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故に再び謀叛を起こした

2019年02月24日 19:16

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/23(土) 19:51:30.66 ID:MaZU3Wfr
山路正国の逃走後)

とりわけ織田三七信孝は秀吉に与するを好まず、また三介信雄に対しては牆に鬩ぐ(兄弟が内輪で
喧嘩すること)恨みがあって侮りを抑える心はなく、故に再び謀叛を起こした。

信孝が柴田・滝川と一統して天下を覆そうとする旨を議定したことは秀吉の聞くところとなり、4
月17日に秀吉は長浜より美濃大垣城に至る。信孝は美濃・伊勢の人数を端々で一手になし、方々
を焼き回った。

このため秀吉は「是非とも岐阜に攻め入り、鬱憤を散らさん!」とするところで、その頃は長雨が
止まず、郷土の川は洪水してまったく兵馬を渡すことができなかったので、秀吉は大垣に5,6日
滞留した。その間に伊勢峯城(滝川方の城)を信雄の御人数や、その他蒲生飛騨守氏郷・長谷川藤
五郎秀一・多賀・山崎・池田などが攻め詰め、落去したとの吉報があった。武辺勝利の吉兆である。

さて柴田勝家は信孝の御謀叛に力を得て、天下を取らんとしたのは無論のことである(可取天下事
勿論也)。旧冬に勝家が信孝に一味した時は救い奉ることができず無念であったが、今この時には
きっと一戦に及ばんとする。

幸いにも只今秀吉は美濃に赴いているので、その隙にまずこの表を打ち破るべく、かの謀叛人の山
路将監(正国)を案内者にして、敵の行動や陣取の様子をことごとく尋ね探らせた。

天正11年(1583)卯月20日、佐久間玄蕃助(盛政)を大将となして余呉の海馬手を通り、
賤ヶ岳を手元に置いて、中川瀬兵衛尉清秀が陣取る尾崎に押し寄せ、柴田父子は堂木山と左祢山を
襲うために近々と人数を立ち寄らせたのである。

――『天正記(柴田退治記)』


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勝豊は内々恨みを含んでいた

2019年02月21日 10:15

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/20(水) 19:51:45.68 ID:CW5ADGE9
(長浜城攻めの時)

かの地(長浜)は秀吉が長く居住した要害である。このため、秀吉は長浜の案内を知っており、敵の
痛所を思惟して付城を構え、内側を繰り破るべく列をなす。

勝豊(柴田勝豊)は越前の援兵を頼みにするも、頃日の雪は例年を超過した。寒威は実に綿を透かせ、
風力はまさに酒を凍らせんとす。住む者は籠り伏し、来る者を凍え殺し、ことこどく人馬の通行は絶
えた。ここに至って勝豊は釈近謀遠しても労をなして功は無く、秀吉へ降参に至ることを考えた。

ところで、勝豊の本素は他名なり。勝家(柴田勝家)の養子となしたものである。只今秀吉に降参し
て一味することは、すこぶる本意を失うようなものだ。しかしながら、佐久間玄蕃助盛政はかの分国
において権柄を執ること実に甚だしく、これによって勝豊は内々恨みを含んでいた。

秀吉はその由来を知って疑わせること無く勝豊を引き付け、すなわち美濃へ向かった。これに従った
面々は惟住五郎左衛門尉長秀(丹羽長秀)・筒井順慶・長岡越中守忠興(細川忠興)・池田紀伊守之
助(元助)・蜂屋伯耆守頼隆、その他諸国の軍兵を引率して都合3万余騎。これが大風を凌ぎ深雪を
分けて、岐阜に至り押し寄せた。

国中の凶徒は、あるいは追罰を加え、あるいは降参して従い、日を経ずして残るは一国一城となった。
信孝はこれに惨憺して、ひとえに和与を嘆き慕う。そうして信忠の御若君(織田秀信)に信孝の老母
と息女を添えて、人質に出したのである。

秀吉はこれを見て古を思い、なおも憐憫奉る志あり。秀吉は囲みを解いて12月29日に美濃を去り、
山崎城へと至って、かの地で越年した。

――『天正記(柴田退治記)』


秀吉はこれを識量して

2019年02月20日 18:17

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/19(火) 18:28:01.04 ID:rzhsIc24
そもそも羽柴筑前守秀吉は天正10年(1582)10月15日に将軍(織田信長)の御葬礼を勤め、
以来帝都の未申の角、山崎の上に一城を拵えて五畿内を直下し、生民を鎮撫した。そして先の秋田城
介平朝臣信忠の御若君(織田秀信)を迎え取り、安土に安置し奉って守護せしめんと欲したのである。

そんな折に織田三七信孝は、柴田(勝家)・滝川(一益)に相談して言った。

「若君を秀吉に渡しては、彼一人が天下を計り、欲しいままに権威を振るうだろう事は眼前である。
そうなってはどうして秦の趙高の専横や、唐の楊国忠の災いを招かないことだろうか」

そう言うと、信孝らは一味同心して御若君を介抱した。これにより秀吉は、一旦将軍御子弟の礼を厚
くし、かつまた誓紙の恐れを思って条々の懇書を呈したといえども、信孝の心には許容されず、あま
つさえ内々に敵対の計策を企てたのである。

この時、柴田修理亮勝家は同名伊賀守勝豊をもってこれを謀り、和平の調停をさせ、前田又左衛門利
家・不破彦三(直光)・金森五郎八(長近)を京都に上らせた。その故は、越前国は初冬から残春に
至るまで雪が深いために、糧を運ぶのが困難だからである。只今干戈が起こっては、人馬の疲れ百姓
の労、実に国の虚であると思ったのだ。

秀吉はこれを識量して調停を止め、臘月の初めに長浜に至り出張した。

――『天正記(柴田退治記)』


天が秀吉を祐けたのだ

2019年02月18日 17:36

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/17(日) 21:17:30.62 ID:9bBq3pfH
豊臣秀吉は、天運に乗った人であった。

賤ヶ岳の戦いの折、織田信孝は岐阜の城に拠って秀吉と対したが、柴田勝家は信孝と通謀して
「堅く義父岐阜を守れ、秀吉必ず来たり攻めん。我柳ヶ瀬の麓を回って前後より挟み撃てば、
一戦にしてその頸を見ん」との約を定めた。

秀吉は勿論これを知らず、岐阜城を攻め囲もうとした。ところがここで、その夜より水瓶を返したような
大雨となり、呂久、郷戸のニ川、俄に激浪滔々たれば、渡ること能わず、川の此方に陣した。
そこで勝家が柳ヶ瀬を出発したとの情報を得、秀吉は川を渡らず岐阜を捨てて、柳ケ瀬へと軍を進めた。
しかし洪水の故に、信孝もこの秀吉の軍を追撃することができなかった。
勝家の謀は却って自ら不意に遭う端緒となってしまったのである。

これ天が甚雨、洪水を以て秀吉を祐けたのだ。

(武将感状記)

この時大雨で秀吉が岐阜城囲めなかったのは史実なのね。



682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/18(月) 19:58:27.32 ID:aeCHFtum
神戸具盛「堅く義父を守れ、か……さすが柴田はいい事言うのう」

三七信孝も智勇は人を超えていた

2019年02月18日 17:34

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/18(月) 17:26:48.51 ID:QhmfMSe6
また織田三介信雄は人数を率いて岐阜に攻め入った。三七信孝(織田信孝)もまた将軍(織田信長
の御息男で、智勇は人を超えていた。(而智勇越人)

信孝がどうして自害を拒むことであろうか。かの山にて信孝は髪を洗って身を清め香を焚き、将軍
から賜った太刀で、首を刎ねて死んだ。逆心によって滅んだことは、おおかた天命なのではないか
(於自害豈可辞乎。彼山而沐髪淸身焼香以将軍所被下太刀首刎死。以逆心相亡事殆不天命乎)。

――『天正記(柴田退治記)』


褒美として機物にあげよ

2019年01月28日 17:51

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/27(日) 20:25:23.11 ID:RsuwMCIe
(賤ヶ岳の戦い敗戦後)

佐久間玄番(盛政)は賤ヶ岳の御合戦より越前敦賀の奥の在郷へと赴き、主従3人で百姓の家に立ち
寄ったが、百姓めらに棒ずくめにして召し捕らえられた。

秀吉はその百姓めらを召し寄されて、褒美なされようとした。「手伝い致した百姓めらも皆々参れ」
と仰せになり、百姓は御褒美を望んで「我も手伝いました!」「我も我も!」と申し、その召し捕ら
えた家に入っていたような者12人を召し寄せられた。

秀吉の御思案には「合戦の勝ち負けは世間の習いである。秀吉が負ければ、今日は人の身の上、明日
はまた自分の身の上である」と思し召しなされ、「百姓には似合わぬ事を致したものだな。見せしめ
のために、褒美として機物(磔用の刑具)にあげよ」と仰せになり、その時の12人を機物に御あげ
になられた。

これは明智を討った百姓の時とは異なっておられた。討手に罪の軽重があったからである。

(中略)

三七殿(織田信孝)は野間の内海で御切腹を仰せ付けられた。その時の御辞世に、

「むかしより主をうつみのうらなれは むくいをまてやはしはちくせん」

――『川角太閤記』


筑前守殿は城介様に恋慕故

2019年01月23日 22:33

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/22(火) 21:18:36.57 ID:lazxmLUg
柴田殿(勝家)の三七殿(織田信孝)を天下の主に取り立てたいとの思案は、柴田殿が三七殿の具足始
を致された故と聞いている。この御契約故、後に柴田殿と三七殿は御懇意になられたと聞く。

秀吉は城介殿(織田信忠)と御懇意であられたと聞いている。その子細は、城介殿が御若衆の時に御公
家衆などは城介殿に御恋慕なさった。これを城介殿は御難しく思し召され、その御様子を秀吉は見及び
なさると、

「それならば、私に御目を掛けなさっていると世間に御披露なさいませ。そうすれば御気難しきことも
ございますまい。その上で私も本心から御難しきことは申し上げませぬ。その他のことも、その通りに
なさるのがよろしいでしょう」

と申し上げられた。信忠様はこれをもっともだと思し召されたということなのか、秀吉と御知音のよう
に世間で成り行き、ますます後々も御目を掛ける振る舞いをなされたという事である。

信長殿が御妹婿の浅井殿を御成敗なされて、内々にその後家をどうするかと思し召されていたところ、
三七殿は「柴田に遣されますように」と仰せ上げられた。また城介殿は「筑前守に遣されますように」
と仰せ上げられた。

そんな折に朝倉を御追罰なされ、その諸職一円を柴田に遣されて柴田は殊の外大名となられた。その時
に三七殿は、「ただ柴田に遣しなさいませ。柴田が大名にもなられた以上は、御兄弟となられましても
苦しからぬことでしょう」と仰せ上げられ、信長殿も「もっともだ」との仰せで柴田に遣しなさった。

この由緒故に三七殿を柴田は引き立てなさり、筑前守殿は城介様に恋慕故、その因みをもって吉法師様
を取り立てたいと思し召し、互いに数奇の争いとなったと承り候事。

――『川角太閤記』


叛賊の光秀が予め計っていたことには、

2019年01月22日 17:57

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/22(火) 04:13:57.36 ID:lazxmLUg
叛賊の光秀が予め計っていたことには、

「柴田勝家は越前北庄に在城して越後の上杉景勝と対陣し、羽柴秀吉は毛利という大敵と合戦の最中、
佐々成政は越中にあって道は遠い。滝川一益は関東にあって北条を気遣い、容易に出軍は叶うまい。
三七信孝と丹羽長秀らは大坂にあって未だ四国へ発向していないから、この輩は弔合戦をしようと引
き返し、押し寄せるかもしれないと思う。

しかしながら、その中の織田七兵衛信澄(津田信澄)は光秀の婿である。その上、信澄の父・武蔵守
信行(信勝)は弘治3年(1557)に謀叛して信長公のために誅せられた遺恨もあるから、必ず我
に味方するはずの者ぞ」

と内々に頼み遣わすと、信澄は早速一味した。この時は四国発向のために順風を待ち合わせ、信孝を
始めとして丹羽長秀蜂屋頼隆も共に大坂城にいた。信孝・長秀は本丸に住し、信澄は二の丸にいた
ところを、光秀は謀を授け、「もし信孝を謀り殺したならば、その恩賞として摂津を半国授けよう」
と申し遣わしたのである。

信澄は願うところの幸いと大いに喜び、諸々謀を巡らせたが、その陰謀はたちまち露見した。信孝は
丹羽・蜂屋らと相談し、「それならばまずは光秀誅伐の手始めに、逆党である信澄を誅戮する!」と
軍勢を催し、二の丸を取り囲んで鉄砲を厳しく撃ち掛け攻め寄せた。

信澄も「覚悟したこと!」と手勢を指揮して手強く防戦しようとしたところ、その家人・匂坂民部丞
は「逆意であるからとても打ち勝つ戦にあらず」と思ったのか、丹羽に回忠して寄手を二の丸に引き
入れ、信澄はついに叶わずして上田左太郎重安(宗箇)のために首を取られた。

光秀がこれを聞いて肝を潰し、狼狽したことこそ浅ましいことである。

――『改正三河後風土記』


大坂には三七殿と惟住丹羽五郎左衛門殿、織田七兵衛殿の3人とその他小大名衆4,5人がおられた。
惟住五郎左衛門殿の所より秀吉が承ったことには、

「近日中に姫路へ御帰城の由を承りました。早々に御馬を急がされよ。拙者の次第も御弔合戦一つを
志してはおりますが、御存知のように七兵衛殿は日向守の婿であるため、きっと内心は一味同心であ
ると推量致して前の疑いは果てぬ故、大坂を出立しないのはそれが理由なのです。後から様子につい
ては追々注進させます」

と五郎左衛門殿より道中への早飛脚があったと、相聞こえ申し候事。

(中略)

これは羽柴筑前守殿の所から丹羽五郎左衛門殿への御内心と聞いている。

「織田七兵衛殿は日向守と本心は一味同心であろうと存ずる。三七殿と仰せ談じられて、七兵衛殿を
御討ち果たしなさるのが御もっともと存ずる」

この筑前守殿の御内心と、五郎左衛門殿も内々は判断を同じくしていたので、七兵衛殿の御座所の大
坂本丸の外、千貫矢倉へ押し寄せて鉄砲ずくめにして攻撃致され、道理も表裏もなく七兵衛殿を討ち
果たしたのだと聞いているが、まさしく明智合戦は収束した。

(あや表裏なく打果し申と聞え申候扨こそ明智軍はおさまりけり)

――『川角太閤記』



687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/22(火) 05:39:16.44 ID:mhxHrSOm
大坂城ってあったのか

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/22(火) 08:13:54.80 ID:PazeiqiM
>>687
名前は知らないけど、本願寺を応急措置で修復したものでしょ
ここを本格的な城にして安土の後の居城にするつもりだったって話もあるよね

斎藤内蔵助利三という光秀股肱の者で候

2018年09月21日 10:01

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/21(金) 05:57:48.32 ID:fX5WZda+
(山崎の戦いの時)

斎藤内蔵助利三は最初から今日は総敗軍と覚悟していたため、味方の敗走を見ても少しも屈せず、なんとしても
神戸三七殿(織田信孝)と一戦して今日の恥辱をそそぐべしと心掛けており、その子・伊豆守(利宗)と手勢を

整えてまったく動揺せず、静かに人数を進め山崎総構の東方の川を隔てて陣を立てた。その川は大河ではないが
近日降り続いた長雨によって水嵩は増え渦を巻いて流れた。ここに三七信孝の陣中より野掛彦之丞という者が

名乗りただ一騎馬を乗り入れ先に進んだ。内蔵助の子・伊豆守16歳、これも斎藤勢よりただ一騎川へ乗り込み、
川中で1,2度打ち合うと見えたが、双方押し並んでむずと組み合い水中へと落ちた。

これを見て斎藤の家士が一同に伊豆守を救おうと川へ乗り込むのを、内蔵助は大声を揚げて「武士の子16歳!
敵1人討てずして生きても甲斐なし! ただ捨て置け!」とこれを制した。その間に伊豆守は野掛の首を取って

下の瀬より岸に上った。これを切っ掛けとして敵味方は鉄砲矢戦となり討ちつ討たれつ喚き叫んで攻め戦った。
中でも内蔵助は大声を揚げて、「私は利仁将軍(藤原利仁)の後胤、斎藤内蔵助利三という光秀股肱の者で候!

恐れながら、三七殿にとって御親の仇随一の者である! 御自身で私を御討ち取り下さるべし!」と言いながら、
信孝の本陣へ父子手勢は必死になって切り入った。その時、中川瀬兵衛清秀の2千5百騎が横合より打って

掛かり、斎藤勢を引き包んで討ち取らんとした。これによって信孝は斎藤勢を散々に討ちなされ、過半が討死
したので内蔵助・伊豆守父子も叶わずして一方を切り抜け跡をくらまし落ち行った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


「筑前、早くも天下を併呑する気象あらわれたり」

2018年09月21日 09:58

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/21(金) 06:03:05.42 ID:fX5WZda+
山崎の戦いの時、神戸信孝(織田信孝)は斎藤利三勢に攻められるも中川清秀が横合より斎藤勢を
攻めたため、利三は敗れて落ちていった。合戦が済んで後、信孝は瀬兵衛清秀の手を取って戴き、

「今日、親の仇を討ち取ったのも、まったくそこもとの武功ゆえ!」と、感涙を流して感謝された。
その時、秀吉は駕籠に乗ってその様子を見て「瀬兵衛瀬兵衛、今日は骨折り骨折り」と言いながら

通り過ぎた。清秀はこれを聞き「筑前、早くも天下を併呑する気象あらわれたり」と申したという。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


かの大軍に気を呑まれてその指図に従われる

2018年08月29日 18:57

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 17:04:21.36 ID:K7i/dcnH
羽柴筑前守秀吉は摂津尼崎に着陣し、神戸三七信孝ならびに丹羽・池田ら諸将へ使者をもって申し遣わした。

「秀吉は亡君(織田信長)の仰せを受けて討手として中国に向かい、備中高松城まで攻め取った。しかし、
毛利は大国といい大軍といい容易には決戦しがたく、援兵を申し願った。毛利は亡君の武威に畏服し3ヶ国

を避け渡して降参和睦の盟約はすでになるに及び、まったく思いも寄らず賊臣・光秀は叛逆して主君御父子は
討たれなさったと長谷川宗仁の方より告げ来たった。秀吉はこれを聞き、切歯扼腕して怨恨限りなく、

腸を断たれる思いだった。よって1日も早く亡君の弔い合戦をせんと思い毛利と和睦し、毛利より弓5百挺・
鉄砲5百挺・旗30流の加勢を受けて、今日尼崎まで着陣したものである。

只今より早々に上洛して逆賊光秀を誅戮せんと存ずるなり。信孝公はじめ諸将の軍議はいかがに候か」

信孝はじめ諸将は早く光秀と一戦せんと思うものの、あまりに小勢なので容易には打ち立ちがたく、かれこれ
評議に10余日を送っていた。そこに秀吉が今度2,3万の大軍で上着したと聞いて大いに喜び、信孝・長秀

らは早々に舟で大坂から尼崎へ至ってついに秀吉と対面し、秀吉の大義・大忠を感嘆して喜ぶにもまず涙は
先立った。追々に諸将も会合して軍議を凝らしたところ、合戦の場所は山崎と定められた。

その時、池田勝三郎信輝(恒興)は「今度の光秀誅伐の先陣は某が仕らん」と言った。高山右近友祥入道南坊
は声を揚げて「今度の弔い合戦の先陣は某、二陣は中川瀬兵衛清秀、三陣は池田父子であるべきだ!

池田殿は順序を越えて先陣とは何事ぞ!」と、双方すこぶる争論に及ばんとした。

秀吉がこれを聞いて「池田殿は亡君の御乳母兄弟でおられるから、とりわけて御在世の御陣定めを変えなさる
べきではない」と言うと、池田も承服して静まった。よって先陣は高山南坊、二陣が中川清秀、三陣は池田

信輝と定まった。蜂屋頼隆は密かに傍の人に囁き、「三七殿は亡君の御子、丹羽は当家一二の老臣、池田も
亡君の御乳母兄弟だ。いずれも当家において歴々の輩である。尼崎へ秀吉が参着と聞きなさったならば、

秀吉をこちらへ招き寄せて軍議されるべきことである。それを三七殿も丹羽も軽々しく秀吉の方へ参謁し、
かの大軍に気を呑まれてその指図に従われるとあっては、秀吉は早くも天下の主と見える。

きっと光秀を誅せられて後には、天下は秀吉の手に落ちるだろう」と申した。この言葉は後に思い当たった。

――『改正三河後風土記』


本能寺の変と近江情勢

2018年06月07日 11:05

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/06(水) 22:59:53.83 ID:+taDBLgq
本能寺の変のあと、明智光秀が近江国安土城を接収すると、同国の住人たちは我も我もと
光秀に降参し、その幕下に属さない者一人もなしという有様であった。
その中で、蒲生賢秀・氏郷父子は「故信長公からの御恩を何れの世にか報い奉るべきか、
ただ一合戦して腹を掻っ切り御供せずにはしかず。」と、居城である日野城に立てこもり
要害を普請し軍勢を集めた。その数1500余騎という。

これを知った光秀は、蒲生に使いを出し『今度光秀に同心すれば近江半国を与える』と
伝えたが、蒲生父子は全く同心しなかった。

近江の住人である多賀豊前守、布施忠兵衛たちも既に明智方となっていたが、
何れも蒲生と疎意の無い人々であったので、彼らからも「罷り向かって異見を申そう」と、
自ら日野を訪れ出し再三に渡り諫言を行った。

しかし賢秀・氏郷父子は彼らと対面すらせず、ただ『武士たらん者は恩を知って以て人であると
申す。御辺たちは降参を能きと思ってそように申されるのか。」と返答した。

嘲られた両人は口惜しく感じ、馳せ帰ると光秀に申し上げた
「蒲生親子は以ての外に奇怪なる者にて候。急ぎ御退治有るべし」
特に布施忠兵衛は進み出て
「現在日野城は未だ普請中であり、堀、櫓は生壁の状態ですので、破壊も容易いでしょう。
1日も早く攻め寄せられるべきです」と積極的に提言した。
これを聞いて光秀も、尤もであると考え、すぐに蒲生攻めの準備を始めようとした。

ところがここで、信長の三男である神戸信孝が大阪より引き返し、光秀の婿であった
織田信澄を討ったという情報が入り、光秀は近江のことを明智弥平次に任せて
自らは信孝に対処するため攻め上がった。

(氏鄕記)

本能寺の変の後の近江情勢の事など



975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/07(木) 09:35:25.55 ID:PBC4CLeq
意外と、信孝の動きって重要だったということなのかな。
四国遠征軍は瓦解して、たいした働きはできなかったと言う話だが。

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/07(木) 11:06:11.75 ID:GbR2xIHX
味方になるかはわからないけど婿だし
これに対応しないと味方を見殺しにするってイメージを降った者に持たれて士気が下がる要因になるし最悪離反される恐れがあるからね
あと大溝城の接収にも関係してくる

神戸乗っ取り

2018年06月06日 17:15

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/05(火) 20:11:50.13 ID:Dj4OAh2c
織田信長の次男(三男)である三七信孝は、永禄11年の伊勢攻めの際、神戸具盛との和睦に際し
15歳にて具盛の養子となったのだが、実は当初、信長は「同じ一族の内」と言うことで、
神戸氏の親族であり織田方であった関安芸守盛信の子息、関勝蔵を神戸家の養子とするという
約束をしたのだが、それを違え信孝を送り込んだのだった。
それ故か、神戸具盛は信孝を粗略に扱った。

これに対し信長は、元亀四年正月、神戸夫婦が年始の礼に参った際、彼らを取り押さえ、身柄を
蒲生賢秀に預け、近江国日野城に幽閉した。また信長は関氏に対しても悪く思われ、彼らの所領を
没収した。

神戸具盛はその後、日野にて相果てたという。

(氏鄕記)



852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/05(火) 20:28:03.15 ID:nPTUAMjV
関氏はのちに蒲生の配下になったから脚色でもされてるのかな
勢州軍記とはまた違う内容だ

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/05(火) 21:30:42.67 ID:XV5zybWD
関死の誤字はちょっと笑った

柴田などに騙されるものか

2018年05月11日 08:05

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/10(木) 22:17:36.88 ID:ZZ5c1Vdw
清須会議の後、羽柴秀吉と柴田勝家の関係は徐々に悪化したが、この秀吉と勝家の間を
和睦させたいと、滝川一益より織田信孝へ申したてられた。

これを受けて、信孝も勝家へ異見をし、これにより勝家は、自分の馬廻り二名と、秀吉に縁のある
故信長の馬廻り二人を秀吉のもとに遣わし、浅野弥兵衛(長政)を通して存念を申し入れた。

秀吉はこの使いの四人を召し出し、彼らから直に話を聞いた。彼らは
「現在はお互いに用に立たぬことを申し立て、話し合いも出来ない状況です。ですので和睦を
すべきです。」
と申し上げた。これに秀吉は答えた。

「あなた方が仰ったこと、尤もである。あなた達の異見に従おう。」

「御心良く我らの異見を了解くださったこと、大いに喜ばしく思っております。
それではこの事に対し、墨付を下されますでしょうか?」

「墨付は、飛脚を以って直接勝家殿に届けよう。各々はここから帰る前に、大徳寺に参詣して
信長公へ焼香を致すように。」と言った。
このため使者たちは大徳寺に参詣して越前へと帰っていった。

それを確認すると秀吉は五畿衆を呼び寄せ、こう言った
「今度越前よりの口上を聞いたが、これは雪中では出馬が難しい所からの策謀である。
きっと滝川一益の考えた策謀であろう。
唐においては張良、日本においては楠などの策謀であるなら私も騙されるかも知れないが、
柴田などに騙されるものか。」

これを聞いた者達、何れも感じ入ったという。

(志津ケ嶽合戰小須賀九兵衛話)


織田三七殿の侍・二宮千太郎は

2016年06月02日 10:45

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/02(木) 02:37:34.31 ID:oHeDRgaS
織田三七殿(信孝)の侍・二宮千太郎は、これも博打に打ち負けて馬や物具まで取られ、
どうしようもなく三七殿の御前へ参り、

「私は不心掛けにより博奕を打ち、このような次第となりました。相手の者に様々に
詫びましたが、馬も具足も貸してはくれません。このうえは彼と果たし合いしようかと

思いましたが、私がこのようになってもきっと御用には立つだろうというのに、この時に
果たし合いをしたとしても、いよいよ不忠でございます。このうえで、御慈悲を頂ければ、
御検使を受けて切腹仕りたく存じます」と、申し上げた。

三七殿は、「お前の申すことは、理解できることも少しはある」とのたまい、黄金2枚と
具足や馬までも与えなさった。それから、二宮は次の日の合戦で組討ちをして高名を
極めた。そのため、三七殿も御機嫌を直しなさったということである。

――『備前老人物語』



幸田彦右衛門尉とその母

2015年05月29日 17:05

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 18:26:02.21 ID:4mhNMucy
幸田彦右衛門尉は、織田信孝の家臣であった。

天正年中、賤ヶ岳の戦いの前、信孝は羽柴秀吉によって激しく攻められ、信孝は力尽きて
和睦を受け入れ、その母及び幸田の母を人質として送った。

しかし程なく和睦は破れた。秀吉は怒ってその人質を殺そうとした。幸田彦右衛門尉は孝子であったため、
この事態に心揺れ動いた。これを聞いた母は、書状をしたため彦右衛門尉を諭した

『お前が、この老婆の身の上を思って二心を懐かないように。
お前は硬く節を守って、我が君を補翼せよ。
然らば君に忠、母に孝であり、であれば幸いにも忠孝両全と成る。

私は殺されても悔いることはない。』

これによって幸田は志を決して、秀吉に叛いた。
秀吉は怒り、その母を磔にした。幸田はますます信孝に忠勤して、尾張内海で信孝が自殺した時、
奮戦して潔く戦死した。

(明良洪範)

細川忠興軍功記より、清須会議について

2015年01月28日 18:54

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/27(火) 19:44:56.60 ID:tczRCWOg
山崎の合戦で明智光秀が滅びると、尾張国清州で、羽柴秀吉、柴田修理亮勝家が参会の上、
織田領国の国割を行うことに成り、織田三七(信孝)も岐阜より清須へ御出でになり、
羽柴秀吉、丹羽五郎左衛門(長秀)、池田勝入といった人々はそれ以前から清須に参り、
柴田勝家を待っていた。

柴田勝家が清須に到着する期日がわかると、その日は植原次郎右衛門の邸宅の広間に
織田信雄織田信孝、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田勝入らが御出でになり、柴田勝家が来るのを待っていた。
その広間の庭には、故信長・信忠父子の侍が、身分の大小共に、八百ばかり控えていた。

柴田勝家は堀重門より入ってきた。供の侍は三百ばかりであった。
柴田は縁に上がると角柱にもたれていた。柱の下には勝家の三人の甥達も詰めかけ控えていた。

信雄、信孝は座敷の間の内に居られた。秀吉は前から縁側に居た。池田、丹羽は前から御座の間に詰めていた。

秀吉は勝家に言った
「修理殿の御出を待って、御国割をしようと考えていたのですが、あなたの到着が遅くなり、
御両人様(信雄・信孝)より急ぎ国割をするようにとの仰せがありました。
信雄様は尾張に北伊勢を加え進上するようにと仰せられたので、お望み通りに進上いたしました。
信孝様は美濃に南近江を加え進上するようにと仰せられたので、お望み通りに進上いたしました。」

勝家はこれを聞くや怒った
「私への相談なしに国割を行うとはどういうことか!?そういう事をするのなら、その頭を押しつぶして
くれようか!?」
(我に談合なしに国割だてをいてくれい、其つれするならは、頭邊迄押くれう)

しかし秀吉
「私の頭を押しつぶすなど出来るものか!上様の御弔い合戦は私がしたのだ。笑わせる事をいうものだ!」
(我か頭邊押事成間敷候。上の御弔合戦が我か仕候。笑敷事申)
そう言い捨てた。

そこに、池田、丹羽が二人のいる殿中の間に入ってきた。信雄・信孝の兄弟も立ち上がって側に行き
「お前たち両人が、魚と水のように親しい関係にあることが、われら兄弟のためにも成るのだ。
そのようであってはならない」と諭した。
その時池田、丹羽が「急いで盃を出すのだ!」と言って盃を出させ、秀吉、勝家の両人に
盃を交わさせたため、その場は静まった。

その後織田信孝は秀吉にこう言った
「明日は修理も国に下る。その方も長浜へと帰るという。であれば岐阜にて、風呂を立てるよう
申し付けているので、帰りに立ち寄ってほしい。」

しかし秀吉は翌朝未明に清須を立ち、墨俣に馬上一人だけで着いた。墨俣の代官は、佐脇作左衛門の
親類であった。秀吉はそこに立ち寄り、湯漬けを食すと、乗ってきた馬を亭主の馬に乗り換えて、
そこから鈴鹿を左にして、水口を通り、その日は八幡山に出て、その夜、船にて長浜に到着した。
これは柴田勝家が国元へ帰るのを待ち受けるためであった。

柴田勝家は岐阜で於市様と祝言を相整えると、彼女を越前へと同道した。
長浜を通過という時、長浜の様子を聞いて、伊吹山の東面に沿った道があり、長浜を避けそこを通って
越前北之庄へと向かった。

これより、秀吉と勝家の関係に悪しき色が立ったのである。
細川忠興軍功記)

細川忠興軍功記より、清須会議についての記事である。




315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 09:57:01.76 ID:acmwtuGF
三七殿の面目が丸潰れだな。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 10:28:27.09 ID:YTE0kkux
三斎様はいろんなもの記録に残してるから立派かと思いきや、あれだからな。

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 10:43:52.78 ID:fOARUKvb
>>315
源義朝の例があるしな
ああだから野間に幽閉させたか

我らの主なるデウスの御摂理

2014年09月20日 20:14

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 21:08:08.82 ID:JyLJUgo+
織田信長の没後、その家臣で羽柴筑前守(秀吉)と称する者が天下の政治を
司る事になった。

彼(秀吉)は優秀な騎士であり戦闘に熟練していたが気品に欠けていた。
信長は彼をして毛利の諸国の攻撃に従事させ、既に4,5ヶ国を武力で占領していた。

羽柴秀吉には高貴さと武勲において彼よりも優れた二人の競争相手がおり、
彼はその競争相手を亡き者にしようと決意を固めた。そして先ず越前国の主君である
柴田殿(勝家)と一戦を交えてこれを滅ぼし、5,6千名の兵を殺した。
柴田自身は城に立てこもり、放火させ、城中の家臣たちとともに切腹して果てたのである。

第2の敵は信長の息子の三七殿(信孝)であった。
三七殿には、かつての父の家臣であった羽柴に臣従することは、到底耐え難いことであった。
彼は美濃国の君主であり、2度にわたって羽柴に対して軍を起こした。
しかし羽柴勢が攻撃してくると、彼はそれに対向する軍勢を有しなかったので、
それまでいた兄弟に当たる殿(信雄)の城(岐阜城)を捨て、身内の武将のもとへ
援助を求めて逃走した。だが同行していたその家臣が、羽柴に忠誠を示すことによって
顕著な報酬に与ろうとして、途中三七殿を殺害してしまったのである。

これは明らかに、我らの主なるデウスの御摂理によることを示していた。

と言うのは、先にデウスはこの三七殿にキリシタンの教えについて大いなる喜びと
光と知識を授け給い、また彼自身も、キリシタンになる意向を度々表明し、
自分が征服した諸国では我らの聖なる教えが大いに広まるよう協力しようと言っていながら、
少しばかり栄えるとデウスに背を向け、心は全く悪に染まり、デウスに扶助を
求めるどころかそれを拒否し、魔術師のヴォミト(吐物)を求め、偶像を拝みに
走ったのである。

だが、デウスは突如としてそのような彼との絆を絶ち給い、それによって彼は
無残な死を遂げ、その記憶は人々の許から消滅してしまったのだ。

ルイス・フロイス『日本史』)

織田信孝が滅んだのはキリスト教から離れたからだ、というフロイスの記述である。




307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 22:22:30.77 ID:sUxkV9mz
死者には厳しいフロイスさん。ぶれないねぇ

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 05:26:42.96 ID:5hFl6qT+
>>307
死者に厳しいのではなく、フロイスは人物評は基本的にその人物の死後に書くことにしている
フロイスいわく「日本では情勢の変化が激しすぎるからリアルタイムでは人物評なんか書けない」

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 06:54:20.06 ID:DLha5Ble
入信してもいつ棄教するかわからないから、という気がするが

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 09:28:39.06 ID:B86Odyjt
>>309
それは逆にはっきり書かなければならない事だから

津田信澄殺害

2014年04月09日 18:46

914 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/09(水) 02:32:41.57 ID:LF7xZMN8
(本能寺の変が起こった)当時、信長の三男の三七殿(織田信孝)はまだ堺にいて、彼の父が所領として
与えたかの四つの国(四国)を兵士たちとともに占領に赴く準備を整えていた。彼は父と兄への謀反及び
その訃報に接するや、引き返してその件に復讐するための準備を直ちに開始し、まず従兄弟の
七兵衛殿(津田信澄)を血祭りにあげて身辺を固めようと欲した。

七兵衛は信長の兄(原文ママ)の息子であり、信長が父の遺産の相続者に成ろうとしたため、七兵衛の父は
殺害されたのであった。この若者は信長の殺された者の息子であるとともに、明智の一女を娶っていたので、
彼が義父と組んでこの謀反を企てたのだと思わぬものは居なかった。

この若者は当時、信長の命令によって、丹羽五郎左衛門(長秀)と名乗る他の武将とともに、堺から
二里半ほどの所にある大阪城を警備していた。

信長の三男、三七殿の軍勢は、四国の諸国の征服に向かう彼に伴うべく、各々異なった地方から集合し
編成されていた。しかしそのため、謀反の報に接するや、兵士たちの多くは彼から離れ逃げ去っていった。
三七殿はそのため焦燥感をいだき、復讐という希望の実現が遅延することを非常に悲しんだが、自らの元に
とどまった軍勢を率い、信長の息子の親友である他の武将(丹羽長秀)と従兄弟(信澄)の居る大阪に
向かった。

この時、従兄弟は自分が殺されはしまいかと恐れ、三七殿が入ってこないように内部から盛んに懇請し
奔走していたが、様々な交渉の末、五郎左衛門の好意によって三七殿は大阪に入った。
そして二日間滞在したあと、三七殿は五郎左衛門と協議し、トルレ(塔)の最上段から出ようとせず
しきりに身辺を警戒していた従兄弟をいかにして殺害するかについて結論を下した。

彼らが考案した策略は、五郎左衛門が三七殿を船まで送るという、ごく普通の行為を装い、そこで三七殿と
五郎左衛門の家臣の間で騒動が起こるように仕組み、七兵衛の家臣らは城から出ようとせず、
七兵衛自身に至ってはなおさらで、疑いが現実になるのを恐れ外に出なかったので、この偽りの騒動で
五郎左衛門の家臣が敗北したように見せかけ城内に逃げ込んだところを、三七殿の家臣も追跡して入り、
一団となって塔の内部の七兵衛の居る場所を襲撃することであった。

その策略が実行されたあと、同所では、ある人々は七兵衛が自らの手で切腹したと言い、他の者達は
若い身分ある武士たちが彼を殺害したと述べている。

これにより三七殿が勇気と信用を獲得すると、ただちに河内国のあらゆる有力者たちは彼の元を訪れ、
主君として認めるに至った。
彼は従兄弟の首級を堺の街近くに晒すように命じた。事実、この七兵衛という若者は異常なほど残酷で、
誰もが彼を暴君とみなし、彼が死ぬことを望んでいたからである。

(ルイス・フロイス『日本史』)

織田信孝による、津田信澄殺害についての、フロイスによる記録である。





915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 02:44:00.10 ID:JFOd6dae
信澄討ったのって上田宗箇だっけ?

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 03:05:08.24 ID:cUyWbTYT
信澄には信包や森くっつけて九州任せようとしてたんじゃ無いかと密かに思ってる

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 08:01:01.67 ID:Wq+OPh5f
信澄って暴君だったのか?

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 08:53:08.44 ID:T6RTPCLC
キリシタンに興味を示せば・で仏教徒なら×
そんなもんだろ

三七殿と称する信長の次男は

2014年03月15日 18:59

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/15(土) 15:29:40.99 ID:m5glyeEn
三七殿(織田信孝)と称する信長の次男は、ただキリシタンになるための素質のみならず、それらの
大支柱になり得る素質を備えていた。しかし後日人が変わり、後述するように極めて悲しく不運な末路を
たどることになった。

信長の多くの息子に中にあって、彼は全ての武将たちから最も好かれ、愛されていた。彼は安土の司祭や
日本人に修道士たちと交際し始め、しばしばデウスの掟について説教を聞く内に、たとえキリシタンで
あったとしてもそれ以上望み得ないほどの愛情と親近感を我らの修道院に対して抱くようになった。

彼は週に1,2度は必ず修道院に姿を見せ、ロレンソ修道士が、それに劣らぬほど頻繁に彼の家に
来訪することを希望した。また種々の贈物を度々司祭らに届け、万事において彼らに対する大いなる愛情と
親切を示した。彼は司祭らを自らの教師とみなしていると公言し、大物の武将たちの前で、深い尊敬を込めて
デウスの掟について語り、司祭らに対しては極めて恭順の意を示したので、異教徒たちは驚愕した。

彼は仏教の宗派は欺瞞と迷信であるとしてこれを軽蔑し、我らの聖なる掟だけが真理と道理にかなっており、
真理を弁えるいかなる者も、デウスの教えを聞いては未リシタンにならずにはおれぬと述べ、
多くの言葉を以ってそれを激賞した。彼自身も、いくつかの事情から延期を余儀なくされていなければ、
既にキリシタンになっていた所であり、その数名の家臣は彼の説得により、既に受洗していた。

彼は修道士にコンタツ(ロザリオ)を求め、それで祈りたいと言い、時々それを腰に帯びていた。
彼は大きな邸宅と相当の封禄を付与されていたが、時節が到来するまで、彼の父はまだいかなる国をも
与えていなかったので、父がいずれかの領地を与えるのを、当然の事として待機していたのであった。

彼は既に25歳になっていたであろう。父から気に入られ、城中の一同から愛されていた。
この若者は、父が喜ぶか、少なくとも悪く思わぬということを示唆するまでは、キリシタンになることを
留保していた。何故なら信長は、その子供たちに対しても顧慮することがなく、子供たちからさえ
恐れられていたので、進んで彼と話そうとするものはなく、誰も皆、彼の気に触るようなことは
避けるように注意していた。

三七殿は父の重臣たちと親しく交際していたが、彼らに向かっては、キリシタンになりたいと公言し、
父がそれをどう思うか知ろうとして、父がそれについて考えてくれるよう手をつくしていた。
三七殿は我らのことを母親に話していたので、彼女も2,3度説教を聞き、デウスの教えに愛着を感じていた。

ルイス・フロイス『日本史』)

ルイス・フロイスによる、織田信孝についての描写である。




637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/15(土) 16:38:55.30 ID:xNY1rIaH
フロイスさんお得意の手のひら返しが怖い

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/15(土) 16:53:51.93 ID:ed+AMNJw
キリスト教はなんらかの魅力があるんだろうね
聖書は家にあるけど個人的にはなかなか読み進まない書物だ

高杉晋作が聖書を読んだときの感想が、
『「キリスト教は陽明学に似ている。我が国の分解は此を以て始まらん」
維新の志士として有名な長州の軍略家、高杉晋作は、
長崎にて始めて基督教聖書を調べて、然う叫んだ』(内村鑑三、代表的日本人より抜粋)
だそうですね。
内村鑑三がキリシタンだから信憑性は謎
ところでキリスト教ってどういう思想なの?

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/15(土) 16:58:03.46 ID:IxH71Qmz
ハビアンによれば
この世は神が創った
人間中心
魂の永遠性
が儒教、仏教、神道とちがうところとか

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/15(土) 17:02:24.35 ID:t5w+v5cY
人を殺すのは悪魔でなく神

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/15(土) 17:17:26.26 ID:ed+AMNJw
宗教ってのは行動する際の心理的な担保なのかもしれないね
陽明学なら良知とか心即理
南無阿弥陀仏なら善悪とか成否の迷いを阿弥陀仏に任せてしまうんだろう
キリスト教ならGODか…
なんでもそうだが一歩間違えると危ないな

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/15(土) 22:30:35.80 ID:Nz9Y3ylS
>>638
エキゾチックなのが良かったのかもね