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『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編

2020年09月17日 18:24

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/16(水) 23:25:16.98 ID:n0r3Rbm9
『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編
(松平康親(左近、周防守)家臣の語ったことで、その覚えていることを記した記録。まとめにあるものは省いています)

・剛毅で鳴らした竹右衛門の初陣
永禄年中、三河東条の近所、横須賀というところに敵が屋敷を構えていた。竹右衛門が押し入ったところ、障子をあけた場所に木戸をつくり、侍2人が差し向かって弓で防いでいた。
竹右衛門が召し使っていた者1人がそこに走り入り、脇差しを抜いて木戸を押し破り、主従で踏み込み、弓を持った武者1人を竹右衛門が切り伏せ、首を取った。
竹右衛門は17歳、まだ権平次と名乗っていたときで、初陣の働きだった。

・姉川での手柄と秀吉
元亀元年夏、織田信長に越前衆が敵対し、近江において合戦があった。
家康が加勢し、松平左近もお供した。その陣で竹右衛門の弟、五味右衛門が馬上の敵と組み合ったとき、ともに馬から落ちた。
五味は若年だったので(落ちた地面で)下に組み敷かれてしまった。そこに竹右衛門は乗り寄せ、馬より飛び降り、上に乗っていた敵を引き破って下に組みふし、五味に世話をして討たせた。
そのとき竹右衛門は葦毛の馬に乗っていた。
太閤はそのとき藤吉郎秀吉と名乗っていたが、馬上30騎ほどで控えており、竹右衛門の働きを見ていた。
秀吉は使いをやって「あなたはどこの侍ですか」と尋ねてきたので、「家康麾下の松平左近家臣です」と答えた。
その後、帰陣し、秀吉が「上方」(山の上の寺の意か)で、「姉川合戦において葦毛の馬に乗って働いていた武者は名乗り出なさい。必ず召し抱える」と言い出した。
帰陣した家康は、竹右衛門が寺に登るべきかと尋ねると、父の伊賀守がこれを聞き、「譜代の主人を捨て、いかに大身になろうとも本意にあらず」と腹を立て、この申し出を受けなかった。
(上方はそのままの意味かもしれませんが、前後のつながりが不明)

・弟の死と倍返し
遠江浜松での合戦で、竹右衛門の弟、五味が討ち死にした。
その日、竹右衛門は同所におらず、この顛末を無念に思い、「この敵を討たなければ、二度と三河に帰らない」旨を仲間に堅く申し置き、ただ1騎にて久野前に出陣した。
すると、武田信玄方の武者が1騎、物見と思えたが、乗り出してきた。
竹右衛門はすぐに掛かり合い、敵を討ち、「五味のかたきを討った」と喜んで浜松に帰陣した。
「まれな働きである」と左近から褒美をいただいた。

・先にもありますが、やっぱりこの時代は騎馬で戦っていた
駿河へ家康が出陣したとき、先手を左近が命じられた。
安倍川の中程にて竹右衛門は敵に乗り向き、馬上より切り落とした。
その武者は切られて川下へ流されていったところ、服部小十郎という者に「その首を取りなさい」と言った。
小十郎に功名を取らせ、そのまま田中八幡山へ同道し、家康にお目見えした。



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『老人雑話』より、信長?の意外な発明など

2020年09月10日 18:11

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/09(水) 22:11:14.28 ID:uTWXNuJz
老人雑話』より、信長?の意外な発明など

・お弁当箱
織田信長の(初期の)時代には弁当というものはなかった。安土城ができて、弁当というものができた。小芋くらいの大きさの中にいろいろなものを詰めていたそうだ。
信じない者がいそうだが、また挟み箱というものもなかった。挟み竹というものを使っていた。
挟み箱は大坂の(織田一族)津田信成が初めて作ったそうだ。

・江村老人が見た信長、細川忠興、そして思い出
織田信長は二条御新造を築き、将軍の足利義昭を従えて慶賀の能があった。「老人」(江村専斎)も4歳くらいで、乳母に抱かれて見物した。
その日、信長は自ら小鼓を打っていた。細川忠興は私よりも年が上で、6歳くらいで猩々を1番舞っていた。
そのとき、帰りに門外にて盗人に(乳母が担いでいた?それとも持ち物の?)後ろのひもを切られたことを覚えていると語った。
その頃、盗人は小柄・笄などを抜き取ることがあった。このために盗人を「ぬき」といった。いまの「すり」と同じことだ。

・三斎さまの母もファッション発明家
木綿足袋がいまのような製法になるのは、細川忠興の母(沼田麝香)が初めて作り、忠興の茶会に出るときに足が冷えるので履いたそうだ。

・自分の昔を思い出した?太閤秀吉
あるとき、太閤秀吉は宇喜多秀家の屋敷で能見物を楽しんだ。
庭に降りるとき、家康が先に降りて(秀吉の)草履をそろえた。
秀吉は家康の肩に手を置いて、「徳川殿に草履を直させるとはねえ」と言ったという。



527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/09(水) 23:24:45.40 ID:UVHCOss5
>>526
こういう話好きだわ

528 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/10(木) 15:27:01.51 ID:k5JSoFGR
一番下の、家康が嫌味なやつになってない?

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 15:57:50.37 ID:Ffsvj1im
妖説太閤記で
家康が秀吉の草履を揃えて秀吉が
「わしもとうとう家康に草履を揃えさせるまでになったか」
と大喜びするシーンがあったけど

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 21:21:32.16 ID:c8+1bs8C
しかしまさか脱ぎっぱなしで放ってあった訳でもあるまいに礼儀的に草履に手を添えてみたぐらいかな

『老人雑話』より、秀吉秘話を選録

2020年09月04日 18:40

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/03(木) 22:22:52.08 ID:1dFb0oYm
老人雑話』より、秀吉秘話を選録

・産出量を超える松茸
山城の国に山里というところがあり、(太閤秀吉から)梅松という僧侶が預かっていた。新たに松を植え、程なくして松林ができあがったので、秀吉に松茸を献上した。
秀吉は笑って、「私の威光がまったくなかったとき、私も(信長に)何度か松茸を献上した。実はよそから買って献上していたのだ」。
秀吉は側近の者に「もう松茸を献上することはやめさせなさい。(松茸が)生えすぎている」と言ったそうだ。

・大清洲捜査網
秀吉がはじめ、微賤の者だったとき、(中間?)衆の間で刀がなくなった人がいた。秀吉は貧しかったので、人々は秀吉を疑った。
これによって秀吉は城下の民家をあまねく尋ね歩き、質屋にあるのを発見した。(質屋に)尋問して盗んだ犯人を捕らえ、信長が狩りに出るときに訴え出た。
信長は感じ入り、初めて微禄を与えたそうだ。

・中国大返し、政宗っぽい秀吉
明智光秀織田信長を討ったとき、秀吉は軍を返し、途中の尼崎の寺に入り、「法体」(出家)して京に上った。「素衣白馬」(死を覚悟)の心だった。
その寺にはいまも寺領があるという。

・信長へのはったりと大ウソ
松永久秀が(信長に謀反して)籠城したとき、信長は討手に秀吉を派遣した。
その後、秀吉から書状で信長に(攻撃前から)注進しようとした。
「何日には総構えを破り、何日には二の丸を破り、何日には久秀の首を取った」。
(秀吉の)右筆が「これで大丈夫なのですか?」と聞くと、秀吉は「この通りにならなければ信長様は私を殺す。もし計画通りにならなければ私は死ぬ」。
(秀吉は)そのスケジュール通りに「無理に討破り」、久秀の首を箱に入れて信長に届けた。
信長が言うには「この首は偽物だろう。久秀は首になっても私の前に出てくる者ではない。秀吉が(誰かの首を)たばかって送ってきたのだろう」。
箱を開いてみれば、まさにそうだった。
久秀は最後まで降伏せず、鉄砲の火薬に火をかけて焼け死んだ。

※北陸遠征で無断帰陣したあとだったので、ハッスルしたんでしょうか?大将は信忠ですけど



『老人雑話』から2話

2020年09月03日 16:20

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/02(水) 21:55:37.14 ID:nhGZs0se
老人雑話』から2話。豪放磊落な人と秀吉の底意地?の悪い話

織田信長の家臣、市橋下総守(長勝)は「放狂の者」だった。(名門である)若狭の武田家より信長に使いがあったとき、(武田家の使いは)広間で威儀正しく控えていた。
市橋が広間を覗いたところ、いかにもすました有様だったので、「見たくもなき奴也」と思った。
そこで使者の前に出て、寝転んで足を使者に向け、手で陰嚢をたたき、「御使者、これほどの(大きな)餅をどれほど食えるか?」と言い放った。
信長は後で聞いて笑いが止まらなかったという


秀吉が小田原の役のとき、関東の地図を見ていて、家康が近侍していた。
このとき、真田昌幸(原文では「阿波守」)が末席にいた。
秀吉は「昌幸、こっちに来て地図を見ろ。おまえは中山道の先手に申しつける」といった。
昌幸は信之の父で、家康と意趣があって仲が悪かった。
その後、秀吉は昌幸を近くに呼んで、「おまえは家康に礼に参じて仲をよくしなさい。長いものには巻かれよ」といった。
(さらに)「長い距離を出陣中で不如意だろう」と袷20枚を進物として与え、富田一白を供に添えた。
家康も「太閤のおっしゃることならば」と仕方なく対面した。
その後に家康が一白に会っていうには「先日(昌幸との対面)のことは仕方ない。今度は石川数正がこのように面会してこぬように太閤様に取りなしを頼む」。
石川とも大いに意趣があって、仲が悪かった。しかし、石川も秀吉は小田原の陣中で家康へ礼に参らせたという

そりゃ、東照宮はどっちとも会いたくないですよね、まして石川数正は。秀吉の配慮なのか、嫌がらせなのか?



見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後

2020年08月31日 19:05

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:11:12.37 ID:Zlebf2X1
見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後
長いので二つに分けます

斎藤内蔵之助と那波和泉守は、二人とも稲葉一鉄に仕えていたが、仔細あって両者浪人し
た。両人光秀と内々懇意であったため、光秀を頼んで信長公に訴えた。信長公が一鉄に詫
びて、那波は帰参したが、斎藤は少しわけあって切腹を命じられた。しかし、光秀が信長
公のそば仕えの猪子兵助を頼んで、斎藤を家臣にした。

明智光秀が没落して家臣が四散するなか、斎藤内蔵之助は近江に逃れたが、堅田で捕らえ
られた。太閤は三井寺の客殿の前に座を据えられ、内蔵之助を引き出してこう言った。
「お前は一鉄入道のところで不行跡があって勘気をこうむったが、光秀のおかげで今まで
永らえた。光秀の逆心のおこりもお前が張本人である。罪深すぎて裁判を行う筋もない。
すぐに磔に申し付けるだろう」と言って、「何か言うことはあるか」と二度もおっしゃっ
たが、斎藤、さして臆した様子もなく、後ろを見まわして、「綱を取っておられるのは、
侍か、雑兵か。左の手を少しゆるめて下さい」と言った。太閤が「望みどおりにせよ」と
おっしゃったので、少し縛りをゆるめた。そこで、斎藤、左の手を地面につけ、「私めは
光秀の家来になっておりましたので、光秀の申し付け通りに働きました。私自身は信長公
に恨みはありませんが、光秀が恨み申したため、家来ゆえ逆心の場まで付き従いました。
逆心をしきりに止めたのは、私でございます。こう申し上げるのは死罪を免れんがためで
はありません。罪人とのお言葉を頂戴したので、申し開きを致したのです。早く命をお取
り下さい」と申し上げ、「この一巻をご覧に入れたい」と言って、左手で右手に括り付け
てあった繻子の守り袋を差し出した。関口左門という御小姓がそばへ寄って右手で受け取
ろうとすると、その様子を見て内蔵之助は、「推参ながら、囚人のそばでは右手は出さな
いものです」とにこやかに言った。太閤がその一巻を開いてご覧になると、いつのまにし
たため置いたものか、光秀の逆心を止める諫めの書状と、それに対する光秀の返事だった。
「お前がこのたびこれを戦場まで持ち来ったのは、隙を見て降参して、この書状で恩賞を
得ようという心づもりだったのだろう。沙汰の限りの者だ」と太閤がおっしゃると、内蔵
之助、「それは普通の人の言葉、筑前守どののお言葉とは思えません。私めが心底光秀を
大切に思っていたことを、死後まで世の人々に知らしめたいばかりでございます。早く命
をお取り下さい」と言って、その後色々とお尋ねあったが、「もはや申し上げても詮無い
ことです。お許しあれ」としか答えなかった。

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:15:08.68 ID:Zlebf2X1
(続き)
光秀の屍が捜索の末探し出されると、首をつなげて粟田口で磔にせよという命令が下さ
れた。内蔵之助も同じ場所で磔にされることになった。光秀の槍取りは澤村権七という
足軽、内蔵之助の槍取りは伊澤十平という足軽だった。両手を釘で固定されるときに、
内蔵之助が「左手より右手が下がっています。これでは顔が真正面を向きづらくなりま
す。釘を打ち直して下さい」と言った。そのため、釘を打ち直すと、にっこりと笑って
「今少しお待ち下さい」と言って両目を閉じると、

屍ハ草野ニ埋ムト雖モ 魂魄遠天ニ帰ル 生死風前ノ燭 悟ルガ故ニ胸中鮮ヤカナリ
柳ハ緑花亦タ紅 三界眼前ニ尽ク

と大声で右の詩を唱え、「死後、この詩を丹波、亀山の永元和尚へ伝えて下さい」と奉
行に頼み、「万が一お忘れになってしまっては本意ではないので、もう一度申し上げま
しょう。書きつけておいて下さい」ともう一度唱えた。奉行が矢立で紙に書きつけると
「これにて人界からお暇しましょう」といって目を閉じた。両脇を槍でつかれた後、
また目を開いて、「因果深いとは、私のことを言うのでしょうか。まだ息が絶えないで
います。もう一度急所を強く突き通して下さい」と言って、また目を閉じて唸り声を上
げて死んでしまった



『多聞院日記』より、本能寺前後の話

2020年08月28日 17:10

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/27(木) 23:42:02.81 ID:+of7yAKA
多聞院日記』より
本能寺前後の話(一部、まとめにもあり)。奈良の僧侶が見聞きした、ウソも真実も混じった当時の情勢記録。
もろもろ、論文などに引用されていますが、改めて見返すと、あのときの世情を追体験できる記録なので、抜粋します。
また、多聞院英俊が一日の終わりに日記を記しているのではなく、なにか興味深いことを聞くとすぐに日記に記していたことも分かると思います。
英俊はかなりのニュースマニアだったと思われます。追記で「ウソ」などと記してもいますし。


天正10年4月
近頃、乾の方角から彗星が現れた。光の元は戌亥、末端は辰巳の方角。光の長さは10丈もあるように見えて、近年は見なかった長さだった。恐ろしいことだ(追記、「信長生涯ノ先端也」)
6月2日
筒井順慶が今朝、京都に上ったところ、「上様」(信長)がすぐに西国に出馬するといって、安土へ帰ったそうだ。なので、順慶も奈良へ帰った
信長が京都で殺害されたらしい。信忠も殺されたようだ。明智光秀と津田信澄が申し合わせて殺したという。(追記、「コレハウソ」)
未明のことで、朝方に漏れ伝わってきた。盛者必衰の金言があるので、驚きはしない。
諸国がことごとく(織田家に)反逆してくるだろうか。世は常ならず。日を追って眼前になった。状況はたしかにはわからない、どうなるのだろうか。
3日、未明から大雨が降った、京都の様子は確実な情報は届いていない。二条御新造に信忠が逃げ入り、正親町天皇を人質に取り、今上天皇も殺害された(追記、「ウソ」)。
京より注進があって、信長は本能寺で、信忠は二条御新造で殺害された。菅屋長頼、村井父子3人、福富秀勝、このほか小姓衆500~600人が殺された。
光秀はまず坂本へ入り、大津、松本、瀬田に陣取ったらしい。「細川殿」も死んだようだ。
今日、奈良の軍勢はことごとく大安寺、辰市、東九条、法花寺のあたりに陣取ったようだ。どうなることか。
4日
順慶と南方衆、井戸の軍勢が光秀勢のもとへ出陣したようだ、どうなんだろうか
5日
昨日、京へ出陣した筒井軍は撤退したそうだ。ならば織田信孝と申し合わせてのことだろうか。ありそうな話だ。
大坂において津田信澄が殺されたそうだ。光秀の婿で、一段の器量のある者だった。信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆などがやったのか。ただ、ウソかも知れない(追記、本当だった)
伊賀では織田信雄の勢力の城が空城になり、浪人衆が入城したようだ
安土は4日に光秀方の手に落ちた。佐和山(長秀の居城)には山崎片家が入った。長浜には斎藤利三が入った。
筒井軍は先日、京都へ向けた軍を近江に向けた。順慶は光秀と堅く盟約を交わしているとも言う。どうなるのだろうか。
9日
今日、河内へ筒井軍が出撃するという沙汰があったが、にわかに繰り延べになったらしい。また、郡山城へ米と塩をにわかに入れたという。なぜ方針を転換したのか。不審である。
10日
先日、京都へ向かった筒井軍は近頃、帰ってきていた。羽柴秀吉が近いうちに上洛するのが決まったので、これによって判断を変えたと聞こえてきた。
14日
昨日、光秀より藤田伝五が順慶のところに来て、同心せず交流を絶ったが、木津まで帰ったところでまた呼び返したという。なんなのか、心苦しい。
秀吉に順慶は味方すると誓紙を送っている、村田と今中が使いだったらしい
井戸覚弘、この間に病を患い、9日に死んだ。深くその死を隠したと言うが、本当かどうか。まったくのウソだった。
今日の朝方に郡山で順慶が切腹したと連絡があった。とてつもなくびっくりしていたところ、「順慶ではない、藤田伝五に腹を切らせた」と言ってきた。
肝を消していたが、それもウソだった。奈良中でそんな状態だった、天魔の所業である。
奈良中で資産を隠しだした。光秀の家来が隠したものを盗んだ者を2人殺したという。気持ちが沈む。
12日(後記か)
秀吉が摂津にやってきた、「猛勢ニテ上」。家康はすでに安土に着いて陣取りしているらしい。どうなるのか。光秀軍は八幡と山崎にいる。
。淀のあたりまで光秀軍は撤退するのではと噂されている。これによって奈良中は静かになった。
隠し物を盗んでいたのは井上九郎三郎の者どもで、3人を殺害し、いよいよ奈良は静まった。
13日
勝竜寺城が落ちた。秀吉は京に上り、光秀は坂本へ逃げ落ちたという。本当だろうか。

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/27(木) 23:42:56.34 ID:+of7yAKA
(続き)

14日
日中まで大雨が降った。うち続く大雨、これまでになかったことだ
15日
夜を通して雷鳴が鳴り、大雨が降った
去る12日、光秀軍は数千人の損害を出した。坂本へわずか30人ばかりで逃げ帰り、秀吉は大津まで前進した。
今日、山から見て見ると、比叡山の東の方が大きく焼けていた、と(誰かが)いっていた。必ずや、坂本の町を焼いて城を攻めていると風聞があった。
順慶は今朝、1000人ばかりで出陣した。昨今は6000~7000人ばかりで出陣していたという。
今夕、醍醐に陣取りしたが、秀吉が陣を見て、「曲事である」と言い、「すべて天下は信長の御朱印のようにしなければならない」と命じた。もっともなことだ。
5月の23日まで雨は降らなかった。24日より降り始め、20日以上降っていた。今日は雨がやんで天気がよかった(私の注記、本能寺前後はずっと雨が降っていた)
先日の合戦で光秀が討ち死にしたのは間違いないという、時が終わった
(日付不明)
順慶の行動は曲事と(秀吉方から)沙汰があって、またも奈良中で資産を隠す。気持ちが沈む。
17日
光秀は12日に勝竜寺から逃げて、山科にて一揆にたたき殺された。首も胴体も京都に移されたという。あさましきことだ。
細川幽斎の中間だったのを引き立て、信長が厚く恩を与えて召し使ったのに、大恩を忘れて曲事に至った。天命かくのごとし。
斎藤利三が生け捕られて安土へ勾引されたという。天命天命。
18日
本能寺では光秀をはじめ、首が3000ほどあるという。斎藤利三は17日に京で引き回され、首を切られたという。
21日
近衛前久が死んだというので、一乗院はもってのほか取り乱した。間違いなく(近衛生害は)ウソだろう。
29日
大乗院殿が安土より帰った。信孝と昵懇で礼があったというので、めでたいめでたい。信雄と信孝の考えが合わないので、諸軍勢がいまだ帰陣していないようだ。
7月6日
天下の様相は、柴田勝家、秀吉、長秀、池田恒興、堀秀政、以上の5人で「分取ノ様」にその沙汰があった。信長の子供はその議論の俎上にも上がらなかったようだ。あさましいことだ。
7日
天下の様相、信雄と信孝が争いをやめないので、両人とも秀信の名代を辞退し、信雄は伊勢と尾張、信孝は美濃、信包は伊賀(追記、「ウソ」)。
柴田は長浜(20万石)、堀は秀信のおもり、これによって近江中郡の20万石、長秀は高島郡、志賀郡、恒興は17カ所と大坂を知行した。
秀吉は山城と丹波(丹波は羽柴秀長の知行)、西ノ岡と勝竜寺以下、河内の一部を得た。
おおむね、秀吉が主張した通りだった。それなので下京六条に城をつくるという。(秀信の)名代はいないまま、5人で議論を交えて(秀信を)もり立てようということになった。
順慶は大和一円と宇治郡、宇多郡も知行したらしい。秀吉が推薦したそうだ。これで奈良は平穏か(追記、「ウソ」)。もっともなことだ。
このように決まり、欲がまざってまた、信長の子供がたくさんいるのに、まったく議論にならなかった、「クルイ」が出てきたのではないだろうか。
8日
今日、秀信(3歳)が秀吉のお供で京にいる。諸大名が御礼をしたそうだ



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/28(金) 14:01:20.05 ID:X7bjes8W
コウモリが思ってた以上にふらふらしてた
信長様が生きてても判断が遅い!ってどっかで粛清されてたかも

桶狭間、長篠(と本能寺)裏話

2020年08月21日 16:50

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/20(木) 21:59:40.40 ID:96SZy5U2
『湯浅甚助直宗伝記』
桶狭間、長篠(と本能寺)裏話

今川義元と信長の合戦の時、湯浅甚助は14歳で(小姓として)供奉していたところ、「少年の出陣は無用である」と仰せられたので、尾州笠寺の法印に預けられた。
桶狭間で合戦が始まったところ、鬨の声や鉄砲の音がおびただしく聞こえてきた。
そこで笠寺に残っていた小姓衆は信長公の替え馬に乗って戦場にはせ参じ、甚助は敵と槍を合わせ、練り倒して取った首を信長公の御前へ持参した。
すると、信長は「若輩者が戦場の騒がしいところに、なぜ軍法を破って現れたのか」とご立腹だったので、本陣へ帰った。
すると、敵の大将、義元を討ち取り、合戦に勝利したので信長はとてもご機嫌になり、笠寺へ帰陣した。
法印が合戦勝利に祝いの言葉を捧げ、飛び出した小姓衆のことの顛末を子細に話し、「武勇の励みがあったので少年まで手柄を立て、言葉がありません」と詫び言を申したので、みなが許された。
その後、三河長篠の合戦のときに、信長は甚助を呼び、「先手の滝川一益の備えへ参れ。敵は色めき立っている。早く敵の備えを崩し、どっと攻めかかれと伝えよ」と命じた。
これによって一益の陣所にはせ向かい、信長の命令を伝えたところ、信長の命令の通り、(同じ先手の)家康公が敵の先手に挑みかかり、敵の侍大将、馬場信春の備えを崩した。
このとき甚助は、甲州方の采配を手に持った武者と槍を合わせ、(馬から)突き落として首を取った。采配を添えて首実検に供した。
この委細は一益が見届けており、後日、信長公へ披露した。
これによって信長公から感状をいただき、「先手への軍使に向かって首尾よくこなし、さらには首を取って猛威を振るってから帰ってきたこと、神妙である」と声をかけられ、加増された。
これらは信長公記に記されていないが、甚助家来の倉知道珍という侍が詳細を知っており、語り伝えている。
(中略)
天正10年6月2日、明智光秀が謀反の時には、甚助は町屋に泊まっていたが、光秀の逆心によって京中が騒動になっていたので本能寺にはせ参じ、猛勢をかき分けて寺内に駆け込み、討ち死にした。
本能寺で死んだ面々の石塔が阿弥陀寺にある。



必ず義龍の首を取って道三に手向ける

2020年08月20日 17:19

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 19:44:54.77 ID:9dfXvoM4
「麒麟がくる」打ち明け話

利家夜話
利家が語っていた話。斎藤道三の息子(義龍)がライ病で、その上、道三に不孝であるので家督相続は許さないと話しているのを聞いた人がいた。
父子の仲は悪く、合戦になって信長に注進する人がいたが、早くも道三が合戦に負け、城に火がかかっているのを信長が見て、「さてもさても、注進が遅かったことは無念である」と涙を流して帰国した。
「必ず義龍の首を取って道三に手向ける」と信長が話したと利家は語った。

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 20:09:57.68 ID:9dfXvoM4
書き損ねましたが、原文では「彼の癩者の首」です
NHKでは放送できません



明智が謀反を起こして、信長様に切腹をさせた時

2020年08月14日 17:01

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/14(金) 15:32:16.74 ID:1KuHNIZk
明智が謀反を起こして、信長様に切腹をさせた時、本能寺に我等より先に入ったというものがあれば、それは全て嘘である。
その理由は、信長様に切腹させるとは夢にも思わなかったからである。
その頃、太閤様が備中に輝元殿を討ちにいっておりその援軍に明智が行くことになっていた。
山崎の方に向かうと思っていたのだが、思いとは違い京へと行くことになった。我等は、その時に家康様が上洛していたので、
家康様を討つとばかり思っていた。本能寺というところも知らなかった。
人衆の中から、馬に乗った二人が出てきた。斎藤内蔵助の息子と小姓であった。本能寺の方に行く間、我等はその後に付き、
片原町へ入った。
二人は北へ向かい、我等はみな堀際へ東向きに向かった。
本道へ出ると、橋の際に人が1人いたのでそのまま我等は首を取った。
内へはいると、門は開いており、鼠のようなものすらいなかった。首を持ったまま内へ入った。
北から入った弥平次(明智秀満)殿の母衣衆二人が首は打ち捨てるように言われたので、堂の下へ投げ入れ、正面から侵入したが、
広間にも一人も人はいなかった。蚊帳がつってあるだけで人はいなかった。
庫裏の方より髪を下げた白い着物の女を捕らえたが侍は一人もいなかった。女は「上様は白い着物を召されている」と言ったが、
それが信長様のことだとは知らなかった。その女は斎藤内蔵助殿に渡した。
御奉公衆は袴・肩衣、股立を取り、2・3人が堂の中へ入ってきた。
そこで首を又一つ取った。その者は、一人奥の間から出てきて、帯もしていなかった。刀を抜き、浅黄色の帷子で出てきた。
その時、多くの人が入ってきてそれを見て敵が崩れた。我等は蚊帳の陰に入り、かの者が出てきて過ぎていくところを後ろから切った。
首を二つ取ったので、褒美として槍をいただいた。
「本城惣右衛門覚書」



262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/14(金) 21:23:11.70 ID:h/4i2y9k
>>261
これは出所が古書店というのが惜しい
高齢ゆえ記憶違いはあっても、大筋は合っていると個人的には思うけど
そういえば、226の兵隊もまさかクーデターとは知らなかったから、本城の記録も正しいとかどっかのサイトで指摘してたな
イエズス会の記録でも家康暗殺の噂があったというが、それが真実味を帯びて語られる土壌があったと
武田征伐後からの信長、家康双方の接待合戦なんかを考えると、なぜそんな話が広がったのか理解に苦しむのだが、みなさんはどう考える?

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 07:51:45.79 ID:9aPcvoDD
以前家康は武田に内応しようとしていたが信長に察知され止む無く信康に罪を被せ家を保ったが今回武田が滅ぶことになり武田方から家康が謀反しようとしていたとの噂が信長の耳に入り必要以上に真偽の確認をして家康暗殺計画に至ったと考える

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 10:24:31.27 ID:b1boNngP
あるわけねーじゃん

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/15(土) 10:47:40.02 ID:Cy2by8PS
>>262
明智家中では家康はライバルだから、信長よりは殺す対象として適切と思われてたんじゃない?

六月十三日に相果て、跡形も無くなった

2020年07月17日 18:29

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/16(木) 22:09:55.77 ID:4Mxqh86c
明智日向守(光秀)はかつて一僕として朝夕の飲食さえ乏しい身であったのを、織田信長が取り立てられ、
坂本の主とし、その上丹波国一国一円を下された。にもかかわらず、かかる不思議(本能寺の変)を思い
立ったというのは是非に及ばぬ(理解の出来ない)次第である。しかし忽ち天責を蒙り、六月十三日に相果て
跡形も無くなった。(この時明智の歳は六十七であった。)

一方、織田信長は近年(天下の)政務を執り行い、無道もこれ無き所に、このように横死されてしまったこと、
偏に(信長の高野聖殺害に対する)弘法大師の法罰が当たったのだと言われた。

当代記



205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/16(木) 23:20:14.56 ID:SbkCxOUQ
>>204
関連として、太田牛一とフロイスによる本能寺の書きぶりの微妙な違いが気になる
牛一は逃げのびた女房衆に取材している可能性がある
フロイスの場合、南蛮寺が本能寺から至近
ほぼ共通の噂か証言があったと思ってるんだけど

『当代記』より、本能寺の変

2020年07月16日 17:32

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/16(木) 15:30:44.82 ID:4Mxqh86c
天正十年六月朔日、惟任日向守(明智光秀)は重臣である明智左馬介、同次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵助、
溝尾勝兵衛を召して、これからのことについて調談した。彼ら五人に起請文を書かせ人質を取り、

「明日中国へ打ち立てるべき人数を、信長にお目に懸けるべき。」

と伝え、戌刻(午後十時ころ)亀山を立ち大江山を越え、京へと急速に到着すると、二日の曙、信長の宿所
である本能寺を取り巻き、弓鉄砲を撃ち込んだ。信長はこれを聞かれて「謀反か、何者ぞ」と問われた。
森の乱丸走り出て、惟任反逆の故を言上した。これに信長は「是非に及ばず」と答えられた。

信長は弓を取って矢を数射された。屋代勝助以下が厩より出てきて、相戦って討ち死にした(この勝助は
馬についての目利きで、奥州の者であった)。近習の輩、同じく小姓衆も比類なく相働いたため、暫くは
支えたものの、寄手は大勢である故に、皆以て討ち死にした。

信長は弓の弦が切れたため、鑓を以って戦われたが、その時に右の肘を突かれた。そして内に入り、
女房衆に対し「女は苦しからず、急ぎ退くように」と三度まで言われてから、奥の間に入られた。
その後焼死されたのか、後に御遺骸は発見されず、惟任も不審に思い、色々と捜索させたがその甲斐は
無かった。

当代記

本能寺の変について



恵林寺焼き討ちの事

2020年07月15日 18:13

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 13:28:15.62 ID:SgIWpVh4
天正十年四月三日、甲斐に在った織田信長は、江州佐々木二郎(六角義定)が恵林寺に隠れ居るという
風聞を聞かれ、恵林寺に対しすぐにこれを出すように、検使を以て再三要請したが、恵林寺からは
「それは全く事実ではない。」と返答し、実際には密かに佐々木二郎を他所へと逃していた。

これを知って信長は甚だ立腹し、津田九郎二郎(元嘉)、長谷川丹波(与次)、関小十郎右衛門(成重)、
赤座七郎右衛門(永兼)に申し付け、恵林寺に火を掛け、快川国師、長禅寺の高山和尚をはじめ、
大綱、睦庵、両人は単寮(禅寺で首座、知事などの、単独で一寮に住むことを許された高位の僧)であったが。
悉く焼死した。その中に未宗という単寮が在ったが、彼は山門から飛び降り逃げ出した。
下法師、若僧などが火の中で躍り上がり、飛び上がって死ぬ有様は、言語に絶するもので、哀れであった。

東光寺の藍田和尚は、その場から逃げることが出来たが、途中において尾張の者と行き合い、強奪に
及ばれ持っていた金を全て奪い取られ、その後殺された。

当代記

恵林寺焼き討ちについて



200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 15:56:11.70 ID:KpZDFIsf
金の仏具なのか金銭のほうなのか、どちらにせよ悪い話だ

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 16:02:19.59 ID:Ul9TM2TJ
>下法師、若僧などが火の中で躍り上がり、飛び上がって
高僧は心頭滅却して泰然自若として死んだということだろうか

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/16(木) 01:06:02.24 ID:nHqIQs2/
>>199
美濃土岐氏出身の快川和尚を焼き殺したから本能寺に到るわけだな?

菅沼新三郎とその妻

2020年07月14日 18:28

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/14(火) 18:05:53.04 ID:I+miO3Td
三河国の菅沼伊豆守父子(菅沼満直・新兵衛尉)、同菅沼新三郎(定忠)は、去る元亀三年より家康から
寝返り武田信玄に属し、天正三年の長篠合戦以降は信州に在国していたが、今度の甲州征伐にて降参し、
河尻肥前守(秀隆)を頼ってかの陣中に居たのを、家康が信長に言上し、則ち生害となった。

諏訪の祝女はこの菅沼新三郎の妻であったが、この事を聞くとすぐに、自分の子供たちを刺殺し、自身も
自害した。この女房は普段から大力であり、その伯母も、かつてこの高遠で比類なき働きをして死んだとの
事で、相似たる女であると、人々は皆語った。

当代記



194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 07:25:50.27 ID:KpZDFIsf
祝女って何でしょうか?

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 10:47:27.59 ID:m0kw6D0r
>>194
検索してみたら沖縄の女性神職者だそうだけど
なぜここで沖縄の神職者の呼称が登場するんだろ?

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 13:06:26.59 ID:XljmzuPv
>>194
>>195
祝女は「はふりめ」といって、中世の言葉では神社の神職の女性のこと。
まあ一般的に巫女の事だね。

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 13:09:07.90 ID:KpZDFIsf
ほうりでググったら出てきた、さんくす。

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 13:20:29.82 ID:tYNj3Jm7
祝は神職の1つだから、祝女は巫女と同じなんじゃない?
ちなみに諏訪氏は諏上社の大祝を務める家柄

信忠の中間かるき出立仕間、廿八人寒死

2020年07月13日 17:59

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/13(月) 13:38:31.16 ID:s8napJ+l
天正十年三月二十三日
甲州征伐に於いて、織田信忠が数日を経ず早速に甲信を納めたことに、織田信長は感じ入り、
この冬にも天下を譲るとし、その験として秘蔵の脇差を与えた。
信忠は畏まり大変に悦んだが、「但し天下お譲りの儀は、未だ若輩である故、存じよらぬ事です。」
との旨を返答した。

二十八日、信忠は諏訪へ向い国割を行った。この日は寒気甚だしく、信忠の中間たちは軽き出で立ちで
あったので、二十八人が凍死した。(此日寒気甚、信忠の中間かるき出立仕間、廿八人寒死。)

当代記



192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/13(月) 18:07:45.92 ID:CRkyQ1h5
確か武田の透波に冷気を操る奴がいたな

諸士は難儀に及んでいたと云々

2020年07月12日 17:38

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 13:15:27.07 ID:TOB5fOEN
天正十年三月二十一日、甲州征伐を果した織田信長の元へ、武田穴山(陸奥守入道梅雪)が徳川家康の取り持ち
によって出仕した。國久の太刀一腰、金三百両を進上。信長からは半俗の脇差の三つ刀を下された。そして
今回の甲州征伐における穴山梅雪の行動を信長は誉められ、甲斐駿河の本領を安堵した。
信州松尾小笠原掃部太夫も同じく出仕し、太刀、馬を進上し、本領を安堵された。
相州の北条氏政より太刀、馬、金千両、江河の酒十樽、白鳥十、漆桶二千が進上された。

二十三日、滝川左近(一益)に上野国、並びに信州の内二郡を添えて下され、上州厩橋に移り、また御腰の物も
下された。
深志之城に武田軍の残した兵糧が有り、陣中の衆に下された。
上野国の小幡上総介、織田信忠に出仕し、貞宗の脇差、金五百両を進上した。信忠よりは左文字の脇差が
下された。

北条氏政より、白米二千石が進上された。また徳川家康よりも兵糧の進上が有った。これらは織田軍の陣中にて
諸士に充てがわれた。諸士は(兵糧不足で)難儀に及んでいたと云々。

当代記

甲州征伐で、実は織田軍が兵糧に苦しんでいたとされる記事ですね。



190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 16:33:50.28 ID:z1pyTWFl
>>189
家康の接待とはいえ、のんびり物見遊山しながら御一行は帰ってるんだよなあ

かつよりと なのる武田之かいもなく

2020年07月11日 17:24

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:17:31.05 ID:3i8UXQ9T
天正十年三月五日、織田信長は甲州征伐のため安土を立たれ、翌日濃州六の渡に飛脚が来て、
『甲信駿三ヶ国異議なく討ち果たした』という旨が伝えられた。
仁科盛信(勝頼弟)の首がここに持参され、信長は大いに悦ばれた。

十三日、信長は信州の根羽に到着されると、ここに武田勝頼、並びにその息子太郎の首がもたらされた。
信長は甚だしく喜悦され、狂歌を読まれた

『かつよりと なのる武田之かいもなく いくさにまけてしなのなければ』

当代記



188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 07:17:50.69 ID:jBC+6l/v
勝つしか無い武田勝頼くん ワシと戦いをした結果 負けて甲斐も信濃も失って 品のないことだよね

高野聖誅伐

2020年07月10日 18:50

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/10(金) 12:29:43.45 ID:9UfOtJty
天正九年八月十七日、織田信長は高野聖を方々にて搦め捕らえるよう仰せに成った。その仔細は、摂州伊丹の
牢人(荒木村重残党)の内二人がかの山に在ると聞き召され、急ぎその者たちを出すように、使者を以て
仰せ遣わした所、返事さえ申さず、あまつさえ使者上下の者共二十余人を討ち果たした事も申し届けなかった。
事に御腹立てられ、方々に仰せ触れたのである。
これによって高野聖数千人が搦め捕られ引き立てられた。その誅伐の有様は非常に哀れであった。

昔、高野聖が諸国に下る時、予め宿を取るという事はなかった。路巷において「宿かや宿かや」と呼びかけ、
これに心有る人は、上下によらず宿を貸した。もし宿がなければ、そのまま路頭にて夜を明かした。

しかし信長がこの年に聖たちを殺害して以来、こう言ったことは無くなった。信長が相果てた後でも、
これ以後元のように戻る事は無く、普通の旅人のように宿を取るように成った。
(殊に現代では、聖は商人のように、衣類など様々なものを持ち運び、これを売却する。
少しの坊をも持つような聖であれば、笈(書籍を入れて持ち運ぶ箱)も持たず、馬上にて国を上下する。
何れも大師の掟に違うのではないだろうか。)

当代記

高野山側の記録だと、この時信長から遣わされた使者というのが非常に横暴で猛反発を受けたとあったりますね。



金銀を 遣捨てたる馬揃

2020年07月09日 18:21

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 13:15:27.85 ID:8tUCxMUS
天正九年、正月二十三日より触れられてた馬揃が、二月二十八日に行われた。
各々美を尽くした色々な出で立ちであった。
馬上の者達は百騎に及び、一番の明智日向守(光秀)は紅の出で立ちであった。
そこから次々と、書き表すのも及ばぬほどの、結構の体であった。

信長はこれらの馬の後に乗られ、先馬の前に(武井)夕庵法師を通した。その体は小袖をつまんではしょり、
白髪をかぶった出で立ちで、鞍に取り付き、まるで誠の老女が馬に乗っていて危ないように見えた。
この夕庵は信長の右筆で、歳は七十余の入道であった。

信長公の出で立ちは、ほほに頬紅をされ、牡丹の造花を腰に指し、冠物にも花を指されていた。
馬先に乗り換えの馬が十疋、それぞれ無量の仕立てであった。或いは唐織、或いは染綾薄、猩々緋などにて
泥障(あおり:鞍の四方手に結び付けて馬の腹の両脇に下げる、泥よけの馬具)とし、例えるべき様もない
結構であった。

信長の馬の廻りには小人衆が紅梅の袷、上に黄衣、立烏帽子、のし付脇差、金の鼻ねち、紅のうてはしりにて
思い思いに乗った。

池田庄九郎は惣金の出で立ちであった。その身については申すに及ばず、馬の毛や爪まで何れも金であった。
馬の毛には、ふのりを以て薄を置いたという

主上(正親町天皇)は御桟敷にて御見物された。馬場は内裏の東に、縦三町横二町ばかりに構えられた。
周りに柳を植えてあった。

また翌日には、「昨日の馬揃残り多し」と羽織頭巾にて馬に乗り、この時猩々緋を羽織った。それぞれ
先の馬上衆が、一夜の間に仕立てたのだという。

そして何者の仕業か、落書があった

『金銀を 遣捨てたる馬揃 象棋に似たる王の見物』


当代記



394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 19:37:38.79 ID:Pvl2OpoO
>>393
金銀を捨てても王様が詰まされなければ勝ちだからね、将棋は
京童としては成り上がりの信長なんぞ捨て駒で、天皇こそ、といいたいのかな

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 21:52:22.55 ID:f3UPKo8d
援助が無ければ没落する哀れな王様なのにか?

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 23:58:32.00 ID:Pvl2OpoO
>>395
それが天皇の権威であり、皇家でもないのに京に住んでるだけでぶら下がるぶぶ漬けどものアイデンティティー

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/10(金) 11:06:40.83 ID:zbAHFZVo
>>393
先頭は丹羽じゃなかった?

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/10(金) 17:12:15.97 ID:ZQ4CsC64
中国攻めのためこの馬揃えに参加出来なかった秀吉が長谷川秀一に宛てた
「馬揃えに参加出来なくて無念だ。せめて各々がどんな出で立ちだったか教えて欲しい」って言ってる書状があるな

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 10:03:43.79 ID:9xGCmwhn
秀吉がキングコングのコスプレで参加していたら実物だわ。

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 16:13:09.98 ID:z1pyTWFl
>>400
かといって十八番の瓜売りの格好で馬揃えに出られてもなあ

信康事件について

2020年07月08日 17:45

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/08(水) 13:20:09.92 ID:sYb4nnxC
天正七年、岡崎三郎(松平)信康(家康公一男)が牢人された。これは信長の婿であると言えども、父家康の
命を常々違背し、信長公をも軽んじ奉り、被官以下に情けをかけず、行いが非道であったため、その旨を
去月酒井左衛門尉(忠次)を以て信長に内証を得た所、「左様に父、臣下に見限られている上は是非に及ばず、
家康の存分次第にせよ。」と返答された。

家康は岡崎にお越しになると、信康を大浜に退き下らせ、岡崎城へは本多作左衛門を移した。信康はこの措置を
当座の事と心得られていた。家康公は西尾の城に移られ、信康は遠州堀江に移され、さらに二股に移られた。
九月十五日、彼の地に於いて生害された。信康の母公も浜松に於いて生害された。

当代記

信康事件について。ここだと酒井忠次は家康の指示で信長の意向を尋ねたという事になっていますね。



献上された人魚

2020年07月07日 17:38

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 13:33:40.85 ID:SGT8Vxh6
天正七年二月十八日、織田信長が上洛された。この春、信長公が在京の砌、若狭国の丹羽五郎左衛門(長秀)
が人魚を献上した。これの顔や手足は人と違わず、長さは五尺(約1.5メートル)ばかりであった。
この人魚は岩の上に登ってしばらく寝ており、その所を見つけ、これを取ったのだという。
この在京中に、三条の宗運という町人が、老父に至孝であるという事を信長公が聞かれ、諸役を免許し
米百石を下した。

当代記



381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 13:43:52.64 ID:1MncSJu9
足がある人魚?

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 13:49:11.85 ID:vnEUtyqx
半魚人?

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 14:13:15.68 ID:IvWV8E6Z
河童やね(適当)

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 14:59:52.28 ID:emopB1HD
>>380
福知山城に行ったら丹後浦にトドが迷い込んで捕まったという手紙が絵付きで展示されてた
多分トドじゃなくアザラシだと思った

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 15:10:02.84 ID:3vqzziLb
献上された人魚って食べるの?生け簀みたいなので泳がせるの?

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 15:34:01.50 ID:n4Ey8St4
海獣の類いでしょ
日本だと海獣以外にリュウグウノツカイを人魚と見間違えたという話もあるとか聞いたけど

やっぱ食べるのかな?海獣だったらしばらくは飼えそうだけど

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 20:50:16.68 ID:UOpvQdJP
>>380
八百比丘尼「食べなきゃ(使命感)」

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 21:48:27.41 ID:sY0DV/cH
家康も不老妖怪の逸話あったし権力者あるあるか

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 23:51:51.78 ID:OWOT8Gkc
>>380
家忠日記に人魚みたいな絵があったね、これのことかな?

と思って調べたら家忠日記のは天正九年に安土に揚がったヒト食い人魚のようだ

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/08(水) 00:01:29.70 ID:rjLtYiQe
戦国日本ヤバイ