雪打ちで結城討ち

2017年04月06日 16:40

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/05(水) 21:22:58.17 ID:PQtuhGsS
永享12年(1440年)の結城合戦に敗れ、一時は滅んだかに思えた結城氏であったが、
赤松満祐が開いた祝勝のための宴において足利義教が赤松に討たれ犬死(嘉吉の乱)。
このため結城氏が忠節を尽くしていた鎌倉公方が復活、それに応じて結城家も、
家臣の多賀谷氏家によって救い出されていた結城成朝によって再興された。
その後、結城成朝は鎌倉公方足利成氏の名により関東管領上杉憲忠を殺害した(享徳の乱)。
しかし足利義政が鎌倉公方に代わる公方として、異母兄の足利政知を関東に下向させたため、
足利成氏方の中心の一人であった岩松持国を初めとした関東衆は次々と政知側についてしまった。
結城成朝も同様に政知側につこうとしたようだが、なぜか寛正3年(1462年)もしくは享徳11年
(足利成氏は享徳の乱の間、享徳の年号を使い続けた)、24歳で突然死してしまう。
「結城系図」「結城家之記」などによれば多賀谷氏家の弟、高経(享徳の乱で上杉憲忠を討ち取っている)が、
結城氏が幕府側に転向すると自分の身が危ういと考えたため、
大雪が降った時に雪打ち(雪合戦)と称して成朝を暗殺したという。
こうして結城合戦の際に救われた成朝は雪合戦(雪打ち)で結城討ちされたのであった。


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