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武蔵守殿にまた御謀叛の企てある由

2020年05月24日 16:19

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/23(土) 22:51:09.31 ID:LqQOcs28
武蔵守殿信行(織田信勝)は先の和睦の後もまたまた野心を挟まれ、春日井郡龍泉寺に居住なさる
として当所に要害を構えられた。これは上郡岩倉城主・織田伊勢守(信安)衆と心を合わせ、東郡
篠木三郷を始め、信長御台所入りの知行所どもを、ことごとく押領なされるためである。

また信行は不行儀の事どもが多かったのを柴田権六勝家が度々諫めたのだが御許容なさることなく、
あまつさえ近習の小姓で寵愛なされた津々木十蔵という者は出世甚だしく、諸事の別当となり諸侍
の総頭を仰せ付けられて、この頃は津々木蔵人と名乗った。

この者は智もなく勇もなく第一に驕りを極めたため、諸人に憎まれ疎み果てられた。中でも柴田権
六と仲が悪く、権六を万事引き下げてあしらえば、内々に権六は安からぬことに思っていたのだが、
弘治2年(1556)正月5日、武蔵守殿は家中の面々に椀飯の饗応を下されたのだが、柴田には
その沙汰なし。

勝家は不審に思い、もてなし顔で台所辺へ伺候したけれども、津々木が連日何事かを讒言したのか
信行は柴田に言葉をも掛けなさらなかった。勝家は蒸すが如く腹立ったけれども、わざと顔色に出
さずにいたが、心安き朋友の手を取って自分の眼の上を探らせると、眼の上はさながら猛火のよう
に熱していた。

これほどに感情が高まればどうして少しでも躊躇えようか、その日すぐに勝家は清州へと参上して、
密かに武蔵守殿にまた御謀叛の企てある由を信長公へと申し上げた。

――『織田軍記(総見記)』



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下郡半国も過半は御敵となったのである

2020年05月11日 17:37

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/11(月) 02:53:00.32 ID:2m/XX9y0
(長良川の戦い後)

戦が終わり首実検をすると(斎藤義龍は)信長の御陣所である大良口へ人数を出した。信長は大良
から30町ほど駆け出て、および河原で戦い合う足軽合戦があって、

山口取手介 討死
土方喜三郎 討死
森三左衛門(可成) 千石又一に渡し合い、馬上で切り合って三左衛門は脛の口を切られ引き退く。

しかし、山城(斎藤道三)も合戦に切り負け討死の由なので、信長は大良の御本陣まで引き入った
のだった。ここで大河を隔てていたので、雑人・牛馬をことごとく退かせなさり、殿は信長がなさ
るとの由で全ての人数に川を越させなさり、上総介殿(信長)の乗られる御舟1艘を残して各々は
川を打ち越えた。

すると馬武者少々が川端まで駆けて来た。その時に信長は鉄砲を撃ちなさり、敵はそこから近くに
は寄らず、信長はそこを去って御舟に乗られて御越しになった。

そのようなところで、尾張国半国の主・織田伊勢守(信安)は濃州の義龍と申し合わせて、御敵の
色を立てる。信長の館・清州の近所、下の郷という村を放火したとの由が追々注進された。信長は
御無念に思し召し、ただちに岩倉口へ御遣わしになって岩倉近辺の知行所を焼き払い、その日の御
人数は御引き取りになった。

このようであったため、下郡半国も過半は御敵となったのである。

――『信長公記 首巻』



162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/11(月) 15:47:24.33 ID:YxnV2kQk
土岐のご落胤なんてのは取って付けた名分であって実際は国人領主に担ぎ上げられた義龍が道三を討っただけ
伊達も武田も似たようなものでしょう

遠州曳馬城合戦

2012年02月27日 21:52

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 06:22:48.70 ID:DQcjLsvg
尾張守護・斯波義達は、守護代・織田達定の反逆を平定し、尾張における主導権を再び回復しすると、
永正11年(1512)、今川氏親の遠州侵略に対し再び反抗を起こし、曳馬城(浜松)を奪還し、さらに池田・入野といった
地域まで横領に成功した大河内貞綱に呼応。斯波家の領国である遠江を回復するため自身が出馬して
これを助けんとした。

が、尾張上四郡を支配する岩倉織田家の織田伊勢守信安は、この遠征に利がないと強く諌めた。
しかし義達はこれを聞かず出馬を強行。ここに斯波義達と織田信安の関係は不和となり、上四郡の兵は
この遠征に参加しなかったため、義達の兵は甚だ少ないものとなった。それでも遠江へと進軍し、
曳馬城に入った。
余談だが織田信安は後に、一族である若き日の信長とも激しく対立することになる。

同年6月。今川氏親は3万の兵で城攻めを行った。

この時曳馬城周辺は大水により、城のまわりは海のような状況で、誰が見ても、とても攻められるような
状況ではなかった。が、氏親は大竹縄数百で繋げた船橋をかけ軍勢をやすやすと城の周囲に展開させ取り囲んだ。

しかし曳馬城は非常に堅固な城で、それでも今川の攻撃に耐え続けた。
そこで氏親は城が高台にあることに目をつけ、阿部金山から金堀師を呼び寄せ城内の水脈を全て掘り抜かせた。
このため城には水がなくなり日々に弱り、8月19日、この日の攻撃で大河内貞綱と、その弟、巨海道綱、
高橋正定、中山監物ら千人あまりが討ち死に、斯波義達は捕虜となり、曳馬城は落城した。

付近の普済寺という禅寺に監禁された斯波義達であったが、今川氏親は「同じ足利一門の好である」として
彼の命を助けた。そのかわり剃髪し出家させ(法名は”安心”であったという)、『今後二度と今川家に対して弓を引かぬ』
との誓紙を書かせ、これをもって尾張へと送り返した。

斯波家の権威を決定的に低下させ、尾張において織田氏に主導権をもたらす画期になったと言われる、
斯波義達の曳馬城合戦の逸話である


(今川家譜)
(名古屋合戦記)




198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 12:20:37.61 ID:cEZRrfY0
権威失墜という意味では処刑より効果的に思えるな
氏親もその辺りまで計算に入れてたんだろうけど

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 18:17:39.34 ID:VVyLpimU
そうしてついには尾張まで手に入れたのに、信秀に取り返されるんだっけか

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 19:18:21.47 ID:q9Psp4RX
これは悪い話なのか?

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 22:08:09.28 ID:p66CsOBG
>>200
斯波義達のかっこ悪い話だろう

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 22:28:26.32 ID:upxUUCsY
>>197
駿河だけで3万の兵力か?

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 22:35:27.72 ID:ieRShisD
斯波は三河も領国だったのか
何で遠江に遠征してるんだよ

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 05:48:47.21 ID:wDt7qkWR
>>204
兵数なんて数倍どころか桁までお手盛りされちゃうこんな世の中じゃ

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 08:11:33.08 ID:Np68cuS+
直家「ポイズン」

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 18:02:48.69 ID:lXkFlAqb
あんたの場合、言いたいことも言えなくなるのは相手の方だろ

死人に口無し的な意味で

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 21:16:36.48 ID:S0HI7cpc
ちょっと直家が格好いいと思ってしまった