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この儀、別の仔細に非ず

2018年09月17日 17:10

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/17(月) 12:34:03.11 ID:c3AbbcRr
天正10年6月朔日、惟任日向守(明智)光秀は亀山城において、明智左馬助(秀満)、同次郎右衛門尉、
藤田伝五、斎藤内蔵助(利三)、溝尾勝兵衛らを呼び寄せ、密かに語った

「各々の命を申し請けたい。それに同心するのなら評議をしよう。そうでないのなら、この光秀の頸を
刎ねるように。」

これを何の前触れもなく語ったので、五人の者達は「これは如何に」と驚き、呼吸も詰まりそうで、
互いに目を合わせるばかりであった。

そのような中、明智左馬助が進み出て
「今日まで殿を主と頼み奉る者共が、一大事に当たって、誰が見放すでしょうか。
何事であっても左馬助に於いては、御請け申し候」

そう頼もしげに言うと、残る4人も皆その儀に応じた。

光秀はこれを聞くと
「さては嬉しくも請けられたり。この儀、別の仔細に非ず。私の身の上に於いて、信長公が私を
誅されるという証拠がいくつか有る。既に事急であると考える。どう有っても逃れられぬ道が
迫っているのであれば、むしろ逆心を企てんと思う。各々同心に於いては、この牛王(牛王符)の裏に
霊社の起請文を!」

そう当座にこれを書かせ、その上で人質を取り固めた。

(甫庵信長記)

光秀が信長を討つことを告白するシーンですが、この時光秀が「信長に殺されそうに成ってるから
逆に信長を殺す」と言っているのが、スロイスが「日本では主人が下僕を罰しようとするのを知ると、
下僕が先に主人を討つ(だから日本で主人は下僕の前で感情を表に出さない)」と記録しているのと
ぴったり一致していて、同時代的にはリアリティの有るものだったのでしょうね。


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信長は彼が陪臣であるにもかかわらず

2018年09月15日 19:05

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/15(土) 13:14:52.04 ID:134JHZze
天正9年3月26日、若狭の逸見駿河守(昌経)が病死した。彼の所領は八千石であったが、
相続すべき実子が居なかったため、織田信長の命により、そのうち三千石は武田孫八郎(元明)へ、
残りの五千石は溝口竹(秀勝)に与えられた。この溝口は後に受領して、伯耆守と名乗ったが、
彼は惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀)が幼少の頃より取り立てた者で、普段より正意誠心にして
武道を心がけ、何事にも心を尽くす人物であったため、信長は彼が陪臣であるにもかかわらず、
五千石を与えたのである。

このように信長は、陪臣であってもそういった人物であるなら賞禄を与えたため、彼の配下は
上下の区別なく功に励むこと、日々新にして、日々に新に、また日々に新たなりとも申すような
雰囲気であった。

(甫庵信長記)

直接の部下でなくてもきっちり評価してくれる信長公であった。


汝の不明は私の不明

2018年09月14日 10:36

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 22:27:15.75 ID:pFVibWI+
ある時、織田信長の元へ、村井長門守(貞勝)が、鏡屋宗白という者を召し連れ、
彼は手鏡を信長に献上し、御礼申し上げた。

信長はこれを取り上げて眺め
「非常に明白な鏡だ。願わくば心の善悪も見ることの出来る鏡であればなあ。
世の癖として、諸侯大夫、寵臣たちの為したことは、良いことも悪いことも、
人は皆極端に語るために、却って心を暗ませるという事が、日々月々に悪化している。
しかし行いの悪さを諌めるという事はしない。
そういう事に左右されない諫臣を求め得なければ、政道の実態を聞くことは出来ないのだ…」

などと物思いにふけりながら、ふと鏡の裏を見るとそこには『天下一』と銘があった。
これを見て信長たたちまち気色が変わった

「去る春、どこかの鏡屋が献上してきた鏡にも、裏に『天下一』と銘があった!
『天下一』はただ一人であってこその、一號にてあるべきなのに、二人あるというのは
猥りというものではないか!
これ偏に長門守、お前の不明より起こったことだ。そして汝の不明は私の不明なのだぞ!」

そう、殊の外悔やむ様子であった。

(甫庵信長記)


腹も背も切るる計に笑ひつつ、息しもあへず臥轉び給ひけり

2018年09月11日 17:17

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 21:40:00.05 ID:kgqM6l2n
織田信長が有る時。安土城の御物預かりの者を召して、

「(信長の御物である)武具小袖、錦糸扇子等を、価値の高い順に千種広間に並べ置くように。
楠(信長の右筆である楠木正虎か)は給人帳(信長が禄を与えた者を記録したもの)を持ってくるように」

と命じた。
翌日、「その事調い候」と申し上げると、信長は給人帳の上下を切って、真ん中の紙に
千種広間に置かれた御物を書かせた。それが終ると三つに別れた給人帳を再び元に戻し
これを開くと、そこには

『扇筒井順慶』『小袖十村田吉五』『馬正林坊』

という具合に、御物と給人の名前が並んだ状態になっていた。

これを見た信長は「こんな高下(ランク付け?)になったか!」と、お腹も背中も切れてしまうかと思うほど
大爆笑し、あまりに笑いすぎて呼吸が苦しくなり倒れて転がる有様であった。
(斯様に高下ある事よとて、腹も背も切るる計に笑ひつつ、息しもあへず臥轉び給ひけり)

万座も一入興に入り、笑いを含んだという。

(甫庵信長記)

御物の名前と家臣の名前をドッキングさせる遊びが信長のツボにはまって、呼吸困難になって
ヒーヒー言いながら転げ回るくらいに爆笑したらしい。ちなみに名前とドッキングした御物はその者に与えられたそうで。

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 06:08:45.23 ID:shsob15l
>>275
かわいいな
上司にしたい

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 13:11:12.76 ID:OkP/KYSh
>>275
何がそんなに面白かったのかわからんw

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 18:56:19.42 ID:bJM+QjnP
惟任日向(・・・今なら言上しても殴られないかな?)

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 19:00:52.86 ID:ucgBqjD7
>>277
御物と大名小名たちの組み合わせのギャップでしょ

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 00:26:40.23 ID:7ozAjbvN
絶対周りも空気読んで愛想笑いしてる

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 00:56:06.11 ID:zs9vkfK6
ちゃんと物をくれるあたりがさすが信長

淡路守の倅

2018年09月02日 13:16

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/02(日) 10:07:52.81 ID:QJT0qNQx
長篠の合戦の時、徳川家康勢が多田新蔵を生け捕った。下帯が赤地の唐錦であったため、
「お主は只者ではないな、名を名乗るべし」と問うたが名乗らず、
「ならば雑人の手にかけ殺す。名を名乗るならば切腹を許す。」
そう申した所

「父は若き時分は多田三八郎、この頃では淡路守と云う者の倅である。」

と、答えた。これは只者ではないとのことで、身柄を織田信長の元へと遣わせた。
信長は彼を直に召し出し

「淡路守の子に久蔵新蔵という両人があると聞いた。汝は何れぞ」

「新蔵也」

「名のある武士であるから命を助ける」

「既に縄目の恥の及び候へば、ただ速やかに頸を刎ねられることこそ辱し」

しかし信長は「縄を解け」と、信長の前で小手から縄を切り落とした。

新蔵はそのまま門の外に出たが、そこに長柄の鑓が立てかけてあったのを取ると、
そのあたりの雑人二人ばかりを突き殺し、これによって近くに居た兵士たちが集まり
取り囲んで、新蔵を斬り殺した。

信長はこれを聞くと
「惜しき事をした。そのまま雑人を4,5人も突き殺させておけばよかったのだ。
あたら侍をおのれらが不功者故に失ってしまった」と言ったという。

多田淡路守は信玄の時75人の足軽を預かり、足軽大将の内では、「小幡山城・多田淡路・山本菅助」と
並び称されたという。

久蔵は武田滅亡の折、勝頼に従い田野にて討ち死にした。

(士談)



78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/02(日) 12:56:20.72 ID:YioYpOEF
>>77
主家が滅んでる以上どうしようもなかったろうな…。巻き添えの雑人カワイソス(´・ω・`)

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/02(日) 13:03:08.47 ID:MbPSOSiK
>>77
花の慶次にこんな場面あったな

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/02(日) 18:41:25.70 ID:qGog6piQ
>>77
山本菅助は原文ママ?

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/02(日) 21:45:03.64 ID:lJxe7x5m
>新蔵はそのまま門の外に出たが、そこに長柄の鑓が立てかけてあったのを取ると、
>そのあたりの雑人二人ばかりを突き殺し、

雑人って門番かな?

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/03(月) 01:12:39.68 ID:FdLkwMdD
いきなり下帯ってことは捕まった時に全部脱いでたんだな

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/03(月) 11:32:09.16 ID:r4ov/e1/
>そのまま雑人を4,5人も突き殺させておけばよかったのだ。


雑人の命軽すぎて泣いた

武器がなくてもどうということのない伊東七蔵さん

2018年09月01日 21:24

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 23:21:25.07 ID:Nd9a42yo
織田信長が江州小谷城を攻めた時、織田方の伊藤七蔵は一番に乗り上がった。
しかしこの時、七蔵の上帯を下人たちがしっかりと掴んで彼に続いていたのだが、
それに耐えかね上帯が切れ、彼の刀脇差も下人たちと共に落ちた。

しかしそんな事で
伊藤七蔵は少しも動揺せず、無刀にて塀を乗り越え、傍らの柵の木を取って
3人打ち伏せた。

この事は無類の剛勇であると、信長も大いに感じ入ったという。

(士談)

相変わらず武器がなくてもどうということのない伊藤七蔵さんであった。



246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 23:34:53.60 ID:jNOLOAtT
やはり丸太は最強・・・

「ああ天なるかな!」

2018年09月01日 21:21

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 02:23:17.54 ID:raZtNnU0
秀吉の義兵は3万余騎と聞こえ、光秀の狼狽は大変なものであった。丹波亀山の居城を一子・十兵衛光慶に
守らせ安土は明智左馬助に、佐和山は荒木山城(氏綱)に守らせて淀城は修築半ばにして洞ヶ峠まで出張し、

二男の阿古丸といって12歳の者を2度大和の筒井へ送り援兵を請うもやって来ないため、光秀は大いに
恨み嘆いた。味方に来たらずして叶わぬ長岡与一(細川藤孝)も筒井順慶も心を変じてやっては来ない。

織田七兵衛(津田信澄)は討たれ、徳川殿は伊賀路を経て帰りなさると推量しなにとぞ徳川殿を討って来た
者には士農工商の差別なく恩賞をその望みに任せるとその道々へ触れ流し、きっと一揆が取り籠めて

討ち止めるだろうと思ったが、思いのほか討ちもらして捨て置いても害にもならぬ穴山梅雪を討ち殺した。
よもや急には打って上るまいと思った羽柴は大軍、しかも食い止めるか討って上るかと思う毛利も加勢して

羽柴は早くも摂津を打ち立ったと聞こえた。イスカの嘴、このようにまで物事に齟齬が生じたことを光秀は
「ああ天なるかな!」と空を仰いで嘆息し、悔やんで泣きに泣いた。

――『改正三河後風土記』



76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 13:55:32.52 ID:EcywMg4w
イスカの嘴
「ああ天なるかな!」

ラノベでありそう(小並感)

本圀寺襲撃と入札

2018年08月31日 17:29

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 10:36:09.89 ID:Nd9a42yo
永禄11年、織田信長は将軍・足利義昭を帰洛せしめ、六条本圀寺を以て仮の御所とした。
翌年正月3日、三好山城守、日向守、下野守、岩城主税等、一族蜂起して京中に乱入し、
六条本圀寺を取り囲みに懸った。

これに足利義昭は、自らの諸勢に下知して本国寺を持ちこたえさせた。
この時、門役(警備役)は入札(投票)を行い、入札の内17枚までが『明智十兵衛尉(光秀)』と
書かれた。また武者奉行の入札の内7枚までが野村越中守とあり、双方過半を超えもはや他の入札を
開く必要なく、これによって入札で決定される指揮官役は両名に命じられた。

彼らの指揮は著しく、何れもその剛操を以て、この襲撃は不意に起こったにもかかわらず
六条を持ち固め、三好の一党はついに引き上げた。

(士談)

三好三人衆の本国寺襲撃の時、義昭の側で指揮者を投票で決めていたらしいというお話。
光秀人望有ったのね



244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 12:43:53.84 ID:ENxn/IaS
それを言うなら投票で指揮官を決めさせた義昭の企画力だろうな
流石は信長包囲網を編み出した知将だわ
場当たり的な謀反で横死したハゲとは違うんですよ

真実無妄の誠を以って

2018年08月28日 18:44

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 21:33:24.49 ID:FERgEUgq
天正7年(1579)11月3日、二条御新造の御所が完成し、織田信長は則ち四伝奏を以て奏聞あって、
皇太子誠仁親王へこれを奉った。
同じく22日に、式掌の御移徒(わたまし)があった。その後信長は参内したが、このとき親王に夥しい
捧げ物が贈られた。
かくして信長は妙覚寺において巻物、板の物二千端ばかり包みおき、近習外様の人々を召し寄せ、
それぞれに下された。

12月6日、山崎方積寺に至って御座を移されたが、俄に大雨があり両日逗留した所、八幡宮の木桶が
朽ちてしまったことを申し上げると、「唐金を以て鋳てまいれ」と、武田左吉、林甲兵衛に仰せ付けた。
また同所において片岡鵜左衛門尉が、周光香炉を所持していたのを召し上げ、対価として銀子一千両を
下した。

同17日、各方面において苦労をした諸侯大夫を慰るとして、天下一共の藝者を揃え、桟敷を作り、能を
仰せ付けた。そして桟敷桟敷へ四日の間、毎日食事として折二十合、柳五十荷づつ賄うようにと
京中に宛行わせ、その代金として黄金二百両を下した。そのほか見物の下々へも食事を配り、
寒飢を補った。
これぞ一河の箪醪(河に酒を流し兵士たちと分かち合う中国の故事)ではないか。

これは五逆罪の荒木村重に対し、幾程もなく御本意に達せられ天下静謐に帰した悦びの為であると言われた。
総じて信長は強いて神仏に祈りをかけることはせず、自ら真実無妄の誠を以って祈られた。
誠に今の世には稀なことである。

同じく20日、天下の仕置等仰せ付けられ安土に帰城したが、この時も京中に八千石、安土の町中に三百石、
酒を食べよと下された。

(甫庵信長記)

凄まじいほどに気前の良い天正7年の信長公であった




230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:16:21.53 ID:uouo1Z/w
>>229
>信長は強いて神仏に祈りをかけることはせず、自ら真実無妄の誠を以って祈られた。
宮本武蔵かな?
今じゃすっかり神仏に祈願するのが当たり前になっちゃったけどこのころはそうでもなかったのかな

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:21:28.83 ID:FA447Pf0
苦しい時の神頼み

とかく高坂のことを讒言し妨げたので

2018年08月27日 18:34

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 18:32:10.13 ID:23LKJVS7
天正も5年(1577)丁丑にうつり、織田信長卿は去年の11月に大納言より内大臣に登られ、
威勢はますます盛んとなった。このため甲斐武田方では、いよいよ北条を頼まんと、

一昨年の結縁の後、常々小田原に使者を送り氏政を尊敬することは大方ならず、とにかく妹君と
一日も早く婚儀を行うことを急いだ。氏政も縁組のことを約束しながら織田家を憚ったのか、

今年まで延滞していたのだが武田方よりしきりに催促もしがたく、今年正月下旬に至って小田原
より輿入れとなった。早野内匠助・清水又八郎・剣持与左衛門が輿添として参った。

勝頼は婚儀を滞りなく行い、両家合体の盟約は定まったため甲斐でも相模でも喜ぶこと限りなし。

その中でも高坂弾正(昌信)は「長篠より3年この方、今夜初めて心安く寝入ったのは小田原より
御輿入りとなったゆえぞ」と喜んだ。弾正は「とにかく武田家の長久を思えば、このうえは謙信

とも和睦して御入魂あらば、いよいよ頼もしく安心でありましょう」と諫めたのだが、勝頼は血気
の猛将で人に遜順することを好まず、長坂・跡部両奸臣は弾正の諫めが行われれば我々の身の上が

危ういと思い、とかく高坂のことを讒言し妨げたので高坂の忠言も空しく用いられなかった。国中
の士民は一同に長坂・跡部を憎まぬ者はいなかった。

――『改正三河後風土記(甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 19:32:21.87 ID:Z2N5Ltql
軍鑑は嘘っぱちだからなあ

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 01:35:48.43 ID:J6YW16a4
大上段に嘘っぱちと切り捨てるのももはや古い見方だけどな
とはいえ勝頼跡部長坂辺りの事績は大概信用度低い記述だけど

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 18:26:37.59 ID:FERgEUgq
甲陽軍鑑の史料としての評価について詳しく出ているので読んでおくといい

創られた“軍師”山本勘助 丸島 和洋
第2回 見直された『甲陽軍鑑』
http://kaze.shinshomap.info/series/kansuke/02.html


60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 19:15:57.07 ID:R3lRzHIU
>>59
>『甲陽軍鑑』同士の比較検討が重要となるのだが、信頼できないという色眼鏡が存在したために、
>このような地道で手間のかかる作業には手がつけられていなかった。
ほー、まだまだ研究の余地がありそうだな、国がやってくれれば…ってそんな金はないか。

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 07:01:04.62 ID:GowozpsS
じゃあお前が独りでやっとけよ

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 08:09:16.13 ID:8OTbo6hr
なにをすねてるんだ?

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 10:12:49.07 ID:67sGtWik
>>62
色眼鏡おつ

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 13:59:54.23 ID:JVmjndk4
袋叩きから再評価は歴史学のお約束
目立ちたい学者や作家が無責任に変なこと言い出すのが困る

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:10:45.17 ID:xpYgg4E/
なので武功夜話が一級資料に返り咲く日も近いわけだ

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:17:44.99 ID:AIzY42hF
>>65
ありゃ明らかな創作やん…。

まあ、世の中には東日流外三郡誌を真書と認めないと迫害した史学会の重鎮とか
いたりしたから、あからさまな偽書・創作でも評価する輩は出るけどさ。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 20:28:08.07 ID:fWfpQ1LT
甲陽軍鑑は創作だこれって10年前にいい悪いスレで見たぞ

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 20:53:07.73 ID:ItPA1KAf
>>67
その10年間で研究が進んだ

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 21:26:13.55 ID:vtjT338y
評価してもいい部分もあるんじゃってのが近年の流れだっけ?

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 23:45:46.02 ID:3ekIDmZ7
信頼できる史料だからとすべて信用するのが間違い
逆もまた然り

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 00:35:09.34 ID:uGdurO6l
江源武鑑「せやせや」

信長公、検校からの罰金で

2018年08月26日 18:14

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/25(土) 22:11:53.36 ID:vdaAkkxv
摂津国兵庫の町人に、常見という、飽きるほど富み楽しむ者があったが、一生の間財産を減らさず
生きていく方法を考えた結果、検校の仲間に入り、その配下である座頭達からの配分を取れば、
そんな商売よりも効率的であると思い付き、すぐに良きように工作し、検校中へ本銭千貫を出して
その中に加わり、検校職と同じように、座頭からの配分の下りものを受け取った。

しかし配分を取られる側の座頭たちは、このように法度の濫用を行えば、果ては町人の過半が検校職を
持ってしまうようになると思ったものの、検校たちが一味して計ったこと故力及ばず、すでに数年、
その状況が変わらなかった。

そこで座頭たちはついに「織田信長公の正しき御制断を頂き、年来の愁眉を開き、先規のように
戻すべし」と衆向一同したため、信長に直訴を遂げた。

信長はこの訴えを聞き、暫く馬を止め内容を右筆に一々書記させ、
「申し状の如くならば不便の次第である。訴えどおりに計らうべきである。」
そう言って、直ぐに検校中へ問い合わせた
「云々の事聞こえあり、これは事実か?」
「左様候」

そこで信長は命じた
「法令を乱す事、悪行の内何がこれに過ぎるだろうか!されども盲目であるので斬刑まではしない。
検校の位をすべて剥奪する。今後再び、昇進のための功を励むように。」

これを村井長門守より申し付けられると、検校中は非義極々としたが弁解することも出来ず、
後悔してももはや及ばず、「御憐を垂れられて宥し置かれますように」と、五山僧侶を頼み
嘆き申し上げた

これに対し「ならば懈怠として黄金二千両出すべし」との事になり、検校中は畏まり、悦んでこれを出した。
すると信長は「ならば此れを以て宇治橋を掛けよ」と、宮内法印、山口甚介に命じて架橋させた。
翌年6月、橋は完成し、上下の往還安らかにしてその恩恵を楽しむ声、さらに洋々であった。

(甫庵信長記)

信長公、検校からの罰金で宇治橋を掛ける



221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 20:20:32.18 ID:dncSpBoR
>>220
ただの名君じゃねーか!

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 20:38:18.91 ID:Jwmeqw3a
やるなノブ

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 21:29:24.28 ID:W3LlOJZ8
ノッブは日本改造論の初代だな

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 10:31:04.77 ID:KYawnVbX
ノブ君の野望

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 10:37:22.65 ID:Sse4I+gN
腐儒の甫庵著作出展だからこれは疑わしいゾ

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 10:58:29.01 ID:xKUTCWuX
検校の話はこれとほぼ同じ内容で牛一の信長公記にもあるぞ

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 13:11:04.51 ID:rhnB8gQ5
宇治橋ってすぐに壊れたの?

朽木は節義も一時の所縁も忘れて

2018年08月24日 10:12

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 01:51:18.15 ID:k0eQsWFI
元亀元年(1570)4月27日、浅井父子とその他近江の城主らは金ヶ崎・手筒山両城ともに
降参したとの由を聞いて、信長の後ろを遮って討とうとした。信長は大いに驚いて兵を引き、

28日、朽木越えのため引き返した。越前勢は追いかけて戦い、信長はまさに討死せんとしたが、
松平三河守家康が後殿して朽木谷に差し掛かった。この時、朽木信濃守元綱は8百余騎で難所に

引き受け信長を討とうと遮った。信長は通れず、松永弾正久秀は朽木と旧好があったので松永が
まず行って朽木を頼んだ。

朽木は節義も一時の所縁も忘れてこれを許し、信長を通した。信長は虎口を逃れて京都に至った。
近江の諸士は皆、朽木に義のないことを憎んだ。浅井長政は朽木を辱めて曰く、

「元綱はなぜ馬を他門に繋ぎ肩をそばだて尾を振るのか! そもそも朽木は江州先方の士にして、
しかも佐々木家血脈の一流ではないか! その業の口惜しきことよ、名字を汚した士なり!」

これに朽木は一言の返答にも及ばなかった。

――『浅井日記』



50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 10:15:27.32 ID:c4dUWH66
きっと松永が朽木の子息を拐って手出ししないよう言い含めたのだろうな

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 10:44:03.08 ID:uwltokou
まとめブログの8605
草が風になびくような

>家康は
>「お前のような地位の低いものは、草が風になびくようなものであるから、深く責める必要はない。
>本領安堵はこれまでと変わらない」
>とおっしゃったので、元綱も家康の寛容さに感動し、涙を流しながら退いたそうだ。

「朽木越えの時は助かった」とでも言えば家康の株はもっと上がっただろうに

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 21:26:17.80 ID:R8yzVX6v
赤座、小川「…」

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/25(土) 12:09:54.01 ID:wY6mtzYB
>>51
王者は誰にも頭を下げないし、例え黒であっても白と言い切り白と認めさせねばならないのだよ

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 09:32:55.76 ID:Ak7DzSzb
>>51
家康は取り残されてたから朽木越えしてねえよ。
秀吉と一緒に普通に撤退だ。

右府信長公は末世において稀なる大将

2018年08月22日 19:24

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 18:21:57.45 ID:LwZBVn2t
織田信長は若年より弓箭を業として長じ、今天下を平らげたが、戎夷猶属せざるもの多かった。
そのため昼夜天下一統の事業のため暇なく、士の賞罰、国の安否、おおよそそういった物ばかりで
心安らぐこともなかった。

しかし、多くの場合己の功に誇って、古き事などは嘲り要らぬことと思うのが世の常であるのに、
信長は古き政に心をかけられ、それを知る者には様々に尋ねた。これは絶えてしまったものを継ぎ、
廃れたものを興そうという心からであった。
中でも、右筆である二位法印(武井夕庵)には特に尋ねること多く、夕庵も事に触れて信長を諌めた。

或る時、夕庵が申し上げた
「朝廷の節会が久しく廃絶して、中老以下の者では礼楽の事名も知らず、勿論見聞など夢にも
経験がなく、哀れにもその様になって十年あまりも過ぎたため、我が朝の礼楽は跡形もない
有様です。
国家を治めるには礼楽の正しきを以てする事、和漢の流例であり、哀れにも浅ましいことです。」

こうしめやかに語った所、信長がそれを痛ましく思う表情は、涙もさらに咽び顔であった。
上下万民を一子として天下を慰撫したいと二六時中励んでいるその耳に、どうしてその言葉が留まらない
事があるだろうか

「直ぐにお前たちで対策を計るように。そういった事は誰に問えば良いのか?」

「何と言っても、禁中伺候の老者たちでしょう。」

そこで誰彼と人の薦めるにまかせて問いただし「先ず何から初めて興行すべきか」と
詳細を求め、菅屋久右衛門尉(長頼)、武井夕庵を以て夫々改めた。
節会、あるいは謡物などにおいて、中老以下の諸卿殿上人も、まるで今はじめて稽古するようで、
大変趣深かった。

このようであったので、貴賤おしなべて、この右府信長公は末世において稀なる大将であると
誰言うと無く諷した。

(甫庵信長記)

古を尊び旧来のものを復興する事に熱心な信長



201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 19:22:27.49 ID:EP5h4uYx
>>200
意外と皇室を大事にしてるんだよね~。

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 20:46:30.27 ID:hlLUN9am
朝廷・公家に対してラディカルにめちゃくちゃやらかすのは秀吉のほうがよほどひどいのに、
なぜかそのイメージが信長についちゃっているんだよなぁ。

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 22:15:31.40 ID:Hw58TqZF
まるで儒者だな
国学者の書いた創作の文ではないか?

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 22:42:27.63 ID:CBq0+MkX
朝廷にこまめに献金してた=皇室の権威を重んじていた大名って、毛利家と織田家ぐらいしかわからん。
朝廷が間に入れば両家の和睦ができたんじゃねえかと思う。

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 23:32:48.70 ID:3GVdf7rN
信長以前は大内が莫大な献金してた

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 07:46:09.66 ID:0Yr8qeZS
信長のは親父譲り

各々数年心身を苦しめ、勲功を積んできた故に

2018年08月21日 19:43

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 14:29:17.07 ID:UbRWxlbF
去る程に、天下泰平に治まり行くによって、大名小名は尽く安土に集まり、織田信長に対し
歳暮の御礼を申し上げた。棒物(歳暮の御礼の贈り物)の類の夥しさは、限りもないほどであった。

明ければ天正6年正月の早旦、信長より諸侯大夫へ御茶を下されると兼ねて仰せが有ったため、
寅の刻(朝4時頃)より登城された。その面々は、まず三位中将信忠卿、羽柴筑前守秀吉、
二位法印(武井夕庵)、長岡兵部太夫(細川藤孝)、林佐渡守(秀貞)、長谷川丹波守(与次?)
惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀)、滝川左近将監(一益)荒木摂津守(村重)、市橋九左衛門尉、
長谷川入道宗仁、以上11名であった。

お座敷の構は、六畳敷に四尺の縁、床には彼岸の絵、中に万歳大海、右に松島、左に三日月。
花の水差し、周光茶碗、うば口の釜、竹筒の花入れといったものであった。

信長は自身で迎えに出られ、座敷へ招き入れた。そして手づから配膳された。
この座の衆の中には後に、あまりの事に何を食べても、一切物の味の記憶が無いと言った人もいたとか。

御茶過ぎて、その日出仕した者達へは、諸大夫までは三献の土器(かわらけ)を、福富平左衛門尉、
矢部善七郎、大津伝十郎、大塚又一郎らの御酌にて下された。
平侍以下にはお通り(お通し)が出された。

翌日、大名小名尽く召されて「殿守見参らせよ」と、名物の茶器をかれこれと御見せになり、
南蛮、大明、珍奇の茶の子、数を尽くして下され、その後こう言われた

「各々数年心身を苦しめ、勲功を積んできた故に、この山が成就した事は、誠に珍重余りある。」

そう再三に仰せに成ったため、諸侯大夫は皆、感動に首を地に付け御返事を申し上げる者も無かった。

同じく4日に、信長より信忠へ贈られた数寄道具が、万見仙千代(重元)の所で御開きになったが、
羽柴秀吉、武井夕庵、宮内法印(松井友閑)、林秀貞、滝川一益、長谷川与次、市橋九郎左衛門尉、
丹羽長秀、長谷川宗仁、以上9人を召されて、終日丁寧のおもてなし、誠に善尽くし美を尽くされた。

(甫庵信長記)

この時は「お前たちが頑張ってくれたおかげだ!」って言ってるのに、何故甲斐征伐の時「我々も頑張ったかいがありました」
って言った光秀はあんな目に…



191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 15:03:49.56 ID:hEIi7MKj
信長は躁鬱の気がありそう、自分のメンタル具合によって似たような場面でも処置がまちまち

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 15:05:49.13 ID:CBpikV1D
>>190
仕事を頼まれる時と、仕事をこなした後で
上司の腰の低さが変わるのはブラックあるある。

上司『工程ミスったんで、しばらくサビ残よろしく』
部下達『…』
上司『俺のミスだから晩飯奢るし…取敢ずやって』
後日
部下達『やっと終わったけど、上のミスでサビ残とかきついよねw』
上司『会社批判か?こ○すぞ!?』

193 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/08/21(火) 15:50:12.38 ID:bCT5bmSJ
飯食ってるなら仕方ないね

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 07:17:12.20 ID:jZ5eq/tb
小姓たちじゃなくて福富や矢部たち奉行らが酌をして廻るのか

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 07:29:32.93 ID:CLHFQZxu
滝川が地方に飛ばされると茶会ができなくなると嘆く気持ちがこれでわかった

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 12:20:47.49 ID:AAf+nT0O
>>190
光秀は対武田において何か貢献してたか?
おべっか使うような家臣は折檻されて当然だろ

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 12:56:14.23 ID:PXuG0xCs
おべっか?

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 13:43:03.41 ID:JOs6uGd/
ノブは新興成り上がりベンチャーの神経質社長やからな
そういう人物にありがちなステレオタイプの性格だったんだろう

仕事ができても人間性終わってるやつは今も昔もごまんといる

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 14:58:18.12 ID:L+C5gw+1
忠興さんとか鬼武蔵さんとか・・・

織田信忠三位中将任官

2018年08月19日 19:22

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/18(土) 23:37:53.43 ID:rihvtvBY
天正5年(1577)10月、松永久秀の反乱を滅ぼした織田信忠は、13日上洛した。
この時主上(正親町天皇)より、「今度凶徒たやすく退治せしむるの條、尤神妙」の旨叡慮あり。
三位の中将に叙せらるべきと、三条大納言を勅使として仰せくだされた。

信忠は勅使に向かって申し上げた
「厳かの旨、誠に生涯の面目と申すべきことです。であればこのように申すのは恐れ多いのですが、
昇殿の義を軽く御請いたす事には恐れあるべしと。愚夫(信長)より制せられております。
それゆえ安土の父に尋ね伺い、その上を以てご返事をしたいと存じています。如何お思いでしょうか。」

勅使は「それ迄には及ばぬことです。」と申したが、「問わなくては勅答も如何」と
再三申し上げたため、大納言は帰参して、この様子を奏上すると、主上も
「武勇智謀有る上に、謙徳をも守り、父の命を重んずる事のいみじさ、このような人物にこそ。」
と、君も臣も感じ入った。

さて、信忠より信長に飛脚を以ってお尋ね有るに、翌日未明に帰った。この返書を開いて見ると
『今度古兵の松永を早速に退治せしめる事、最勲功の至りである。然らばはや勅諚に従い奉って、
三位の中将に任ぜらるべき。』
そう書かれていたため、信忠は昇殿された。目出度いことである。

そしてお供の人々は過半が一両日も前に先立った後、同17日に、僅かに小姓ばかりを召し連れ
安土にお出であって、信長に御礼申され、そこから岐阜へと下った。

(甫庵信長記)

織田信忠三位中将任官のお話



187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 00:12:08.90 ID:Vh+8MRXk
城介はボンクラ扱いされる事が多いけど生き残れば柴田、丹羽はもちろん徳川、羽柴もただ従うしかない程の権威はあったと思うけどな

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 02:22:35.77 ID:MMEWa7kR
主人に断りもせずに叙せられ昇殿しちゃうのは凡夫義経くらいだろ

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 09:00:02.00 ID:7FRGYrbc
信忠がボンクラとは初めて聞いた

大徳寺総見院での信長の葬儀

2018年07月28日 19:08

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/28(土) 03:07:31.13 ID:NB6t5LP1
大徳寺総見院での信長の葬儀


惟任は長年将軍(信長)の御厚恩によりその身を立て、何度も栄華に誇り
遊楽をほしいままにしてきたので、(信長の)長久を希うべきなのに
故なく相公(信長)を討ち奉って、どうして天罰がないことがあるだろうか。
六月二日に害し奉れば、同十三日には自身の首を刎ねられた。
因果歴然なり。恐るべし恐るべし。

(中略)

秀吉の所生は、元来高貴ではなかった。しかしながら相公は五男の
御次丸(秀勝)を養子として下された。この上は秀吉も同胞合体の侍である。
御葬礼がないなどあってはならない。されども(織田家)歴々の年寄衆は
とりわけ御連枝が多いので、一旦(秀吉は御連枝に)憚って
六月より冬の十月に至るまで、少しの法事も行わないまま過ぎてしまった。
昨日の友は今日の怨讐、昨日の花は今日の塵埃といえど、誰が予期しただろう。
誠に下賤下劣の貧士貧女でさえも、その跡を弔う習いがあるのに
どうして人民の君主にそれがないのだろうか。
今法事をしなくては、千変万化の世間の行く末は測り難い。
よって十月初めより、龍宝山大徳寺でのべ十七日の法会を催した。

(中略)

十五日目の御葬礼の作法は諸人が目を驚かせるばかりであった。
まず棺を金紗金襴で包み、軒の瓔珞、欄干の擬宝珠はみな金銀を集め
八角の柱は丹青を施し、八面の間は紋桐を彩色していた。
沈香(香木の一種)から仏像を彫り出し、棺の中へ納め奉った。
蓮台野(火葬場)は縦横広大に作られており、四門の幕は白綾白緞子
方百二十間の中火屋があり、法経堂のような造りだった。
総廻に埒を結い*1、羽柴小一郎長秀(秀長)が警固大将として
大徳寺より千五百丈の間を、弓矢槍鉄砲を持った警固の武士三万ばかりが
路の左右を守護した。葬礼場には、秀吉分国の人々は言うに及ばず
合体の侍を悉く馳せ集め、そのほか見物の貴賤は雲霞のようだった。

(棺の)御輿の前轅は池田古新(輝政)*2、後轅は羽柴御次丸がこれを担いだ。
御位牌は相公の八男御長丸(信吉)、御太刀は秀吉が不動国行*3を持った。
両脇に連れた三千余りの人は、みな烏帽子藤衣を着用していた。

(中略)

秀吉は御次丸と共に焼香し、十月十五日巳刻に無常の煙となってしまった。
誠にこれが一生の別離の悲しみである。これを嘆かない人がいるだろうか。
特に秀吉は目も開けられない程で、涙を留められなかった。


――『総見院殿追善記』



107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 10:46:53.44 ID:txEyc0Bx
猿は演出家やなぁ

108 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/29(日) 11:37:09.99 ID:GLoZA45F
何となく、諸君らが愛してくれだカルマは死んだ!何故だ!?
を思い出しました、ジークジオン

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 15:39:06.51 ID:iCMkgUqJ
それは因果応報だからだよ

*1 馬場の周囲に囲いを巡らすこと。
*2 輝政はこの頃秀吉の養子となっており、織田家所縁かつ養子の二人に
信長の棺を担がせる政治的な意図があったとされる。
*3 信長遺愛の太刀。本能寺の変後に明智秀満が安土城から持ち去ったが
敗死ののちに秀吉所有となったとされる。

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 19:50:44.01 ID:OOqoj3kL
サスロ兄爆死で世論操作やな

111 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/29(日) 20:16:49.81 ID:ufzNrPWL
秀吉に旧主の信長を悼む気持ちが無かったとは思わないけど、やはり後々の事を思うと某SF傘アニメの国葬よろしく政治工作と言うか政治利用だよなぁ

【話題】織田信長に仕えた黒人侍「弥助」が世界で脚光

2018年07月18日 17:15

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/17(火) 17:16:20.74 ID:HBQe+2EB
https://newsphere.jp/culture/20180714-1/
織田信長に仕えた黒人侍「弥助」が世界で脚光 ハリウッド映画化も


映画化か、面白そうだけど、まさか白人がノブ役するんじゃないだろな



82 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/17(火) 20:53:55.29 ID:pQPinb+R
欧米からすると衆道はどうなのかな??ウィーン少年合唱団みたいなもんか…

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/17(火) 22:45:35.41 ID:H5KjFGzu
古代ギリシャから中世修道院にいたるまでやってることだから違和感ないんじゃない

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/17(火) 23:37:05.03 ID:IibntZeN
弥助とホモだちだったの?
特に関係なきゃスルーでしょ

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/18(水) 08:24:12.40 ID:uXyvS12w
キリスト教宣教師からは強く非難されたらしいけど。 主に、大内義隆が。

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/18(水) 08:40:54.03 ID:0wRJjWz4
どうしてすぐ衆道と結びつけたがるのか

常在寺の盛衰

2018年07月15日 17:55

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 20:07:50.52 ID:SA5mBLDe
永禄7年の9月中旬、織田信長は稲葉山城に移り、これを岐阜と称した。
この城の麓にある常在寺は、もともと寺領五百貫があったのだが、この時織田家によって没収された。
しかし由緒ある寺だったため、住職の日韵上人の申し出によって、日野村にて百貫文の朱印を賜った。

その後、信長は江州安土に城を築いて移り、嫡男信忠を岐阜城の守とした。
天正10年6月2日、明智光秀の謀反により信長信忠父子とも、京都にて生害した。
その後当城は信忠の長男である秀信の後見として、神戸三七信孝が住んだが、天正11年に柴田勝家と結んで
秀吉と戦い、これによって当城を去り、尾州野間の内海にて26歳にて切腹した。

この乱で常在寺も兵火に巻き込まれ、信長より賜った朱印やその他の遺物が焼失した。
しかし後に寺は再興された。

信孝の跡に岐阜城に入ったのは、少将豊臣秀勝であった。彼は織田秀信の後見であったが、
朝鮮の役の時に、肥前名護屋へ出陣し、彼の地にて病死した。

慶長5年、岐阜中納言秀信は石田三成に与して、東軍により岐阜城を攻め落とされ、終には紀州高野山に入って
没した。この時の兵乱で、瑞龍寺も焼けたが、後に再興された、しかし常在寺は、この秀信の時までは、
信長より賜った日野村百貫文の朱印地よりの収入を相違なく給わっていたのだが、秀信が滅んだ後は
寺領が断絶し、常在寺に今残るものは、斎藤道三の画像と、斎藤龍興の寿像だけである。

斎藤道三の画像は、道三が信長の北の方の父であることから、彼女が建立したものであり、斎藤龍興の寿像は、
その子息である龍興が建立したものだという。

(土岐累代記)

稲葉山の麓にあった常在寺の盛衰



932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 20:42:02.56 ID:WP6C3Ozs
織田家がいなくなったら、領地の保証もなくなったわけか。しかし、頻繁に焼けてるなあ・・・

信長と秀吉の違い

2018年06月10日 13:48

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 11:43:06.50 ID:+lBkktIw
天正13年7月、豊臣秀吉は摂政関白の両職を占められた。目出度いことである。
その御治世の賢きことを考えてみると、織田信長は義と剛のみを用いられたため、
敵対する者は不義であると、御身剛なるままにその根を絶ちその葉を枯らした。
また敵の方から降参する者をも、不義をして来た者であるからと、後になって害した。
そのようであったので降参するものも無く、故に天下も静まらなかった。

一方の関白秀吉は、柔と剛を兼ねて用いられ、敵対する者へは、或いは先に扱いを入れて
それを聞かなければ攻められ、或いは先に攻撃してその後扱いを入れた。そして降参する者には
過分の領地を与えた。故に天下は早々に治まったのである。

(氏鄕記)

氏郷記による、信長と秀吉の違い



984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 14:15:52.84 ID:TtJ2yHhY
秀吉は、そうやって外様にいい顔したから、子飼いの武将があまり大身にならなかった側面があるような。

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 14:24:34.85 ID:08xhiQlf
譜代の石高が低いのは徳川も一緒じゃないかな

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 15:12:43.50 ID:KDd0fsGl
譜代に大身を与えたら反乱祭りになった足利幕府という例があるからな

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 19:41:46.61 ID:Lmu5ih2J
秀吉の場合理不尽に奪うケースも多かったと思うがなぁ( 奥州仕置とかが判りやすい )

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 00:42:38.28 ID:Vq/uASs5
恩賞の土地が無くなってきたとか?

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 01:08:18.93 ID:r7KW5omB
理不尽っつーか、奥州とか九州とか、よくわからない土地は自分の功臣にどかっと領地を与えるのに使っちゃった、ってことだろ。
奥州とか九州とか、先祖代々の入り組んだ関係を理解して公平にさばくなんて誰にもできない。

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 10:18:37.36 ID:1BvVKhuE
信長の場合、問題は、最初友好的だった戦国大名と、領土が近づくとことごとく敵対関係になっていること。

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 13:11:49.75 ID:Vq/uASs5
友好的な戦国大名って誰のことだろう
分かる人いる?

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 14:17:55.69 ID:sVJD/xBa
上杉や毛利でしょうね
ただし領地が接した途端に戦い始めるのは戦国大名としてはお約束の展開。
秀吉なんかも征伐、征伐だし

神戸乗っ取り

2018年06月06日 17:15

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/05(火) 20:11:50.13 ID:Dj4OAh2c
織田信長の次男(三男)である三七信孝は、永禄11年の伊勢攻めの際、神戸具盛との和睦に際し
15歳にて具盛の養子となったのだが、実は当初、信長は「同じ一族の内」と言うことで、
神戸氏の親族であり織田方であった関安芸守盛信の子息、関勝蔵を神戸家の養子とするという
約束をしたのだが、それを違え信孝を送り込んだのだった。
それ故か、神戸具盛は信孝を粗略に扱った。

これに対し信長は、元亀四年正月、神戸夫婦が年始の礼に参った際、彼らを取り押さえ、身柄を
蒲生賢秀に預け、近江国日野城に幽閉した。また信長は関氏に対しても悪く思われ、彼らの所領を
没収した。

神戸具盛はその後、日野にて相果てたという。

(氏鄕記)



852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/05(火) 20:28:03.15 ID:nPTUAMjV
関氏はのちに蒲生の配下になったから脚色でもされてるのかな
勢州軍記とはまた違う内容だ

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/05(火) 21:30:42.67 ID:XV5zybWD
関死の誤字はちょっと笑った