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そして信長公と御当家の間は手切れと成った

2019年11月24日 17:27

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/24(日) 11:57:49.42 ID:QkJb/iy2
織田信長公が大坂(本願寺)を取り囲んでいた時、大坂は御当家(毛利)に対し
『是非とも頼み申す。兵糧が続くことが第一なのです。何分にも頼み奉ります。』
と頻りに要請があり、このため二度にわたって兵糧を大阪に入れ、そしてこのために
信長公と御当家の間は手切れと成った。

信長公は伊勢の九鬼大隅(嘉隆)に命じて、河口に大船二艘を据え置き、城のように
配備した。そこに毛利家は芸州の警護船を差し上らせた。そしてかの二艘の大船を共に切り崩し、
兵糧を入れた。しかしながら織田方は信長公の命により大阪周辺に数多の付城を作らせ、
特に茶臼山に塙九郎左衛門(原田直政)を置いて諸口を手堅く保たせており、この包囲を
破ることは出来ず、大坂方は逼塞した。これについて御当家も木津に一城を造らせここに
粟屋内蔵丞を置いた。児玉内蔵大輔は御家中の警護船の運用をよく知っており、度々大阪表に
詰めていた。兵庫花隈城もこちらに従う事になり、杉次郎左衛門を置いた。

そのような中、城介殿(織田信忠)がこの方面に出陣してきたため、乃美宗勝が淡路より
加勢として入った。同じく桂民部大輔も罷り越した。

城介殿は人数三百程にて未明に城近くまで寄り掛かり、これを攻略しようと考えていた。
城中の者達は攻撃を覚悟していたのだが、どうしたわけか、晩の七時(午後四時頃)に
撤退した。これに城中の者達は尽く寛いだ。

(老翁物語)

大坂本願寺攻め、特に第二次木津川口の戦いに対する毛利の認識。毛利としては、有名な信長の「大船」
は毛利の船団が切り崩し兵糧の搬入に成功した。ただし原田直政を中心とした陸上での包囲が固かった
ため攻勢に出ることが出来なかった。そのように受け取っていた模様。



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皆もこのざまを見ろ

2019年10月18日 17:06

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/18(金) 13:57:46.00 ID:mXMwVoJ5
信濃国安曇郡吉田の城主である木曽左馬頭義昌は、武田信玄の妹婿であり(実際には娘婿)、
信玄の無二の幕下であった。しかし信玄亡きあと、その後を継いだ勝頼と不和に成った。
そこで勝頼はこれを攻め滅ぼさんと、武田逍遥軒(信廉)に小山田備中守昌行、横田十郎兵衛守昌などの
部将を付けて出陣させた。もちろん木曽義昌にも油断はなかった。

天正十年正月二十八日、敵味方の激しい戦いが始まった。木曽方で奈川の城主・木曽兵部丞仲親、および
今井丹波守などの働きで、武田方は一旦退かざるを得なかった。

この間に木曽義昌は岐阜の織田信長に助勢を請うた。それについて、甲州乱入のための手引をしても良いと
伝えた。信長は大いに喜び、嫡子秋田城介信忠に先陣を命じた。
信忠は五万余騎を率いて二月十二日に岐阜を出発し、信州伊那郡高遠へ押し出した。
加勢の徳川家康も、三万騎を率いて二月十八日に遠州浜松を出た。案内役は穴山陸奥守入道梅雪庵で、
富士の麓の川内通りから市川口へと押し出した。
これらに続き信長も、三月五日に七万余騎を率いて安土を出た。

武田家は新羅三郎義光以来の甲斐源氏の頭領として、現在数ヵ国を領している名高き大名である。
それをただ退治するという事では名目が立たぬと思ったのか、信長は前関白である近衛前久公を
担ぎ出した。一見朝敵征伐に見えるからである。人の口を塞ぐ信長の策であった。

三月十三日、信長の軍は信州根羽駅に着陣、翌十四日波合へ軍を進めた。十日には既に、城介信忠の名で
関喜平治、桑原助六郎の二人を降伏を促す使いとして出していた。
織田方の先陣は滝川左近将監一益、川尻肥後守秀隆であった。

そして甲州田野郷天目山に頼る所もなく彷徨っていた武田大膳大夫勝頼とその子太郎信勝は、
織田方に捕えられる前に自害した。

彼等の首実検の時、信長はこのように言った。
「そなたの父信玄は、平生言葉に表裏があり、無礼無道であったため、その天罰が子孫に当たったのであろう。
こうして数代の領民を失い、かような仕儀となった。お主も思い知ったであろう。
皆もこのざまを見ろ。快いことではないか。」

(関八州古戦録)

関八州古戦録における、武田家滅亡についての記事。



521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:06:09.16 ID:A+Lsgv+W
>>520
このあとすぐに本能寺の変が起きるんだから皮肉というか面白いというか

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:29:00.86 ID:YAAZcgX4
文章から信長の絶頂点を感じる
強すぎて誰もかなわない感覚

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 11:23:30.95 ID:meTP904Y
5万3万7万で15万か
絶望しか無いな

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:26:36.49 ID:gY8uFqPv
「お前の父親は京入りが念願だったそうだから、お前に父親の願いを叶えてやろう」
と言った話も。なんて優しい信長

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:39:26.70 ID:Dc3TRckH
>>520
これだけで得々と先導する穴山梅雪って印象が出るのは何なんだろ
ああゆう末路になるわなあって感じの

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 14:11:28.28 ID:rHW680I5
そういえば、平清盛の絶頂期だった安徳天皇の即位から平氏滅亡も早かったよなぁ。
都落ちまでは3年、壇ノ浦まででもたったの5年。
執権北条氏も元弘の乱までは絶頂期で、それから2年で滅亡。

それを考えれば豊臣家は長生きしたほうなのかもしれない。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 09:16:13.25 ID:OKDUeII+
江戸幕府に比べるとスカスカの体制でよくあれだけ保ったなと
石田とか増田やらの奉行衆がよっぽど有能だったんかね

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 19:17:00.09 ID:CFGmSaJm
秀吉存命中に力を見せつけたおかげで、豊臣による秩序が生まれたから。

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/21(月) 15:14:52.67 ID:nRo1POF0
石田三成に人望さえあれば…

信長の唐櫃

2019年08月04日 15:51

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 15:12:01.37 ID:20SiqXwU
霜月21日(1567)に織田信長より織田掃部助(忠寛)を使いになされ、「信玄公の御料人(松姫)が
御歳7歳になられるのを承り及び、信長の嫡子・城介(織田信忠)の内方に申し受けたい」と仰せ遣された
のである。武田の家老衆各々は寄り集まって談合し、信玄公へ申し上げられるには、

織田信長はすでに34歳に罷りなられ、27歳の時に義元を討って庚申より去年まで7年の間に美濃・尾
張を治めて今は美濃岐阜に居住されています。

殊更今年は公方の霊陽院殿義昭公を都へ御供申し、信長の被官の柴田修理(勝家)・野村越中の両侍大将を
都に付け置き申されているので信長は望みも多く、万一どのような謀で信玄公と縁を結び申したいと申され
るのかも分かりませんので、これはまず差し置きなされ」

と諫め申し上げた。信玄公は聞こし召して、

「それは各々の意見もっともであるが、近年信長が信玄に入魂仕りたがることは少しも偽りには見えない。
その訳は、信長が音信に小袖を送り、信玄の召すものを格別に致すと言って入れて送った箱を削らせて見る
に殊の外の堅地で、蒔絵も我が家の菱を同じ具合になしたのは、町物ではなく念を入れて、わざわざ申し付
けたと見える。勝頼と縁者になる2年前からこの如くである」

と仰せられ、各々にその唐櫃を取り出させ、年々のを見せなされば仰せの如くである。信玄公は仰せられて、

「人の真実・不真実は音信で知るものである。1度や2度は念を入れるとも、3度までは主か親を除いては、
その他の只の者には重ねて念を入れることなど小身な者でさえしないというのに、ましてや国持ちは自分も
人も事が多いので、年々このようにはならない。

信長は1年に7度ずつ必ず使いを送る。それでさえもこちらから使いを遣るならば、その返報とも存じよう
が、2年に1度でもこちらから人を遣ることはないというのに、親主の如くに信長が仕るのならば、縁者に
信玄となりたいと信長が存じるのは一段と真実であろう」

と仰せられ、御合点あって御返事なされた。そうして織田掃部が長坂長閑(光堅)を介して申し上げ、「こ
の上は細かな事をも申し上げます。私めに万一暇があって、佐々権左衛門や赤沢七郎左衛門が参る時は誰を
介して申し上げるべきでしょう」と申せば、信玄公は仰せ出され「高坂弾正に付いて申せ」とのことだった。

掃部はまた申し上げる。「高坂弾正殿は信州川中島に罷りおられますが、甲府に弾正がおられぬ時に川中島
まで参るのもいかがなものでしょう。小事で大名の弾正をここまでというのも申し悪いので、御膝下で奏者
を仰せ付けられれば、その上でも大あらましの事は高坂弾正殿へ申します」と織田掃部は申すので、原隼人
佐(昌胤)・跡部大炊助(勝資)両人を仰せ付けられ、織田掃部と原隼人・跡部大炊助を長坂長閑のところ
まで呼んで引き合わせたのである。

掃部は甲府に長く奉公仕った故、両人とも知人である。中でも跡部大炊助は織田掃部が信玄公へ御奉公申し
た時の奏者である。ことさら掃部が岐阜へ帰り、やがてその年11月中旬に御祝言の御樽肴を持たせて甲府
へ参り、御祝めでたきことである。よって件の如し。

信長より信玄公への御音信は、
一、虎の皮3枚 一、豹の皮5枚 一、段子百巻 一、金具の鞍鐙10口 以上。

御料人様への御音信は、
一、厚板百端 一、薄板百端 一、緯白百端 一、織紅梅百端 一、代物千貫 一、毛掛の帯上中下3百筋。

この他御祝の御樽肴は作法の如くで、御使は織田掃部助である。

――『甲陽軍鑑』



132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 16:57:51.98 ID:W6PzTXQ5
そんな信長を平然と踏み潰そうとする信玄公

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 16:59:53.94 ID:w2LBZ5n+
その頃は信長のがデカいのにその表現は

甲州・信州・駿州三ヶ国が本意に属する旨は

2019年03月01日 21:08

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/28(木) 18:57:47.48 ID:g5ewcyU1
(甲州征伐の時)

ここに甲信両国の主・武田四郎勝頼あれば、年来の朝敵をなす故、秋田城介朝臣信忠は信濃に至
り出馬されて、高遠城を取り巻いた。

ここは勝頼の舎弟・仁科五郎(盛信)ならびに小山田備中守(昌成)相践の地なり。川尻与兵衛
尉秀隆(河尻秀隆)は調略をもって即時に攻め崩し、ことごとくこれを討ち果たした。

その勢いをもって甲州韮崎府中に入り、勝頼は一戦に及ぶも堪えず、敗北して天目山に隠れた。
信忠先勢の川尻与兵衛尉と滝川左近将監一益は、かの山中に追い詰め入り、数度の合戦に及ぶ。

武田勝頼・同嫡子太郎信勝・同左馬助勝定(信豊か)・逍遙軒(武田信廉)ならびにかの一族は、
ことごとくその首を討って来た。甲州・信州・駿州三ヶ国が本意に属する旨は(織田信長の)上
聞に達し、よって御動座あり。三ヶ国御一見の時、残る関東・鎌倉の諸大名はことごとく御味方
に馳せ参じたものである。

――『天正記(惟任退治記)』

河尻秀隆が活躍してますね



697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/01(金) 19:22:02.22 ID:olrrmJYZ
信勝を討ったあとは東美濃で武田に備え信忠の付家老に抜擢され武田滅亡後は甲斐を賜り大出世
ええ奴やったで

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 02:58:55.19 ID:hF8oIddC
>>697
お前何百年生きてるの?

その憤りによって謀叛を企て

2019年02月03日 21:24

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/03(日) 18:29:38.39 ID:Jzo4Auel
天正5年(1577)丁丑10月、和泉信貫山城を攻めた。松永弾正少弼久秀は大坂の付城を
守っていたが、信長公に恨みを含んで本願寺門跡の雑賀の兵と語らい、大坂を退いて信貫山城
に立て籠もった。

その故は、家康公が御登城の時に久秀は参会し奉ったのだが、信長公は家康公に向かって曰く、

「この翁は松永久秀である。この翁は、天下に及び難き事を多く行った。公方義輝を戮し奉り、
主君の三好義長(義興)を毒殺して三好一家と戦った。東大寺を焼いて大仏を滅し、三好長慶
の二男である左京大夫義継の間に入り、永禄8年(1565)から同11年まで天下を守って
大いに奢り、ついには義継を離れて殺害したのだ」

久秀は赤面して額に汗をかき、頭からは煙が立った(久秀赤面シ額ニ汗シ頭ヨリ烟ヲ立)。そ
の憤りによって謀叛を企てこの次第となった。

10月、城介信忠は大軍を引率して和泉を御進発され、佐久間信盛・明智光秀・筒井順慶など
は大坂の対城を出て河内より向かい、その途上で久秀の従党である片岡城を攻落し、城主の森
(正友)・海老名(友清)を討ち取った。

10月5日、信忠は信貫山城で会戦して久秀とその子の久通を攻めるが、父子は防戦して味方
に利せず。時に信盛は順慶と相談し、雑賀の兵を謀って信盛の兵を紛れさせ、城中に入ろうと
告げ、順慶の兵と追い掛けたり返したりして挑み戦った。

そのようなところで、久秀は予め雑賀の者と申し合わせていたので、城門を開いてこれを引き
入れ、信盛の兵も紛れて城中に入った。10月10日、その手引きで信盛と順慶は城へ入って
火を放った。

久秀は天守に登り「たとえ骨になろうとも信長の最期を見届けてやる!(タトヘ骨トナリテモ
信長ヲ見ハテン物ヲ)」と言って、自殺した。右衛門佐久通は生け捕りとなって切られた。

久秀の悪逆は積り、東大寺を焼いて大仏を滅したのも10月10日である。その日に至り滅亡
したことは「世にも不思議なことをなした」と言われたという。同年10月、播磨を羽柴秀吉
が賜った。

――『佐久間軍記』



720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/04(月) 08:29:26.29 ID:ab2WtWuB
だれが義継を殺したんだったか
と思ったら佐久間軍記か

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/04(月) 16:32:09.53 ID:xX5vEmhQ
久秀に誘われて信長包囲網に加わったのに久秀だけ先に降伏したから久秀に殺されたともいえる

私に吉法師様の御守りを

2019年01月25日 17:40

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/24(木) 20:40:30.79 ID:OZsAZlBz
(清州会議の時)

「それでは吉日を選び、吉法師様への御礼を定める」と、勝家(柴田勝家)は申し出された。それより
「日柄を見よ」とその役の者に申し渡され、ややあって談合は終わり、その日から4日目に御礼は定め
られたとの事である。

「それでは御礼の次第目録を作れ」と、まずは御一家衆の御礼目録の巻物1巻ができた。またその次に
国大名衆の御礼の目録が別紙に1巻できた。「国大名衆は柴田修理殿、次に滝川左近殿(一益)、丹羽
五郎左衛門殿(長秀)、それから羽柴筑前守を目録に書き付けよ」とのことだった。秀吉はこれを御見
及びなさると、

「勝家と各々らへ訴訟がござる。御聞き分けになられればかたじけない。各々も内々に御存知のように、
信忠様がとりわけて私に御目を掛けられた子細(>>652)がござるが、御存知なので申し上げる必要も
あるまい。特別な訴訟ではござらぬ。私に吉法師様の御守りを仰せ付けられて下され。

私は早々と年寄りになったので特別な望みもござらぬ。城介様(織田信忠)に御奉公致すと心に取り置
いているので、この吉法師様を信忠様と存じ奉り、随分と御奉公を致したい。とりわけて申し上げる子
細はござらぬ」

と仰せ出された。これに勝家が「勝家を始めとして、秀吉が訴訟と申し出された時にはどのような事か
と各々存じたが、これは以ての外に心安き訴訟だ。我らとしても同心致す。各々もきっと別条あるまい」
と申された。

これにその他の大名衆も「貴所(秀吉)に信忠様が御目を掛けられたその様子は隠れ無きことでござる。
昔を思い出されて、吉法師様の御守りと仰せられたことは感じ入り申す。筋目を立て申し上げたうえに、
ひとしお頼もしき御覚悟である」と、各々申されたのだと聞いている。

こうして、その目録に秀吉は御入りにはならなかった。それから、その次々に御礼の次第目録を定めて
納めたとの事である。それより、柴田殿を始めとして各々は御城を出られ、屋形屋形へと戻られた。

――『川角太閤記』


筑前守殿は城介様に恋慕故

2019年01月23日 22:33

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/22(火) 21:18:36.57 ID:lazxmLUg
柴田殿(勝家)の三七殿(織田信孝)を天下の主に取り立てたいとの思案は、柴田殿が三七殿の具足始
を致された故と聞いている。この御契約故、後に柴田殿と三七殿は御懇意になられたと聞く。

秀吉は城介殿(織田信忠)と御懇意であられたと聞いている。その子細は、城介殿が御若衆の時に御公
家衆などは城介殿に御恋慕なさった。これを城介殿は御難しく思し召され、その御様子を秀吉は見及び
なさると、

「それならば、私に御目を掛けなさっていると世間に御披露なさいませ。そうすれば御気難しきことも
ございますまい。その上で私も本心から御難しきことは申し上げませぬ。その他のことも、その通りに
なさるのがよろしいでしょう」

と申し上げられた。信忠様はこれをもっともだと思し召されたということなのか、秀吉と御知音のよう
に世間で成り行き、ますます後々も御目を掛ける振る舞いをなされたという事である。

信長殿が御妹婿の浅井殿を御成敗なされて、内々にその後家をどうするかと思し召されていたところ、
三七殿は「柴田に遣されますように」と仰せ上げられた。また城介殿は「筑前守に遣されますように」
と仰せ上げられた。

そんな折に朝倉を御追罰なされ、その諸職一円を柴田に遣されて柴田は殊の外大名となられた。その時
に三七殿は、「ただ柴田に遣しなさいませ。柴田が大名にもなられた以上は、御兄弟となられましても
苦しからぬことでしょう」と仰せ上げられ、信長殿も「もっともだ」との仰せで柴田に遣しなさった。

この由緒故に三七殿を柴田は引き立てなさり、筑前守殿は城介様に恋慕故、その因みをもって吉法師様
を取り立てたいと思し召し、互いに数奇の争いとなったと承り候事。

――『川角太閤記』


名馬を2頭も貰った滝川さん

2018年10月16日 21:16

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 16:15:36.68 ID:aYmZcFzl
天正10年(1582)3月12日に信忠卿(織田信忠)は、武田勝頼父子やその他の首を実検せられ、

滝川左近将監一益の大功を賞し給い、吉光の脇差ならびに“一の日影”と名付けた名馬と金子5百両に
感状を添えて賜り、今回討ち取った首を関加平次・桑原助六郎に持たせて信長公の本陣に参られた。

(中略)

23日、(織田信長は)滝川左近将監一益に対し「今回、武田勝頼父子の首を得たのみならず、軍功は
抜群であるから」と仰せられ、関東総管領を命じて「陸奥・出羽まで賞罰征討を沙汰し、もし決し難き

事があれば徳川殿の御旨を受けて計らうように」と仰せになり、伊勢の本領五郡に添え信濃佐久・小県
二郡を賜り、上野厩橋城に居城するように命じられ“海老鹿毛”という駿馬に脇差を添えて下賜された。

諸人羨まざる者なし。

――『改正三河後風土記』

名馬を2頭も貰った滝川さん



364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 16:42:50.36 ID:hDUMUMtw
>>363
ここで徳川の名前を出してくるのが、いかにも三河な資料…

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 17:41:00.85 ID:3Zo5jnv6
関東管領といえど所領は伊勢と信濃の分国、北条から見ると笑っちゃうレベル

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 17:55:24.80 ID:fORrQkXO
上野は?滝川の指揮範囲全部で100万石近いのでは?

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 19:29:05.65 ID:ITZGz8H9
担当地域と領地が違うってのは、考えてみれば北条と似たようなものか

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 20:25:23.08 ID:wqAxIbJP
>>366
指揮範囲はともかく、現実としてはほとんど領地を持たず厩橋城などのいくつかの城を確保しているに過ぎなかったので、徹頭徹尾織田政権の存在を前提とした関東管領だな。滝川は。

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 06:53:08.18 ID:HviX83N+
傘下の豪族が日和ったら籠城するしか打つ手なくなるよね

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 09:35:00.72 ID:ODXOLop4
そんな事したらその豪族が滅ぼされる

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 12:14:10.41 ID:/rA8Mwv+
信孝は岐阜に籠城するしかなかった

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 23:31:50.48 ID:X8J89QXk
滝川「馬より茶器が欲しい…」

何の用にも立たざる氏真へ、くれられ候程用なくば、

2018年10月09日 17:25

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 17:04:02.59 ID:3PE+0Tuk
(武田氏滅亡後)

やがて信忠卿は諏訪へ参向されて父子は対面された。信長公は今回の信忠卿の大功は比類なしと
たいへん御誉めになった。かくて父子は計りなさり、

「徳川殿は駿河の諸城を速やかに攻め抜きなさり、その軍功はまったく軽んじるものではない」

として神君に駿河一円を進上された。神君は厚く感謝されてその上で、

「私めと今川家の旧好は忘れるべきものではありません。駿河は今川の旧領なので半国を分けて
氏真に安堵仕られたく存じます」

と仰せになった。信長はまったく御承知にはならず、

「何の用にも立たぬ氏真へくれてやりなさる程に必要ないのならば、信長が所領する!」
(何の用にも立たざる氏真へ、くれられ候程用なくば、信長所領すべし)

と御怒りになったので、駿河は一円に神君の御領地となされた。

――『改正三河後風土記』



289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 23:46:05.12 ID:9iQGbbh4
後の交流からして意外と家康は本気で今川に恩を感じていたのかもしれない
それにしても到底本気とは思えず対外的なアピールであろうが
それにしても氏真に駿河半国分けたいとか
生き馬の目を抜く戦国の時代に言うとは到底思いがたいな
後世にできた逸話に真偽を問うのは野暮だと判ってはいるが

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 10:17:50.10 ID:qxcritGB
秀忠と違ってカミギミは自費不快のです

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 10:25:59.57 ID:LoT/qsy1
>>289
信長急死後、甲斐信濃手に入れても返してない所から見てもな・・・・・

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 19:28:27.93 ID:35C0sJ8M
まあ駿河方面への調略に、上手く行かなかったとは言え氏真に協力してもらっていた以上、
心にもない事でも立場上言うだけは言っておく必要があったのかもしれん。

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:19:13.07 ID:dpeX0mQH
>氏真
同盟破った武田は恨んでたけど徳川は別に恨んでないってのは武将らしくて好きw

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 21:01:48.05 ID:y0IcR6Me
>>287
それは浪士組として上京して、京都に残るメンバーを選別した時だな
新選組として徴募したときには特に制限してない

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 00:09:20.94 ID:DnnVud2J
>>293
まあ徳川が占拠した遠江はあくまで植民地で、武田が攻めてきた駿河は本国そのものだしな

織田信忠三位中将任官

2018年08月19日 19:22

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/18(土) 23:37:53.43 ID:rihvtvBY
天正5年(1577)10月、松永久秀の反乱を滅ぼした織田信忠は、13日上洛した。
この時主上(正親町天皇)より、「今度凶徒たやすく退治せしむるの條、尤神妙」の旨叡慮あり。
三位の中将に叙せらるべきと、三条大納言を勅使として仰せくだされた。

信忠は勅使に向かって申し上げた
「厳かの旨、誠に生涯の面目と申すべきことです。であればこのように申すのは恐れ多いのですが、
昇殿の義を軽く御請いたす事には恐れあるべしと。愚夫(信長)より制せられております。
それゆえ安土の父に尋ね伺い、その上を以てご返事をしたいと存じています。如何お思いでしょうか。」

勅使は「それ迄には及ばぬことです。」と申したが、「問わなくては勅答も如何」と
再三申し上げたため、大納言は帰参して、この様子を奏上すると、主上も
「武勇智謀有る上に、謙徳をも守り、父の命を重んずる事のいみじさ、このような人物にこそ。」
と、君も臣も感じ入った。

さて、信忠より信長に飛脚を以ってお尋ね有るに、翌日未明に帰った。この返書を開いて見ると
『今度古兵の松永を早速に退治せしめる事、最勲功の至りである。然らばはや勅諚に従い奉って、
三位の中将に任ぜらるべき。』
そう書かれていたため、信忠は昇殿された。目出度いことである。

そしてお供の人々は過半が一両日も前に先立った後、同17日に、僅かに小姓ばかりを召し連れ
安土にお出であって、信長に御礼申され、そこから岐阜へと下った。

(甫庵信長記)

織田信忠三位中将任官のお話



187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 00:12:08.90 ID:Vh+8MRXk
城介はボンクラ扱いされる事が多いけど生き残れば柴田、丹羽はもちろん徳川、羽柴もただ従うしかない程の権威はあったと思うけどな

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 02:22:35.77 ID:MMEWa7kR
主人に断りもせずに叙せられ昇殿しちゃうのは凡夫義経くらいだろ

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 09:00:02.00 ID:7FRGYrbc
信忠がボンクラとは初めて聞いた

常在寺の盛衰

2018年07月15日 17:55

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 20:07:50.52 ID:SA5mBLDe
永禄7年の9月中旬、織田信長は稲葉山城に移り、これを岐阜と称した。
この城の麓にある常在寺は、もともと寺領五百貫があったのだが、この時織田家によって没収された。
しかし由緒ある寺だったため、住職の日韵上人の申し出によって、日野村にて百貫文の朱印を賜った。

その後、信長は江州安土に城を築いて移り、嫡男信忠を岐阜城の守とした。
天正10年6月2日、明智光秀の謀反により信長信忠父子とも、京都にて生害した。
その後当城は信忠の長男である秀信の後見として、神戸三七信孝が住んだが、天正11年に柴田勝家と結んで
秀吉と戦い、これによって当城を去り、尾州野間の内海にて26歳にて切腹した。

この乱で常在寺も兵火に巻き込まれ、信長より賜った朱印やその他の遺物が焼失した。
しかし後に寺は再興された。

信孝の跡に岐阜城に入ったのは、少将豊臣秀勝であった。彼は織田秀信の後見であったが、
朝鮮の役の時に、肥前名護屋へ出陣し、彼の地にて病死した。

慶長5年、岐阜中納言秀信は石田三成に与して、東軍により岐阜城を攻め落とされ、終には紀州高野山に入って
没した。この時の兵乱で、瑞龍寺も焼けたが、後に再興された、しかし常在寺は、この秀信の時までは、
信長より賜った日野村百貫文の朱印地よりの収入を相違なく給わっていたのだが、秀信が滅んだ後は
寺領が断絶し、常在寺に今残るものは、斎藤道三の画像と、斎藤龍興の寿像だけである。

斎藤道三の画像は、道三が信長の北の方の父であることから、彼女が建立したものであり、斎藤龍興の寿像は、
その子息である龍興が建立したものだという。

(土岐累代記)

稲葉山の麓にあった常在寺の盛衰



932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 20:42:02.56 ID:WP6C3Ozs
織田家がいなくなったら、領地の保証もなくなったわけか。しかし、頻繁に焼けてるなあ・・・

息子が分別無く深入りしたのだ

2018年05月04日 14:26

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 22:44:30.19 ID:02WQirZy
織田信長が甲州に出陣するとして、安土を出立し美濃国呂久の渡において、信濃国伊奈郡
高遠の城主仁科五郎(盛信)の首が曲げ物に入れられ織田信忠より飛脚によって届けられた。
その首は大髻にて、年齢は20ばかりに見えた。

首が届けられると、信長の近習であった菅屋九右衛門(長頼)、野々村三十郎、福富平左衛門、
オロシ彦右衛門といった者達、馬より飛び降り

「御出陣したばかりで五郎の首が届けられたこと、大変めでたいことです。」

そう賀して申し上げると、忽ち信長の機嫌が変わった

「何を以てめでたいというのか!?若輩なる奴原が深入りして追い立てられたらどうなるか、
面目を保ったまま討ち死にできるのは滝川(一益)一人だけだ、他の者達は芭蕉の葉で
位牌を払うような有様に成るだろう。
先陣の者達が残らず討たれたとしても、後陣が遠方ではすぐに弔い合戦をすることも出来ない
ではないか!」

そう殊の外の御気色であり、息子が分別無く深入りしたのだと思っておられた。

(祖父物語)



711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 23:11:21.12 ID:vUy0oAOP
武田を心底恐れていた信長ならではの慎重論

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 23:20:37.16 ID:Z/z82csV
武田の東濃侵略の際、馬場の800の兵に恐れをなして1万の織田軍が撤退するぐらいだからなぁ。

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/04(金) 10:39:43.81 ID:FnXiDPmu
この時期の史料を読めば判るけど信長は武田を恐れてはいないね
武田にちょっとでも噛みつかれて「自分の評判が傷つく事」を恐れていた状態

本能寺の変、当日のドキュメント

2018年04月21日 19:18

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/20(金) 22:39:13.18 ID:z47y627O
明智光秀が本能寺を取り囲んだ時、信長の人数は上下百人程度でしかなく、明智勢は
三千余騎にてこれを即時に踏み破った。

そして信長の死骸を捜索したが見つからず、光秀は動揺し「もしや逃げ延びたのではないか?
如何すべきか!?」と案じている所に、明智の臣下である斉藤内蔵助(利三)という者が申し上げた

「御心やすく思し召して下さい。信長公が兵と手を合わせた後、奥に入っていったのを私が
目撃しました。」

これを聞くと明智も安心し、二条の織田信忠への攻撃へ急いだ。
信長公の死骸には、その上に森乱丸(蘭丸)が、死骸が燃えるよう畳5,6畳を重ねたと
言い伝わる。

本能寺門外の小川の端石の上に、首が十三置かれていた。
森乱丸兄弟三人、狩野又九郎、御馬屋の庄助、高橋虎松、小沢六左衛門、これは御鷹師頭であり、
鷹の御羽を継ぐ名人と呼ばれた人物であった。
その他の首は見知らぬものであった。

二条落去して5日過ぎ、明智は参内をして洛中を乗り廻し、町中の地子(固定資産税)の免除を
発表した。

(祖父物語)

本能寺の変、当日のドキュメント



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/21(土) 17:47:41.68 ID:Onnh1i4N
村井貞勝や毛利新助は晒されてないのか

勝蔵は手負たり

2017年10月22日 16:47

森長可   
332 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote![sage] 投稿日:2017/10/22(日) 10:17:08.95 ID:lD4HBGRz
勝蔵は手負たり


信州高遠城に仁科五郎信盛・小山田備中・渡辺金大夫が立てこもったので
信忠公が攻められた時の先手は森長可・川尻肥前守・毛利河内守・団平八が
追手(大手)より向かうことになった。
然るところ長可は右の衆を出し抜かれて、小笠原掃部之介に案内させて
夜明けには高遠へ詰めかけられたので、(高遠方は)すぐに二の丸を空けて
本丸へ集まったので、(長可は)虎口を固められて御注進された。

信忠公は早々とお越しになられ総攻めと仰せられたので、長可が一番に
本丸へ乗り込まれて、広間口左の方へ入り座敷内で迫り合いになり
比類なき御働きで高名を上げられたが、手傷を負われた。
長可の家臣渡辺助右衛門豊守・林長兵衛為忠も高名した。

長可が腰より下は血になられて、首を持って参られたところを
信忠公が御覧になり
「勝蔵は手負たり」
と仰せになった様子は見事なる義にございました。


――『森家伝記』



333 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote![sage] 投稿日:2017/10/22(日) 12:14:35.34 ID:MmZEA88k
まとめの3131
「森長可『血染めの赤備え』」
だと腕にかすり傷で腰から下は全て返り血だったけど
これだと自分の血も混じってるような

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/22(日) 21:12:38.35 ID:LPWCxxI8
返り血のことを手負いと言い表すのか、手負いが高名なのかどっちだろう

岩村落城の伝説

2017年08月18日 13:55

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 05:15:48.04 ID:OmakkWrJ
○ 大将塚(旧岩村町)

伝に曰く、織田信忠が秋山晴近(虎繁)夫妻及び大島・座光寺らをここで磔にしたという。

その後、城主はあるいは難に遇いあるいは夭折した。時の人はこれをもって、その霊の
祟りと見なした。丹羽氏が城主になると寺を建て5人の魂を祭り、その名を東照山五仏寺
といった。(『巖邑府誌』)

なおこれに関して信濃の地はまた面白い伝説を持っている。すなわち掲げて参考とする。
ひとつは駒ヶ根村の姫淵の伝説、ひとつは諏訪のおまん殿の伝説である。

○ 姫ヶ淵(木曽旧駒ヶ根村)

天正3年4月、信長は武田氏を長篠に破り、大兵で岩村を囲んだ。11月、城中の兵糧は
尽きて城を出て降伏した。織田の兵はこれら2千人を殺し、城主の秋山を長良川で磔にし、
信長自らその姑<おば>を斬った。

姑の侍臣らは驚いて遠山氏の少女を拉して逃れ去った。やがて亡命の遺臣らは主家の
遺児を奉じて木曽に入り、小川村に隠れた。小川の民が織田と称するのは、この因縁に
基づくという。

同地方倉本立町荻原東野などの口碑によれば、少女らは美濃路より来て立町で木曽川
を越え、諸原小野谷を経て小川村に入ったという。

やがて少女は成長して見目麗しくなり、山家には似合わぬ美しく気品ある姿であったから、
宿の妻にと望む者が多かった。中でも諸原某という郷侍は、

「我こそ婿になる」と、日夜言い寄った。遠山氏の娘は厭わしさに、遂に水に身を投げて
死んだ。それより、諸原の辺りでは年々疫病が流行し、土民は恐れて祠を建てて、斎き
祀ったという。(『西筑摩郡誌』)

○ おまん殿(信州諏訪地方)

諏訪の昔話に曰く、天正10年のこと、織田信長は信州に侵入し、法華寺というところで
兵糧を使っているところへ、色々の小袖を着た女房が1人入って来た。

この女房は信長の前へ出ると、懐中していた錦の袋から茶入を出して、信長に見せた。
すると信長はにわかに激高して刀を抜き、この女房を一打ちに斬って捨てた。

この女房はすなわちおまん殿(おつやの方)で、もとは岩村の城主・遠山氏の妻、信長の
伯母である。岩村城が武田氏の手に帰するや、その将・秋山伯耆(虎繁)が入り守った。

遠山氏の後家・おまん殿は秋山の妻となり恥じる色も無く仕えていたから、信長は怒りに
堪えずこの始末に及んだのであった。

されば、おまん殿の恨みが消えないで遊魂は今でも彷徨って、夜な夜な小袖姿で茶入を
捧げて諏訪明神に詣でるのだという。(中里介山『大菩薩峠』)

――『恵那郡史』



49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 21:13:59.79 ID:eiHQW3Ef
>小川の民が織田と称するのは、この因縁に基づくという。

スケーターは本当はこういうところの子孫だったりするんじゃないかな
系図を買ったんじゃなければだけど

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 21:55:39.37 ID:iAs5+xUD
戦国時代の日本人がいい加減に系図作ってたのに
現代の日本人がそれを信じつつも現代日本人の系図にケチをつけるのは興味深い現象だ

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 22:07:18.91 ID:eiHQW3Ef
つうかさ
俺は買ったって言ってもいいと思うけどね
ぶっちゃけ系図なんてそんなもんでしょ?

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 22:32:55.08 ID:QTgOSbH6
家康みたいに系図買えなかったので、怪しげな伝説捏造して源氏になった例も

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 22:37:30.90 ID:hBePV6uS
家康の安城松平に関しては、少なくとも祖父清康の時代から、おそらくは初代親忠の時代から新田源氏を名乗っていた模様

梶原又右衛門の忠節

2016年03月20日 18:59

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:32:52.43 ID:vEIBgH9Y
本能寺の変が起こった時、尾張の住人梶原左衛門尉の嫡子松千代丸は13歳になっていたが、
その折病に冒され、己の宿舎で養生していた。

しかし、織田信忠の在る二条城の様子を聞くと、すぐにそこに向かおうとした
「私は未だ幼稚ではあるが、一廉の弓取りの子であるのだから、どうにかして私を連れて
御所の中に入れよ。働くこと叶わずとも、ただ伏しながら敵の刃にかかり、君の御供をいたさん!」

これに同姓の家臣である又右衛門という者が、強いて諌めた
「らとえ御所の中に入ることが出来たといえども、この有様ではどうしようもありません!
君御父子(信長・信忠父子)は逆臣のために殺されたとしても、その後いかようにも、織田家
ご親族の人々によって逆徒討伐の儀がなされるでしょう。であれば、今は治療をして、
その折を得て忠節を成されるべきです。

であれば、私はこれより御所に駆け入り、この事を申し上げ、恐れながら御名代として
信忠卿のお供をいたします!」

そう言い捨てるとその場をづんと立ち、馬を引き寄せ打ち乗り。諸鐙を合わせて二条城に馳せ、
寄せての明智軍に紛れて御所の中に入り、広縁にて跪き、松千代丸の状況を信忠に委細に言上し、そして言った
「主の代官に、それがし、御敵を防ぎ奉らん!」

その至忠に信忠も感じ入り、自らの薙刀を又右衛門に与えると
「屍は戦場に晒すとも、まことに後世までの面目なり!」
そして庭上に躍り出て、蜻蛉返し水車と、八方透かさず斬って廻り、敵数十人を薙ぎ伏せ突き伏せ、
尽く防いだが、寄手は大勢であったので事ともせず次々と向かってきたため、終には討たれた。

その忠節を感じ、陪臣でありながら、彼の名は阿弥陀寺の過去帳にも書き載せられているという。

(甫庵信長記)




500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:44:12.47 ID:hslUDo2B
こないだから甫庵を出してくるのは
小説の「良い話」を紹介するのとおんなじなんだけどなぁ…

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:53:01.40 ID:ECqYoMqa
もっと後代の名将言行録からもいろいろ出てるし問題ないだろう
武功夜話でも出典書いてれば載せてOKだろうし

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:57:47.45 ID:Ile/5imJ
>>500
一応指摘しておくと、昨今は甫庵太閤記の史料性も再評価されてる。
徳川家の武田旧臣などから、独自ルートで取材したフシがあるらしい。
あと太田牛一信長記と甫庵信長記は、成立したのはほぼ一緒の時代の軍記。
逆に言えば太田牛一信長記を信用しすぎるのも危険。

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:57:53.86 ID:hq9GYHmV
軍鑑なら、甲陽軍鑑なら...

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:58:24.17 ID:Ile/5imJ
>>502
甫庵太閤記じゃない、甫庵信長記だw

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 23:55:07.93 ID:4DVvuEN+
武人百話も100年位前だね

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/20(日) 08:43:31.70 ID:jqPquz/P
>>502
史料として見直されてるのは、甲陽軍鑑と同様に風習が参考になるって話で
事件などの顛末については評価が低いよ。

甫庵信長記は一次史料とあからさまに食い違ってる話が多いからさ

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/20(日) 11:05:53.99 ID:Q9Nctl58
春日惣次郎の時代までは遡れそうなもので間違いないんだっけ?
まあおじいさんの回顧録とかには「時系列ぐちゃぐちゃだし話盛るし細かいところ適当過ぎ」ってのしばしばありそうなもんだが

器用だと評判の者は不器用であり、分別があると評判の者は無分別

2015年08月02日 13:50

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/01(土) 19:21:26.12 ID:yGv4JDDT
有名な逸話ですが

織田信長が京都に滞在していた時、嫡男である城之介信忠の事を人々に尋ねたことがあった。
内藤某というものがこれを承り、答えた
「一段とご器用であると、人々は申しております。」

「それはどういう事か?」

「例えば御来客があって、この人には何を下さるべきだろうと、各々が申し合わせると、
その結論と少しも違わず、御馬、或いは物の具、御小袖など下されます。」

これを聞いた信長はたちまち機嫌を悪くした
「そんな事がどうして器用であるものか!それこそ不器用というものだ。
なかなか私の跡を継がせるわけにはいけない!
下において刀を遣わされるだろうと予想したなら小袖を与えよ。馬を下さるべしと思う者には代物を取らせよ。
この人には好物を遣わすべきと沙汰するなら、金銀などを沢山取らせよ。
こういった事こそ国持たる大将の作法である。

例えば、敵を攻める時、ここに攻め寄せてくるだろうと予想する所には出ず敵に骨を折らせて、
まさかここには出ないだろうというところに不意に出るようであってこそ、利を得ることが出来るのだ。
敵が待ち構えている所に出ては、どうして勝利を手にできるだろうか?

総じて、器用だと評判の者は不器用であり、分別があると評判の者は無分別である。
とにかく、予想外のことをして、下々から積りを立てられぬようにするのが誠の大将なのだ。」

(明良洪範)



137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 06:26:47.34 ID:L9+UiHdj
武将には嗜好ってのがあってだな
合ったものを与えないと友好度が上がらないって太閤立志伝に書いてあった

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 06:59:43.55 ID:nnvI8DVS
そうか、謙信に送ったのも予想外のものを送っていたのか。

竹中重門の書く本能寺の変

2015年06月03日 14:35

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/03(水) 00:01:53.21 ID:rHAXdTQh
昨日は本能寺の変の日だったので、関連の逸話を。


備中高松城を攻めている羽柴秀吉より、安土の織田信長に、備中に軍を出すことの要請が来ると、
信長は自身が軍を率いると伝え、5月に嫡男の信忠とともに都に上り、三条の本能寺に宿泊した。

その頃、明智日向守光秀は丹波国の主で亀山という所に居住していたが、織田信長に恨みがあったのか、
彼を討とうという心を日頃から差し挟んでいたが、よき折と思い立って、6月1日の夜半より兵どもを進め、
大江の坂を越えて、2日の夜明け頃、本能寺の四方を囲み攻め立てたが、本能寺には警護の武士すら無く、
塀も一重すら満足に構築されていなかったので、防戦にすら及ばず、信長は自害し、寺に火をかけ共に
煙と上った。

織田信忠は妙覚寺という寺に居たが、信長が自害したと聞くと、
「明智がここにも攻め寄せてくるだろうが、ここでは防ぐことも出来ない。どうすべきか」
と家臣たちに問うと、「親王の二条の御所(二条城)こそ宜しいでしょう」と人々言うので、
であればと、親王を御輿に乗せて内裏に避難させ、信忠は二条御所に移った。
本能寺で信長とともに死ねなかった者達もここに集まった。

明智軍はたちまち攻め寄せて戦ったが、この二条御所も築地一重ばかりの防御しか無く、
一方、明智の兵は具足に身を固め弓鉄砲を先に立て攻撃した。
信忠の侍達は、一重の防塁では戦うに便無く、信忠もここに自害した。

都のうちは、墨をすったかのような状況だった。今朝までは、誰がこんな事が起こると
予想しただろうか。手のひらを返すよりも早いのは世の転変であり、今も昔もそういうものだと
言いながら、驚きあうのも理ではないだろうか。

明智日向守光秀は、美濃国土岐郡明智という里に生まれ、昔は土岐の一門だったそうだが、
光秀の頃には貧しくなりはて、下郎の一人も持たず、越前国などをさすらっていた。
そんな中、思いもかけす信長に宮仕えし、思いにかない、近江の志貨郡を知行し、坂本という所に
城を構えた。天正6年の頃には丹波国を攻め、波田野などという国人たちを討ち滅ぼし国の主となり、
さらに西近江をも知行した。

このように時めき富盛したというのに、なお飽きたらず日本を取ろうと信長を討ったこと、
欲心によって道を損ない名を汚し、浅ましいとしか言いようがない。

明智がやったようなことは、なかなか起こるものではない。信長がこんな事に成るとは知らず、国を与えて
かえって滅ぼされてしまった事は、人を知ることが明らかでなかった科であろう。
与えれば恵みを破るなと、孟子が言っていることも理であろう。
(豊鏡)

竹中重門の書く本能寺の変についての記事である




久秀の運がついに尽きる時

2015年02月19日 18:50

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/19(木) 02:23:59.48 ID:9ypTrVnC
天正5年(1577)、松永久秀織田信長の反逆し信貴山城に籠もる。
織田方は嫡男城之介信忠を大将として、信貴山城へ軍勢を派遣した。

この事態を、かねてから大和で久秀と対立していた筒井順慶は、幸いな事と喜んだ。
実は筒井家譜代の侍の一人で、順慶が松永久秀に大和を追われ浪々していた時に、久秀に奉公に出た者があったのだ。
順慶はかねてからこの者と連絡を取り様々に賄いなどを与え、『返り忠の良き手段が有る時は、内通するように』と
言い含めていたの。

そんな中、久秀の運がついに尽きる時が来た。久秀が大阪の門跡(石山本願寺)に加勢を請う遣いを出したが、
その使者に彼の者を行かせたのである。
彼は信貴山城を出ると順慶の元に行き、久秀より受けた指示の内容を詳しく申し上げた。
すると順慶は、二百人ほどの軍勢を、石山本願寺からの加勢に偽装し、夜に間に河内の平野に集合させておき、
彼の者が大阪に行って主命を果たし帰る頃の時刻に、この軍勢を従えさせ、夜に紛れ信貴山城内へと引き込んだ。

翌日未明より、織田軍による総攻めが始まった。
そこで先に入れ置いた順慶の人数が、城に火をかけ裏切りを行ったのだ。
これに松永方は大混乱となりついに討ち負け、久秀は天守に上がり切腹した。
子息の松永久通は、多聞城へ落ちて行きそこで切腹したとも、また父子一所にて切腹したとも
伝えられる。

これより大和一国は皆、筒井順慶が手に入れ、武威盛んとなったが、
不幸にも天正11年(1583)5月13日に病死した。

(大和記)




悪魔に対するその奉仕と報い

2015年01月03日 16:05

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/02(金) 18:08:40.62 ID:Gq+up1P0
彼(織田信長)の息子で城介殿と称する嗣子(信忠)は、その領地で司祭たちを援助し、教会を建てるために
地所を提供したり、彼の町である岐阜に、大いなる十字架を建てるために広場を提供するなど、従来
我らに対して深い関心と愛情を示してきたが、時勢に順応し、父を喜ばせるためか、あるいは同じく
悪魔に欺かれてしまったためか、父とともに甲斐国の(武田)信玄(原文ママ)を討伐して帰還した際、
彼の地で大いに尊崇されていた一つの偶像を持ち帰り、尾張国に安置して礼拝することを命じた。

そして都に着くと、同所から3里のところにある愛宕と称される山にある悪魔に二千五百クルザードを
献納した。さらにその悪魔への深い信心から、それに捧げる一種の犠牲の行として、自らの邸で裸と成って
全身に雪をかぶる苦行をした。

だが、(後述するように)その後3日以内に、悪魔に対するその奉仕の報いを受けるに至った。

ルイス・フロイス『日本史』)

ルイス・フロイスによると、織田信忠は愛宕信仰をしたせいで滅んだ、という一節である。



146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/03(土) 03:17:28.30 ID:mE4vCnu/
火伏せの神を信仰して焼かれるなんて・・・悪い話だ

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/03(土) 03:50:50.09 ID:mLMtRA7c
フロイスって世話になった人の死の評価がワンパターンすぎるわ

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/03(土) 04:17:47.76 ID:ICxvv49Y
本能寺の変の3日前に雪かぶるだと…!?
ちうか光秀も愛宕参りの後で謀反してんですけど

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/03(土) 05:48:53.65 ID:3fJmV1yx
>ちうか光秀も愛宕参りの後で謀反してんですけど

フロイス「それゆえに光秀殿も三日天下に終わったのである(キリッ)」

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/03(土) 09:17:29.95 ID:bhN1cEvu
織田が滅びたのは悪魔崇拝のせいじゃなく織田自体が悪魔だったからという視点が必要だったね

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/04(日) 13:44:54.34 ID:cZ8z38P+
フロイスって批判はあるけど
絶賛内戦中の外国に飛び込み
現地で言語習得して布教活動しつつ
各地の軍閥首領と渡をつけ、信者ネットワークを駆使して
歴史を記録したわけだよね。
逆の立場で日本の坊さんがフロイスの故国(ポルトガル)へ飛び込んで
王室貴族とコネを築きながら、ホトケの教えを広め
ついでにアヴィス王朝期の貴重な資料を残した
と考えると、凄さがわかるな。
恐ろしい程の行動力&人間力。

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/04(日) 19:46:57.00 ID:WfjTn4b5
唯一の神を信じない蛮族を改宗するのが使命だと思い込んでるもの

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/04(日) 20:28:26.25 ID:xhdNdy6x
今後しばらくは無駄に行動力があるクソの国の人たちに
搾取される歴史が待ってる模様

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/04(日) 20:54:21.83 ID:RFWcf3wF
侵略の尖兵だもんな そんなことも見抜けない間抜けが謀反で死んだ

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 01:03:30.16 ID:iHsdU/kN
鎖国下の日本に潜入したイタリア人宣教師シドッチは獄死したけど
バチカンは殉教者扱いしてなさそう

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 09:43:21.85 ID:P/HlvxUu
>>154
さすがラスボス

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 12:16:03.52 ID:kxfkaLKR
フロイス日本史から筆者のマメで真面目な仕事するけど、どこか偏った感じを受ける
その辺の頑固で努力家なところが武士の気質に似てて上手く馴染んだんじゃないかと思う