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何の用にも立たざる氏真へ、くれられ候程用なくば、

2018年10月09日 17:25

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 17:04:02.59 ID:3PE+0Tuk
(武田氏滅亡後)

やがて信忠卿は諏訪へ参向されて父子は対面された。信長公は今回の信忠卿の大功は比類なしと
たいへん御誉めになった。かくて父子は計りなさり、

「徳川殿は駿河の諸城を速やかに攻め抜きなさり、その軍功はまったく軽んじるものではない」

として神君に駿河一円を進上された。神君は厚く感謝されてその上で、

「私めと今川家の旧好は忘れるべきものではありません。駿河は今川の旧領なので半国を分けて
氏真に安堵仕られたく存じます」

と仰せになった。信長はまったく御承知にはならず、

「何の用にも立たぬ氏真へくれてやりなさる程に必要ないのならば、信長が所領する!」
(何の用にも立たざる氏真へ、くれられ候程用なくば、信長所領すべし)

と御怒りになったので、駿河は一円に神君の御領地となされた。

――『改正三河後風土記』



289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 23:46:05.12 ID:9iQGbbh4
後の交流からして意外と家康は本気で今川に恩を感じていたのかもしれない
それにしても到底本気とは思えず対外的なアピールであろうが
それにしても氏真に駿河半国分けたいとか
生き馬の目を抜く戦国の時代に言うとは到底思いがたいな
後世にできた逸話に真偽を問うのは野暮だと判ってはいるが

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 10:17:50.10 ID:qxcritGB
秀忠と違ってカミギミは自費不快のです

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 10:25:59.57 ID:LoT/qsy1
>>289
信長急死後、甲斐信濃手に入れても返してない所から見てもな・・・・・

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 19:28:27.93 ID:35C0sJ8M
まあ駿河方面への調略に、上手く行かなかったとは言え氏真に協力してもらっていた以上、
心にもない事でも立場上言うだけは言っておく必要があったのかもしれん。

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:19:13.07 ID:dpeX0mQH
>氏真
同盟破った武田は恨んでたけど徳川は別に恨んでないってのは武将らしくて好きw

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 21:01:48.05 ID:y0IcR6Me
>>287
それは浪士組として上京して、京都に残るメンバーを選別した時だな
新選組として徴募したときには特に制限してない

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 00:09:20.94 ID:DnnVud2J
>>293
まあ徳川が占拠した遠江はあくまで植民地で、武田が攻めてきた駿河は本国そのものだしな
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織田信忠三位中将任官

2018年08月19日 19:22

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/18(土) 23:37:53.43 ID:rihvtvBY
天正5年(1577)10月、松永久秀の反乱を滅ぼした織田信忠は、13日上洛した。
この時主上(正親町天皇)より、「今度凶徒たやすく退治せしむるの條、尤神妙」の旨叡慮あり。
三位の中将に叙せらるべきと、三条大納言を勅使として仰せくだされた。

信忠は勅使に向かって申し上げた
「厳かの旨、誠に生涯の面目と申すべきことです。であればこのように申すのは恐れ多いのですが、
昇殿の義を軽く御請いたす事には恐れあるべしと。愚夫(信長)より制せられております。
それゆえ安土の父に尋ね伺い、その上を以てご返事をしたいと存じています。如何お思いでしょうか。」

勅使は「それ迄には及ばぬことです。」と申したが、「問わなくては勅答も如何」と
再三申し上げたため、大納言は帰参して、この様子を奏上すると、主上も
「武勇智謀有る上に、謙徳をも守り、父の命を重んずる事のいみじさ、このような人物にこそ。」
と、君も臣も感じ入った。

さて、信忠より信長に飛脚を以ってお尋ね有るに、翌日未明に帰った。この返書を開いて見ると
『今度古兵の松永を早速に退治せしめる事、最勲功の至りである。然らばはや勅諚に従い奉って、
三位の中将に任ぜらるべき。』
そう書かれていたため、信忠は昇殿された。目出度いことである。

そしてお供の人々は過半が一両日も前に先立った後、同17日に、僅かに小姓ばかりを召し連れ
安土にお出であって、信長に御礼申され、そこから岐阜へと下った。

(甫庵信長記)

織田信忠三位中将任官のお話



187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 00:12:08.90 ID:Vh+8MRXk
城介はボンクラ扱いされる事が多いけど生き残れば柴田、丹羽はもちろん徳川、羽柴もただ従うしかない程の権威はあったと思うけどな

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 02:22:35.77 ID:MMEWa7kR
主人に断りもせずに叙せられ昇殿しちゃうのは凡夫義経くらいだろ

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 09:00:02.00 ID:7FRGYrbc
信忠がボンクラとは初めて聞いた

常在寺の盛衰

2018年07月15日 17:55

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 20:07:50.52 ID:SA5mBLDe
永禄7年の9月中旬、織田信長は稲葉山城に移り、これを岐阜と称した。
この城の麓にある常在寺は、もともと寺領五百貫があったのだが、この時織田家によって没収された。
しかし由緒ある寺だったため、住職の日韵上人の申し出によって、日野村にて百貫文の朱印を賜った。

その後、信長は江州安土に城を築いて移り、嫡男信忠を岐阜城の守とした。
天正10年6月2日、明智光秀の謀反により信長信忠父子とも、京都にて生害した。
その後当城は信忠の長男である秀信の後見として、神戸三七信孝が住んだが、天正11年に柴田勝家と結んで
秀吉と戦い、これによって当城を去り、尾州野間の内海にて26歳にて切腹した。

この乱で常在寺も兵火に巻き込まれ、信長より賜った朱印やその他の遺物が焼失した。
しかし後に寺は再興された。

信孝の跡に岐阜城に入ったのは、少将豊臣秀勝であった。彼は織田秀信の後見であったが、
朝鮮の役の時に、肥前名護屋へ出陣し、彼の地にて病死した。

慶長5年、岐阜中納言秀信は石田三成に与して、東軍により岐阜城を攻め落とされ、終には紀州高野山に入って
没した。この時の兵乱で、瑞龍寺も焼けたが、後に再興された、しかし常在寺は、この秀信の時までは、
信長より賜った日野村百貫文の朱印地よりの収入を相違なく給わっていたのだが、秀信が滅んだ後は
寺領が断絶し、常在寺に今残るものは、斎藤道三の画像と、斎藤龍興の寿像だけである。

斎藤道三の画像は、道三が信長の北の方の父であることから、彼女が建立したものであり、斎藤龍興の寿像は、
その子息である龍興が建立したものだという。

(土岐累代記)

稲葉山の麓にあった常在寺の盛衰



932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 20:42:02.56 ID:WP6C3Ozs
織田家がいなくなったら、領地の保証もなくなったわけか。しかし、頻繁に焼けてるなあ・・・

息子が分別無く深入りしたのだ

2018年05月04日 14:26

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 22:44:30.19 ID:02WQirZy
織田信長が甲州に出陣するとして、安土を出立し美濃国呂久の渡において、信濃国伊奈郡
高遠の城主仁科五郎(盛信)の首が曲げ物に入れられ織田信忠より飛脚によって届けられた。
その首は大髻にて、年齢は20ばかりに見えた。

首が届けられると、信長の近習であった菅屋九右衛門(長頼)、野々村三十郎、福富平左衛門、
オロシ彦右衛門といった者達、馬より飛び降り

「御出陣したばかりで五郎の首が届けられたこと、大変めでたいことです。」

そう賀して申し上げると、忽ち信長の機嫌が変わった

「何を以てめでたいというのか!?若輩なる奴原が深入りして追い立てられたらどうなるか、
面目を保ったまま討ち死にできるのは滝川(一益)一人だけだ、他の者達は芭蕉の葉で
位牌を払うような有様に成るだろう。
先陣の者達が残らず討たれたとしても、後陣が遠方ではすぐに弔い合戦をすることも出来ない
ではないか!」

そう殊の外の御気色であり、息子が分別無く深入りしたのだと思っておられた。

(祖父物語)



711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 23:11:21.12 ID:vUy0oAOP
武田を心底恐れていた信長ならではの慎重論

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 23:20:37.16 ID:Z/z82csV
武田の東濃侵略の際、馬場の800の兵に恐れをなして1万の織田軍が撤退するぐらいだからなぁ。

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/04(金) 10:39:43.81 ID:FnXiDPmu
この時期の史料を読めば判るけど信長は武田を恐れてはいないね
武田にちょっとでも噛みつかれて「自分の評判が傷つく事」を恐れていた状態

本能寺の変、当日のドキュメント

2018年04月21日 19:18

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/20(金) 22:39:13.18 ID:z47y627O
明智光秀が本能寺を取り囲んだ時、信長の人数は上下百人程度でしかなく、明智勢は
三千余騎にてこれを即時に踏み破った。

そして信長の死骸を捜索したが見つからず、光秀は動揺し「もしや逃げ延びたのではないか?
如何すべきか!?」と案じている所に、明智の臣下である斉藤内蔵助(利三)という者が申し上げた

「御心やすく思し召して下さい。信長公が兵と手を合わせた後、奥に入っていったのを私が
目撃しました。」

これを聞くと明智も安心し、二条の織田信忠への攻撃へ急いだ。
信長公の死骸には、その上に森乱丸(蘭丸)が、死骸が燃えるよう畳5,6畳を重ねたと
言い伝わる。

本能寺門外の小川の端石の上に、首が十三置かれていた。
森乱丸兄弟三人、狩野又九郎、御馬屋の庄助、高橋虎松、小沢六左衛門、これは御鷹師頭であり、
鷹の御羽を継ぐ名人と呼ばれた人物であった。
その他の首は見知らぬものであった。

二条落去して5日過ぎ、明智は参内をして洛中を乗り廻し、町中の地子(固定資産税)の免除を
発表した。

(祖父物語)

本能寺の変、当日のドキュメント



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/21(土) 17:47:41.68 ID:Onnh1i4N
村井貞勝や毛利新助は晒されてないのか

勝蔵は手負たり

2017年10月22日 16:47

森長可   
332 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote![sage] 投稿日:2017/10/22(日) 10:17:08.95 ID:lD4HBGRz
勝蔵は手負たり


信州高遠城に仁科五郎信盛・小山田備中・渡辺金大夫が立てこもったので
信忠公が攻められた時の先手は森長可・川尻肥前守・毛利河内守・団平八が
追手(大手)より向かうことになった。
然るところ長可は右の衆を出し抜かれて、小笠原掃部之介に案内させて
夜明けには高遠へ詰めかけられたので、(高遠方は)すぐに二の丸を空けて
本丸へ集まったので、(長可は)虎口を固められて御注進された。

信忠公は早々とお越しになられ総攻めと仰せられたので、長可が一番に
本丸へ乗り込まれて、広間口左の方へ入り座敷内で迫り合いになり
比類なき御働きで高名を上げられたが、手傷を負われた。
長可の家臣渡辺助右衛門豊守・林長兵衛為忠も高名した。

長可が腰より下は血になられて、首を持って参られたところを
信忠公が御覧になり
「勝蔵は手負たり」
と仰せになった様子は見事なる義にございました。


――『森家伝記』



333 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote![sage] 投稿日:2017/10/22(日) 12:14:35.34 ID:MmZEA88k
まとめの3131
「森長可『血染めの赤備え』」
だと腕にかすり傷で腰から下は全て返り血だったけど
これだと自分の血も混じってるような

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/22(日) 21:12:38.35 ID:LPWCxxI8
返り血のことを手負いと言い表すのか、手負いが高名なのかどっちだろう

岩村落城の伝説

2017年08月18日 13:55

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 05:15:48.04 ID:OmakkWrJ
○ 大将塚(旧岩村町)

伝に曰く、織田信忠が秋山晴近(虎繁)夫妻及び大島・座光寺らをここで磔にしたという。

その後、城主はあるいは難に遇いあるいは夭折した。時の人はこれをもって、その霊の
祟りと見なした。丹羽氏が城主になると寺を建て5人の魂を祭り、その名を東照山五仏寺
といった。(『巖邑府誌』)

なおこれに関して信濃の地はまた面白い伝説を持っている。すなわち掲げて参考とする。
ひとつは駒ヶ根村の姫淵の伝説、ひとつは諏訪のおまん殿の伝説である。

○ 姫ヶ淵(木曽旧駒ヶ根村)

天正3年4月、信長は武田氏を長篠に破り、大兵で岩村を囲んだ。11月、城中の兵糧は
尽きて城を出て降伏した。織田の兵はこれら2千人を殺し、城主の秋山を長良川で磔にし、
信長自らその姑<おば>を斬った。

姑の侍臣らは驚いて遠山氏の少女を拉して逃れ去った。やがて亡命の遺臣らは主家の
遺児を奉じて木曽に入り、小川村に隠れた。小川の民が織田と称するのは、この因縁に
基づくという。

同地方倉本立町荻原東野などの口碑によれば、少女らは美濃路より来て立町で木曽川
を越え、諸原小野谷を経て小川村に入ったという。

やがて少女は成長して見目麗しくなり、山家には似合わぬ美しく気品ある姿であったから、
宿の妻にと望む者が多かった。中でも諸原某という郷侍は、

「我こそ婿になる」と、日夜言い寄った。遠山氏の娘は厭わしさに、遂に水に身を投げて
死んだ。それより、諸原の辺りでは年々疫病が流行し、土民は恐れて祠を建てて、斎き
祀ったという。(『西筑摩郡誌』)

○ おまん殿(信州諏訪地方)

諏訪の昔話に曰く、天正10年のこと、織田信長は信州に侵入し、法華寺というところで
兵糧を使っているところへ、色々の小袖を着た女房が1人入って来た。

この女房は信長の前へ出ると、懐中していた錦の袋から茶入を出して、信長に見せた。
すると信長はにわかに激高して刀を抜き、この女房を一打ちに斬って捨てた。

この女房はすなわちおまん殿(おつやの方)で、もとは岩村の城主・遠山氏の妻、信長の
伯母である。岩村城が武田氏の手に帰するや、その将・秋山伯耆(虎繁)が入り守った。

遠山氏の後家・おまん殿は秋山の妻となり恥じる色も無く仕えていたから、信長は怒りに
堪えずこの始末に及んだのであった。

されば、おまん殿の恨みが消えないで遊魂は今でも彷徨って、夜な夜な小袖姿で茶入を
捧げて諏訪明神に詣でるのだという。(中里介山『大菩薩峠』)

――『恵那郡史』



49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 21:13:59.79 ID:eiHQW3Ef
>小川の民が織田と称するのは、この因縁に基づくという。

スケーターは本当はこういうところの子孫だったりするんじゃないかな
系図を買ったんじゃなければだけど

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 21:55:39.37 ID:iAs5+xUD
戦国時代の日本人がいい加減に系図作ってたのに
現代の日本人がそれを信じつつも現代日本人の系図にケチをつけるのは興味深い現象だ

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 22:07:18.91 ID:eiHQW3Ef
つうかさ
俺は買ったって言ってもいいと思うけどね
ぶっちゃけ系図なんてそんなもんでしょ?

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 22:32:55.08 ID:QTgOSbH6
家康みたいに系図買えなかったので、怪しげな伝説捏造して源氏になった例も

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 22:37:30.90 ID:hBePV6uS
家康の安城松平に関しては、少なくとも祖父清康の時代から、おそらくは初代親忠の時代から新田源氏を名乗っていた模様

梶原又右衛門の忠節

2016年03月20日 18:59

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:32:52.43 ID:vEIBgH9Y
本能寺の変が起こった時、尾張の住人梶原左衛門尉の嫡子松千代丸は13歳になっていたが、
その折病に冒され、己の宿舎で養生していた。

しかし、織田信忠の在る二条城の様子を聞くと、すぐにそこに向かおうとした
「私は未だ幼稚ではあるが、一廉の弓取りの子であるのだから、どうにかして私を連れて
御所の中に入れよ。働くこと叶わずとも、ただ伏しながら敵の刃にかかり、君の御供をいたさん!」

これに同姓の家臣である又右衛門という者が、強いて諌めた
「らとえ御所の中に入ることが出来たといえども、この有様ではどうしようもありません!
君御父子(信長・信忠父子)は逆臣のために殺されたとしても、その後いかようにも、織田家
ご親族の人々によって逆徒討伐の儀がなされるでしょう。であれば、今は治療をして、
その折を得て忠節を成されるべきです。

であれば、私はこれより御所に駆け入り、この事を申し上げ、恐れながら御名代として
信忠卿のお供をいたします!」

そう言い捨てるとその場をづんと立ち、馬を引き寄せ打ち乗り。諸鐙を合わせて二条城に馳せ、
寄せての明智軍に紛れて御所の中に入り、広縁にて跪き、松千代丸の状況を信忠に委細に言上し、そして言った
「主の代官に、それがし、御敵を防ぎ奉らん!」

その至忠に信忠も感じ入り、自らの薙刀を又右衛門に与えると
「屍は戦場に晒すとも、まことに後世までの面目なり!」
そして庭上に躍り出て、蜻蛉返し水車と、八方透かさず斬って廻り、敵数十人を薙ぎ伏せ突き伏せ、
尽く防いだが、寄手は大勢であったので事ともせず次々と向かってきたため、終には討たれた。

その忠節を感じ、陪臣でありながら、彼の名は阿弥陀寺の過去帳にも書き載せられているという。

(甫庵信長記)




500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:44:12.47 ID:hslUDo2B
こないだから甫庵を出してくるのは
小説の「良い話」を紹介するのとおんなじなんだけどなぁ…

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:53:01.40 ID:ECqYoMqa
もっと後代の名将言行録からもいろいろ出てるし問題ないだろう
武功夜話でも出典書いてれば載せてOKだろうし

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:57:47.45 ID:Ile/5imJ
>>500
一応指摘しておくと、昨今は甫庵太閤記の史料性も再評価されてる。
徳川家の武田旧臣などから、独自ルートで取材したフシがあるらしい。
あと太田牛一信長記と甫庵信長記は、成立したのはほぼ一緒の時代の軍記。
逆に言えば太田牛一信長記を信用しすぎるのも危険。

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:57:53.86 ID:hq9GYHmV
軍鑑なら、甲陽軍鑑なら...

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:58:24.17 ID:Ile/5imJ
>>502
甫庵太閤記じゃない、甫庵信長記だw

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 23:55:07.93 ID:4DVvuEN+
武人百話も100年位前だね

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/20(日) 08:43:31.70 ID:jqPquz/P
>>502
史料として見直されてるのは、甲陽軍鑑と同様に風習が参考になるって話で
事件などの顛末については評価が低いよ。

甫庵信長記は一次史料とあからさまに食い違ってる話が多いからさ

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/20(日) 11:05:53.99 ID:Q9Nctl58
春日惣次郎の時代までは遡れそうなもので間違いないんだっけ?
まあおじいさんの回顧録とかには「時系列ぐちゃぐちゃだし話盛るし細かいところ適当過ぎ」ってのしばしばありそうなもんだが

器用だと評判の者は不器用であり、分別があると評判の者は無分別

2015年08月02日 13:50

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/01(土) 19:21:26.12 ID:yGv4JDDT
有名な逸話ですが

織田信長が京都に滞在していた時、嫡男である城之介信忠の事を人々に尋ねたことがあった。
内藤某というものがこれを承り、答えた
「一段とご器用であると、人々は申しております。」

「それはどういう事か?」

「例えば御来客があって、この人には何を下さるべきだろうと、各々が申し合わせると、
その結論と少しも違わず、御馬、或いは物の具、御小袖など下されます。」

これを聞いた信長はたちまち機嫌を悪くした
「そんな事がどうして器用であるものか!それこそ不器用というものだ。
なかなか私の跡を継がせるわけにはいけない!
下において刀を遣わされるだろうと予想したなら小袖を与えよ。馬を下さるべしと思う者には代物を取らせよ。
この人には好物を遣わすべきと沙汰するなら、金銀などを沢山取らせよ。
こういった事こそ国持たる大将の作法である。

例えば、敵を攻める時、ここに攻め寄せてくるだろうと予想する所には出ず敵に骨を折らせて、
まさかここには出ないだろうというところに不意に出るようであってこそ、利を得ることが出来るのだ。
敵が待ち構えている所に出ては、どうして勝利を手にできるだろうか?

総じて、器用だと評判の者は不器用であり、分別があると評判の者は無分別である。
とにかく、予想外のことをして、下々から積りを立てられぬようにするのが誠の大将なのだ。」

(明良洪範)



137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 06:26:47.34 ID:L9+UiHdj
武将には嗜好ってのがあってだな
合ったものを与えないと友好度が上がらないって太閤立志伝に書いてあった

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 06:59:43.55 ID:nnvI8DVS
そうか、謙信に送ったのも予想外のものを送っていたのか。

竹中重門の書く本能寺の変

2015年06月03日 14:35

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/03(水) 00:01:53.21 ID:rHAXdTQh
昨日は本能寺の変の日だったので、関連の逸話を。


備中高松城を攻めている羽柴秀吉より、安土の織田信長に、備中に軍を出すことの要請が来ると、
信長は自身が軍を率いると伝え、5月に嫡男の信忠とともに都に上り、三条の本能寺に宿泊した。

その頃、明智日向守光秀は丹波国の主で亀山という所に居住していたが、織田信長に恨みがあったのか、
彼を討とうという心を日頃から差し挟んでいたが、よき折と思い立って、6月1日の夜半より兵どもを進め、
大江の坂を越えて、2日の夜明け頃、本能寺の四方を囲み攻め立てたが、本能寺には警護の武士すら無く、
塀も一重すら満足に構築されていなかったので、防戦にすら及ばず、信長は自害し、寺に火をかけ共に
煙と上った。

織田信忠は妙覚寺という寺に居たが、信長が自害したと聞くと、
「明智がここにも攻め寄せてくるだろうが、ここでは防ぐことも出来ない。どうすべきか」
と家臣たちに問うと、「親王の二条の御所(二条城)こそ宜しいでしょう」と人々言うので、
であればと、親王を御輿に乗せて内裏に避難させ、信忠は二条御所に移った。
本能寺で信長とともに死ねなかった者達もここに集まった。

明智軍はたちまち攻め寄せて戦ったが、この二条御所も築地一重ばかりの防御しか無く、
一方、明智の兵は具足に身を固め弓鉄砲を先に立て攻撃した。
信忠の侍達は、一重の防塁では戦うに便無く、信忠もここに自害した。

都のうちは、墨をすったかのような状況だった。今朝までは、誰がこんな事が起こると
予想しただろうか。手のひらを返すよりも早いのは世の転変であり、今も昔もそういうものだと
言いながら、驚きあうのも理ではないだろうか。

明智日向守光秀は、美濃国土岐郡明智という里に生まれ、昔は土岐の一門だったそうだが、
光秀の頃には貧しくなりはて、下郎の一人も持たず、越前国などをさすらっていた。
そんな中、思いもかけす信長に宮仕えし、思いにかない、近江の志貨郡を知行し、坂本という所に
城を構えた。天正6年の頃には丹波国を攻め、波田野などという国人たちを討ち滅ぼし国の主となり、
さらに西近江をも知行した。

このように時めき富盛したというのに、なお飽きたらず日本を取ろうと信長を討ったこと、
欲心によって道を損ない名を汚し、浅ましいとしか言いようがない。

明智がやったようなことは、なかなか起こるものではない。信長がこんな事に成るとは知らず、国を与えて
かえって滅ぼされてしまった事は、人を知ることが明らかでなかった科であろう。
与えれば恵みを破るなと、孟子が言っていることも理であろう。
(豊鏡)

竹中重門の書く本能寺の変についての記事である




久秀の運がついに尽きる時

2015年02月19日 18:50

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/19(木) 02:23:59.48 ID:9ypTrVnC
天正5年(1577)、松永久秀織田信長の反逆し信貴山城に籠もる。
織田方は嫡男城之介信忠を大将として、信貴山城へ軍勢を派遣した。

この事態を、かねてから大和で久秀と対立していた筒井順慶は、幸いな事と喜んだ。
実は筒井家譜代の侍の一人で、順慶が松永久秀に大和を追われ浪々していた時に、久秀に奉公に出た者があったのだ。
順慶はかねてからこの者と連絡を取り様々に賄いなどを与え、『返り忠の良き手段が有る時は、内通するように』と
言い含めていたの。

そんな中、久秀の運がついに尽きる時が来た。久秀が大阪の門跡(石山本願寺)に加勢を請う遣いを出したが、
その使者に彼の者を行かせたのである。
彼は信貴山城を出ると順慶の元に行き、久秀より受けた指示の内容を詳しく申し上げた。
すると順慶は、二百人ほどの軍勢を、石山本願寺からの加勢に偽装し、夜に間に河内の平野に集合させておき、
彼の者が大阪に行って主命を果たし帰る頃の時刻に、この軍勢を従えさせ、夜に紛れ信貴山城内へと引き込んだ。

翌日未明より、織田軍による総攻めが始まった。
そこで先に入れ置いた順慶の人数が、城に火をかけ裏切りを行ったのだ。
これに松永方は大混乱となりついに討ち負け、久秀は天守に上がり切腹した。
子息の松永久通は、多聞城へ落ちて行きそこで切腹したとも、また父子一所にて切腹したとも
伝えられる。

これより大和一国は皆、筒井順慶が手に入れ、武威盛んとなったが、
不幸にも天正11年(1583)5月13日に病死した。

(大和記)




悪魔に対するその奉仕と報い

2015年01月03日 16:05

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/02(金) 18:08:40.62 ID:Gq+up1P0
彼(織田信長)の息子で城介殿と称する嗣子(信忠)は、その領地で司祭たちを援助し、教会を建てるために
地所を提供したり、彼の町である岐阜に、大いなる十字架を建てるために広場を提供するなど、従来
我らに対して深い関心と愛情を示してきたが、時勢に順応し、父を喜ばせるためか、あるいは同じく
悪魔に欺かれてしまったためか、父とともに甲斐国の(武田)信玄(原文ママ)を討伐して帰還した際、
彼の地で大いに尊崇されていた一つの偶像を持ち帰り、尾張国に安置して礼拝することを命じた。

そして都に着くと、同所から3里のところにある愛宕と称される山にある悪魔に二千五百クルザードを
献納した。さらにその悪魔への深い信心から、それに捧げる一種の犠牲の行として、自らの邸で裸と成って
全身に雪をかぶる苦行をした。

だが、(後述するように)その後3日以内に、悪魔に対するその奉仕の報いを受けるに至った。

ルイス・フロイス『日本史』)

ルイス・フロイスによると、織田信忠は愛宕信仰をしたせいで滅んだ、という一節である。



146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/03(土) 03:17:28.30 ID:mE4vCnu/
火伏せの神を信仰して焼かれるなんて・・・悪い話だ

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/03(土) 03:50:50.09 ID:mLMtRA7c
フロイスって世話になった人の死の評価がワンパターンすぎるわ

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/03(土) 04:17:47.76 ID:ICxvv49Y
本能寺の変の3日前に雪かぶるだと…!?
ちうか光秀も愛宕参りの後で謀反してんですけど

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/03(土) 05:48:53.65 ID:3fJmV1yx
>ちうか光秀も愛宕参りの後で謀反してんですけど

フロイス「それゆえに光秀殿も三日天下に終わったのである(キリッ)」

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/03(土) 09:17:29.95 ID:bhN1cEvu
織田が滅びたのは悪魔崇拝のせいじゃなく織田自体が悪魔だったからという視点が必要だったね

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/04(日) 13:44:54.34 ID:cZ8z38P+
フロイスって批判はあるけど
絶賛内戦中の外国に飛び込み
現地で言語習得して布教活動しつつ
各地の軍閥首領と渡をつけ、信者ネットワークを駆使して
歴史を記録したわけだよね。
逆の立場で日本の坊さんがフロイスの故国(ポルトガル)へ飛び込んで
王室貴族とコネを築きながら、ホトケの教えを広め
ついでにアヴィス王朝期の貴重な資料を残した
と考えると、凄さがわかるな。
恐ろしい程の行動力&人間力。

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/04(日) 19:46:57.00 ID:WfjTn4b5
唯一の神を信じない蛮族を改宗するのが使命だと思い込んでるもの

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/04(日) 20:28:26.25 ID:xhdNdy6x
今後しばらくは無駄に行動力があるクソの国の人たちに
搾取される歴史が待ってる模様

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/04(日) 20:54:21.83 ID:RFWcf3wF
侵略の尖兵だもんな そんなことも見抜けない間抜けが謀反で死んだ

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 01:03:30.16 ID:iHsdU/kN
鎖国下の日本に潜入したイタリア人宣教師シドッチは獄死したけど
バチカンは殉教者扱いしてなさそう

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 09:43:21.85 ID:P/HlvxUu
>>154
さすがラスボス

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 12:16:03.52 ID:kxfkaLKR
フロイス日本史から筆者のマメで真面目な仕事するけど、どこか偏った感じを受ける
その辺の頑固で努力家なところが武士の気質に似てて上手く馴染んだんじゃないかと思う

本能寺の変・証言

2014年04月21日 18:55

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 09:21:00.35 ID:6h/K3DlS
明智光秀の謀反の時、光秀は家老にはその謀反の意図を知らせたが、諸卒には知らせなかった。
そのため西国に出立するのだと皆心得ていた。亀山より樫木原まで出て、西国に向かうのだと思っていたところ
直に京に向けて武者を押した。故に人々はみな不審に思った。
桂川を渡って、初めて信長を攻めるという触れが出された。

未明に信長の居た本能寺に押し寄せると、信長は切腹し火をかけた。京中では何事があったのか
何も知らなかった。何故なら本能寺のあった新在家は他所とは違い、四方に掻き上げの堀があり、
土居を築き木戸もある構えの内であったためである。

土居に上がってこの騒動を見た者の中には、これは明智の謀反だと推量する者もあった。
里村紹巴は光秀の内意を知っていたが、「どうしてそんな事があるだろうか。」と、人がそのように言うのを
制した。里村昌叱は「思い当たることがある。」と言った。

さて、明智勢は本能寺に火をかけた後、城介殿(織田信忠)の宿所である妙覚寺へと押し寄せた。
当時、その辺りは京の中でも町家は所々にわずかにある程度で、視界の妨げにならなかったので、土居の上から
はっきりと、水色の旗の軍勢が妙覚寺に進んでいるのが見えた。そのため『さては明智が謀反したのか!』と、
たしかに皆が知ることになった。

妙覚寺は、現在の室町薬師町にあった。しかし構が無いため敵に対応することは出来ないと、信忠は
南都の陽光院殿(誠仁親王)が御座されていた小池の御所(二条御所)に移った。
誠仁親王は禁中に退去された。
親王は烏丸の方の門から出られたが、肩輿も無かったので人に背負われて行った。

また公家の正親町殿(正親町季秀)はこの騒ぎの中、誠仁親王への見舞いに参上し、室町の方から
小池の御所に入ったが、その時はすでに退出した後であった。そこに明智勢が急に攻めてきたので、
御所から出ることも出来ず信忠勢と共に中に籠もるはめになった。

正親町殿はこの時の様子をよく観察しており、後で人々に語った所によると、信忠の士卒は皆、大庭に
集合していた。正親町殿は菓子として昆布を持っていたのを出して、これを諸士に与えられた。
この時、顔色が変ってしおれていた者達は、皆家に功の有る歴々であり、意気揚々としていたのは
皆新参であった。
この後の明智勢との戦闘で、顔色の変わっていた者達は皆、勇敢に戦い討ち死にし、意気揚々の者達は皆、
狭間をくぐって逃げ出したとの事である。

さて、正親町殿には室町の町家に、知人である楽人の家があった。そこで御所の壁を乗り越えて
その楽人の家に入り、公家の正装を着て烏帽子をかぶってそこから出た。これにより、彼は公家であると
明智勢からも通行を許された。そのため、逃れることが出来たのだという。

(老人雑話)

老人雑話より、本能寺の変の時に、現場に居た人々の証言である。





織田信忠「その掟が緩和された暁には」

2014年03月14日 19:10

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/13(木) 19:40:20.15 ID:hD5GWrpH
信長とその息子たちの、キリシタンへの好意の与えた影響は小さくなかった。何故なら経験が示してきたように、
それにより異教徒たちの思考の中に我らの聖なる掟に対する信用が増し、その結果として大いに教えが広まり、
受け入れられるようになり、もし肉欲が物事の判断を狂わせなければ、すでに多くの武将が入信したことであろう。

だが、彼ら(日本人)にとって第六戒(汝、姦淫する事なかれ)を守るのは極めて困難であり、彼らの多くは、
もし伴天連達がこの掟に関して少しく寛大であれば、直ちにキリシタンになるであろうと公言していた。
その人たちの中には、信長の長男で後継者の殿様(織田信忠)もいた。

織田信忠はこの問題に特に関心を寄せ、3,4度我らの修道士と話し合っており、もし伴天連達が
この掟に対して便宜を計り、それほどまで厳密に考えることをやめるならば、キリシタンの数は間違いなく
倍加するであろうから、伴天連たちはそうするように、と、修道士を説得しようとした。

この禁によって人々に恐怖心を抱かせ、大いなる収穫を失うよりも、この掟を免除し、多くのキリシタンを
作る方がデウスへの奉仕になるであろうというのが、この若殿がこのように語った、岐阜の政庁において
もっぱら取り沙汰されている人々の見解であった。
そしてこの掟が、まるで人間によって作られ、デウスが命じ給うたものではないかのように、
彼は、その掟が緩和された暁には、彼自身率先してキリシタンになるであろうと言っていた。

だが一同に与えられる答えは、常にだれにでも容易に納得できる言葉で示された。すなわち、司祭の説く掟は
デウスによって啓示された真理であって、人間が案出したものではない。もしそれらが仏僧らの教えのように
人間が作り出したものであり、彼らがなすように我らも不正で不敬な方法で自分たちの利益を収めることだけを
望んでいるのなら、この掟に関しても人間が望むように語るであろう。だがそれはデウスの掟であり、その
不可謬の決定であるが故に、我らはそうした判断を生む人間の意志や淫蕩的欲望に順応することは出来ぬのである。

ルイス・フロイス『日本史』)


織田信忠が宣教師に対し、「姦淫禁止は何とかならないか?」と聞いたらしい記録である。




738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/13(木) 21:09:15.30 ID:KNQjcw/3
日本は宗教の戒律を自分たちの都合のいいように捻じ曲げて受け入れるんだよなあ

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/13(木) 21:14:39.91 ID:fl/qCXGo
なんか秀吉の逸話で似たようなのがあったが、この改変か?

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/13(木) 21:35:35.88 ID:7jSOMkF8
>>738
禅僧は寒い冬の日に仏像を燃やして暖をとり、念仏は戒律を守れない者も救う
日本仏教のこれはこれで良いと思う

最近日本でも流行りの南伝上座部が、
昔の日本と支那に普及しなかったのは気候の違いが大きかったんだと思うわ

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/14(金) 00:30:38.98 ID:9vGE6A7s
>>738
日本に限らずどこでもそうだと思うがの
それに宗教そのものも確立されたときから不変というわけでもないし

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/14(金) 01:42:30.77 ID:7GvGc+ge
>>737
この時代から約百年後の宣教師ブーヴェの著書『康煕帝伝』でも、「陛下まじ名君wwwwwwでも姦淫ヤ リすぎwwwwww」てな感じで書かれてたな

ただまぁ信仰篤い宣教師には、アジアのつーか非キリスト教圏の一夫多妻制がもはや個人の性欲の問題ではなく、社会保障にまで関わる制度だとは想像の埒外だろうけど

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/14(金) 02:04:32.40 ID:OTPnSk+L
>>742
社会保障か。たしかにね

ヨーロッパだと、王が男子を残して死んだら、
「その子は庶子だから相続できません!」
で、おじやいとこが王位を継承する、なんてことがわりと普通にあったり

ひどいのになると、正当な王妃との間に生まれた嫡子がいたのに、
例の悪名高き「婚姻の無効」発動で、
「お前のカァチャン、遡ってもともと王妃じゃなかったことになるんで、
お前今日から庶子な!」とか

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/14(金) 03:12:53.38 ID:9vGE6A7s
ああ、草原なんかだと親兄弟の嫁を囲って養うのは当主としての義務らしいしね

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/14(金) 03:35:13.17 ID:s9UOx24A
旧約聖書のオナンの話も兄嫁に種を提供して死んだ兄の家名を残させるべきなのにそれを嫌がったのが一族繁栄のための義務に反するというのが本質
後世だと子供を作らない快楽のみの性交がいかんという風に解されがちだが

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/14(金) 07:29:35.56 ID:neAFLMUb
もこみちの鎧姿が似合う。忠勝か宗茂で主役やってくんないかな。

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/14(金) 08:11:44.11 ID:YrhG6nAC
料理シーンのある武将でお願いします

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/14(金) 08:31:30.12 ID:Of3Hilaw
宇喜多直家の、簡単おもてなしクッキング!

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/14(金) 10:32:49.94 ID:rgkagBle
材料は適当な食材と毒少々!カンタン!

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/14(金) 11:43:32.15 ID:V38m6M7c
料理と言えば政宗だろう

751 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/14(金) 12:15:37.67 ID:KiR0CtCL
>>737>>742
日本の場合は姦淫というと衆道も含まれることをお忘れなくw

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/14(金) 12:23:30.29 ID:LCy28+d5
>>748
宇喜多直家の怖さは忘れた頃に来る怖さ。
過去スレで備前茶を振る舞われた皆様
そろそろ効いてきたんじゃなーい?

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/14(金) 14:26:31.70 ID:9D/eaQgf
>>738
どこの宗教もそんなもん
つか、国ごと時代ごとの大衆意識にある程度迎合できない宗教は大体衰退して消える
インド仏教の中でも密教なんかは、当時のインドの大衆に合わせてヒンズー教の諸々(マントラとか)取り入れた結果だし、
ヒンズー由来の神々が仏教に取り入れられてるのも大体そのせい
そのヒンズーにしてもキリスト教にしても、土着宗教や習俗を巧みに変化させ取り込みながら発展してきた

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/14(金) 14:41:22.49 ID:vs9ZF4dj
人妻専門が晩年突如ロリコンに目覚めたのは平和になって社会保障の必要性が薄れたからか

755 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/14(金) 15:44:18.46 ID:KiR0CtCL
誰のことですか?

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/14(金) 15:52:15.58 ID:1LAOtHzd
性的嗜好の流れとしては割と一般的らしいぞ
自分に無いもの、遠いものに憧れるというか

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/14(金) 16:39:57.35 ID:UbrERJgb
日本の仏教だっていきなりそうなったわけではなく
衆生の求めに応じて何度も何度も改められ続けた結果が今なわけだからなあ

できなかった宗派は今どうなっている?って話

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/14(金) 16:53:06.81 ID:befumoTv
曹洞宗なんて宗祖の道元が只管打坐とか言ってひたすら座禅しか
しない教義だから、どんどん衰えていったけど、瑩山禅師が他宗派のテイスト
取り入れてなんとか没落を免れた。

曹洞宗の大本山が永平寺と総持寺の2つあるのはその関係。

死骸を取る方便

2013年12月02日 18:59

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 04:33:31.32 ID:BlUqJocB
織田信長・信忠親子の家臣の内、本能寺並びに二条の新御所で討ち死にした衆112人の死骸は、
尽く阿彌陀寺の墓所に葬られたが、これにはこのような事があった。

惟任明智日向守光秀は、本能寺も二条も戦闘が終了すると、現在の寺町浄花院盧山寺のあたりが、
その頃は川原であったため、ここに軍勢を集合させ何れも人馬の息を休めた。

そこに阿彌陀寺の清玉上人が、「かねて親密にさせて頂いていますので、御見舞です」と言って
参り、「今朝より御労であったと思いましたので、これを支度させました」と、大量に持参した
餅や焼飯を進上した。

光秀はこれを見て「かねてからの御懇意と言いながら、なんと心付くことでしょう」と
ことの他に悦び、早速軍兵に分配し、自身も賞翫した。

これは清玉上人が、討ち死にした大勢の人々の死骸を勝手に集めるのは難しいと思い、
その許可を貰うために、方便でこの様にしたのだと伝えられている。

これらは天正10年(1582)6月2日の八つ時頃(午後2時頃)の事だったそうだ。

(阿彌陀寺由緖之記)




943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 19:56:17.02 ID:dE8pnKYn
天正10年6月2日の清玉上人

払暁、本能寺の変
まもなく察知し、本能寺(厳戒中)を20人の坊主とともに潜入
寺内(厳戒中)で信長の火葬を執り行う
その足で炎上する二条城へ単身突入し信忠の遺骨をことごとく拾い集める
14時までに大量の飯を炊きあげ、さらに一部を焼きお握りにして光秀に渡す

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 20:26:04.32 ID:Bgfzvsb9
まさか遺骨をおにぎりにして食べさせてしまったのか!

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 20:27:23.22 ID:gsrnmq4p
>>943
なんかもう火事場泥棒にしか見えないw

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 20:32:25.52 ID:vX9ryKSf
>>943
なんつうか軍の特殊部隊みたいだな

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 20:44:17.47 ID:mZp7YCif
実は襲撃計画を知っていてもおかしくないくらいの手際の良さ

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 21:15:21.32 ID:NieEJxuc
清玉上人「ステンバーイ ステンバーイ…」

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 21:24:28.17 ID:MxckZown
セガール主演、タイトルは「沈黙の本能寺」で映画化決定。

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 22:46:14.02 ID:e+PQsz5b
「こちら清玉。本能寺への潜入に成功した」

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 22:51:10.03 ID:WZk/UhXC
「こちらスネーク、The Temple of Instinctsの潜入に成功した」

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 23:01:00.95 ID:p8yzePM2
(メイン) 信長の火葬
(サブ)  信忠の遺骨の収集

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 23:27:30.33 ID:Bb5zUdFM
スネーク!?どうした!?応答しろ!スネーーーク!!

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 23:44:13.94 ID:NieEJxuc
「清玉をもてあます」

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/03(火) 02:12:25.14 ID:QPNPT//g
汚いなさすが忍者きたない

織田信忠と「天下兵馬の権」

2013年08月15日 19:51

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/15(木) 16:25:46.94 ID:IjM0H9nU
天正十年、織田信忠は兵五万を率いて武田勝頼を攻め滅ぼし、
信濃、甲斐、駿河、上野等を尽く平定した。織田信長はたいへん喜んで、
福富平左衛門貞次を使いとし、信忠に父信秀の遺刀を授けて、

「お前が出陣することわずかに三十日で大敵を滅ぼし、数国を平定したことは、
先祖を辱めない活躍というべきである。今年の冬には必ず天下兵馬の権を譲ろう。
いま家伝の宝刀を授与してしるしとする」と、言った。(寛政重修諸家譜)

信忠は畏まってたいへん喜びながらも、天下を譲ることについては、
「いまだ若輩ですので思いも寄りません」と、返答した。(当代記)





織田信忠の任官

2013年08月08日 19:55

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/08(木) 16:18:28.26 ID:VhQuf07U
織田信忠は叛乱した松永久秀を攻めて焼殺し、十三日に兵をおさめて京に帰った。

朝廷は大納言実枝を信忠邸に遣わし、その功を賞して従三位中将に任命し、昇殿を許した。
しかし、これを信忠は「朝恩の厚いことはたとえようもありません。しかしながら父に告げずに
お受けすることは臣下の道ではありません」と言って固辞した。

信忠は実枝が再三すすめても勅命に応じなかったので、帝はその控え目で、
思いのままに振る舞わないことを叡感した。

しばらくして信忠は使いを父信長のもとへ送りこの事を告げた。信長は「久秀は鍛練の老将であったが、
お前は年若くしてわずかなうちにこれを誅滅した。この功は大きなものである。ぜひとも詔を奉じて
官爵をお受けせよ」と言った。ここにいたって信忠はかたじけなくも謹んで勅命を受けた。

――『寛政重修諸家譜』




842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/08(木) 17:36:40.21 ID:B1SH3gY7
義経のことが頭に浮かんだのだろうか

843 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/08/08(木) 20:04:03.44 ID:Y3e9JJQK
武田には勝手に手出してたけどな

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/09(金) 18:04:10.95 ID:QMvYkCoH
>>841
能楽に狂ったりイケイケの家臣に気に入られたりするけど信忠さんってやっぱし優等生なイメージ

織田信忠は能を好み

2013年06月26日 19:55

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/26(水) 18:47:29.40 ID:Ei9Qmz2B
天正九年の事。織田信忠は能を好み、自身もこれを行った。
身分の高い者も低い者もその腕前を見事と言った。

織田信長はこれを聞いて「武将たる者がむやみに能を好むものではない」
と言い、大変しらけた。

そこで信忠は能道具をすべて取り寄せ、丹波の猿楽師・梅若大夫に与えた。

弟の信雄・信孝もこの道を好んだが、信長はこれについては知らなかった。

――『当代記』




955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/26(水) 19:18:11.08 ID:90EL/F1K
幸若舞はええんですかそうですか

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/26(水) 19:28:49.30 ID:zZJOJp82
しかたないのう

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/26(水) 19:54:10.62 ID:efCxEmqq
「面白の乱舞や 其身を捨てぬ程に心掛け」
ほどほどにできず、やり過ぎるくらいなら捨ててしまえ!てことでは



共に16歳、織田信忠小姓。二人の少年のこと

2012年09月08日 20:30

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 21:57:18.15 ID:LvUM7Tln
織田信忠の小姓に、佐々清蔵山口小辨という二人の少年があった。
清蔵は佐々成政の甥で、武士の家系であったが、小辨は伏見あたりの賤しき者の子であった。
しかしこの二人は容貌殊の外優れ、また賢かったので、禿(かむろ)として常に信忠の元で使われていた。
さらに清蔵は観世流の能を、小辨は小歌の名人であったので、特にその寵愛を受けた。

天正10年(1582)び武田征伐における高遠城攻めの時、両人共に16歳にして抜群の働きがあり、
織田信長はこれを聞くと両人を呼び出し、先ず山口小辨

「この度高遠にての働き、稀代の至りである!城介(信忠)の眼鏡違わず、ひとしお満足の事である!」

そう褒め上げ、手づから国久の腰の物に感状を添えて下した。
次に佐々清蔵を召し

「高遠にての骨折り、天晴であった!ただし汝は手柄するのも当然である。何故ならあの大剛の
内蔵助(成政)の甥だからだ。」

と仰せられ長光の腰の物に感状を添えて下された。
これを見聞きした者たちは二人の名誉を羨むと同時に、

「信長公はさすが智勇兼備の大将である。あの褒められ様を見たか?
小辨は卑しい身分の出身なので、手柄高名誠に稀代なりと仰せられ、
清蔵は武士であるから伯父内蔵助の名まで出して賞せられたること、流石名将の一言一行、
感ずるに余りある。」と言いそやしたそうである

さて、このことがあって60日あまりにして、明智光秀の反逆により信長は弑せられた。
その時信忠は二条城にあったが、光秀の兵がそこにも襲い来て同じく討ち取られたその時に、
この清蔵、小辨の二人の小姓は互いにいい合わせて

「今は我々も討死すべき時である!されど素肌(鎧を着ていない状態)にて死ぬことは、屍の上に
恥を晒すことである。厳しく物具して死のう。そうであれば緊急の事態で何致し方ない。共にひとたび
敵軍に討ち入り、良き兵討ちてその物具を取って着よう!」

そう確認すると二人、勇んで突き出て、思った通りの敵を討ち取ると一度陣に帰り、その物具を二人共
厳しく装うと、互いに微笑み合い、再び切って出て敵勢と渡り合ったが、ついに二人共討ち取られた。

ただでさえ紅顔の美少年であった二人の思い切ったる働きに、この戦場の人々も彼らから目が離せなかったが、
その死んだ時、美しい顔に血が流れ、前髪も朱に染まっていたのを、敵も見方もこれを見て嘆くとこ、
ひとかたでは無かった。
そして多くの京童たちも二人の少年の首のもとに集まり、その健気さを惜しみあった、とのことである。


織田信忠寵愛の小姓、佐々清蔵山口小辨という二人の少年についての逸話である。
(武士道美譚)



関連
信州高遠城一番乗りの事
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5983.html


361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 22:07:30.29 ID:qOrIL3ku
え?悪い話!?

362 名前: 忍法帖【Lv=29,xxxPT】(1+0:8) [sage] 投稿日:2012/09/07(金) 22:36:40.12 ID:Wr0rj8gN
イイハナシダナー

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 00:30:43.38 ID:pq329bjA
というか眼鏡という単語が引っかかった。この頃にに入ってきたんだな

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 00:49:11.25 ID:TYKdc9uU
小和田哲男の本で
「秀吉」「天地人」の時代考証の時に
「眼鏡にかなう」という言葉が入れられそうになった時、小和田哲男は
フロイス「日本史」では

フランシスコ・カブラルがメガネをかけていたら庶民からバテレンは4つ目だと評判になって
岐阜に四、五千人もの観衆が集まってきた。

と書かれているように、戦国時代に眼鏡はほとんど普及していなかった、だから「眼鏡にかなう」
という言葉もなかったはず、と入れさせなかったそうだが

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 00:54:35.47 ID:K/FXAyga
久能山だかに家康の眼鏡が残ってたな

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 02:18:52.15 ID:NIxT/FZp
その眼鏡をモチーフにしためがね之碑があるのが、上野の東照宮下の不忍池

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 04:56:56.65 ID:aRY9MqBK
大御所様は4つ目だ

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 12:09:22.24 ID:hvtbgZHu
「お目にかなう」って表現はいつからあったんだろうか?
眼鏡にかなうより昔からあったのかなあ

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 12:25:04.96 ID:5edXjqzV
考証って言葉まで担当してたんだね
物だけかと思ってた
当時ないといえば四六時中とかも使えないんだろうなあw

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 13:56:54.09 ID:hvtbgZHu
>>374
「二六時中」という言葉はあったらしい

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 14:01:08.41 ID:pT9WL0m5
大河ドラマ毛利元就の脚本を担当した内館牧子は
「殿、チャンスですぞ」という台詞を考証に却下された、とぼやいていた

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 14:30:36.34 ID:K/FXAyga
今年のも「王家」がどうこう言うて釈明に追われてたっけ

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 14:53:47.69 ID:4S++orRw
チャンスwと思ったが日本語にするとなんだろか。好機?

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 14:55:34.21 ID:xRjFVdfj
殿チャンスですぞってどこぞのパチンコだよwww

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 15:00:30.39 ID:hvtbgZHu
白河法皇「なうげったちゃんす(ニン」

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 15:08:44.51 ID:6IIMnwwc
そこまで厳格にやらんでもいいけど、
チャンスとか雰囲気壊すのはやめて欲しい

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 17:27:04.08 ID:NIxT/FZp
サボる ってのも日本語になってるよね・・・

本能寺の変の一報が徳川家一行に届いた時のお話

2012年01月03日 22:01

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 18:14:25.37 ID:KEOch0MY
本能寺の変の一報が徳川家一行に届いた時のお話


天正10年(1582年)6月2日深夜、織田信長・信忠親子に謁見するべく堺から京へと向かう最中の飯盛山で徳川一行が休息を取っていると、
先に京へと向かわせていた本多忠勝茶屋四郎次郎が慌てて引き返してきた。

ただならぬ様子に家康は井伊、榊原、酒井、石川、大久保等の重臣たち以外を遠ざけ、
加えて織田家からの案内役である長谷川秀一のみが本多と茶屋からの報告を聞いた。
本能寺の変の仔細を聞いて一番動揺したのは他ならぬ家康であった。


家康「我はこのとし頃織田殿とよしみを結ぶこと深い。もし今少し手兵がいたならば、光秀を討って織田殿の仇を討つべきなのだが、
   この無勢ではそれも叶うまい。
    生半な事をして恥をかくよりは、急いで京に上って知恩院で腹を切って織田殿と死を共にする。」

と言い出した。
すると長谷川秀一も「家康殿さえかく仰るならば、まして私は年来の主君。一番に腹を切ってこの程の如く
御道しるべとなります。」と言う。

という訳で本多忠勝茶屋四郎次郎の二人がまた先に掛けて京を目指したのだが、20町ほど進んだ所で忠勝は引き返してくると
石川数正らに言った。

忠勝「我、君(家康)の御大事が今日に極まったので、若輩の身を顧みず思うところを申させて頂きたい。
   君が年頃の信義を守り、織田殿と死を共にするという事が
   義のあたる所としてどうして適切と言えようか。織田殿の為に年頃の芳志に報じようというなら、
   本国に戻り軍勢を催して光秀を追討し、
   その首を切って手向けとすれば織田殿の幽魂も祝着し給うでしょう。」

するとこれを聞いた石川数正酒井忠次ら老臣達もこう述べた。

「年長けたる我々もここに心付したい。返すべすも恥ずかしいと思い由を聞いていたが、君はつくづくと聞き召されよ。
我ら本国に帰って軍勢を催促し、光秀を誅殺する事は元より望むところである。しかしながら主従共にここに来るのは初めてである。
だが、知らぬ野山に彷徨って山賊一揆の為にここかしこで討たれる口惜しさに、都にて腹を切るべきとは思わない」

これを聞いて家康も冷静になって三河に帰る事を考えたようだ。すると長谷川秀一は怒りに涙を流しながらこう言った。

秀一「我ら悔しくも此度、家康殿の道案内に参りて主君の最期の共もせず、また
   賊軍一人も切り捨てずにこのまま腹を切って死ねば冥土黄泉の下までも恨みなお深く残るでしょう。
   家康殿がご帰国して光秀を誅伐する軍を挙げた時は、その先手に参じて討ち死にする所は本望です。
   ただし、帰路の事を危うく思うのであれば、
    この辺りの国士どもは殿に参謁する時は、皆私が取り次ぐ事になっているので、私の申事に背くものは無いでしょう。
    それ故にこそ、今度の道しるべの役にも参じさせていただきたい。」

どうやら長谷川も内心悔しく思いながらも十分に冷静さを取り戻しているようだ。
彼の言い分を聞いた酒井や石川や忠勝も「御道のことは長谷川殿に任せるべき」という事でまとまり、
こうして伊賀越えへの旅が始まったのであった。




233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 19:36:07.27 ID:+xcGHnOJ
>生半な事をして恥をかくよりは、急いで京に上って知恩院で腹を切って織田殿と死を共にする。

前から疑問だったんだが、
信長は京(本能寺)で襲われたのに京(知恩院)に行こうって発想はどうなんだろうか?
厳戒態勢だろうし捕まったりした方が「生半な事」になると思うんだが。

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 19:43:21.23 ID:TNzX3LXj
>>233
創作ないし社交辞令だと思うが、
明智軍に捕まっても武士の情けとかいえば明智の将立ち会いのもと切腹はできたんじゃないかな。

伊賀越えは奇跡だったけど、もし家康が数百の精鋭を率いて信孝、丹羽長秀に合流して
山崎の戦いに加わっていたら面白そうだな。

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 19:54:27.65 ID:mrCHm2pM
伊賀越えの功労者として長谷川の名が挙がる事って殆どないよね。

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 20:01:58.14 ID:ce7aIi/9
>233
家康って浄土宗だから、浄土宗の寺で腹切ろうって意味なのかと思ってたわ

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 20:59:14.11 ID:FtSiNovc
家康の心底を疑って別行動を取った穴山信君が気の毒だ

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 21:53:43.99 ID:r9bTckOE
>>237
当然の報いじゃあ

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 21:54:11.27 ID:bHbVWmrv
武田を裏切った後の穴山は散々なイメージしかないし
最近になってもそれを覆す様な話が出てきた記憶もないな

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 21:54:59.48 ID:XjxWbxf4
>>236
それで合ってるんじゃない?
浄土宗の総本山で切腹しようという発想は自然だと思う
もちろん、無事に知恩院までたどり着けるかは疑問だけど

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 23:40:34.26 ID:TNzX3LXj
>>239
穴山は落ち目の武田存続も兼ねて寝返ったんだろうし気の毒。

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 00:05:24.61 ID:ZqQOCizz
後の保科正之を保護したという功績

・・・奥方の話だけど

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 09:05:17.05 ID:U9zUCjWA
血縁者が敵味方に分かれて家を残そうとするのってこの時代じゃ当然のことなのか?
それとも、そこまでして家を残したいのかと蔑まれるのか?

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 09:08:10.41 ID:4AXx5oKx
当然だったんじゃない?
そんなことは源平の昔からあった事。

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 09:11:59.39 ID:DqY5eRaL
というか家を残すのが最優先課題じゃないかな、家さえ残ればぶっちゃけ血縁すらどうでもいいレベル

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 15:45:09.44 ID:KqhVrGjC
>>252
まったく血筋ない養子とかな。
徳川だと平岩さんや石川家成さん。