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ついに武蔵守殿を生害し奉りけり

2020年05月25日 18:21

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 19:26:51.09 ID:wRe4BRWs
織田信勝誅殺の時)

これより信長は作病を御構えになり一切表へ御出にならず、御兄弟なので勘十郎殿(織田信勝)に
「御見舞いしてしかるべき」と、御袋様(土田御前)ならびに柴田権六(勝家)が意見申すにつき、
清州へ御見舞いに御出になった。

そして清州北矢倉天守の次の間において、弘治4年戌午(1558)霜月2日、河尻青貝に仰せ付
けられて御生害なされた。この忠節を仕ったことにより、後に越前大国を柴田に仰せ付けられた。

――『信長公記 首巻』


柴田勝家の密告を)信長公は聞こし召されて隠密の智謀を柴田に仰せ聞かされ、その夜に勝家を
末森へ返された。さてそれより信長公は病気と称して虚病を構え、長く籠居なされた。同年の冬に
村井民部を御使として御母堂へ仰せ上げられるには、

「某の病気は日を追って盛んになり、治ることは有り難く覚えます。いまだ子を持ち申しませんの
で家督を武蔵守信行に譲ろうと存じます。早く武蔵守方へ迎えを遣されては頂けませんか」

と真らしく仰せ遣わされた。御母堂は事実と思し召して一先ず御嘆きなされたのを早く早くと勧め
申せば、難無く迎えを遣されて(信勝に)子細を仰せ聞かされた。

武蔵守殿は心浅き人で、この事を真と思し召したため、同11月2日に清州城へ入りなされて信長
へ御対面なさりたいと御寝所の矢倉へ通らせなさったところを、この矢倉の天守の次の間であらか
じめ信長が仰せ付けおかれた如く、討手の人々の山口飛騨守、長谷川橋介、河尻、青貝、この者ど
もは小志津の御刀を預かっていて初太刀を強かに打ち付けると、信行はそこを切り抜けなさって、
御母堂の御座所へ走り退きなさった。

そこを、その方向の受け手である池田勝三郎信輝(恒興)が引き組んで三刀刺し、ついに武蔵守殿
を生害し奉りけり。

――『織田軍記総見記)』



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【雑談】織田信長と弟・信勝との争い等について

2020年05月24日 16:20

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/23(土) 19:46:27.56 ID:mS797We3
自分と弟の家老両方に見切られた信長が勝利する運の強さは異常

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 00:07:33.67 ID:B7yyK1lo
信勝方に油断があったんじゃないのかな

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 01:29:39.83 ID:xoSedNu4
林秀貞「三代相恩の主人だから押し込めて腹を切らせるなんてとんでもない」
稲生の合戦で大苦戦中の信長が怒ると、優勢の柴田勢は家臣だから威光に恐れて逃げ崩れた
                    (上の『総見記』と『信長公記』だと若干合戦の推移が違う)

もちろん、太田牛一らの信長称揚もあるだろうけど
なんだかんだで信秀の認めた当主の威光も大きかったんじゃないかと

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 11:51:51.26 ID:T2cDKMkS
むしろ穏健的な信成が正当な後継者だったという論文最近見たな
なかなか衝撃的

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 12:53:05.09 ID:8CTNbWdt
>>213
スケート選手がなんかしたのか?

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 14:17:31.03 ID:rR8W1qw3
多分信勝と書き間違えたんだろう
論文出すだけならとんでもだろうとなんだろうと出せるからね、とんでもな方が衝撃的になりやすいし

内容見てないのでどういう証明のされ方をしてるのかわからんけども

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 15:14:56.39 ID:n0g5aAoo
信広と間違ったんじゃない?
人質になったせいで廃嫡されたんじゃないかって聞いたことある
そういう論説があるのかまでは知らんけど

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 15:33:31.57 ID:8CTNbWdt
いくらなんでも同母弟の信勝が嫡男なのはありえない。齋藤家が嫡男でもない輩に娘を嫁に出すわけがないし。
ただ、信秀の居城の末森城を信勝に譲られたのは大きい。事実上、二頭体制になっていた可能性は高い。

信広は捕虜にならなきゃ家督継いでいた可能性はもちろんある。
けど、大きな実績挙げる前に捕虜になってアウトだったからなぁ。

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 15:37:57.30 ID:0FVd0Msv
文書上は信行は信勝だったけど
信長の上総介の名乗りに対抗して
弾中正建成に(建は守護代家の通字)改名
稲生の戦いで後継者争いに負けた後は「信成」に
と谷口克広「天下人の父・織田信秀」に書いてた

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 17:43:42.67 ID:6knF1Ax8
谷口先生がいうのなら、そうなのだろう。

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 19:27:36.34 ID:B7yyK1lo
いまは分割相続・共同統治からの主導権争いって見方なのかな?

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/26(火) 07:32:50.31 ID:lbGMsvkA
>>220
タワケの語源って知ってるか?

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/26(火) 22:04:49.63 ID:Z78nCZoG
>>225
田分け?
戯け?

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/26(火) 23:28:49.96 ID:388ZJOBP
古事記の仲哀天皇段の
上通下通婚(おやこたはけ)、馬婚(うまたはけ)、牛婚(うしたはけ)、鶏婚(とりたはけ)、犬婚(いぬたはけ)
近親相姦や獣姦の禁止の箇所で出てくる「たはけ」が初出ではないか

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/27(水) 02:45:00.99 ID:7sddv3kp
たわけ うつけ 
似てるよね。どっちも信長のイメージ

武蔵守殿にまた御謀叛の企てある由

2020年05月24日 16:19

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/23(土) 22:51:09.31 ID:LqQOcs28
武蔵守殿信行(織田信勝)は先の和睦の後もまたまた野心を挟まれ、春日井郡龍泉寺に居住なさる
として当所に要害を構えられた。これは上郡岩倉城主・織田伊勢守(信安)衆と心を合わせ、東郡
篠木三郷を始め、信長御台所入りの知行所どもを、ことごとく押領なされるためである。

また信行は不行儀の事どもが多かったのを柴田権六勝家が度々諫めたのだが御許容なさることなく、
あまつさえ近習の小姓で寵愛なされた津々木十蔵という者は出世甚だしく、諸事の別当となり諸侍
の総頭を仰せ付けられて、この頃は津々木蔵人と名乗った。

この者は智もなく勇もなく第一に驕りを極めたため、諸人に憎まれ疎み果てられた。中でも柴田権
六と仲が悪く、権六を万事引き下げてあしらえば、内々に権六は安からぬことに思っていたのだが、
弘治2年(1556)正月5日、武蔵守殿は家中の面々に椀飯の饗応を下されたのだが、柴田には
その沙汰なし。

勝家は不審に思い、もてなし顔で台所辺へ伺候したけれども、津々木が連日何事かを讒言したのか
信行は柴田に言葉をも掛けなさらなかった。勝家は蒸すが如く腹立ったけれども、わざと顔色に出
さずにいたが、心安き朋友の手を取って自分の眼の上を探らせると、眼の上はさながら猛火のよう
に熱していた。

これほどに感情が高まればどうして少しでも躊躇えようか、その日すぐに勝家は清州へと参上して、
密かに武蔵守殿にまた御謀叛の企てある由を信長公へと申し上げた。

――『織田軍記(総見記)』



まず今回は御赦免なさった

2020年05月23日 16:46

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/23(土) 06:05:32.82 ID:QRLkc+Fv
(稲生の戦い後)

それより後、敵は末森・那古野に籠城したのを節々御働きなされて町口を皆々放火し給う。しかる
に信長公の御母堂(土田御前)と武蔵守殿(織田信勝)は御一緒に末森城にいらっしゃたが、清州
より島田所之助、村井民部を御使に遣わされた。

武蔵守殿謀叛の罪科を今後御赦免なさって和睦させなさるようにとの由で信長公へ様々の御詫言が
あり、信長もさすがに御舎弟といい御母堂の御詫言といい、いずれにしても捨て置き難くすなわち
御同心なされた。

以来、武蔵守殿より信長公へ疎意あるまじき由の起請文を書き遣わされ、御母堂の御同道で武蔵守
殿、ならびに柴田権六(勝家)、津々木十蔵(蔵人)が黒染の衣を着て清州城へ参上申し、御目見
と御礼を申し上げた。

林佐渡守(秀貞)はひとしお罪科の者で御赦免なりがたき輩であったが、諸々の御詫言を申し上げ、
先年に安房守殿(織田信時)御同道で彼の館へ御入りになった時、舎弟の美作(林通具)は信長公
を殺害しようと申したが、佐渡守は差し止めたということをよくよく聞こし召し届けられて、まず
今回は御赦免なさった。

これも首を延べて清州へ参り御許しの御礼を申し上げれば、信長公よりあまつさえ元の如く那古野
城を守るようにとの旨で安堵の御書を賜った。

――『織田軍記総見記)』



重ねを厚く、大平に御打たせなさり

2019年08月26日 19:36

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/25(日) 18:02:06.81 ID:lxfhKvwH
ある時に信長公は御成敗人(原注:信長の舎弟・武蔵(織田信勝)という)を仰せられた。仕手
(刺客)は討ち損じて(原注:3人に仰せ付けたが、討ち損じたという)かの者が逃げるのを、
廊下で勝入様(池田恒興)が刺し殺しなさった。

その後、(恒興は)御家来どもに御物語りされ、「脇差は何が何でも手強きものを用いるべし」
と仰せられ、前述の時は薄き御脇差で、ひわひわして(細く弱々しい様)御難儀であったとして、
その後に新身を大道(刀工の名)に重ねを厚く、大平(大平造)に御打たせなさり、御陣刀に御
用いとなられた。

御討死の時まで御差しになられ、今は永井家にあるはずである。

――『烈公間話』



159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/27(火) 12:56:02.40 ID:lqWpBlnz
まあ実際使うのは脇差の方かもしれんな

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/27(火) 13:19:00.08 ID:4VVq4NdH
上意討ちされても脇差でなら反撃してもいいとか面白い決まりあるよね

滝川雄利は安治を謀って

2016年10月26日 10:12

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/25(火) 22:59:30.30 ID:9xpVU5sN
天正12年、織田信長の二男、信雄の家臣である滝川雄利の子を、羽柴秀吉は人質に取り、
脇坂安治に預けた。この後、織田信勝と秀吉は交戦を始めた。滝川雄利は安治を謀って
人質を取り返そうと、偽って『あの子の母が重病に陥りました。どうか対面させてやりたいのです。』と
少しの間、暇を頂くことを願った。

安治はこれを偽りと思わず、親子の愛を憐れみ、私的に暇を許してしまった。
すると滝川雄利父子は伊賀国に逃走し、上野城に籠った。
秀吉は滝川雄利が伊賀上野城に入ったと聞いて、安治に人質のことを尋ねた。
安治は、人質を取られた有様を、ありのままに答えた。

これを聞いて秀吉は激怒した。安治は鬱憤を抱え
「私が伊賀に赴き、滝川父子が籠っている上野城を攻めて、そこで討ち死にいたします!」
そう申し上げた。
しかし秀吉はなおも腹を立てて

「お前のような小身が、滝川父子を攻め取れるものか!さては滝川に一味し、私に謀反を
するつもりか!?」

これを聞いて安治は涙を流し
「主君の厚恩を忘れ、叛逆した滝川に与する事などありましょうか!」と、自らの母親を人質として
残し、主従20騎にて笠木より伊賀に入った。そして伊賀国の兵に触れ回った

『羽柴秀吉の使にて滝川父子を討ち取る。味方を仕り、軍忠ある者には本領を安堵し、城中の人質も
返還しよう。』

こう云って国侍たちを一味させ、夜中、密かに上野城を取り巻き、その夜のうちに攻め立てこれを取った。
滝川父子は伊勢へと逐電した。

この旨を秀吉に注進すると、秀吉は御機嫌にて、はじめに山岡美濃守を使いとしてその戦功を労り、
後に増田長盛を使いとして、「国の事、堅固に仕るべし」と伝えた。

(脇坂記)

脇坂安治が、伊賀上野城を攻め落としたお話。




信長の尾張掌握と美濃攻めについて

2014年03月12日 18:58

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 00:05:54.09 ID:zwcXgUzi
彼(織田信長)の父(信秀)が尾張で瀕死になった時、彼は父の生命について祈祷することを仏僧らに
願い、父が病気から回復するかどうか尋ねた。彼らが回復するであろうと保証した。しかるに父は数日後に
世を去った。そこで信長は仏僧らをある寺院に監禁し、外から戸を閉め
「貴僧らは父の健康について虚偽を申し立てた。今や自らの生命に付き更に念を入れて偶像に祈るが良い」
と言って、彼らを外から包囲したあと、彼らのうち数人を射殺させた。

彼は好戦的で傲慢不遜であったので、兄が父の相続において自分に優先することが耐えられなかった。
そこで目的を果たすため病気を装って数日床につき、兄が見舞いに来ないと母に訴えた。
兄は信長の欺瞞を恐れてそうしなかったのであるが、信長からの激しい催促により終に訪問した。
そのさい、彼は脈を診てもらうために左手を差し出し、兄がそれを取った時、彼は大いなる迅速さで
既に用意してあった短刀を掴み、その場で直ちに兄を殺した。
(これは信長による弟信勝の暗殺についての事であろう)

彼は織田家を掌握した後、同国の3分の1を所有する他の一人の殿に対して戦を行い、容易に彼を追放して
尾張国の絶対君主となった。(斯波義銀追放のことか)

だが彼は隣国をも支配しようと欲していたので、突如、尾張に接する美濃国に対する攻撃を遅滞なく準備した。
彼が陣営を整えると、美濃国主(斎藤龍興)も同様に成した。そこで彼は戦略を用いた。

彼は夜間、家臣の内ほぼ半ばを退かせ、大いなる夜陰に乗じて、敵を7,8里側面から迂回し、彼らを
密かに美濃国主の背後に配置し、その際、敵方の家来の印のついた旗を持たせておいた。
美濃国主は眼前の信長の陣営を密かに偵察させ、自分の軍勢がはるかに優勢であることを聞いて攻撃した。
しかるに彼が攻撃を開始した時、信長も美濃国主の軍勢の背後に移動していた。
敵のこの動きから彼の背後に生じうる事態について、美濃国主はいささかも懸念しておらず、むしろ彼は
後ろの軍勢を見て、味方の旗を認め非常に喜び、目前の敵を攻撃することにのみいっそう夢中になった。

ところが両軍が刃を交え始めた頃、後ろから突如信長が現れ美濃国主を挟撃し、その多数の部下を殺し
軍勢に打撃を与えた後、直ちに美濃の主城(稲葉山城)へ突進し、かくて全ては難なく信長に帰伏した。
こうして彼は美濃国を獲得したのである。

ところが美濃国主は非常に苦労して騎馬で従った数名の僅かな貴人とともに脱出し、都に逃れ、
同所も安全でないと見ると、日本人すべての追放者にとって避難所である堺に赴いた。

ルイス・フロイス『日本史』)

フロイスの日本史に見える、信長の尾張掌握と美濃攻めについての話である。




729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 00:49:01.65 ID:hQDTSnkr
親父生き返らせられなかった僧を殺した話は日本史が出展だったんだ?
信長の残忍さと神仏に対するニヒルな考え方を強調させる江戸期辺りの造作かと思ってたよ

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 00:50:33.10 ID:hTWr+4y/
信憑性はともかく具体的な美濃攻め近時代史料あったのか。フロイスとは盲点だった

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 02:04:28.94 ID:4NuqqxYq
信長公記と中島家文書ぐらいかなあ、美濃攻めで使い物になるのは

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 03:42:43.39 ID:+plAK+O6
>>728
「射殺」というのは、弓矢なのか鉄砲なのだろうか?w

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4485.html
だと、火をつけて殺したとあるので、
「射殺」が原文ではどういう単語だったか気になるところだな

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 08:06:38.24 ID:G+ra/FOi
火矢でしょ、たかが僧侶に鉄砲使うと思う?
ゴキブリ殺すのに火炎放射器つかうようなもん

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 10:40:42.78 ID:n9DkdTvR
ひゃー

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/12(水) 13:17:20.40 ID:9wEctfnR
【審議中】
    |∧∧|       (( ) )   (( ) )  ((⌒ )
 __(;゚Д゚)___   (( ) )   (( ⌒ )  (( ) )
 | ⊂l     l⊃|    ノ火.,、   ノ人., 、  ノ人.,、
  ̄ ̄|.|.  .|| ̄ ̄   γノ)::)  γノ)::)   γノ)::) 
    |.|=.=.||       ゝ人ノ  ゝ火ノ   ゝ人ノ
    |∪∪|        ||∧,,∧ ||∧,,∧  ||  ボォオ
    |    |      ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
    |    |      ( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
   ~~~~~~~~     | U (  ´・) (・`  ). .と ノ
              u-u (    ) (   ノ u-u
                  `u-u'. `u-u'


736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/13(木) 09:00:44.06 ID:F7HlC8Qi
>>734-735
最初意味が分からなかったw

織田上心は

2013年05月24日 19:52

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 07:53:37.69 ID:BhoaUw4r
織田上心は大坂天満で秀頼公から数年間、御扶持米をお受け取りになられていたが
乱世の頃から家康様へ御一味されていたので北野へ引かれあそぱしました。

宇多にて五万石を遣わされ、夏の陣には出陣され大坂備前島へ攻め寄せられました。

(長澤聞書)

信雄さんのちょっと当て字が多すぎ・・・いやちょっと薄情なお話。




696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 10:44:28.65 ID:hgPphfC3
上申さんでもいいかもなぁ。