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大和は神国であり、往代より子細がある

2022年09月25日 15:29

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/25(日) 07:18:45.87 ID:2kIRZglE
蓮照院記録』より
甥の身を心配する?信長のちょっといい話(有名な話ですがまとめになかったので一応)
※天正十年正月、信長が安土で拝賀を受けたあとに記された記事

ある人が語るところによると、昨年の冬に津田信澄が当国(大和)を拝領したいと信長に願い出た
「上様」(信長)は「大和は神国であり、往代より子細がある。その国の住民はよく知っている」旨の話をし、声を荒げたので、重ねて訴えはしなかった
信長がそうした理由は、先年に原田(塙)直政を大和支配のために配置したところ、ほどなく大坂(石山本願寺)で討ち死にした
その前の松永以来、武家が当国に乱入するとことごとく退散しているので、つらつら信長がそういう話を聞いているからだろうということだった



415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/25(日) 15:45:39.91 ID:H154cQhb
筒井を追い出して乗っ取った大和大納言
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上田宗箇の剛勇

2017年04月21日 10:19

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 08:55:27.66 ID:uFvNYzkl
上田主水(宗箇)は初め丹羽長秀に仕え、小姓奉公などしていたが、本能寺の変後、明智光秀への関与を
疑われた織田七兵衛尉信澄が大阪城(石山城)の本丸に居たのを、長秀の軍勢で取り巻き、信澄が自害に
及ぶ時、上田主水(当時16,7ほどであった)が城内に飛び入ると、信澄は既に自害しており、
そこでその頸を受け取って退出したという。あくまで剛勇の生まれ付きの者であった。
後に太閤秀吉に1万石で仕えたが、関ヶ原の時三成に属した科を以て、本領を没収された。

ここで、浅野紀伊守(幸長)はかねてより彼を知る好であったので、徳川家康に対し「茶友達」との事で
身柄を引き受けたいと要望した。
上田は三成に属しただけで、事の顕れた悪事もなかったため、家康は免許した。
以後、浅野家に属し1万石を領した。

実は上田は、その頃までさして名を得た功は無かったのだが、浅野の屋敷の近隣にあった
中村式部少輔(一氏)の屋敷に火事が出た時、破風口に一人出て延焼を防ぎ止めた振る舞いは、
只者とは見えず、当時の人達はこれを大いに賞賛した。
また、大阪の陣において柏の井で一番に鑓を合わせた。
以上の人に知られた働き2度のうち、一度は火事の覚悟であったといえる。

大阪冬の陣の時、浅野但馬守(長晟)の仕寄の場所に大筒を設置したが、但馬守の足軽が竹束の間から
外を覗いたところを、大阪城内より鉄砲にて難なく撃ち殺された。
その直後、上田宗箇は大筒に乗り掛かり、顔を出して四方を見回した。

彼をめがけて城中より鉄砲が雨のごとく降り注いだが、彼はまじろぎもしなかった。
類まれな勇者であったといえる。

(士談)



846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 10:06:23.60 ID:Y9xTky+j
戦が少なくなると武士が名を上げるには火事の対応とか無意味に躰を危険に晒すとかぐらいしか無いって、淡く切ないお話しですね

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 16:33:14.29 ID:pNPhOchv
へうげものの武闘派上田宗箇を思い出したけど
大坂冬の陣でこの場面あったっけ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 16:45:51.95 ID:5HHheB3O
敵がくれの茶杓作った位しか出てない

藤堂高虎、母衣衆に選ばれ

2013年05月19日 19:04

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 21:02:09.96 ID:1C5sJy7C
織田信長の軍が、丹波国小山城主・長澤治部太夫と申すものを攻めた時、
攻め手は織田七兵衛(信澄)、明智日向守(光秀)、滝川左近(一益)という面々であった。
この時織田信澄に、80石の知行で仕えていた藤堂高虎は大いに働き、無類の高名を成した。

小山城攻めの後、織田信澄は自身の母衣衆10人を選定したが、そのうち一人がどうしても
決まらなかった。そして家中の侍たちを様々に吟味した上で、藤堂高虎をこれに選ぶと決定した。

これを聞くと、高虎は信澄に訴え出た

「私の現在の知行は80石です。この知行では母衣衆として満足な働きを成すことはできません。
どうか御加増をお申し付け下さい。」

しかしこの訴えは叶わず、そのため高虎は失望して、信澄の元を立ち退いたとのことである。

(藤堂家覺書)




634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 00:31:39.80 ID:gtYAqGtm
高虎には美学があるな。
いい話でもよかったかも

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 08:58:40.38 ID:RQBqzfZL
>>634
美学関係ないよ
この知行じゃあ馬を買うどころか維持費すらむりぽだってことなんだから
信澄に金銭感覚全然ないのか高虎へのイジメかのどちらかだろ
そりゃあ失望するわ

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 10:51:57.80 ID:gtYAqGtm
>>636
馬も飼えない=戦で役に立てないから去る。
に美学感じる

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 11:23:26.80 ID:7uhF6O8H
戦働きできなければ喰っていけんがのう

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 11:31:57.60 ID:gtYAqGtm
80石なら従者も動員せず、軍資金も上に甘えられるだろ。
食ってはいけるが、高虎はその立場をよしとしなかったんでしょ?

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 13:56:56.58 ID:RQBqzfZL
>>639
いやだから母衣武者ってのは
ほろを付けて馬に乗ってるものなんだよ
 
いわばネット環境無しで2chに書き込めって言ってるようなもの

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 18:20:42.25 ID:gtYAqGtm
>>641
役職?と知行の釣り合いが取れないってことだな。
説明Thank You

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 18:59:34.39 ID:21FkBzKA
>>641
いや、母衣衆は本来戦場の使い番でしょ。
この時の信澄の母衣衆がどういった立ち位置なのか定かではないが、話の流れから抜群の功を上げた名誉の者を上げた形なので信澄としても戦場での隊としての戦力を望んだわけでもなさそう。
名誉だけ与えて実をくれない信澄の吝さに失望したって話だと思う。

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 03:24:03.39 ID:RorCYiM7
>>644
使い番って戦場での使者や伝令なんだけど
馬無しでやっていけるの?

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 08:41:08.67 ID:Vi04hVmr
頑張ってくれてるからと、名誉職として与えようとした可能性は?
戦場でも傍から離さないか、理由をつけて馬やら何やら下賜しようとしたとか

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 08:56:06.79 ID:FBpMFycF
名誉職扱いはどう考えても無理筋だろ

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 09:12:11.21 ID:Mg0CMXgc
母衣衆は主君の身辺を守る親衛隊で、ここぞという時戦線に突撃させる機能もあるので、
馬だけでなく最低でも10数名規模の配下を従えていないといけない。
それにこの当時母衣衆は名誉職ではなく、バリバリの実戦部隊だよ。

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 10:11:43.43 ID:wBqh+PpR
いや、戦力として期待したんならそれ相応の石高(この時代だと貫高?)も与えるだろ。
(万石で動員数250人を当てはめれば高虎に期待される動員数は80石だから2人)
そうしなかったということは信澄にとって母衣衆はつまりそういうことだったとしか思えない。
どうにかこうにか数合わせのために10人目として選抜されたとういう事情もあるし。
もしバリバリの実戦部隊として高虎を抜擢しといてこの扱いなら、単に信澄がバカ殿だったという話になるな。

いわゆる信長の赤母衣衆・黒母衣衆(たしか書状などでは確認できなかったのではないかな?)だってそれなりに大身のものから小身のものまで名を連ねており任務も一様ではなかった。

> それにこの当時母衣衆は名誉職ではなく、バリバリの実戦部隊だよ。

オレは知らんのだけど、どこの家中でどのように遇されていたとかの具体的な例はある?
信長の赤・黒、秀吉の黄以外で。

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 10:44:24.14 ID:/OZKFzWl
して他の9人の母衣衆の姓名、知行と高虎と比較吟味された者どもの名はなんと?

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 15:50:08.69 ID:jfhU2P6R
現代でいえば仕事が出来るアルバイトが、チームリーダーとかいう
肩書き付けられて、責任と業務量だけ増えて、時給そのままで、
店長に「君には期待しているよ」と言われたようなもんだろ。

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 18:17:55.99 ID:HGFZ4pVY
>>655
それもPC、会計ソフト、営業車は自前で買えってね

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 19:20:16.88 ID:0FkxAK+S
営業車にいたっては購入費だけでなく、燃料代や駐車代といった
維持費も自前でやらなきゃならんから、賃金を上げてもらわなきゃ
仕事も生活もままならなくなる

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 19:36:23.81 ID:a7bqs9Ri
今の時代で例えるなら、主君を七度変えれば一人前どころか下手すりゃ社会不適合者扱いだからな
まあだからといって当時が良かったと言うわけでもないが
なにせ今はモノホンのクビが飛ぶわけでもないしな

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 06:46:28.19 ID:fw4VHsUy
>>662
信澄にとっての母衣衆がその程度の意味しかなかったと言ってるだけだよ。

織田信澄討伐顛末

2011年10月22日 22:03

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 22:02:09.69 ID:nVKMcVLq
天正十年(1582)六月、丹羽長秀織田信孝の四国攻めの補佐として大阪にあった。
ここに、明智光秀が京の本能寺、および妙覚寺において、織田信長・信忠親子を弑殺したとの情報を得る。
長秀は切歯扼腕し、信孝と共に大逆の光秀を討つことを議した。
この時、織田信澄は、彼が明智光秀の婿であったのでこれを大阪の守備に残し、長秀・信孝は馬を走らせ
森口まで進んだ。

しかし、織田信澄はやはり明智光秀に与していた。

信澄は長秀たちが出陣すると密かに伊丹の一揆を大阪に呼び寄せ、長秀勢が明智との合戦に及べば
この一揆勢を持って挟撃する、という密謀を進めていたのだ。

時に、大阪に残っていた丹羽長秀の家臣である長束藤兵衛正家がこの情報を察知した。

長束はすぐさま急使を立て森口の長秀に伝える。長秀は知らせを聞いて驚愕し、すぐさま信孝の元へと行くと

「信澄は大賊の婿であります!更に長年それと親しんできました。先ずこれを誅するべきです!」

信孝も同意し、軍勢を大阪に返し、信澄の居る大阪城(本願寺の跡地に作られたものだろう)を、
信孝は搦手より、長秀は追手より攻め立て、ついに信澄を千貫櫓にて討ち取った。
ちなみに信澄の首を取ったのは、長秀の家臣、上田左太郎重安(宗箇)であったという。

時に六月六日。これこそ賊魁明智光秀に打撃を与えた、最初の一撃であった!
…と、丹羽家では記録している。

なにげに10年ほど後には有名になる人たちが活躍している、丹羽家においてはこう事になっていた、という、
織田信澄を討ち取った顛末である。
(丹羽家譜)




425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 22:36:17.23 ID:Mukm8SQ5
胸糞悪い話だ

主君替え、四人目

2011年08月31日 22:04

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 00:37:04.15 ID:mangm6AO
主君替え、四人目

父親が謀反人という、ちょっとワケありの織田信澄のもとで
与右衛門は武功を重ねていた。
丹波小山城攻めでの功により黄金一枚を受けて良馬を買い、
続く籾井城攻めでは騎馬隊として戦い、兜首二つを獲得した。

やがて、欠員補充の穴埋め人事とはいえ、母衣隊に抜擢されることになった。
しかし禄高は依然、八十石のままだった。

母衣隊ともなれば、馬は必須のこと、厩を整え、馬具を揃え、世話人を雇わねばならない。
良い飼料も絶やしてはなるまい。
八十石では、足が出た。
馬を肥やせば自分が飢える。

思い余って与右衛門は訴えた。
「恐れながら、このままでは存分な戦働きができません!」

「で、あるか。」

信澄はまともに取り合わなかったのである。
ここは思案のしどころだった。
他家に仕官を求めるか、このまま八十石で飼い殺されるか。
さすがに、餅代も事欠くほどの浪人暮らしはもうごめんだった。

だが、
「(セコいそ、甥っ子!!)」
与右衛門はついに、信澄のもとを辞したのだった。

三たびの浪人暮らしである。
大望を抱くも、郷里近江周辺をぶらつき(安近短で手を打ったわけだ)、
先輩・知り合いを訪ねては軍議と称して手柄話しを披露した。

羽柴小一郎秀長との出会いは、もうまもなくである。





605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 01:39:35.38 ID:S4m81Z/k
藤堂さんの主君替えシリーズきたー
こんな兵糧攻めみたいな人事されたら仕える相手を替えざるを得ないって

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 01:49:55.11 ID:v+j4tj8Q
当時の俸禄が貫高じゃなくて石高・・・

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 05:53:10.22 ID:tE8DPw4L
母衣に抜擢されたからって禄も増やしてもらえるわけじゃないし

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 06:46:22.01 ID:3LjQ10Tn
けんもほろろ

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 10:14:20.20 ID:zs4fZMPY
維持費は増えたのに収入はそのままだからな

主君替え、三人目

2011年08月21日 23:01

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 01:15:40.75 ID:EmIpp6OI
主君替え、三人目

浅井家の家臣でありながら、小谷城攻めで織田信長の軍門に下らざるをえなかった
磯野員昌は、なるほどひとかどの武将であった。
与右衛門の、浅井家・阿閉家での刃傷沙汰を不問に付し、
その実力のみを認め、八十石で召抱えてくれたのだ。

ここにきてようやく、初めての禄を得た与右衛門の働きようといったら。
いよいよ本領発揮である。が、
現場で血と汗を流す与右衛門のあずかり知らぬところで、
織田信長による主君の入れ替えが粛々と行われていた。

信長の甥、織田(津田)信澄を磯野員昌の養子とし、
員昌自身は隠居するよう命が下ったのだ。
「右近さまというお子もあるのに・・・・」
与右衛門は、員昌の胸中をおもんばかった。

磯野家家臣のほとんどはほぼ流動的に、若くてそこそこ綺麗な織田信澄の家臣となった。
与右衛門もまたしかり。
「俺とひとつしか違わねえや」
与右衛門、十九歳の頃であった。



数年後、員昌は信長によって追放される。
信澄に家督を全て譲るように命じられたが、これを拒絶したためとも言われる。
やがて板島城主となった藤堂与右衛門高虎は、
員昌の子、右近を千石で召し抱え、大阪の役ではさらに三百石を加増したのであった。






160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 01:23:23.28 ID:ucfN/SHp
主君替えシリーズ好きだ
高虎は餅の件といい、本当に昔受けた恩を忘れないなあ

162 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/21(日) 06:48:31.53 ID:C6IJfvDM
晩年成功する人はなんというか昔のことを忘れないなあ~
家康さんとか。
べっべ別に孕石モンドのことではないから。

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 08:49:06.41 ID:+oAipI1t
主水セレクション

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 09:56:13.85 ID:yelZnl6P
太閤電化も松下を取り立てたし・・。

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 12:39:35.61 ID:ucfN/SHp
>>164
電化と松下でパナソニック? と思っちゃった

長政は後藤又兵衛の件だって
あれは又兵衛が好きすぎて、他のところに行くんじゃねえ こっちに帰ってこい
というアプローチなんだなきっと

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 13:04:49.11 ID:ztD4EdN3
口の悪いツンデレだらけの黒田家か……

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 13:25:56.12 ID:H9Z+luVy
後藤又兵衛の出奔は細川の引き抜き工作だったフシがある。
そのため余計にこじれた感じ。

170 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/21(日) 18:11:25.35 ID:tscG6SzT
>>164
昔の「失敗を」忘れないって意味じゃないのか?