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細川父子の入部と丹後

2020年03月19日 17:07

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/19(木) 02:20:30.21 ID:5aU48FEL
細川藤孝・忠興父子が丹後に入国してくることが聞こえると、国中の侍たちは、隣城縁家もよりよりに通談した。

現在、つらつらと世の盛衰を考えてみると、元亀天正の頃は天下未だに半治半乱とは申せども、織田信長が天下を
知ろしめす事、掌を指す如き状況であり、その信長のほど近くに在る細川がこの国に来ること、皆信長の指示であると
考えるべきであろう。

であれば、恣に細川に楯突いて後難を招くよりも、早く和睦を以て細川に対面すべきか、
又は国中の各々が合わさって軍を催し、難所を前に細川勢に当たり防戦すべきか、
或いは所々の険城に国衆たちの大将が立て籠もり、細川の人数を所々へ引き分けて討つべきかと、
評議まちまちであった。

また、そうは言っても、親しき者は遠路を隔てており、近所の者は年来仇を結び、或いは煩わしい関係の者共であり、
この事遂に熟談せず、それぞれの心々になった。

ここに、与謝郡大島の城主・千賀兵太夫、日置むこ山の城主・日置弾正という者、両人語らい細川入部の迎えとして
普申峠の麓まで、互いに連騎いたしたが、日置弾正は隠れなき美男にて、衣装・馬鞍に至るまで、華麗な出で立ちで
あった。
一方の千賀兵太夫は元より貧にして、にくさけ男の違風者であり、衣服、馬具まで見苦しかった。
そこで日置弾正は千賀に対して戯言を言った

「初めて細川殿と会うべき身であるのに、そのような見苦しい装束があるだろうか。戻って肩衣に着替えてくるべきだ。」

これに千賀は大いに腹を立て、口論募り、喧嘩に至って両人即座に打ち果てた。家来も互いに斬り合って、
忽ちに死人七、八人に及んだ。

丹州三家物語



927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/19(木) 20:45:52.59 ID:Zi+2cZjs
どうなるのかと読み進めたら、斜め上過ぎる結果になって驚愕です
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尼子再興軍挙兵

2020年03月14日 15:07

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/14(土) 02:56:33.70 ID:HrhviztH
尼子伊予守義久の伯父である、孫四郎久勝、同弟・助四郎通久は(正確には義久の祖父・政久の弟・国久の孫であり…、
親族としてはなんと呼ぶのだろうか)、さる永禄九年十一月、雲州富田城が没落した後は、ここかしこに身を潜め、
牢屈の悲しさに涙が尽きる日もなかった。洛陽(京都)東福寺に隠蟄し、出家遁世の姿に身をやつし、時が来れば
義兵の旗を挙げ素懐の恨みを晴らさんと、年月を風に吟し月に嘯き、怨みを山陰の雲に憤って明け暮れて座していた。

その頃、尼子一族譜代の郎従である山中鹿介幸盛。立原源太兵衛久綱、加藤彦四郎経盛も、京の嵯峨の辺りに居たが、
大江羽林(毛利元就)が九国(九州)を攻めて大乱に及ぶと聞くと、「今こそ、義兵を起こし鬱憤の旗を押し立て、
山陰道に討ち向かい、尼子累代の本領を取り返し、勝久兄弟の素懐に達するのは如何か」と議した所、
みな「尤も」と了承したため、急ぎ二条の御所に参り、委細を訴え出た。

織田信長はこれを聞くと、大いに喜んで言った
「関東では武田信玄が陰謀を呑み、西國では大江羽林が毒石を含んでいる。天下始終の魔障は、彼ら両勇である。
昔、漢の高祖は義帝を立てて秦の代を滅ぼし、周の武王は木主を作り殷の代を傾けた。幸いにいまここに、
勝久、通久の兄弟がいる。早く彼らを大将に立て、義兵の旗を挙げるべし!」

そう応じられ、御教書を調え、丹波、但馬の勢二千余騎を以て加勢に付けた。これに尼子孫四郎勝久、助四郎通久の
兄弟は、蟄望たちまち発し、虹龍が一陽の気に乗って天に上る如きであった。
尼子譜代の郎従に一言、芳恩の武士への催促を促した所、恨みを一刀の刀に掛けた兵たちが馳せ集まり、程なく
七千余騎となった。

雲州軍話首

しかし信玄と元就で「天下始終の魔障」とは、また偉い言われようですね。



762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/14(土) 07:31:17.81 ID:OFEQsci3
>>760
>天下始終の魔障
>虹龍が一陽の気に乗って天に上る如き
言い回しがいちいちかっこいいwこういうのが講談の元になったというか発展したのかな
現代にも講談→小説→漫画としてつながってる気がする

764 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/03/14(土) 10:43:25.29 ID:CEi3z3Cr
>>760
>正確には義久の祖父・政久の弟・国久の孫であり…、
親族としてはなんと呼ぶのだろうか

「はとこ」と言う

御自身御取り立ての侍によって命を失われたこと

2020年03月08日 15:35

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 11:04:03.83 ID:T94EJuRk
天正十年には正二位右大臣平信長公、嫡男三位中将信忠卿御父子、甲斐国へ御出馬有りて武田四郎勝頼を討ち果たし、
瀧川左近将監一益に関東八州切り取りにし、それより出羽奥州まで打ち平らげよと遣わした。

その頃、次男北畠中将信雄朝臣は伊勢国ホクスミという所へ、大河内の城を移され松ヶ島と改められた。
また、土佐国守護の長宗我部より、四国の大将を申し乞いければ、三男神戸三七殿に四国を給わって大将に
遣わされた。この時、関安芸守盛信は江州日野に預け置かれていたが、勘当を許され、流石文武を得たる者なればとて、
本領伊勢亀山を給わり三七信孝へ付けられ四国の御供に遣わされた。彼は蒲生賢秀の娘婿であったので、日野よりも
結解十郎兵衛を盛信へ付けられた。
こうして、信孝は一万五千余騎の人数を揃えここに神戸を立って摂津国住吉に下着された。

この時、羽柴筑前守秀吉は近年播磨国に在って中国毛利右馬頭輝元と合戦し数ヵ国を切り取ったが、将軍(信長)が
今度西国に出馬あって、九国二島(九州全域)まで太平に帰せんと宣いて、諸勢に触れさせられ、、京都にて
御勢を待たれるために、先手、手廻ばかりを召し具され、信長公、信忠卿御上洛されて仮に京都に御在されたのだが、
同六月二日、丹波守護明智日向守光秀が謀反を企て、二万余騎にて攻め上がり、先ず信長公を本能寺に取り囲み、
攻め奉った。この時戦うべき士卒も無かったため、将軍も叶わせ給いはて、遂に御年四十九歳にて御腹を召し果てられた。

次に信忠卿を二条の御所に取り囲み、御腹召させ奉る。御年二十六歳にお成りであった。

数度の大事を逃れられてきた将軍(信長)であったが、光秀という御自身が御取り立ての侍によって命を失われたこと、
御果報の程を申すも中々口惜しい事共である。

氏鄕記

「氏郷記」より天正十年の本能寺の変までの様子。長宗我部が信長に敵対したのではなく、むしろ信長に四国の総大将を
求めて来た、という描写はちょっと面白いと思いました。



906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 19:08:14.52 ID:sPex4AbI
>>905
信長が将軍というのは大将くらいの意味なのか、はたまた征夷大将軍なのか。いろいろ特殊な史料ですね

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 20:15:30.80 ID:U+SZeuSt
ヨーロッパの人は大名のことをショーグンっていうよね

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 20:38:14.12 ID:gAuGI6S0
ショーグンがジェネラル的な訳だと日本の王と伝わらないのでタイクーンなる単語が出来た

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 23:33:22.46 ID:sPex4AbI
将軍は台風や津波ということだな

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/09(月) 19:55:32.70 ID:9Wi1g3Dz
頼朝と同じ右近衛大将になってるからかな?

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/10(火) 16:37:09.05 ID:B1PPJbD0
氏郷記を読んでみたけど、この章から急に信長公や信長卿から将軍に変わるね。
官位としては右大臣と明記(やめてるはずだけど)しているし、一般名詞として使っているみたい。

北畠具教の滅亡

2020年03月07日 16:31

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 11:03:05.01 ID:4mIamn/1
天正四年には、織田信長公は近江国安土山に城を拵え給いて、岐阜は御子信忠へ譲られた。
同五月に大阪を攻め勝利を得られた。
またその年、伊勢国司北畠権中納言具教卿をも討った。

この北畠具教卿と申すは、心剛にして力も強く、塚原卜伝の一の弟子であり、兵法は一の太刀をも極められていた。
そのような人物であったので、信長の次男・信雄を養子にされたと雖も、自分の孫婿として田丸に置かれ、
主城である大河内には自らが居し、多気には子息の左中将信意(具房)を置いた。

信長はこの状況を然るべからずと思われたのか、去々年より、長島城に北伊勢四郡を副えて置いていた
滝川左近将監一益に、「国司(具教)並びに一味の大名共を謀り討て」と宣うた。
そこで一益は信雄と申し合わせ、鐘を合図として、ある朝国司の御所に押し寄せ、また同時に、北畠、大河内、坂、
名井、三瀬、羽瀬、長野などという一族を始めとして大名十三人を、味方の大名十三人の方へ呼び寄せて討った。

こうして北畠具教卿には味方が一人も無くなり、居合わせていた下臈たちも皆落ちていった。
しかし彼は究竟の強弓であったので、只一人門外に進み出て、差しつめ引きつめ、散々に射られると、矢庭に
鎧武者を多く射倒した。
そして殿中につつと入ると、大長刀を振るい斬って出て、また大勢の敵を薙ぎ伏せ、或いは十文字の鑓をかついで出、
或いは太刀を打ち振り斬って出、このように道具を持ち替え持ち替え兵法の秘術を尽くし給いし有様は、実に
雄々しく見えた。

卯の刻(午前六時ころ)から巳の刻(午前十時頃)まで戦い、遂に四十九歳にして討たれた。

こうして信雄は大河内城へ移った。国司の嫡男である北畠左中将信意については、「本より村上源氏の公家であるから」
として、京都に置かれた。次男は出家して奈良の東門院の御院家と申していたが、この事を聞いて、「如何様恨みを
散らさん」と、還俗して北畠具親と名乗り潜伏したが、恨みを遂げる力があるとも思われなかった。(この北畠具親に
ついては実在を確認できない)

氏鄕記



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 11:24:49.62 ID:D3fNQvLL
人間50年か
まるでドラマでのノブさんの最後のようだ

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 12:04:51.91 ID:oyNgTpDB
>>896
北畠信意は信雄ではないんだ

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 12:27:33.61 ID:4mIamn/1
>>898
どうもこの『氏郷記』は具房と信意(信雄)の諱を混同していると思われます。

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 13:08:04.80 ID:3FlUNxOP
https://i.imgur.com/RM8snGg.jpg
「信長の忍び」の具教暗殺場面
ドラマチックではない「刀も抜けずに殺された」
の方が真実な気がする

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 22:22:51.38 ID:z5ApWnH5
>>896
剣豪将軍らしい最後でこっちのが夢がある

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 22:34:24.41 ID:R5CMkxWC
>>901
剣豪将軍の話じゃないんだが?

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 23:35:06.84 ID:jDbW28ko
ロマンと実際どうだったかって別やしなぁ

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 08:46:07.12 ID:A/2T+4ly
>>902
将軍じゃなくて大名でした、失礼

織田信長による北伊勢攻略

2020年03月06日 18:36

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 02:18:33.57 ID:LPrscr5h
その頃、尾張国の守護であり、平相国清盛公二十一代の後胤である織田上総介平信長は(この場合の「守護」は
室町幕府の役職ではなく、単にその国の支配者という意味で用いられている)、武道に長じられていたため、
先の駿河国の守護。今川義元を討って三河遠江両国を従え、次に美濃国の守護斎藤右兵衛太夫龍興を滅ぼし
美濃国へ打ち越し、岐阜の城に居給いける。

その後、永禄十年春の頃、信長は数千騎を率いて伊勢国へ発向され、先手の兵たちは久須の城に押し寄せ攻め立てた
ところ、城中叶い難く思ったか、降参して先陣を申し請けた。その他当国の住人等降人に参る輩多かった。

こうして、神戸蔵人(具盛)の家人・山路紀伊守、子息久丞が立て籠もる高岡城に押し寄せ攻め立て、町口悉く
放火した。神戸城は北伊勢の要害であるので、すぐには落とせぬと見てこれより先ずは御勢を引き上げた。

翌永禄十一年の春、また信長は数千騎を率いて北伊勢へ出張し、高岡まで押し寄せると、北伊勢の侍たちの過半は
その味方に参った。ここに於いて、信長は神戸蔵人太夫方へ使者を以てこう宣った

『現在、源氏の輩は無道にして国土の乱逆は未絶である。故に信長は、苟も平氏の苗裔として、身をくだき
朝暮弓箭を放たず某逆の輩を討って国土を安んぜんと欲している。

御辺は平家の嫡流である、どうして一家の者と戦うのか。速やかに和睦し給え。
私が聞いている所によると、御辺は蒲生下総守定秀の娘の腹に一人の息女が有るが、子息は無いという。
私には数多の子供が有る。一人を養子に遣わそう。』

これを聞いて蔵人太夫も
「仰せの趣忝なし。」と同意し、直ぐに扱い(和睦)となった。これによって信長の三男、三七殿といって
この時十一歳の若君に、幸田彦右衛門を乳人として、その他岡本太郎左衛門、坂仙斎などという侍たち数多を
相副えて神戸家への養子に遣わされると、直ぐに祝言は調った。
こうして神戸蔵人太夫、嶺治部少輔、関安芸守を始めとして味方奉れば、北伊勢の侍たちは一編に従った。
そして上野城には信長の弟である織田上野介殿、安濃城には織田掃部助殿が置かれた。

氏鄕記

織田信長による北伊勢攻略についての記事。



708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 02:47:13.43 ID:fRaitGr9
そういえば織田信長の伝記?系の漫画なんかでも伊勢攻略の段ってなぜか飛ばされるよね
美濃とったらすぐ義昭奉じて上洛してって感じで
神戸氏に息子差し出したりなかなか重要視してるのに

神戸氏も北畠氏もなかなか凄惨な最期遂げてるし描きにくいんだろうか

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 10:29:29.38 ID:Lyr4UoL7
>>708
三河は安泰、信玄とは懇ろ。伊勢が安定するとこのときなら後背の不安がなくなり、上洛しやすくなるもんねえ
上洛に備えた事前作戦だから地味は地味だけど

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 11:02:11.23 ID:WzBM7Fcq
北伊勢侵攻は1567年初め~1568年半ばで、義昭が頼ってきたのは1568年7月
中小国人ひしめく北伊勢に勢力を伸ばした結果、
それまで北伊勢に影響力を持ってた南伊勢の北畠や近江の六角との対立が始まり
強力な敵を増やした藪蛇なわけで
上洛の事前作戦とはそこまで関係ないかと

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 11:59:50.31 ID:Lyr4UoL7
>>710
その前に一回頼られて、破談になってる。詳細は忘れたけど、六角の情勢かなんかじゃなかった?

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 20:33:32.50 ID:052K8XhH
>>708
信長公記に書かれてないからじゃないかな。

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 22:33:33.39 ID:Wo3VQ8NE
なんで太田牛一は伊勢攻略書かんかったのか
何か書くとまずいことでもあったんだろうか

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 22:58:11.06 ID:Lyr4UoL7
>>713
内容が薄いだけで巻二に出てくる。それよりエピソード0みたいな首巻がいい加減なのが気になる。後から書いたにしても、まだメモ魔じゃなくて記録がなかったのかな。
そのメモ全部どっかから出てきてほしい。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 18:25:54.32 ID:rkLCkXKD
単純に伊勢攻略が比較的うまくいって
あまり特筆することがないからかと

長野神戸北畠どれも家としては
一族養子にして吸収してしまってる
旧当主が不満から策動してたりはあるけど
いずれも大きな動きに発展せず成敗されてる

そこを細かく描写し始めるとかなりややこいし
マニアックな割に盛り上がらないから
さらっと流される傾向あると思うよ

信雄とか信包とか大河ドラマになりでもしたら
クローズアップされる機会もありそうだが
何処かが後押しするような人物でもないし難しいな

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 00:27:53.44 ID:kxooVDd2
>>716
世間の人が求めてるのは伊賀忍者vs信長とかそういうことでしょう

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 10:57:44.67 ID:fFDqWvdN
>>720
伊忍道か

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 14:23:20.71 ID:v4cf6sdX
打倒信長か

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 20:20:10.22 ID:gAuGI6S0
妖術師ニコラス

手取川の戦い

2020年02月20日 17:53

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/20(木) 14:34:54.30 ID:9EoSOrI+
天正四年五月朔日、上杉謙信の軍勢は長(続連)の城に押し寄せた。二万の軍勢を二手に分け、河田豊前(長親)、
柴田掃部(新発田長敦ヵ)、直江山城(大和守景綱の間違い)、北條丹後(高広)、荒尾一角、上村党一万にて
城を攻め、中條五郎右衛門(景泰ヵ)、甘糟近江(景持)、北條伊豆、竹股、色部、白屋、土岐等を御旗本に
加えて一万余の兵が松任に備えた。これは城の落ちない内に織田信長の加勢が来た場合に、戦を決するためで
あった。

謙信は甘糟近江に「汝のすっぱ(忍)を越前筋の五里を限りとして入置いておくように。信長勢の者共は
何れも陣所に柵の木を結んでいると聞いているが。」と密かに申し付けると、近くの者ばかりを召し連れ
諸手を乗り回し下知をなされ、大変念入りになされた。

織田信長へは長(続連)より、謙信が越中に御着陣されたその日より使者が立て続けに送られた。
『今回、もし首尾御違いに於いては、我等は輝虎旗下となり、先手を致して越前をその日の内に押し破る
でしょう。』
このように申し越したため、信長より後詰として差し越された人々は、柴田修理(勝家)、佐久間玄蕃(盛政)、
丹羽五郎左衛門(長秀)、長谷川於竹(秀一)、前田又左衛門(利家)、木下藤吉(秀吉)、徳山五兵衛(則秀)、
氏家卜全(直元)、滝川伊予守(一益)の大将九人、都合四万八千を松任の南大聖寺ヶ原へ差し越し、謙信の
陣所とその間二里であった。

しかし上方勢は恐れて河を越えようとせず、一方の越後勢は彼らを物ともせず、旗本一万は松任に備え、後詰の
受手を心がけ、先衆一万にてくり盾を突きにわか攻めにして、ただ一日に乗っ取り、長筑前守兄弟を初めとして
上下男女二千六百余人を撫で斬りとした後、直ぐに大聖寺後詰の陣へ謙信は使いを立てた

『明日卯の刻(午前六時ころ)、その方に謙信参り一戦を遂げる。』

そう申し越され、二万の人数を一所に集め、前後左右の手配りを丈夫にされ、一の鐘にて緒軍準備をし、
二の鐘にて武具を構え、三の鐘にて討ち立つ擬勢を見せた。

これを信長衆聞くと、前日に「河を越えて木下藤吉、佐久間玄蕃を先鋒として有無の一戦」と決した時の
気色は既にうち替わり、前田又左衛門、丹羽五郎左衛門が一番に崩れ河を引き返した。これを見て織田軍は
諸手騒ぎ、暁天に敗軍して、大聖寺河を急いで越えようとしたため歩騎数百人が流死したが、それにも拘らず
我先にと、跡も見ずにまだ夜も明けきっていない内に越前まで引き取った。

謙信は夜が明けて卯の刻、大聖寺に押し寄せ見てみれば、武具、馬具、兵糧所々に捨て置かれ人は一人も
無かった。謙信は大いに笑われ
「今まで堪忍出来かねず、蹴散らして河へ切り込んでやろうと思っていたのに、そこをよく察して
夜逃げするとは、然しながら聞くに違わぬ、信長家中の名人共である。」

と、却って褒められた。

松隣夜話

いわゆる手取川合戦についてのお話。どうでもいいけど松隣夜話、上杉家中の受領名や仮名は適当なのに、
信長家中についてはやたら正確なのは何なんですかね。



672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/20(木) 20:18:38.55 ID:ESupygtZ
越後から会津に移封なったりそのあと米沢にまた移封なったりで記録散逸したのかねー

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/20(木) 22:24:39.90 ID:hdagg7Kr
松隣夜話が作られた時代には織田・豊臣関係は資料が豊富そう
他の大名家はホントに縁がないと資料当たるの難しそう

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/22(土) 04:47:02.37 ID:CvAbB6Xc
おおかた上杉綱憲の御用学者が書いたんだろ

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/22(土) 15:37:24.41 ID:/J8VZAUW
貝原益軒は黒田藩の御用学者

と書いたら貝原益軒を中傷していることになるのだろうか

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/22(土) 16:26:46.06 ID:Se+Xrkr1
>>674
松燐夜話は、原文読むと解るが、基礎的な年代の間違いや文字の当て字がやたら多く、御用だろうが「学者」の書く文章ではない。

我等が首を切られないように

2020年02月19日 17:52

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/19(水) 15:18:10.60 ID:FZ2wos7X
長(続連)、神保(長住ヵ)が相謀り、上杉謙信と取合を始めんとする時、長は安土へ行き、織田信長に謁して
このように申し上げた

「ご存知のように、上杉輝虎は強き将であり、我々両人が相約し、敵対の色を見せれば、無二無三に押し来て
我等が首を切られることは目前であります。彼は大身である事と言い、その強さといい、殊に弓矢の道に
とっては神変とも申すべき名将ですから、我等の僅かな小勢ではどう考えても叶いません。
そのようにして負けた場合、我等は今年生まれた児童まで、越後衆に殺されてしまい、根を絶ち葉を枯ら
されるでしょう。

ですのでその時は、信長公ご自身の出馬があるか、そうでなければ柴田(勝家)、羽柴(秀吉)等の
数将を差し越され、我等が首を切られないように防戦されるとの事であれば、我々は二の足を踏むこと無く、
一筋に謙信と取合を始めます。

しかしそう出来ないのであれば。我等は妻子を世に立てるために艱難を凌いでいるのですから、輝虎と
対陣することは出来ません。」

そう、面と向かって申し上げた。信長はこれに大いに納得し、即座に誓紙を書いて長に与えた。
これによって長続連も二心なく安土の味方となることを決めた。

松隣夜話

いわゆる手取川合戦に至る、信長による長続連への援軍派遣を決めた時のお話。



669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/20(木) 00:31:36.05 ID:C9mdKgq2
>>668
連龍じゃないのね、これは。
信長出馬か勝家、秀吉出馬の下りは、いかにも結果を知ってますから感が強い。

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/20(木) 12:16:26.53 ID:Cr1Ny+sS
とは言うものの物語としては面白いです

謙信等の、諸将と自己についての評

2020年02月08日 16:56

611 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 04:52:53.84 ID:HS1E561+
(惜しきかなこの巻は二十片虫の害があり判読できず、現在に伝わらない。その末の一両(2ページ)ほど
僅かに残ったのが、以下のものである。)

三宝寺曰く「これは些か虚気たる申し事ではありますが、この御座敷でそのように慎む必要はないと
思い、お聞きするのですが、現在、日本には高名なる大将がその数多くおります。その中でも先ず上げられるのは、
北條(氏康)殿、織田(信長)殿、甲州の(武田)信玄、吾等の主人(上杉謙信)、又は安芸の毛利(元就)と
海道の(徳川)家康、このような所でしょうか。その中において、何れの家が終には天下を掌握して
全うするとお考えでしょうか。
現在は信長殿が畿内を仕配していますが、武田、北条あり、また謙信もこのように居られますから、
畢竟定まってはおりません。御了見の程を御次いでに承りたく思います。」と太田三楽に尋ねた。

太田三楽曰く
「そのような義は誰にとっても天命でありますから、人の予想を以て申すのは難しいものだと思います。
ですがそういった事は差し置いて私も申してみたいと思います。
先ず、私は毛利家については遠国であり詳細に承っていません。ですので何か申すべき了見がありません。
そうである以上私が語れるのは、御屋形(上杉謙信)と信玄と、北条と織田と徳川となります。

そのうち、北条家が天下を取るという義は絶えて無いでしょう。何故ならば、もはや北条氏康には
余命少なく、その上近年病者になり、久しくはないと見えます。またその子の氏政は、天下の義は置いて、
只今の四ヶ国すら人に奪われてしまうでしょう。かく申すわたしも、氏康より長く生きる事が出来れば、
現在の北条領から一郡一里であっても望みたいと思っています。

また武田信玄と御当家とは龍虎の争いとなり、どちらであっても一方が廃れない間は、双方月日を手間取って
他の方面への働きが出来ません。
信玄は当年四十八歳、御屋形は三十九歳、老少不定と申しますが、一般的には先ず歳上の方から先立つものです。
そう予想すれば、信玄の果報短くして近年にも死去すれば、たとえ信長家康を味方にしたとしても
上杉家に対して防戦することは出来ないでしょう。

しかしそうならず御当家と信玄が争い続ける状況が続けば、信長はいよいよ切り太り、終に四国中国までも
仕配するでしょう。何故なら上方筋の侍は軽率であり、一城落ちれば前後皆敵を見ずしても、開城し
退くからです。ましてや一、二度遭遇して手痛き目を見ては、後途の鑓にも及びません。

これに対し東国北国では、一度、二度、五度、六度まで攻め詰めようとも、まったく草臥れる事無く、
猶以てそれを餌にして、「命さえ有れば追い返さん」とのみいたします。このため、たとえ小敵であっても、
東国北国では、国郡を取るのに手間がかかります。徳川家康なども、現在は武田北条に接しており、
今後は切り取れる国郡も多くはないでしょうから、これもこの先暫くの間は、信長に対し手を出すことは
出来ないでしょう。

武将の器量を申すなら、徳川家康は抜群に優れていると思います。彼は凌ぎ難き場面を度々見事に
切り抜けています。但し、底意がいささかひねくれており、賤しき弓取りとも見えますが、それも
現在が末世の世でありますから、結果として良き事なのでしょう。
(家康抜群勝れ被申て候。凌き難き處をハ度々見ことに被仕て候。底意に些ひねくりて賤き弓取と見へ
候へとも、夫は今時末の世にて結句能ことにて候。)

信長は大気無欲であるだけで、それ以外はせわしない武将であるので、大身に成れば成るほど、慎み薄く、
無行跡なるあまり、命を全うすること定まらずと見ております。
信長が廃れれば、その後は家康以外には無いでしょう。
ではありますが、これらは皆定まったことではなく、世間に於いて命ある者の穿鑿に過ぎませんので、
二五十(2×5=10ということで、当たり前のこと)、又は二五七(意味は不明)を心得るべきでしょう。」

612 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 04:54:51.68 ID:HS1E561+
これに対し謙信公はこのように仰せになった
「実に言われる通りである。それについて、私はかねてから天下国家に望みはない。また軍の勝負にも
さほどには相構わない。ただ差し当たって致すべき図りから逃げないようにと嗜んでいる。その上で
死なば死ね、生きれば生きよと言っても、侍として生まれた者のうち、誰が生きるために引き下がる
だろうか。
差し当たりの図りという品々も、心得あるべき事だろう。悪く弁ずれば無理非道に落ちてしまう。

細かく申せば、各々ご存知であるので、この謙信の事は申すに及ばずないが、甲州の信玄などの守る所は
全く右のようでは無い。彼はただ仮初にも怪我が無いようにと嗜んでいるように見える。それに従い、
信玄ほど軍を締めて仕る人物は、古今例のないものである。但し、信玄が今まで軍に大きな過ちが
終に無かったのは、人を能く見る将であるからで、侍大将、足軽大将、或いは馬場美濃、真田弾正、
山縣源四郎、春日弾正、内藤修理、小幡山城、甘利備前、飯富兵部、原美濃守、その他勝れて能き者共
多くある故である。それも最も信玄の眼力が強き故であり、合戦に際して自身で下知し手配りをすることは
さほど無い。この者共を左右に置き、相談をして弓箭を締めて丈夫に行う故にあの如くであり、であれば
信玄一代の間は何処であってもきたなき負けは絶えて無いだろう。

信玄の内の者は誰であっても、人を能く遣うものだと思った事は、先年川中島にて、私は信玄の方便を
推量して、彼の意図を手に取るように理解し、この度は手に手を取り組み、雌雄を決しようと思った故に、
荒勝負を心得た者達を多く従えて、信玄旗本の先手である、武田義信の陣に切って入り押し立ったのだが、
この時武田軍の侍は言うに及ばず、雑人下部まで、敵に掛らずに崩れるような者は居なかったのだ。

通常、誰の下であっても一番鑓二番鑓までは持ち堪えても、三番まで耐えられる者は稀であり、四番に至っては
絶えて居ない。これは侍十人のうち五人六人は、敵に押し立てられて敵合いを成さずに崩れるためである。
しかし武田軍はこのようであり、よって何処との戦であっても甲州勢の大崩は有るまじき事なのだ。
味方が崩れなければ結果として敵は崩れ、信玄は軍において怪我をしない。

また北条氏康の家臣の者共の中に名高き侍大将は数多は居らず、彼は武田信玄に比べて人数の取廻しは
抜群に劣る。但し氏康は大度にてせわしくなく、士を慰撫して人を和らげ、大廻しの遠慮を能くしている。
これによって、彼もまた一廉の良将と言うべきである。

この謙信はこれらの名将と、さらに加賀越中衆まで相手に持ちながら、私が他の境は切り取っても、尺地として
我が領地を他より切り取られた事が無い。これは不思議では有るが、又その中に一理ある。

私は、貴坊もご存知のように疎略な人間であり、慎みを知らず、その上愚案短才である。だが果報いみじき
故だろうか、能き人を持った故に、隣国によって侵される事が無い。軍は一弧の業ではなく、人を以て
肝要とする。我が侍、いまここに有る十四人を加え、小身押込以上の四十余人の者達は、恐らく
武田北条家康信長の家臣たちを合わせてその中より勝れた者を選び出したとしても、我が四十余人より
勝れた者は多くはないと思う。尤も、彼らはただ軍陣だけで活躍し、他のことには思慮が浅い、という者達
ではない。氏康や信玄に私が劣っている分、また家来の侍たちに能き者が多いことで、双方の力が引き合い、
今まで彼らと相対することが出来たのだ。

しかし、謙信の人を見る眼力が強いからこのように仕立てることが出来たという訳ではない。私は
気儘な者にて、気の合った者ばかり手元に召し仕ってしまう。故に人物に対する穿鑿も大形である。
だが七人の者共(旗本七手組)は、念を入れて人を選んだ。如何様であれ、心に誠が有れば大外れは
無いものなのだろう。かくの如くである。」そう語られた。
松隣夜話

謙信等の、諸将についての評などについて



613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 05:17:32.84 ID:ilyao2vw
他家の将来について熱く語る前に自分の跡継ぎを決めておこうな

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 06:19:58.64 ID:WzA3eSgy
また斬られるかと思った

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:01:08.70 ID:POWo705j
この時期の記述でもすでに大名は天下取りレースしてて、それに対して謙信は天下取る気がないよって認識が出来上がってるんですね

この辺りはやっぱり二天が併存し得る訳がないとして、当然のように天下を狙い合ってる中華の認識が影響してるんですかね
実際は大名のほぼ皆が天下なんて面倒臭いもの誰も取りたくなかったろうに

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:17:32.61 ID:0RmwJlhl
今の自民次期総理候補と呼ばれている人たちが総理になりたがらないようなものか

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:21:33.36 ID:V6+QV004
>>611-612
概ねあたってるのが面白いな

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 10:04:30.11 ID:i9AdP1+r
まあ基本的には戦国大名は地方政権確立した人らで
中央政権には干渉されず勢力拡大したい

620 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/08(土) 10:51:35.18 ID:FBTlD/sc
松隣夜話』は越後流軍学の宇佐見勝興の作とされていますが、勝興の経歴の怪しさもよく知られたところです。
世間一般的にこういう認識が広まっていた、広めたネタ元の一つだとでも考えときましょうよ。

【雑談】織田信長についてのことなど

2020年02月06日 17:15

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 11:17:49.48 ID:5OMCCWI9
そういえば信長も無断外出した女房達を処罰してたな

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 11:49:01.96 ID:JdBizlSl
信長って安土に移った頃ですら馬廻りや弓衆に命令を聞かない連中がいて処罰してるよね

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:02:25.48 ID:1+5PdDNQ
信長の言う事聞かない家臣結構多いですよね
秀吉も手取川前だかに無断で帰ってるし

勝家宛だかの書状でも陰口叩くなよワシの方に足向けるなよみたいな内容出してる辺り
陰口叩いたり足向けるような連中である事認識してたわけだし

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:08:21.59 ID:OD3qETlT
火事があって引っ越してないのがバレてさらに燃やされたんだっけ?

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:41:09.38 ID:ytodUhRl
>>800
天正9年の桑実寺事件は同時代的にも異様なものだったらしく、
毛利へ「信長が取り乱している」と報告されてるな(石見吉川家文書)

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 13:27:34.45 ID:/N2UOQXO
信長居ない時のフリーダム感すげえだろうなっては思う

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 13:28:04.42 ID:ClW7PRNL
馬廻りは家族ごと安土に引っ越せって言われてたんだけど
家族を岐阜に置いてきてた人の家から火事が出て調べたら同じような奴がたくさんいて
岐阜の家を焼いて家族を強制引っ越し
罰として道路工事もさせた

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 16:57:49.65 ID:yuA3pMt6
そう考えると織田ですら大名集権化にかなり手間取ってたんだなーって、というか出来てないからド油断したのを抜け目なくやられたと言うべきか
大名はあくまでも権利の保証者であって一挙手一投足まで指図される謂れもないわって考えもありそうだし
戦国大名から近世大名化失敗しまくる大名が星の数程いたのもむべなるかな

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:18:38.98 ID:ClW7PRNL
ちなみに信長は着工してすぐ安土に来た
信長がせっかちなのを知ってる丹羽は屋敷を用意しておいたのでますます重用されるように

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:36:18.21 ID:n3zjBlsZ
信長は自分の意にそぐわないとすぐ激怒するイメージだけどな、馬廻り衆でさえ指示を聞き流しているのか

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:46:59.50 ID:1+5PdDNQ
だからこそ激怒しないといけないんじゃないの
いう事聞いてくれるならわざわざ激怒する必要もないし

急激に勢力でかくなったせいで集権化急がなきゃいけない状況になって
綱紀粛正するために厳しめで行かないといけないパターン

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:48:55.11 ID:KELwHSj/
秀吉が古参に対して恐怖政治をやった理由の一端なんだろうなぁ。

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:52:01.98 ID:dT08o3j2
秀吉は「信長の時代みたいに甘くない」って書状残してるくらいだしね。

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 19:21:03.19 ID:BVx81U5Z
激怒っていうか家臣はすぐに誅殺しないとダメなんだよ
そうじゃないと逆に自分が殺される
とオルガンティーノも書いている

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 19:38:25.63 ID:5aGsRTSp
>>761
>信長卿が武田勝頼を攻められた時、御嫡子である信忠公に数万の軍兵相添えて、関東へ差向けられた。
せっかく関東に差向けられたんだから、
そのまま武田領の上野に全軍で攻めこんでなに食わぬ顔で武蔵へ南下すれば良かったのにな。
>そして信忠公は関東平均を打ち納め、京都へ上洛された。
ここ、ここがアレだよね?高々甲斐を落として関東平均などと大抑にならずに、
愚直に武蔵まで押さえて本当に関東平均しておけば本能寺の変も起きなかったんじゃないか?

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 20:44:40.28 ID:yandyTqS
>>815
どうも甲州征伐の織田軍は兵糧不足に陥っていたらしいので無理だな。
なので昨今では、勝頼も粘ってたら織田軍は撤退したんじゃないか、なんて言われたりもしてる。

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 21:19:40.60 ID:ClW7PRNL
>>816
おもてなししてくれた徳川に米を置いていってるよ

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 21:41:04.61 ID:yandyTqS
>>817
平山優『武田氏滅亡』より、天正10年3月23日付山口秀景書状によると、この時の織田軍は
「一、信州雪深く一段と凍っていて人馬が足も立てることができない。寒さは想像以上である
一、不足しているのは兵糧で、諸陣は大変困っている。多くで脱走が起こっている」
と報告してる。また織田軍に対し家康、北条氏政から兵糧が提供されている。

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 22:29:26.79 ID:n3zjBlsZ
氏政から兵糧を貰っておいて関東制圧するぞとはならんよな

信長は律義で有名だから

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 23:38:00.41 ID:IgwN6hfh
>>819
北条が駿河に攻め込んだのに取り上げ、それどころか上野・北武蔵などの国人衆が
滝川一益の指揮下に収まることになり事実上領地取り上げになりましたけど、なにか?

そりゃ、信長死んだのがわかったら、即、滝川一益を攻めるわな。

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 00:37:29.52 ID:a/URv4ty
攻め込んだの滅茶苦茶遅いけどな

『高遠の屋根ふき衆』

2020年01月30日 16:17

森長可   
761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 01:28:48.66 ID:Ii3m2zTb
天正五年五月、森蘭丸、坊丸、力丸の三人共、織田信長卿が召し出され、御近習に召し使われると
仰せ付けになられた。中でも蘭丸は、器量人に勝れ発明であったので、御寵愛限りなく思し召された
故に、御側を離される事がなかった。

信長卿が武田勝頼を攻められた時、御嫡子である信忠公に数万の軍兵相添えて、関東へ差向けられた。
武蔵守(森長可)も手勢を率いてお供し、信州伊奈郡、小笠原掃部の城に武蔵守は取り掛かり、攻めた所、
早速に城を明け渡して降参し、城内の者達は旗下に加わった。次に飯田城へ押し寄せ散々に戦い勝利を得られ、
城を乗っ取り、首三百余を信忠公へ進上した。
そして高遠城へ取り掛かり、息も継がせず、各務兵庫、渡辺越中、豊前縫九郎、同市之丞、細野左近、林新右衛門、
同長兵衛、井戸宇右衛門、その他家中一命を軽んじて攻め戦い、この城も長くかからず落とした。

信忠公は御感限りなく、「今に始まらぬ武蔵守が働きよ」と御喜悦斜めならず、御感状を下され、信州四郡、
更科、高井、水内、埴科を下され、海津城を拵え住居すべしと仰せ付けられた。そして海津城の普請のための
軍営が成就した所で、近辺の野伏一万が海津城へと押し寄せ、鬨の声を上げた。この時海津城は未だ堀も
出来ておらず逆茂木すら無かったため、森勢は各々外へ打ち出て追い捲いて、火の出るほど戦った。
野伏たちは堪らず散々に打ち負け引き退いたが、森勢はそれを追い詰め追い討ちをかけて、首三千余を討ち取り、
信忠公へ実検に入れ奉った。信忠公は再び御喜悦斜めならぬ様子であった。そして降伏した小幡備中、春日周防
からの人質を預けられた。

舎弟蘭丸は京都に在ったので、海津城は各務兵庫を城代と為し暫く居住した。そして信忠公は関東平均を
打ち納め、京都へ上洛された。これらの事は悉く信長記に書かれている。

(枠外註:高遠の城攻めで、織田の兵は武田の鋭武に当たること能わず、森の兵は城の屋根に上り、
屋根の上より鉄砲を撃ち入れたとか。『高遠の屋根ふき衆』と言って、その頃物笑いにしたという。)

(兼山記)



汝も今より武蔵と名を

2020年01月29日 17:33

森長可   
582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 02:05:21.04 ID:nBERtwW+
織田信長卿が天下を掌の内に握り給い、内裏の修理のため伏見に御座を据えられた。ここで国々の
諸大名は残らず上洛するに於いて、瀬田の橋に関を置いて、通過する者の家名実名を尋ねた上で
通過する旨を仰せになった。

森勝蔵が家中の面々を引き連れ瀬田の橋に差し掛かられた時、関守の侍たちが立ち出て言った
「上意であるので、下馬をして家名実名を名乗った上で通られよ。」
勝蔵はこれを聞かれると

「急いでいるので御免有れ。濃州の住人森勝蔵と申す者である。御帳へ書くのはそちらに頼む。」

そう言い捨てて通ろうとした所、関守の侍たちは勝蔵の馬の口にすがり
「そのような事では通せない!その上乗打することは出来ない!」
そう言って鑓長刀を出し、番所は立ち騒ぎ色めき、「ここは通さじ。」と伝えた。

勝蔵はこれを見られて
「元来心得ない者達だ。乗打とは何事だ!公方の御前であればまだしも、汝らの如き侍の分際で
この勝蔵に下馬だと!?推算なり!」
(元来心得ヌ者共也。乗打トハ何事ソヤ、公方之御前ニテアラハコソ、汝等如キ侍之為分ト
此勝蔵ニ下馬トヤ推算也)

と太刀を抜き、二、三人の首を打ち落とし、諸鐙を合い懸け通られた。
関守の侍たち大勢がこれを追いかけ、大津膳所の町口の木戸を早く打ち閉めよと呼ばわった。これに町人共が
両所の木戸を打とうとしたが、これを見た勝蔵が「それ侍共、火を懸けよ!」と宣うた所、町人たちは
驚き木戸を開いた。

そこから駒に白淡噛ませ、伏見の御殿に着くと直ぐに御前に罷り出て、瀬田での事を委細言上し、切腹仕る
覚悟の旨を申し上げた。
これを聞いて信長卿はうち笑わせられ、「昔五条の橋にて人を討ったのは武蔵坊であった、汝も今より
武蔵と名を改めよ。」と、誠に御機嫌にて仰せになった。(誠御機嫌ニテ被仰ケレ)
満座の人々も、「実に忠ある武士のためしかな。」と羨ましく思った。
その年の内に侍従の位に上り、森武蔵守長可と申された。

(兼山記)



583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 02:08:42.18 ID:QnyOZgTw
長可も暴れてからやっちゃったと思ったのかちゃんと腹切るって言ってるのね

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 08:29:26.01 ID:61Wwk3D+
忠あるという概念w

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 11:43:47.15 ID:XF+bDJjT
ほんと若い奴に甘いな信長

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 12:18:16.89 ID:QnyOZgTw
これ信長の命を忠実に守って命落とした関の門番たちは補償なりあったんだろうか

森可成の件があったから森家に優しいのかそれともこういう荒武者好みなのか、どっちなんだろう

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 20:27:12.93 ID:vADGVagl
ちょっと悪い話の気がする
鬼武蔵を通せば信長に斬られ
信長の命令を守れば鬼武蔵に斬られる
関所役人としては回避しようのない絶『対』絶命

信長はその他一般には厳しく処断するけど
親しい奴には滅法甘いからなぁ…

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 22:47:43.41 ID:9dW4fkmE
>>587
関所の役人は武蔵を討取ればよかったんだよ

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 23:47:19.33 ID:vADGVagl
>>588
お気に入りを斬られてぶちギレた信長に斬られるに3000貫!!

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 07:31:15.36 ID:qL0nrU6k
>>587
>鬼武蔵を通せば信長に斬られ
信長はそんなことしないだろ、苦笑いしてあいつ相手ならしょうがないって許すよ

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 08:24:15.48 ID:AwV3CZX4
こうして関所が廃され楽市楽座がすすんだのであった

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 09:10:47.13 ID:Xt7Yd0o4
やらかした時に先んじて自己申告して責任取ろうとする
というのは上から見て可愛い部分かもなぁ

そう観ると鬼武蔵って傍若無人なやばいやつじゃなく
むしろコミュ力お化けだった可能性あるな
vsノブ特化かもしれないけど

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 16:24:41.88 ID:iZ8V0ScY
武士って基本コミュ力お化けじゃないとやってけないものね、コネ社会だし
古武士然とした武士って本来武士としちゃ異端も異端なんだろうなー

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 19:05:41.89 ID:DRGE5Nek
>>590
信長は感情の振れ幅が大きいから可能性は0ではないけど…
お気に入り以外だと怠慢や命令無視として激怒することが多いし
例外の対象は鬼武蔵であって関所役人じゃないし…

信長は京の民心掌握を重視して家中に身分の上下を問わず
京での振る舞いに注意する御触れを何度も出してる
二条城築城時に女にちょっかいをかけていた家中の者を
御触れを無視したと激怒し信長自ら斬り捨てたこともあるからなぁ…

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 08:44:00.65 ID:z9QzQJP3
>>592
気に入ってる幹部の息子だからだろ…

”岐阜”の変転

2020年01月28日 17:47

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/28(火) 13:40:48.67 ID:VFA0F6Hg
永禄七年(正確には永禄十年)九月中旬、織田上総介信長は稲葉山の城に移り岐阜と称した。
この城の麓、常在寺は元の寺領五百貫を召し放たれていたが、由緒ある寺であるので、当住の
日韵上人の申出により日野村にて百貫文の朱印を賜った。
その後、信長は江州安土に城を築いて移り給い、信長長男信忠を岐阜城の守とした。

天正十年六月二日、明智(光秀)謀反にて信長信忠父子とも、京都にて生害の後、岐阜城は
信忠の長男・秀信の後見として神戸三七信孝が当城に住せられた。

天正十一年、柴田修理亮勝家に同意して秀吉と取り合いが発し、そのため三七信孝は当城を去り、
尾州野間の内海にて、二十六歳にて切腹した。この時の乱に、常在寺も兵火にあい、信長より賜った
朱印、そのほか遺物共に焼失した。しかしながら、その後当寺は再興された。

三七信孝の跡に、少将豊臣秀俊(間違い。実際には豊臣秀勝)が住せられた。これは織田秀信の後見であった。
秀勝は朝鮮軍の時、肥前の名護屋へ出陣して、彼の地にて病死した、

慶長五年、岐阜中納言秀信公は石田三成に与して岐阜城は攻め落とされ、終に紀州高野山に入って卒し給う。
この時の兵火に瑞龍寺も炎焼したが再興された。常在寺は信長に賜った日野村百貫文の朱印を、秀信公まで
相違なく給わっていたのだが、慶長五年に秀信公が亡びられた後は寺領断絶し、常在寺に現在残っているものは、
斎藤道三の画像と斎藤義龍の寿像ばかりである。

道三の画像は、信長の北の方が、父のために建立したもので、また義龍の寿像は、その子息である龍興が
建立したものである。
常在寺の本尊である文殊菩薩は、昔長井藤左衛門長弘が本巣郡文殊の城が落ちた時、そこの文殊堂も兵火に
かかった。この時本尊を取り出し、斎藤氏の由緒ある寺なればと、常在寺に安置したものである。

(土岐累代記)

この常在寺に残った道三の画像というのが、有名なこちらですね。
https://i.imgur.com/RPTq9Wt.jpg
1024px-Saito-Dozan-2.jpg



斎藤龍興の没落

2020年01月27日 17:11

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/27(月) 14:05:59.36 ID:evGfP5sX
織田上総介信長はその心中に様々の計略を働かせ、美濃の旗下である稲葉伊予守(良通)を始め、
氏家常陸介(直元))、安藤伊賀守(守就)、不破河内守(光治)を味方につけて内通せしめ、
永禄七年九月朔日(実際には永禄十年)、大軍を率いて濃州へ討ち入り、稲葉山城東西南北に
火を放って焼き立て、息もつかせず攻め戦った。この時葦手の正法寺も兵火の余炎に掛かり
灰燼となった。土岐家数代の旧跡はこの時焼亡し、その後再興する人もなく、正法寺の名のみ残り、
退転した。
この時、瑞龍寺も焼亡したが、この寺は悟渓一派(悟渓宗頓:瑞龍寺開山。大徳寺52世住持、妙心寺
11世住持、妙心寺四派の一つ東海派の開祖)の旧跡であったので、再び再興された。

稲葉山城中は信長の攻勢に叶い難く、斎藤龍興は降を乞うて城を明け渡し、近江へと落ち行き、
浅井備前守長政を頼った。大伯父である長井隼人佐道利も関城へと落ちて、龍興とともに江州へと
落ち、後に越前へ越えて朝倉義景に与し、永禄天正の間、所々にて武功が有った。

龍興は天正元年八月八日、姉川の軍に討ち死にした。(姉川の戦いは元亀元年。実際には刀根坂の戦い)
また長井道利はその後将軍義昭公に仕え、摂津にて討ち死にした。その子は稲葉能登守(信通ヵ)の
家に奉公したという。

(土岐累代記)

後の反信長戦線の印象なんでしょうけど、斎藤龍興が浅井長政を頼って落ちていったという伝承もあったのですね。



どうして信長の命を受けられようか

2020年01月01日 17:32

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/01(水) 05:18:10.53 ID:f2m7axWc
長宗我部元親は、織田信長が上洛する以前より、明智光秀を通じて音信を成し、また斉藤内蔵助(利三)は
元親の小舅であり、故に斎藤、明智は専ら信長に対し、元親との和睦を進め、また元親は加久見因幡守を
使いとして太刀、馬、黄金十枚、鷹を献上した。信長はこれを悦び、元親の嫡男彌三郎に「信」の字を
賜った(これは明智がかねてより信長の申し述べていた故であった)。またこの献上の謝礼として太刀、馬を
元親に贈り、且つ四国は元親の切り取り次第とする朱印状も賜った。

ところが信長の上洛後、讒言をする者があり、「元親の勇名、彼は四国を平らげた後、必ず天下の患となります。」
と説いた。信長はこれに同意し、使いを遣わして元親にこのように伝えた
「阿波半国(南郡)、土佐は元親の領分とする。讃岐、伊予の二州は信長に献ずべし。」
これを聞いた元親は大いに怒った
「四国は私が切り取った国である、どうして信長の命を受けられようか。」と、返報すらしなかった。
これに対し、明智はまた使いとして、斎藤利三の兄である石谷兵部(頼辰)を遣わし、「和議を破るべきではない」
と述べたが、元親の怒りは堅く、明智よりの信長への使いも絶えた。

信長の子である三七信孝が四国を領するために出発し、三好笑岩がその先鋒とされた。信孝は陣を泉州岸和田に
敷き、五月下旬に、三好笑岩が先に阿波に至り勝端を攻め落とし、一宮蛮山に城を築いた。

六月二日、織田信長明智光秀のために弑せられた(四国の違変によって、斎藤利三がその身に災いが及ぶ事を
思い、明智に謀反を決意させたのだと言う)

(長曾我部譜)

いわゆる本能寺四国説ですね



721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 00:24:37.47 ID:8UXIolu7
>>713
長宗我部の国は俺のもの
俺の国も俺のもの

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 03:02:16.34 ID:GqVm1U9D
>>721
まあ、本能寺陰謀論はあくまで陰謀論だからどうでもいいとして、
この頃の信長は北条に対しても非常に高圧的な態度だったのがちょっと不思議。

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 06:26:47.36 ID:OtrX6ndU
北条が甲州征伐で役に立たなかったから?

724 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/02(木) 08:04:35.65 ID:Wcs3LzPY
>>723
むしろ甲斐制圧したからじゃないかしら。
信長って、武田や上杉、毛利に対しても最初は低姿勢だったけど本願寺降したり勢力拡大や地盤固めしていくに連れ高圧的になってくし。

725 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/02(木) 08:08:11.91 ID:Wcs3LzPY
>>724書いてて何となくジョジョの奇妙な冒険3部のDIO思い出した。

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 08:38:24.09 ID:i89aLd10
低姿勢にしてた武田上杉毛利に裏切られて
下手すれば滅亡に追い込まれかけたんだからキレてもしゃあない

727 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/02(木) 08:52:34.82 ID:xZSYssKi
>>726
盟友焼き味噌ダヌキを攻めた武田はともかく、上杉は自分からちょっかい出してませんかね?
毛利も安芸門徒の総本山たる本願寺に頼まれたら嫌とは言えないし。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 09:50:29.58 ID:Uvjf7L6k
>>724
信長だけじゃなくてあの時代のほとんどの武士のメンタルだと思うぞ

信長は京の町衆の面前で

2019年12月23日 18:36

432 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/23(月) 07:50:34.05 ID:njmClHvo
織田信長が若かりし頃の事、尾張統一を果たした1559年、彼は80人の側近を連れて室町将軍・足利義輝との謁見のため上洛する事になった。
その情報を得た隣国の斎藤義龍は好機到来と信長を暗殺するための刺客を選抜して信長一行の後を追わせた。
背後より刺客が迫り来ているとは知らず、京を目指す信長一行であったがこの時美濃からの刺客とは別に、尾張から信長一行を追う者があった。
男色でも知られる那古野弥五郎の配下で丹羽兵蔵と言う侍である。
丹羽と美濃の刺客らは偶然にも琵琶湖を渡る舟の上で鉢合わせ、互いに身の上話をする事になったが、相手の美濃衆を怪しいと感じた丹羽は、三河者を装い巧みに情報を聞き出すと、何と彼らは信長への刺客であると判明。
丹羽は素知らぬフリで京における彼ら刺客連中の宿舎を見定めると、そこに目印(柱を削ったとか)を付け信長一行が逗留する宿舎へ急行。
赤母衣衆の金森長近と蜂屋頼隆に報告。金森と蜂屋が信長にこれを報告した所、信長は美濃の出である金森長近に対し顔見知りも居るだろうから、
彼ら美濃衆に対し信長の元へ「挨拶」に来る様、伝達する旨を命じた。
金森は丹羽に案内され、刺客らの宿舎に向かうと彼らに面会し、暗殺計画が既にバレている事を告げると今なら穏便に済ますから信長の元へ「挨拶」に来る様伝え、刺客らの宿舎を後にした。
刺客らは翌日、今日の町を見物中の、信長と対面。信長は彼ら美濃衆に対し京の町衆の面前で

「この信長を殺しにわざわざ美濃より参った事、祝着至極である。だが、そなたらごときがワシに歯向かうのは蟷螂の斧が如しである。それでもやるかね!?」

と、啖呵を切った為刺客の者達は信長に対して詫びを入れると、はうはうの体で美濃へと逃げ帰ったと言う。

(信長公記)(名将言行録)

余談であるが、丹羽兵蔵が暗殺計画の情報を引き出したのは、刺客一行のなかの最年少の童であったと伝わるが、その方法が如何様な物だったのかは伝わっていない。



434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/23(月) 08:05:55.81 ID:1nldD7ts
>>432
原哲夫に採用されそうだな

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/23(月) 08:39:56.69 ID:z+pALg4m
信長公記の若き信長暗殺計画といえばまとめの2907
信長暗殺計画~比良の奥地に大蛇を見た!~

池の水、全部抜く
みたいな話があったっけ

437 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/23(月) 12:37:50.41 ID:DNuEgi6u
>>434
調べ直したら、30名くらいの徒党組んだ刺客集団を率いる6名の武士(小池吉内、平美作、近松田面、宮川八右衛門、野木次左衛門)に出会した丹羽兵蔵が、ただ事では無いと感じ、三河の人間を名乗って接近するも斎藤義龍の大事な用事とだけ答えて、後は喋らない。
そこで丹羽は賢い子どもを手懐けて、言葉巧みに彼らの目的を聞き出させた後に刺客連中の宿所を突き止め、金森長近と蜂屋に報告。
信長は金森長近を遣わし、金森は旧知の美濃衆に対し信長は君ら美濃衆の上洛知ってるから自分を挨拶に遣わせた。明日返礼の挨拶に来いと伝達。
ビビった美濃衆は指定された京小川表の管領屋敷で信長と対面して、>>432の通りの啖呵を切られてその迫力に黙り込み退散。
その後、信長一行は近江から念のためルートを変えて八風峠を越えて尾張に帰還。と言う流れの様だ。

そして信長公と御当家の間は手切れと成った

2019年11月24日 17:27

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/24(日) 11:57:49.42 ID:QkJb/iy2
織田信長公が大坂(本願寺)を取り囲んでいた時、大坂は御当家(毛利)に対し
『是非とも頼み申す。兵糧が続くことが第一なのです。何分にも頼み奉ります。』
と頻りに要請があり、このため二度にわたって兵糧を大阪に入れ、そしてこのために
信長公と御当家の間は手切れと成った。

信長公は伊勢の九鬼大隅(嘉隆)に命じて、河口に大船二艘を据え置き、城のように
配備した。そこに毛利家は芸州の警護船を差し上らせた。そしてかの二艘の大船を共に切り崩し、
兵糧を入れた。しかしながら織田方は信長公の命により大阪周辺に数多の付城を作らせ、
特に茶臼山に塙九郎左衛門(原田直政)を置いて諸口を手堅く保たせており、この包囲を
破ることは出来ず、大坂方は逼塞した。これについて御当家も木津に一城を造らせここに
粟屋内蔵丞を置いた。児玉内蔵大輔は御家中の警護船の運用をよく知っており、度々大阪表に
詰めていた。兵庫花隈城もこちらに従う事になり、杉次郎左衛門を置いた。

そのような中、城介殿(織田信忠)がこの方面に出陣してきたため、乃美宗勝が淡路より
加勢として入った。同じく桂民部大輔も罷り越した。

城介殿は人数三百程にて未明に城近くまで寄り掛かり、これを攻略しようと考えていた。
城中の者達は攻撃を覚悟していたのだが、どうしたわけか、晩の七時(午後四時頃)に
撤退した。これに城中の者達は尽く寛いだ。

(老翁物語)

大坂本願寺攻め、特に第二次木津川口の戦いに対する毛利の認識。毛利としては、有名な信長の「大船」
は毛利の船団が切り崩し兵糧の搬入に成功した。ただし原田直政を中心とした陸上での包囲が固かった
ため攻勢に出ることが出来なかった。そのように受け取っていた模様。



信長一味の家康が遠き輝虎を

2019年10月29日 16:52

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 00:31:24.89 ID:DgcMBnn4
元亀三年正月二十八日、越中の椎名肥前守(康胤)方より(武田信玄へ)注進があった。その内容は、

『去年三月、徳川家康が越後の上杉輝虎(謙信)に二人の使いを以て起請を頼み入れ、謙信もこれを喜び、
家康に対し無沙汰あるまじと誓言したと言うことを確かに承った。家康より謙信への進物は唐の頭一頭、
輝虎は御返礼に月毛馬一疋を進呈した。

この事について長尾家の衆はこのように言っている。今回のこと、定めて家康が味方が信長だけでは頼り少ないと
考えた故であり、輝虎にとって喜ばしいのは、家康を旗下にするという事で、北国は言うに及ばず、都までの
信長の威光が振るわれている国々に於いても、謙信の弓箭が強いからこそ信長一味の家康が遠き輝虎を
頼んだのだと評判に成るであろう、と。

そういう事であるので、今年は謙信が信州に出てくることは無いであろう。』

という注進であった。

(甲陽軍鑑)

武田家に報告された上杉徳川同盟についての情報



287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 06:46:32.36 ID:MTRMYDbr
「唐の頭に本多平八」ってやつやな

翌年の四月十二日になって思い当たった

2019年10月27日 16:53

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/27(日) 14:07:37.07 ID:lugWOShB
元亀三年の正月二十一日に、武田信玄公は法華宗身延山へ御使を遣わされた。その子細は、
去年織田信長が叡山を焼いた事により、身延を新たな叡山になさろうと考えられ、身延山を
御所望になられた。そしてその代わりとりて長野に寺を建て、今の身延より大きく御普請仰せ付けられ、
それを相渡すとの仰せであった。

身延山の各出家は御返事に、「日蓮聖人の御影の前で鬮を取った上で結論を申し上げる。」と、
鬮を三度、五度、七度まで取ったものの、合点の鬮を得ることはなかった。
その上山が変わらない祈念として、壱萬部の法華経を読んだ。また不思議なことに日蓮聖人の
御告げが多く有ったと沙汰された。

しかしそのような事を信玄公は知らず。是非身延を東の叡山にするべきであると内心定められていた。
「出家に悪く当たらぬ物」と言うが、これは翌年の四月十二日になって思い当たったものである。
武田信玄は元亀四年四月十二日に病没した)

(甲陽軍鑑)



上見ぬ鷲

2019年10月19日 17:28

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 13:45:37.91 ID:tJZLWrU3
甲州征伐の後、織田信長滝川一益を関東管領としたが、この時信長は関東における一益の行動に
便利なように、総州の千葉介胤富を一味につけようと(ただし千葉胤富は天正七年に死去している。
後を継いだ千葉邦胤との混同であり、以下邦胤とする)、書状に名馬一頭を添えて使者を出した。

ところがこの書状を見た千葉介邦胤は、その内容が無礼であると激怒した

「甲州の武田が没落し、小田原の北条も織田へ付いたからと言って、上見ぬ鷲(鷲は他の鳥を恐れず、
警戒のために空を見上げる必要がない。何も恐れはばからぬさま)の思い上がりである!
このような書状をよこすとは奇怪至極、たとえ総州の千葉介邦胤小国とは言え右大将頼朝公以来の
名家であり、関八州に於いていずれの列侯が、わが千葉介の上座に座るというのか。
一時の武威に奢り、誰もが彼になびいて来ると思っているのだろうが、以ての外である。
返事に及ばぬ!」

そう言うと信長が贈った馬の尾を切って道へ放り出し、使者の頭も剃り上げて厩橋へ追い返したという。

(関八州古戦録)

どれだけ無礼な書状だったのか。



271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 19:42:04.34 ID:T3laPqfw
馬が可哀想だと思いました

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 20:53:47.18 ID:YAAZcgX4
一応文章は丁寧だったんじゃないかと推測
信長はその辺バカじゃないし、千葉側も情勢を知ってるし
・人質の要求
・回答期限があった(せかした)
・領地替え
怒るとしたらこんなとこ?

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 21:35:28.80 ID:vgH2YXzB
そもそも関東管領にしたって時点で創作だろ

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 23:00:55.59 ID:8Bh4YjPD
別所もそうだけど武士の意地で勝てない戦やらされる家臣はたまらんかったやろうねえ

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 23:05:53.47 ID:zpNVJK7z
戦国時代は割と簡単に主君を見限ったりするんじゃなかったっけ

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 23:56:14.14 ID:vgH2YXzB
メンツは命より大事ってのは前近代では普通だったからそこは仕方ないけど

皆もこのざまを見ろ

2019年10月18日 17:06

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/18(金) 13:57:46.00 ID:mXMwVoJ5
信濃国安曇郡吉田の城主である木曽左馬頭義昌は、武田信玄の妹婿であり(実際には娘婿)、
信玄の無二の幕下であった。しかし信玄亡きあと、その後を継いだ勝頼と不和に成った。
そこで勝頼はこれを攻め滅ぼさんと、武田逍遥軒(信廉)に小山田備中守昌行、横田十郎兵衛守昌などの
部将を付けて出陣させた。もちろん木曽義昌にも油断はなかった。

天正十年正月二十八日、敵味方の激しい戦いが始まった。木曽方で奈川の城主・木曽兵部丞仲親、および
今井丹波守などの働きで、武田方は一旦退かざるを得なかった。

この間に木曽義昌は岐阜の織田信長に助勢を請うた。それについて、甲州乱入のための手引をしても良いと
伝えた。信長は大いに喜び、嫡子秋田城介信忠に先陣を命じた。
信忠は五万余騎を率いて二月十二日に岐阜を出発し、信州伊那郡高遠へ押し出した。
加勢の徳川家康も、三万騎を率いて二月十八日に遠州浜松を出た。案内役は穴山陸奥守入道梅雪庵で、
富士の麓の川内通りから市川口へと押し出した。
これらに続き信長も、三月五日に七万余騎を率いて安土を出た。

武田家は新羅三郎義光以来の甲斐源氏の頭領として、現在数ヵ国を領している名高き大名である。
それをただ退治するという事では名目が立たぬと思ったのか、信長は前関白である近衛前久公を
担ぎ出した。一見朝敵征伐に見えるからである。人の口を塞ぐ信長の策であった。

三月十三日、信長の軍は信州根羽駅に着陣、翌十四日波合へ軍を進めた。十日には既に、城介信忠の名で
関喜平治、桑原助六郎の二人を降伏を促す使いとして出していた。
織田方の先陣は滝川左近将監一益、川尻肥後守秀隆であった。

そして甲州田野郷天目山に頼る所もなく彷徨っていた武田大膳大夫勝頼とその子太郎信勝は、
織田方に捕えられる前に自害した。

彼等の首実検の時、信長はこのように言った。
「そなたの父信玄は、平生言葉に表裏があり、無礼無道であったため、その天罰が子孫に当たったのであろう。
こうして数代の領民を失い、かような仕儀となった。お主も思い知ったであろう。
皆もこのざまを見ろ。快いことではないか。」

(関八州古戦録)

関八州古戦録における、武田家滅亡についての記事。



521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:06:09.16 ID:A+Lsgv+W
>>520
このあとすぐに本能寺の変が起きるんだから皮肉というか面白いというか

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:29:00.86 ID:YAAZcgX4
文章から信長の絶頂点を感じる
強すぎて誰もかなわない感覚

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 11:23:30.95 ID:meTP904Y
5万3万7万で15万か
絶望しか無いな

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:26:36.49 ID:gY8uFqPv
「お前の父親は京入りが念願だったそうだから、お前に父親の願いを叶えてやろう」
と言った話も。なんて優しい信長

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:39:26.70 ID:Dc3TRckH
>>520
これだけで得々と先導する穴山梅雪って印象が出るのは何なんだろ
ああゆう末路になるわなあって感じの

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 14:11:28.28 ID:rHW680I5
そういえば、平清盛の絶頂期だった安徳天皇の即位から平氏滅亡も早かったよなぁ。
都落ちまでは3年、壇ノ浦まででもたったの5年。
執権北条氏も元弘の乱までは絶頂期で、それから2年で滅亡。

それを考えれば豊臣家は長生きしたほうなのかもしれない。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 09:16:13.25 ID:OKDUeII+
江戸幕府に比べるとスカスカの体制でよくあれだけ保ったなと
石田とか増田やらの奉行衆がよっぽど有能だったんかね

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 19:17:00.09 ID:CFGmSaJm
秀吉存命中に力を見せつけたおかげで、豊臣による秩序が生まれたから。

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/21(月) 15:14:52.67 ID:nRo1POF0
石田三成に人望さえあれば…