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謙信等の、諸将と自己についての評

2020年02月08日 16:56

611 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 04:52:53.84 ID:HS1E561+
(惜しきかなこの巻は二十片虫の害があり判読できず、現在に伝わらない。その末の一両(2ページ)ほど
僅かに残ったのが、以下のものである。)

三宝寺曰く「これは些か虚気たる申し事ではありますが、この御座敷でそのように慎む必要はないと
思い、お聞きするのですが、現在、日本には高名なる大将がその数多くおります。その中でも先ず上げられるのは、
北條(氏康)殿、織田(信長)殿、甲州の(武田)信玄、吾等の主人(上杉謙信)、又は安芸の毛利(元就)と
海道の(徳川)家康、このような所でしょうか。その中において、何れの家が終には天下を掌握して
全うするとお考えでしょうか。
現在は信長殿が畿内を仕配していますが、武田、北条あり、また謙信もこのように居られますから、
畢竟定まってはおりません。御了見の程を御次いでに承りたく思います。」と太田三楽に尋ねた。

太田三楽曰く
「そのような義は誰にとっても天命でありますから、人の予想を以て申すのは難しいものだと思います。
ですがそういった事は差し置いて私も申してみたいと思います。
先ず、私は毛利家については遠国であり詳細に承っていません。ですので何か申すべき了見がありません。
そうである以上私が語れるのは、御屋形(上杉謙信)と信玄と、北条と織田と徳川となります。

そのうち、北条家が天下を取るという義は絶えて無いでしょう。何故ならば、もはや北条氏康には
余命少なく、その上近年病者になり、久しくはないと見えます。またその子の氏政は、天下の義は置いて、
只今の四ヶ国すら人に奪われてしまうでしょう。かく申すわたしも、氏康より長く生きる事が出来れば、
現在の北条領から一郡一里であっても望みたいと思っています。

また武田信玄と御当家とは龍虎の争いとなり、どちらであっても一方が廃れない間は、双方月日を手間取って
他の方面への働きが出来ません。
信玄は当年四十八歳、御屋形は三十九歳、老少不定と申しますが、一般的には先ず歳上の方から先立つものです。
そう予想すれば、信玄の果報短くして近年にも死去すれば、たとえ信長家康を味方にしたとしても
上杉家に対して防戦することは出来ないでしょう。

しかしそうならず御当家と信玄が争い続ける状況が続けば、信長はいよいよ切り太り、終に四国中国までも
仕配するでしょう。何故なら上方筋の侍は軽率であり、一城落ちれば前後皆敵を見ずしても、開城し
退くからです。ましてや一、二度遭遇して手痛き目を見ては、後途の鑓にも及びません。

これに対し東国北国では、一度、二度、五度、六度まで攻め詰めようとも、まったく草臥れる事無く、
猶以てそれを餌にして、「命さえ有れば追い返さん」とのみいたします。このため、たとえ小敵であっても、
東国北国では、国郡を取るのに手間がかかります。徳川家康なども、現在は武田北条に接しており、
今後は切り取れる国郡も多くはないでしょうから、これもこの先暫くの間は、信長に対し手を出すことは
出来ないでしょう。

武将の器量を申すなら、徳川家康は抜群に優れていると思います。彼は凌ぎ難き場面を度々見事に
切り抜けています。但し、底意がいささかひねくれており、賤しき弓取りとも見えますが、それも
現在が末世の世でありますから、結果として良き事なのでしょう。
(家康抜群勝れ被申て候。凌き難き處をハ度々見ことに被仕て候。底意に些ひねくりて賤き弓取と見へ
候へとも、夫は今時末の世にて結句能ことにて候。)

信長は大気無欲であるだけで、それ以外はせわしない武将であるので、大身に成れば成るほど、慎み薄く、
無行跡なるあまり、命を全うすること定まらずと見ております。
信長が廃れれば、その後は家康以外には無いでしょう。
ではありますが、これらは皆定まったことではなく、世間に於いて命ある者の穿鑿に過ぎませんので、
二五十(2×5=10ということで、当たり前のこと)、又は二五七(意味は不明)を心得るべきでしょう。」

612 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 04:54:51.68 ID:HS1E561+
これに対し謙信公はこのように仰せになった
「実に言われる通りである。それについて、私はかねてから天下国家に望みはない。また軍の勝負にも
さほどには相構わない。ただ差し当たって致すべき図りから逃げないようにと嗜んでいる。その上で
死なば死ね、生きれば生きよと言っても、侍として生まれた者のうち、誰が生きるために引き下がる
だろうか。
差し当たりの図りという品々も、心得あるべき事だろう。悪く弁ずれば無理非道に落ちてしまう。

細かく申せば、各々ご存知であるので、この謙信の事は申すに及ばずないが、甲州の信玄などの守る所は
全く右のようでは無い。彼はただ仮初にも怪我が無いようにと嗜んでいるように見える。それに従い、
信玄ほど軍を締めて仕る人物は、古今例のないものである。但し、信玄が今まで軍に大きな過ちが
終に無かったのは、人を能く見る将であるからで、侍大将、足軽大将、或いは馬場美濃、真田弾正、
山縣源四郎、春日弾正、内藤修理、小幡山城、甘利備前、飯富兵部、原美濃守、その他勝れて能き者共
多くある故である。それも最も信玄の眼力が強き故であり、合戦に際して自身で下知し手配りをすることは
さほど無い。この者共を左右に置き、相談をして弓箭を締めて丈夫に行う故にあの如くであり、であれば
信玄一代の間は何処であってもきたなき負けは絶えて無いだろう。

信玄の内の者は誰であっても、人を能く遣うものだと思った事は、先年川中島にて、私は信玄の方便を
推量して、彼の意図を手に取るように理解し、この度は手に手を取り組み、雌雄を決しようと思った故に、
荒勝負を心得た者達を多く従えて、信玄旗本の先手である、武田義信の陣に切って入り押し立ったのだが、
この時武田軍の侍は言うに及ばず、雑人下部まで、敵に掛らずに崩れるような者は居なかったのだ。

通常、誰の下であっても一番鑓二番鑓までは持ち堪えても、三番まで耐えられる者は稀であり、四番に至っては
絶えて居ない。これは侍十人のうち五人六人は、敵に押し立てられて敵合いを成さずに崩れるためである。
しかし武田軍はこのようであり、よって何処との戦であっても甲州勢の大崩は有るまじき事なのだ。
味方が崩れなければ結果として敵は崩れ、信玄は軍において怪我をしない。

また北条氏康の家臣の者共の中に名高き侍大将は数多は居らず、彼は武田信玄に比べて人数の取廻しは
抜群に劣る。但し氏康は大度にてせわしくなく、士を慰撫して人を和らげ、大廻しの遠慮を能くしている。
これによって、彼もまた一廉の良将と言うべきである。

この謙信はこれらの名将と、さらに加賀越中衆まで相手に持ちながら、私が他の境は切り取っても、尺地として
我が領地を他より切り取られた事が無い。これは不思議では有るが、又その中に一理ある。

私は、貴坊もご存知のように疎略な人間であり、慎みを知らず、その上愚案短才である。だが果報いみじき
故だろうか、能き人を持った故に、隣国によって侵される事が無い。軍は一弧の業ではなく、人を以て
肝要とする。我が侍、いまここに有る十四人を加え、小身押込以上の四十余人の者達は、恐らく
武田北条家康信長の家臣たちを合わせてその中より勝れた者を選び出したとしても、我が四十余人より
勝れた者は多くはないと思う。尤も、彼らはただ軍陣だけで活躍し、他のことには思慮が浅い、という者達
ではない。氏康や信玄に私が劣っている分、また家来の侍たちに能き者が多いことで、双方の力が引き合い、
今まで彼らと相対することが出来たのだ。

しかし、謙信の人を見る眼力が強いからこのように仕立てることが出来たという訳ではない。私は
気儘な者にて、気の合った者ばかり手元に召し仕ってしまう。故に人物に対する穿鑿も大形である。
だが七人の者共(旗本七手組)は、念を入れて人を選んだ。如何様であれ、心に誠が有れば大外れは
無いものなのだろう。かくの如くである。」そう語られた。
松隣夜話

謙信等の、諸将についての評などについて



613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 05:17:32.84 ID:ilyao2vw
他家の将来について熱く語る前に自分の跡継ぎを決めておこうな

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 06:19:58.64 ID:WzA3eSgy
また斬られるかと思った

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:01:08.70 ID:POWo705j
この時期の記述でもすでに大名は天下取りレースしてて、それに対して謙信は天下取る気がないよって認識が出来上がってるんですね

この辺りはやっぱり二天が併存し得る訳がないとして、当然のように天下を狙い合ってる中華の認識が影響してるんですかね
実際は大名のほぼ皆が天下なんて面倒臭いもの誰も取りたくなかったろうに

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:17:32.61 ID:0RmwJlhl
今の自民次期総理候補と呼ばれている人たちが総理になりたがらないようなものか

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:21:33.36 ID:V6+QV004
>>611-612
概ねあたってるのが面白いな

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 10:04:30.11 ID:i9AdP1+r
まあ基本的には戦国大名は地方政権確立した人らで
中央政権には干渉されず勢力拡大したい

620 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/08(土) 10:51:35.18 ID:FBTlD/sc
松隣夜話』は越後流軍学の宇佐見勝興の作とされていますが、勝興の経歴の怪しさもよく知られたところです。
世間一般的にこういう認識が広まっていた、広めたネタ元の一つだとでも考えときましょうよ。
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【雑談】織田信長についてのことなど

2020年02月06日 17:15

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 11:17:49.48 ID:5OMCCWI9
そういえば信長も無断外出した女房達を処罰してたな

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 11:49:01.96 ID:JdBizlSl
信長って安土に移った頃ですら馬廻りや弓衆に命令を聞かない連中がいて処罰してるよね

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:02:25.48 ID:1+5PdDNQ
信長の言う事聞かない家臣結構多いですよね
秀吉も手取川前だかに無断で帰ってるし

勝家宛だかの書状でも陰口叩くなよワシの方に足向けるなよみたいな内容出してる辺り
陰口叩いたり足向けるような連中である事認識してたわけだし

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:08:21.59 ID:OD3qETlT
火事があって引っ越してないのがバレてさらに燃やされたんだっけ?

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:41:09.38 ID:ytodUhRl
>>800
天正9年の桑実寺事件は同時代的にも異様なものだったらしく、
毛利へ「信長が取り乱している」と報告されてるな(石見吉川家文書)

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 13:27:34.45 ID:/N2UOQXO
信長居ない時のフリーダム感すげえだろうなっては思う

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 13:28:04.42 ID:ClW7PRNL
馬廻りは家族ごと安土に引っ越せって言われてたんだけど
家族を岐阜に置いてきてた人の家から火事が出て調べたら同じような奴がたくさんいて
岐阜の家を焼いて家族を強制引っ越し
罰として道路工事もさせた

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 16:57:49.65 ID:yuA3pMt6
そう考えると織田ですら大名集権化にかなり手間取ってたんだなーって、というか出来てないからド油断したのを抜け目なくやられたと言うべきか
大名はあくまでも権利の保証者であって一挙手一投足まで指図される謂れもないわって考えもありそうだし
戦国大名から近世大名化失敗しまくる大名が星の数程いたのもむべなるかな

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:18:38.98 ID:ClW7PRNL
ちなみに信長は着工してすぐ安土に来た
信長がせっかちなのを知ってる丹羽は屋敷を用意しておいたのでますます重用されるように

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:36:18.21 ID:n3zjBlsZ
信長は自分の意にそぐわないとすぐ激怒するイメージだけどな、馬廻り衆でさえ指示を聞き流しているのか

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:46:59.50 ID:1+5PdDNQ
だからこそ激怒しないといけないんじゃないの
いう事聞いてくれるならわざわざ激怒する必要もないし

急激に勢力でかくなったせいで集権化急がなきゃいけない状況になって
綱紀粛正するために厳しめで行かないといけないパターン

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:48:55.11 ID:KELwHSj/
秀吉が古参に対して恐怖政治をやった理由の一端なんだろうなぁ。

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:52:01.98 ID:dT08o3j2
秀吉は「信長の時代みたいに甘くない」って書状残してるくらいだしね。

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 19:21:03.19 ID:BVx81U5Z
激怒っていうか家臣はすぐに誅殺しないとダメなんだよ
そうじゃないと逆に自分が殺される
とオルガンティーノも書いている

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 19:38:25.63 ID:5aGsRTSp
>>761
>信長卿が武田勝頼を攻められた時、御嫡子である信忠公に数万の軍兵相添えて、関東へ差向けられた。
せっかく関東に差向けられたんだから、
そのまま武田領の上野に全軍で攻めこんでなに食わぬ顔で武蔵へ南下すれば良かったのにな。
>そして信忠公は関東平均を打ち納め、京都へ上洛された。
ここ、ここがアレだよね?高々甲斐を落として関東平均などと大抑にならずに、
愚直に武蔵まで押さえて本当に関東平均しておけば本能寺の変も起きなかったんじゃないか?

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 20:44:40.28 ID:yandyTqS
>>815
どうも甲州征伐の織田軍は兵糧不足に陥っていたらしいので無理だな。
なので昨今では、勝頼も粘ってたら織田軍は撤退したんじゃないか、なんて言われたりもしてる。

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 21:19:40.60 ID:ClW7PRNL
>>816
おもてなししてくれた徳川に米を置いていってるよ

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 21:41:04.61 ID:yandyTqS
>>817
平山優『武田氏滅亡』より、天正10年3月23日付山口秀景書状によると、この時の織田軍は
「一、信州雪深く一段と凍っていて人馬が足も立てることができない。寒さは想像以上である
一、不足しているのは兵糧で、諸陣は大変困っている。多くで脱走が起こっている」
と報告してる。また織田軍に対し家康、北条氏政から兵糧が提供されている。

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 22:29:26.79 ID:n3zjBlsZ
氏政から兵糧を貰っておいて関東制圧するぞとはならんよな

信長は律義で有名だから

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 23:38:00.41 ID:IgwN6hfh
>>819
北条が駿河に攻め込んだのに取り上げ、それどころか上野・北武蔵などの国人衆が
滝川一益の指揮下に収まることになり事実上領地取り上げになりましたけど、なにか?

そりゃ、信長死んだのがわかったら、即、滝川一益を攻めるわな。

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 00:37:29.52 ID:a/URv4ty
攻め込んだの滅茶苦茶遅いけどな

『高遠の屋根ふき衆』

2020年01月30日 16:17

森長可   
761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 01:28:48.66 ID:Ii3m2zTb
天正五年五月、森蘭丸、坊丸、力丸の三人共、織田信長卿が召し出され、御近習に召し使われると
仰せ付けになられた。中でも蘭丸は、器量人に勝れ発明であったので、御寵愛限りなく思し召された
故に、御側を離される事がなかった。

信長卿が武田勝頼を攻められた時、御嫡子である信忠公に数万の軍兵相添えて、関東へ差向けられた。
武蔵守(森長可)も手勢を率いてお供し、信州伊奈郡、小笠原掃部の城に武蔵守は取り掛かり、攻めた所、
早速に城を明け渡して降参し、城内の者達は旗下に加わった。次に飯田城へ押し寄せ散々に戦い勝利を得られ、
城を乗っ取り、首三百余を信忠公へ進上した。
そして高遠城へ取り掛かり、息も継がせず、各務兵庫、渡辺越中、豊前縫九郎、同市之丞、細野左近、林新右衛門、
同長兵衛、井戸宇右衛門、その他家中一命を軽んじて攻め戦い、この城も長くかからず落とした。

信忠公は御感限りなく、「今に始まらぬ武蔵守が働きよ」と御喜悦斜めならず、御感状を下され、信州四郡、
更科、高井、水内、埴科を下され、海津城を拵え住居すべしと仰せ付けられた。そして海津城の普請のための
軍営が成就した所で、近辺の野伏一万が海津城へと押し寄せ、鬨の声を上げた。この時海津城は未だ堀も
出来ておらず逆茂木すら無かったため、森勢は各々外へ打ち出て追い捲いて、火の出るほど戦った。
野伏たちは堪らず散々に打ち負け引き退いたが、森勢はそれを追い詰め追い討ちをかけて、首三千余を討ち取り、
信忠公へ実検に入れ奉った。信忠公は再び御喜悦斜めならぬ様子であった。そして降伏した小幡備中、春日周防
からの人質を預けられた。

舎弟蘭丸は京都に在ったので、海津城は各務兵庫を城代と為し暫く居住した。そして信忠公は関東平均を
打ち納め、京都へ上洛された。これらの事は悉く信長記に書かれている。

(枠外註:高遠の城攻めで、織田の兵は武田の鋭武に当たること能わず、森の兵は城の屋根に上り、
屋根の上より鉄砲を撃ち入れたとか。『高遠の屋根ふき衆』と言って、その頃物笑いにしたという。)

(兼山記)



汝も今より武蔵と名を

2020年01月29日 17:33

森長可   
582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 02:05:21.04 ID:nBERtwW+
織田信長卿が天下を掌の内に握り給い、内裏の修理のため伏見に御座を据えられた。ここで国々の
諸大名は残らず上洛するに於いて、瀬田の橋に関を置いて、通過する者の家名実名を尋ねた上で
通過する旨を仰せになった。

森勝蔵が家中の面々を引き連れ瀬田の橋に差し掛かられた時、関守の侍たちが立ち出て言った
「上意であるので、下馬をして家名実名を名乗った上で通られよ。」
勝蔵はこれを聞かれると

「急いでいるので御免有れ。濃州の住人森勝蔵と申す者である。御帳へ書くのはそちらに頼む。」

そう言い捨てて通ろうとした所、関守の侍たちは勝蔵の馬の口にすがり
「そのような事では通せない!その上乗打することは出来ない!」
そう言って鑓長刀を出し、番所は立ち騒ぎ色めき、「ここは通さじ。」と伝えた。

勝蔵はこれを見られて
「元来心得ない者達だ。乗打とは何事だ!公方の御前であればまだしも、汝らの如き侍の分際で
この勝蔵に下馬だと!?推算なり!」
(元来心得ヌ者共也。乗打トハ何事ソヤ、公方之御前ニテアラハコソ、汝等如キ侍之為分ト
此勝蔵ニ下馬トヤ推算也)

と太刀を抜き、二、三人の首を打ち落とし、諸鐙を合い懸け通られた。
関守の侍たち大勢がこれを追いかけ、大津膳所の町口の木戸を早く打ち閉めよと呼ばわった。これに町人共が
両所の木戸を打とうとしたが、これを見た勝蔵が「それ侍共、火を懸けよ!」と宣うた所、町人たちは
驚き木戸を開いた。

そこから駒に白淡噛ませ、伏見の御殿に着くと直ぐに御前に罷り出て、瀬田での事を委細言上し、切腹仕る
覚悟の旨を申し上げた。
これを聞いて信長卿はうち笑わせられ、「昔五条の橋にて人を討ったのは武蔵坊であった、汝も今より
武蔵と名を改めよ。」と、誠に御機嫌にて仰せになった。(誠御機嫌ニテ被仰ケレ)
満座の人々も、「実に忠ある武士のためしかな。」と羨ましく思った。
その年の内に侍従の位に上り、森武蔵守長可と申された。

(兼山記)



583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 02:08:42.18 ID:QnyOZgTw
長可も暴れてからやっちゃったと思ったのかちゃんと腹切るって言ってるのね

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 08:29:26.01 ID:61Wwk3D+
忠あるという概念w

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 11:43:47.15 ID:XF+bDJjT
ほんと若い奴に甘いな信長

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 12:18:16.89 ID:QnyOZgTw
これ信長の命を忠実に守って命落とした関の門番たちは補償なりあったんだろうか

森可成の件があったから森家に優しいのかそれともこういう荒武者好みなのか、どっちなんだろう

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 20:27:12.93 ID:vADGVagl
ちょっと悪い話の気がする
鬼武蔵を通せば信長に斬られ
信長の命令を守れば鬼武蔵に斬られる
関所役人としては回避しようのない絶『対』絶命

信長はその他一般には厳しく処断するけど
親しい奴には滅法甘いからなぁ…

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 22:47:43.41 ID:9dW4fkmE
>>587
関所の役人は武蔵を討取ればよかったんだよ

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 23:47:19.33 ID:vADGVagl
>>588
お気に入りを斬られてぶちギレた信長に斬られるに3000貫!!

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 07:31:15.36 ID:qL0nrU6k
>>587
>鬼武蔵を通せば信長に斬られ
信長はそんなことしないだろ、苦笑いしてあいつ相手ならしょうがないって許すよ

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 08:24:15.48 ID:AwV3CZX4
こうして関所が廃され楽市楽座がすすんだのであった

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 09:10:47.13 ID:Xt7Yd0o4
やらかした時に先んじて自己申告して責任取ろうとする
というのは上から見て可愛い部分かもなぁ

そう観ると鬼武蔵って傍若無人なやばいやつじゃなく
むしろコミュ力お化けだった可能性あるな
vsノブ特化かもしれないけど

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 16:24:41.88 ID:iZ8V0ScY
武士って基本コミュ力お化けじゃないとやってけないものね、コネ社会だし
古武士然とした武士って本来武士としちゃ異端も異端なんだろうなー

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 19:05:41.89 ID:DRGE5Nek
>>590
信長は感情の振れ幅が大きいから可能性は0ではないけど…
お気に入り以外だと怠慢や命令無視として激怒することが多いし
例外の対象は鬼武蔵であって関所役人じゃないし…

信長は京の民心掌握を重視して家中に身分の上下を問わず
京での振る舞いに注意する御触れを何度も出してる
二条城築城時に女にちょっかいをかけていた家中の者を
御触れを無視したと激怒し信長自ら斬り捨てたこともあるからなぁ…

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 08:44:00.65 ID:z9QzQJP3
>>592
気に入ってる幹部の息子だからだろ…

”岐阜”の変転

2020年01月28日 17:47

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/28(火) 13:40:48.67 ID:VFA0F6Hg
永禄七年(正確には永禄十年)九月中旬、織田上総介信長は稲葉山の城に移り岐阜と称した。
この城の麓、常在寺は元の寺領五百貫を召し放たれていたが、由緒ある寺であるので、当住の
日韵上人の申出により日野村にて百貫文の朱印を賜った。
その後、信長は江州安土に城を築いて移り給い、信長長男信忠を岐阜城の守とした。

天正十年六月二日、明智(光秀)謀反にて信長信忠父子とも、京都にて生害の後、岐阜城は
信忠の長男・秀信の後見として神戸三七信孝が当城に住せられた。

天正十一年、柴田修理亮勝家に同意して秀吉と取り合いが発し、そのため三七信孝は当城を去り、
尾州野間の内海にて、二十六歳にて切腹した。この時の乱に、常在寺も兵火にあい、信長より賜った
朱印、そのほか遺物共に焼失した。しかしながら、その後当寺は再興された。

三七信孝の跡に、少将豊臣秀俊(間違い。実際には豊臣秀勝)が住せられた。これは織田秀信の後見であった。
秀勝は朝鮮軍の時、肥前の名護屋へ出陣して、彼の地にて病死した、

慶長五年、岐阜中納言秀信公は石田三成に与して岐阜城は攻め落とされ、終に紀州高野山に入って卒し給う。
この時の兵火に瑞龍寺も炎焼したが再興された。常在寺は信長に賜った日野村百貫文の朱印を、秀信公まで
相違なく給わっていたのだが、慶長五年に秀信公が亡びられた後は寺領断絶し、常在寺に現在残っているものは、
斎藤道三の画像と斎藤義龍の寿像ばかりである。

道三の画像は、信長の北の方が、父のために建立したもので、また義龍の寿像は、その子息である龍興が
建立したものである。
常在寺の本尊である文殊菩薩は、昔長井藤左衛門長弘が本巣郡文殊の城が落ちた時、そこの文殊堂も兵火に
かかった。この時本尊を取り出し、斎藤氏の由緒ある寺なればと、常在寺に安置したものである。

(土岐累代記)

この常在寺に残った道三の画像というのが、有名なこちらですね。
https://i.imgur.com/RPTq9Wt.jpg
1024px-Saito-Dozan-2.jpg



斎藤龍興の没落

2020年01月27日 17:11

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/27(月) 14:05:59.36 ID:evGfP5sX
織田上総介信長はその心中に様々の計略を働かせ、美濃の旗下である稲葉伊予守(良通)を始め、
氏家常陸介(直元))、安藤伊賀守(守就)、不破河内守(光治)を味方につけて内通せしめ、
永禄七年九月朔日(実際には永禄十年)、大軍を率いて濃州へ討ち入り、稲葉山城東西南北に
火を放って焼き立て、息もつかせず攻め戦った。この時葦手の正法寺も兵火の余炎に掛かり
灰燼となった。土岐家数代の旧跡はこの時焼亡し、その後再興する人もなく、正法寺の名のみ残り、
退転した。
この時、瑞龍寺も焼亡したが、この寺は悟渓一派(悟渓宗頓:瑞龍寺開山。大徳寺52世住持、妙心寺
11世住持、妙心寺四派の一つ東海派の開祖)の旧跡であったので、再び再興された。

稲葉山城中は信長の攻勢に叶い難く、斎藤龍興は降を乞うて城を明け渡し、近江へと落ち行き、
浅井備前守長政を頼った。大伯父である長井隼人佐道利も関城へと落ちて、龍興とともに江州へと
落ち、後に越前へ越えて朝倉義景に与し、永禄天正の間、所々にて武功が有った。

龍興は天正元年八月八日、姉川の軍に討ち死にした。(姉川の戦いは元亀元年。実際には刀根坂の戦い)
また長井道利はその後将軍義昭公に仕え、摂津にて討ち死にした。その子は稲葉能登守(信通ヵ)の
家に奉公したという。

(土岐累代記)

後の反信長戦線の印象なんでしょうけど、斎藤龍興が浅井長政を頼って落ちていったという伝承もあったのですね。



どうして信長の命を受けられようか

2020年01月01日 17:32

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/01(水) 05:18:10.53 ID:f2m7axWc
長宗我部元親は、織田信長が上洛する以前より、明智光秀を通じて音信を成し、また斉藤内蔵助(利三)は
元親の小舅であり、故に斎藤、明智は専ら信長に対し、元親との和睦を進め、また元親は加久見因幡守を
使いとして太刀、馬、黄金十枚、鷹を献上した。信長はこれを悦び、元親の嫡男彌三郎に「信」の字を
賜った(これは明智がかねてより信長の申し述べていた故であった)。またこの献上の謝礼として太刀、馬を
元親に贈り、且つ四国は元親の切り取り次第とする朱印状も賜った。

ところが信長の上洛後、讒言をする者があり、「元親の勇名、彼は四国を平らげた後、必ず天下の患となります。」
と説いた。信長はこれに同意し、使いを遣わして元親にこのように伝えた
「阿波半国(南郡)、土佐は元親の領分とする。讃岐、伊予の二州は信長に献ずべし。」
これを聞いた元親は大いに怒った
「四国は私が切り取った国である、どうして信長の命を受けられようか。」と、返報すらしなかった。
これに対し、明智はまた使いとして、斎藤利三の兄である石谷兵部(頼辰)を遣わし、「和議を破るべきではない」
と述べたが、元親の怒りは堅く、明智よりの信長への使いも絶えた。

信長の子である三七信孝が四国を領するために出発し、三好笑岩がその先鋒とされた。信孝は陣を泉州岸和田に
敷き、五月下旬に、三好笑岩が先に阿波に至り勝端を攻め落とし、一宮蛮山に城を築いた。

六月二日、織田信長明智光秀のために弑せられた(四国の違変によって、斎藤利三がその身に災いが及ぶ事を
思い、明智に謀反を決意させたのだと言う)

(長曾我部譜)

いわゆる本能寺四国説ですね



721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 00:24:37.47 ID:8UXIolu7
>>713
長宗我部の国は俺のもの
俺の国も俺のもの

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 03:02:16.34 ID:GqVm1U9D
>>721
まあ、本能寺陰謀論はあくまで陰謀論だからどうでもいいとして、
この頃の信長は北条に対しても非常に高圧的な態度だったのがちょっと不思議。

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 06:26:47.36 ID:OtrX6ndU
北条が甲州征伐で役に立たなかったから?

724 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/02(木) 08:04:35.65 ID:Wcs3LzPY
>>723
むしろ甲斐制圧したからじゃないかしら。
信長って、武田や上杉、毛利に対しても最初は低姿勢だったけど本願寺降したり勢力拡大や地盤固めしていくに連れ高圧的になってくし。

725 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/02(木) 08:08:11.91 ID:Wcs3LzPY
>>724書いてて何となくジョジョの奇妙な冒険3部のDIO思い出した。

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 08:38:24.09 ID:i89aLd10
低姿勢にしてた武田上杉毛利に裏切られて
下手すれば滅亡に追い込まれかけたんだからキレてもしゃあない

727 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/02(木) 08:52:34.82 ID:xZSYssKi
>>726
盟友焼き味噌ダヌキを攻めた武田はともかく、上杉は自分からちょっかい出してませんかね?
毛利も安芸門徒の総本山たる本願寺に頼まれたら嫌とは言えないし。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 09:50:29.58 ID:Uvjf7L6k
>>724
信長だけじゃなくてあの時代のほとんどの武士のメンタルだと思うぞ

信長は京の町衆の面前で

2019年12月23日 18:36

432 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/23(月) 07:50:34.05 ID:njmClHvo
織田信長が若かりし頃の事、尾張統一を果たした1559年、彼は80人の側近を連れて室町将軍・足利義輝との謁見のため上洛する事になった。
その情報を得た隣国の斎藤義龍は好機到来と信長を暗殺するための刺客を選抜して信長一行の後を追わせた。
背後より刺客が迫り来ているとは知らず、京を目指す信長一行であったがこの時美濃からの刺客とは別に、尾張から信長一行を追う者があった。
男色でも知られる那古野弥五郎の配下で丹羽兵蔵と言う侍である。
丹羽と美濃の刺客らは偶然にも琵琶湖を渡る舟の上で鉢合わせ、互いに身の上話をする事になったが、相手の美濃衆を怪しいと感じた丹羽は、三河者を装い巧みに情報を聞き出すと、何と彼らは信長への刺客であると判明。
丹羽は素知らぬフリで京における彼ら刺客連中の宿舎を見定めると、そこに目印(柱を削ったとか)を付け信長一行が逗留する宿舎へ急行。
赤母衣衆の金森長近と蜂屋頼隆に報告。金森と蜂屋が信長にこれを報告した所、信長は美濃の出である金森長近に対し顔見知りも居るだろうから、
彼ら美濃衆に対し信長の元へ「挨拶」に来る様、伝達する旨を命じた。
金森は丹羽に案内され、刺客らの宿舎に向かうと彼らに面会し、暗殺計画が既にバレている事を告げると今なら穏便に済ますから信長の元へ「挨拶」に来る様伝え、刺客らの宿舎を後にした。
刺客らは翌日、今日の町を見物中の、信長と対面。信長は彼ら美濃衆に対し京の町衆の面前で

「この信長を殺しにわざわざ美濃より参った事、祝着至極である。だが、そなたらごときがワシに歯向かうのは蟷螂の斧が如しである。それでもやるかね!?」

と、啖呵を切った為刺客の者達は信長に対して詫びを入れると、はうはうの体で美濃へと逃げ帰ったと言う。

(信長公記)(名将言行録)

余談であるが、丹羽兵蔵が暗殺計画の情報を引き出したのは、刺客一行のなかの最年少の童であったと伝わるが、その方法が如何様な物だったのかは伝わっていない。



434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/23(月) 08:05:55.81 ID:1nldD7ts
>>432
原哲夫に採用されそうだな

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/23(月) 08:39:56.69 ID:z+pALg4m
信長公記の若き信長暗殺計画といえばまとめの2907
信長暗殺計画~比良の奥地に大蛇を見た!~

池の水、全部抜く
みたいな話があったっけ

437 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/23(月) 12:37:50.41 ID:DNuEgi6u
>>434
調べ直したら、30名くらいの徒党組んだ刺客集団を率いる6名の武士(小池吉内、平美作、近松田面、宮川八右衛門、野木次左衛門)に出会した丹羽兵蔵が、ただ事では無いと感じ、三河の人間を名乗って接近するも斎藤義龍の大事な用事とだけ答えて、後は喋らない。
そこで丹羽は賢い子どもを手懐けて、言葉巧みに彼らの目的を聞き出させた後に刺客連中の宿所を突き止め、金森長近と蜂屋に報告。
信長は金森長近を遣わし、金森は旧知の美濃衆に対し信長は君ら美濃衆の上洛知ってるから自分を挨拶に遣わせた。明日返礼の挨拶に来いと伝達。
ビビった美濃衆は指定された京小川表の管領屋敷で信長と対面して、>>432の通りの啖呵を切られてその迫力に黙り込み退散。
その後、信長一行は近江から念のためルートを変えて八風峠を越えて尾張に帰還。と言う流れの様だ。

そして信長公と御当家の間は手切れと成った

2019年11月24日 17:27

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/24(日) 11:57:49.42 ID:QkJb/iy2
織田信長公が大坂(本願寺)を取り囲んでいた時、大坂は御当家(毛利)に対し
『是非とも頼み申す。兵糧が続くことが第一なのです。何分にも頼み奉ります。』
と頻りに要請があり、このため二度にわたって兵糧を大阪に入れ、そしてこのために
信長公と御当家の間は手切れと成った。

信長公は伊勢の九鬼大隅(嘉隆)に命じて、河口に大船二艘を据え置き、城のように
配備した。そこに毛利家は芸州の警護船を差し上らせた。そしてかの二艘の大船を共に切り崩し、
兵糧を入れた。しかしながら織田方は信長公の命により大阪周辺に数多の付城を作らせ、
特に茶臼山に塙九郎左衛門(原田直政)を置いて諸口を手堅く保たせており、この包囲を
破ることは出来ず、大坂方は逼塞した。これについて御当家も木津に一城を造らせここに
粟屋内蔵丞を置いた。児玉内蔵大輔は御家中の警護船の運用をよく知っており、度々大阪表に
詰めていた。兵庫花隈城もこちらに従う事になり、杉次郎左衛門を置いた。

そのような中、城介殿(織田信忠)がこの方面に出陣してきたため、乃美宗勝が淡路より
加勢として入った。同じく桂民部大輔も罷り越した。

城介殿は人数三百程にて未明に城近くまで寄り掛かり、これを攻略しようと考えていた。
城中の者達は攻撃を覚悟していたのだが、どうしたわけか、晩の七時(午後四時頃)に
撤退した。これに城中の者達は尽く寛いだ。

(老翁物語)

大坂本願寺攻め、特に第二次木津川口の戦いに対する毛利の認識。毛利としては、有名な信長の「大船」
は毛利の船団が切り崩し兵糧の搬入に成功した。ただし原田直政を中心とした陸上での包囲が固かった
ため攻勢に出ることが出来なかった。そのように受け取っていた模様。



信長一味の家康が遠き輝虎を

2019年10月29日 16:52

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 00:31:24.89 ID:DgcMBnn4
元亀三年正月二十八日、越中の椎名肥前守(康胤)方より(武田信玄へ)注進があった。その内容は、

『去年三月、徳川家康が越後の上杉輝虎(謙信)に二人の使いを以て起請を頼み入れ、謙信もこれを喜び、
家康に対し無沙汰あるまじと誓言したと言うことを確かに承った。家康より謙信への進物は唐の頭一頭、
輝虎は御返礼に月毛馬一疋を進呈した。

この事について長尾家の衆はこのように言っている。今回のこと、定めて家康が味方が信長だけでは頼り少ないと
考えた故であり、輝虎にとって喜ばしいのは、家康を旗下にするという事で、北国は言うに及ばず、都までの
信長の威光が振るわれている国々に於いても、謙信の弓箭が強いからこそ信長一味の家康が遠き輝虎を
頼んだのだと評判に成るであろう、と。

そういう事であるので、今年は謙信が信州に出てくることは無いであろう。』

という注進であった。

(甲陽軍鑑)

武田家に報告された上杉徳川同盟についての情報



287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 06:46:32.36 ID:MTRMYDbr
「唐の頭に本多平八」ってやつやな

翌年の四月十二日になって思い当たった

2019年10月27日 16:53

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/27(日) 14:07:37.07 ID:lugWOShB
元亀三年の正月二十一日に、武田信玄公は法華宗身延山へ御使を遣わされた。その子細は、
去年織田信長が叡山を焼いた事により、身延を新たな叡山になさろうと考えられ、身延山を
御所望になられた。そしてその代わりとりて長野に寺を建て、今の身延より大きく御普請仰せ付けられ、
それを相渡すとの仰せであった。

身延山の各出家は御返事に、「日蓮聖人の御影の前で鬮を取った上で結論を申し上げる。」と、
鬮を三度、五度、七度まで取ったものの、合点の鬮を得ることはなかった。
その上山が変わらない祈念として、壱萬部の法華経を読んだ。また不思議なことに日蓮聖人の
御告げが多く有ったと沙汰された。

しかしそのような事を信玄公は知らず。是非身延を東の叡山にするべきであると内心定められていた。
「出家に悪く当たらぬ物」と言うが、これは翌年の四月十二日になって思い当たったものである。
武田信玄は元亀四年四月十二日に病没した)

(甲陽軍鑑)



上見ぬ鷲

2019年10月19日 17:28

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 13:45:37.91 ID:tJZLWrU3
甲州征伐の後、織田信長滝川一益を関東管領としたが、この時信長は関東における一益の行動に
便利なように、総州の千葉介胤富を一味につけようと(ただし千葉胤富は天正七年に死去している。
後を継いだ千葉邦胤との混同であり、以下邦胤とする)、書状に名馬一頭を添えて使者を出した。

ところがこの書状を見た千葉介邦胤は、その内容が無礼であると激怒した

「甲州の武田が没落し、小田原の北条も織田へ付いたからと言って、上見ぬ鷲(鷲は他の鳥を恐れず、
警戒のために空を見上げる必要がない。何も恐れはばからぬさま)の思い上がりである!
このような書状をよこすとは奇怪至極、たとえ総州の千葉介邦胤小国とは言え右大将頼朝公以来の
名家であり、関八州に於いていずれの列侯が、わが千葉介の上座に座るというのか。
一時の武威に奢り、誰もが彼になびいて来ると思っているのだろうが、以ての外である。
返事に及ばぬ!」

そう言うと信長が贈った馬の尾を切って道へ放り出し、使者の頭も剃り上げて厩橋へ追い返したという。

(関八州古戦録)

どれだけ無礼な書状だったのか。



271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 19:42:04.34 ID:T3laPqfw
馬が可哀想だと思いました

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 20:53:47.18 ID:YAAZcgX4
一応文章は丁寧だったんじゃないかと推測
信長はその辺バカじゃないし、千葉側も情勢を知ってるし
・人質の要求
・回答期限があった(せかした)
・領地替え
怒るとしたらこんなとこ?

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 21:35:28.80 ID:vgH2YXzB
そもそも関東管領にしたって時点で創作だろ

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 23:00:55.59 ID:8Bh4YjPD
別所もそうだけど武士の意地で勝てない戦やらされる家臣はたまらんかったやろうねえ

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 23:05:53.47 ID:zpNVJK7z
戦国時代は割と簡単に主君を見限ったりするんじゃなかったっけ

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 23:56:14.14 ID:vgH2YXzB
メンツは命より大事ってのは前近代では普通だったからそこは仕方ないけど

皆もこのざまを見ろ

2019年10月18日 17:06

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/18(金) 13:57:46.00 ID:mXMwVoJ5
信濃国安曇郡吉田の城主である木曽左馬頭義昌は、武田信玄の妹婿であり(実際には娘婿)、
信玄の無二の幕下であった。しかし信玄亡きあと、その後を継いだ勝頼と不和に成った。
そこで勝頼はこれを攻め滅ぼさんと、武田逍遥軒(信廉)に小山田備中守昌行、横田十郎兵衛守昌などの
部将を付けて出陣させた。もちろん木曽義昌にも油断はなかった。

天正十年正月二十八日、敵味方の激しい戦いが始まった。木曽方で奈川の城主・木曽兵部丞仲親、および
今井丹波守などの働きで、武田方は一旦退かざるを得なかった。

この間に木曽義昌は岐阜の織田信長に助勢を請うた。それについて、甲州乱入のための手引をしても良いと
伝えた。信長は大いに喜び、嫡子秋田城介信忠に先陣を命じた。
信忠は五万余騎を率いて二月十二日に岐阜を出発し、信州伊那郡高遠へ押し出した。
加勢の徳川家康も、三万騎を率いて二月十八日に遠州浜松を出た。案内役は穴山陸奥守入道梅雪庵で、
富士の麓の川内通りから市川口へと押し出した。
これらに続き信長も、三月五日に七万余騎を率いて安土を出た。

武田家は新羅三郎義光以来の甲斐源氏の頭領として、現在数ヵ国を領している名高き大名である。
それをただ退治するという事では名目が立たぬと思ったのか、信長は前関白である近衛前久公を
担ぎ出した。一見朝敵征伐に見えるからである。人の口を塞ぐ信長の策であった。

三月十三日、信長の軍は信州根羽駅に着陣、翌十四日波合へ軍を進めた。十日には既に、城介信忠の名で
関喜平治、桑原助六郎の二人を降伏を促す使いとして出していた。
織田方の先陣は滝川左近将監一益、川尻肥後守秀隆であった。

そして甲州田野郷天目山に頼る所もなく彷徨っていた武田大膳大夫勝頼とその子太郎信勝は、
織田方に捕えられる前に自害した。

彼等の首実検の時、信長はこのように言った。
「そなたの父信玄は、平生言葉に表裏があり、無礼無道であったため、その天罰が子孫に当たったのであろう。
こうして数代の領民を失い、かような仕儀となった。お主も思い知ったであろう。
皆もこのざまを見ろ。快いことではないか。」

(関八州古戦録)

関八州古戦録における、武田家滅亡についての記事。



521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:06:09.16 ID:A+Lsgv+W
>>520
このあとすぐに本能寺の変が起きるんだから皮肉というか面白いというか

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:29:00.86 ID:YAAZcgX4
文章から信長の絶頂点を感じる
強すぎて誰もかなわない感覚

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 11:23:30.95 ID:meTP904Y
5万3万7万で15万か
絶望しか無いな

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:26:36.49 ID:gY8uFqPv
「お前の父親は京入りが念願だったそうだから、お前に父親の願いを叶えてやろう」
と言った話も。なんて優しい信長

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:39:26.70 ID:Dc3TRckH
>>520
これだけで得々と先導する穴山梅雪って印象が出るのは何なんだろ
ああゆう末路になるわなあって感じの

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 14:11:28.28 ID:rHW680I5
そういえば、平清盛の絶頂期だった安徳天皇の即位から平氏滅亡も早かったよなぁ。
都落ちまでは3年、壇ノ浦まででもたったの5年。
執権北条氏も元弘の乱までは絶頂期で、それから2年で滅亡。

それを考えれば豊臣家は長生きしたほうなのかもしれない。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 09:16:13.25 ID:OKDUeII+
江戸幕府に比べるとスカスカの体制でよくあれだけ保ったなと
石田とか増田やらの奉行衆がよっぽど有能だったんかね

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 19:17:00.09 ID:CFGmSaJm
秀吉存命中に力を見せつけたおかげで、豊臣による秩序が生まれたから。

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/21(月) 15:14:52.67 ID:nRo1POF0
石田三成に人望さえあれば…

重ねを厚く、大平に御打たせなさり

2019年08月26日 19:36

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/25(日) 18:02:06.81 ID:lxfhKvwH
ある時に信長公は御成敗人(原注:信長の舎弟・武蔵(織田信勝)という)を仰せられた。仕手
(刺客)は討ち損じて(原注:3人に仰せ付けたが、討ち損じたという)かの者が逃げるのを、
廊下で勝入様(池田恒興)が刺し殺しなさった。

その後、(恒興は)御家来どもに御物語りされ、「脇差は何が何でも手強きものを用いるべし」
と仰せられ、前述の時は薄き御脇差で、ひわひわして(細く弱々しい様)御難儀であったとして、
その後に新身を大道(刀工の名)に重ねを厚く、大平(大平造)に御打たせなさり、御陣刀に御
用いとなられた。

御討死の時まで御差しになられ、今は永井家にあるはずである。

――『烈公間話』



159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/27(火) 12:56:02.40 ID:lqWpBlnz
まあ実際使うのは脇差の方かもしれんな

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/27(火) 13:19:00.08 ID:4VVq4NdH
上意討ちされても脇差でなら反撃してもいいとか面白い決まりあるよね

信長の唐櫃

2019年08月04日 15:51

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 15:12:01.37 ID:20SiqXwU
霜月21日(1567)に織田信長より織田掃部助(忠寛)を使いになされ、「信玄公の御料人(松姫)が
御歳7歳になられるのを承り及び、信長の嫡子・城介(織田信忠)の内方に申し受けたい」と仰せ遣された
のである。武田の家老衆各々は寄り集まって談合し、信玄公へ申し上げられるには、

織田信長はすでに34歳に罷りなられ、27歳の時に義元を討って庚申より去年まで7年の間に美濃・尾
張を治めて今は美濃岐阜に居住されています。

殊更今年は公方の霊陽院殿義昭公を都へ御供申し、信長の被官の柴田修理(勝家)・野村越中の両侍大将を
都に付け置き申されているので信長は望みも多く、万一どのような謀で信玄公と縁を結び申したいと申され
るのかも分かりませんので、これはまず差し置きなされ」

と諫め申し上げた。信玄公は聞こし召して、

「それは各々の意見もっともであるが、近年信長が信玄に入魂仕りたがることは少しも偽りには見えない。
その訳は、信長が音信に小袖を送り、信玄の召すものを格別に致すと言って入れて送った箱を削らせて見る
に殊の外の堅地で、蒔絵も我が家の菱を同じ具合になしたのは、町物ではなく念を入れて、わざわざ申し付
けたと見える。勝頼と縁者になる2年前からこの如くである」

と仰せられ、各々にその唐櫃を取り出させ、年々のを見せなされば仰せの如くである。信玄公は仰せられて、

「人の真実・不真実は音信で知るものである。1度や2度は念を入れるとも、3度までは主か親を除いては、
その他の只の者には重ねて念を入れることなど小身な者でさえしないというのに、ましてや国持ちは自分も
人も事が多いので、年々このようにはならない。

信長は1年に7度ずつ必ず使いを送る。それでさえもこちらから使いを遣るならば、その返報とも存じよう
が、2年に1度でもこちらから人を遣ることはないというのに、親主の如くに信長が仕るのならば、縁者に
信玄となりたいと信長が存じるのは一段と真実であろう」

と仰せられ、御合点あって御返事なされた。そうして織田掃部が長坂長閑(光堅)を介して申し上げ、「こ
の上は細かな事をも申し上げます。私めに万一暇があって、佐々権左衛門や赤沢七郎左衛門が参る時は誰を
介して申し上げるべきでしょう」と申せば、信玄公は仰せ出され「高坂弾正に付いて申せ」とのことだった。

掃部はまた申し上げる。「高坂弾正殿は信州川中島に罷りおられますが、甲府に弾正がおられぬ時に川中島
まで参るのもいかがなものでしょう。小事で大名の弾正をここまでというのも申し悪いので、御膝下で奏者
を仰せ付けられれば、その上でも大あらましの事は高坂弾正殿へ申します」と織田掃部は申すので、原隼人
佐(昌胤)・跡部大炊助(勝資)両人を仰せ付けられ、織田掃部と原隼人・跡部大炊助を長坂長閑のところ
まで呼んで引き合わせたのである。

掃部は甲府に長く奉公仕った故、両人とも知人である。中でも跡部大炊助は織田掃部が信玄公へ御奉公申し
た時の奏者である。ことさら掃部が岐阜へ帰り、やがてその年11月中旬に御祝言の御樽肴を持たせて甲府
へ参り、御祝めでたきことである。よって件の如し。

信長より信玄公への御音信は、
一、虎の皮3枚 一、豹の皮5枚 一、段子百巻 一、金具の鞍鐙10口 以上。

御料人様への御音信は、
一、厚板百端 一、薄板百端 一、緯白百端 一、織紅梅百端 一、代物千貫 一、毛掛の帯上中下3百筋。

この他御祝の御樽肴は作法の如くで、御使は織田掃部助である。

――『甲陽軍鑑』



132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 16:57:51.98 ID:W6PzTXQ5
そんな信長を平然と踏み潰そうとする信玄公

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 16:59:53.94 ID:w2LBZ5n+
その頃は信長のがデカいのにその表現は

四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのである

2019年07月31日 18:54

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/31(水) 18:17:56.42 ID:Yj3Qypa8
永禄8年乙丑(1565)9月9日に、尾州織田信長公より織田掃部(忠寛)という侍を甲府へ御使に
遣しなさり、信玄公へ仰せられるには、

「恐れ多い申し事ですが、去る申の年に駿河義元公が信長を踏み潰しなさろうとして尾州へ発向なされ、
勝利を失って殊に討死なさり、その勢いをもって我が本国は夏秋中に信長に従い、その暮れより美濃国
へ取り掛かって今年まで6年ですから、大方今年か来年の間には、美濃国も信長が支配仕るでしょう。

そこで信玄公が御持ちの木曽郡と隣続きになりますので、所々の往来も互いに申す事がないように伊那
の四郎勝頼公へ信長の養子の娘(龍勝院)を進上したいのです。

この女子については、信長の父・弾正忠(織田信秀)存生の時に、美濃国の苗木勘太郎(遠山直廉)と
いう侍を婿に仕り、すなわち信長にとっては妹婿でして、昔より美濃国苗木の城に居住しております。

かの者(直廉)の娘を幼少から信長は養い置き、姪女と申せども実子よりは労わっています。信長には
息女もおりますが、私めは今年32歳なので惣領の男子でさえ10歳程で、20歳になられる四郎殿の
内方になるべき息女を持ち申しておりません」

と諸々の信長の申されようあって、乙丑霜月13日、苗木殿の娘で姪女と信長は養親になって伊那の高
遠へ御輿入れし、四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのである。

また御使を仕る織田掃部は信玄公に11年召し使われ、5年前の辛酉11月に信長が呼び返しなさった
尾州侍で、しかも信長譜代の侍であるが、信長18歳の時に気に違えて11年甲府に罷りおり、信長2
8歳の時に召し返された。

信長公より信玄公へ御使の人は織田掃部・赤沢七郎左衛門・佐々権左衛門(長穐)。この3人は正月・
3月・5月・7月・8月・9月・極月の7ヶ月に樽肴・巻物・袷帷子を贈り、殊に信玄公の御召し料に
と御小袖1重ずつを格別に武田菱を大きく蒔絵した。この紅で緒をしめたものに、御頭巾1つ・御綿帽
子2つの合い3色を、これも小さい蒔絵をした箱に入れて、甲府へ信長は御音信申されたのである。

信玄公より信長公への御使は秋山十郎兵衛であるが、1年に1度でも御使を遣しなさるのは希であった。

――『甲陽軍鑑』



125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/31(水) 20:31:38.19 ID:zlGD2hC1
さすが信長

家康の事は良きように頼み入ります。恐惶謹言。

2019年07月29日 17:29

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/28(日) 23:37:06.23 ID:wJxV0U2v
(永禄13年)

駿河田中に御逗留の間に、織田信長より佐々権左衛門(長穐)を使者にして御音信があった。唐の頭20・
毛氈3百枚、そして猩々緋の笠。これは4年前に公方の霊陽院殿(足利義昭)と都へ御供仕り征夷将軍に備
え奉った時のもので、「弓矢に縁起の良き笠です」と信長は申されて、信玄へ送り進上なさった。

信長の使者がいる所で土屋平八郎(昌続)にその笠を下され、「信長の武辺にあやかれ」と信玄公は仰せら
れた。唐の頭は奥近習衆に下され、籤取りを仰せ付けられた。そうして2月下旬に江尻へ御馬を寄せなさる
と、江尻までまた織田信長より飛脚を御越しになされた。その御状は、

 三河岡崎の松平家康(徳川家康)は、私めが取り分けて目を掛けている者ですので、御引き回しを頼み
 入ります。そこで、その地に今川殿へ前々より差し置いていた家康の弟(松平康俊)を召し置きなされ
 ているそうですが、幸いですので家康の人質として甲府まで召し連れなさって、御心安く御用などを仰
 せ付けられますようにと、家康も私めの方へ申し越していますのでこの次第です。家康の事は良きよう
 に頼み入ります。恐惶謹言。

   2月18日                           織田上総守
      甲州法性院殿 人々御中                      信長

――『甲陽軍鑑』



三ヶ所手が違った

2019年07月23日 15:51

千利休   
106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/23(火) 01:23:47.89 ID:3NtwR41t
織田信長殿には、天王寺屋宗及が台子の茶湯をお教えした。
ところがこの宗及の茶湯を宗易(利休)が批判をしたとの噂が耳に入られ、信長殿は宗易を召して
台子で茶を点てさせた。

信長殿は立ちながら宗易が茶を点てる様子をご覧になり、「三ヶ所(宗及のやり方と)手が違った。」と
仰せになった。
宗易はこれに「その事でございますが、このように致しますと手間が入って悪くございます。また
こうすると手がねじれます。」と、一ヶ所につき三つほどの理由を申し上げた。

この事が有ってから、宗易の名が天下に上がったという。

(三斎伝書)



107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/23(火) 14:14:37.91 ID:wFZ44Ll2
マナー講師の戦いみたいだ

108 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/07/23(火) 15:31:01.11 ID:3VAbEL3P
信長は合理主義だから無駄が嫌い
でも一見無駄と思えることに意味を持たせるのが侘び寂びでもあるんだよね
そういうのは信長に教えずに秀吉にしたり顔で教えた

ただし一ヶ所、下手な部分が

2019年07月16日 15:51

千利休   
90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/15(月) 21:11:40.97 ID:Utl8jJEh
当時、北京大仏(方広寺)の小屋場で茶会が盛んに行われていた。
ある時、天王寺屋宗及が「利休と三斎公(細川忠興)の両人へ御茶を差し上げたい。」と言われた。
この時、利休は聚楽の屋敷に居り、三斎公が「泊りがけで私の小屋へ今晩御出下さい。」と
申した所、「そういたしましょう」と同意された、「それでは先に参り掃除を致します。」と言って
三斎公は帰られた。

早くも五つ時分(午後八時頃)に利休は三斎公の小屋へ御出になり、そのまま雑談をされた。
夜に入り大雪となったが、利休は九つ時分(深夜0時頃)に、「もう参りましょう」と出かけられた。
この時三斎公はそっと人を宗及の所に遣わしてこれを知らせたが、宗及の方も予期しており、既に
露地口を開けて迎えに出ていた。そこから灯籠の火が見えた。夜なので手水柄杓は置かれていなかった。
雪の掃除は難しいものだが、この時は習いの通りの見事なものであった。

席入すると、床の中央に千鳥の香炉が盆にのせず置かれ、また床の勝手の方には堆朱の香合があった。
客が席入してから、宗及は香炉を下ろした。この上げ下ろしには習いが有る。
宗及が香を焚くと、利休はその香銘を尋ねた。宗及は「月」と答えた。
続いて利休が香を継ぎ、宗及が同様に香銘を尋ねた所、利休は「もちろん東大寺(蘭奢待)です。」
と答えた。

さて、利休が香炉を床へ上げるよう宗及に言った所、宗及は「私が下ろしましたので、利休様が
お上げ下さい。」と申したため、「それでは」と利休が上げた。
それから炉中を直し、この茶会は宗及一代の上出来の数寄となった。

帰りに三斎公は自分の乗物に利休を乗せ、自分は乗物の脇を歩いた。
利休は「今日は宗及一世の上出来の数寄でした。ただし一ヶ所、下手な部分がありました。
見つけられましたか?」と言われたが、三斎公はそれが解らなかった。
利休は言った
「月の香を焚いたのがいけません。月に雪という発想は平凡で悪い。よって東大寺の香を
焚かねばならないと思い、私は東大寺を継いだのです。」

三斎公が乗物から降りて利休を乗せ、自身はその乗物に付いて歩かれるのは毎度のことであった。
その朝は大雪であったので、宗及は手洗鉢へ水を入れず、くぐりの前に手付きの水、次に湯を入れ、
新しい盥を添え置いてあったとの事である。

(三斎伝書)

信長の蘭奢待切り取りの時に利休も分け与えられたとは有ったけれど、それを茶会に使っていたのですね。



95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:34:25.20 ID:Krpjzwco
利休は性格悪いエピソードしかないのな

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:40:11.71 ID:A8uhVPMk
商人ですからなぁ

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:55:51.62 ID:6H5Y9heX
>>95
利休を嫌われものの銭ゲバとして描いた作品あったなぁ。
真田丸の利休も石田三成や大谷吉継から蛇蝎のように嫌われる俗物という描写だったような。

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:55:51.62 ID:6H5Y9heX
>>95
利休を嫌われものの銭ゲバとして描いた作品あったなぁ。
真田丸の利休も石田三成や大谷吉継から蛇蝎のように嫌われる俗物という描写だったような。

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 22:29:05.32 ID:5gA42Ipr
切腹言われても仕方ないわけですね

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 02:26:28.35 ID:z7/Ij/C3
利休と芭蕉は食えないからなw

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 12:22:51.24 ID:KpYWaZEK
芭蕉の利休煮か

若はいとこにておはせしを妹と披露して

2019年07月14日 16:59

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/14(日) 00:52:23.62 ID:bpKXLKyV
御所の御台所(崇源院。お江)は、贈中納言藤原の長政卿(原注:浅井備前守殿の御事なり)の
御娘で、御諱は“達子”と申す。御母は織田右府(信長)の御妹(お市の方)なり。

(原注:諸書に記すところは皆“妹”という。ところが溪心院という女房の消息(『溪心院文』)
を見たところ、信長の“従姉妹”であるという。あるいは従姉妹でいらっしゃったのを、妹と公表
して長政卿に送られたのであろうか)

(諸書にしるす所みな妹といふ。しかるに溪心院といふ女房の消息を見しに信長のいとこなりと
いふ。若はいとこにておはせしを妹と披露して長政卿にをくられしにや)

――『以貴小伝』