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滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人である

2019年08月17日 17:01

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/17(土) 10:41:04.88 ID:+dFIgXP4
私(根岸鎮衛)のもとに来る正逸という導引(あんま)の賤僧がおり、もとより文盲無骨で
その言うところも取るに足りないわけだが、その彼が有る時咄た事に

「太閤秀吉の前に細川幽斎、金森法印(長近)、そしていま一人侍していた折、太閤曰く
「吹けどもふけず、すれどもすれず、という題にて、前を付け歌を詠め」
と有った

ある人は
「ほら(法螺)われて 数珠打きつて力なく するもすられず吹も吹かれず。」

金森法印は
「笛竹の 割れてさゝらに成もせず 吹も吹かれずすれどすられず。」

そう詠んだ。秀吉が「幽斎いかに」り聞いた所、
「何れも面白し。私が考えたものは一向に埒なき趣で、これを申すのも間の抜けた事ですが、
このように詠みました。」

「摺小木と 火吹竹とを取りちがへ 吹もふかれずするもすられず」

そう詠じたという。滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人であると見えるが。この事は軍談の書や
古記にも見当たらない。私の目の前にいる賤僧の物語であるので、その誤りもあるのだろうが、
聞いたままを記しておく。

(耳嚢)



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筒井筒 五つに割れし井戸茶碗

2019年07月26日 17:43

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 13:21:54.29 ID:JJznDzuF
世間で『筒井の井戸茶碗』と呼ばれたものは、元々は南都(奈良)の水門町に居た善玄という侘び者が
所持していた高麗茶碗であったが、筒井順慶がご所望され彼の持ち物となり、その後順慶より秀吉公へ
献上されたのである。

ところがどうしたわけか、この茶碗を秀吉公の御前で割ってしまい、御機嫌を非常に損ねられた。
この時、居合わせた細川幽斎がとっさに狂歌を詠まれた

『筒井筒 五つに割れし井戸茶碗 咎をば誰が負いにけらしな』
(謡曲「井筒」の「筒井筒 井筒にかけしまろが丈 生ひにけらしな妹見ざるまに」をふまえている)

そう申し上げた所、殊の外よく出来た歌であると、秀吉公はすぐに機嫌を直されたという。

(長闇堂記)

なおこれは「多聞院日記」天正十六年二月九日条にも記載されており、どうも実際にあった事らしい

参照
秀吉の筒井茶碗と細川幽斎・いい話


117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 14:30:22.88 ID:F4qiylrx
政宗「俺の正宗、振分髪も持ってこようか」

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 16:25:54.00 ID:AwYufllE
幽斎がとりつくろわなかったら誰か死んでいたのだろうか

安国寺肩衝

2019年07月09日 13:25

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:25:24.04 ID:0PpH8yMY
三斎公(細川忠興)は、父幽斎より譲られた肩衝(茶入)を、心にかなわないと安国寺恵瓊へ一千貫で売られた。
その後、安国寺恵瓊が処刑された折、この肩衝は徳川家康公の元に献上された。

ところで安国寺恵瓊の処刑の原因と成った石田三成の乱(関ヶ原の戦い)の時、津田平左衛門(正しくは小平次、
秀政)が家康公に
「天下がお手に入ること必定でしょう、その仕置の際、多数の肩衝が献上されると思います。その中から
必ず拝領をいたしたく思います。」
と申し上げた所、家康公は非常に機嫌よく「そのこと、そのこと」と申された。

合戦後、予想した通りに1日だけで肩衝が16も献上された。この時津田にも新たに領地を与えるとの
上意であった所、「忝ない事ですが、青野ヶ原(関ヶ原)で申し上げましたように、御加増よりも
御茶入を拝領いたしたいのです。」と重ねて言上したため、「尤もである」と、この安国寺肩衝を拝領した。

その後これを三斎公が一万貫で買い取り、中山と銘をつけた。
(筆者注:この時忠興は安国寺肩衝を黙って懐に入れ持ち帰り、後で代銀を届けたという)

この肩衝を見た時、三斎公はこのように詠まれた

 年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山

これは西行法師が関東での修行から帰る時に詠まれたもので、「下るときはまた越えねばならないとは
思っていなかったのだが、今越えることとなった。命が有ればこの佐夜鹿峠のような難所を越えるという
憂鬱な目にも逢うものだ。」という意味である。

この茶入は子息の越中守(忠利)に譲られましたが、後に越中守は金子1600枚で酒井宮内少輔(忠勝)に
売却されたという。

(三斎伝書)

関連
細川忠興と『有明の茶入』
安国寺肩衝・異聞


細川幽斎 酒の歌

2019年06月20日 17:11

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 15:25:51.96 ID:/uTZxkkg
細川幽斎 酒の歌

一切の其の味をわけぬれば 酒をば不死の薬とぞいふ。

二くさ(憎さ)をも忘れて人に近づくは 酒にましたる媒はなし。

三宝の慈悲よりおこる酒なれば 猶も貴く思ひのむべし。

四らずして上戸を笑ふ下戸はただ 酒酔よりもをかしかりけり。

五戒とて酒をきらふもいはれあり 酔狂するによりてなりけり。

六根の罪をもとがも忘るるは 酒にましたる極楽はなし。

七(質)などをおきてのむこそ無用なれ 人のくれたる酒ないとひ(厭ひ)そ。

八相の慈悲よりおこる酒なれば 酒にましたる徳方なし。

九れずして上戸を笑ふ下戸はただ 酒を惜しむが卑怯なりけり。

十善の王位も我も諸共に 思ふも酒のいとくなりけり。

百までもながらふ我身いつもただ 酒のみてこそ楽をする人。

千秋や万蔵などと祝へども 酒なき時さびしかりけり。

――『成功座右銘 名家家訓』

関連
細川忠興作、「酒の歌」


26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 19:27:05.19 ID:G6TF7YnI
天の原 ふる酒みれば かすかなる 三かさも呑みし やがて尽きかも

醒睡笑

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 21:21:20.96 ID:Sm7UgpM6
こんなお父さんだからねじ曲がってしまったんだろうか

松たけの おゆるを隠す吉田殿

2019年06月16日 17:24

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/16(日) 01:09:37.03 ID:0tIddNzO
吉田殿(吉田兼見か)の所有する山に松茸が生えたのだが、松茸の有ることが他所に聞こえると
いろいろと煩わしいと思い、ずっと秘密にしていた。ではあったが長岡(細川)幽斎へは少しばかり
贈りたいと思い「これは私どもの山に生えたのですが、世上には隠しています。ですがあなた様には
進上いたします。どうか他所へは秘密にしておいて下さい。」と遣わされたが、これに対し
幽斎は狂歌を詠んだ

『松たけの おゆる(生える、勃起を隠喩)を隠す吉田殿 わたくし物(秘蔵のもの、男根の異称)と人やいふらん』

(きのふはけふの物語)



172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/17(月) 01:26:50.49 ID:OuOOIOw1
>>170
忠興さんかと思った

よくよく見ればみかどなりけり

2019年06月12日 14:58

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 13:30:11.70 ID:ZQ+gJmmS
ある夜、豊臣秀吉公が夜食にそばがきをご所望なされ、御相伴衆にも下された。
その時ちょうど長岡玄旨(細川幽斎)が御登城され、秀吉公は早速彼にそばがきを据えさせた。
玄旨はその蓋を開けるとすかさず

『うすずみに つくりしまゆのそばかほを よくよく見ればみかどなりけり』
(薄墨で描いた眉のそばがほ(横顔)を、よくよく見てみるとみかど(帝と三角の蕎麦の実をかけている)であった)

と詠んだ
(きのふはけふの物語)



13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 17:45:52.66 ID:/fx/jYnt
まとめの6065
「秀吉がお伽衆に蕎麦掻きの料理を命じたところ」

に「戯言養気集」出典で既出

洛中、洛外の境を、末代まであい定めるべし

2019年04月14日 17:38

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/14(日) 17:23:05.14 ID:zOGc5a2g
豊臣秀吉公に六拾扶桑(日本全国)悉く属し、(天下)一同の御代、四海静謐に治まっていたある時、
秀吉公は法橋紹巴、(前田)玄以法印を召して、密かに洛中、洛外の境を視察した所、東は高倉より
先は鴨川であり、はるかに見渡すと、平々と東山まで取り続き耕作の地となっており、西は大宮より先、
嵯峨、太秦まで見渡す限り田畠であった。南北の際も、何れとも境なく、ただ田舎の在郷のようであった。
秀吉公はつくづくと目を留められて、その後細川幽斎を召してお尋ねに成った

「花の都とは昔より言い伝えられていたが、京都の今の有様は、言語道断、この上もなく衰え廃れているように
見える。洛中、洛外と言っても、どこからどちらだという境もない。その上、内野の上、北野の右近馬場
という森は、興のある面白い場所である。右近が有るなら左近も有るべきことなのに、どうして無いのか。

北はいずれより、南はこれまでという洛中、洛外の境を、末代まであい定めるべし。そのためにも都の
旧起を聞きたい。」

これに幽斎「畏まって候」とあらましを説明した
「そもそも桓武天皇が、延暦三年十月二日、奈良京春日の里より長岡の京に遷りたまひて、
その後十年にして正月中旬に、大納言藤原小黒麿、紀古佐美、大僧都玄珍をつかわし給いて、
葛野郡宇多村を視察させられた所、『つくづく土地の様子を見るに、四神相応の地であります』と
申すにより、愛宕郡にお出でになり、同十三年十一月廿一日に、皇帝(原文ママ)は長岡より
今の京へ遷られました。

されば、四神相応とは朱玄竜虎が守護しているという事で、油小路を中に立てて条里を割られました。
東は京極まで、西は朱雀まで、北は賀茂口、南は九条まで、ただし北は一条から九条までを九重の都と
号します。油小路より東を左近、西を右近と申します。右京は長安、左京は洛陽と名付けられました。
であれば、禁殿(皇居)は代々に場所は少しずつ変わりましたが、先に定め置かれた境目は、些かも違う
事は無かったと見えます。この京へ諸国より一切の貴賤集まり、事を調え、又は帝を守護しました。

そうでありましたが、(足利)尊氏卿の御末、常徳院(足利義尚)、法住院(足利義澄)の時代より
この京はいつとなく衰え始めました。その理由は、山名奥州(氏清)の謀反(明徳の乱)以降、
ややもすれば都が合戦に巻き込まれ修羅の巷と成るようになり、一切の商人たちの、都鄙の往来が
妨げられ、自ずから零落したのだと言われています。都が衰え、政道も廃れたため、田舎はなお一層
恣に我意をふるまって、近代になり国土が穏やかでなくなったのだと言われています。」

この話を秀吉公はつくづくお聞きになり「なるほどそういう事であったのか」と、事の始終をよくよく
お考えになり、「であれば、先ず洛中、洛外の境を定めるべき」と仰せ出され、諸大名に命じて、
東西に土手を築かせ、それから、当時洛中に、民家とともに混在していた諸寺々が、所々に満ちて
立ち並んでいたため、徳善院(前田玄以)に命じて、諸寺共は京極から一町ばかり東へ移転させ、
北は賀茂口より南は六条まで、道の片側に並べて敷地を与えた。

さて賀茂川、堀川は所々に橋を掛けられ、往来の旅人のわずらいも無くなった。
その後禁裏の改修を行い、王法の政が廃れていたのを起こし、また洛中の地子米、公方米などを
悉く御赦免された。
そして秀吉公自身は伏見、大坂に、函谷関よりも固く城塞を拵えられ、諸国の大名、小名を詰めさせ、
都を守護された。

「『万民豊穣の下に住み、七徳の化を得る』とは、今この御代の事である」と、身分卑しい
賤の女や樵のような者たちまで、起きて寝るまで拝み奉らない者はなかった。

(室町殿物語)



801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 16:05:59.24 ID:oj79od0Z
ここで、御土居が出来たのか

三斎は刀を取り、御屋形を抜き打ちに

2019年04月13日 21:37

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 19:26:00.37 ID:IjfD7tgB
丹後には一色という屋形(一色義定)あり。信長は天下を得て後、細川幽斎に丹後一国を与えた。
一色を幽斎の婿にして、幽斎の所領内に僅かな領地を与え、弓木という城に居住させた。

信長死去の明日に三斎(細川忠興)は御屋形を呼び寄せ、手討ちにして城をも取った。御屋形は
三斎の姉婿である。

その時、米田監物という者は刀を持って来て、誤って三斎の右側の傍に置いた。三斎が刀を取る
のに利便が悪く、米田は悟って傍へ行くついでに過ちを装って足で刀を蹴り、取り直す様子で左
の傍に置いた。

そして盃酒の間に三斎は刀を取り、御屋形を抜き打ちに斬ったという。

――『老人雑話』



幽斎はその時第一の買主である

2019年03月24日 14:13

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/24(日) 01:36:06.76 ID:p9uUD9F0
立売の町人が所持する定家卿(藤原定家)筆の新勅撰(新勅撰和歌集)を細川幽斎が求められた時、
値は白銀10錠であった。幽斎はその時第一の買主である。今は烏丸の家にあり。

――『老人雑話』


忠興の母 麝香

2018年09月27日 18:58

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 13:17:03.94 ID:2yVq14zA
細川忠興の妻、玉が関ヶ原の折に壮絶な死を遂げたことは有名だが、
同じ頃忠興の母である麝香も激しい戦いをに身を投じていた。
麝香は夫の幽斎と共に息子の居城である丹後国田辺城の留守を守っていたのだが、
ご存知の通り敵の大軍に包囲されてしまった。
幽斎の指揮の下、三十倍もの敵を相手に城兵達は奮戦したが、その中には武装した壮年女性の姿が。
それは具足を付けて兵達を叱咤激励する麝香であった。この時御年五十五歳。

結局勅命を受け田辺城は開城したのだが、後に嫁である玉の死を知ると衝撃を受け、また深く悲しんだ。
関ヶ原の翌年、麝香は受洗しマリアの洗礼名を授かった。
宣教師オルガンチノの書簡によれば、麝香はかつてキリシタンに対して非常に冷たい態度で接していたという。
そんな麝香が受洗したのは玉の死の影響とも言われる。

忠興の周囲の女性と言えば妻の玉や妹の伊也が有名だが、母もまた激しい人だったという話。



308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 16:03:51.31 ID:9cb7b1Pn
名前なんて読むのよこれ

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 17:16:56.71 ID:41f1YXYa
普通に「じゃこう」と読んでた…違うの?

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 17:41:57.80 ID:DY2JVs++
>>307
戦国時代は妻が武装して手伝うのは当たり前じゃないの?
この手の逸話何度か見たことあるし。と思ったけど珍しいから逸話になるのかな。

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 18:33:05.94 ID:R5OgqE8H
叱咤激励がめちゃくちゃ怖かったのかもしれない

312 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/09/27(木) 19:08:08.55 ID:zo2AY+oz
実父の死で嫁がキリシタン化

嫁の死で姑がキリシタン化

なわけか

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 19:40:08.61 ID:PPuWtRjN
嫁と実母がキリシタン化してしまった忠興ってめっちゃ可哀想な人なのでは…嫁のために宣教師呼んでキリシタン風の葬儀出してあげたくらいには優しいのに

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 20:32:37.31 ID:1TWMicDa
忠興がやさしい、、、、うーむ。

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 21:02:01.94 ID:xn0shDsC
スターリンは優しいおじさんとかポルポトはアジア的優しさとか言うのと同じ

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 21:13:09.07 ID:KIVsCtkv
小田氏治は佐竹に滅ぼされないくらいには名将
大関高増は那須家を滅ぼさないくらいには忠臣
武田晴信は義元存命中に今川に攻め込まないくらいには信義の人

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 22:58:56.49 ID:eTq+O+Z8
>>310
忠勝も、ワシが若い頃は女も武装して戦ったって言ってたな

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 23:20:23.43 ID:usJFDe+8
細川一家激しすぎ。似た者一族なのか

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 19:17:47.74 ID:WbciJMTk
>>307
そういえばまとめの9144
雑談・明智光秀は信長に会う前に城持ちだった?
に、明智光秀が1566年に田中城に籠城した際に沼田勘解由という人物に書き写させた医薬の秘伝の話があるけど
麝香はこの沼田勘解由の姉妹か一族だとか

「ああ天なるかな!」

2018年09月01日 21:21

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 02:23:17.54 ID:raZtNnU0
秀吉の義兵は3万余騎と聞こえ、光秀の狼狽は大変なものであった。丹波亀山の居城を一子・十兵衛光慶に
守らせ安土は明智左馬助に、佐和山は荒木山城(氏綱)に守らせて淀城は修築半ばにして洞ヶ峠まで出張し、

二男の阿古丸といって12歳の者を2度大和の筒井へ送り援兵を請うもやって来ないため、光秀は大いに
恨み嘆いた。味方に来たらずして叶わぬ長岡与一(細川藤孝)も筒井順慶も心を変じてやっては来ない。

織田七兵衛(津田信澄)は討たれ、徳川殿は伊賀路を経て帰りなさると推量しなにとぞ徳川殿を討って来た
者には士農工商の差別なく恩賞をその望みに任せるとその道々へ触れ流し、きっと一揆が取り籠めて

討ち止めるだろうと思ったが、思いのほか討ちもらして捨て置いても害にもならぬ穴山梅雪を討ち殺した。
よもや急には打って上るまいと思った羽柴は大軍、しかも食い止めるか討って上るかと思う毛利も加勢して

羽柴は早くも摂津を打ち立ったと聞こえた。イスカの嘴、このようにまで物事に齟齬が生じたことを光秀は
「ああ天なるかな!」と空を仰いで嘆息し、悔やんで泣きに泣いた。

――『改正三河後風土記』



76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 13:55:32.52 ID:EcywMg4w
イスカの嘴
「ああ天なるかな!」

ラノベでありそう(小並感)

御衣装も常に黒いものを

2018年04月24日 14:09

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 01:57:28.42 ID:QCYFTSWG
御衣装も常に黒いものを


細川幽斎は太閤(秀吉)の時代でも、御内衆の身なりを古法に従わせた。
刀に鞘袋を付ける者は御覧になり次第叱らせるようにし
御供の履物も全て足半で、長草履を履いている者は一人もいなかった。
聚楽第にあった御屋形も全て唐紙障子で絵などを描かせることはなかった。
実目な方なので、御衣装も常に黒いものを着られた。

小田原陣であろうか、諸大名が金銀を散りばめ花を飾っていたときに
甲鎧は申すに及ばず、旗差し物まで黒色の出で立ちだったという。
ただし、これは事実かどうか分からない。


――『戴恩記』


細川幽齋覺書より、武士の心得のことなど

2018年02月27日 21:10

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/27(火) 00:02:27.66 ID:1tgBBbFO
一、人には何であっても好きなことが有る。弓鉄砲、或いは馬、蹴鞠、兵法、料理、乱舞、歌、
  将棋や囲碁、鵜飼、鷹狩、数寄の道、武士の道。何れにしても、好きなことが有るのなら、
  自分の好きなことは積極的に人に話すべきものだ。また人が話すことの中にも、自分が
  好きな事があれば良く聞くものである。
  また人により、武道の話をいたし、人が話すのも面白がって聞いていれば、良き心がけの者と
  周りは思うだろう。
  大体において、人々の心中というのものは、普段の話の内容、或いは愛する友人を以って知ることが
  出来るのだと、松長(松永?)という名人が申されていたが、真に相違ないと思われる。
  とにかく、どんな諸芸も、自分の心に染まらぬことは、結局出来ないものだ。その心得が
  有るべきだろう。

一、常々物をよく喋っていても、戦場においてはほとんど喋らなくなるような者がいる。
  また敵との間が遠い時には何かと喋るが、敵が近くなると物を言わなく成る者がいる。
  そういった将は、常々どれだけ口を利き、物を良く申していても、役に立たないものだ。
  殊に、敵が遠いほど物を申し敵近くなり合戦前に萎れる体にていること、殊の外見苦しい事である。
  常には少しばかり無口でも、戦場においては諸人も聞き届けるように、物の埒を申し分けられる
  事は、常に物をよく喋ることより格段に良い事である。

(細川幽齋覺書)

ちょっと社会人の心得にも近いようなお話



675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/02(金) 17:37:22.15 ID:txA038IT
上杉景勝(俺が喋るとみんなビビる)

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/03(土) 18:49:45.62 ID:YECF6PdC
猿(よっしゃ真似したろ!)

細川幽齋覺書より、戦場での心得について

2018年02月21日 20:24

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 21:22:39.27 ID:c3U9fY9D
一、戦場において、幟ほど大切なものはない。幟さえ崩れなければ、敵方より仕掛けられる
  事はない。逆に軍勢が多く揃えてあっても、幟が倒れれば、こちらは敗軍したと敵は見て、
  合戦を仕掛けてくるものなのだ。

  幟大将を致すほどの人物が、他の者が敵と手を合わせるのを羨ましく思い、自分もそのように
  しようとすれば、幟の役が立たなくなってしまう。たとえ他の人々が、どれほど敵と手合わせ
  していても、幟さえ倒さなければ、敵と手合わせした人の手柄と同然であり、またそのような
  理屈をしっかり理解していないと、出来ない役である。
  名将と呼ばれる人々も、そういった資質が無い人間には、幟大将は務まらないと申されていた。

一、武士には、信心が無くてはならないものだ。殊に愛宕八幡には、別して信仰が有るべきである。
  ただし、火の物絶ち(火を通した食べ物を摂らない事)は全く無用である。私は若い頃、火の物絶ち
  を致して懲りたものだ。とにかく、物を食わねば何事も成り難い。

一、男道はあまりに律儀な計りでも成らぬものだ。少々人を出し抜く用に心がけなければ、
  優れた手柄も成らない。ただし、他人の協力がなければ出来ない事もある。そういう時は
  状況次第である。

一、陣に立つ時、具足の綿かみに梅干しを付けて参るべきだ。のどが渇いても水のない時は
  どうしようもないが、そういった時梅干しのことを思い出せば、口に唾の貯まるものである。

一、巾着には、干飯でも米でも、何か食えるものを常に絶えぬよう入れておき、普段居住している所に
  掛け置きしておいて、草鞋、脚長一足につき巾着袋を一つ付けておくべきである。そして主君が
  鷹野、または狩りなどに出られる時、腰につけて参れば、何があっても対応できるのだ。
  とにかく、物を食わなくては手柄も成らないものなのだ。

一、大小便を普段からゆるゆるとしていては癖になる。陣中、又は忙しき時にはそうは出来ないし、
  殊に常々の御奉公のさわりにもなる物である。こういったことは、常々より嗜んでおくべきである。

一、戦場にて、地面の塵やごみを蹴り立てると、煙のように空に上る。これを地煙と呼ぶ。
  この地煙が高く上るところは、馬上の武者が多いと心得、低いところは徒武者の居るところだと
  考えるべきである。ただし風など吹く時は、そういう心得も変えなければならない。

一、敵陣に物見に参る時、なんとも参る手立てのない時は、商人にまぎれて参るものだ。
  陣において備蓄が無い時は、敵味方が人数を立てあっている最中ですら、酒売商人など
  参るものである。当然、自分たちの方へもそういった者が参るわけで、少しも油断
  してはならない。

(細川幽齋覺書)

戦場での心得についていくつか



657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 23:40:37.28 ID:jlZaj6kt
>一、大小便を普段からゆるゆるとしていては癖になる。陣中、又は忙しき時にはそうは出来ないし、

ワイ将、大腸過敏の長距離電車通勤組、毎日陣中(電車)で我慢

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 00:21:20.09 ID:yMVZx1uC
マニュアル作るの好きなんだなあって分かる

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 01:45:46.22 ID:UTaI4uHy
一、大小便を普段からゆるゆるとしていては癖になる。
幽斎でも大小便をするんだ…

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 02:03:49.36 ID:7XdmiP1b
フン!って力むから卒中するんだよな

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 02:48:38.93 ID:X2fLifG2
不識庵「なんやて」

662 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/02/21(水) 08:20:06.28 ID:u0yUUzj8
マニュアルかなぁ?
単に危機管理の為のノウハウの蓄積をしようとしてるだけとしか。

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 16:45:23.98 ID:lUc9Phna
マニュアル以前のメモ書きだよな。
ただそんなメモ書きでも書いておけば役に立つ。
食料や道具の準備について大分項目を割いているが、
それだけ何の準備もなく参陣する奴が多かったんだろうなぁ。

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 17:12:32.37 ID:i4qjyDOk
梅干しの話はまんま望梅止渴の故事からだろうけど実際効果の程はどうだったんだろう

両大将の御軍法

2018年02月18日 19:04

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 18:31:02.46 ID:dR3J4lSy
一、信長様の御軍法は、敵と成った者は、その子々孫々までも討ち果たし、その跡まで
  掘り返すほどに厳しくして、天下を治められた。内裏の修理など仰せ付けられ、王法の
  衰えたのもお取り立てされ、その後仔細あって、上京の騒ぎを払うとして、京の地子を
  御免になられた。万事において賞罰を正しく仰せ付けられた故に、万民に至るまで、
  その仰せを奉らないという事は無かった。
  ではあったが、一度敵対した者は、詫び言を申し上げ旗下に付いても、お心を許すこと無く、
  御憎み浅からず、故に謀反人が多く出た。こういう時は、強いだけではどうにもならないものだ。

  こういった事を太閤様(秀吉)はよくご覧になっており、敵対した者へは厳しく申し付け、
  これに対し詫び言申し上げ旗下と成れば、御譜代同然に懇ろに心を開かれた。是故に、昨日まで
  敵対していた者でも、身命を捨て忠節を致すべきと考え、故に謀反人も無く、早く天下を
  治められたのだ。

  両大将の御軍法はこのように裏腹に違う、この心持ちは、小身の召使の者にも心得あるべきである。

(細川幽齋覺書)



651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 18:57:18.66 ID:cegVxge2
秀頼シフトを敷かなければ豊臣政権は続いたのだろうか?

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/19(月) 15:28:24.75 ID:TRb3+EFk
>>650
信長のほうが寝返りに甘い印象あるけどなー、細川の処世術かな

>>651
秀吉死後に秀次派と秀頼派で関ヶ原なりそう

653 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/02/19(月) 15:41:39.50 ID:jY3t1EHB
>>652
「信長と消えた家臣たち」って本を読むと細川幽斎の気持ちが少しわかるよ

細川幽齋覺書より、川を挟んだ合戦

2018年02月17日 09:55

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 00:09:50.53 ID:Qls51LFz
一、敵が川を前に軍勢を立てている時、その軍勢が厚く立てられている場合は、その川は浅いと
  心得るべきだ。逆に軍勢が薄い場合は、川が深いと心得るべきである。

一、敵方が川を渡ってきた場合、その川の三分の一ほど越えた時に、こちらは川端まで押し寄せ、
  鉄砲を撃って渡川を妨害しなければならない。川を渡られてしまうと、敵には勢いがつき、
  味方は勝利を失ってしまうものなのだ。

一、敵が川向うに居る時、此の方より川を渡す場合、少し川上から馬を乗り上げ、水の流れに
  つれて渡すようにすれば、早く渡れるものだ。少しでも早く、などと考え、川下から川上へ
  渡るような真似をすれば、結果遅くなってしまうものだ。

一、川を前に陣を取った場合、何よりも先ず筏を組める物を心にかけ、準備しておくことが大切である。
  とは言うものの、筏に組めるものが無く、また川を渡らなくてはどうにもならない、という状況に
  なった時は、「道具筏」といって、鑓などを組み合わせて、それに乗って渡る事もある。
  また「馬筏」といって、手綱を互いに取って組み、これにて川を渡すことも有る。このようにすれば
  弱き馬も強き馬にひかれ、造作なく渡れるように成る。
  「道具筏」「馬筏」とは、こういったもののことを言うのだ。

一、敵が川を渡ってくると予め解っている時は、此の方に柵を構築し、渡さないようにすべきである。

(細川幽齋覺書)

川を挟んだ合戦に関するお話



642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 15:41:22.33 ID:nC83Xr0m
>>641
>馬筏
男塾みたいなやりかたで草

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 18:31:41.07 ID:lPtSpuum
>>641
幽斎様なら馬を担いで渡れそう

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 22:09:49.78 ID:uHB/+4zH
上流で馬の集団を渡河させて、流れを弱めて、歩兵を渡したエピがあったと思うんだが、
新田義貞だっけ?

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 23:32:00.13 ID:GZSKK4fO
シーザーがやった話なら知ってるが

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 07:35:51.26 ID:cjiShSU3
上流で糞尿を流して水の手から疫病を発生させたんだっけ

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 09:40:16.59 ID:xa+2aYDi
馬上で糞尿を垂れ流して焼き味噌と言い張った?

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 13:45:15.27 ID:8Qu9Piho
徳川軍の兵士が大井川上流で人間堤防を作って下流を渡渉する織田軍を接待した話もあったな

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 14:59:17.72 ID:CtdKoPGM
男塾名物とかでありそうだな

細川幽齋覺書より、竹束に関連するお話

2018年02月13日 18:04

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/13(火) 11:45:47.06 ID:AnKMBnJ2
一、竹束を設置する時、敵より鉄砲を厳しく撃ってきて負傷者なども出た場合は、竹束を
  2,3も結合わせ、それを取り付けた盾を背負い、後ろ向きになって進み、敵に近づいた所で
  その陰から突き出すようにするのだ。

一、敵城に対して竹束にて仕寄りを作った時、本陣との間が道が悪いなどの理由で遠い場合は、
  城中より夜討ちなど行われることが有る。そういう危険の有る時は、10人でも20人でも、
  松明に火をつけて両手に持ち、本陣の方から竹束の裏まで幾度も往復するのだ。
  こうしておくと夜討ちは無い。これを「松明の心得」と云う。

一、竹束にて仕寄りし、敵の城を取り巻いた時に行う、「城はやし」というものがある。
  これは仕寄りのための井楼の上に二人三人も上がり、拍子木を打って音頭を取り、
  城に向かって「なふなふ明日は首をたもろふ えいえいわっ」と、竹束の裏に居る軍勢が
  一度に声を揃え鬨の声を作り、鉄砲をはたはたと撃ちかける、という物である。
  これを致すのは夜の五時(夜8時ころ)から夜明けにかけてである。
  何度もこれを行うと、城中に居る女子供たち、または籠城の経験の少ない者は殊の外
  騒ぎ慌てるものにて、それにより、20日保つ城も10日も保ちかね落城するものだ。

  また、「言葉戦い」と申す物もある。口の上手いものが井楼に上がり、的に向かって
  「御陣に申したきことがある!」と呼びかける。敵側から「何事にて候」と答えてくるので
  此の方よりこう言う「御籠城御大儀に候。ですが持ちこたえるのは中々成るまじき事故、
  御降参されるように。そうなさらないのなら、どうそ何方なりとも突き破りこちらを攻めに
  出て来られよ。あなた方の御首、はやく申し請けたいものです。  まあどちらにせよ、
  あなた方の御首を申し請けないと言うことにはならないでしょうが。」
  そのように敵の心にかかることを申すのだが、この時、慮外かましき(無礼で不躾な)事を
  言っては敵方からも悪口が返ってくるだけだ。なので敵が心のなかで心配に思っていることだけを
  言うべきなのである。

(細川幽齋覺書)

竹束に関連するお話

細川幽齋覺書より、取った頸の扱い方

2018年02月12日 18:15

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/11(日) 21:54:07.70 ID:bA4eZOJj
一、合戦において頸を取った時、自身はその場に残り、頸は家臣などに持たせて主君へ遣わすのだ。

一、「頸をとっても捨てて、耳鼻だけ取るように」と大将より下知があった場合、鼻とともに
  唇を削いでおくべきだ。髭が無ければ女・童とまぎれてしまう。しかしながら若年の者は髭が
  無いので、その場合は何かその者の道具を取っておくと良い。

一、母衣武者の頸を取った場合は、その頸を母衣きぬにて包むのだ。通常の武者の場合は指物絹にて
  包むべし。ただし、こういったことも忙しいときには出来ない。そういう隙がないと判断される
  場合には、その討ち取った者の刀脇差しなどを取って、その頸に刺しておくとよい。

一、取った頸の耳に紐を通して持ち運ぶ者を見ることが有るが、それではおおかたちぎれ落ちてしまう。
  紐を口から顎に通して取り付け、これを馬の脇につけて運ぶのがよい。

(細川幽齋覺書)

細川幽斎の覚書より、取った頸の扱い方について



632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/12(月) 00:17:34.05 ID:3ZUmUOeV
庭師の首はどう扱えば良いんだろ?

細川幽齋覺書より、兵糧・食料のこと

2018年02月10日 10:55

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 08:11:39.97 ID:NnOG2X3L
一、御陣のときは、下々のことは申すに及ばず、自身も一日一夜の兵糧米は腰につけ、馬のはみをも
  携帯しなければならない
一、陣頭において兵糧米のない時は、何で有ってもその時々の草木の実を食うものだ。私も青麦などを
  炙り揉んで喰って合戦し、敵と手を合わせたものだ。桑の実などは、殊の外旨き物であった。
一、旅陣の時は、侍も小物も中間も、小屋の材料、武具の輸送を行っているが、陣頭においては
  野菜の類、また水が必要であり、無くてはならぬものだ。こういったものは小屋の材料や武具に
  結い付けて持っていくのが良く、これを運ぶ者には言葉も懇ろにかけ、少しであっても遣わす物の
  内に、心付けがあるべきだ。
  人によっては、食物に関することを話すのは恥ずかしいことだ、などと言っている者もいるが、
  そういう考えは何の役にも立たないと心得ておくべきである。
一、敵の城を取り巻く時は、それが山城で有っても先ず水の手を専らに見立て、陣を取るのが良い。
  大将から持ち口を仰せ付けられたのなら是非もないが、一夜二夜の事であっても、水の手は肝要である。

(細川幽齋覺書)

細川幽斎の覚書より、戦場における兵糧、食料のことなどについて


汝らの功を以って我が功とすべし

2017年12月05日 17:48

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 09:31:48.31 ID:ziSpxjee
豊臣秀吉は細川玄旨(幽斎)、法橋(里村)紹巴らを傍において、時々興ある歌、連歌などを行い
或いは五山十刹の長老出世の者たちを集め、詩連句の会なども主催した。

しかし、こういう場においては、秀吉の作意に合わせて他の者の作った歌・連歌を以って、
これを秀吉の作とした。

秀吉はこう命じたのだという
「詩歌は武家が必ず身につける物ではないと言っても、無下に卑しいのも又、大丈夫の本意
ではない。だからといって心にそまぬ事をやるのは、甚だしい労役の至りである。

武将というものは自らは手を下さず、兵卒の功を集め、その功が将に帰す。
詩歌もまた、汝らの功を以って我が功とすべし。」

(士談)



387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 12:49:25.25 ID:AZbvB/wH
ジャイアン秀吉…

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 17:30:27.23 ID:6CWRDPf1
秀吉、幽斎、連歌といえば過去に2回ほど出ている(まとめの5166555
秀吉が連歌の会で「奥山に紅葉踏み分け鳴く蛍」と詠んで一堂が笑ったところ
幽斎がとっさに「蛍よりほか鳴く虫もなし」と古歌にあります、とでっちあげてフォローした話
なお江戸時代の太田錦城の随筆「梧窓漫筆三編巻下」では

太閤が歌の知識がないためにこんなバカげた句を良んだと思ったのはむしろ一堂が愚かだったのだ。
田夫野人といえどもホタルが鳴かないのを知らないはずはない、わざとおかしな句を読んで一堂を試し
しかも自分の威勢なら鳴かない蛍も鳴かせてみよう、という気宇壮大な句だったのだ。

とか書いてた。>>386と合わせると
「秀吉がまた馬鹿な歌を作らないように前もって幽斎たちに任せた」てことになりそうだけど

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 19:45:02.81 ID:+Hd9QwO3
>>386
俺は良い話と受け取ったw

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 07:20:45.72 ID:eOR5xfuh
下々のものにアイディア出させてゴーストに書かせて、結局プロデューサーの手柄にしちゃうっていうのなら、今のプロダクションと一緒だわな…

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 07:38:03.90 ID:6zYKbT+/
それが本業ならそうだろうが