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6月28日姉川合戦・徳川勢

2018年11月15日 12:10

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 01:25:00.65 ID:AH/VRodr
(姉川の戦いの時)

28日の暁に信長が敵陣の様子を見られると、浅井勢は8千ほどが野村に備えて東にあり、朝倉勢1万5千ほどが
三田村に備え西にあって姉川を境に陣を取っていた。信長は徳川殿に使者を立て「昨夜軍議を定めたが、我が恨み
は浅井にあるので私が浅井を討つ。徳川殿は朝倉に向かわれよ」と申し送った。酒井左衛門尉(忠次)がこれを

聞いて「味方はすでに浅井に差し向かっています。今にわかに陣備を立て替えようとすれば隊伍は乱れましょう」
と申せば、神君は「浅井は小勢、朝倉は大勢だ。大勢の方へ向かうは勇士の本意である。とにかく織田殿の仰せに
任せる」と御返答されてその使者を返し、にわかに軍列を立て直し西北に向かい直された。

(原注:『柏崎物語』によると南は横山、東は伊吹山と草野山の間より姉川は流れ出る。堤26丁程の高岸なり)

(中略)

徳川勢先手が弓鉄砲を放ち掛けるのを見て越前勢大将・朝倉孫三郎(景健)が「この手の敵はわずかな小勢なり!
打てばたちまち破れるぞ!」と命じれば、平泉寺の衆徒は心得たと徳川勢に切り掛かり、姉川を追いつ返しつ戦う。
折しも6月28日の極暑であり、馬汗や人汗は流水に異ならず。浅井方では磯野丹波守(員昌)がこれを見て、

「越前勢は早くも槍を入れたるぞ!」と呼ばわり、西南に向かって千5百の勢を押し出した。越前勢大将の朝倉
孫三郎が味方を離れて百騎ほどで平泉寺の僧らが力戦する横合から切り掛かり、徳川勢を追い払わんとするのを
見て、御本陣より本多平八郎(忠勝)が急いで馬を馳せて、雷の如く駆け来たるとこの敵を突き破った。

大久保兄弟(忠世・忠佐)と安藤彦四郎直次も同じく馬で馳せ来たりて奮戦する。朝倉孫三郎も激しく命じ諸軍を
進めて敵を川の向こうへ追い立てようとした。石川伯耆守(数正)は姉川の中ほどで返し合わせ、大塚甚三郎は敵
の槍を引き合ったが、ついにその槍を奪い取って敵を突き伏せ首を取った。この功により“又内”という名を賜る。

内藤正成の子・甚一郎正興(正貞)は槍を敵中に落としたので馬を乗り戻し、その槍を取って帰って来た。この時、
朝倉後陣の勢と浅井勢とがひとつになって進む。神君は御覧になって「これでは織田方は利を失うと見える。旗本
より敵の備を崩し掛かれ!」と御命じになり、本多平八郎は「畏まり候」と槍を引っさげ朝倉の1万余騎の中へ

喚いて掛かる。本多豊後守(広孝)を始めとして徳川勢は「平八討たすな!」と一同に3千ほどが突いて掛かった。
松井左近(松平康親)は左手を鞍の前輪に射付けられながら、その矢を抜いて敵を射倒した。松平甚太郎(家忠。
東条松平家)16歳は良く戦った。朝倉方は魚住龍門寺(左衛門尉)ら8千余騎が御本陣を目掛け突いて掛かると

大久保忠勝の子・新八郎広忠(康忠)を始め大久保党やその他に小栗又一(忠政)・服部一郎右衛門などがこれを
迎え打ち高名す。その中でも大久保権十郎忠直は敵の槍を奪ってその敵を突き伏せ首を取った。よって“荒之助”
という名を賜る。この時、神君の御下知あって、榊原小平太(康政)・本多豊後守に「敵の横を打つべし!」と

命じられた。小平太が左右を顧みると前方に水田あり。底は砂石で渡れるので、小平太が馬を乗り入れたのを見て、
豊後守とその子・彦次郎康重や渡辺半蔵(守綱)・本多三弥(正重)・水野太郎作(正重)も進み突戦す。小笠原
与八郎(信興)も進み戦えば、その手の者の渡辺金太夫・門奈左近右衛門・吉原又兵衛・伊達与兵衛・

中山是非之助など(姉川七本槍)も勇を振るう。越前勢はついに敗北して小林瑞周軒・黒坂備中守(景久)・前波
新八郎・同新太郎・魚住龍門寺などといった主だった輩が討死した。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


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江州の滑者共さこそあらめ

2018年11月14日 19:13

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 06:37:54.35 ID:Kme0DLVB
永禄11年(1568)9月7日、足利義昭上洛のため六角承禎父子を討伐するべく織田信長は大軍を
催して近江へ出陣され、同8日、平尾村で人馬を休められる。11日には愛知川に着陣し、その近辺を

放火なされた。さて敵地に入ってみれば佐々木六角父子の設けた砦が数ヶ所あったが、織田殿は「諸塁
には目もくれてはならぬ。箕作・和田山両城を攻めよ」と手分けを定め、その後に宿老どもを召し集め

箕作城を攻める手立ては如何するかと評議された。坂井右近政尚が進み出て申すには「箕作と和田山の
間はさほど遠くはありません。敵もきっと互いに図り合って助ける手立てがあることでしょう。

幸いなことに、浅井備前守(長政)は味方であります。まずは和田山を浅井に押さえさせてしかるべき
でしょう」とのことで、織田殿も「もっとである。浅井はこの国の住人にして案内者であるから浅井に

箕作と和田山の間に陣を張らせて、和田山城を押さえさせよう」と仰せになり、佐々内蔵助(成政)と
福富平右衛門(秀勝)両人を浅井方へ遣わしてその旨を命じられると、浅井は「某父子はともに箕作

に向かい戦功を励みます。いかに織田殿の仰せであるとはいえ『和田山城の押さえをして手を虚しくし、
人の戦いを見物ばかりして日を暮らします』と申すことはできませぬ」と返答した。両使が帰って

その旨申せば、織田殿は重ねて両人を使者とされて、「浅井父子はそれならば急ぎ箕作城に攻め掛かる
ように」と仰せ遣わされた。浅井は承り「織田殿の御勢が攻め掛かる時は、某も引き続いて攻め掛かり

ます」と返答した。両使は立ち帰って来ると「近江第一の猛将と聞こえる浅井父子ですが、返答の鈍さ
からは近江侍の武勇の程が思い知られます」と申した。織田殿もこれを聞き給い、

「近江の浮かれ者どもはそんなものだろうよ」(江州の滑者共さこそあらめ)と打ち笑いなさり「それ
ならば我が手の者どもにこの押さえを命じる」と、美濃の三人衆といわれる氏家常陸介

(直元入道卜全)・稲葉伊予守(良通入道一鉄)・伊賀伊賀守(安藤守就)に、和田山の押さえを命じ
られ、また「箕作城の形勢を見て来い」と柴田修理亮(勝家)・森三左衛門(可成)・坂井右近の3人
に扈従・馬廻の侍5百余騎を添えて遣わされた。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』



441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 12:42:34.27 ID:bQ2xyhE3
姉川で備を突き崩されたのはこの時の近江弱兵の先入観が出来てしまったからだろうか

早くも軍伍を定めたぞ。心安く思い候へ

2018年11月14日 19:12

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 06:39:43.95 ID:Kme0DLVB
箕作城の物見に出た森三左衛門尉・坂井右近将監は敵方の足軽と交戦し、敵80余を討ち取る。かくて
信長卿が仰るには「首途は良し。魁の勢は尽く愛知川表へ引き取り、観音寺に向かって鶴翼に陣を取れ」

と柴田に仰せ付けられ、各々主だった人々を召されて「なんといっても、出征の印が無くては叶うまい。
箕作城を攻めようと思うがどうだ。皆々計らい申すべし」と仰せになれば、坂井右近将監が進み出て、

「箕作と観音寺の間は少しばかりの距離の様に見えます。佐々木父子は目の前にいるというのに、なぜ
これを捨て置くべきでしょう。まずは観音寺を押さえる御手立てこそしかるべきです」と申せば、

信長卿は「幸いにも浅井備前守にとって近江は自国である。さぞ案内を知っていよう。『かの両城の間
に割り入って押さえられ、箕作城を攻められよ』と使者を遣わしてはどうか」と仰せになり、各々は

「もっともです」と申した。そこで佐々内蔵助・福富平左衛門尉が参り、「浅井方にこの事を申せ」と
命じられ、両人は急ぎ馳せ向かってその旨を申せば、浅井も家老の者どもを召し寄せて評定したのだが、

どうしたことか御返事を申しかねる様子のため、両人はやがて心を定めて「これはどうにもならないな
(罷成候まじ)」と馳せ帰ってその旨申し上げると、信長卿もさぞ不快に思し召されたろうが、今回は
浅井と初めての御見参でもあるし、特に君臣の睦みも未だ物慣れていないので打ち笑いなされて、

「それならば我が勢をもって両城の間へ割り入らせて、承禎父子を押さえさせよう。備前守には箕作を
攻めさせよ」と重ねて両人を遣わされた。ここで信長卿はのたまって、「かの大変のろまな浅井の所存

ならば同城どちらにせよ矢は受けるだろう。(彼大ぬる者の浅井が所存にては、両城何れも矢はうけ候
べし)その上で尽くして早く早く評議せよ」と仰せになり「ただいま攻められなされ」と申す者もあり、

「いやいや夜に入ってから攻められてしかるべきでは」と申す者もあり。信長卿は内々夜に入って攻め
ようと思し召していたのか、「日中に攻めれば城中の兵どもの多くは漏らさないだろうが、坂井の申す

通りと同じく思う。皆々支度を致し、夜に入ったら攻めるべし」と軍中へ触れさせ給う。そこへ佐々・
福富が馳せ帰り「なかなか(浅井は)申し上げるまでもなし! 美濃・尾張の者の他には、勇猛の者は

おりませぬ!」と怒って申す他もなかった。信長卿はかえって両人の気分を労わろうと思われたのか、
「私もまたそう察して早くも軍伍を定めたぞ。心安く思い候へ」と、御心良さげに仰せになった。

――『甫庵信長記』



442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 14:51:12.18 ID:p3uXClc3
>>440
最後に怒ってる部下をいたわるのが良いなぁw

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 04:05:32.41 ID:fNoTZAMW
ボロカス言ってるけど地理的には浅井は重要な味方だからな
今後も度々使者に立つであろう両人の機嫌が良くないと
以後のやり取りで思わぬトラブルを産む事にもなりかねないし
信長一流の細かい気遣いという事か

そんな秀吉の元同僚

2018年11月13日 21:16

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 00:32:10.68 ID:ZVjC4cpg
日下部兵右衛門は、元は尾張の織田信長の家臣であったが、秀吉が未だ藤吉郎と称していた頃、
信長の命により、二人は堤の奉行をした。この時秀吉は褒美に預かったが、日下部には褒美がなく、
そのため信長の元を立ち退いて徳川家康に仕えた。

彼は関ヶ原の戦いの後、山城国伏見に在番した。この在番の間、常に下々に三度の食を食わせ、
自分の馬に鞍を置き、わらんず(草鞋)を傍に置いて、下々の者たちには身ごしらえを致させた。

彼は普段からこう言っていた
「もし不慮のことあれば、一番に城の大手に乗り出して討ち死にを遂げ、武士の職分を守り、
潔く死を善道に守ること以外は必要ない。」
自身も常に、そのように行動していたという。
(士談)

そんな秀吉の元同僚のお話



510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 00:01:48.69 ID:kj0e+PB+
>>506
かっての同僚が天下人となり
その天下人が築いた城の在番として生涯を終えるってのは、なかなか数奇なめぐり合わせだね

春の花に秋の紅葉を混ぜ合わせた様

2018年11月13日 21:16

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 15:04:49.28 ID:L+t9VgNU
織田上総介信長はこの度足利義昭を守護して近江より切り上り、三好・松永などの逆徒を誅伐して足利家
再興の功を成就し、中国へ旗を立て将軍家を堅く抱えて四海を令すれば、斉の桓公や晋の文公のような

覇業も瞬息のうちに定まるであろうと喜び勇み、その旨早く近国へ触れ渡されると美濃・尾張・伊勢3国
は言うまでもなく近国の諸軍勢は我劣らじと、美濃岐阜城下へ馳せ集まる者は雲霞の如し。

信長は近江一円の地図をもって軍議を凝らして、永禄11年(1568)9月7日、5ヶ国の大軍を引き
連れて早く出陣すべしと、まずは義昭の旅館・立政寺に参上して細川藤孝をもって申し上げられ、

「5ヶ国の大軍は早くも参着しました。よって速やかに上洛を急ぐべきといえど、近江の佐々木六角承禎
父子は内々に三好・松永などの逆徒と志を通じ、伊勢国司・北畠の加勢を受けてこの度の主君御上洛の

御道を遮らんとすると聞きます。まず承禎父子を誅し、彼らの首を刎ねて軍神を祭り、その後に御迎えを
奉りましょう」と御伝えすると、義昭も対面されて世にも嬉し気に「当家再興の事をひとえに頼み参らす」
と礼を厚くへりくだって仰せになれば、信長も「畏まり候」と返答なさって退出された。

(中略)

都合4万余騎と聞こえる織田勢は先陣がすでに近江平尾辺りに至るも、後陣は未だ美濃垂井・赤坂辺りで
遮られるほどの数だった。信長は先祖・平相国清盛より相伝の蝶1羽を染め出した赤旗と、この度義昭

より賜った桐紋・二引両紋の旗、斯波武衛家より伝えられた瓜紋の旗、また織田殿の馬前には黄絹1幅に
永楽通宝の銭を墨で描いた1流の旗、また妙法蓮華経と題目を書いた馬印9本を立てて、この日は

平尾村に着陣された。8日には近江南宮山に滞留されて人馬の息を休めなさった。茫々たる平原に色々な
旌旗が翻っている有様は、春の花に秋の紅葉を混ぜ合わせた様に異ならず。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 22:42:11.03 ID:E/F+EuE0
桓公に文公とはまるで漢書のような

伊予の身において誉れとすべし

2018年11月11日 16:24

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 03:32:25.39 ID:KKOyQnSl
(姉川の戦いの直前)

終夜火を焚く敵方を見た織田信長は龍ヶ鼻本陣への敵襲を悟り味方の備定めをされた。毛利新助(良勝)を神君御陣
へ使者に遣わし「明日の合戦で信長は越前勢に向かう。徳川殿は浅井に向かいなされ。しかしながら、御勢は多くは

ないので、誰でも加勢を申し付けよう」との口上をした。神君は聞かれ「私がここに来た以上は水をも火をも避ける
わけにはいきません。朝倉・浅井のどちらでも受け取り申しましょう。しかし左様な打ち込みの合戦はまったく本意

ではありません。強敵と覚える一方を受け取り勝負を決します。浅井の8千を我が3千で戦うことは、人数において
不足なし。されども加勢を添えて下さるならば稲葉伊予(良通入道一鉄)を差し遣して下さい」との御返答であった。

新助は帰り、信長はこれを聞かれて「徳川殿は伊予に将略があるのを知られて加勢に望まれた。この事は伊予の身に
おいて誉れとすべし」と仰せられ、伊予守に加勢を命じられ、重ねて織田勢を13段に定められた。1番は坂井右近

(政尚)、2番は池田勝三郎(恒興)、3番は木下藤吉郎(秀吉)、4番は柴田修理亮(勝家)、5番は明智十兵衛
(光秀)、その他に中条将監(家忠)・簗田出羽守(広正)などを堂々整々として備え、また丹羽五郎左衛門長秀・

氏家常陸介卜全・伊賀伊賀守範秀(安藤守就)などは横山城の押手と定められた。徳川勢は酒井左衛門尉(忠次)と
石川伯耆守(数正)を先手になされ、松平甚太郎家忠・松井左近(松平康親)・大須賀五郎左衛門(康高)・高天神

の小笠原与八郎(信興)など総じて2千余騎を2陣となされ、中軍の御大将左右に榊原小平太(康政)・本多豊後守
(広孝)が備え、稲葉伊予守を後軍として都合6千余騎なり。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


信長は手早き大将なので

2018年11月10日 16:44

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 17:20:01.51 ID:WhLjlONa
(姉川の戦いの直前)

織田信長は龍ヶ鼻に本陣を張り、総軍は横山城を取り囲んで攻めること急なり。城中には三田村・大野木・野村・
高坂、その他宗徒の者どもが少しも弛まず防戦するが寄手は大軍のために叶い難く、頻りに小谷へ加勢を乞うた。

浅井長政は小勢ながら捨て置き難く、8千余騎で小谷より出勢して大寄山まで着陣した。その時、越前よりも加勢
に朝倉孫三郎景健の1万余騎が26日に近江へ着陣する。神君は23日に近江坂田郡に御着きになり、24日に

信長の龍ヶ鼻の陣所へ御越しになって御対面された。浅井方では越前の加勢が来ることに力を得て「明日必ず一戦
すべし!」と評議した。長政の計策は「信長本陣の龍ヶ鼻まで50町あるので、ただちに攻め掛かれば人馬は

疲れてしまうだろう。今夜野村・三田村へ陣を移して、明日の夜明けに信長本陣へ切り入らん!」とのことだった。
浅井の家人・浅井半助はこれに「信長は手早き大将なので、野村・三田村までの陣替は覚束なく思われます。

今少し軍勢の様子を御覧になるべきでは」と申した。一方で遠藤喜右衛門(直経)は「長政の御謀はもっともなり。
是非一戦で勝負を決しなさいませ。私は敵中に紛れ入って、信長と引き組み討ち果たしましょう!」と申した。

長政は大いに喜び、27日の深夜に越前勢は三田村へ帰り、浅井勢は主計村・野村に移る。果たして半助の言葉に
違わず信長は「敵方が終夜火を焚くのは朝に合戦を心掛けているものと見た」と味方の備定めをされた。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』



498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 03:43:41.72 ID:fcfYanbe
織豊期って成り上がりで大名になったのがたんまり出てきたから
それ以前や以後と比べてパワハラアルハラが多そう
その分自分が間違ってたと思えば素直に悪かったといえる
ある意味で君臣間の距離が近しい空気もあるけど

この王子、他の信長の子息達よりも、その父に似ている故

2018年11月09日 09:36

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 00:02:05.85 ID:of0Wpt0o
この王子(織田信雄)をもしキリスト教に帰依することが出来れば、大いなる収穫を得ること疑いない。
彼は意思甚だ強く、他の信長の子息達よりも、その父に似ている故である。

彼は諸人に対して甚だ親切なのだが、もし命令に背くものが有れば直ぐにこれを罰する。故にその家臣の
行儀正しく丁寧なることは驚くほどである。

先ごろ、彼は兵士たちに与える物がなく、一方で、一人の殿が余るほどの収入を有するのを見て、彼はその殿から
六千俵を奪ってこれを兵士に与えた。

この事件の後、信長は信雄を招き、何故そんな事をしたのかと尋ねると、

「私は父上の子の中で最も貧しく、兵士たちに与える物を持っていません。そのためあの殿より、有り余るものを
少し取ったのです。」と答えた。

信長は彼を責め、「奪ったものを返すように。」と言ったが、信雄はそれを理解した様子を見せなかったので。
信長は怒って小さな枕を彼に投げつけ、その殿の財産に対する彼の侵害を責めたのだが、それ以上は何も
出来なかったため、この殿に対し
「この上は武力を以て奪うべし。」
と言い、実際に対陣させた。

この殿は1万人、又は一万五千の軍勢を集め、一方の信雄は七百人ばかりであった。しかし信雄は
「何人も動くべからず」と命じ、一人で馬を馳せてその殿の陣中に乗り込み、諸方に乗り廻して混乱させたが、
殿の陣中では、彼が信長の子であるため誰一人これに触ることも出来ず、殿は隠れ、これを聞いた信雄は
「これを捜すのは時間を損ずるに過ぎない」と、闘いを中止した。

(一五七八年一月十四日(天正五年十二月七日)附、都發、パードレ・ジヨアン・フランシスコ書翰)

正直ひでえ話だな。



420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 02:09:06.89 ID:4LmF8tH6
相手は四十万石くらいの人だったのかな

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 07:39:04.23 ID:JEmsZ9R9
再評価せねばならぬ武勇伝だね

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 09:28:31.32 ID:ow9Yza7j
三介殿のなさる事だからしょうがない

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 09:54:57.62 ID:tNMLWG7s
>>421
斜め上に

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 18:43:03.92 ID:DZoKZpxX
>>419
何でそうなるんだ…としか思えない行動回路だ

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 20:18:27.35 ID:Py2/VUOM
確かに事実とは思いがたい

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 21:08:40.86 ID:xhuQeHXe
>>419
頭鳩山かな?

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 22:13:01.97 ID:0+fdcXJE
本多正純「一人の殿とは一体誰のことなんです?」

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 11:07:22.55 ID:DMxEB0Op
神君だろ

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 16:39:27.63 ID:9TutT64G
>>429
それは正純じゃなくても気になる

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 20:14:27.23 ID:Rb9DE5g9
収益のために頑張ったら主君のドラ息子に理不尽に収奪されるわ
気難しい主君がせっかく説教してくれたのに息子の物分りが悪いせいで
匙を投げられて合戦もどきまでさせられた挙句
アホでも主の息子だから手を挙げられないで居たら散々暴れられるとか
この殿にしてみれば降って湧いた災難すぎる…

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 15:18:40.73 ID:2rFScKgH
>>419
もしこのドラ息子の話が本当ならそんな役回りは光秀か村重かな
1年後に村重は謀反を起こしているし

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 17:16:11.36 ID:6IaFLY1o
本願寺に横流しする手筈だった兵糧を・・・
ぐぬぬ

三田村の後殿

2018年11月09日 09:34

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 02:54:07.70 ID:y13JWHDr
(姉川の戦いの直前)

織田弾正忠信長は浅井父子が朝倉に一味して前約を変じたのを深く恨み憤り「ならばまず朝倉を捨て置いて浅井を
誅すべし!」と、その5月21日、毛利新助秀詮(良勝)を使者として、援兵を徳川家へ請われた。神君は少しも
御辞退なく御了承になられて早々に軍勢を催促なされたところ、まず3千余騎が援兵となったという。

(中略)

6月17日、信長は数万の大軍を引き連れて岐阜城を発向され、近江へと向かわれた。これより先に近江では浅井
父子がかねてよりこの事を心得て防戦の用意をし、南郡苅安・長比両城を構えて越前の勢を分けて籠め置き、

鎌刃城には堀次郎(秀村)と後見に樋口三郎兵衛(直房)と多羅尾右近を籠め置き、本江の要害には黒田長兵衛を、
横山城には大野木土佐守・三田村左衛門・野村肥後守・同兵庫頭を籠め置いた。浅井父子は小谷城にあって色々と

手配りし織田勢が寄せ来るのを遅しと待ち受けた。江北は要害堅固で急に攻め入るのは難しく、信長は出陣以前に
木下藤吉郎秀吉に内意を含め、竹中半兵衛重治に内々樋口と語らわせた。重治は樋口と数年来の知音なので樋口の

方へ赴き、理を尽くして誠を現し諸々語らうと、ついに樋口も得心し同列の多羅尾に相談して信長方に一味した。
この城が織田方へ降参したと聞いて苅安・長比両城に籠っている越前勢も浅井には一言の伝えもなく3千余騎は皆

越前へ逃げ失せた。信長はこれを聞いて近江へ攻め入り18日に坂田郡柿田村の西山に陣を張り、19日に横山城
を巡見された。この城の押さえとして水野下野守信元・織田上総介信包・丹羽五郎左衛門長秀ならびに堀次郎の勢

を残し置かれ、信長は坂井右近(政尚)・森三左衛門(可成)を両先手とし数万の軍兵を引き連れて小谷の向かい
虎御前山に備えて雲雀山の方より森・坂井、尊勝寺の方より柴田・内藤らが攻め入って小谷の町中を所々放火した。

この時、浅井備前守長政は「城より打って出て一戦せん!」とはやったが、「城兵は小勢で信長の大軍には当たり
難し。越前の加勢を待ちなされ」と、家老どもが諫めて出陣せず。よって織田勢は西は馬上、東は小室・瓜生まで

焼き立て、その夜は矢島に野陣して明朝には早々に龍ヶ鼻へ本陣を引き横山表へ向かわんとした。長政はその機を
察して「明朝に打って出て信長の退口を追討せん!」と申したが、この時も父・下野守久政も家老どもも、

「とにかく越前の加勢を待って合戦すべし」と申して長政の申すところを用いず。しかし長政の家人の若者どもは
あまりに無念に思って2百騎ほどが打って出ると、織田勢の佐々内蔵助(成政)・中条将監(家忠)の陣に弓鉄砲

を撃ち掛けて多くの敵を討ち取ったのである。織田方でも佐々・中条ならびに簗田左衛門次郎(広正)が奮戦し、
柴田勝家も味方を救って引き取らせた。これを“三田村の後殿”といい、当時美談とした。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


手ひどき合戦には不合と見へたり

2018年11月08日 18:23

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 17:41:29.66 ID:Y2HvOdmo
ある時、織田信長の前に武者修行をしているという武功の者がまみえた。
彼は冑に白熊の引き回しを付けて、冑立てに立てさせ、後ろに持たせて出た。

信長はこれを見て「彼はいままで手ひどい合戦には出会わなかったらしい。気に入らない。」
(彼はつひに手ひどき合戦には不合と見へたり。心にくからず。)
と言った。

これは白熊の引き回しなどと言うものは、それを損ねずに戦をするなどありえないためだという。

(士談)

関連
白熊の引きまわしなどでは、



415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 18:07:11.78 ID:/DFHlKKj
おお。読んだことあると思ったら違うソースだった
いい悪いブログ10501 (まとめサイトのURL貼るとエラー出る)

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 20:17:44.62 ID:1gkzLAvN
>>414
信長公へのお目通りという事で気合入れて新調しただけかも知れないのに…
まぁ、何となく信長ってこういうの嫌いそうなのも判る
でも傷だらけの甲冑で来たらそれはそれで主張がワザとくさくて信用ならないとかも言いそう

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 20:34:15.44 ID:0WodYPFi
白熊ってホッキョクグマじゃなくてヤクのことなんだな

御父 織田弾正忠殿

2018年11月07日 19:38

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/07(水) 04:36:39.32 ID:yJTjxHUj
足利義昭将軍宣下の時)

信長が帰国の暇を申し上げられると、義昭は不日に逆徒を退治し将軍家を再興した御感激のあまりに3通の
御内書を賜った。そのうち一通は信長を左兵衛督にと仰せ出されたものだったが信長はこれも辞退された。

その他には、

 今度国々の凶徒らを日を経ず時を移さずして退治せしめたのは武勇天下第一なり。当家再興の大忠として
 これ以上のものはない。ますます国家の安治をひとえに頼み入り候。この他に頼み入る他事はなし。なお
 子細は藤孝(細川藤孝)と惟政(和田惟政)が申すものである。

  永禄11年10月24日 判

    御父 織田弾正忠殿

また1通には、

 今度の大忠により桐紋と引両筋の紋を遣わし候。武功の力を受けることだろう。祝儀である。

  永禄11年10月24日 判

    御父 織田弾正忠殿

信長は大いに面目を施され、ただちに暇を賜り25日に京を発って、28日に美濃岐阜城へ帰陣され諸軍勢
に銘々賞禄を施して帰国せしめられた。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』


あの兄弟の働きは良き膏薬

2018年10月31日 19:10

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 03:54:41.31 ID:CQKUgdKl
(長篠の戦いの時)

5月21日、武田四郎勝頼は夜中より軍勢を追々繰り出した。また曙に備を立てて一備ごとに分かれて攻め
掛かる様子なので、織田・徳川両将はかねて仰せ合わされたように「軍勢は柵外に出てはならない」と堅く

制し、鉄砲3千挺ずつ用意して待ち設けた。信長卿は「今日敵を練雲雀の如くせんものぞ!」と仰せになる。
その頃、徳川御陣では大久保治右衛門(忠佐)が兄・七郎右衛門(忠世)に向かい「今日の戦で当手は本主、

織田勢は加勢である。万一織田衆に戦を始められてはこれ以上の恥辱はありません! 某が進んで足軽戦を
始め候べし! 鉄砲の歩卒を添えてください!」と言うのを、神君(徳川家康)は聞かれ「もっともである」

との仰せにより柴田七九郎康忠・森川金右衛門氏俊・江原孫三郎利金・日下部兵右衛門定好・成瀬吉右衛門
正一らの属兵を大久保兄弟に差し添えて先頭に進められた。成瀬は徳川の御家来であったが、

一度子細あって甲斐へ立ち越し、この年頃武田家に仕えたが、今回御内意あって帰参した。それゆえ武田家
の侍大将どもの旗指物をよく覚えているからと先手に加えられたという。

(中略。大久保兄弟は先陣を切って山県昌景勢と戦い活躍)

今日の大久保忠世・忠佐兄弟の戦場での働きを信長卿は御覧になって、「徳川家の中で金の揚羽蝶と浅黄に
黒餅の指物をしているのは、何と申す男か」と問われ、神君は大久保兄弟と御答えし、信長卿は「徳川殿は
良き人を御持ちだ。あの兄弟の働きは良き膏薬のようだ。敵に付いて離れない」と仰せられた。

(中略)

かれこれする間に神君は岐阜におられた。信長卿は今回の加勢を感謝されて神君を厚く饗応なさり、御供の
人々へも若干の被け物を賜われたが、信長卿は「長篠で見た髭は来ているか」と問われた。その時、大久保

治右衛門が進み出て「兄の七郎右衛門は供に参ってはおりません」と申せば、信長卿は「汝の兄弟は今回の
功抜群なり」と仰り、御自身の手で衣服を取って授けられた。大久保は大いに面目を施され、神君も殊更に
喜びなさって浜松へと帰られた。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談・三河物語・
   神君御年譜)』

417 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/31(水) 06:53:32.42 ID:zbk28BfY
流石は大久保、真田に付いて離れない。

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 14:02:12.81 ID:hpbAKV9H
>>416
>金の揚羽蝶と浅黄に黒餅
どういう組み合わせだw

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 17:03:16.97 ID:VrOWLq6S
こう、殿様が家臣などを褒めて色んなものを賜るというのがお話でよく出てくるけど
頂いた衣服や刀などなどって飾っておくもの?
馬とかの場合飾る訳にもいかないだろうから、乗ったり使うのが普通なのかな。

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 19:07:11.87 ID:Df67X3vF
>>418
黒餅ってお餅じゃなくこういう黒の円の事だぞw
https://i.imgur.com/zAouSP3.jpg
zAouSP3.jpg

426 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/11/01(木) 10:30:04.24 ID:kmp/q02H
黒丸って言えばいいのに黒餅に見えたなんてよっぽどお腹空いていたんだな
もしかしたら本当に餅をぶら下げていたかもしれん
返り血を浴びて黒くなっていったんだろうな

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 11:33:31.48 ID:KZhZzpkc
菓子好きだから、そっちでイメージが浮かぶんじゃないの

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 19:25:38.00 ID:VVf5sW8r
>>426
黒丸だと黒で描かれた円(蛇の目)とも取られそうだし、便宜的に餅と呼称したのでは?

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 19:31:04.15 ID:6GoIIEmA
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤堂高虎#/media/File:Site_of_T%C5%8Dd%C5%8D_Takatora_and_Ky%C5%8Dgoku_Takatomo%27s_Positions.jpg
藤堂高虎の旗印(一番右)も「三つ餅」と言われてるな
Site_of_Tōdō_Takatora_and_Kyōgoku_Takatomos_Positions

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 19:46:51.86 ID:KZhZzpkc
高虎のは餅の逸話からきてるんじゃないの?

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 23:36:57.17 ID:eJY+p62H
>>436
多分逆。旗印が三つ餅だったから出世の白餅の話が作られた。

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 08:56:26.72 ID:PhpvOcLA
もしそうなら参勤交代の時に立ち寄る風習ができた吉田の餅屋はマル得だな
あと初期の高虎の逸話を見ると食い逃げが本当でも驚かない

織田信長を模倣する

2018年10月29日 17:28

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 00:30:57.48 ID:IayTbgkZ
世子(大友義統)は政治に当たるように成ってから、ますます国内の坊主および偶像崇拝を嫌い、
生来鋭敏にして才知あるがゆえに、神仏の崇拝を嘲笑し、この事について織田信長を模倣することを希望した。
信長はこれらを破壊することによって、所領、名誉および評判はますます加わったのだ。世子はこれを
実行せんとし、本年は祖先の何者も成さざりしことに着手した。

第一には復活祭(1578年3月3日(天正6年2月22日))前に使いをパードレのもとに遣わし、彼に仕える
武士および殿中に常に侍する青年が悉くキリシタンとなることを希望し、勧告は彼自身が成すべきが故に、
当院より人を遣わして説教を成し彼等に悟らしめんことを請うた。彼等が説教を始めた後、世子は突然
戦争(土持親成征伐)に臨むことになったため、さらに良き機会までこれを延期する必要が生じた。

世子はまた、神殿および坊主の僧院の収入を没収して家臣に与えることを始めた。(中略)一昨日一人の
キリシタンが私に告げたことによれば、世子は彼を当所より40レグワ余りの肥後国に遣わし、僧院の偶像を
焼かせ、其の収入は彼の兄弟に与えた。国の大身たちはこの事の理由を世子に尋ねたが、彼はこれに
こう答えた

「坊主等は国の髄を食い贅沢なる生活を成し、労働また戦争において死する貧民および兵士を嘲笑する。
彼等がもし宗規を守り、また来世において賞罰を与え、或いは現世において幸福と富を与える神仏であるのなら
猶忍ぶであろうが、坊主の生活は偽善と悪行に満ちており、その祈祷と供物は何等の効能も無いことは
経験によって明らかである。故に彼らに対して躊躇するのは愚の極まりであると思う。

織田信長は都の地方において同一の事を行ったが、かつて神仏より罰を蒙ったこと無く、むしろ繁栄
している。この故に坊主達に勧告するは、結婚する(僧侶をやめる)か、或いは兵士となることである。」

(1578年10月16日(天正6年9月16日)付パードレ・ルイス・フロイス書簡)

すっかり信長かぶれの義統。多分これ、フロイス自身が信長のことをキリスト教的に盛りに盛って報告して
義統を煽ってたんでしょうね。


同じ忠次でも

2018年10月26日 17:24

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 17:12:32.47 ID:dptUjqFe
長篠の戦いの時、織田信長が「甲州勢は剛強であるので、柵を付けるべし。」と言った時、
戸田三郎右衛門(忠次)も
「私もその様に考えていました。そうやって然るべしと考えます。」
と申し上げた所、信長は叱りつけた

「又者(陪臣)の分際でいらぬ指出である!」

戸田も面目を失った様子であったが、その夜、信長は密かに戸田へこう仰せに成った

「今日の謀、一段と良いものだ。であるがもし敵方に知られてはと思い、わざと叱りつけたのだ。」

そして柵を付けさせ鳶巣より長篠へ出てくるであろう後詰の勢を払うため、酒井左衛門尉(忠次)、
金森五郎八(近長)を遣わせた。
武田勝頼は総勢一万七千の内、千は鳶巣に分け、四千は長篠の押さえとし、残り一万2千にて
瀧川を越えて信長と合戦した。

(武功雑記)

同じ忠次でも信長がわざと叱りつけたのは戸田忠次の方だった、という異説(?)



407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 17:34:16.69 ID:NI1kLOwj
家康の面目も失うことになるからね
フォローいれた信長はさすがといったところ
テルじゃこうはいかん

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 20:36:45.41 ID:2KVgIAZr
最初の会話の内容と「敵方に知られては~」の部分が矛盾してる気がする
あと酒井の方の逸話でも見た気がするけど織田から見てW忠次が陪臣だったら家康が織田の家臣になるけどそれで良いんだろうか

あれこそ山県である

2018年10月26日 17:22

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 13:28:58.92 ID:gqs82Hyy
(長篠の戦いの時)

大久保兄弟(忠世・忠佐)はこの輩(成瀬正一ら)と一同に柵より外に進み出て、武田の先手・侍大将の
山県三郎兵衛昌景の備に向かい鉄砲を撃ち掛ける。山県も始めの頃は軽卒を出し足軽迫り合いをしていた

が、次第に欺き引かれて堪えかね「あの柵を尽く押し破って進め!」と3千の赤備が一同に押し掛かった。
大久保兄弟は命じて思うままに山県勢を引き寄せ、3百余挺の鉄砲を隙間なく撃たせれば、先頭に進んだ

山県勢は散々に撃ち立てられた。その時、大久保兄弟・渡辺半十郎政綱・同弥之助・光池水之助らは山県
の属兵の広瀬郷右衛門昌房・小菅五郎兵衛元成・三科伝右衛門形幸といった名を知られた者どもと挑み

戦う。広瀬・小菅・三科も言葉を掛けて姓名を名乗り、馬上で突き戦8,9度に及び手負いて引き退けば
半十郎や水之助らは高名をなした。山県はそれには目もくれず3千余騎を手に付けて筋違いに織田勢・

佐久間右衛門信盛の柵を駆け破らんと押し掛かる。そこで信長卿は命じられて柵中より鉄砲を激しく撃ち
立てれば、山県勢はここに人塚を作る程に撃ち殺されたので、山県も堪えかねて引き退いた。

(中略。武田勢は鉄砲に苦戦するも、馬場信房・内藤昌豊が佐久間信盛・滝川一益を柵内に追い、信長は
柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉に命じて横から武田勢を攻撃させ、内藤がこれを迎撃する)

この時、山県は小山田・甘利らとともに撃ち残された勢を立て直して、柴田・丹羽・木下の勢を横合から
まっしぐらに打って掛かれば、柴田・丹羽・木下の人数は散々に突き立てられて敗走した。山県はこれを

追い打ちするかと見えたが、そうはせずにたちまち備を立て直して、徳川家の御本陣に打って掛かった。
御陣からは鉄砲を激しく撃ち立てれば、山県勢はまた撃ち殺される者若干なり。山県は白糸威の具足に

金の大鍬形を打った兜を身に着け、味方が討たれるのをものともせず、なおなお馬を進めたところ、本多
平八郎(忠勝)が「あれこそ山県である!」と命ずれば、筒先は山県に向かって放たれた。その弾が

飛んで来て山県の緩い糸の間から当たったため、山県は持っている采配を口に咥えて両手で鞍の前輪を
抑えてしばらく堪えていたのだが、ついにたまらず馬から真っ逆様に落ちた。味方がその首を取らんと
駆け集まるのを山県の従兵・志村又右衛門が敵に首を渡すまじと駆け寄り、その首を切って引き返した。

(原注:山県を撃ったのは大坂新助という者であると『勇士一言集』に見える)

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 20:06:25.04 ID:8I+DB0d/
>>365
敵に首を渡したくないから切腹した後に…ってのは解るが、戦場で戦闘の真っ最中にもやるのか(困惑

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/27(土) 00:18:52.69 ID:5EgtKHTm
>>368
討ち死にした大将の首を敵に渡せば敵の手柄となり、士気を挙げる材料とされる。
+ 首だけでも持って帰って供養しなければならない。

戦国時代どころか、戊辰戦争までやってた、当然のこと。

多田新蔵のこと(改正三河後風土記ver)

2018年10月23日 17:17

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 05:08:14.63 ID:eTfwBn7W
(長篠の戦いの時)

本多平八郎(忠勝)は猶も厳しく武田勝頼を追って行くと、岡の辺りの松を盾に取って矢を放つ
敵がいた。本多の郎等・多門伝十郎と蜂須賀彦助は馳せ向かったが、彦助は敵を1人討ち取って

討死し、伝十郎は手傷を負って敵を追い散らした。また味方の軽卒らが1人の敵を生け捕ったが、
雑人かと思って着ている衣類を剥ぎ取って見れば、緋緞子の下帯を身に着けていた。さては只者

ではないなと姓名を問うと多田淡路守満頼の子・三八(新蔵か)であった。信長卿はこれを聞き
なさって、「それでは伯父の葬送の時に火車を切った勇士であるな。私が召し仕おう」と仰り、

長谷川竹丸(秀一)に命じその縄を解かれると、三八はその縄を引き切って近辺にいる者の槍を
押っ取りその辺りに群居する者4,5人を突き殺した。よって竹丸は槍を取って三八を突き倒し、

その首を取って信長卿の御覧に備えた。およそ今日の合戦は卯の刻の始めに押し出し、午の刻の
終わりに武田方は総敗軍とぞなりにける。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 14:38:18.02 ID:+GgA7et2
>>354
この時のぶな画を討ち取ってれば…。

名馬を2頭も貰った滝川さん

2018年10月16日 21:16

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 16:15:36.68 ID:aYmZcFzl
天正10年(1582)3月12日に信忠卿(織田信忠)は、武田勝頼父子やその他の首を実検せられ、

滝川左近将監一益の大功を賞し給い、吉光の脇差ならびに“一の日影”と名付けた名馬と金子5百両に
感状を添えて賜り、今回討ち取った首を関加平次・桑原助六郎に持たせて信長公の本陣に参られた。

(中略)

23日、(織田信長は)滝川左近将監一益に対し「今回、武田勝頼父子の首を得たのみならず、軍功は
抜群であるから」と仰せられ、関東総管領を命じて「陸奥・出羽まで賞罰征討を沙汰し、もし決し難き

事があれば徳川殿の御旨を受けて計らうように」と仰せになり、伊勢の本領五郡に添え信濃佐久・小県
二郡を賜り、上野厩橋城に居城するように命じられ“海老鹿毛”という駿馬に脇差を添えて下賜された。

諸人羨まざる者なし。

――『改正三河後風土記』

名馬を2頭も貰った滝川さん



364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 16:42:50.36 ID:hDUMUMtw
>>363
ここで徳川の名前を出してくるのが、いかにも三河な資料…

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 17:41:00.85 ID:3Zo5jnv6
関東管領といえど所領は伊勢と信濃の分国、北条から見ると笑っちゃうレベル

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 17:55:24.80 ID:fORrQkXO
上野は?滝川の指揮範囲全部で100万石近いのでは?

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 19:29:05.65 ID:ITZGz8H9
担当地域と領地が違うってのは、考えてみれば北条と似たようなものか

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 20:25:23.08 ID:wqAxIbJP
>>366
指揮範囲はともかく、現実としてはほとんど領地を持たず厩橋城などのいくつかの城を確保しているに過ぎなかったので、徹頭徹尾織田政権の存在を前提とした関東管領だな。滝川は。

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 06:53:08.18 ID:HviX83N+
傘下の豪族が日和ったら籠城するしか打つ手なくなるよね

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 09:35:00.72 ID:ODXOLop4
そんな事したらその豪族が滅ぼされる

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 12:14:10.41 ID:/rA8Mwv+
信孝は岐阜に籠城するしかなかった

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 23:31:50.48 ID:X8J89QXk
滝川「馬より茶器が欲しい…」

信長が少女を斬り捨てたのは驚くに足らぬこと

2018年10月14日 18:15

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 19:46:33.21 ID:+oppITPP
日本人の清潔を好むことは想像が出来ないほどで、特に家および常に座する畳の清潔なことは、
最も忠実な聖器所預かり人の保った祭壇の清潔さに比べることができる。私はビジタドールのパードレと共に
織田信長、及び内裏の邸に行ったが、新しい靴でなければ入ることが出来ず、広間を通る時には、
暗黒の祝日の墓所の階段を登る時のようで、しかも一人が箒を持って塵を掃きつつ後ろから随って来た。
土間、及び縁側も清潔で、唾を吐くことが出来ず、ハンカチを用いなければならない。

台所には大きな鍋があり、沸騰していたにもかかわらず、水も灰もその他も、箒で掃いたように綺麗であり、
馬の居る厩もまた同様であった。

信長がその居室に落ちていた果物の皮を掃かなかった少女を斬り捨てたのは驚くに足らぬことで、
非常に清潔に注意するため、少しの不潔も大いなる罪と成るのである。

広間、居室、聖堂等は皆畳を敷き、外で靴を脱がねば入ることが出来ない。
庭(niuas)すなわち庭園は常に清潔で、箒を以て掃き、特別の位置に据えたものの他、一草一石も無く、
果樹を喜ばず緑と陰を珍重する。

(1586年1月6日付、パードレ・ロレンソ・メシヤ書簡)

ちょっとまて信長果物の皮掃き忘れた女の子斬ったんかい。



311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 20:57:51.28 ID:z69OWUY6
信長って自分の爪を小姓たちに切らせたときに1つ隠して、あとでわざと落としたことあるよね

中国の逸話が元ネタだけど

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 21:22:11.58 ID:dQRjJYkR
内裏の邸って安土城を指すのかな?

何の用にも立たざる氏真へ、くれられ候程用なくば、

2018年10月09日 17:25

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 17:04:02.59 ID:3PE+0Tuk
(武田氏滅亡後)

やがて信忠卿は諏訪へ参向されて父子は対面された。信長公は今回の信忠卿の大功は比類なしと
たいへん御誉めになった。かくて父子は計りなさり、

「徳川殿は駿河の諸城を速やかに攻め抜きなさり、その軍功はまったく軽んじるものではない」

として神君に駿河一円を進上された。神君は厚く感謝されてその上で、

「私めと今川家の旧好は忘れるべきものではありません。駿河は今川の旧領なので半国を分けて
氏真に安堵仕られたく存じます」

と仰せになった。信長はまったく御承知にはならず、

「何の用にも立たぬ氏真へくれてやりなさる程に必要ないのならば、信長が所領する!」
(何の用にも立たざる氏真へ、くれられ候程用なくば、信長所領すべし)

と御怒りになったので、駿河は一円に神君の御領地となされた。

――『改正三河後風土記』



289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 23:46:05.12 ID:9iQGbbh4
後の交流からして意外と家康は本気で今川に恩を感じていたのかもしれない
それにしても到底本気とは思えず対外的なアピールであろうが
それにしても氏真に駿河半国分けたいとか
生き馬の目を抜く戦国の時代に言うとは到底思いがたいな
後世にできた逸話に真偽を問うのは野暮だと判ってはいるが

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 10:17:50.10 ID:qxcritGB
秀忠と違ってカミギミは自費不快のです

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 10:25:59.57 ID:LoT/qsy1
>>289
信長急死後、甲斐信濃手に入れても返してない所から見てもな・・・・・

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 19:28:27.93 ID:35C0sJ8M
まあ駿河方面への調略に、上手く行かなかったとは言え氏真に協力してもらっていた以上、
心にもない事でも立場上言うだけは言っておく必要があったのかもしれん。

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:19:13.07 ID:dpeX0mQH
>氏真
同盟破った武田は恨んでたけど徳川は別に恨んでないってのは武将らしくて好きw

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 21:01:48.05 ID:y0IcR6Me
>>287
それは浪士組として上京して、京都に残るメンバーを選別した時だな
新選組として徴募したときには特に制限してない

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 00:09:20.94 ID:DnnVud2J
>>293
まあ徳川が占拠した遠江はあくまで植民地で、武田が攻めてきた駿河は本国そのものだしな

信長四国征伐の事情

2018年10月08日 18:37

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/08(月) 17:44:01.59 ID:N7Ecm7CH
元親(長宗我部元親)は天正4年(1576)よりおよそ7年の間に四国を切り従え、天正10年には元親が
ことごとく押領した。(原注:長曽我部記・土佐軍記)信長公はこれを御聞きになって元親に対し、

「土佐・阿波両国は与えよう。伊予・讃岐は献上せよ」と仰せ遣わされた。元親は「これは思いも寄らぬ仰せ
かな。それがしが四国を押領したのは、まったくもって信長から恩賜されたわけではない。すべてそれがしが

数年武力をもって切り取った国々である。何の子細があって信長に進上することだろうか。仮に討手を差し
下されようとも、どうして容易に避け渡すことであろう」と返答した。これに信長公は、

「元親は猛勇に誇り、不礼の返答をしたことは捨て置けぬ。それならば武力をもって討ち滅ぼすべし」と仰せ
になって三男・三七信孝に四国を拝領なされ、「手柄次第に切り取るべし」と丹羽五郎左衛門長秀・

織田七兵衛信澄(津田信澄)・蜂屋伯耆守頼隆を差し添えなさった。この輩は「近日中に四国へと押し渡って
長宗我部の領国をことごとく切り取り、元親のこの頃勝ち誇る矛先を挫く」と大軍を引き連れ摂津住吉の浦に

参着した。折しも梅雨の晴れ間もないので大坂の城で人馬を休め、雨が晴れて順風の時節を待って過ごした。

古写本の長曽我部記、ならびに土佐軍記を捜索するに元親は四国押領の後は織田殿へ5,6度も使者を出して
ますます昵懇との旨を記し、織田殿がとかく争論したとは見えない。まして信孝の四国拝領のことも聞こえず。

今その事情を按ずるに、元親は明智光秀の被官・斎藤利三の妹婿である。それゆえに元親がその初め織田殿へ
通じた時も光秀の計らいであっただろう。とすれば光秀の救援となるのは元親の右に出る者はいない。

織田殿は近頃光秀を快しとされなかったために、その助けとなるであろう元親をまず除きなさらんとの内意で
元親へは御指図もなく信孝らをただちに討手に遣わされたのか、または三好笑岩(康長)は秀吉の甥・秀次を

養子としたわけだが、いま四国で元親に従わないのは三好一族ばかりであった。その三好が元親に攻められて
危うきこと旦夕に迫るゆえに、笑岩から秀吉の備中の陣へそのことを申し送って愁訴し、秀吉から織田殿へ

四国征伐を勧めてにわかにこの事が起こったのか、この二つの内どれかだろう。元親の側ではその事を知らず、
その内に織田殿も横死され、信孝らも大坂まで出軍したのみでこの事は止んだために、四国の側ではこの事に
ついてまったく取り沙汰さなかったものであろう。

――『改正三河後風土記』