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「続武家閑談」から「小笠原長時流浪の事」

2023年05月26日 19:38

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/25(木) 20:23:24.93 ID:WbxQTDel
続武家閑談」から「小笠原長時流浪の事」

享禄四年(1531年)の冬、小笠原大膳太夫長時(三十九歳)は二木豊後(二木重高)を呼び、
「これ以上は武田晴信に対して城を保てぬゆえ、わしは越後に落ち延び、上杉政虎を頼むことにした。
おぬしはその間ここにとどまり、武田晴信に属し、武田軍が我が領地を切り取る間、四方の輩と連絡を取り、小笠原家再興の方策を考えよ」と言った。
二木は元来忠義の者であったため、これを了承し、流浪の助けになればと黄金百枚を長時に授けた。
二木の先祖は奥州多賀の黄金商人の橘次末春(金売り吉次)であり、牛若丸を携えて京から奥州に下向し、ついには源義経の被官となり、名を堀弥太郎景光と改めた者であった。
その子孫も金売りであり堀藤次と言っていたが、諸国動乱のため上方から奥州に帰れず、信州に寓居し娘を二木氏に嫁がせた。
藤次は男子がなく病死したため、金銀などはすべて二木氏が譲り受け、豊後の代まで富を受け継いでいたのであった。
こうして長時は嫡子又次郎長隆と次男孫次郎信定(実際は長時の弟)両人を連れて越後に行き、上杉を頼んだ。
しかし一両年のうちに三好長慶が洛中で猛威を振るった。
三好氏は分かれてからずいぶん経つとはいえ小笠原氏の支流であったため、長時は謙信に暇乞いして愛息の小曽丸を連れて長慶を頼んだ。
長慶は長時に河内高安郡の十七ヶ所を堪忍料として与え、芥川の城下に住まわせた。
しかし長慶没後、三好家が混乱したためここを去って奥州会津の星備中入道昧庵(蘆名氏の老臣)のところに寓居したが、家人に殺害された。
息子の小曽丸は後に喜三郎貞慶と称した。
甲州混乱の折に本国に帰還し、旧領を切り取って終に徳川家に仕えることとなった。
貞慶は従五位下右近大夫に叙任され、
(貞慶の息子の小笠原秀政は)故岡崎三郎君(松平信康)の末の姫君を娶って御譜代大名に加わったが、大坂の陣で落命した。
今の小笠原右近太夫ならびに信濃守、山城守等の先祖である。



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「続武家閑談」から「太田・長野両家の事」の長野家のとこだけ

2023年05月26日 19:37

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/26(金) 18:27:01.89 ID:sRKV6zV6
続武家閑談」から「太田・長野両家の事」の長野家のとこだけ

在原業平朝臣が伊勢の斎宮(恬子内親王)と密通して(「伊勢物語」第六十九段「狩の使」)もうけた子供が丹波守の高階茂範の家を継ぎ、高階師尚といった。
その後裔である長野業正は上州箕輪城に居住し、千五百騎を指揮する身上であり、太田資正入道三楽とともに上杉家無類の忠臣であったが、おのおの大功を立てられず、鬱々として病死してしまった。

長野業正が在原業平の子孫とされたのは有名だけど、業平の東下りでできた子供の子孫のはずだから高階氏とは関係ないはず。
高階氏と在原業平との話は、来年の大河で藤原定子(高階貴子の娘)の息子で藤原彰子に養育された敦康親王が春宮になれない理由で出てくるかも。



前田利長夫婦京見物に乗出し本能寺信長乱を知り勢多より帰る事

2023年05月22日 20:36

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/22(月) 17:50:40.97 ID:B5XhHAMH
続武家閑談」から「前田利長夫婦京見物に乗出し本能寺信長乱を知り勢多より帰る事」

関連話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13431.html
かかる太平の世に逢候事ハなりかたき事
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3779.html
利長が輿をかつぐ者達を見ると

前田利長夫婦(当時数えで利長21歳、永姫(信長の娘)9歳)が同伴で京見物のために北国から上京しようと、まず安土城にいたった。
天正十年(1582年)六月二日、安土から勢田までおもむいたところ、向うから信長の奴僕がまっしぐらに来て「本能寺で信長公が弑せられました」と言った。
供のものどもは色を失った。
利長が言うには「父利家の領地である越前府中はここから遠く、一足とびには帰られないだろう。
まずは尾張にいる一族前田与十郎(前田長定)のところに妻女を預けよう」
すると六人の供が皆もとどりを切って
「尾張への御供はいたしません」とはっきり申した。
利長はこれを聞いて
「我らが妻女をおもうのも、汝らが越前にある妻子を心配に思うのも、心は同じである。
おのおの帰ってよいぞ」とことごとく帰した。
そして内室(永姫)に大小をささせ、馬に乗らせた。
恒川監物と奥村茂右衛門(奥村助右衛門永福?)が馬の口をとり、尾張へおもむいた。
一方、利長はまず安土の屋敷に入り、そこから越前に帰ろうとした。
このとき新参の武士は残らずいなくなり、譜代のみが供をしたという。
人心は今も昔も変わらぬはずだが、新参者は世上に有縁のものがあるために身を片づけやすく、
譜代はなかなか他家には縁がすくなく、また母や妻子が皆主人の領内にあり、逃れる手だてがなかったためであろうか。



762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/22(月) 21:57:13.34 ID:xQCLqfeC
>>761
ちょっと良い話でもある

「続武家閑談」から「秋月居城姑取山を生駒雅楽頭に御預けの事」

2023年05月01日 19:02

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/30(日) 20:25:20.02 ID:wzp3miEb
続武家閑談」から「秋月居城姑取山を生駒雅楽頭に御預けの事」

秀吉公は秋月氏居城の古処山城を生駒親正に御預けになられた。
親正がたいそう険しい古処山に乗り上げると、西国武士どもは驚き
「馬に鳥が生えて白い轡をはめ、鳥も通わぬところを通るとは、稀代のことだ」と口々に言った。
これは乱世により諸国から九州に馬面・馬鐙・白轡の進呈がなく、九州の者どもがそれまで知らなかったためである。(?)
秀吉公は秋月の東北の荒平に陣を敷き、二日逗留して仕置きを申しつけ、肥後へ出発された。
鍋島直茂ら九州の軍勢が先手を勤めたが、西国衆のいでたちははなはだ見苦しかった。
また指物を請筒(受け筒)に指すことを知らず、縄で背中に指したり、肩にかたげたりする者も多かった。
それを見た上方勢が手を打って笑ったため、直茂が秀吉公に申しあげたところ
秀吉公「そのように上方勢が国ごとのならいを知らずに笑うことこそ不覚である。
今後そのようなものがいれば罰しよう」
と戒められたため、以後笑うものはなかったという。



「続武家閑談」から「秀吉公九州へ発向軍略の事」

2023年04月28日 20:24

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/27(木) 19:31:55.77 ID:mjz2t1qD
続武家閑談」から上の続き「秀吉公九州へ発向軍略の事」

秀吉公は豊前厳石城(岩石城)を始めとして大隈城以下を攻略し、大隈の城に陣をとった。
秋月の侍どもが姑所城(古処山城、秋月氏本拠)からながめると嘉麻一帯の寺部は山川残らず兵であふれ、夜になると篝火が万も焚かれ、灯会のようであった。
夜が明け、大隈城を見ると一夜のうちに腰板がうたれ、白土が塗られていた。
これは播磨の杉原紙を壁に貼り、家屋の戸板をはずして腰板になされたのであった。
秋月勢は「さてこそ天魔の仕業であろうか」と仰天した。
秋月種実親子も、江利内蔵介の忠言を今更ながら思い出し、降参した。
そして内蔵介を厚く葬り「鳴渡の観音」とあがめたのが、今でも残っている。



「続武家閑談」から「江利内蔵介、広言により切腹のこと」

2023年04月26日 19:10

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/26(水) 00:21:10.25 ID:hsBCYKEj
くずし字の解読をした上でなので、不備があったらすみません
続武家閑談」から「江利内蔵介、広言により切腹のこと」

秀吉公の九州征伐の時、秋月家から聘使と偽って江利内蔵介というものを差し遣わした。
江利は広島で秀吉公にお目見えした。帰ったのちに主君である秋月種実に申すことには
「このたび秀吉殿下の軍勢は何十万騎と限りなく、四国中国はことごとく先手となっております。
九州の諸将からも聘使が集まっておりましたので、かくなる上は島津殿に御降参を勧めるべきでしょう」
すると種実・種長親子を始め、みな異口同音にどっと笑い
「汝は臆病か、またはよい脇差をもらったゆえに降伏をすすめるのか。
その猿冠者は下賤の者であり何ほどのことがある。
当家は漢の高祖の子孫で武勇で名高い。
(後漢の霊帝の孫、阿智王の子孫とされる。
阿智王の息子である阿多陪王が斉明天皇に三男子を産ませ、真ん中の子が大蔵氏(原田氏、秋月氏、高橋氏などの祖)となったという荒唐無稽な話も)
ことに八町坂の大切所は難所であり、日本・唐土の軍勢がひとつになって攻めてきても何ほどのことがあろうか」
とおのおの口々に申した。
内蔵助は重ねて「不肖の身で広言いたしますが、このままでは当家の運が傾きます。
もう一度同じことを申します」と言ったが
「憎き雑言をまだ言うか。腹を切れ」
と言われたため、切腹して果てた。
こうして秋月種実は八幡宮に詣でて、くじを引いたが「秀吉に従え」と出た。
すると板並左京進が進み出て「くじは三度引いてこそ吉凶が定まると申します」
とかねて用意した「一吉」「二吉」とすべて吉の字を書いたくじを取り出し、種実に引かせた。
こうして二つとも「島津に味方せよ」というくじであったため、秋月は薩摩方となることにした。



「続武家閑談」から「高橋立花秋月三者縁組のこと」

2023年04月25日 19:37

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/25(火) 19:27:30.85 ID:uI6jtdb3
続武家閑談」から「高橋立花秋月三者縁組のこと」

立花宗茂は幼名を千熊といい、父の高橋紹雲のところから立花道雪のもとに行って遊んでいた。
あるとき罪人を道雪の前で討った。
道雪は「不意のことなので千熊も驚いただろうか」と千熊の懐中に手を入れてみたが、鼓動は少しも激しくなっていなかった。
こうして道雪は千熊が立派な武人となると考え養子とした。
千熊の弟の主膳(立花直次)とが高橋家を継ぐことになり、秋月種実の婿となることが決まっていた。
筑紫広門はこれを聞いて「高橋・立花・当家は、九州の英将である秋月にも対抗できる三羽の弓である。
しかし高橋・立花・秋月三家が合体するとなると、当家秋月家は間違いなく滅びるだろう」と仰天した。
そのとき何とかという侍が
「それがしに姫をお預けください。
高橋の岩屋城に行って主膳殿を姫の婿といたしましょう。
もし承知しないようであれば、姫を斬り私も腹を切ります」
と申したので広門と秋月と高橋の縁組の破棄が叶うなら、と姫を預けた。
こうして侍が姫を連れて岩屋城に行き、高橋紹雲に詳しく述べると
高橋紹雲は「前代未聞の珍事である。秋月の娘を貰うことは決まっているのだから広門との縁組はならぬ。
早々に姫を連れて帰られよ」と言った。
侍は「このように御返答あることは予期しておりました。
三家合体であれば筑紫家が滅ぶのは必定。
後日貴家と当家との合戦の時に討ち死にするも、ただいまあい果てるのも同じことなので、娘を殺し、私も腹を切り、御座敷を汚しましょう」
と思い切って申した。
紹雲も侍の忠義のほどに感心し、そのまま娘を留め置いて主膳の妻とした。
このため秋月は憤り、薩摩に対して「必ずや高橋を滅ぼしましょう」と申した。



「続武家閑談」から、樋口石見守(樋口知秀)武勇のこと

2023年03月31日 19:23

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/30(木) 23:47:50.84 ID:wJymD5x+
「続武家閑談」から、樋口石見守(樋口知秀)武勇のこと

近江国の杉の沢に樋口信濃守盛継という武士がいた。
佐々木定頼(六角定頼)の配下として細川晴元を助けるため播磨に出陣した。
入江左近将監は樋口と同家だったため、両家あい並び武威をふるった。
樋口信濃は芥川城で卒去したが、その子供が石見守知秀である。
芥川城落城の時、家来の田村与七兵衛というものが守護した。
永禄十二年(1569年)正月、公方義昭が京都本圀寺御寓居の時に三好三人衆が攻めてきた。
このとき石見守は馳せ参じ軍功を成したため、信長に召し出され秀吉公につけられた。
近江・越前でも抜群の軍功をあげた。
その弟の樋口兼継も荒木村重の反乱の折、信長公の味方として出陣したが、太田川で戦死した。
石見守はその敵勢を突き崩し、一人を討ち取った。
そのとき池田恒興から笄を賜り、今に伝来している。

石見守はそのころ有名な太鼓の名人であり、秀吉公の寵を受け従五位下に叙し山城で百二十石を拝領した。
天正十八年(1590年)の小田原の陣では鼓の筒の指物をさしてお供し、御陣場で権現様から杯を頂戴した。(今も伝わる)
名護屋の御陣中でも秀吉公に出仕し七百石の加増を賜り千石を領した。
そのほか山崎八幡の奉行や、播磨摂津の道割の監督も務めた。
慶長五年(1600年)九月に権現様が関ヶ原で御勝利された時は重病であったが山科まで参上し拝謁した。
権現様から御感の上意があったという。
翌年四月に山崎近辺の別所村で卒した。

その子、甚七知直は幼少であった。
秀吉公から賜った亀の笄、ならびに遺品である樋口肩衝を献上して本領別所村の安堵を願った。
権現様は不憫に思われ、片桐且元、大久保長安に仰せつけられ安堵を認められた。
甚七は成長後、江戸にいたって白書院で秀忠公に拝謁し、御朱印を頂戴した。
寛永三年(1626年)の秀忠公御上洛の時、土井利勝が奏者として顔合わせをした。
秀忠公から「父によく似ている」との御言葉があった。
父同様に太鼓が上手なのでそののちも芸をあいつとめ、子孫も引き続き別所村百三十五石を領し、江戸に毎年参勤して太鼓の芸を上覧にいれた。
とはいえ武士であり、猿楽の四座とは別物と若年寄衆も承知されていた。
しかし子孫の久左衛門秀植の代に至って、貞享の頃観世座の合属となってしまった。
まことに武門が嗜むべきは弓馬の道、愛するべからざるは遊芸である。
その道をもて遊び、ついに役者に落ちてしまったこと、嘆くに余りある。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13843.html
「武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄

小田原の陣での話はこちらにもあった



「続武家閑談」から正重の疵 の元になった記事

2023年03月30日 20:06

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/29(水) 21:48:12.55 ID:ttbfDJcS
「続武家閑談」から正重の疵
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7323.html
の元になった記事

掛川城攻めの時、信長公御家中の日根野備中(日根野弘就)の甥である日根野弥吉が落城時に城中にいた。
徳川軍が城中に攻め入ったところ、二の丸と本丸の間で太郎作(水野正重)が弥吉にであった。
弥吉が言うには「その方は家康家中のなんと申す者だ。
それがしは日根野備中の甥、日根野弥吉と申すものだ。
それがしのことはその方の主君の家康もよくご存知なので、わが首を得たならば家康に見参させよ。」
と名乗り、会釈もなく太郎作と組んで、首を取られた。
太郎作が弥吉の首を取って立ち上がったところを、敵一人が来て、一間半ほどのところから太郎作の腰のえびらを射通した。
重傷で苦しんでいたため、丸山清林という外科を大御所様は御前に召され
「水野太郎作の傷の具合はどうだ」とお尋ねになられた。
清林が申すには「急所に少しはずれましたのでそのうち楽になるでしょう」と申した。
大御所様は「なにとぞ、なにとぞ太郎作の命を救ってくれ」と重ね重ね清林に頼まれた。
冥加が至極あり御意のとおり完治した、と物語った。
(これは水野太郎作の息子が書き置いたものを写した話)

日根野弘就も甥と同様、当時今川方だが、水野太郎作の息子は当時も織田信長の家臣と認識したたのだろうか



751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/29(水) 22:56:38.93 ID:G39ficZt
同書は信長の死後の天正十二年の蟹江城の合戦までの記事があり
水野太郎作が桶狭間の戦いの時に十六歳としているため
その息子が書いた年を考えると、信長死後だいぶ経ってからと思われます。

「続武家閑談」から「羽州庄内の城主武藤義氏(大宝寺義氏)が事」

2023年03月28日 19:54

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/28(火) 19:17:16.21 ID:Kg+NQ/Y7
「続武家閑談」から「羽州庄内の城主武藤義氏(大宝寺義氏)が事」

出羽国庄内の武藤出羽守義氏と申す者は悪逆であり、郡邑からむさぼり、戦のみに年月を過ごしていた。
ある年(天正十一年、1583年)の正月のはじめに、旗下の諸士を動員して領地の境を攻めようとした。
諸士は田川郡のよな坂という所で暫く休息した。
「さても屋形の義氏の無道のために、毎年戦に苦しみ、あまつさえこのように月日も多いのによりによって新玉のはじめから従軍することになるとは。
まことにに生きてても甲斐がなく、迷惑な次第である。
幸い我々の中でも東禅寺右馬介(東禅寺義長)は大身であるし、なにか一思案ないだろうか」
と口々に申した。
右馬介は「我も左様におもうけれども、一人の方策というのもなんだから、おのおの同時に方策を申そう」
こうして諸士が異口同音に「逆心!」
と言ったため、とって返して屋形の屋敷を攻めたところ、義氏は同じ出羽の金沢へ落ち延びようとした。
しかし新山森というところまで義氏が逃げたところで、諸士が追いついて義氏を討った。
しかし誰を主君とするあてもなく、最上(最上義光)の旗下となり、義氏の弟で丸岡の押領使である丸岡兵庫の息子を迎え、義氏の娘を娶せて主君となした。
しかしまた悪逆の兆しがあったため、上杉方となり、本庄越前(本庄繁長)の息子を越後から呼び寄せて主君とした。
「最上軍記」の説も大同小異である。
ただ屋形の名前を満安としているが、これは誤りである。
庄内の寺院に彼の位牌が今でもあり、実名を義氏とたしかに位牌の表に記してあるそうだ。

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/28(火) 19:50:17.66 ID:Kg+NQ/Y7
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8680.html
鮭延落城後の鮭延秀綱


「奥羽永慶軍記」では武藤義氏と武藤「光安」を別人としているが武藤光安は実在不明
「最上軍記」で武藤義氏を武藤満安と表記しているとしたら本来同一人物だったのが別人になったのかも
ついでに「奥羽永慶軍記」の武藤光安は妊婦の腹を裂くという暴君テンプレをしている



「続武家閑談」から「岡部権太夫指物落して首と取替る事」

2023年03月27日 19:59

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/27(月) 16:05:02.71 ID:hF7jsEmB
指物ついでに
「続武家閑談」から「岡部権太夫指物落して首と取替る事」

佐竹氏と北条氏康の下総境合戦のとき岡部権太夫は猪廉の指物をつけて、戦場で組討ちをして首を取った。
しかし気づいてみると背中の指物がなく、
「これは組討ちの最中に指物が抜けたのを敵が拾っていったのだろう」と岡部は無念に思った。
そこで取った首をぶら下げ、退却する敵の正面に回って
「これは北条家人下総の岡部権太夫と申すものなり。
ただいまの戦で組討ちをし、指物を取り落としてしまった。
おそらくどなたか拾いなさった人があるだろう。
指物は猪廉である。この首はいまだ首実検をしていないので、これと取り替えてくれ」と声高に言った。
敵が大いに感心していると、武者一騎が出てきて
「殊勝な御所望である。猪廉の指物は関八州でも珍らしので拾いおいた。
すぐにお返ししよう」と返した。
岡部はよろこび首を渡し「御芳志感謝いたす」と背中を向けて指物をささせ、一礼して立ち帰った。
「あっぱれ大剛の武士かな」と敵味方ともに感嘆したということだ。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-785.html
北条家、岡部権太夫の指物・いい


こちらだと下野での争いになっているためか(沼尻合戦?)北条氏政カテゴリだった



「続武家閑談」から「信玄対謙信伝之事」

2023年03月26日 18:52

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/25(土) 22:46:11.27 ID:hu1HyIr1
「続武家閑談」から「信玄対謙信伝之事」

謙信と信玄の取合の時分、謙信軍が境を越えてきた。
このとき信玄は一の手に若武者を、二の手に老功の武者をあて、川を前にして布陣した。
これを見た謙信は合戦にかかろうとはしなかった。
この理由だが、一の手の若武者は「老人の前で逃げ腰でいられようか」といよいよ励むだろうし
二の手の老功の武者は「若武者がこうも頑張っているのに劣っていられようか」と進むため、強兵となるからだという

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/25(土) 23:06:10.78 ID:hu1HyIr1
(続き)
また、信玄が北条と取合の時、北条常陸介の黄八幡の指物を拾ってきた。
(地黄八幡だから北条綱成だろう)
北条の勇猛で有名な常陸介が我が軍の勢いを恐れて指物を捨てて逃げた、と山県昌景をはじめ皆これを笑った。
信玄は「おそらく差し替えの指物を下人が落としたのだろう。
常陸介は隠れなき弓取である。これにあやかって誉を取れ」
とそのさしものを真田隠岐(真田信尹?)に賜った。
真田隠岐は其歳二十三歳であった。
この真意は、敵に怒りを含ませては無理な働きをさせてしまうからである。
常陸介も三千の大将であるので、より必死で戦うようなら難敵となるからだ。
北条家でも指物を落としたことで常陸介が嘲られていることだろうと落胆していたところに、信玄の批評を聞いたのでほっとした。
常陸介もこれを聞きおよび、よろこんで涙を流したという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-497.html
武田信玄と、北条綱成の地黄八幡の旗・いい話


後の方は一応出ていたけど、真田昌幸に与えられたことになっていた



740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/26(日) 10:53:20.18 ID:AqAmt3K9
まだ真田宝物館に旗があるようだ

「常陽四戦記」から真壁久幹・太田資正と小田氏治の戦い

2023年03月25日 18:28

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/24(金) 19:44:43.66 ID:G01vG6zG
常陽四戦記」から真壁久幹太田資正小田氏治の戦い
続武家閑談」にもあるが「常陽四戦記」とまったく同じ文だった

真壁城の氏幹入道道無(真壁久幹)と小田天庵は長年あらそっていた。
元亀四年(1573年)四月、天庵が筑波山からつづく青柳山を越して、真壁と山ひとつ隔てた小幡村に出てきたため、道無は出兵した。
道無は、小田勢は真壁の西から攻めてくると聞いていたが、実は山を越えて小幡から攻めようというのであった。
太田三楽斎(太田資正)とその子梶原源太資晴(梶原政景)は柿岡に住んでいた。
資晴は佐竹の媒酌で道無の婿となっていたため、小勢ではあるが真壁に加勢することにした。
しかし小田勢は容易ならない相手であるので、真正面から当たることを避け、小幡の近辺にあった要害無双の古屋敷に入った。
太田勢は敵を突いては屋敷に戻ることを繰り返して時間稼ぎをした。
そうこうしているうちに道無勢が山を越えて来たのが旗でわかった。
天庵は太田親子を捨てて真壁勢に向かって備えた。
小幡の地は三方が山で囲まれ、平地は十町もない狭いところであった。
真壁勢は山から下って戦ったが、弓鉄砲は用いなかった。
これは小田勢の後ろの太田勢を討たせないためであった。
こうして小田勢は後ろから崩れて退却し、真壁勢は追い討ちをかけた。
道無の息子に安芸守十六歳と式部少輔十五歳がおり、坂本信濃守という剛のものがついていた。
安芸守は敵と組みつつ、山上から転がり落ちた。
安芸守の従者は助けようとしたが信濃守は叱って助けさせなかった。
とうとう平たいところまで落ちてきたが、敵が上になって安芸守の首を取ろうとしたため、馬取が敵の右手をとらえ、
吉田というものが駆け寄って安芸守に首を取らせた。
式部少輔も組み打ちの高名を得た。
こうして敗北した小田勢は、来る時に通った道を引き返した。
そこに真壁勢が山を登って追い打ちをかけたため、天庵は一度も振り向くことなしに四里の道を退いた。
三楽は追い打ちの軍には加わらず、小田勢の先回りをして先に小田城に乗り込み、門を固めて立て籠った。
天庵は小田城に入ることがかなわず、一里ほど離れた藤沢の城に入り、幾度も小田城を奪還するために競り合った。
三楽は高楼を建て、天庵の軍の動きを見張り、近い時は早鐘を、遠い時は狼煙を上げて真壁に知らせた。
こうして合図を定めて加勢を頼んだため、小田城を堅固に保ち、太閤の小田原の陣の時まで三楽とその息子の梶原資晴は小田城に在城したということだ。



「続武家閑談」から小田氏治と上杉謙信の合戦

2023年03月22日 19:31

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 22:11:36.43 ID:U41itv3c
続武家閑談」から小田氏治上杉謙信の合戦

永禄二年(1559年)四月二十八日、常州信太郡小田城主、讃岐守氏治入道天庵と越後の上杉輝虎入道謙信が真壁部山王堂において合戦をした。
小田天庵は年来戦争に長けており、結城・佐竹・宇都宮をはじめ近辺の諸将どもが攻めあぐねたため
示し合わせて諸方から攻めたが、完全な勝利は得られなかった。
そこで謙信の使者が上州に来られたのを幸いとして諸将は謙信の出馬を乞い
「小田氏を退治してくだされば幕下に属する」と約束した。
謙信は早速同意されて「八幡出馬しむるべし」と自筆で短冊に書いて諸家の使者に授けた。
使者が昼夜行軍で返事を持参した時には、もう謙信の先手は宇都宮の氏家原にまで来ていた。
諸将は謙信の行軍が迅速なことに驚いた。
謙信は八千の軍で昼夜通し行軍し、四月二十八日の夜、山王堂に着陣し堂を本陣とした。
堂下の道と原との間は四町ほどの深泥であり、その向こうは三十町ほどの芦野であった。
小田天庵は二千ばかりの人数で居城よりうって出て筑輪川を渡り、背水の陣で深泥を前にして備えた。
辰の刻ごろに謙信の軍勢はしずしずと山王堂を降り、真一文字に深泥を越えて行った。
小田の先手は弓・鉄砲・槍・長刀で、打ち殺し、射殺し、突き倒ししたため謙信軍の手負、死人の人数は数知れなかった。
しかし越後勢は少しも怯まず、討たれた人馬を泥の中に埋めるように踏みつけ踏みつけし、ついに小田勢を原へ追い返した。
こうして申の刻までには小田は打ち負けて引き返した。
天庵は最前渡った筑輪川を乗馬にてわたり、居城に引き返そうとした。
しかしあまりに馬が疲れていたため、川上へ馬の頭を向ける、水を長い時間飲ませた。
越後勢は天庵を大将と見て、川端から矢や鉄砲玉を雨のように降らせたが天庵には当たらず、天庵は難なく川を渡り小田へ帰城した。
諸将は謙信の余りの迅速さと威厳を恐れ、城に引きこもっていたが、謙信が勝利ののちおいおいに参上して謝辞をのべた。
謙信は諸将たちを先手として小田城へ押し詰めた。
天庵は四、五日ほど籠城したが、大軍が名将の指揮によってとりまいて攻めてきているため、小田家老の信太鴨之介が
「防戦はもはや叶わないでしょう。
天庵様には藤沢の城へ退かれ、再起を図ってください。
それがしはこの城に残って切腹いたします」
と諫めたため天庵はひそかに退去し、鴨之助は自害した。
謙信は勝鬨を上げさせてそのまま上州に帰られた。
翌日、天庵は藤沢よりうち出て小田城を取り返し、元通りにした。
鴨之助はもともと宇都宮氏が持っていた坂戸城の城主であった。
近年小田方に攻め取られていたのを、鴨之助が切腹したのちは、小栗城にいた宇都宮家老の小宅三左衛門がすみやかに取り返し、宇都宮没落の時まで在住した。

続武家閑談」といっても
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4877.html
で紹介されている「常陽四戦記」の文章そのままだった

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/22(水) 12:58:52.19 ID:m4SjUIWQ
次の条に山王堂の戦いの追記があった

右の山王堂の一戦を、稲川石見という当時十八の真壁の侍が、戦場である芝野の上の明神山で見物していた。
両軍が攻めあっている間は戦場はしばしば煙霞のようになり、物の色がわからないほどであった。
戦いが終わると、霧がはれるように見えたという。

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/22(水) 12:58:52.19 ID:m4SjUIWQ
次の条に山王堂の戦いの追記があった

右の山王堂の一戦を、稲川石見という当時十八の真壁の侍が、戦場である芝野の上の明神山で見物していた。
両軍が攻めあっている間は戦場はしばしば煙霞のようになり、物の色がわからないほどであった。
戦いが終わると、霧がはれるように見えたという。


浜松の凧揚げを始めたという佐橋甚五郎について

2023年03月20日 19:51

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/20(月) 18:03:21.91 ID:a61r3H24
「どうする家康」の紀行で「浜松まつり」が取り上げられていたので、
浜松の凧揚げを始めたという佐橋甚五郎について

佐橋甚五郎と凧揚げの関連について1974年の「濱松市史」に引用されている
酒井真邑「浜松城記」(お田鶴の方が引間城で戦ったと記す「浜松御在城記」とは別)という徳川御秘書の一つ(実在するか不明)、から抜粋すると

一、永禄年中 飯尾豊前守殿御居城
この子孫曳馬野に住する也、義広(豊前守長子)殿御誕生の時佐橋甚五郎(入野の者)凧の大なるものに御名を記し揚奉る
(中略)
一、慶長六年より松平左馬守殿 九年御居城
慶長九年、前出佐橋甚五郎、朝鮮に帰化して朝鮮人使節となりて浜松の凧を笑ふ、左馬守殿江戸に申送る、
永野、小松の旗本来り大に争ふ

とされていて佐橋甚五郎は浜松の入野の人間となっている。
ただ佐橋甚五郎の父は系図では

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13835.html
三河一向一揆で水野忠重に討たれた(「三河物語」によれば)佐橋甚五郎吉実とされる

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/20(月) 18:06:32.38 ID:a61r3H24
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13751.html
「改正三河国後風土記」では、このように松平信康に仕えていたものの同役を討ち果たしたために逐電
そののち武田軍の甘利信恒の首を手土産に帰参。
甲斐の黒駒合戦(1582年)で活躍するも家康に憎まれていたため再び出奔
慶長年間に朝鮮の使節として来日している
(この話を元に小説「佐橋甚五郎」を書いた森鴎外は「続武家閑話」を元にした、と記していて、
山崎一穎「『佐橋甚五郎』攷」でも「続武家閑談」巻十三に「改正三河国後風土記」の元になった話があるとしていたが
国立公文書館の「続武家閑談」では見つからなかった)

黒駒合戦での活躍については
「続武家閑談」巻十二(編者の木村高敦によれば、この巻は「水野勝成覚書」そのもの)の「甲府新府中合戦のこと」によれば

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3686.html
この話の前半部はほぼ同じで
「この佐橋甚五郎と申すものは三郎様(松平信康)に召し使われていた者でございました。
三郎様が御他界なされたあと、何かしら悪いことをしでかして出奔していたのですが、どうしたことかそのときには拙者の前にいました。
木の橋の側でよく弓を射ていたので、「これは射手であろう」と思っておりました。
重藤の弓でございましたが鉄砲で打ち折られたため捨てました。
甚五郎が「もはや弓も折れ、是非に及ばず」と申したので
拙者が「弓が打ち折れても槍があるだろう」と申すと
甚五郎は「手前には槍もなくこの刀だけです。是非なし」
とかたのごとく刀を振うと、見事な働きで、競り合いに打ち勝ちました。
茂野善十郎、落合左平次、この三人が大いに働きました。
(中略)落合左平次、茂野善十郎らはその後紀伊大納言様へ権現様御意にてつけられたそうです」

なお「三河後風土記」だとこの勇猛ぶりが家康の耳に達するが、家康は佐橋甚五郎を不義の者と憎んでいたため、阿部正勝に誅殺させており、出奔して朝鮮に、とかは出てこない。

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/20(月) 18:19:40.83 ID:a61r3H24
「浜松城記」の記述が正しいことにして佐橋甚五郎についてまとめると、
・永禄六年(1563年)ごろ、三河一向一揆で水野忠重に父を殺されたため、浜松の入野に住む
・飯尾連龍が氏真に殺された永禄八年(1565年)までに、引間城の飯尾連龍とお田鶴の方の間に長男が生まれたことを祝して大凧を揚げる
・引間城落城後、松平信康に仕えるが天正四年(1576年)までに同輩を殺して出奔
・天正四年(1576年)、武田の甘利信恒に取り行って寵愛を受けるが、甘利の寝首を掻いて徳川帰参
・天正十年(1582年)の黒駒合戦では、父の仇である水野忠重の嫡男の水野勝成と共闘
・しかし家康に疎まれ、阿部正勝に誅殺される
・もしくは再び出奔し朝鮮に渡り、慶長九年(1604年)に朝鮮使節として来日し、浜松で自分の大凧揚げが由来となった凧揚げを見て笑う
ところが家康に甚五郎だと見破られ、一族との文通も禁じられた
(はずだが佐橋家にはなぜか上等の人参がたくさんあったという)

なかなか波瀾万丈



「続武家閑談」から那須家について、その3

2023年03月19日 16:25

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/18(土) 21:12:48.31 ID:hUZBJPjA
続武家閑談」から那須家について、その3
全体的にはいい話だけど、1,2がこちらのスレだったので

那須家は勝利したとはいえ、上那須衆が日夜、烏山の北城にまで攻めてきた。
このように親類や友人が名を惜しんで戦うことを、大田原の金剛寿院住職の尊瑜は大いに悲しみ、那須氏と大関氏に戦をやめるよう説いた。
こうして永禄十一年(1568年)九月上旬、資胤の長子の那須修理大夫資時(当時十二歳の那須資晴?)十三才が従士十七人で大関高増の居城に入り、主従和睦がなった。
この戦いの間、大関高増は譜代の衆と干戈を交えたことを恥じ、剃髪して味庵(未庵)と名乗っていた。

資晴はたびたび佐竹・宇都宮と戦い、勝ちに勝った。
特に、天正十三年(1585年)三月二十五日、宇都宮国綱と壬生下総守(壬生義雄)があわせて二千五百騎で那須の薄場の原(薄葉ヶ原)に出陣した。
(天正三年説もあるがその場合は父の宇都宮広綱となる。
天正十三年説の場合、壬生義雄は宇都宮配下ではないはずだが)
資晴は先立って烏山城を出、沢村に駐屯して敵陣を望見した。
すると彦星が朝日に輝き、宇都宮方の鎧の袖をひるがえすこと、雲の如く、露の如くであった。
一方で味方勢は合わせて三百余であった。
敵は鯨波(とき)の声を揚げること三度であったが、味方は静まり返っていた。
この時、味方の馬廻り衆が駆け出した。
大関高増は「軍においては法があり、抜け駆けをするならば思いがけず敵に討たれるであろう」と制した。
すると予想通り、宇都宮勢が先に川を渡った。
味方の野伏ども百ばかりが川端にひしと立ち並んでおり、宇都宮勢を射た。
味方の大将の塩谷安房守(塩谷孝信)の手勢五十余騎は川中に駆け込み、敵の見廻り平塚十郎を射落とした。
こうして指揮が混乱した敵軍は進むことができなくなった。
味方の蘆野意教斎、蘆野日向は「先駆けを討たすな」と川中にさっと乗り入れた。
これを見た敵方は川から上がり、引き返した。
味方は勝ちに乗じて、射手を前に進め、騎兵は鉾先を揃え、一同に川を渡り魚鱗となって叫びながら切り立てた。
敵はたちまちに敗北し、坂東道十五里を振り向きもせずに逃げた。

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/18(土) 21:14:59.82 ID:hUZBJPjA
宇都宮領との境まで来たところで壬生下総守の手勢二百余は東方に一町ほど退いたが、陣形はまんまるになっていた。
この様子を大関高増はじっと見て
「壬生衆の逃げる方向が誤っているにも関わらず、陣形が整っている。若武者ども、気をつけよ」
しばらく追いかけると案の定、壬生衆は鬨を挙げて反転して攻めてきた。
その間に宇都宮勢は熊下山を通り自領へ落ち延びた。
また大関高増の弟である福原安芸守(福原資孝)は、敵方の岡本右京亮(岡本氏宗?)が死を覚悟している姿を見て
「人手にかけるな」と駆け寄って討ち取った。
安芸守の鉾に当たった者はすべて命を落とした。
また牧野顕高(資晴の弟)の嫡子八郎は十八歳で熊下の麓に逃げる敵に槍を合わせ、組み打ちの功を挙げた。
もちろん牧野顕高自身もあまたの戦功があり、松野に大勢の敵が控えていたために味方は誰一人続こうとしなかったが、単騎で駆け入った。
敵を四方に追い散らし、太刀が折れたため引き返し、味方の軍勢に馳せ帰った。
「大空に塞がるほどの餅もがな 生ける一期にかぶり喰はん 蘆野の被官、藤田九右衛門」
と矢鞍の前輪に書きつけた侍は首を五つ持ち帰った。
そのほかの那須勢も、首を一つ二つ取らぬ者はいなかった。
資晴は「熊下山を越し宇都宮領に攻め込もう」と言ったが
大関高増は「宇都宮氏が今後も当家を付け狙うようなことは避けるべきです。
またこの度の戦いは味方が悪所で待ち、攻めてきた敵と戦ったために勝利を得たのです。
もし佐竹や宇都宮がこれに気づき、今度は平地で戦うようなら多勢に無勢となりましょう。まずは凱旋なさるべきです」
と諌めたため、資晴は我意を通さず帰城した。
翌日、蘆野意教斎は資晴に謁見し、昨日の功を賞された。
意教斎は「日頃の念仏を忘れ、六人斬り殺しました」と答えたそうだ。

そののち資晴は千本常陸介(千本資俊)が祖父の高資(高資は資晴の伯父)を殺したことを聞き、その仇を報ずるため
同年の十二月八日、大関高増、大田原綱清、大田原資則(福原資孝)の兄弟ら十四人と密談し、
千本常陸介とその子十郎(千本資政)を滝寺へ呼び出し、誅殺するよう命じた。
こうして千本家の跡目は茂木氏の次男が継ぎ、大和守とされた。
このほか、資晴が宇都宮氏と塩谷・喜連川・小幡にて小競り合いをしたことは数えきれないくらいである。

天正十八年(1590年)以降は豊臣の殿下に出仕したため、競り合いもなくなった。



722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/19(日) 08:52:03.01 ID:E5SxN48I
以前投稿された一連の那須家関連の話と比較すると
・上那須家滅亡:以前の話では那須資親の遺言となっていたため、大田原が偽造したのでは?と取れなくもなかった
・小田倉の戦い:以前の話では大関高増の助言によって那須資胤が切腹寸前まで追い込まれていた
・大崖山の戦い:以前の話では殿軍争いとはしていなかったため大関勢が適当な理由をつけてさっさと逃げたように見える
・千本親子誅殺:以前の話では大関高増の恨みから、としていた
続武家閑談は大田原や大関高増の汚さを抑えている印象

「続武家閑談」から那須家について、その2

2023年03月18日 18:25

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/18(土) 11:08:49.65 ID:AlcKgmcq
続武家閑談」から那須家について、その2


会津盛氏(蘆名盛氏)・白川義近(小峰義親?)が三千の兵で、白河・那須の境の小田倉に遠征してきた。
那須資胤と資胤の弟である弾正左衛門(那須資郡、この頃は福原氏)は烏山城を立って、両荘(上那須・下那須)の勢五百余騎を引率し、
永禄二年(1559年)三月二十六日、敵陣に寄せて鬨の声をあげ、巳から未の刻まで戦ったが、劣勢となった。
特に上那須衆は敗北した。
資胤と資経(資郡)は敷皮に座し、
資胤「わしはここで切腹する。お前は那須に帰り家を継げ」
資郡「私がここで代官として自裁するので、御帰城なさってください」
と互いに言い合っているうちに、味方の柏原勢、三百余騎が隊列を乱しながら駆けつけてきた。
三輪村の野伏五十余人も率いていたが、その中に「岡源三郎、十七歳!」と名乗り、味方の中から駆け出した者がいた。
源三郎は敵の首魁の、会津四天王随一と言われた佐野源十郎の馬の首を射て、屏風を返すが如く倒した。
そこへ内藤右衛門が走りかかり、佐野の首を獲った。
これを見た資胤はみずから太鼓を鳴らし、下知した。
こうして騎兵百余騎が一同に敵に突入していったので、会津・白河勢は大勢討たれ、見向きもせず白河の関前の道を十五里も逃げ帰った。
那須勢は勝ちに乗じて白河まで侵入し、放火した。
翌日早朝に資胤は岡源三郎を召し出し、五郎左衛門という名を与えた。
この度の戦いで勝利したといっても上那須衆は敗北し、那須資郡のみが高名をあらわしたため、上那須衆を率いていた大関高増(大田原資清の息子)は嫉妬した。
これを推察した資胤は、大関の家臣の松本某に高増を殺すよう命じた。
松本は了承した風を装い、黒羽城の高増にそのまま語ったため、大関高増は大いに憤った。
そこで高増は佐竹義昭に属し、資胤・資郡兄弟を滅ぼし、佐竹の男子を那須の当主にしようと考えた。

永禄六年(1563年)三月二十三日、大関高増は兵を発して数度合戦におよんだ。
一方で主君に弓を引くわけには行かないと、上那須衆から烏山城勢に加わった者どもも千人余いた。

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/18(土) 11:15:25.66 ID:ECgsNwLa
永禄九年(1566年)八月二十四日、佐竹軍将の東将監(佐竹義堅)勢・宇都宮勢・上那須勢が烏山城の西方の神長村の治部内山に遠征してきた。
烏山城から二百余騎が駆け出し、宇都宮・上那須勢を追い散らし、東将監を籠の中の鳥のように取り囲んだ。
千本常陸介(千本資俊)が使者となり、将監に降伏を勧めると、将監は降伏した。
こうして治部内山は「降参が峰」と呼ばれるようになった。
この度、敵の目には烏山城内に千人ばかり籠っているように見えたという。神力かと言い合ったそうだ。

翌、永禄十年(1567年)二月十七日、佐竹義昭父子は東将監が降参したと聞きたいへん怒り、上那須衆と合わせ二千余騎で烏山城より三十四町東の下境大河井山(下境大崖山)の麓まで押し寄せ、駐屯した。
ここは(佐竹勢から見て)後ろは大山、前は大河(那珂川)であった。
河を渡り船を捨てる故事は多いとはいえ、烏山勢が先に河を渡ったのは不覚であった。
とはいえ烏山勢二百騎は、一所懸命の地を捨てた者、那須家の重恩に報いようとする者、義を感じる者、と
野伏の中間に至るまで、名を後世に残そうと思うこと切なるものばかりなので、一歩でも退却する心持ちはなかった。
烏山勢は時を移さずうって出た。
佐竹勢は優勢であったが、ついに切り立てられ、大山に追い込まれ、若干討ち取られた。
佐竹側の上那須衆と長倉勢は互いに殿軍を争った。
そこで上那須衆の金丸肥前守は「こちらは烏山からは遠く地理に不案内である。
長倉勢は他国(常陸)の者であるが近辺なので地理も詳しいだろう」
ということで長倉勢に殿軍を任せ、上那須衆は先に退却した。
那須資胤は「上那須の者は一人も討つな、逃げるに任せよ。佐竹勢を討ち取れ!」
と陣中を駆け回り下知を下した。
この時、長倉勢はことごとく命を落としたという。
大将の佐竹義昭も草摺の端を射られたという。
この合戦で大崖の谷水が四、五日の間、朱に染まったそうだ。

またある時、那珂川が大洪水となったため、佐竹衆が国境に押し寄せ、放火しようとした。
しかし烏山方の五十余騎が河をさっと渡った。
中でも大久保民部、秋元豊後、森源左衛門の四騎が先陣し、民部が帰依している宗蔵坊という僧とともに河に飛び込んだ。
民部の馬がみなぎる波にさらわれ溺れるところを、(宗蔵坊が?)馬の両脚をとらえて突き上げ、民部が向こう岸に駆け上がったところ、
その勢いにおそれたのか、一矢も射ずに佐竹勢は退いたという。
こうしてその年は昨年と合わせて二年間、敵も味方も手負も死者も一人も出なかったという。



「続武家閑談」から本多正信について

2023年03月16日 19:47

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/15(水) 21:05:54.17 ID:ffNL6Pnx
続武家閑談」から本多正信について

本多佐渡守正信の人傑については世の人が知ることである、筆を尽くしても語り切れない。
権現様より四歳年上で、上京の際に松永久秀は
「家康の家臣たちは皆武勇を好むが、本多弥八郎正信のみは不剛不柔不飾でほとんど凡人ではない」と言ったという。
太閤秀吉も正信のことを聞き及んで権現様に告げて召しだした。
すぐに正信は江戸から伏見に出て、御目見えをとげ、ひそかに御旨を伺った。
夕方には増田長盛のところに行き、数刻にわたり密談して暇を告げて、翌朝江戸に帰った。
増田が何とかとりなしたのか、秀吉はあえて咎めなかった。
また権現様は諫言を好んでいた。
このあと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1222.html
徳川家康、家臣の諫言を「聞く」いい話


正信は大いに感心し、宿所で息子の上野介正純にこのことを申し聞かせた。
正純は「その人は誰なのですか?」と問うたので
正信は大いに怒り
「公が平生おっしゃられることには、
「天下を安泰にさせるうえで大事なことは、為政者の人となりが善であるためではない。
大本がなっていなかったとしても、よく諫めを入れて言語をふさがず、家臣を用いるために天下はよく治まる」
ということで諫言を好まれるのだ。
今の話の諫言をした者は智恵が不足しているため、申すところにも道理はないが、それでも大殿はその心を賞しなさった。
お前がその者の名を聞いて足りないところをあざわらおうという心であれば若殿の執事にはなるべきではない」
正信は常に権現様を「大殿」、台徳公(秀忠)を「若殿」と言っていたが、これは権現様の寵愛が深く「友のごとし」とされていたためである。質朴さが感じられる。
権現様は武蔵・相模で狩をなさっていた。
正信は江戸で台徳公の執政であったが、権現様の猟に昼夜伺候した。
権現様の仰せには「遊猟の趣向は第一に部を忘れないこと、次に民間のことを問うためである」ということであった。
ところどころに御留場(将軍家の猟場)があり、権現様の注意は厳しいものであったため、台徳公は謹んで整えさせたという。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/15(水) 21:08:51.53 ID:ffNL6Pnx
このあと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5962.html
本多正信、家康の怒りを

の話だけど微妙に違うので一応書いておく。

ある朝、権現様が御覧になると、御留場に罠ととりもちがしかけられていた。
誰のものか調べたところ青山忠成と内藤清成によるものであった。
権現様は「将軍はこのことを存じているのか」とお怒りになられた。
台徳公は「もってのほかの御迷惑でありましょうが、私は知りません。
両人を誅して御憤りをなだめるべきではありますが、両人は我にお付けなさった傅役でありますし、殺すに忍びません。
しばらく出仕をやめさせましょう」
と阿茶局を介しておっしゃったが、権現様は御容赦されなかった。
そこで正信は「このままでは大殿の悪が諸子に越えてしまう。
若殿に国家を捨てさせ匹夫に落とすこともおできになるのに、まして内藤・青山などは」
まずは申し上げようということで権現様の御放鷹に伺候し
「君が若殿に命じて内藤・青山両人の切腹をなされようとしていることをうかがいました。
まことに不憫のいたりで、それがしなど数日仕えただけで、もし営中で少しでも失敗をいたせばたちまち罪科をこうむるでしょう。
江戸所住の出仕をやめて大殿のところで天命の死に進みましょう」と申すと、権現様のお心もとけて、阿茶局に
「将軍もこのように申しておるのだから、友人を殺さぬよう申し遣わす」と命じられた。
台徳公はこれを聞し召し、大いに悦び、両人をゆるして家に帰らせたという。
正信の才覚の妙であった。
しかも高い録を辞して、わずか二万石を領した。関ケ原の前後、大坂の陣での謀略についてはほとんど人口に膾炙している。
正信は権現様御他界から五十日すぎた元和二年(1616年)六月七日に七十九歳で死んだ。



718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/16(木) 00:11:03.96 ID:tg45pgpv
お父ちゃんは引き際をわきまえていたのに息子は

719 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/16(木) 12:47:37.77 ID:1Yy0JpW0
>>716
徳川譜代は四天王クラスで10〜20万石程度だからなあ。
2万石で十分としないと、やっかまれる。

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/16(木) 15:53:31.21 ID:hV6MjIDN
秀吉みたいに子飼いに高禄を与えてたら次の代でぬっ殺されるからなあ

721 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/16(木) 17:02:32.71 ID:1Yy0JpW0
信長は親藩と譜代が強力で、外様といえるのは家康くらいか。国持大名ばっかりで小藩がない印象。
秀吉は親藩が弱く、譜代(子飼い)がまずまず、外様が強力。
家康は親藩と外様が大藩で、譜代は弱い。
まあ、江戸幕府で外様が大藩になったのは関ヶ原の経緯から仕方ない面はある。でも、本多忠勝くらいには一国やったってよかったのにな。

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/16(木) 18:32:22.63 ID:fKzTrDzf
秀次みたいな産ませる機械を壊したのが失策

「続武家閑談」から宮田光次

2023年03月13日 19:20

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 16:05:49.62 ID:nGsppXvO
「続武家閑談」から宮田光次
神子田半右衛門(神子田正治)、宮田喜八郎(宮田光次)、戸田三郎四郎(戸田勝隆)、尾藤甚右衛門(尾藤知宣)は秀吉草創の時に軍功が大きかったため、都鄙に名が知られていた。
(このあと神子田正治の話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13315.html )
こうして秀吉公自ら神子田の晒し首の前の札に
「神子田半右衛門は敵前逃亡をした臆病者なので悪口を書く」と書きつけられた。

宮田についてだが、中国退治の間に戦功が甚だ多かった。
ある時、論功行賞の場でそれぞれの将に入れ札をさせたところ、宮田喜八郎に「逃げ札」が多く入った。
秀吉公は「信長公の御時、林新三郎に逃げ札が七枚入ったため、信長公は御自分でその札を新三郎にくだされ、
信長「臆病者でもその方ほどとはな。
その方でこのようであれば、入れ札など役に立たぬな」
と笑いなされたという。
その方に札が入ったのも同じことだろう。」
と喜八郎に札を下されたそうだ。
秀吉公いまだ天下を統一する前に、宮田は三木城攻めで戦死したという。
戸田三郎四郎、のちに武蔵は関ヶ原で討ち死にした。(実際は朝鮮出兵から帰る時に病死)



706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 16:50:58.98 ID:u4UaIy7F
イイハナシナノカナー

707 名前:705[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 18:31:48.51 ID:6PqIzfiZ
おそらく同じ文章を訳したのだろうけど、ウィキペディアの解釈と自分の解釈がかなり異なっていたので、原文を併記しておく。

ウィキペディア
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/宮田光次
中国退治遠征のとき、宮田喜八郎は戦功が著しかったが、
ある日、将士の戦功を詮議した際に秀吉が喜八郎に多くの入札をして評したところ、喜八郎はその場を逃げ出したが、(皆からの)札が多く入った。
秀吉がいうには、
信長公の家臣にも林新三郎というものが同じようにその場を逃れたが(不在でも戦功ありとする)札が7枚入ったので、信長公は自ら新三郎を称賛されて、
臆病者どもはその身の言い訳のために戦功詮議に出席するがお前のような殊勲者はその場を遁れてさえても7枚も入札されるのだから入札するまでもないといって笑った、
ということがあった。秀吉は喜八郎もその気持だろうといって、札を与えて賞したという[3]。

原文
中国退治の間、戦功甚だ多かりき。
或時、戦功詮議に入札多く致させ給ふ処に宮田喜八郎逃れたりと札多く入ぬ。
秀吉公いわく
「信長の御とき林新三郎事を逃札七枚入たりしを、信長御手つから其札ともを新三郎に下され
「臆病者でも其身のみわけに斯のことし、其方にさへか様なれは入札用に立ぬ事なり」と笑ひ給ふ。
其方入札も此心なり」とて喜八に賜りける。

708 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/13(月) 08:56:51.11 ID:I+/rUjav
>>705
入れ札で論功を判断していたのか。
勉強になったわ。

709 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/13(月) 09:01:24.77 ID:I+/rUjav
>>705
こちらの訳の方が自然に見えるね。

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/13(月) 11:55:09.74 ID:Lm1LxlrS
各々が自分の戦功を主張して場が乱れるから、各々に格付けしてもらって総計を取った感じか
でもなんで逃げ出す必要があるんだ?
他人の評価なんかしたくねえ!俺がイチバン!ていう奴だったのか

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/13(月) 15:05:26.52 ID:eeE8J6i+
単に照れ屋さんな気が

「続武家閑談」から姉川の合戦と太郎作正宗

2023年03月01日 19:46

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/28(火) 21:16:51.50 ID:rNDNB3Wk
続武家閑談」から姉川の合戦と太郎作正宗

江北姉川で大御所様ならびに信長公が勝利された。
信長がおっしゃるには
「家康家中のものはよく合戦するとは常々聞いていたけれども、今眼前で見るに愛すべき者どもの働きであった。
家康の者どもが、こうも薄くのびて敵について離れないことを知らなかったぞ」
とお戯れになられたそうだ。
大御所様、御家中衆の誉となった。
この合戦の時、太郎作(水野正重)の刀がよく切れ、兜の鉢を切り割り、歯まで切り付けたという。
この刀は水野下野殿(水野忠政?)からたまわった、かくれなき名刀であったという。
大御所様もよくご存知であり、その刀には様々な不思議のことがあったという。
(このあとは有名な浅井長政ら三人の髑髏の話)

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/28(火) 21:29:21.32 ID:rNDNB3Wk
というわけで>>682
藤六の刀は太郎作の兜を割れなかったが、太郎作の刀は割れたようだ。

なお昭和18年刊行の「日本刀と無敵魂」には
「前田侯爵家の家宝太郎正宗は正宗中の傑作であるのみでなく、其の歴史は此の名刀に一段の光輝を添へるものである。
此の刀は磨上無銘で、長さは二尺一寸二分、切先から八寸五分程下所のに、小さき刃こぼれがある。
又切先から五寸二分程下の所に、矢目といって矢の当たった四角な小さな穴がある。
(>>683の話)刃こぼれは此の時の功名傷である。
清久(太郎作)も正宗の切れ味が余りによいので、自分ながら驚いて家康に話すと、
家康「それは下野守が常々自慢していた刀であろう」といって、自ら手にとり見て、「此は正しく五郎入道である、大切に所持されよ」と云はれた。
此刀後に徳川二代将軍秀忠に入り、三代家光に伝はり、家康の養女が加州四代藩主前田光高に嫁した時、光高へ贈られ以来前田家の家宝の一となった。」
と書かれている。現在国宝指定。