FC2ブログ

細川忠興、結城秀康に行列の先を譲る

2018年11月07日 19:37

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/07(水) 08:53:33.90 ID:xWVo5T5h
細川忠興結城秀康に行列の先を譲る


慶長8年3月25日、征夷大将軍となった家康は御所に参内し拝賀の礼を行った。
その参内の行列のうち、武臣の参議少将の衆は塗り輿で供奉した。
越前参議(結城)秀康卿、豊前参議(細川)忠興卿、若狭参議(京極)高次卿、
播磨少将(池田)輝政朝臣、安芸少将(福島)正則朝臣である。

結城秀康卿は従四位の参議にて、忠興君が上首(従三位の参議)であったので
秀康卿の上に列するところを、(忠興君は)ご辞退なさろうとしたが
家康公は「官位の次第は乱すべきではない」と仰せられた。
しかしそのように取り計らおうと、(家康公が)前もって奏上されたため
秀康卿は(同年の2月25日に)従三位に叙され、忠興君はその次に付けられた。
これは家康公が(忠興君の辞退に)感心されたからだという。


――『細川家記』


スポンサーサイト

乗打騒動

2018年02月24日 11:30

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/24(土) 08:46:34.62 ID:ZPsYMZ55
伏見城の普請の時、福島正則の衆は過半が幟町より城へ参っていた。道が遠いため、何れも
馬にて通勤していたのだが、この時、越前三河守殿(結城秀康)が京より伏見へ向かっていた
先を、福島正則の家臣の侍が、馬にて通った。三河殿はこれを見て「乗打をしている者を捕らえよ!」
と命じ、家臣たちが追いかけたが、その者はそのまま乗り通ってしまい、後にいた挟箱持ちを捕え
「乗打した者は誰か、申せ!」と厳しく尋問した所、下者であったのですぐに申し上げた。

これにより、三河守殿より正則へ使いが送られた。
「御内である梶田八左衛門と申す者、乗打を致した故、我々に引き渡すよう仰せ付けられるように。」
使いはこれを非常に荒々しく要求したが、正則は
「御尤もです。いかにも詮索してこちらよりご返事申し上げましょう。」
そう申し、その後家中を詮索した所、梶田八左衛門

「当日、京より伏見へと向かいましたが、横合いには誰も見えませんでしたので、乘り通ったのです。」

このように申し上げた。これに正則も「それは乗打ではない。梶田は少しも気遣う必要はない。」
そう納得し、後日三河守殿へも「乗打の事について様々に詮索しましたが、我々の家中の者では
ありません。何者かが、嘘の名を証言したのでしょう。」と返事をした。

そして正則は「三河守殿は近頃になく不合点な人である」と、交流しなく成ったという。

(福島太夫殿御事)



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/24(土) 10:15:36.90 ID:JXhtM3Nn
まるで別人だな。同一人物の台詞とは思えん気配り…

山口軍兵衛という勇士

2017年11月21日 18:30

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/21(火) 13:37:42.65 ID:p2i0Waif
山口軍兵衛という勇士が有り、彼は結城黄門秀康に仕えて越前にあった。
強弓の精兵にて大太刀を好み、三尺(約1メートル)に余る腰刀を帯びていた。

彼は伏見にて秀康家の長屋に住んでいたが、この長屋は二階作りにて、三間梁にいたし、
出格子の窓四寸(約12センチ)ばかりを置いた小柱が立っていた。

山口はその格子窓を通して60間(約109メートル)先に的を立て、それを必ず射抜くほどの
手練であった。

ある時、人々が寄り集まっている中、山口の刀があまりに長く尺に余るとの話題が出た。
山口はこう答えた
「私はこの刀を、各々の尺短い刀同様に存じている故に、常に用いているのだ。
いざ使ってみせよう。その後で何れも御自由に言って頂きたい。」

そう云うと大太刀を抜いて三つ指にて柄の末を取り、何度も振り回すと、その場は
この太刀風の音が響くばかりとなり、これによって初め彼の刀について言っていた輩も、
閉口して退去するしか無かったという。

(士談)



家康、結城秀康を上杉景勝の押さえに

2017年04月05日 21:36

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/05(水) 18:15:13.56 ID:pFrrz65W
家康、結城秀康上杉景勝の押さえに


いわゆる小山評定の後(家康は)本多佐渡守(正信)一人を側に置き
結城秀康公を召し寄せて
「会津への進発はしばらくやめることにする。
 近いうちに(自分は)上方へ進発することになるので
 上杉の押さえとして差し置かれるべきなのは
 そこもとよりほかにはいないからだ。左様に心得ておくように」
と仰せられた。

秀康公は佐渡守の方へ向かって
「これは思ってもみない仰せで困惑しています。
 今度の上方においての御一戦は大事なことなので、御味方諸大名衆と
 申し合わせ、御先手で軍忠に励む覚悟でおりましたのに。
 上杉家の押さえとして御留守に差し置かれるべしとの仰せには
 たとえお気持ちに背くことになっても何度でもお断り申し上げる覚悟です。
 どうか御免下さりますように」
と申し上げられると、内府公(家康)は
「総じて今度のような大事の合戦に思い立って
 他国へ向かうことがあるとき、留守居の将を選んで残し置くのは
 弓矢の古法である。その上今度我らへ味方する諸大名からは
 証人などを出させてその人質を請け取ることになるのだから
 江戸、小田原の両城の内に差し置くほかなかろう。されば
 皆の安堵のため、確かな留守居でなくてはいけないと思ったから
 その方に申し付けるのだぞ」
と仰せられた。

秀康公が重ねて
「皆の安堵のため確かな留守居を差し置かれたいと思われるのでしたら
 幸い松平下野守(忠吉、秀忠同母弟)がいるのですから
 あの者を差し置かれればいいではないですか。
 私の方を上方へお供仕りますように」
と申し上げられると、内府公はいささか機嫌を悪くして
「皆の安堵のためだけなら、その方が申すごとく下野守でも済むが
 我らが出陣の後に何かが起こらないとは言い切れず
 しかも上杉景勝は我らの留守を見合わせて
 大軍を率いてくることさえあるかもしれないのに
 若輩の下野守で事は済むと思うのか。
 昨夜佐渡守も聞いていたが、その方は
 『今度上方の退治で上る時は、会津の上杉は手強き相手なので
  確かな押さえを差し置くのがもっともです』
 と申したのに、その手強き景勝の押さえをするのを嫌がるのか」
と仰せられた。

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/05(水) 18:15:35.53 ID:pFrrz65W
秀康公はお困りになられ
「今度の上方の御一戦にまみえることができないのは残念に思いますが
 ただいまの仰せの上は何も申し上げようもなく、畏れながら斯様に
 お請け申し上げるからには、出陣の後も御安心めされますように。
 白河の関よりこちらへ景勝などに顔出しさせることはありません」
と申し上げられたので
佐渡守は承って秀康公のお側へ這い寄り、お膝を叩いて
「さてもさても殿はよくもお申し上げになられた」
と申し、涙を流し泣いていると内府公も涙ぐまれた。

(家康は)御納戸衆を召し寄せ、御具足一領を取り寄せて
御前に置き、秀康公に
「この具足は我の若き時より何度も陣場へ着ていったのだが
 一度も敵に押付(鎧の背の上部)を見せることもなく、秘蔵の具足であるが
 今度大事な留守を申し付けるのでその方へ譲り渡す」
と言って秀康公へ下賜されたという。
 

――『落穂集』


秀忠は、参勤してきたとの注進を聞くと

2017年02月02日 22:37

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/02(木) 21:40:18.02 ID:zmgUxsFx
徳川秀忠は、江戸へ大名が参勤してきたとの注進を聞くと、必ず品川、千住口、
それぞれの筋道に遣いを送った。これらは皆重臣たちの役割で、大名より下の位の
者には、段々に軽い役人を上使としていた。

特に越前黄門秀康が江戸に参向してきた知らせを聞くと、必ず即座に自身で迎えに出て、
同道して江戸城に入った。

総じて将軍家においては、諸家が重んじている諸侯参勤については、いつごろ江戸に入ると聞かれると、
自然を装って鷹狩に出かけられ、その道筋であり江戸に近い千住、品川あたりで待ち、その場で大名に、
直に参勤を労り、それは作法の一つのように考えられていたが、いつの頃からか、それぞれの家まで上使が
向かうようになった。

(武野燭談)



573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/02(木) 21:44:27.35 ID:VVlWoBW2
あの兄弟は仲良かったのか
ちょっといい話

結城秀康の死去/家康怒りの改葬

2016年12月25日 17:11

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 14:37:00.84 ID:TsTbPz9n
結城秀康の死去/家康怒りの改葬


結城秀康は慶長12年には父家康により伏見城番に任じられたものの病が重くなり
3月1日に伏見から越前に帰国したものの、同年閏4月8日に34歳で死去した。
嫡男の忠直が江戸にいたため葬儀は大幅に遅れてしまい、わざわざ北庄まで
弔問にきた毛利輝元も痺れを切らして帰国してしまったという(『毛利家文書』)。

秀康は結城家菩提所の曹洞宗の寺、福井孝顕寺(結城氏は代々禅宗だった)に葬送され
孝顕寺殿吹毛月珊大居士と称したものの、それを聞いた家康が
「我が家の者は浄土宗である、結城を名乗っているのならともかく
 既に復姓し松平となっているのに、このたび禅宗に改めるとは何事か!」
と激怒した為家康の意向により、知恩院から満誉大僧正を導師として下向させ
満誉を開基とした浄光院(のち運正寺)を同年中に建立し、浄土宗へ改葬させて、
法号も浄光院殿と改められたという(『知恩院古記録』)。


――『福井県史』など



464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 16:11:14.91 ID:tyQB9IgX
増上寺は浄土宗だけど寛永寺は天台宗なんだが...

【ニュース】県庁前に秀康が“2人”?

2016年03月14日 18:35

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 19:24:19.35 ID:aCW8pZdW
中日新聞福井版2月21日
県庁前に秀康が“2人”? 結城会が新設に動く
現在の像「容姿」に異論
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/CK2016022102000199.html
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/images/PK2016022102100124_size0.jpg
PK2016022102100124_size0[1]
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/images/PK2016022102100125_size0.jpg
PK2016022102100125_size0[1]
江戸時代初期に福井藩の初代藩主を務めた徳川家康の次男、結城秀康(一五七四~一六〇七年)の騎馬像について、
結城家のゆかりの福井市民らが違和感をもち、新像の設置を模索している。福井城跡である市内の県庁前に立つ
現在の像には子孫関係者からも異論が出ており、インターネット上で「中国風」「日本の美意識がない」と批判
されたのを機に動き始めた。今の像を計画した市側は静観するが、二つの像が並び立つ日が来るかもしれない。 (中場賢一)

馬にまたがり、手綱を持つ姿で、県庁の来訪者を迎える秀康の石像。越前国北ノ庄(現福井市)入りから四百周年を
二〇〇一年に迎えたのを記念し、福井市と、市の歴史や文化を紹介する公益財団法人「歴史のみえるまちづくり協会」が
城跡を管理する県に贈呈し、〇二年に除幕された。

制作したのは県と友好提携している中国浙江省の石像作家。協会が依頼したが、デザインや制作先を決めた経緯について、
協会関係者は「当時関わった人が在籍しておらず、詳細は分からない」と話す。

建立直後から、結城家の家臣の子孫の市民らでつくる「福井結城会」には、秀康の子孫の結城松平家や結城家の関係者から
「イメージに合わない」と異論が届き、撤去するよう要請があった。ネット上では「中国風にデフォルメされている」
「日本独自の美意識が感じられない」と評されている。
会の片岡賢三副会長兼事務局長(67)は「不評や失笑どころか怒りを買っている」と新像を計画。秀康に関する資料を精査し、
銅像制作を手掛ける富山県高岡市の「竹中銅器」に昨年十二月にデザインを発注し、一月に完成した。

その姿は秀康が愛用していた唐冠形兜(とうかんなりかぶと)をかぶり、手には天下三名槍(めいそう)の誉れ高い
「手杵(てぎね)の槍(やり)」が握られている。顔は「ナマズに似ていた」ともされているが、イケメン風にアレンジ。
ただ、片岡さんは「あくまでたたき台」と強調する。




316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 19:44:56.84 ID:mmYKOCFu
容姿に異論、ていうからギイに似ているとか鼻が欠けた姿にしていたのかと思いきや

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 19:53:36.58 ID:Q9hijGnh
>>315
>「当時関わった人が在籍しておらず、詳細は分からない」
キックバック?公益財団法人の悪い話…。

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 21:14:50.13 ID:/SDAcKHs
>>315
>制作したのは県と友好提携している中国浙江省の石像作家。協会が依頼したが、デザインや制作先を決めた経緯について、
>協会関係者は「当時関わった人が在籍しておらず、詳細は分からない」と話す。

態々、浙江省の石像作家に頼むからこんな中華風な像なるんだよな
国内の製作者でも戦国の騎馬武者像を正しく作れる人がどれくらい居るかも分からんのに

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 23:42:28.69 ID:AcXeEgg+
>>315
御手杵を馬上で使える訳無いだろw
関係者に馬鹿しかいねぇwww

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 23:59:30.17 ID:wbpvzEpq
はい草

322 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/14(月) 01:14:31.04 ID:Vz9aN3QN
>>320
変に関羽みたいになっとるw

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 15:55:50.98 ID:X6LOFWbh
戦国時代騎馬武将の写真なんてあるわけないし
当時かかれた絵もおもいっきりデフォルメされてるので細部は全くの不明
誰も本当の姿なんて知らないし県庁前とおるほとんどの通行人も興味もないししりたいとも思わないので
わざわざ作り直す必要性もないだろう

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 17:24:28.52 ID:fT7s1wsQ
左手にサイコガン付けようぜ

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 17:38:31.19 ID:lbTjKK+/
ヒューッ!

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 20:04:24.99 ID:xlMMQtnb
>>323
鎧とかなら残ってるんじゃないのかな

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 20:36:53.05 ID:Yol0YFF+
馬具も馬術書もある

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 20:58:58.14 ID:egIkNCog
中華風にプロレタリア感が加わった何とも言えない石像だなとは思った
まあ結城秀康といえばあの脇立がなきゃって気もするし、どっちもあっていいんじゃないの

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 10:28:25.24 ID:4eCAY+2k
中華風にリアリィティないというなら各地の駅前とかにある馬上戦国武将像もあれだろ
ポニーサイズの馬に変更しないと・・・

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 13:38:45.21 ID:utlpfOlk
>>339
ポニーだって体高150くらいあるの知ってる?

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 13:42:56.47 ID:vNIvEO5E
>>315
たぶん、碌な資料も渡さずに発注したんだろうな。
秀康像の困惑顔は作家の本心を表してるに違いない。

越前の息子は気がきかぬもんだ

2016年02月05日 12:42

263 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/04(木) 21:44:32.83 ID:3DvQj37O
萩田主馬という武士がいた。謙信の小姓を務め、景勝の代は武者奉行を務めた。
文禄の頃に、景勝に不満を持ち出奔し、結城秀康に召し出された。

そんな主馬のことを、城和泉という人物が駿府で悪く言っていた。
それを聞いた家康は「お前の父こそ越後にいたが、おまえは甲州生まれ。
なぜ上杉家中のことを知っているか。武勇などはその家中にいて見聞きしたものが言うことが正しいはずだ。」
と和泉を叱責し、その場にいた元上杉家臣の畠山入庵親子に主馬のことを尋ねた。
すると入庵は「彼は私と同じ組に所属し、まだ孫十郎と呼ばれていた頃、越中の戦いで一番槍
の武功を上げました。また、三郎景虎との戦いの際も、北条丹波守ほどの猛将に槍をつけました。
それ以外にも小さな手柄がいくつかあります。」と言った。
それを聞いた家康は「和泉の言ってることと全く違うようだ。これほどの男がまだ小身では、
他のものに示しがつかん。越前の息子は気がきかぬもんだ。」と上意にて主馬に越前内1万石を与えた。



265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/04(木) 22:09:04.92 ID:L4uYsazJ
>>263
そんな事で万石って譜代が泣くような気が

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/04(木) 22:36:11.83 ID:skHtTlEM
>>263
小栗又一「俺2500石…」

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 20:00:45.43 ID:YbTuBWnL
>>265
御館の乱当時に北条高広(息子の景広の方か)を討ち取ったって言うなら超大手柄じゃん
御館の乱の三郎景虎側の大ボスの一人でこいつが打ち取られたことで
景虎方は戦を主導できる大将格がいなくなって補給線を全部景勝に奪い返され糧食すら手に入らなくなり
他の景虎方武将はみんな景虎見捨てて自領に戻るわ戦線大崩壊だぞ

ただ畠山のジジイは俺はあの謙信の側にいたんだぜ自慢と
景勝に思ったほど大事にされなかった鬱憤が見え隠れして割りと信用ならんw

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 21:09:59.92 ID:MKwMVgw5
槍働きの武辺者に一万石はないな
今川義元を討ち取った毛利新助は終生鳴かず飛ばずの旗本
毎回のように一番槍をつけた小栗又一でも2500石

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 22:40:24.25 ID:pE5hnD8W
息子と譜代には厳しいが外様には良い顔したい大御所家康

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 23:21:19.83 ID:PA31tfTA
外様にも優遇しておかないと、外様なだけにいつ裏切るかわからないからな

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/06(土) 13:34:17.72 ID:wb+py24X
永井直勝が井伊直政に

外様は世間様、おれら譜代は身内。報奨に差がつくのは当然って諫めてる話があったな

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/06(土) 14:33:10.37 ID:j/0n4pGT
>>263
これって城和泉正宗の城和泉
名刀持ってるわりに、やる事が小物っぽいな

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/06(土) 23:53:15.06 ID:JGIn8Z6z
名物といえど持ち主は選べませんから

何れにしても正則の心の中は

2016年01月03日 18:10

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 18:04:03.86 ID:ygS9hngH
関ヶ原の後、慶長6年に結城秀康が越前の地を与えられ入部した時、福島正則は自ら
北庄に赴きこれを賀した。そこで、秀康の家臣の方を向いてこんなことを語りかけた

「私はこの後も常に門下として伺候したいのだが、滞在する家がないのでそれがかなわない。
家を作るべき土地を給わりたい。
また、その後正則が年来の好を忘れて参らなくなったとしても、守殿(秀康)に天下の御大事が
あれば、正則は必ずお味方仕るだろう。

さりながら、私には太閤殿下より仰せ置かれた旨があるので、この身が秀頼公の世にあるかぎりは、
なかなか心に任せることも出来ない。」

そういうと暇を請うて帰っていった。

私(新井白石)が想像するに、秀康公は太閤秀吉の養子であったので、正則はその好を思っていたのでは
ないだろうか。また秀康公の御身に天下の御大事あらんと言ったのは、秀康公は秀忠公の兄であったので、
家康公がお亡くなりになれば、必ず天下をめぐって争いが起こると考えたのではないか。

何れにしても正則の心の中は測りがたいことである。

(藩翰譜)

「もし大将をお許しになるのなら、私はここに留まります!」

2015年10月28日 08:34

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 20:50:43.24 ID:DVPqIe60
会津征伐の途上にて石田三成の挙兵を知った徳川家康は、小山にて諸将と軍評定を行い、
その後息子である結城秀康を呼んだ。

秀康が家康の陣所に参ると、本多正信が迎え出て
「少将様(秀康)、天下の安否は今日に決します。よく心してお答えなさいますよう。」
そう申し上げると跡に従って家康の御前へと出た。

家康は東西の軍事状況を秀康に説明し、
「秀康、お前が私のためにここに留まって関東を鎮めるならば、私は上方に向かって戦おうと思う。
これをどう考えるか?」

秀康はみるみる機嫌を悪くし
「この秀康、どうして御後に残りましょうか!?ただどこまでも、先陣をのみ望んでいます!」

しかし家康
「上方の軍勢は、みな国々からの集まりに過ぎず、それが何十万騎となろうと何ほどのことがあろうか?
しかし上杉家は累代関東の大将であり、中でも故輝虎入道(謙信)の時に至って、弓矢を取って
天下に肩を並べるものは少なかった。その子として景勝は、幼少の頃より合戦の中で成長し、
歳も既に老け、現在彼に対してたやすく合戦の出来るものは多くない。
天晴、お主のためには良き敵ではないか。

海道に向かって打ち込みの戦をするより、お主一人ここに留まって合戦をすることは、
且つは弓矢取っての面目、且つはこれに過ぎたることはない、何よりもの孝行である。」

そう語ると、秀康は少しの無言の後
「…合戦は、必ずしも軍勢の多少には寄らぬと承っています。上方の大将にも、名を得たもの
少なく有りません。軍勢の規模もきっと多いでしょう。

秀康は未だ合戦に慣れていませんが、景勝一人の軍勢と戦うのに、何ほどのことがありましょうか?
もし大将をお許しになるのなら、私はここに留まります!」

本多正信はこれを聞くや感極まった
「よくぞ仰せに成りました!関東を鎮められるというのなら、その大将に参らせられること、
仰せにも及びません!」

家康も世にも嬉しげに、しきりに涙を流し、自ら鎧一領を取り出して
「この鎧は私が若い頃より身につけ、ついに一度の不覚も覚えなかったものだ。
この、父の嘉例に准じて、今回奥方の大将として良き戦をし、天下に名をあげるのだ!」
そう言ってこれを与えた。秀康も心地よさげに御前を下がり、下野国宇都宮に陣を取り、
関ヶ原の役の間、関東を鎮めた。

上方で西軍が敗れた後、景勝も降参を乞うて伏見へと参った。
秀康にはこの勲賞として越前国が与えられ、明けて慶長6年5月、福井城へと移った。
(藩翰譜)




893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 21:24:59.96 ID:3XFxN570
>家康も世にも嬉しげに、しきりに涙を流し

利用する為には、子供に対してもこんな小芝居しなきゃならんのか

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 23:14:33.66 ID:74kpQ63m
秀吉もそうだがこういう時にちゃんと泣けるのが天下人なんだろうよ

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 07:39:19.25 ID:jibHBUEb
演義の劉備は泣いて皇帝になった、と言われるが
実際役立つんだな

徳川家康「おおよそ殉死というものは」

2014年09月29日 18:50

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 19:36:40.17 ID:bayXO4W9
慶長12年(1607)3月、徳川家康の四男・、松平武蔵守忠吉が江戸において病卒した時、
近臣である稲垣将監、石川主馬、中川清九郎などが追腹したと徳川家康が聞いた時、殊の外
機嫌を悪くした

「江戸の老臣たちはどうしてこれを制しなかったのだ!?制しても聞かぬのなら、将軍へも申し
厳かに咎を申し付けるべきなのだ!」

そして重ねて、この様に言った

「おおよそ殉死というものは昔から有るものだが、これは意味のない行為だ。
それほど主人を大切に思うのならば、己が身を全うし後嗣に仕え忠義を尽くし、万一のことが有れば
それに臨んで一命を投げ打つ事こそ誠の忠誠である。何にもならぬ追腹を切るのは、犬死にというものであり、
事のつまりは主人がうつけで、重ねて禁じおかない故である!」

この家康の発言は江戸にも聞こえ、その年の閏4月、越前黄門結城秀康が北之庄で卒去した時、
将軍家よりかの家に御書が送られ、その中で第一に殉死を止めた。駿府の家康よりも同じ趣旨が
仰せ下された。その大略は

『黄門が卒去したことにより、殉死の者があると聞き及んでいる。
一旦の死は易く、後嗣を守り立てて節を尽くすのは難し。北之庄は北国枢要の地であり、国家鎮護の
第一であれば、死去した黄門に忠義を尽くそうと思う者は、一命を全うして後命を待つべし。
ゆめゆめ無益の死を遂げるべからず。もしこの旨に違背する者は、子孫までも絶えさせるべし。』

この書が到着する前に、永見右衛門、土屋左馬助といった秀康の近臣が殉死したが、その他に殉死したものは
無かった。

殉死に関してはこれ以後も重ね重ね厳禁したため、家康の死去の時も秀忠の時も、殉死する者はなかった。

(徳川実紀:東照宮御實紀)

徳川家康の、殉死に対する考えを表した記事である。




395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 20:48:52.22 ID:DZVv7E0o
権現様は家臣が最大の宝って言い切る人だもんねえ
追い腹なんていう益にならないことで死なれるのは許せないか

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 21:00:50.34 ID:eNLoSSs/
現代でもアイドルとか自殺すると後追いする人が出るからな

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 06:57:27.20 ID:6q8pVIeQ
忠吉が処刑や戦場での死以外で殉死者を出したはしりの人物と言われているね
この後から殉死が流行りだした

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 11:21:02.93 ID:esA5HWjc
江戸時代の殉死者はある意味で日本の同調圧力に殺されたとも言える

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 11:24:02.58 ID:1BBydUsO
>>401
家族や子孫のための、営利目的の「商腹」って物があってなあ…

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 11:55:54.92 ID:ZXz9rxM1
追腹斬るまでがお仕事です

404 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/09/29(月) 19:11:16.41 ID:sXyecKUG
同調圧力で殺すことはあっても、自分が死ぬ奴はいないだろw
なんのための同調圧力だよw

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 20:49:49.34 ID:PnoCTjTN
新規で重用されたら死ぬのが当たり前みたいな風が嫌やわあ

ところが、その働きは

2013年07月27日 19:55

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 17:56:40.59 ID:93qgSNue
服部正成の子正重は徳川家康の側に勤仕した。

慶長五年九月十四日に、家康は正重を呼んで「お前の父祖は数度の戦功があり、
お前もまた若年にして今度の戦場に従うことはとりわけて健気である。
かならずしも危うい働きをせずともよい」と懇ろに言葉をかけられ、御盃を賜った。

正重はこの上意をありがたく感じ「明日戦場にのぞんではきっと一番槍の高名を遂げる」
と心がけ、十五日のいまだ合戦の始まっていない時に敵陣近くへすすんで行き、
朱具足に猖々緋の胴肩衣を着た武者と槍を合わせ、ついに突き倒して首級を獲た。

ところが、その働きは抜け駆けに当たるとして家康の勘気を蒙ってしまい、
結城秀康の執り成しによって許された。

――『寛政重修諸家譜』





上方の武辺とは

2013年05月18日 19:54

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 18:14:35.61 ID:NW8/BH9g
江口(たぶん正吉のこと)は丹羽の亡き後に、
越前の黄門君(結城秀康)へ召し出されて一万石を所領した。

越前の家子に高木勘平という武勇の者がいた。高木は新参者が一万石を領するのを怒って、
ある時、江口の膝に迫り寄り、「上方の武辺とは、どのようなことを申すのだ」と問うた。

江口はこれに答えて「上方の武辺とは、人に武辺者と言われ、ここの殿の様な所へ
召し出されて、高い知行を取ることを申すのだ」と言った。

すると、高木は尾も無き様子で「うん」と言って退いたという。

もし江口がその時に「私の前々よりの武功」など言ったなら、
高木は「自分もそれくらいの事を八百回もしたぞ」と言おうと思っていた。

江口は武のみにあらず、才もすぐれた者なので、よく返答したのだ。

――『老人雑話』




631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 19:58:10.06 ID:rrY+3lO/
むしろ尾も無き様子が気になる

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 20:11:05.67 ID:futhla0H
越前の逸話なのにキチガイが出てこないなんて!

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 01:37:57.29 ID:IDLcGgKx
>>631
文句付けようと思ったら上手く交わされて
「お、おう……」
がある意味一番正しいんじゃないかなあw

どっちかと言うと
「丹羽の亡き後」
の長重のすっ飛ばされっぷりが気になる

本多正純のこと

2013年03月18日 20:00

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 17:20:13.65 ID:dmvAtqb1
台徳院様の御時に本多上野介殿の身が果てたことについて、世上には色々と雑説が多く、
逆心の様に取り沙汰されるが論じるまでもないことだ。上野介殿は誠に忠臣というべき人である。

父佐渡守は智謀の深き人ではあったがいやなる人で、上野介殿はその子ながら父には似なかった。

権現様が最初に結城の秀康公を御立てになるべきか、台徳院様を御立てになるべきかと老中へ
意見を求めた時、佐渡守は「秀康公は一度太閤へ御養子になされ、結城の家を御継ぎに
なったのですから、天下は秀忠公が御継ぎなさるのが当然の理でございましょう」と申され、
老中はいずれもこれに同意した。

しかし、上野介只一人が「佐渡守の申すことではありますが、私は左様には思いません。
どのようであれ、秀康公は御長子でございます。只今までは太閤に御遠慮にてわざと御疎々しく
なされたといっても、御父子の情に変わりはないのですから、長子に御生まれになりながら、
庶子になられては御痛わしきことです。秀康公こそ御順道と思います」と申された。

その時、佐渡守が「悴は何を思って粗忽なことを申すのか!」と叱られると、上野介は座を立たれた。
結局は佐渡守の考えに極まり、秀忠公を御総領に御定め、秀康公は越前へ封ぜられた。
台徳院様はこの事を殊の外御遺恨に思し召された。

――『鳩巣小説』




942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 21:46:50.73 ID:6bSE+HXy
秀康が西軍に着いちゃえば面白かったのになー

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 21:52:41.87 ID:4X1WrXap
秀康がもう少し長生きしたらな

天晴れ、内府の御子

2012年10月05日 20:38

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 17:14:09.51 ID:f62JAsST

小山評定により今後の対応を決定した徳川家康上杉景勝の押さえとして
結城三河守秀康を残すこととし、松平玄蕃允家清を使いにしてその旨を伝えた。

しかし、秀康は「上方の戦を捨ててこの地に残るとは思いもよらなかった。
例え父君の仰せでもその儀には従い難い!」と憤慨し、梶原美濃守と原隼人を
家清に同伴させて、家康に上方への出陣を願った。

「三河守の若さではそのように思うのも無理はない。直接話したい故、急ぎ本陣に参れ」
家康が梶原らにそう伝えると、秀康は本陣にやって来て家康と対面した。

「此度の上方の敵は何十万騎いようとも烏合の衆にすぎない。一体何程のことがあろうか。
しかし、抑えなければならない上杉家は謙信入道以来、弓矢を取って天下に並ぶ者はいない。
また、景勝は幼弱より軍の中にあって、その武名はとても広く知られている。

今彼と容易く戦えるような者はいないだろう。それだけの者を相手取ることが、
おことの面目を著しく損なうようなことにはなるまい。それに上方へ向かう人々や
その家人らは人質を江戸に留めている。関東の守りが薄くては人々の心も堅くはならず、

勇気を振るうこともできないだろう。そうしたことを考えれば、景勝を抑えるためには
おことをこの地に残さなくてはならないのだ」

話を聞いて秀康も終いには残留を了承した。家康は殊の外嬉しい様子で涙を流し、
自ら着背長を一領取り出した。

「この鎧は儂がまだ若い頃より身に着けていた物だ。これを着ていると不覚を取ることは
一度も無かった。父の佳例になぞらえて奥方の大将となり、名を天下に揚げるのだ」

秀康は心も打ち解けて、心地よく鎧を受け取った。すると本多正信が秀康の側に進み寄り、

「よくぞ殿は御受けなさいましたな! 大殿が一統の功を立てなさるのも、この御一言によって
定まりました。天晴れ、内府の御子にございますぞ!」と、秀康の膝をしきりに叩いて喜んだ。

――『徳川実紀』




726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 18:05:17.51 ID:MIIXgLVq
>>725
秀康を信用してたんだな実子だし99%無い話だけど家康が関が原に向かったあと秀康が謀反起こしたら
とんでもないことになるからなそうなったら伊達や最上も寝返る恐れが出てくるし
秀忠や忠吉じゃ対上杉戦には心もとないからな

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 18:06:43.32 ID:4wttK68v
運命の巡り合わせなのか、九州、小田原、朝鮮、関ヶ原と毎回大戦の中の動きの無い場所担当になるよねこの人は。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 18:27:01.09 ID:juFqUsIZ
手柄たてると実父も養父も困ってしまう微妙な立場だもの

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 18:30:25.57 ID:Bx8jRiDT
抑えってなんもしないのが仕事だから簡単そうに見えて、実は難しいもんで
ちょっと違うけど、溺れてる人間はパニクらずもがかなきゃ自然に浮くのは頭で分かってても、なかなか出来ないようなもんで
駆けずり回るだけが働きじゃないんだなぁ

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 18:38:30.08 ID:uBKtLrES
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

柳生新陰流の極意なり

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 20:45:55.88 ID:aVbq8uSS
対上杉は家康は完全に秀康に一任してるよね。榊原、正信、大久保をつけた秀忠と違って配された重臣って平岩親吉ぐらいだし。
不仲なんてもってのほかだろうな。

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 20:59:52.44 ID:MNnGkwRU
>>731
でも養子に出たとか、いろいろあったにしても、跡継ぎにしてない時点で
どうしても不仲に見えてしまうけどなw

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 21:01:37.79 ID:7dNJWe3w
>>732
母親の身分が、他と比べても著しく低いからしゃーない。
秀忠の生母西郷氏は三河守護代家の家柄だし。

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 22:41:38.53 ID:1PlcJx60
>>731
当初は秀忠も残してたけど、上杉が撤収しちゃって暇になったから
秀忠を真田討伐へ投入しただけだね。

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/06(土) 09:34:15.97 ID:Thi7JGJa
>>732
織田信広とか他の庶子で後継げなかった者はいっぱいいる。
その中で秀康は活躍できたほうじゃないか。

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/06(土) 13:11:03.45 ID:ojgsjiKr
・・・先生!まーくんは敵じゃないってだけで信用しちゃいけないと思いますw

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/06(土) 15:04:13.63 ID:Liro16MX
まーくんには鮭さんを傍に当てておけば勝手にいちゃいちゃして大事にならないから大丈夫だっ!

徳川家康「その道存とは誰だ」

2012年09月25日 20:28

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/24(月) 18:24:46.93 ID:tt2gFvNR

松平忠直は讒言を信じて家臣の布施但馬(久世但馬守)を殺害した。
この時、表口より本多富正、好寄屋口より永見伊右衛門、台所口よりは
永井道存が討手として遣された。

その話を聞いた徳川家康が「その道存とは誰だ。
他の二人のようにこのような時に出るべき者なのか」と尋ねると、

本多正純が「それは永井善右衛門のことでこざいます」と答えた。

「善右衛門のことか! 親の秀康の心にかなわず退去した者を
その子が使っておるのか!

他所に口に糊する所がなかったのだな。親が見限った者を
子として養う道理はない。我が生前に再び道存の面を見ることはないだろう!」

家康は相当不機嫌だったようで、忠直としても放置しておくわけにもいかず、
道存は逼塞を命じられた。

――『徳川実紀(武功実録)』




564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/24(月) 21:30:29.62 ID:maC7aOIv
権現様も最終的には秀康のことかなり評価してるっぽいんだよなあ
秀忠に対する礼の篤さが権現様の心を溶かしたのか

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/24(月) 21:46:59.11 ID:c7kC9PRQ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2690.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6023.html
上の話だと永井善左衛門は、秀忠に壺や刀を献上して徳川家に戻った、てことになっているが
秀忠は親の家康の心にかなわなかったものの帰参を許したことに?

秀康二話

2012年06月13日 21:00

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/13(水) 18:53:53.33 ID:Ip47AwPS
まだ出ていないと思ってwikiから引っ張ってきました

その1 「秀康と相撲観戦」

秀康が家康と伏見城で相撲観戦していたとき、観客が熱狂して興奮状態になり騒ぎ始めた。
すると秀康は観客席から立ち上がって観客を睨みつけた。
その威厳に観客の誰もが驚き、騒ぎは一瞬で静まったと言われている。
この秀康の威厳には家康も驚き、『校合雑記』には「今日の見物ある中に、三河守(秀康)が威厳驚きたり」と述べたという。

その2 「秀康と阿国」

秀康は弟の秀忠が徳川氏の家督を継いだとき、伏見城代を務めていた。
出雲阿国一座を伏見城に招いて、阿国の歌舞伎を絶賛した後、
「天下に幾千万の女あれども、一人の女を天下に呼ばれ候はこの女なり。我は天下一の男となることかなわず、あの女にさえ劣りたるは無念なり」
と、こう漏らしたと言う。





紀伊国の牟婁郡一ノ瀬の山本家

2011年10月19日 22:02

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 16:32:43.61 ID:w0qg+f8m
紀伊国の牟婁郡一ノ瀬には山本某という人物があった。この山本家は、後の石高で言えば三千石ほどの領主であった。

山本某は、豊臣秀吉の紀伊征伐に反抗した日高の湯川氏に対しては聟、また玉置氏の従兄弟という関係であり、
この縁からも彼らと一味し秀吉に激しく反抗した。

やがて紀伊征伐の後自分の領地に引き篭っていたが、藤堂高虎がこれを騙して呼び寄せ、那賀郡粉河において
腹を斬らせたという。

しかしこの山本氏の子が一人残り、後に越前少将(結城秀康)に召しだされ、山本作兵衛と名乗り、知行千石ばかりを
取ったという。

この山本家は今も越前松平家で伊予守様(松平忠昌)に従っているそうである。いつ頃越前松平家に召抱えられたのかは
解っていない。

(紀伊国旧家地士覚書)





412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/20(木) 17:53:30.48 ID:DsZEjTSV
>>406
豊臣に楯突いてもお家が存続した、いい話じゃね?

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/20(木) 17:57:49.60 ID:72Gec9Ki
>>406
騙されて腹切っただけなら悪い話だけど、その後は普通にいい話だね
秀康兄さんはいろんなの召抱えるのは好きだね 秀康兄さんに限ったことじゃないけど

秀吉方が最初人質として要求していたのは…

2011年05月26日 00:00

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 01:36:14.24 ID:T4zBUTx8
天正12年(1584)冬、大阪の羽柴秀吉は小牧長久手講和の証しとして、徳川家康に
人質を要求する。この時家康の次男、於義丸(後の結城秀康)が送られたことは有名であるが、
実は秀吉方が最初人質として要求していたのは、この於義丸ではなかった。
秀吉が望んだ人質は、家康の異父弟、松平定勝であった。

この秀吉からの要求を家康も基本的に受け入れた。
が、大阪に定勝を出すことに強硬に反対する人物が現れた。家康の実母、於大の方である。

彼女は家康に向かって深く嘆き、

「三郎四郎(定勝)の兄である源三郎(松平康俊)は最初今川家の人質となり、
その後武田信玄の駿河侵攻で甲斐に連れて行かれ、そこからどうにか脱走してきたものの
雪山の中を逃げたため手足の指が凍傷により皆落ち、世に交われるような体では
なくなってしまいました。
今またこの子まで、人質として都に送らずともよいではありませんか!」

と、泣き口説いた。
家康が人質として苦労したことは皆知るところであるが、於大の再婚相手の子も
このように人質で不幸な目にあっていた、どうもこの人の子は、人質運が悪いというべきであろうか。

ともかくも実母にこのように泣かれ、さすがの家康もこれを無視することもできず、
仕方なく定勝に変わり、我が子於義丸を秀吉の人質にすることになったのだという。

この後しばらく家康は、「これは三郎四郎(定勝)が人質に行きたくなくて母上に訴えたからに
違いない!」と、定勝に対して大いに怒っていたが、そのうちにそれが誤解だと解り、家康の怒りも
溶けたのだそうだ。

家康が秀吉の元に於義丸を人質に出すまでの過程である。
(藩翰譜)




348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 02:09:11.55 ID:l/Xv3Cph
家康「お前でも我が子がかわいいか?」

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 02:13:32.60 ID:bFLd78p/
>>348
お前も我が子だろうがww

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 02:14:36.03 ID:YeMg+mJ8
何故か松平を名乗る事になった久松家

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 02:16:48.58 ID:G9X/zWnQ
>>350
歴史が動いたのか

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 02:28:05.89 ID:9/SVmQhP
当時は側室がいっぱいいたから、異母兄弟は全然珍しくないが
異父兄弟だとなんか嫌な感じがするな・・・
母ちゃんビッチかよって思われるし

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 02:42:09.36 ID:e/Bk1vnC
>>352
女の再婚も多いから平気だろ。
むしろ経産婦は石女じゃないと判っているだけ歓迎されたような話も聞くが。

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 02:56:01.19 ID:ZJ1xku1n
>>352
そもそも家康が後家さん大好きなわけで。晩年はロリ好きになったけどさ。

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 03:00:39.73 ID:9/SVmQhP
そういえば昔は太閤殿下と大和大納言は異父兄弟って言われてたけど
最近だと、普通の弟だった説が有力らしいな

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 06:30:35.77 ID:JdWKgAgQ
秀忠も忠輝も、異父兄が居るんだよね、確か。久松兄弟のように厚遇はされなかったようだけど

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 10:27:54.71 ID:MYE9pJba
ここで家康が冷徹に突っぱねてたら二代将軍秀忠は無かったんだろな。

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 12:02:19.32 ID:F8U7Whul
>>354
そもそも家康の祖父からして
水野忠政の奥さんの於富の方をもらって継室にしてるしな

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 23:00:39.43 ID:UCq6xldZ
>>356
忠輝は姉だったような
兄がいるのは母親の茶阿局
しかもこの伯父さんは石田三成の家臣

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 23:04:06.53 ID:TL32/uQ6
>>361
家老の花井三九郎が兄だったと思う

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 01:10:14.55 ID:bQC6Y/jz
>>362
花井三九郎って連れ子の姉の夫でしょ?

余談だけどググってみたら「捨て童子」ってタカラヅカになってんのなw

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 05:26:36.60 ID:T/1x5PXR
DQN四天王の条件に世渡りは割と上手ってのはあると思う
市松や坂崎さんにはそこが後一歩足りない
的確に時代の勝利者を見抜く感覚はあるのに

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 05:47:09.27 ID:oMjZ3AjG
ただ勝手に呼ばってるだけだろ

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 08:42:15.81 ID:Eh/D9loi
尾張の竹腰さんも義直のお兄さんだね。

本多正信「おゆるし下さいませ~!おゆるし下さいませ~!」

2011年01月09日 00:00

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 00:17:45 ID:ToPlwLO2
「おゆるし下さいませ~!おゆるし下さいませ~!」

関が原の合戦が終わり、家康が戦後の領地分配を考えていた時のこと。
江戸城の御次の間、「佐渡柱」として有名な柱にもたれかかっていつものように居眠りをしていた
本多正信が突然、うわ言のようにそんな言葉を発した。

これを聞いた徳川家康、正信を起こして

「どうした佐渡、何かあったのか!?」

「はっ!?ゆ、夢でしたか。いやはや上様、先に少将(結城秀康)様に与えられる予定の
越前のうち、敦賀は重要な港湾であるから徳川家直轄にし、代わりに少将様には他の地を与える、
という話がありましたな。」

「ん?ああ、そんな話があったな?」

「先ほど夢のなかで、少将様がその事を知り大いに怒られ、私に『お前のせいだ!お前のせいだ!』
と殊の外叱りつけられたのです。それでたいへん驚いたのですが…、
いやはや夢でしたか、良かった良かった。」

「…」

正信の伝えたいことを察した家康は、敦賀を含めた越前一国を秀康に与えた、とのことである。

本多正信、夢で結城秀康に叱られる(?)、と言うお話。




307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 00:51:49 ID:ne4QGx0y
佐渡さんは、いい時に死んだと思う…

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 04:10:36 ID:w6LTL9DF
>>306
なんと白々しい三文芝居w

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 07:45:03 ID:QrYkurgm
佐渡が機転を利かしたいい話…じゃないのか?w

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 08:04:56 ID:Ohpi2xHi
>>307
家康が亡くなったら佐渡もすぐ死んだよね
そのせいで後年、息子が父のぶんまで報いを受けたのかも知れんけど

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 08:09:09 ID:ptIhe0ra
よし、俺も会議中に居眠りして寝言を言えば重用してもらえるんだな

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 08:16:41 ID:nn3U+MyT
会議中に寝たら家康でも怒るだろ

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 09:14:12 ID:tyTX5SxM
>>313
佐渡さんは意見を出したくないときは寝たふりしてたんだよ

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 09:16:26 ID:A00qfwHb
だからこの逸話は会議中じゃないだろ

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 10:23:08 ID:w6LTL9DF
「越前は与えるが敦賀は与えないでは少将様がきっと怒ります。」
と諫言してしてその通りにしたら大御所の権威が疑われる。
夢の話ということにして恩恵を与えれば丸く収まるであろうという、
いつもの権現様のお賢い説教話。あーはいはいありがたや。

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 11:06:59 ID:tyTX5SxM
ちゃうやろ。
いつもの佐渡さんらしい、はっきりとものを言わずに自分のやりたい方向に物事を誘導する極めて日本人的な
操作方法の話だろ。

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 11:08:44 ID:NyqEnkzT
こう言う政治術は日本人に限らんけどな。むしろ世界中に普遍的にある。

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 12:36:54 ID:QrYkurgm
マジか。他とは極力軋轢を生じないようにする日本人らしい話かと思ったんだが…

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 12:49:19 ID:NyqEnkzT
ウィキリークスの漏洩文書とか見ても、アメリカを始めとした各国の、表向きに言っていることは
あくまでブラフで、現場では現実的な目的のため、なるべく摩擦を起こさない形で実際の利害調整を
行っていることがハッキリ解るし。

「主張を押し通す」なんてのは欧米でもそう言う条件が整ったときのみに起こる、
極々例外的な話だわ。

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 14:42:00 ID:v4n3RyCb
天と地との宇佐美なんかは、自分が責を負わないように周りをうまく誘導して物事を進めてたね

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 15:01:24 ID:339x5FNj
上司への婉曲な諫言の話が、なんで外交問題に摩り替わってるのか理解できない

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 15:06:13 ID:A00qfwHb
無理に現代に当てはめようとするからだよ。
超人治主義の時代の話なんだから、現代の組織社会にそのまま当てはまるわけではない。

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 17:05:40 ID:bwWUn6lM
上司への諫言でなら、中国にも似たようなのがあるんじゃないかな?曹操の跡継ぎを誰にするかとかの話とか

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 17:20:44 ID:I1po61Fo
>>323
でも、よく当てはめようとするよねw
どっかの雑誌とかw

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 17:57:39 ID:cOi1uJgK
むしろ中国を手本にしたのでは?

どこかで天変地異や怪異が起きました
→政治が乱れてるせいで神がお怒りになってるようだ
→神の怒りならしかたない、改正しよう

諫言したいために怪異でっちあげたりとかして
鳥が逆に飛んだ、とかなかったっけ?

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/08(土) 18:02:25 ID:cOi1uJgK
思い出した
天人相関説だ
諫言した人にすれば、おいおい、本気にするなよ^^;って感じかもしれないがw