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中畑上野助の討ち死に

2013年11月23日 18:53

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 15:58:17.14 ID:UcE1Us7k
摺上原の戦いで伊達政宗が勝利すると、その威勢は益々振るい、敵対していたその叔父である
石川昭光も、政宗に従う様子を見せた。このような情勢により、政宗に対してあえて弓を引こう
という者はいなくなった。

このような中、伊達政宗が白河を打ち取り、常陸の佐竹義重と合戦を行う、という風聞が流れた。

ここに須賀川(二階堂氏)の旗下である大里安房守は、とにかく政宗に従うのは無念だと考え、
同盟者である白河(小峰義親)家臣・中畑上野助晴辰の元に申し遣わした

『私はこの城において政宗の軍勢を引き受け、討ち死に仕る覚悟です。
あなたも白河の旗下ではありますが、私と同じく戦いの準備をいたしてください』

中畑は『ご尤もお知らせです。私の居城においても随分心がけましょう。』とだけ答えて
使者を帰らせた。

この中畑上野助は、どういう考えからであろうか、政宗と対峙して兵を受けるのは如何かと思い、
本城も中畑から、三城目という場所まで後退して居城としていた。

ところが天正18年(1590)、伊達政宗が大里を攻めるという話を聞き、中畑は、この辺りも
戦争に巻き込まれると考え、取るものもとりあえず、相馬の方に居る交流のある者の所に
落ちるべきだと、早々に支度して落ちた。

中畑の弟に大畑大学という者が居たのだが、この弟はかつて白河から会津への加勢に使わされ、
武勇有るものであったので敵に深入りして討ち死にしたのであるが、その後引き取っていた
その弟の妻と5歳になる息子まで捨てて中畑は落ちていった。
この母子は、後で大國五座右衛門という者の手によって、大久保村という所に送られた。

中畑は荷馬34,5頭を並べて中村を目指して落ちていった。所が、 三春の行合村という所を
通ろうとすると、彼らが落ち行く事を聞きつけた野武士たちが、その財貨を取ろうと大勢道に出てきて、

「その財貨を残らず引き渡せ!」

と要求してきた。中畑はこれに

「そういう事なら、2,3駄は残すので残りは通して欲しい」

と言った。野武士たちはこれを聞き入れず、中畑一行に打ち掛かった。
中畑の家臣である石塚掃部や雑兵たちは必死で戦ったが、多勢に無勢であり、
終に中畑上野助はその子とともに、行合村にて討ち死にした。
実に哀れなる次第である。

家臣の石塚掃部はその首を取って三城目に持ち来て、塚を築いて弔った。
(白河関物譚)

中畑上野助の討ち死に、というお話




870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 17:24:16.11 ID:FnK7PD8H
>>868
???「残念だが当然。臆病者らしい最期といえる」

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