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公方である足利義稙公は、近江の六角殿を頼まれていた

2019年11月12日 18:16

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/12(火) 12:40:00.14 ID:F9dW7hQx
その頃、公方である足利義稙公は、近江の六角殿を頼まれていた。
江州の両佐々木と申すが、六角が惣領であり、近江国の国人たちは六角氏の下知に従った。
京極は庶子なのだが、その祖である(佐々木)道誉判官の、足利尊氏公への忠功が莫大であったため、
公方よりこれを賞して現在は四職の一つとなっている。

応仁の乱より京極は細川勝元に一味し、六角は山名と一味して、互いに敵と成った。
応仁の乱は結果として山名方の負けとなったが、六角は独り京都に順じずこれを討つための
将軍の御動座も度々であった。

しかしながら公方からも、また細川高国からも(永正の錯乱以後)頻りに六角高頼を御頼みあり、
六角殿は義稙方に参られたのである。

この時既に六角高頼は老齢であり、長男の亀樹丸(亀王丸)に家を譲った。彼は後に氏綱と名乗ったが、
彼は片足が短く立居が不自由であり、現在のような大事の時に彼を立て続けるのは難しいとして、
次男に吉侍者という、相国寺に入り禅門の修行をしている者があったが、彼には武勇の器量が有ると、
六角家の重臣である多賀豊後守、蒲生下野守、田中史朗兵衛尉らが相談して公方へ申し上げ、この度
還俗して高頼の名代として公方の前に奉り、諱を定頼と号した。

公方義稙はこれを大いに喜び、彼を任官させ佐々木弾正少弼とした。この六角定頼は木刀を
腰に指して公方の御前に参った。公方が「それはどうしたのだ?」と尋ねられると、定頼は
「私は元々出家ですから、刀を持っていないのです。」と申し上げた。
公方は笑って、彼に国行の刀を与えた。

(足利季世記)

永正の錯乱のあたりの近江六角氏について。六角氏綱が片足が短かった云々は現在では
否定的な見解が多く、どうも実際には戦傷などでかなり健康を損ない、結果的に弟に家督を譲った、
という事のようです。



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香西元盛謀殺事件

2018年08月12日 17:38

29 名前:1/2[sage] 投稿日:2018/08/12(日) 12:26:16.87 ID:8OW2F72Q
大永6年(1526)の頃、それまで京都は暫く静謐であったが、不意の乱が起こった。
細川家の領国である丹波国の住人、香西四郎左衛門元盛は道永禅門(細川高国)の家臣であり、かの家の
沙汰を執り行い、威勢諸人の上に立ち驕りを極めていた。
この者の弟に柳本弾正忠(賢治)という者が居た(実際には兄)。彼は若年の頃は美童であり、高国は
彼との男色にひたられ、この者を寵愛し、成人の後、今に至りて俸禄身に余り、栄耀人に超えて、
香西・柳本兄弟の権勢は並ぶ者なかった。

この頃、細川右馬頭尹賢の所領である摂州尼崎に城を築く事を、高国は諸家に命じた。細川一門一党の
人々は日夜土石を運ばせ造営の役を勤めた。香西兄弟も尼崎に下ってこの役を勤めていた所、彼らの
下部の者達が、細川尹賢の人夫と、土一貫の事について争い口論に至り、やがて双方数百人に分かれて
瓦礫を投げ合う騒動と成った。しかし他家のの人々がこれをどうにか取り扱い和平をさせて、両方を
別け隔て、尹賢の者達は城中に入り、香西の人夫は丁場へと帰った。ところが、香西方のあぶれ者の一部が、
下知を聞かず尚も居残り、戯れに城中へと石礫を投げ入れた。

しかしこの行為に細川尹賢は怒った。
「和平の上に、さらに狼藉を働くなど以ての外の奇怪である!しかしこれは香西の慮外であるから
下部の者達を咎めるべきではない。」
そう、一旦は怒りを収めたが、香西は驕りの故であろうか、その後この事について細川尹賢への陳謝が
無く、そのような事は無かったかのように接した。

これに尹賢は鬱憤を重ね「あの兄弟、日頃の驕りに加え、さらにまた今回の事があった上は、彼らを
亡き者にしなければならない。」そう考え陰謀を巡らせた。
この香西元盛は文盲不学の者であり、常々料紙14,5枚ごとに判形を押しておき、手書きの部分は
彼が召し使っていた矢野宗好という者に、かの判紙を預け置いて、諸方書通のたび毎に宗好次第に
状を書かせ、書礼を進め返した。ところがこの頃どうしたことか、この宗好は香西の命に背き牢人
していた。

これについて、尹賢はハッと思いつき、密かに宗好を招き寄せ色々と語らい、彼の元に香西の判紙が
残っていることを確認すると、そこに秘計の状を書かせた。

その内容は、細川高国の仇敵である阿波の故細川澄元の残党である三好家の者共と、香西元盛が一味している、
というものであった。香西の判形紛れも無いよう拵えさえ、尹賢はこれを密かに高国の元へ持参し
「香西の謀反紛れもありません!」
と、その偽造した書状を証拠として誠らしく言い立て讒言をした。これに高国は、心浅くも真実と
判断し、「事を起こされる前に、早急に香西を誅さねばならない!」と、尹賢と示し合わせた。

しかし、突然高国は思った
香西元盛を誅殺すれば、弟の柳本は私に仕えることが出来なくなってしまうだろう。年来、この柳本は、
この道永(高国)が『命に変えても』と契約した仲であり、いかにも名残惜しい。」
高国は様々に思案し、漸く思いつき、柳本へ起請文を書いた

『香西を誅殺するが、彼は謀反の者であるから是非に及ばぬ次第である。しかし柳本弾正に対して、
道永は少しも異心を持っていない。」

そう心情を顕し、これを文箱へ治めた。

30 名前:2/2[sage] 投稿日:2018/08/12(日) 12:27:31.73 ID:8OW2F72Q
さて、香西を討つと雖も、まずは謀反の実否を直接問い糾した上で真実ならば誅すべきと、討ち手の
者達を定めておき、大永6年7月13日、高国の館へ香西は召された。香西元盛は自分がそのような
状況に置かれているなど夢にも知らず、何の警戒もなく急ぎ高国の館へ参り、遠侍に入ると、
若殿原二人が出迎え、「太刀と刀を渡されよ」と言う。香西は少しも騒がず太刀と刀を渡し
「何事があったのだろうか」と不思議に思う体にて座っていた。

その間、暫く時刻が過ぎた。細川高国は待ちかねて「香西は遅きぞ」と言った、
これを細川尹賢は聞き間違えたふりをして、かの討ち手の二人に云った
「香西は遅いと言われた!早く斬るのだ!」
二人は即座に走り寄って香西を斬り倒し、その頸を落とした。無残と言うも愚かである。

細川高国はこれを知ると「一体どう言うことなのか!?」と驚いたが、もはや力及ばず事は済んでいた。

その後、高国よリ、あの文箱を柳本賢治の元へ遣わした。書中に
『その方の兄である香西は謀反人であるから、国家のために誅するのだ。その方に今更恨みを含む
事ではない。年来の契約は忘れていない。今後いよいよ、忠義を尽くしてほしい。私は今までと
少しも変わらず、お前を懇ろに扱う』
これを誓詞に認め言い送った。

柳本は起請文を開かないまま高国の館へ持参し、「これは勿体なき仰せです。兄の香西元盛
逆心の罪科にて誅せられた事であり、私は少しも恨みを含んでおりません。
兄の罪科にお構いなく、前々のごとく私を召し使って頂けるとのこと、その御厚恩は生々世々に
報いがたいものです。この上は私に置いては、今後一層の奉公の忠を尽くして勤めます。」
そう感涙を流し宿所へ帰った。

その後、柳本は実際に努めて忠義を尽くしたため人々も感心し「流石道永禅門が年来目利きして
柳本を寵愛していたのは尤もの事だ。これほどの忠臣は世にも稀である。」
そう褒め称えたという。
(續應仁後記)

香西元盛謀殺事件のお話。だがしかし


高畠はついに討たれたのである

2018年04月02日 21:24

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/02(月) 18:17:33.74 ID:qMcYJTMR
細川高国が香西元盛を誅殺した後)

柳本(賢治)は兄(元盛)の仇を報いるために、1月27日の夜に入って嵯峨へ夜川引きに出るのに事寄せて
家子・郎従を引き連れ立ち出ていった。さて高畠甚九郎と柳本には男色の因みがあった。そこで柳本は高畠に

知らせようと北野辺りの宿所へ行き、高畠に向かって「今回のことは人の謗りを免れ難いので主君に対して弓を
引かんと存じ、丹波へ立ち退きます。貴方とは知音なので告知申すのだ。同心できないだろうか」と申された。

高畠はややしばらく思案を巡らせて返答し「貴方と知音のことは人も存じていることであるから、同心申したく
はあるのだが、主君と家臣の上下の礼、また恩義は至って重いのである。どうにも了承申すことはできない。

しかし、思し召して出立するのであれば留め申すこともできない。早く早く下向なさって用意なされるのです。
それがしに告知なさったことは朋友の交わりのもっとも深い間柄なので、主君に背き申して丹波に入りなさる
とは告げ申しますまい。貴方が仇を報いようと大軍を起こして出なされば、

それがしは不肖なりといえども、罷り向かって拒み戦いましょう」と申し、自分には君臣の義を重んじ、柳本
には朋友の睦を厚くして互いに退き別れた。その心中はまったく正しきものである。その後、柳本は嵯峨に

行って角倉の家に立ち寄り、心静かに酒を飲んで打ちくつろぐ様子を見せた。その様子から角倉は推し量った
のだろうか、鎧腹巻を取り出して柳本の門出を祝った。柳本は嬉しいと喜び、それより丹波の領地へ帰ると、
丹後・但馬など近国の勢を催し、2月17日に都を目指して攻め上った。

高国ならびに右馬頭(細川尹賢)は打って出て拒み戦うも、競って進む敵勢に捲し立てられて散々に打ち負け、
すでに危うく見えたところに、高畠甚九郎が「先頃の言葉を違えまい!」と乗り入れて名乗りかけ、ひとまず
高国勢は盛り返した。しかし無理に引き連れた者たちの勢であったので、続いて敵勢と返し合わせる者もなく、

高畠はついに討たれたのである。高国は都に留まることもできず近江を目指して落ちて行った。柳本は本望を
達してしばらく都にいたが、近江より佐々木(六角氏)が加勢して攻め上るとの由を聞いて丹波へ引き返した。

――『舟岡山軍記』


両葉去らずんば斧柯を用うるに至る

2018年04月01日 19:25

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 04:08:49.28 ID:1ZszLF6D
永正16年(1519)己卯、細川高国は管領として天下の政務を行った。弟の右馬頭(細川尹賢。高国の従弟)
は尼崎に住んで西国の沙汰を決断した。高国の家臣に香西(元盛)という者がいた。陪臣として諸事を執行し、

その威は主君よりも重く、その弟の柳本(賢治)もまた高国の男色の寵愛によって身に余る俸禄を蒙り、人に勝る
栄耀をなし、魯の哀公の季孫氏・叔孫氏、魏の曹叡の司馬父子の如く寵に媚びる者と交流を厚くし、睦をなした。
当家も他家も押し並べて、その門下に奔走したのである。

尼崎城を築くために香西兄弟も下向し、細川一家の人々は日夜土木の役にあずかった。その際に右馬頭の人夫と
香西の人夫が僅かな土を争って口論に及び、下部たち数百人が両方に立ち分かれて瓦礫打ちになったが、仲裁が
入り、両方へ引き分けて行った。右馬頭の者たちは城中へ入り帰り、香西の者は自分の丁場へ帰った。

ところが下知不聞の溢れ者が居残って城中へ瓦礫を打ち込んだのである。右馬頭が驚いて「これは何事だ!」と
問えば、しかじかの事と申すので、腹を立てながらも「下人に対して仲裁した以上は、また打擲すべきではない」
としてその場は静まった。右馬頭は日頃から香西の振舞いは我儘だと思っていたところに、この事が起きたため、

密かに高国に申して様々に謗り、偽りなさった。高国も「“両葉去らずんば斧柯を用うるに至る”という例えも
ある。それならば香西を誅殺しなければならない」と思い定めた。しかし香西を誅殺すれば柳本が自分に仕える
ことはないだろうと、彼の心を推し量って躊躇ったが、

「我が命に替わらんと志す柳本ならばよもや仰せには背くまい」と、柳本に宛てて如才なき真実を誓紙に書いて
文箱に入れたものを予め拵えておき、1月20日に香西を殿中に呼び寄せた。香西が何気なく、いつものように
出仕したところを、予め謀っていたことなので殿中で即時に誅殺した。高国はそのままかの文箱を柳本の

ところへ遣わされ、それには「国家のために誅したのである。其の方は恨みを含んではならぬぞ」と懇ろに仰せ
伝える内容が書かれていた。ところが流石の柳本なれば、文箱を開かずに持参して殿中へ参り、

「香西のこの頃の驕りの限りによって、このようになされたのだと存じます。国家のためですから、それがしは
少しも恨みを含み申してはおりません。御誓文を開き見るには及びませぬ」と、文箱を上に戴いて返し奉った。

そして柳本は「舎兄の不義に連座の罪科を御宥免なされ、それがしをもとのように召し使ってくださることは、
生々世々までもかたじけなく存じます」と申し、御前を退いて宿所に帰り、平生の行儀に変わることはないので、

(高国は)「漢の光武帝は兄の劉エンを更始王(劉玄)が殺したのに、言辞も談笑して元通りだったというのと
違わぬ。あっぱれ度量広き国家の忠臣なり!」と申した。

しかし柳本はこのままでは「主君とはいえ兄弟の仇に反抗せずにいるのか」という謗りを免れ難く思い、20日
ほど過ぎて図らずも思い立ち、丹波の領地へと引き退いたのであった。

――『舟岡山軍記』


天下が破れるということは、すべて

2018年03月31日 20:15

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/31(土) 05:15:28.72 ID:T7g+hrGD
さて、阿波国よりの御上洛を年々御願望であったが、澄元(細川澄元)は御他界なさった。三好父子も
他界なさり月日を送っていた折、京の高国(細川高国)は42歳の御時、大永5年(1525)乙酉4月

に御出家なさって法名は道永と申し、御家督を御子の六郎殿(細川稙国)に御譲りになった。そんな喜ば
しいという時に、六郎殿は御歓楽で御他界された。

「御曹司のことは道理の善し悪しでは考えられない。道永の御運の末ぞ」と人々が申した中、高国は
御家来の香西四郎左衛門(元盛)に敵心ありとして、大永6年丙戊7月13日に香西を屋形に召され、

是非なく生害させなさった。香西の兄・波多野(稙通。秀治の祖父)と同じく弟の柳本(賢治)は遺恨に
思い、阿波国(細川晴元方)と申し合わせて大兵乱を起こした。さて、香西四郎左衛門が生害させられた

由来はどういうことか尋ねると、典厩尹賢(細川尹賢)と香西四郎左衛門は仲が悪く、尹賢は連々と讒言
を申されて香西を亡き者にしようと企てていた。そんな時に香西の家来の物書・矢野宗好という者がいた。

香西は文盲の方で、常に半紙を10枚から20枚宗好に渡して置いて書札を調えていたのだが、折しも
宗好は公事ではないことを取沙汰し仕ったため面目を失い、牢人となった。宗好は諸々の詫言を申したが、

香西はしばらく懲らしめるためにそのままにしていた。その時、尹賢は宗好を頼んで「内々に過分の知行
を遣わすぞ」などと約束して、かの半紙少々の残りを使い、澄元やその他方々へ謀反を企てた作状を調え、

密かに高国へ御目にかけられた。高国は「香西四郎左衛門はそのような者ではあるまい」と不審に思し
召したが、判形がはっきりしている以上は生害させなさると内談された。とはいえども、なおも不審に
思し召したので、直に御尋ねになるとして小姓2人に仰せ付けられ、

「『直に御不審を御尋ねしたきことがあるので、道具(武具)を持ち出して御前へ罷り出てください』
と申して、道具を持ち出したならば召し連れて参るように。もしも香西が何かと申して、道具を持ち
出さなければ、生害させよ」

と命じなさった。両人が仰せの通りに香西に申し聞かせると、香西は是非に及ばず番所で道具を持ち出し、
御使者両人とともに参った。その後、座敷と通路の間で、尹賢が「(高国が)遅いと仰せられておる!」

と申された。これに両人が「すでにこちらへ召し連れて参りました」と申すと、尹賢は両人の耳元に寄り、
「生害が遅いと仰せられておるのだ!」と切り切り申された。

高国は両人に直に御尋ねになると仰せ付けられたので不審に思いながらも、いずれも若い方だったので、
わけもわからずに香西を討ち申されたのであった。尹賢の内存は、このように直に御尋ねになられては
自分の讒言が表れてしまうため、座敷と通路の間に待機して切り切り申されたのである。

高国の御内存は「道具を持ち出さなかったから生害させたのだな」と思し召して、是非に及ばれずに
手前を打ち過ぎたのであった。連々と尹賢が仕られるように御耳に入れたとはいえ、すでに生害した
以上はどうしようもないことである。

天下が破れるということは、すべて人々の讒言によって起こるのである。香西もかの半紙を宗好の方に
残しているとは思いも寄らず、かつこのようなことも文盲故であると世間に聞こえたのである。

――『細川両家記』


私は元々出家ですので、刀を

2018年03月27日 20:13

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 20:20:53.03 ID:0L5g/Ngu
江州両佐々木と申すは、六角は惣領であり、近江国人は彼の下知に従った。
京極は庶流であったが、佐々木道誉判官が足利尊氏への忠功莫大であったため、
公方より寵愛され、現在は四職の一つとなっている。

応仁の乱より、京極は細川勝元と一味し、六角は山名宗全に一味して、互いに敵となった。
応仁の乱で山名方が敗北した後も、六角一人京に従わなかったため、公方の御動座(遠征)も
度々行われた。

ではあったが、永正の乱の後は、公方からも細川高国からも頻りに六角高頼を頼るようになり、
六角は足利義稙の味方と成った。
六角高頼は既に老人であり、一男亀樹丸に家を譲った。亀樹丸は後に氏綱と名乗った。

しかし彼は片足短く、立居も不自由であり、現在のような大事の時には立て難いとされ、
次男が吉侍者といい、禅僧として相国寺にあったのだが、彼には武勇の器量があるとの事で、
重臣である多賀豊後守、蒲生下野守、田中四郎兵衛尉らが相談して公方に申し上げ、
還俗して高頼の名代として公方に預けられ、定頼と号した。
公方はこれを喜び、佐々木弾正少弼に任じた。

六角定頼は木刀を腰に挿して公方の御前に参った。公方が「それはどうしたのだ?」
と尋ねると
「私は元々出家ですので、刀を持っていないのです」
そう申し上げた。

公方はこれに笑いだし、国行の太刀を与えたという。
(足利季世記)



732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 20:32:17.36 ID:8tO6Yj5w
>>731
まるで無能のような印象の氏綱だけど、実際には10年ほど父の名代あるいは当主として積極的に活動していたみたいだね

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 23:36:42.67 ID:cVbL3AHp
毛利隆元に通じるものがある

およそ目を驚かせるその風情は

2018年03月25日 15:29

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/24(土) 21:51:56.60 ID:Ckif7DNX
近頃のことであろうか、摂津下郡の内に1人の大名(瓦林正頼)がいた。

当国の太守・細川右京大夫高国にとっては外戚なので、無縁ではないとはいえ代々忠節
を尽くした家臣である。およそこの頃は当国に限らず諸国は乱れて攻め合ったので、

かの戦国の七雄の昔と変わらず、ただ朝夕寄せつ寄せられつ攻め戦う、闘諍堅固の時節
となったのは哀しきことである。

(中略)

その後(船岡山合戦後)、色々の調停などもあって播磨と京は和睦になったとはいえど、
心の底では油断無き状態であり、その他に四国も大概は(高国方の)御敵となった。

摂津にしかるべき城が無くては叶わないと、国守(細川高国)は上郡芥川の北に当たる
場所に相応しい大山があったので、ここに城郭(芥川山城)を構えなさった。昼夜朝暮、
5百人から3百人の人夫が普請を続け、少しも止む時がなかった。

正頼もまた鷹尾城を構え、またその東に1里隔てて西宮より8町北に小清水という小山
があったものを家城に拵えて(越水城)、日夜ただこの営みばかりを行った。

毎日50人から百人で堀を掘って壁を塗り、土塁や櫓を設けたので鍛冶・番匠・壁塗・
大鋸引はまったく暇こそ無かった。これに加えて正頼は透間に連歌を興行し、月次連歌

も行われた。夜々には古文を学んで道を尋ねたので、実に文武二道を嗜む人であった。
ことに連歌は長所で、近頃の宗祇法師が撰んだ『新選菟玖波集』の作者にも入った。

かの鷹尾城には与力の鈴木与次郎を城掛として、その他しかるべき士卒がこの城を守り、
小清水の戴く本城には軒を並べ作って広げ、正頼の普段の居所とした。

外城には子息の六郎四郎春綱を初めとして、同名・与力・被官が棟を並べて居住した。
その他の住居に余る家人たちは大概が西宮に居住した。

およそ目を驚かせるその風情は、当国には並び少なき大名であった。

――『瓦林正頼記』

両細川の乱で一貫して高国に属し、勇戦を繰り返して栄華を誇った瓦林正頼だったが、
1520年、高国に謀反を疑われて自害させられたという。


三好之長切腹

2018年03月21日 11:58

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/21(水) 04:18:50.68 ID:MTdHNTUu
さて、同年(1520)2月27日に難波より三好筑前守之長が京へ上りなさり、都での威勢は
申しようもなかった。同3月16日、神咒寺より澄元(細川澄元)は伊丹城へ御入りになった。

「この分ならば千年万年」と諸人は思い申していたところに、また高国(細川高国)が近江国の
両佐々木殿(六角定頼・京極高清)を御頼みになって同5月3日に京東山白川表へ上りなさった。

この由を三好筑前守之長は聞きなさり、二条・三条・四条・高倉表へ陣取って心は猛く、樊カイ
の勇みをなされたが、敵は猛勢3万余騎、味方は5千に満たなかった。殊に頼みの香川・安富・

久米・川村は高国へ降参致したので、三好之長は叶わないと5月5日に賀茂の祭りを見捨てつつ
方々へ落ち行きなさった。そうして三好之長父子3人は曇華院殿へ忍び申されたのである。

澄元(細川澄元)は摂津伊丹城で御歓楽されていたが、京の合戦のことを聞こし召し、他を差し
置いて同7日早朝より生瀬口へ落ち行きなさったところ、瓦林対馬守(正頼)は堺津にいたが、

早くも船を拵えて渡海し、逃げなさる御跡を追っ掛けて雑兵以下2百人ほどを討ち取った。しかし
ながら澄元は支障なく播磨へ御退きになった。瓦林方より数々の首が京へ上げられ高国の御感あり。

さて三好之長父子3人は運が尽きてしまったのだろう、その夜の内にどこへも落ち行きなさらず
曇華院殿に忍びなさることは隠れなく、この寺を二重三重に取り巻かれたため、之長父子3人は

腹を切らんとなされたが、「今一度命を長らえねば」と思いなさり、高国へ御詫言を申されて、
誠に儚きことだが降参に参られた。子息・芥川次郎(長光)と同じく弟の孫四郎(三好長則)が

まず寺を出て同10日に高国へ御対面なさり、上京安達の宿所へ入りなさる。同11日に高国は
之長と三好新四郎(新五郎)も御許しになるとして、両人は曇華院殿を出なさった。

しかし、淡路彦四郎殿(細川彦四郎。父は淡路守護の細川尚春で前年5月11日に之長によって
殺害された)が「まぎれもない親の仇だから」と申し乞いなさり、之長は上京の百万遍(知恩寺)

で腹を切りなさった。三好新四郎がその介錯をして、御自身も腹を切った。淡路守殿(尚春)の
迎えり月(一周忌?)にこのようになったため、「ただ人間の因果が巡るのは早きものかな」と

人々は申したのである。同じく子息の次郎と孫四郎のことも、彦四郎殿より高国へ色々と申され、
「降参人を殺すのはいかがなものか」と高国は思し召されたが「それならば生害させなされよ」

と御返事があったので、彦四郎殿の御家来衆はかの兄弟の宿所へ同12日に押し寄せて「御親父
の之長は昨日百万遍で腹を切りなさった! 方々も只今腹を切りなされ!」と申したところ、

兄弟は親のことを聞いて涙を流して、「同じ腹を切るならば一緒に死んだというのに」と嘆き、
ややあって申して「人々よ、しばらく御待ちくだされ。国へ文を送りたいのです」として硯を
乞うと、2人は思い思いに書き留めてある人の方へ渡された。

その有様は、古の早離・即離兄弟が海岸波濤にいた時(南伝大蔵経の説話)もこうだったのかと
思い出されて、一段と哀しみも大きなものであった。そうしてまずは孫四郎が腹を切りなさり、

次郎が介錯をなさった。その後に御自身も腹を切られ、次郎が「侍はお互い様、誰でも介錯なさ
ってくだされ」と申されると、しばらくして槍長刀でその首を取った。

見た人が皆々涙した出来事や、かりそめながら人が死んだ出来事はこれまで七千余(大蔵経)に
記されている。もしこれを御覧なさった人は念仏の一遍も御唱えして供養なさって頂きたい。

あなかしこあなかしこ。

――『細川両家記』



621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/22(木) 04:46:27.17 ID:pTCzHqK1
>>620
息子たちの別れの手紙はちゃんと届けられたのかな?
硯を渡すくらいだから届けたとは思うけど

高国近江落ち

2018年03月16日 15:59

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 04:26:55.72 ID:l34Vc7iF
このため高国(細川高国)は丹波・山城・摂津国に触れを出しなさり、同年(1519)11月21日、
都を出立され、同12月2日に池田城へ御着きになった。越水城の御詰のために小屋野間九十九町・

高木・河原林・武庫・寺部・水堂・浜田・大島・新田・武庫川の方面に上から下まで陣を取り続けて、
折々合戦なさったのである。年は暮れて永正17年(1520)庚辰になり、1月10日に高国より

諸陣へ触れを出しなさり、2万余騎で打ち出た。諸口では合戦が終日あり、高国方の丹波守護代・内藤
備前守(貞正)は火花を散らして合戦され、切り負けて2百人ほどが討たれて退却した。阿波衆も百人
ほどが討死し、双方手負いは数を知れない。また高国方の摂津国の住人・伊丹兵庫助国扶は中村口へ

攻め掛かり、木戸や逆茂木を切り落として内へ込み入って申の刻から酉の終わりまで合戦し、伊丹衆は
打ち勝って阿波衆の首50余を討ち取り、勝鬨を作って制圧した。また同日に城中より、正門の木戸を
開いて2人の者が「我ら当国大島の住人、雀部与一郎!」「同しく弟の次郎太郎!」と名乗り、

「高国のため、また家のために命は惜しくない! 敵方は誰でも寄り合いなされ!」と、大声で叫ぶと、
澄元方の田井蔵人が名乗り寄せて切り合ったのである。雀部は切り勝って蔵人の首を討ち取ったが、

雀部兄弟も痛手を負って城中へ入り、それから4,5日して死去したのだった。対馬守(瓦林正頼)を
始めとして上下ともに惜しまぬ人はいなかった。城中では月日を送るにつれて気力を失い、

同2月3日の夜半に対馬守は安部の蔵人と談合して、城を開けなさった。この時、若槻伊豆守は老体で
あったため「どこまで」と思い切り、腹を十文字に切って死去した。

これにより後詰勢の衆は地田・伊丹・久々知・長例・尼崎へ引き籠った。そのため澄元方の三好筑前守
之長は難波へ陣取りなさる。他に澄元方は小屋・富松・生島・七松・浜田・新田へ陣取り、同16日に

1万7千余騎で尼崎・長洲へ攻め掛かり合戦となった。大物北の横堤には、高国方の香西与四郎が打ち
出て、三好孫四郎(長則)と渡りあって太刀打ちし、双方名を上げなさった。その日は暮れて雨も降る
ので両方は互いに退いた。このため高国は叶わないと思し召し、城々へ仰せ合わせられて、その夜中に

高国方は一同に京へ上りなさった。このような成り行きは「1月10日は西宮の御狩神事の日である。
“居籠”といって人音もしない日だというのに、攻め掛かけなさった御罰である」と人々は申した。

されば落武者の哀しさよ、高国は京にもいらっしゃらずに近江国へ落ち行きなさった。今度は公方様
(足利義稙)は澄元に一味して京におられた。さて伊丹城の中では伊丹但馬守と野間豊前守の2人が

申して「当城はこの数十年の間、諸侍や土民以下の者たちが苦労して拵えたというのに、その甲斐も
なく逃れては口惜しいことよ。我ら2人はこの城の中で腹を切ろう」と、四方の城戸を閉ざして家々
へ火をかけ、天守で腹を切った。これまた剛なる人かなと感心しない人はいなかったのである。

――『細川両家記』


越水城の戦い

2018年03月15日 21:30

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/15(木) 05:11:26.73 ID:0dI25yIH
時に永正16年(1519)己卯歳、秋の頃より澄元(細川澄元)は四国と播磨の勢を催して切り
上らんとの御談合をなされた。御家中の摂津の住人・池田前筑後守(貞正。細川高国方と戦い討死)

の子息・三郎五郎(信正)が申されて「今度、御上洛されるならば、摂津国口の先陣はそれがしが
仕ります!」と申し受けし、摂津有馬郡田中というところへ上って軍勢を揃えていると、高国方の

瓦林対馬守正頼、池田民部丞、塩川孫太郎が相談して、かの田中へ同10月22日夜半に夜討した。
ところが田中の勢へ通じた者がいたため、田中の勢は整えて待って戦ったので、攻め手は案内も

分からず、20日あまりのことなのでとても暗く、雨は降り、さんざんに切り散らされて塩川衆も
瓦林衆も身を変えられぬ人たちが数多討たれて、やっとのことで退却した。池田三郎五郎は首30
あまりを討ち取り、すなわち阿波国へ注進申された。

これにより澄元の御感あって三郎五郎に豊島郡一色を御与えになり、弾正忠になされ申したという
ことである。さて澄元は四国や淡路・播磨の勢を催し、三好筑前守之長の御供で兵庫浦へ着いて、

灘へ上りなさった。高国方の瓦林対馬守(正頼)は今度は越水城に立て籠り、澄元は「まずこの城
を攻めよ!」と、1万余騎で城を取り巻きなさる。澄元は神咒寺の南の鐘の尾山という山に陣取り

なさり、三好・海部・久米・川村・香川・安富は広田・中村・西宮・蓮華畑に陣取って、毎日合戦
なさった。城中には究意の弓ども(弓を極めた者たち)あり。中でも一宮三郎は比類なく聞こえた

者である。それゆえ三郎が矢を十放すれば7,8人に射当ててみせた。攻め手の人々はこれを見て、
例えば異国の養由基、我が国の源頼政や那須与一などの化身ではないかと、

この矢に恐れて月日を送った。そのため一宮三郎は一張の弓の威徳により、長らく御勘当を蒙って
いたのだが今回御許しを受けて、丹波国の本領は申すに及ばず、重ねて御領を賜ったのである。

――『細川両家記』



700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/15(木) 09:54:18.87 ID:Ea6WYNfJ
何気に越水城を検索したら見聞が広がった

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 03:47:30.01 ID:8Nb7SmTw
???「弓を極めたのなら合戦中で最初の警告と最後に残った矢を門に打ち込んだ以外はすべて命中させて一矢で3~4人射抜くくらいできるよな?」

船岡山合戦

2018年03月10日 18:47

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/10(土) 05:34:38.36 ID:3d2Fy6J6
このために澄元(細川澄元)よりもなおさら三好筑前守之長は無念に思い、都への望みをなさった。

さて、永正8年(1511)辛未7月に、澄元は武略を巡らせて赤松殿(赤松義村)を御頼みになり、
播磨勢を催しなさった。先軍の大将には、御一門の右馬頭政賢、同和泉守護殿(細川元常)、他にも
山中遠江守(為俊)や諸牢人を御立てになった。

また畠山上総介(義英)より遊佐河内守(順盛)などが立てられた。こうしてまず和泉国へ切り入り
なさった。この由を高国(細川高国)は聞こし召され、「追討せよ!」と摂津国勢を差し下された。
さて、澄元方の諸勢は和泉深井に陣を取り、高国方の諸勢は同万代庄というところに陣取り、同7月
13日に深井へ押し寄せて合戦となった。(深井の合戦)

京の高国方は1万余騎、阿波方は城中には無勢で籠の中の鳥であったという。漏れ出ることができる
様子ではないので、阿波方は思い切り面も振らずに高国方へ切り掛かった。高国方の衆は切り負けて
大将格は皆々討死し、雑兵以下3百余人が死んでしまった。残る勢は和泉堺へようやく逃げ入った。

こうして、その日に澄元方は欠郡中島まで切り上った。このため、淡路守殿(細川尚春)は摂津国
兵庫口へ渡り、灘へ上りなさった。ここに高国方の兵・河原林対馬守正頼(瓦林正頼)は摂津芦屋庄
の上鷹尾城に立て籠った。淡路守殿は「この城を攻めるべし!」と、灘深井というところに陣取り

なさった。この由を正頼より京の高国へ注進申し、高国は聞こし召して今度は馬廻の柳本又次郎入道
宗雄、子息の波多野孫右衛門、能勢因幡守(頼則)、荒木大蔵らをはじめとして30余頭を差し下し
なされた。この人々は思い切って、同7月26日に芦屋河原で合戦となる。(芦屋河原の合戦)

また鷹尾より河原林の手勢を合わせて戦ったところ、京の高国方は打ち勝って、淡路衆の首を百余り
討ち取り、京勢はすなわち明くる27日に上洛してこの由を申し上げられると、高国は聞こし召して、
たいへんな御感であった。このため、播磨衆はこの合戦のことを聞き思案に及びなさったが、

一度約束した上のことなので8月の初め頃に播磨国を立ち、同8月9日に鷹尾城を取り巻き、険しい
谷とも高い岸ともいわずに攻めなさった。そのため城内でもここを先途と戦ったのでその日は暮れて
攻め手も麓へ退いた。しかしながら、正頼は「城の中でこの分では叶わない」と思い、

同10日の夜半に城を開けてしまった。播磨勢は喜んですぐに伊丹城へ取り掛かった。そのため河内
からと播磨からの二手になって京へ切り上ったため、叶わないと思ったのか、

8月16日に公方様(足利義稙)と高国、大内左京大夫殿(義興)は都を他所に見なしつつ、丹波国
へ落ち行きなさった。その後、御談合されてやがて丹波より切り上りなさり、同8月24日、船岡山
で合戦となる。(船岡山合戦)

阿波澄元方は切り負けて大将の典厩政賢、畠山方の遊佐河内守が討死し、この他の人々も1千余人
が討死した。すなわち諸陣が破れたため、御所様(義稙)、高国、大内殿は悦の眉を開き、都へ
入りなさった。播磨勢は播磨伊丹城を攻め戦ったが“一陣破れて残党全からず”という本文の如く、

船岡山合戦のことを聞き同26日に生瀬口へ落ちて行った。此度の合戦において大内方の太刀打ちの
有様を褒めない人はいなかった。

――『細川両家記』


こうして民部少輔高国と申す人を家督に据え申した

2018年03月06日 10:39

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/06(火) 05:14:02.98 ID:j8Oj/9Vd
さて澄元(細川澄元)が家督を取りなさって目出度いところに、御内の
三好筑前守之長や高畠与三らはあまりに無道の振舞いなどがあったので、

「この分ではどうしたものか」と内々に呟かれ、京では奈良修理亮元吉、
摂津では伊丹兵庫助元扶、丹波では内藤備前守貞正が相談し謀反を企て、

「安房守典厩政国の子息・高国(細川高国)を主君となし申すべし」と、
永正5年(1508)戊辰4月9日、六郎澄元に背き申したたのである。
突然のことであったため、澄元はすぐに近江甲賀へ落ち行きなさった。

三好筑前守の子息・下総守(長秀)は伊勢国山田へ落ちなさったところ、
国司(北畠材親)より仰せつけられて生害させられ、(その首は)京の
高国へ上らせられたのであった。

こうして細川安房守の御子・民部少輔高国と申す人を家督に据え申した。
殊に筑紫の御所様(足利義稙)は大内左京大夫殿(義興)の御供により
堺津へ御上洛なされたので、事故もなく崇め申された。そんな折に、

摂津国の池田筑後守(貞正)は澄元方として自城に立て籠ったのである。
高国は聞こし召されて「それならば退治せよ」と仰せになり、

同5月初めの頃、高国方の典厩尹賢を大将にして猛勢が押し寄せると、
筑後守は物の数ともせず戦ったが、同名遠江守が高国へと参られたので、
攻め手はこれに意気込んで、5月10日に堀を埋めさせ厳しく攻めると、

城中より思い思いに切り出て、同名諸衆20余人は腹を切り、雑兵70
余人が討死したのである。「国中に同心する者もいないのに、かように
振舞ったことよ。大剛の者かな」と、感心しない人はいなかった。

――『細川両家記』



585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/07(水) 01:56:03.74 ID:n9jSo1KL
戦国初期も初期

島村蟹

2012年07月15日 20:45

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 21:43:39.02 ID:dHBxf5HS
島村蟹

享禄4年、細川高国浦上村宗と、細川晴元三好元長赤松政村(晴政)の間で合戦の火蓋が切られようとしていた。
そして、6月4日、三好方の諸勢が、打出、天王寺、木津、今宮に攻めかかった。
大物(だいもつ)崩れの戦いである。

細川高国はここを先途と防戦したが、その先鋒を務める浦上勢は小勢であったために敗れ、浦上村宗は討ち死にしてしまった。
村宗の臣・島村弾正(貴則)はこの事態に「無念なり!」と叫んで敵を引っつかみ、野里川の淵に飛び込んで死んでいった。

この時以来、彼が死んだ淵では甲羅に武者の顔のあるカニが見られるようになり、今に至っている。
周辺に住む者は、このカニのことを「島村蟹」と呼んでいる。
(足利季世記)

島村蟹とは、標準和名「ヘイケガニ」のことである。
遠浅の干潟でも見られるというこのカニは、そのインパクト抜群の姿のために様々な地方名を持っている。
江戸時代後期の『本草綱目啓蒙』という書物には、島村蟹の他にも、長田蟹(元ネタは「主をきり婿をころすは身のおはり むかしはおさだ今は山しろ」の長田忠致)、
清経蟹(平清経)、武文蟹(太平記の登場人物・秦武文)、治部少輔蟹(石田かどうかは不明)というようなものが挙げられている。

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 21:44:54.44 ID:dHBxf5HS
ちなみに、「標準和名」に歴史上の人物の名を冠する動物には、
例えば、昆虫では、ジョウカイボン(浄海坊=平清盛。火傷のような炎症を起こす別種の有毒昆虫と混同され命名されたらしい)

トウゴウヤブカ、トウゴウカワゲラ(東郷平八郎)、カミムラカワゲラ(上村彦之丞)、オオヤマカワゲラ(大山巌)、ノギカワゲラ(乃木希典)
(外人の研究者が名付けた「学名」を「和名」に反映させている)

魚類では、キントキダイ(坂田金時)、クマガイウオ、アツモリウオ
(それぞれの体色に由来)

シュンカンハゼ(俊寛僧都)、タメトモハゼ(鎮西八郎為朝)、ベンケイハゼ
(それぞれの標本の産地(薩摩硫黄島の対岸、運天港の近く、田辺湾)+容姿に由来するらしい)
等があるようです。

戦国時代の人物にちなんだ標準和名の動物とか、いかにもありそうな気がするけど・・・

タメトモハゼ「魚類に限って言えば、小耳に挟んだことも無い!」

まあ、変化球でアカハチハゼ(石垣島の豪族・オヤケアカハチ)とか、
伊達者という言葉に由来するという、お洒落な縞模様のダテハゼなんてのがあったりしますが。




516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 21:48:23.09 ID:poa2keyK
ハタハタ「サタケウオ・・・」
サナダ虫「・・・」

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 21:49:17.96 ID:poa2keyK
あ、標準和名の魚か失敬した

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 22:13:24.40 ID:dHBxf5HS
そうだ、サナダムシがあったね。
魚類くらいしか把握できてないもので、完全に忘れてた。

サナダムシ

形状が真田紐に似ていることからその名が付いた。
また、一説では徳川家康がサナダムシに苦しんでいた事から
「真田は虫になってまでもこの家康を苦しめる」と嘆いた事から家康が名付け親と言われる事もある。

あと、地方名なら戦国の人名由来のものは色々ありそうですね。

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 23:26:49.08 ID:KkSrYP1x
>>514
話の本筋からは離れるけど、
いわゆる「大物崩れ」って戦の範囲がえらく広範囲に及んでるんだけど、
これってどう解釈したらいいのかな?

細川浦上連合軍が西宮の神呪寺に布陣してた赤松勢に
背後から襲われて総崩れになったことになってるんだけど、
天王寺や今宮のあたりから大物まで延々と布陣してたなんて考えづらいし・・・


520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 00:17:39.65 ID:PKmFApoL
>>519
『後鑑』収録分を使ったので前後の文章が分からないけど、
ただ単に『足利季世記』作者の誤解または故意で、数ヶ月にわたる一連の戦いを
一日のものとして描いてるだけじゃないのかな?

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 06:08:15.45 ID:73R7Butz
>>514
    (~)
  γ´⌒`ヽ
   {i:i:i:i:i:i:i:i:}
  ( ´・ω・)  
  (V)    (V)
    し─J


522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 10:03:56.86 ID:jLTHAmro
蛍なんかゲンジボタル・ヘイケボタルだな。

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 11:31:50.35 ID:JUJOLVZM
しまむらガニワロタw

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/16(月) 20:08:41.44 ID:zifDkflF
>>515
あんま関係ないけど、スカシカシパンとかのカシパン類って昔は「桔梗貝」って呼ばれてたそうだが
明治の学者が菓子パンからカシパン類なんて権現様のようなネーミングをしたせいで今に至るという・・・

「ほのぼのと・・・」の歌の逸話、細川高国バージョン

2012年07月07日 21:08

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/06(金) 22:53:38.18 ID:qL2Lr2Gk
「ほのぼのと・・・」の歌の逸話、細川高国バージョン

大物崩れの戦で敗死した細川高国は、弓馬の礼法を糺し、何事も絶えたるものを復興し、
廃れたる道を尋ね聞き、和歌の奥義も知っているという人物であった。
そのため、公家も武家も皆、その死を惜しんだ。

また彼は、慈悲深く、感受性豊かな人物で、身分の上下にこだわらず才能を賞玩することが多かった。

この前、高国が播州へ落ちていた時、明石の人丸塚について尋ねたことがあったのだが、ある土民が承って
「ほのぼのと明石の浦の朝霧と詠めし人はこの塚の中」
と言うのを聞くや、「才覚あり!」として、白鞘巻の太刀を与えている。

土民は「忝し」と言って、恩に報いるため一族を数多引き連れて供を務め、今度の戦で討ち死にしたのだという。
(足利季世記)





大内義興帰国問題と朝廷

2012年03月31日 21:42

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/31(土) 14:20:14.87 ID:/BGKpUzg
永正5年(1508)6月、足利義尹(義材)は大内義興らのの援助と細川高国の支持を受け、足利義澄を没落させ入洛、将軍位に復帰。
ここに将軍義尹を細川高国大内義興が支える体制で、畿内は一定の安定を築けるように見えた。…だが大内義興は直ぐに帰国を望み、
これに将軍足利義尹は勿論、朝廷も大いに慌てその慰留に務めた。
以下、三条西実隆の日記、『実隆公記』より、朝廷側の動きを見てみよう


・7月23日
晴れ。夜になって小雨。
(略)

午後、阿野季綱が来る。大内義興の周防への帰国は決定的だという。帝が勅命で留まるようにおっしゃらないのは好ましくない。
この事について、内々に申し入れをする。帝直筆の女房奉書を発給して頂くこと、そして大内義興のもとに伝奏を派遣して頂くこと、
また私も内々に義興の元に参上するということの詳細などを内談した。そして、夜になってから小直衣に浅葱色の指貫を着て、
義興のいる六角の宿所に向かった。そこで勅書の旨に任せて対話をした。
神代紀伊守(貞綱)が出て来たので、彼に対して重ねて、京に在留することを説得した。そのうちに右大弁相公(勧修寺尚顕)も
やって来て、私と同じく勅命の内容を伝えた。その間のことについては、ここに記すことはしない。

今夜、大内義興の元に参上するという行為をすることに、我々の間にためらいがなかった訳ではない。しかし、確かに世間の称賛や
そしり受けることは確かに堪え難いことだが、今は天下のために、全ての事柄を忘れて行ったのである。
『道を守ることは簡単である。しかし、世評に応じることは難しいことだ』
これは古の賢人の格言であるらしい。実に厄介なことである。浮世の交わりとは誠に無益なものである。

帰宅の途中に、長橋局に直接参上し、勧修寺尚顕と三条西公条も同道した。私の家で、冷泉政為、甘露寺元長、姉小路済継らが、
先の件について聞いてきたので、おおまかな事情説明をした。

・24日
晴れ。
早朝、帝が新大典侍(庭田源子)を通じて、私が昨夜、義興を慰留した件について、色々と感謝の意を伝えられた。

・25日
賀茂在重が来て、大内義興が先日の夜の一件について、大変忝なく思っているということを語った。今日、大内雑掌を召し寄せて、
義興に帝の勅命の詳細を伝えたということらしい。

・28日
晩になって、阿野季綱が使者を送ってきて、

「今日、大内家家臣の陶興房と神代紀伊守(貞綱)らが室町殿(足利義尹)のもとに参上して、もろもろの御裁許を恐れ多い事だと申された」

と伝えてきた。これで大内義興の帰国は確実に無くなった。非常に目出度い事だ。
また、河州での合戦で(義尹派の)尾張守(畠山尚順)が勝利した。実に神妙な事である。

・30日
曇り。夜になってから激しい雨。早朝に賀茂在重が来て、ちょっとした報告があった。

阿野季綱から使者が来て、本日、大内義興が我が家を訪問するという事を、内々に知らせた。

夜になってから、大内義興が太刀を携えてやって来た。彼は先日の夜の事に感謝の意を表した。私は、この訪問について武家伝奏を通じて
詳細を報告する事を語った。義興は神妙なおももちで、重々しく感謝の意を表した。


大内義興は烏帽子をかぶり、自ら携えた太刀を私に贈った。私は、座った敷物の上で大内義興が帰るのを見送って感謝の意を表した。
その後、大内義興が来られた旨を、手紙で勾当内侍(東坊城松子)に報告した。

今日は、玄清庵で宗祇の追善連歌が行われた。私は発句を所望されたので、それを送った。そして、酒一荷三種も送った。

発句の内容はこうである

『とをき世もかゝらは風の葛葉かな』






482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/31(土) 19:17:19.21 ID:p+D/YpwV
>>478
この辺、西国の歴史の大きな分岐点の一つだよねえ

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/31(土) 22:08:57.71 ID:BMM6zWVr
>>482
戻っていれば、尼子の膨張はなかっただろうからねい。

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 00:53:12.53 ID:kqNjbGIi
義興が存命なうちは経久も大人しくしただろうか

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 10:09:50.44 ID:s7Ilnh3F
>>478
>『道を守ることは簡単である。しかし、世評に応じることは難しいことだ』
今も昔も、まつりごとは大変だな

永正十四年・将軍邸夜討騒動

2011年11月14日 22:00

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/13(日) 22:37:10.46 ID:1S2s1492
永正14年(1517)2月4日戌の刻(午後8時前後)、京三条の、将軍足利義稙邸に夜討ちがあるとの風聞があり、
世上騒動となり、驚き慌てる事もっての外であった。

紫宸殿から三条御所の方を見ると、夜討ちを警戒するため三条周辺に掲げられた松明が、まるで晴れた夜空の
星のように数多く輝いていた。
陣下の衆が少々馳せ参じ、外様番衆(奉公衆)も、将軍家直属であるため三条御所に馳せ参じた等、云々。

しかし夜討ちの事はあくまで風聞であり、実否が解らず騒ぎも収まらなかった所、将軍に従っていた神祗伯の
白川雅業(雅業王)が参内してその子細を申し上げるには、唐門役所において盗人の騒ぎがあり、その騒ぎを聞いた
者たちが夜討ちだと勘違いしてしまったとの事である。全く奇異の事だと云々。

あとで聞いた所によると、細川京兆(高国)が具足を着たまま各所に礼参したと云々。全く稀代の事である。

また、聞く所によると京の児女たちの間では、この日に天魔の祝儀があると言われていたそうだ。
さてさて、洛中の騒動はその為だろうか?

(二水記)

この時期の京の情勢の不安定さを、よく表している事件であろう。





6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/14(月) 06:45:01.38 ID:ifI3vtCO
大山鳴動鼠一匹か

お風呂に入ろう!

2010年11月06日 00:01

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/05(金) 18:18:40 ID:sRvqs+Oc
お風呂に入ろう!

戦国時代、風呂は今でいうサウナであったという。
そして京などには、風呂屋の存在なども確認されるものの、一般の家屋に置いては、
たとえ上流階級であっても必ず置かれる、という設備ではなかった。
そんな中風呂を焚くということは、人々を招いて行う寄り合いの場を設けることであり、
ちょっとしたベントでもあった。

その様子を、摂関家筆頭であり、当時太政大臣であった近衛尚通の日記
『後法興院生記』永正17年(1520)閏6月9日条より見てみよう


『細川尹賢(細川典厩家当主、摂津国分郡守護)が我が家の風呂を借りて焚いた。
これに京兆(細川高国)や細川高基(和泉半国守護)が入った。

その後食事など出し、細川家の面々は近衛尚通と対面し雑談、酒が出て盃を交わしていた所に
宝鏡寺、正受寺、継考院、久我女中(久我通言妻)、久我親子(久我通言・邦通)、
大徳寺女中(徳大寺実淳妻)、北政所(近衛尚通妻)、亜相(近衛稙家)なども現れ
相伴した。』


公家の当主だけではなく妻たちも集まり、賑やかな様子がよく見て取れるだろう。
この頃の風呂は上流階級の人々の社交上であったことがよくわかる記録である。、
やがて江戸期になるとこの感覚が、庶民にまで共有され、風呂屋が都市の多くの人々の
社交の場になったということであろうか。

そんな、戦国時代のお風呂のおはなし。




161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/05(金) 21:06:58 ID:HRHQbqfN
サウナか。いくら香を焚きしめても体臭いだろうな…。

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/05(金) 21:50:09 ID:az8OKsvT
温泉って贅沢だったんだね
今でもまあ贅沢だけど

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/05(金) 21:59:44 ID:BnolOS9G
温泉はあるところにはあるけど今と違って移動が果てしなく大変だからな
あとサウナといってもミストサウナが主流だったって聞いたような覚えがある

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 07:52:46 ID:JXdQMnCt
>>164
中国地方のあっちこっちに岩風呂ってのがある。
洞窟の中ででかい焚き火をして鎮火したら、水をまいてその上にゴザを引いて、みんなで着衣のままで洞窟に入る。
数百年前から伝わってるんだが、途絶えてしまって、最近地域で復活させたのとかもある。

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 11:24:52 ID:ds0xpDG1
>>174
それ、酸欠になりそうなんだが、大丈夫なのか?

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 21:05:08 ID:KZzJZvcw
>>175
そんな深い穴じゃないよ。
せいぜい10人ぐらい入るといっぱいになる規模

これはちょっと大規模かつ建築物を使ってる例
http://bunkazai.ysn21.jp/general/summary/genmain.asp?mid=50004&cdrom=

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 21:25:50 ID:zfS8oD4y
>174
小説の「一夢庵風流記」での蒸し風呂エピソードがそのタイプだね。
洞窟の代わりに巨大なかまどを作って中で火を焚く方式。
八瀬の釜風呂の法、とか言ってたっけか。