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手取釜

2017年10月18日 18:42

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/18(水) 05:30:04.78 ID:xX5oFGGB
天正14年、豊臣秀吉が関白であった頃、京の旧三条通白川橋より東5丁目に良恩寺という浄土宗の
寺があった。この寺の傍らに年老いた隠者が在り、粟田口の善輔と呼ばれた。(善法、または善浦とも云う)

この翁の住居は、藁葺き屋根に四本柱の四畳半一間にて、床の間もなく、土間に爐を切り円座を敷いて
賓主の座を分かち貴賎の別なく茶を振る舞い、物語などして、昼夜の分ち無く楽しんでいた。
また食料が無くなれば、一瓢を鳴らして人の施しを乞うた。
人々は彼の人柄を知っていたので、皆が金銭、米、布を恵んだ。
そうして物のある間は家を出ること無く爐にかけた手取釜にて粥を炊き、また湯を沸かして茶を喫した。
その湯が湧く時は、彷仏松濤の声を吟じて一人笑った。
また「手取釜 おのれは口がさし出たぞ 雑炊たくと人に語るな」など戯れることもあった。

秀吉がそのような話を聞き、利休に「その手取釜を得て茶を点てよ」と命じた。
利休は善輔の元へ行き、云々の命有りと伝えた所、善輔は聞くやいなや感情を損じ

「この釜を奉れば、他に代わりは無い!いわれの無い釜であるからとそのようにぞんざいに言われるとは
思いの外である!」

彼はすぐにその釜を、そのあたりの岩に投げつけ打ち砕き
「あらむつかし 阿弥陀が岸の影法師」
と呟いた。

利休もこれに呆れ果て「秀吉様は短期であるし、いかが致すべきか」と思い煩ったが、今更どうにも出来ず
帰ってありのままに申し上げると、秀吉は却って機嫌よく

「その善輔とやらは真の道人である。彼の持ち物を所望したのは我が過ちであった。」と、
その頃伊勢安濃津に越後という名のある鋳物師があり、彼に命じて、利休が見たままのもの2つを
模造させ、一つは善輔に贈り、もう一つは秀吉自らが蔵した。

その釜は善輔が没した後は良恩寺に納まった。これを見た人の話によると、その高さ五寸五分、
底廣さ七寸、口径三寸二分、弦は蝶番で、蓋から釜の腹にかけて木の葉を広く鋳つけており、
おおよそ今の鉄瓶と言えるものであった。
桐の箱に入れられ、箱書きには利休居士の手で『手とれ釜』と記されていた。
またこの釜に添えた、秀吉の文書が有り、そのその所に曰く

『手取釜並びに鈎箱に入れ、鎖まで念入りに出来、悦び思し召し候。尚山中橘内、木下半介に申すべき也

  十月十一日
                                 太閤(朱印)
                                  田中兵部大輔』

この文章は善輔に関係のないものだが、この釜に縁があることから、後に同寺に寄付されたものだろう。

なお、この釜の後伝とも言うべき話として、細川玄旨法印(幽斎)もこの釜を写させようと先の越後に命を
伝えたが、これに越後

「御所様(秀吉)の命にて、ただ2つ鋳たる物ですから、また同じ形に鋳るというのは、憚りがあります」

と、これを辞した所、玄旨も「それは理である」と戯れ歌を詠み、

「ならばこの歌をその釜に鋳付けよ、これが同じ物ではないという証拠である」

そう言って鋳させた。その狂歌は世にあまねく伝わる
『手とり釜 うぬが口よりさしい出て これは似せじゃと人に語るな』

こちらの釜は、今も細川家に秘蔵されているという。

(今古雅談)



細川幽斎「武家に仕える者は」

2017年08月17日 17:14

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/16(水) 21:55:42.25 ID:18h3KstQ
細川幽斎「武家に仕える者は」


(幽斎の)御座の間の近くでたくさんの小姓衆がどんなに騒ぎ暴れていても
(幽斎は)少しも叱ることはなかった。

賄いの恩斎と申す者が時々(小姓衆を)叱るようなことがあると
幽斎公は
「武家に仕える者は、事が起こってしまえば今すぐにでも命を失う物だ。
 可哀想だから、子供は暴れていても制してはいけないよ」
と仰せられていたので
召し仕えている衆は自分の親よりも(幽斎のことを)
深くありがたく思い、例え大名になるとしてもこの御家を出て
別の主君を頼みにしようと思う者はいなかっただろう。
だからこそ小勢で不慮に籠城をなされたのに(※1)
多勢の寄手が容易く攻めることが出来なかったのだ。

この幽斎公の御俗名は犬打つ童まで(※2)も知っている細川兵部大輔藤孝公と申す。
若き時より弓馬は言うに及ばず、和歌、連歌、鞠、包丁、打ち囃子の道までも
心得られて、その道の極みに至るまで情趣を解することによって
人に劣るような芸は持たない人である。


――『戴恩記』

(※1)田辺城の戦いのこと。
(※2)犬を追いかけ回す三歳の児童でも知っている、という意味。



149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/16(水) 22:27:22.30 ID:KCxrewke
細川だと進士流なのかな?

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/16(水) 22:27:49.97 ID:KCxrewke
ああ、包丁道のことね

日本国に歌道が流行れば

2017年07月28日 16:10

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/28(金) 00:45:57.36 ID:5+Yov4kP
日本国に歌道が流行れば


細川幽斎の弟子松永貞徳の『戴恩記』に出て来る幽斎の思い出話。

あるとき(幽斎が)丸(貞徳の自称)の数寄の程が
あはれであると仰せられた時だったか
「日本国に歌道が流行ればそこも人に知られるでしょうにね」
と仰せられたので、丸が気が済むまで
「丸はこれが流行らぬのは幸せだと存じています。もし流行れば
 大名高家の人が我先に(幽斎の)御意を得られるでしょう。
 そうなればいつわたくし如きの者が御前に出られるでしょうか」
と申すと、尤もですねとお褒めになられた。

またあるとき、(幽斎が)
「禅定殿下(九条稙通)から源氏物語を御相伝されていれば
 御身とは弟子兄弟になっていましたね」
と冗談を言われたので、丸が思い切り
「よき御兄弟を持たれることは、誠に御果報並々ならぬ事ですね!」
と申し上げれば、一層機嫌よく笑われていた。


白鷺か何ぞと人の問いし時

2017年06月15日 17:42

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 00:30:38.37 ID:dWS33giL
長岡幽斎が鶴の料理法を人にお教えされるとき、
その人は貴重な鶴の替わりにと
白鷺を板に乗せて出したので、
とっさに、

白鷺か何ぞと人の問いし時 鶴と答えて食いなましものを

「『伊勢物語』の

白玉か何ぞと人の問いし時 露とこたえて消えなましものを

の本歌取り」

(昨日は今日の物語)



32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 18:43:51.74 ID:Dny9w7CR
>>30
「昨日は今日の物語」ってタイトルめっちゃオシャレや!

なお本文の意味はわからない

三斎は実は

2017年06月08日 00:27

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 02:47:35.45 ID:/PRBbIyV
幽斎は細川への養子で、本名は三淵である。幽斎の兄を三淵大和(藤英)
という。光源院殿(足利義輝)の弟(義昭)は幽斎を頼みにして信長に頼った。

(信長と義昭の間には)20ヶ条の掟があったが、(義昭は)後にこの掟を
用いずして槇島に籠城した。信長は(義昭を)熊野に追い込みなさった。

光源院殿の御宮妾が懐妊3ヶ月の時に、幽斎は御宮妾を与えられたので、
三斎は実は光源院殿の子である。三斎は光源院殿に顔が似ていた。

本願寺東泰院の父(教如)も光源院殿の落胤という。稲葉能登守(信通)は
三斎の孫である。

(光源院殿妾御宮。懐妊三月に幽斎は被下候ゆへ。三斎は実は光源院殿子
也。光源殿に顔似たり。本願寺東泰院父も。光源院落胤と云。稲葉能登守は
三斎の孫。)

――『武功雑記』


松永貞徳が見た幽斎、物の上手と名人

2016年12月25日 17:14

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/25(日) 10:58:33.36 ID:8tbksLrh
松永貞徳が見た幽斎、物の上手と名人


関白秀次の時代聚楽第で能があったとき《朝長》の懺法太鼓を
其の頃の"上手"である金春又右衛門という者が勤めた。

[金春又右衛門は織豊期の太鼓の名手で、細川幽斎とは兄弟弟子であった。]

日が暮れてから(又右衛門は)幽法公(細川幽斎)のところへ参り
「今日は(幽法公の)ご見物ゆえ胸が躍り手は震え、前後を忘れてしまう程でした。
どうだったでしょうか」
とおそれかしこまって申した。
幽法公は休まれていたが、対面すると今日の所作を褒められて一献下された。

宴もたけなわの頃に(幽法公は)
「くたびれているだろうが、一番太鼓を打ってくれないか」
と仰せられて、自分で小鼓をお打ちになられた。
大鼓は平野忠五郎、笛は小笛亦三郎、諷は勘七など
みな普段からの(幽法公の)御近習で《杜若》を囃した。
(又右衛門の)太鼓は能を聞きなれぬ者の耳にも変幻自在で
(聚楽第より)こちらで打った太鼓の方がひときわすぐれて聞こえた。

又右衛門は忠五郎に向かい両の手をついて
「もう一番。今生の思い出に(幽法公の)太鼓をお聞きしたい」
と申したので、(幽法公は)久しく打っておらず忘れてしまっているとしながらも
「夜更けに聞き手もいないだろうし、興に乗ってきたところなので」
と言ったので、《遊行柳》をクセから謡わせたが、太鼓に差し向かう様子や
御掛け声、御撥音なども並の者のしわざとは到底思われなかった。

屋敷中が神妙になり、皆息も継げない様子で(聞いていたので)
我らが易々と感嘆してしまったので不思議に思われたのだろうかと
又右衛門の顔をじっと見ていると、いつにない様子で
額を畳に擦り付けるようにして、声も漏らすことが出来ないようであった。
喉が塞がったような気持ちがして、(幽法公が)打ち終わりになられた。
(又右衛門は)ついていた手を膝に上げ、うつむいていた頭を振り仰いだので
その顔を見ると、両目から感涙が雨のようにこぼれていました。

物の上手と名人の変わり目はあるものだと、心に思い知ったものです。


――『戴恩記』



あの兄弟が振る舞いに

2016年03月26日 17:47

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 11:26:39.93 ID:sD2szMy3
天正5年(1577)の、松永久秀による信長への反乱に従い、松永久秀の与力である海老名某も、
河内国片岡城に立て籠もった。これに対し信長は、長岡(細川)藤孝父子、惟任(明智)光秀、
筒井順慶に「3人で押し寄せ、蹴散らせ」と命じた。
これにより十月朔日未明に、この3名による片岡城攻めが始まった。

ここで、長岡藤孝の嫡男與一郎(細川忠興)15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳、
この兄弟が真っ先に駆け入った。

しかし片岡城の者達は河内国でも聞こえ有る兵であったので、全く騒ぐことなく彼らを防いだ。
しかしこれを見た長岡家の郎党たちは「あれを討たすな!続けや!」と我先に駆けつけ、これもあって
兄弟は良き兵たちを討ち取り、それを見た藤孝は両眼をうるませた。

筒井順慶、惟任光秀もこれを見ると、士卒に向かって
「あの兄弟が振る舞いに、恥じない者は居るか!?この程度の城にいつまで手間取っている?
早々に乗り入れろ者共!!」
そう大音声を上げ目を怒らせて罵ると、皆々「尤もである!」と螺鐘を鳴らし喚き叫んで攻め入った。

それでも片岡城の兵たちは、義を重んじ命を軽んじて「一歩も引くな!」と、
それぞれが担当した場所から少しも引き退かず防ぎ戦った。しかし織田勢は新手を入れ代わり立ち代わりに
攻め立てさせたため、死傷者多く出て残り少なくなると、「今や叶わじ」と思ったか、城主の海老名は
腹を十文字に掻っ切って伏せ、残る兵たちも、みな思い思いに自害して、同じ枕に臥した。

信長は與一郎、頓五郎の働きを聞くと、即座に感状を下した。
兄弟が感状を頂戴したことは、天晴勇々の事であると、羨ましがらない者はいなかった。

(甫庵信長記)

細川忠興・興元兄弟の片岡城攻めのお話



536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 13:42:16.65 ID:EmgUfXaA
片岡城て大和じゃないのか?

細川家の取り成しで

2016年01月13日 22:39

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 02:19:26.40 ID:o6xk6LZS
萩原殿は吉田にお館があるようである。その館とは細川幽斎公の別荘である。
元来萩原殿は豊国大明神の社司で、大仏の南、今は宮様のお館になられていますところに一万石領されていた。
ほかに一万石を豊国の修復料としてもらっており合わせて二万石領されていた。

そうであるところに、大坂落城したため豊国社は破却され、二万石も召し上げられました。
そのとき萩原殿は細川三斎公の御息女御菊殿の婿君であったので、吉田の別荘を細川家から進上されて、
細川家の取り成しで段々と千石を領することができた
(本阿弥行状記)



その歌は忘れた。

2015年12月12日 16:55

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/11(金) 18:00:12.33 ID:k31EZdAK
 中院也足軒通勝公が勅勘された間、丹後田辺の細川玄旨(藤孝)公の介抱に預かって、勅免の後上られてときの歌、
唐土の蘇武に自分の身を比べたられたようである。いかなるゆえであろうか。
蘇武は忠義の人である。玄旨公は親友仁愛の人であるのに、也足軒の心入りは甚だ怪しいものであろう。
かような心得違いから勅勘などに遭いなさったのであろう。その歌は忘れた。
(本阿弥行状記)

思ひきや雁の便をしたひしに  雲井にかへる身をことしとは

たぶんこの歌ですね

蘇武が匈奴に捕らえられたときに、雁の足に手紙を付けたことを基にしたみたいですね



757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/11(金) 21:12:08.46 ID:MM3vXgKr
幽斎様は李陵かね

源氏物語は和国の奇筆である

2015年11月30日 07:21

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/30(月) 03:04:13.42 ID:J6leepVc
 源氏物語は和国の奇筆である。細川玄旨法印(藤孝)の扈従に、宮木善左衛門孝庸という武士が、因州の牧に仕えなさっておられる。
私は若年の時から彼に随っていて、委細を伝授してもらった。慣例通りに、口伝での共有であった。

 あるときのこと、孝庸は玄旨法印に世間で便なる書は何を第一にするべきか、と尋ねなさったら、源氏物語と答えなさった。
また歌学の博覧の第一の物はと問いなさったら、同じく源氏と答えなさった。
玄旨法印からは何もかも源氏で済むことだと承った。源氏を百偏つぶさに見たものは、歌学が成就すると仰られた

と、孝庸は私に語られたことがある。
(本阿弥行状記)



曽我助興は只者ではない

2015年06月20日 15:21

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/20(土) 00:26:47.36 ID:j0eYCWS1
慶長8年、徳川家康公に将軍宣下があった後、永井直勝に命じて、この新しい将軍家の書式法令等の
制定が命ぜられた。しかし当時、そのような故実に通じた人間は関東に居なかったため、当時の故実者である
細川玄旨法印(幽斎)に室町将軍家の儀式作法を質問した所、当時、有識者の間で評価の高かった
曽我又左衛門助興を推薦され、これを召し出すことに成った。
彼を中心に、徳川家の制法を元に改正され、御内書、御奉書の令式その他、将軍家の法令が定められた。

総じて神君が、甲州を手に入れられた時には武田家の法令を以って甲信駿に掟され、その後
関東に入られた時は北条の家法を用いられた故に、速やかな治平を成し遂げられた。
ただし、年貢のことだけは三河の旧例を用いられて、軽い収納のみ行っていた。
このことだけは古から代えなかったので、諸民もその御恩澤に浴して『この君万世』と謳ったのである。

ところで曽我助興について、彼はもともと室町将軍の牢客であった。そのような人物が新たに
幕府に召し抱えられたため、関東の諸士は彼を軟弱な京都の者と思って侮った。
ある時、土井利勝が座興に彼に聞いた。「あなたは有名な曾我氏の子孫ですが、曽我兄弟について、
実家に伝えられていることはどあるでしょうが、兄弟について世上に言われていることをどのように
考えていますか?」

曽我はこれに
「そうですね…、私は若輩者ですから、曽我兄弟が何をしたかなんて覚束きません。」

この答えを聞いた時、一座の人々は彼が只者ではないことを初めて悟り、感服したのである。

(明良洪範)

何故



206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/20(土) 13:10:57.03 ID:HPlK6aeZ
「仇討ちで高名な曾我兄弟の末裔でありながら、それを誇らないとはこやつ只者ではない…ッ!」
って事?

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/20(土) 13:14:02.15 ID:HPlK6aeZ
あ、末裔じゃないや間違えた
「曾我兄弟の仇討ちで高名な曾我の一族」か

前田慶次と細川幽斎、前田慶次と最上義光

2015年04月25日 15:59

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 06:34:44.79 ID:5r9IOFLr
前田慶次と細川幽斎

細川幽斎(細川藤孝)が歌に巧みな事は犬遊びをする子供でも知っている事である
例えば連歌の席で他の者が前句を言い終わる前に、幽斎は瞬時にそれに付ける後句をいくつか捻り出してしまっている
松永貞徳などが時間を掛けて思案するのに、幽斎は人々が驚くばかりに次句を作ってしまう

伏見の連歌会で似生(前田慶次)という人が二度ばかり歌を作れずに時間を掛けていた事があった

似生は自分が句を捻り出せないのを逆手に取り幽斎に「あなたほどの人なら私が詠むだろう歌もわかっているのではないか?」といたずら心で聞いてみた
すると幽斎は「能のわき、名乗るよりはや打ち忘れ」と答えた

能のワキはシテ(主役)の相手役である
ワキが登場する前に太鼓や笛に合わせワキが名乗りを語る所で囃子が止むが、囃子が無ければワキは舞台に登場すらできない

幽斎「私なりの句は作れますが、前句の掛けだしもないのに後に続く付句を含めてあなたが詠むはずの歌を私に作れる訳がないでしょう。買い被り過ぎです」

慶次のユーモアとそれに対する幽斎の見事な切替しのお話

『鷹筑波』ほか




867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 07:32:21.50 ID:5r9IOFLr
紹巴法橋(里村紹巴)の門弟に似生(前田慶次)と白○(最上義光)あり

同門兄弟の様なりたるが、先の最上陣(長谷堂合戦)では敵味方に別れたり

焉党は共連歌を学びて歌掛を伺い、源氏物語を講釈して文義分明

「關原軍記大成」ほか

長谷堂合戦で敵味方として戦った前田慶次最上義光のつながり




明智光秀は初め、細川幽斎の家臣であった

2014年04月12日 19:09

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 01:07:16.24 ID:yawQd5P5
明智光秀は初め、細川幽斎の家臣であった。しかし幽斎の家老である米田助左衛門などが光秀に
辛く当たり、それに耐え切れずに信長に仕え、終には丹波一国(およそ50万石)と近江にて10万石を所領するまでになった。

明智光秀は常にこう言った、「私が今に至ったのは、全く米田のお陰だ。」
これ故に、光秀は幽斎の息子である忠興を婿としたのである。

(老人雑話)




748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 01:08:48.06 ID:3JXAJmVk
イイハナシダナー

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 02:35:51.67 ID:cbW4eT2l
>丹波一国(およそ50万石)

盛り過ぎwwwwwwwwww

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 07:11:11.29 ID:grim2RRR
坂本10万石も多くないか?w

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 07:32:15.74 ID:nxOJYaOk
実際丹波一国で20万石くらいか?坂本が5万石くらい?だけど25万石でも織田家外様と考えると相当すごいね。

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 09:34:05.30 ID:+r3aujj2
指揮権及ぶ範囲の石高だと240万石超になるとか

この忠興の勇敢な行為を

2014年04月05日 19:29

874 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/05(土) 07:21:15.40 ID:D8JJoeu1
 天正8年に細川家が織田信長の命で丹後を攻めたときのこと

 8月に藤孝忠興が青龍寺から丹後に入国し、光秀と一緒に歯向かうもの打ち取っていった。
 その中で高屋十郎兵衛という土地の力のある者が抵抗していたのだが冬に入って降参した。
 雪の中、忠興が履を着て厩の前に立っていたとき家来の米田助右衛門是政が
高屋を連れてやってきた。高屋は鳥目百疋を持って礼拝しにきた。
助右衛門が礼拝しているとき忠興が「高屋の首を捻じって切れ」と言って長国の太刀で手打ちにした。
助右衛門は左手に鳥目百疋を持ちながら抜き打ちで二の目を切ったので、
忠興は刀の峰に切り込むのが殊の外早かったと感心した。
 
 高屋は国中に威名のあるものだったのでこの忠興の勇敢な行為を聞いて恐れて、
忠興に背くものはいなかった。かつて丹後は長年一揆で争いのある国と成って
人民が困窮していたので藤孝は早速国中を巡見し是非を決断して憐憫を加えたので
たちまち国中平均して皆その徳を仰いだ。

879 名前:874[sage] 投稿日:2014/04/05(土) 20:01:36.29 ID:G6+Rvbuq
ちなみにこの話は細川家譜である「綿考輯録」に記されていました



875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/05(土) 13:14:39.13 ID:uTrnHxgQ
勇敢というより単に卑怯なだけじゃ...

おっと誰か来た

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/05(土) 13:43:40.95 ID:5Da3WuRp
本城といい延沢といいこの手のやつはたいてい誅殺されるな

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/05(土) 17:52:36.58 ID:TFAT74G/
汚いなさすが四天王きたない

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/05(土) 18:07:44.10 ID:3zEhJzAu
タマちゃんの顔でも見たんじゃね?

881 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/06(日) 11:23:50.00 ID:l0Pon6u7
三斎さんが締めて、幽斎さん緩める・・・
さすが出来る親子は違いますな~

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/06(日) 12:45:29.67 ID:h3MgTEfU
暴れ牛 「解せぬ」

歌道を知らぬ幽斎

2013年12月18日 18:55

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/17(火) 20:02:53.69 ID:mbHB+0I8
歌道を知らぬ幽斎


私への見舞いとして十介を送っていただき嬉しく思います。

一、私の病状は重かったのですが宗巴の針治療をいままで続け、その上に少峯の
薬を飲んで、もはや本復となりましたので、少しも少しも心配なさらぬように。
この他の事は特にお伝えするほどのこともありません。

一、このような状況でしたが気力が無く文を見ることはもちろん書く事も出来ず
あなたからの文も一つも見ることが出来ませんでした。

上様からも何度か御見舞いの使者を頂きましたが会うことが出来ませんでした。
あなたの文は見たかったのですが養生の為と思い見ないようにしていました。

この事はどなたにでもお話して下さい。

一、あなたや子供たちが息災であるとの事で満足これにすぎる事はありません。
子供の虫気も良くなったとの事で目出度いことです。

一、十介は私がもう少し元気になった様子を見せてから帰らせようと思います。
正月三が日を過ぎた頃にでもおっつけ上洛させます。

一、私は坊主になって(=剃髪して)顔を見た所、幽斎そのもので自分の事ながら
胆をつぶしました。歌道を知らぬ幽斎だと思っていただければ良いでしょう。
光賢殿、吉田浄勝院へもお話ください。十介が上洛する折に詳しく話させます。

  三斎
    宗立

閏十二月廿五日

 春には上洛してお会いできるでしょう

(元和6年閏12月25日 まん宛細川忠興書状)

大病を患った後、忠興が娘(烏丸光賢室)に送った書状




886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/18(水) 10:44:26.85 ID:QFG9LPX3
>歌道を知らぬ

家臣36名「………」

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 19:33:09.82 ID:u9luYqnm
幽斎先生が歌を知らずだとさ・・・誰が歌を知ってることになるんだよw

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 21:02:07.55 ID:fGjjNvAC
>>892
誤読してる

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 21:05:23.22 ID:7QhCaGbC
>>892
「歌道を知らず」は三斎忠興のことを指している。

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 01:54:21.92 ID:kNWRSvtc
三斎「うはスキンヘッド親父似ワロスWWWでも歌知らンゴWWWW」

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 02:23:36.55 ID:eyNm+/h6
歌を知らず残忍で顔に傷のあるヤンデレな幽斎…
三歳さんだって歌は人並み以上に読めたわけだよね
如何に幽斎玄旨が当時を代表する歌人だったのかが分かるね

ある時、織田信長は細川藤孝に

2013年11月27日 19:02

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 18:23:13.51 ID:Hw+bNMU+
ある時、織田信長細川藤孝に干支を問うた。

「甲午です」

「ならば我と同い年だな」

「君の午は、たとえれば、良馬にして金稜の鞍をそなえているようなものです。
臣は駑馬にして粗悪な鞍の午なのです。どうして同列に語ることができましょうか」

これを聞いて信長は微笑した。

――『日本智嚢』




714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 19:47:42.64 ID:kU9V66kv
会話が噛み合ってるような、いないような…

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 20:08:41.60 ID:YSG+f5uB
自分で甲言うたんやないかw

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 20:15:33.91 ID:WwPQEH4B
微笑というか苦笑いだろうな
なんでそうなる?みたいな

細川越中守国替之事

2013年07月10日 19:59

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/09(火) 20:43:35.15 ID:Sks87be+
細川越中守国替之事

いにしえより細川家を見ていけば、足利義詮公が早世され、跡継ぎの義満公が
幼く征夷大将軍に任じられたこの時に、細川武蔵守頼之朝臣が後見をし奉り、
それより細川家は代々、三管領四職に人材を輩出してきたのであるが、天文11年(1542)の春、
三好筑前守長慶が細川家に変わって天下の権を執り、細川晴元を捕えて芥川に押込めてより、
細川家は衰微して、永禄・元亀の頃には、細川兵部太輔藤孝は、微々たるありさまで、
山城国長岡に居住していた。

藤孝はこの頃、京都七人衆(稲屋妻豊後守、下津権内、岩成主税介、荻田亀之助、
細川兵部太輔藤孝、小泉某、鴨目某)と呼ばれた者達の一人であった。

嫡子の與一郎忠興は、明智日向守(光秀)の聟となり、明智の贔屓によって段々に立身し、
天正9年(1581)には丹後へ来たりて、翌年中に丹後一州、ことごとく手に入れ、
20余年の間、丹後の国主をされた、

慶長5年(1600)関ヶ原の一乱に莫大な軍功があったため、国替えを仰せ付けられ、
豊前、並びに豊後の杵築を与えられ、その年の冬、細川忠興は豊前の小倉に入部するため、
宮津の城を御出になった。

家の再興はこの宮津より起こり、また馴れ久しい国でも有ったため、忠興も
思い残すこと多く感じられたのであろう。犬の堂を過ぎると、天の橋立を
歌に詠まれた

 立ちわかれ 松になごりはおしけれど おもひきれとの天のはし立

(丹州三家物語)

細川忠興が、国替えのため丹後を出立するときの模様である。





『封域分数貢税誌』

2013年06月28日 19:51

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/28(金) 17:07:50.49 ID:xlmzqz8w
ある時細川幽斎が、次男の頓五郎殿(興元)に、このような事を語った

「古の、室町将軍義満公の御時、日本の国々の、大小、上下、方角、米高、名物、等を調べさせ、
記録された、その書の名を『封域分数貢税誌』という。
この書は先祖より伝わり我が家にある。今、当国(丹後)の事を調べてみたが、国の形容、
全く違わず書かれていた。」

そう言うと、この抜き書きを頓五郎殿に与えたそうである。
(丹州三家物語)

忠興にはどうしたのだろう…?と思わせる逸話である。
しかし足利義満の時代に本当にそんな書物が編纂されていたとすれば、現在に残っていたら
もの凄い重要な史料になったのに、おしい。




970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/28(金) 19:19:21.27 ID:la3ElqeK
忠興は別の細川家を継ぐ身で
藤孝の細川家は所領もろとも興元に継がせる予定
少なくとも当時の藤孝はそのつもりだったという事かと

973 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/06/28(金) 22:45:28.93 ID:pYm2hN06
>>969
室町幕府の貴重な史料は応仁~明応のゴタゴタで消失したのが多いからなあ。

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 00:30:46.73 ID:K2g9GWNi
「細川家には、昔はもっと良い宝物があったんですが、戦争でかなり焼けてしまったんですよ。
いやいや太平洋戦争の時ではなく、応仁の乱の時ですがね」

とのちに子孫が語ったのである

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 00:42:29.55 ID:a/5/lKhC
細川家が平成の世に天下取るとは忠興さんも予想出来なかっただろう
あっという間に切り崩されたけど

細川幽斎、百姓の落書に

2013年06月26日 19:55

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/25(火) 20:49:05.24 ID:QPS4wqfJ
細川幽斎が丹後の領主だった頃の話

ある時、幽斎が白杉という場所に鷹狩に出かけた所、何者かが道の端にある田の畦に、
竹の枝を立てかけ、そこになにか書いた紙が付けられていた。
何かと思って幽斎がこれを見ると、おそらく百姓の仕業と思われる落書であった。
その内容はこうである

『いち(1)めいわく仕るハ、苦々(2)敷御仕置にて、さん(3)ざん志(4)ほうけ言語(5)道断、
六(6)月の日てりにハ七(7)ひんほうをかかけ、はち(8)をひかくふせい、
国(9)に堪忍なるやうに、十(10)分に無之とも仰付られ可被候。』

(何より迷惑なのは、細川幽斎の苦々しい政治である。散々な失政であり言語道断だ。
もし今の状態で6月に日照りが起これば、我々は南無妙法蓮華経を唱えて、鉢を持って
物乞いをしなければならない有様である。この国の人々がせめて我慢出来るように、例え充分で
なくても、この国の住人のための政治をしてほしいものだ。)

これを読んで幽斎は大いに笑い、閑雪という側坊主を召し出して、その紙の裏に、
自分がこれから言う通りに書けと命じた。

「このまれる十(10)分のよの中に、く(9)せ事を申百姓哉、八(8)幡きくましきとハおもへとも、
七(7)志やうより此のかたろく(6)になきハ地下の習、こ(5)くもんにかくるか
志(4)はりて腹をゐんとおもへとも、さん(3)りんにかくれぬれハ、に(2)くき志かたを
引きかへて、一(1)国一命ゆるすもの也」

(今のような好ましい世の中だというのに、何とけしからぬ事を言い出す百姓であろうか、
八幡にかけて聞き届けることはないと思ったが、七回生まれ変わったとしても
ろくなものでは無いのが地下の者達と言うものである。
獄門にかけるか、縛り首にして腹立ちを癒そうとも考えたが、これを書いた百姓も山林に
隠れているだろうから、このような憎いやり方を我慢して、その一命を許してやる。)

そう書かせると、元の場所に置かせたそうである。
(丹州三家物語)

細川幽斎、粋な政治批判の落書に、粋に見事にゼロ回答、というお話


参考
丹後に入部した細川藤孝と領民の直訴・いい話?


952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/26(水) 10:12:48.28 ID:s/lZUpkv
>950
まあ、そんなふうに幽斎様に戦いを挑んでも勝てないわな。w

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/26(水) 12:08:36.22 ID:pORULxaX
一番落書・落首勝負をしかけたら駄目な相手だからな(勝てない的な意味で)w

尚ラスボスにしかけると落命で返ってくる模様

958 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/06/26(水) 19:56:23.00 ID:dYZuCYsc
>>950
中身のない批判だなぁ
というか批判になってない

961 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/06/26(水) 23:04:18.59 ID:0LbL04cn
>>958
中身のない批判だから取り合うまでもないとして、こういう返しをしたんだろ

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/27(木) 10:58:10.61 ID:bsXfUkG7
こんなおふざけにマジレスしても野暮なだけだしな

殺るくらいマジだとまた別のメッセージを発信するけどさ

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/27(木) 16:34:58.11 ID:unbWrIWQ
マジギレした場合は落首が文字通り落とした首の横に貼り付けられるんです


964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/27(木) 19:21:26.80 ID:+cLt+UhQ
>>950
今更ながら既出っぽい
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2023.html
なぜかいい話にされてた

幽斎忠興不和の事

2013年06月25日 19:57

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 20:09:44.41 ID:RYB1E3S1
慶長5年(1600)、この年の奥州会津の城主・長尾景勝討伐の時、
細川越中守忠興は徳川家康の味方として宮津より出陣された。
細川幽斎は隠居の身であったため田辺城に留守をされ、忠興のみが
景勝討伐に出た。

こうして細川忠興は、雑兵たちを含めて三千の人数にて6月11日、宮津城を出馬され、
御暇乞いを申すためとして、父幽斎の在る田辺城に立ち寄り、その夜は田辺に宿陣した。
幽斎は天守に登り、軍勢の行列を見物された。

さて、忠興は若狭を通って近江路へ出ようと、丹後・若狭の国境である吉坂まで
進んだのだが、若狭の熊川にはその頃関所が有り、しかもそれを、敦賀の城主である
大谷刑部少輔(吉継)が命じて、非常に堅固なものにしたため、そこを往来することは
容易くないとの情報を得た。

ここで忠興は
「若州より近江路へ出ようと考えていたが、存ずる仔細が有るので、丹波路を進むこととする。」
として吉坂から取り返し、丹波路を山家へ進んで、伏見へと出た

この事を幽斎は聞いて、激怒した
「形部少輔に何か謀があったとしても、忠興の通行を妨害するような理由はない!
この頃は世間物騒の時節であれば、とにかく関所まで進み、逆に形部少輔の様子を見届けて
通るべきだったのに、吉坂まで進んでいた陣を取って返して丹波路へ出るなど、これは
不覚悟の至である!

忠興がもし生き残り、帰陣してきたとしても、私はあいつと対面しない!」
そう、奥歯を噛み締めて怒った。

一方の忠興は、西軍の小野木重次らが田辺城を攻めた田辺城の戦いにおいて、
幽斎が勅命とは言いながら、いま少し耐えようともせず城を渡して京都に上ったことを、
大変不本意なことだと考えた。

これにより、父子の間には互いに隔心が出来、段々と不和になっていき、
その悪感情は次第につのり、ある時など父子それぞれの侍たちが、1日の間に
2度まで槍を合わせたことが在ったそうである。
(丹州三家物語)

幽斎忠興不和の事、というお話





937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 20:26:09.68 ID:pQ9LQrMi
そこはホラ、お玉様が間を取り持ってだね…あっ…