくてたまらぬ。
  興元にあの良さがわかるはずがない。
  あの釜は貴方が思っている以上に良い物だ。
  他の者にやるなどと言わず、是非とも自分に譲って欲しい。
  興元には別の釜をやればいい。

忠興、興元兄弟和解後の元和期に書かれた書状だが、
利休高弟の自負心溢れるいかにも忠興らしいお手紙でした。




270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 09:27:57.80 ID:yDSF2cya
本当に良い釜だったのか?ただの興元さんへの嫌がらせなのか?それが問題だ

『封域分数貢税誌』

2013年06月28日 19:51

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/28(金) 17:07:50.49 ID:xlmzqz8w
ある時細川幽斎が、次男の頓五郎殿(興元)に、このような事を語った

「古の、室町将軍義満公の御時、日本の国々の、大小、上下、方角、米高、名物、等を調べさせ、
記録された、その書の名を『封域分数貢税誌』という。
この書は先祖より伝わり我が家にある。今、当国(丹後)の事を調べてみたが、国の形容、
全く違わず書かれていた。」

そう言うと、この抜き書きを頓五郎殿に与えたそうである。
(丹州三家物語)

忠興にはどうしたのだろう…?と思わせる逸話である。
しかし足利義満の時代に本当にそんな書物が編纂されていたとすれば、現在に残っていたら
もの凄い重要な史料になったのに、おしい。




970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/28(金) 19:19:21.27 ID:la3ElqeK
忠興は別の細川家を継ぐ身で
藤孝の細川家は所領もろとも興元に継がせる予定
少なくとも当時の藤孝はそのつもりだったという事かと

973 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/06/28(金) 22:45:28.93 ID:pYm2hN06
>>969
室町幕府の貴重な史料は応仁~明応のゴタゴタで消失したのが多いからなあ。

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 00:30:46.73 ID:K2g9GWNi
「細川家には、昔はもっと良い宝物があったんですが、戦争でかなり焼けてしまったんですよ。
いやいや太平洋戦争の時ではなく、応仁の乱の時ですがね」

とのちに子孫が語ったのである

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 00:42:29.55 ID:a/5/lKhC
細川家が平成の世に天下取るとは忠興さんも予想出来なかっただろう
あっという間に切り崩されたけど

細川忠興、関ヶ原前夜

2013年05月26日 19:04

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/25(土) 20:25:30.11 ID:WefcJGVz
慶長5年9月14日、関ヶ原前夜の事である。

その未明に、細川忠興の軍勢は、陣屋の外から東軍の諸隊が陣替えを行なっている様子が見え、
これを忠興に報告した所、「どういう事かよく解らない」と述べた所、隼人左馬充殿が御前に上がり
「諸隊は色めき立っております」と報告した。

この時福島正則より、『急ぎこちらにお出で下さい』との遣いが到着し、忠興はそのまま出て行った。
残った家臣たちはこの事を玄蕃殿(忠興弟・細川興元)にも知らせ、そうして何れも陣屋の
小屋の前に出て忠興が帰るのを待った。

すると北の方より、馬に乗り「玄蕃!玄蕃!」と声高に呼びながら、忠興が帰ってきた。
そして小屋前まで乗り付けると、小屋前に居た人々はそのまま立っていた。
ここで忠興は玄蕃に、正則の陣でのことを語った

「太夫殿(正則)の陣所に乗り付けと、太夫殿は手で私を招いた。そこで『こんな時に騒いでは、
下々の気が違う物ですぞ!』と大声で言ったのだが、太夫殿が言われたのは

『吉川(広家)の所から黒田(長政)の所に申越した所によると、昨日は毛利は、東軍の
お味方をすると言ったのであるが、今夜になって治部少輔(三成)が大垣から関ヶ原へと廻り、
色々と仕掛けたため、昨日の状態ならお味方できたのだが、今の状況では、敵対はしないまでも、
御見方も出来ない、』

と言うことであった。」

そして忠興は

「話はこれで済んだ。仕掛けてきた合戦は、ただ受け取るのみである!
急ぎ小屋の前に軍勢を集結させよ!」

そう玄蕃に命じ、また先手の軍勢も、あらかじめ垂井の宿の方に進出させていたため、
忠興はそこから戻らせ、軍勢を伊吹山に続く山際まで移動させ、また黒田長政の備に乗り付けられ、
合戦が始まるまでは、左馬殿(加藤嘉明)、出雲殿(金森可重)、黒田殿(長政)、そして
細川忠興が一所にて、敵味方の状況を観察したとの事である。
細川忠興軍功記)





細川興元「丹羽五郎左衛門(長重)、立花飛騨守(宗茂)の勢の働きは」

2011年01月27日 00:01

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/26(水) 11:07:22 ID:qyIOF+62
珍しく立花宗茂関連の悪い(?)話

大坂の陣の時のこと
細川忠興は弟である細川玄蕃頭(興元)にこんな事を尋ねた

「丹羽五郎左衛門(長重)、立花飛騨守(宗茂)の勢の働きはどうか?」

玄蕃頭答えて

「丹羽、立花の勢は散々の不出来です。前に彼らに良い働きが出来たのは、
それぞれの重臣であった江口三郎右衛門、十時孫右衛門(連貞)が居たおかげでした。
ところが今回はその両人が居りません。そのため、丹羽立花勢は散々の体となっております。」

このように立花の事も散々に言っている細川興元だが、この人の妻は立花宗茂養女(高橋鎮種の娘)
だったりする。親戚なのだ。親戚故にきついのかも知れないが。

ともかく細川興元、丹羽、立花勢の働きを酷評する、と言うお話。




532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/26(水) 11:14:54 ID:eoJXUVWq
>>531
どちらを信用するかにもよるなw
十時さんが有能な人なのはわかるが
でも大坂の陣だと判断しづらいような

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/26(水) 11:15:24 ID:u/iuNDjH
>>531
おおっ、やっと悪い話らしいのが出たなw
丹羽と立花って両方とも改易された者同士だけど
一度組織が吹っ飛ぶと立て直すのは難しいんだろうか?

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/26(水) 13:47:26 ID:msrWOVwI
あれ?大坂の陣の時宗茂前線に出てたんだ

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/26(水) 21:50:03 ID:nEYal3qI
>>531
十時さんっていうと、どこまでも宗茂にもついて行った人ってイメージだったけど、
大阪の陣には居なかったのかね、意外。

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 01:28:11 ID:xTtBHvpr
もう由布も小野もいないから留守番じゃないのかな

>>534
関ヶ原の汚名返上を期した秀忠の護衛

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 01:50:24 ID:q/p6M57N
秀忠もかなり崩されたんじゃなかった?大坂の陣

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 05:26:17 ID:YHbHGYoa
>>540
いや、全く。
秀忠の指示で攻撃した部隊が失敗して家康に怒られるって事態はあったけど。