FC2ブログ

私が切腹に及ばない事の方を憂い

2019年03月23日 18:43

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/23(土) 12:03:33.17 ID:R2H6RQcv
織田信長の次男である信雄は、本能寺に於いて信長が弑されたことを知る前に、鬼頭内蔵助を信長の
様子をうかがわせるため京都に遣わした。

鬼頭が山科に至った時、伊藤安仲に出会った、伊藤は信長の笛役であった。
伊藤は鬼頭を見て「ここは何処だろうか。」と尋ねた。逆に鬼頭は「貴殿はどうしてここに
居るのか」と聞いた。伊藤は涙を流し

「貴殿は未だ知らないのか。信長公が今朝、明智の謀反により弑され給われた。私のような者共は
途方に暮れて行先も解らず迷い逃げたのだ。」

それは朝日が山端に差し昇る頃であった。鬼頭は且つ驚き且つ疑った。しかし伊藤は
「偽りも事による。もし今信長公が恙無く、私がこのように大事の偽りを言えば、一体どうして
日本の地に身を置く所があるだろうか。」

「然らばここより立ち返り、貴殿の言葉を信雄様へ申し上げよう。」

「尤もである。証拠として、これは信雄様が御覧じ覚えたるものである」と、小刀を渡した。

鬼頭は急ぎ信雄の居城伊勢長島へと乗り戻り、その日の太陽が傾く頃に、三十余里を馳せ到着した。
然れども馬は疲れを見せず、まさしく稀代の駿足であった。

さて、鬼頭はこの趣を申し上げたが、信雄は信じようとしなかった。そこで証拠としてかの伊藤の
小刀を出すも、猶信じず、却って鬼頭が狂気したと思うような顔色であった。
致し方なく鬼頭は「やがて注進が参るでしょう。」と言って自宅へ帰った。
信雄は御伽衆の梅心という者に命じ、鬼頭を訪れてその様子を伺わせた。

鬼頭は浴衣を着ながら梅心の前に出て対面し、
「私が狂気したのかと思われたによって、その方に伺わせたのだろう。
もしあの情報が虚説と成って私が切腹させられれば、むしろ大いなる幸いであり、まことに望む所である。
虚説ではなく、私が切腹に及ばない事の方を憂いている。」
そう言って外に出て、繋いでいる馬の湯洗いをすると、馬はいなないて前掻きをした。鬼頭は馬の健盛なる
事を梅心に自慢した。梅心は帰ってこれを信雄に報告した。

その日の日暮れより諸方の早飛脚が、本能寺での事を告げた。
信雄は信長の弔い合戦について、今日よ明日よと言いつつ、出陣を十余日も引き延ばした。
その間に秀吉が備中高松より上がって、信長の仇を討った。これは信雄が無勇の故である。
これによって、後年、信雄は秀吉のために領地を没収された。しかし秀吉は信雄の制しやすいことを知って、
害はないと判断したため、大和に於いて五万石を与えた。

(武将感状記)

関連
鬼頭内蔵助の報告と織田信雄、+おまけ


811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/23(土) 12:23:06.52 ID:1Z0ElKd4
信雄「大坂城捨てよっと」
スポンサーサイト

その場の存念にあらず。年来の逆意と推測される

2019年03月03日 16:03

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/02(土) 19:12:03.59 ID:N0xXXHkF
惟任(明智光秀)は公儀を奉り、2万余騎の人数を揃えた。ところが備中に下らず、密かに謀反
を企てる。しかしそれは、その場の存念にあらず。年来の逆意と推測されるところである。

さて5月28日、光秀は愛宕山に登って一座の連歌を催した。光秀の発句に言う、

「ときは今あめかしたしる五月かな」

今これを推し量ればすなわちまことに謀反の先兆なり。何人がかねてより悟ったことであろうか。

――『天正記(惟任退治記)』

本能寺の変の同年に成立した惟任退治記の記事。「何年も前から叛意があったようだ」とのこと。



この時に及んで富士山が私の山となり

2019年03月02日 09:27

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/01(金) 21:43:00.97 ID:AJJackbD
(甲州征伐後)

将軍(織田信長)は年来、富士山御見物の望みがあった。この山は天竺・震旦・扶桑三国に無双
の名山なり。

「この時に及んで富士山が私の山となり、これを見たことで大望が叶った」と、将軍は快喜する
こと斜めならず(於是成吾山見之、達大望、快喜不斜)。

そうして、遠州と参州の主・徳川三河守家康の館があってそこに滞留となり、御父子で伴って御
馬を納めなされたのであった。

――『天正記(惟任退治記)』


信長信託

2019年03月02日 09:27

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/02(土) 09:10:48.38 ID:MUrTNxKn
信長信託


足利義昭を擁して上洛した織田信長は、皇室の窮状を憂い、元亀2年(19711571年)に財政支援を行うこととした。

そのために洛中洛外の全田畑に税を課し、米を徴収したが、信長はそれをそのまま皇室に献上するのではなく、いったん町衆に預託し、町衆が運用した成果である「利米」を献上することとした。

こうすることによって、皇室は継続的に利米を得ることができ、安定的な財政基盤とすることができるため、信長はあえてこの形をとったといわれる。

信託制度は受託者に対する信頼がベースになるが、委託者である信長を裏切ればどうなるかは自明であったので、その点では信託に必要な要素がうまく揃っていたといえる信長の構想であった。
信長がおこなったこの政策は「信長信託」とも呼ばれる。

余談であるが、日本における信託の活用のさらに古い事例としては綜芸種智院の設立・運営が挙げられる。


新井誠「信託法」ほか



702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/02(土) 19:03:23.25 ID:RKcGEcQw
利米が安定的?

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/03(日) 19:29:16.79 ID:d3zIT82y
>>702
強制的に貸し付けて利子を取るっていうやり方。

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/04(月) 08:35:01.82 ID:fv/Rq9Yr
>>703
なるほど

甲州・信州・駿州三ヶ国が本意に属する旨は

2019年03月01日 21:08

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/28(木) 18:57:47.48 ID:g5ewcyU1
(甲州征伐の時)

ここに甲信両国の主・武田四郎勝頼あれば、年来の朝敵をなす故、秋田城介朝臣信忠は信濃に至
り出馬されて、高遠城を取り巻いた。

ここは勝頼の舎弟・仁科五郎(盛信)ならびに小山田備中守(昌成)相践の地なり。川尻与兵衛
尉秀隆(河尻秀隆)は調略をもって即時に攻め崩し、ことごとくこれを討ち果たした。

その勢いをもって甲州韮崎府中に入り、勝頼は一戦に及ぶも堪えず、敗北して天目山に隠れた。
信忠先勢の川尻与兵衛尉と滝川左近将監一益は、かの山中に追い詰め入り、数度の合戦に及ぶ。

武田勝頼・同嫡子太郎信勝・同左馬助勝定(信豊か)・逍遙軒(武田信廉)ならびにかの一族は、
ことごとくその首を討って来た。甲州・信州・駿州三ヶ国が本意に属する旨は(織田信長の)上
聞に達し、よって御動座あり。三ヶ国御一見の時、残る関東・鎌倉の諸大名はことごとく御味方
に馳せ参じたものである。

――『天正記(惟任退治記)』

河尻秀隆が活躍してますね



697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/01(金) 19:22:02.22 ID:olrrmJYZ
信勝を討ったあとは東美濃で武田に備え信忠の付家老に抜擢され武田滅亡後は甲斐を賜り大出世
ええ奴やったで

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 02:58:55.19 ID:hF8oIddC
>>697
お前何百年生きてるの?

秀吉はこれを識量して

2019年02月20日 18:17

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/19(火) 18:28:01.04 ID:rzhsIc24
そもそも羽柴筑前守秀吉は天正10年(1582)10月15日に将軍(織田信長)の御葬礼を勤め、
以来帝都の未申の角、山崎の上に一城を拵えて五畿内を直下し、生民を鎮撫した。そして先の秋田城
介平朝臣信忠の御若君(織田秀信)を迎え取り、安土に安置し奉って守護せしめんと欲したのである。

そんな折に織田三七信孝は、柴田(勝家)・滝川(一益)に相談して言った。

「若君を秀吉に渡しては、彼一人が天下を計り、欲しいままに権威を振るうだろう事は眼前である。
そうなってはどうして秦の趙高の専横や、唐の楊国忠の災いを招かないことだろうか」

そう言うと、信孝らは一味同心して御若君を介抱した。これにより秀吉は、一旦将軍御子弟の礼を厚
くし、かつまた誓紙の恐れを思って条々の懇書を呈したといえども、信孝の心には許容されず、あま
つさえ内々に敵対の計策を企てたのである。

この時、柴田修理亮勝家は同名伊賀守勝豊をもってこれを謀り、和平の調停をさせ、前田又左衛門利
家・不破彦三(直光)・金森五郎八(長近)を京都に上らせた。その故は、越前国は初冬から残春に
至るまで雪が深いために、糧を運ぶのが困難だからである。只今干戈が起こっては、人馬の疲れ百姓
の労、実に国の虚であると思ったのだ。

秀吉はこれを識量して調停を止め、臘月の初めに長浜に至り出張した。

――『天正記(柴田退治記)』


鶏鳴より取巻いて攻めれば

2019年02月18日 17:35

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/18(月) 00:37:47.82 ID:d2+p9LT9
鶏鳴より取巻いて攻めれば


信長公が山門(比叡山延暦寺)を攻めたとき、九月十一日には諸将に命じて既に攻めかかろうとしたが
護国公(池田恒興)が
「今日はもう日も牛の後に及んでいるので、(そのまま)夜になれば悪逆の衆徒が逃げてしまうでしょう。
 明日鶏鳴(午前二時ごろ)より取巻いて攻めれば、一人も生き残らないでしょう」
と言われたので、もっともだということでその日の戦を止められた。

さて夜半よりあんなにも大きな比叡山を隙間なく取り巻いて、四方の手合いが合図の法螺を吹き立てると
一度に閧をドウとあげて攻め、山門もここを専らと防戦したものの、四方八方より焼き立てたので
ついに(延暦寺は)根本中堂を初め一宇も残らず灰燼となった。

(諸将は)老僧児童の首をはねたり生捕りにしたので、猛火の中に飛び入って焼死する者も多かったという。


――『池田家履歴略記』


三七信孝も智勇は人を超えていた

2019年02月18日 17:34

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/18(月) 17:26:48.51 ID:QhmfMSe6
また織田三介信雄は人数を率いて岐阜に攻め入った。三七信孝(織田信孝)もまた将軍(織田信長
の御息男で、智勇は人を超えていた。(而智勇越人)

信孝がどうして自害を拒むことであろうか。かの山にて信孝は髪を洗って身を清め香を焚き、将軍
から賜った太刀で、首を刎ねて死んだ。逆心によって滅んだことは、おおかた天命なのではないか
(於自害豈可辞乎。彼山而沐髪淸身焼香以将軍所被下太刀首刎死。以逆心相亡事殆不天命乎)。

――『天正記(柴田退治記)』


草履を横さまに御つけ有しとそ

2019年02月14日 19:41

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/13(水) 20:47:39.56 ID:hVOYUadj
姉川の合戦は東照宮(徳川家康)の勝事なり。信長が朝倉義景と対陣の時、東照宮は先陣を乞うた。信長
は叱って曰く、

「田舎者にどうして良い働きができるか!(田舎者何とて能せん)」

しかし東照宮はしきりに乞いなさり、信長はこれを許した。東照宮は即時に川を渡って敵を破りなさった。
この時、信長の前を去る時に、草履を横様に御付けになられたという(草履を横さまに御つけ有しとそ)。

――『老人雑話』

よこ‐さま【横様/横▽方】
[名・形動]《「よこざま」とも》
1 横の方向。横向き。また、そのさま。「―に倒れる」
2 道理に合わないこと。また、そのさま。非道。「―な要求」


その憤りによって謀叛を企て

2019年02月03日 21:24

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/03(日) 18:29:38.39 ID:Jzo4Auel
天正5年(1577)丁丑10月、和泉信貫山城を攻めた。松永弾正少弼久秀は大坂の付城を
守っていたが、信長公に恨みを含んで本願寺門跡の雑賀の兵と語らい、大坂を退いて信貫山城
に立て籠もった。

その故は、家康公が御登城の時に久秀は参会し奉ったのだが、信長公は家康公に向かって曰く、

「この翁は松永久秀である。この翁は、天下に及び難き事を多く行った。公方義輝を戮し奉り、
主君の三好義長(義興)を毒殺して三好一家と戦った。東大寺を焼いて大仏を滅し、三好長慶
の二男である左京大夫義継の間に入り、永禄8年(1565)から同11年まで天下を守って
大いに奢り、ついには義継を離れて殺害したのだ」

久秀は赤面して額に汗をかき、頭からは煙が立った(久秀赤面シ額ニ汗シ頭ヨリ烟ヲ立)。そ
の憤りによって謀叛を企てこの次第となった。

10月、城介信忠は大軍を引率して和泉を御進発され、佐久間信盛・明智光秀・筒井順慶など
は大坂の対城を出て河内より向かい、その途上で久秀の従党である片岡城を攻落し、城主の森
(正友)・海老名(友清)を討ち取った。

10月5日、信忠は信貫山城で会戦して久秀とその子の久通を攻めるが、父子は防戦して味方
に利せず。時に信盛は順慶と相談し、雑賀の兵を謀って信盛の兵を紛れさせ、城中に入ろうと
告げ、順慶の兵と追い掛けたり返したりして挑み戦った。

そのようなところで、久秀は予め雑賀の者と申し合わせていたので、城門を開いてこれを引き
入れ、信盛の兵も紛れて城中に入った。10月10日、その手引きで信盛と順慶は城へ入って
火を放った。

久秀は天守に登り「たとえ骨になろうとも信長の最期を見届けてやる!(タトヘ骨トナリテモ
信長ヲ見ハテン物ヲ)」と言って、自殺した。右衛門佐久通は生け捕りとなって切られた。

久秀の悪逆は積り、東大寺を焼いて大仏を滅したのも10月10日である。その日に至り滅亡
したことは「世にも不思議なことをなした」と言われたという。同年10月、播磨を羽柴秀吉
が賜った。

――『佐久間軍記』



720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/04(月) 08:29:26.29 ID:ab2WtWuB
だれが義継を殺したんだったか
と思ったら佐久間軍記か

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/04(月) 16:32:09.53 ID:xX5vEmhQ
久秀に誘われて信長包囲網に加わったのに久秀だけ先に降伏したから久秀に殺されたともいえる

平蜘蛛の釜と同様に微塵に砕けた

2019年01月15日 19:06

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 23:01:14.76 ID:O4RpCBZN
後に人々は算段して「これ(明智秀満が吉広江の脇差を渡さなかったこと)は松永殿(久秀)が大和
信貴山の城で切腹した時、櫓の下へ付いた佐久間右衛門(信盛)の手勢より、城内へ呼ばわりかけた
のとちっとも違わない」と、申されたのだという。

その子細は、佐久間右衛門が所存を出されて、松永殿へ申し付けられた言葉だと聞いている。

「この度の事に及んでは、内々に御秘蔵の平蜘蛛の御釜を、上様(織田信長)も常々御望みに思し召
されておられる故、御出しになるのがもっともである! それで滅んでしまっては、あまりに本懐なき
次第と存じ奉る!」

以上の通りに松永殿へ告げ知らせたとおぼしく、ややあって城内からの返事があった。

「平蜘蛛の釜と九十九髪の茶入、これは来世まで持って行き、慰みにと存じていた。そんなところに、
安土の御城で信長殿は御自身で御茶を下され、その時に『いつまでも御手前の九十九髪の茶入で数寄
を致すがよい』と、仰せられたのである。

その時に私めは茶室を新しく建て、九十九髪で信長殿に一服申し上げようと存じていたのだ。しかし、
その頃の信長殿は私めを方々に御遣わしになられたので、その機会もなく打ち過ぎた故、九十九髪を
安土の御城で進上したのである。

しかしながら、平蜘蛛の釜と私めの首の二つは信長殿の御目には掛けまいぞ!」

このように返答すると、松永殿は平蜘蛛の釜を微塵粉灰に打ち割り、その言葉に少しも違わずに首は
鉄砲の薬で焼き割り、平蜘蛛の釜と同様に微塵に砕けたのである。(頸は鉄炮の薬にてやきわりみし
んにくたけけれはひらくもの釜と同前也)

この九十九髪は、古に九十九石の田地で買い取ったため、その名で呼ばれたと承っている。信長殿は
御秘蔵なされ、御最期の時に本能寺で焼き割れたと、相聞こえ申す事。

――『川角太閤記』



647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/15(火) 13:48:55.66 ID:0qpatG4+
>>644
九十九髪も同じ運命をたどる皮肉、悲しいなぁ

その悪しき臭いは安土中へ吹き散らし申した

2019年01月10日 17:45

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 19:56:15.67 ID:O6+KCoqz
天正10年(1582)午の年、信長公は甲斐国の武田四郎勝頼を御追罰のために、近江安土の
御城より御馬を出された。ただし先手は信忠公に仰せ付けられ、城之介殿は岐阜から御出陣なり。

家康卿は駿河口より御入りになられ、その他にも方々口々より飛び入れば、勝頼は甲府の家城を
開け退かれ、同国の田野里山林で討ち果てられた。その後、御仕置を残すところなく仰せつけら
れて駿河国を家康卿に進ぜられ、同年4月初め頃、信長公は安土の御城に御馬を納められた。

そこに家康卿が駿河国御拝領の御礼のため、穴山殿を御同道されて御上洛の由を聞こし召されて、
明智日向守の所をその御宿として仰せ付けられた。

そのようなところに、信長公は御もてなしのあまりにか、肴などの用意の次第を御覧になられる
ため、御宿を御見舞いになると、夏ゆえに用意された生肴は殊のほか鮮度が落ち申していたので、
門へ御入りになられるや風に乗って悪臭が吹き来たり、その香りを御嗅ぎ付けられて、もっての
ほか御立腹された。

信長公は直ちに料理の間へ御成りとなられ、「この様子では家康卿の馳走はできない!」と御立
腹になられて、堀久太郎(秀政)の所へ御宿を仰せ付けられたのだと、その時節の古き衆の口か
ら以上の通りに受け賜った。

信長記(信長公記)には『大宝坊の所を家康卿の御宿に仰せ付けられた』とある。この宿の様子
は二通りあると御心得なさるべきだろう。

日向守は「面目を失った!」と木具膳や肴の台、その他用意した取り肴以下を残らず堀へ打ち込
み申した。その悪しき臭いは安土中へ吹き散らし申したと相聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』



576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/10(木) 11:01:21.60 ID:+0PwuB4l
信長「このアライを作ったのは誰だあっ!!」

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/10(木) 15:07:09.56 ID:T4ak4Lvy
お堀ってゴミ捨て場でもあったんだね

正信偈合戦顛末

2018年12月24日 03:34

顕如   
583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/20(木) 23:41:06.86 ID:riCaTj9j
 1570年、本願寺顕如は全国の門徒たちに織田信長との決戦を呼びかける檄を飛ばした。
その後。信長が軍勢を率いて摂津河内に迫ってくると、その動きはすぐに本願寺側に
伝わった。信長軍の中にも一向宗の門徒が多数いたので簡単に情報が漏れたのである。
 迎え撃つために富田や唐崎、西面、柱本、鳥飼、一津屋の門徒が集結し、彼らは
味舌下の明善寺の住職 正義坊と、その檀家の勘兵衛の指揮に従って戦うことになった。
 門徒衆は本願寺から支給された槍を一本ずつ装備していた。指揮官の勘兵衛
槍の扱いを教えようとはせず、「5人から6人の厚さでずらっと並ぶように」とだけ
指示した。門徒たちがその通りに5~6列で横並びになると、対峙する信長軍も
同じ5~6列の厚さで並んでじわじわと近づいてきた。
 両軍が互いの顔を見分けることができるほど接近すると、教主の本願寺顕如
陣中の大きな櫓にのぼって「国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発稀有大弘誓」
などと親鸞聖人の教えの正信偈(しょうしんげ)を唱え始めた。
 正義坊と勘兵衛はその正信偈に合わせて槍を振り上げたり、振り下ろしたりするよう
門徒たちに命じた。すると、敵の信長軍の方から正信偈を唱える声が聞こえてきて、
その声に合わせて信長軍の兵士たちも槍を上げたり、下ろしたりする動作を始めた。
両軍がにらみあったまま、同じ動作を繰り返すばかりでぶつかる気配は見られない。
そのうち、信長が業を煮やしたのか、信長軍の方から法螺貝の音が聞こえてきて
さっさと退却していったので、その日の戦いは勝敗なしの引き分けになった。
 これが後に正信偈合戦と呼ばれる合戦である。
 本願寺側は敵軍が同じ一向宗の門徒ばかりで戦意がないのを見抜いて、あらかじめ
両軍とも戦うふりだけするよう根回ししていたのであった。



586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 11:24:11.01 ID:WanFXouX
>>583 の戦いで兵士が信長の指揮に逆らって怠慢行為をしたら、後で恐ろしい処罰を
受けそうだが、はたして大丈夫だったのか気になる

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 22:06:47.53 ID:t8Zi+qo1
>>583
正義坊って90年台のアニメに出てきそう



590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 13:10:00.59 ID:4szgCXxf
>>583
あえて信長陣営に残ってかく乱する一向宗徒がたくさんいたんだろうな
そりゃ10年もかかるわ

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 23:07:15.64 ID:m1+OhMdA
>>583 で紹介した「正信偈合戦」の話には続きと言える逸話が存在しているが、
内容がどちらかといえば悪い方の話だったので、「戦国ちょっと悪い話」のスレに載せました

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/24(月) 00:21:08.78 ID:S0D4pHu3
戦場で両軍から南無不可思議光~法蔵菩薩因位時~
とか聞こえてくるのか。想像したらワロタ



548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 23:04:25.86 ID:m1+OhMdA
この話は「戦国ちょっといい話46」の >> 583 で紹介した「正信偈合戦」
の続きにあたる逸話である。

 十年も続いた信長と本願寺の争いは和睦という形で一応の決着はついたが、
信長の方はそれで済ませるつもりはかけらもなかった。本願寺の側に属して
戦っていた摂津の人々が和睦成立後にそれぞれの村に帰って元の生活に戻った頃、
突如として信長軍が村々に襲撃を仕掛けてきた。信長軍の一番の目標は摂津近辺の
門徒を率いて戦った二人の指揮官、味舌下の明善寺の正義坊とその檀家の勘兵衛
討つことであった。
 襲撃を受けた村では一向一揆に加担したと見なされた村人が捕らえられ、次々と
命を奪われていった。その光景は凄惨で、流血の現場を「流れの馬場」、
死体を積み上げた場所を「しかばね谷」と呼ぶほどであった。
 襲撃を事前に察知して運良く逃れた正義坊は、勘兵衛を連れて北の山へ落ちのびた。
「明善寺の正義坊は手ごわいぞ!」
 信長は騎馬兵三千人に正義坊への追撃を命じた。正義坊たちは箕面の止々呂美という
ところで追いつかれ、檀家の勘兵衛が身代わりとなって捕まり、その場で殺されてしまった。
 その後、勘兵衛がいた地元の明善寺周辺では亡くなった勘兵衛の霊を弔うために
供養塔を建て、念仏講をおこなった。無念講と呼ばれるその念仏講はこの時から
始まったそうである。



※出典 高槻物語(管理人調べ)

姉川勝利

2018年11月22日 18:15

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/22(木) 02:44:20.60 ID:hd5SfMHy
(姉川の戦いの時)

浅井長政も叶い難く小谷を目指して敗走すると、味方は矢島郷の尊照寺・田川辺りまで追い討ちした。安養寺
三郎左衛門経世(氏種)は生け捕りとなり、信長の前に引き出された。信長はかねてよりその名を

聞き知っておられたのでその命を許され、「私はこの軍威に乗じてただちに安養寺に案内をさせて小谷を攻め
ようと思うがどうだ」と問われた。安養寺は答えて「長政は今日は敗走したといえども、父の下野守久政の勢
1,800ほども備えて城を守っていますので、軽々しく押し寄せなさるのは御遠慮あるべきでは」と言った。

信長はその言葉をもっともであるとして、「小谷はまたのことにしよう」と安養寺を助命し、そのうえ願いの
ままに小谷へ送り帰しなさった。かくて今日討ち取った敵の首を数えると3,170級。多くは徳川勢の討ち
留めたところである。信長は神君の大功を感心されて、

 今日の大功は殊更に言うまでもない。前代に比類なく後世の誰が雄を争えようか。当家の綱紀にして武門
 の棟梁というべきものである。(今日大功勝て言う可からず。前代比倫無し。後世誰か雄を争う。当家の
 綱紀武門の棟梁と謂う可き也)

以上の感状に長光の刀を添えて進上された。この刀は光源院将軍(足利義輝)の秘蔵でその後に三好下野入道
謙斎(政勝)が所持した世に優れた名物である。(原注:『柏崎物語』にこの時、信長より源為朝の用いた

矢根を進上され、御当家で槍にされたと見える)その他氏家・稲葉・伊賀の3人(美濃三人衆)も横槍の功を
賞して感状を賜り、諸手の将卒の勲功も漏らさず褒美なされ、姉川で勝利の凱歌を奏せられた。

姉川の戦い大勝により信長は頻りに礼謝の言葉を尽くされ、神君は御勢を引き連れられて三河へ凱旋された。
信長はただちに横山城を囲んで攻めなさった。大野木土佐守・三田村左衛門・野村肥後守・同兵庫頭などは
随分と防戦するも叶い難く、ついに城を渡して小谷に引き取ったため、ここは木下藤吉郎秀吉に守らせ、

姉川で討ち取った首は京都へ遣わして、義昭将軍の実検に備えて六条河原で梟首せしめた。京都では「ああ、
おびただしい首かな」とこれを見る貴賤ともども驚嘆して肝を潰したということである。信長は7月に至り
軍勢を進めて、磯野丹波守(員昌)が籠る佐和山城を囲み攻められた。この城は険阻な要害の地であり、

丹波守はさる老練の宿将で防戦の術を尽くしたので容易に攻め取り難く、そのうえ織田方の軍勢は打ち続いた
合戦で人馬も大半が疲れたため「この城はまた攻めるとする」と城の近辺に獅子垣を結い回し、鳥居・本口・
百々屋敷に向かい城を取って丹羽五郎左衛門(長秀)に守らせ、北方の尾末山に市橋九郎左衛門(長利)、

南方の佐渡山には水野下野守(信元)、西の彦根山には河尻与兵衛(秀隆)などと定め佐和山を押さえさせて
信長は入洛なさり、義昭将軍に謁して姉川の戦い勝利のことを告げられ、7月8日に岐阜城へ帰られた。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞・織田真記)』


おそらくこれが信長であった

2018年11月22日 18:14

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/21(水) 20:25:38.67 ID:ucCeN/Yq
明智日向守が本能寺に押し寄せ、その軍勢が織田信長の御座所まで入った時、日向守の家臣である
天野源右衛門、鑓を持って縁へ上がると、鴨居に兜を当てて尻餅をついた。そこに森乱丸が鑓で源右衛門の
外腿を突いた。その後乱丸は内へ入ったが、源右衛門立ち上がり、障子越しに人影を見てこれを突いた。
おそらくこれが信長であったのだという。

(武功雑記)



460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/21(水) 22:08:46.32 ID:sPYXC3wR
確かこの人はこの後に森長可の部下になるんだよな
そして信長と同じ日に死んだ

名門貴族の人々はよくよく心得なさるべきことではないか

2018年11月21日 16:43

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/20(火) 19:32:26.29 ID:nigKKgzI
・佐々木六角左京太夫入道承禎とその子・弾正少弼義弼(義治)は観音寺城にあって箕作城へ敵が押し寄せれば
後詰して救おうとかねてより思い設けていたが、美濃三人衆がその道筋を取り切ったのでどうすればよいかと心
を苦しめた。そこへ箕作城は落城して和田山城も開け退いたと聞こえ、今や防戦の頼みもなく興ざめていた折に

織田家の大軍が勝ちに乗じて観音寺城に押し寄せると聞こえて承禎父子は大いに狼狽し、ついに堪りかねて城を
落ち失せ、甲賀の山中に逃げ入ったのである。入道父子が落ち失せたと聞けば、承禎がかねてより設けて置いた
国中の城々18ヶ所は一夜のうちに尽く落去した。織田殿の武威は破竹の如く、1日の間に近江を切り靡き

13日に観音寺城に入り給えば、国中の輩は皆々が降参して人質を献上し、柴田修理亮(勝家)・森三左衛門
(可成)・坂井右近(政尚)・蜂屋兵庫頭(頼隆)などへ命じられ、功を賞し罪を罰し、国法を沙汰された。

・さてさてこの度、佐々木六角承禎が大軍を有し数多の城々堅固に備え、国は富んで兵は強くありながら僅かに
一両日も支えられずたちまち没落したことは代々将軍家に不臣の乱逆挙動をした天罰ではないかと世上の評する
ところである。その故は常徳院義尚将軍の時にあたって大膳太夫高頼の子・弾正少弼定頼は武命を蔑如し上洛も

なさず、そのうえ将軍家近付きの御家来たちの領地を侵略した。常徳院は御憤りあって、長享元年(1487)
9月、近江鈎の里まで御動座されて3年まで攻め給えば、定頼は叶い難く甲賀の山中へ逃げ隠れた。明応元年
(1492)8月、恵林院義稙将軍が常徳院殿の御志を継がれて再度近江へ御動座された時もまた甲賀山中へ

逃げ入って頭をも差し出さず。永正5年(1508)6月、恵林院殿が周防国山口より大内義興を供奉し御上洛
された時には、定頼は細川左馬頭政賢・三好奇雲斎(之長)などと一味して京都へと攻め上り、これを阻まんと
するが打ち負け近江へ引き返した。光源院義輝将軍が北白川に城郭を構えておわした時は、今の承禎入道が大軍
を引き連れ京都へ乱入し、光源院殿を追い出し奉った。天文16年(1547)7月のことである。

また永禄8年(1565)に三好・松永が乱逆を振舞った時も内々承禎はその与党であったので、義昭が矢島に
おわして、しばしば御頼みあっても表では了承しながら内々では三好・松永と謀を通じて義昭を亡きものにせん
とし、今度の義昭上洛の道をも遮り留めようとした。

このように代々不忠不臣を振舞ったので数代の名家が一朝に失われたのも天命の然らしむる所とぞ知られける。

(原注:案ずるに足利殿は有力の人を頼んで怨敵を滅ぼして後に、またその功ある者を嫌って他人を頼み、その
功臣を滅ぼすことをもって代々の家風とされ、その旧轍を改めず。義昭は信長の功を忌み嫌われて朝倉・武田・
北条などを頼んで信長を滅ぼさんとしてついに天下を失うに至る。佐々木六角は攻められれば甲賀の山奥へと

逃げ入って、敵が去る時には首を差し伸ばして自国へ立ち帰るのを万古不易の謀計と代々思っていたのである。
よって今度も甲賀へ逃げ入ったが、時代は変じてその誼もまた異なり、ついに再び旧轍を踏むことはできずに
長くその家を失ってしまった。琴柱に膠して旧弊に因循し、改革の時を失う類は古今少なからず。

名門貴族の人々はよくよく心得なさるべきことではないか)

――『改正三河後風土記』


大将は何処におわしますぞ

2018年11月19日 11:21

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/19(月) 02:57:32.31 ID:CTrXDgYx
(姉川の戦いの時)

遠藤喜右衛門(直経)は昨夜浅井長政の前で軍議があった時、「某は味方が万一敗軍と見れば敵軍に
紛れ入り、信長と引き組んで討ち取るべし!」と申したが、果たしてその言葉の如く首1級を携えて、

「この首を実検に入れたいと思うなり。大将は何処におわしますぞ」と言いながら信長の本陣近くに
進んで来たのを竹中久作(重矩。半兵衛の弟)が見咎めて引き組み、遠藤を切って首を取った。

遠藤の郎等・富田才八、その他に弓削次郎左衛門・今井掃部助も引き返して討死した。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』



454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/19(月) 19:26:00.30 ID:VZBn70rG
>>452
神風特攻…

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/20(火) 00:25:20.12 ID:IhX79kpM
そこまで追い込まれてたんだね

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/21(水) 03:32:06.45 ID:t6PeB9XF
姉川って互いに3倍以上多いほうが崩されてるのが面白い

6月28日姉川合戦・徳川勢

2018年11月15日 12:10

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 01:25:00.65 ID:AH/VRodr
(姉川の戦いの時)

28日の暁に信長が敵陣の様子を見られると、浅井勢は8千ほどが野村に備えて東にあり、朝倉勢1万5千ほどが
三田村に備え西にあって姉川を境に陣を取っていた。信長は徳川殿に使者を立て「昨夜軍議を定めたが、我が恨み
は浅井にあるので私が浅井を討つ。徳川殿は朝倉に向かわれよ」と申し送った。酒井左衛門尉(忠次)がこれを

聞いて「味方はすでに浅井に差し向かっています。今にわかに陣備を立て替えようとすれば隊伍は乱れましょう」
と申せば、神君は「浅井は小勢、朝倉は大勢だ。大勢の方へ向かうは勇士の本意である。とにかく織田殿の仰せに
任せる」と御返答されてその使者を返し、にわかに軍列を立て直し西北に向かい直された。

(原注:『柏崎物語』によると南は横山、東は伊吹山と草野山の間より姉川は流れ出る。堤26丁程の高岸なり)

(中略)

徳川勢先手が弓鉄砲を放ち掛けるのを見て越前勢大将・朝倉孫三郎(景健)が「この手の敵はわずかな小勢なり!
打てばたちまち破れるぞ!」と命じれば、平泉寺の衆徒は心得たと徳川勢に切り掛かり、姉川を追いつ返しつ戦う。
折しも6月28日の極暑であり、馬汗や人汗は流水に異ならず。浅井方では磯野丹波守(員昌)がこれを見て、

「越前勢は早くも槍を入れたるぞ!」と呼ばわり、西南に向かって千5百の勢を押し出した。越前勢大将の朝倉
孫三郎が味方を離れて百騎ほどで平泉寺の僧らが力戦する横合から切り掛かり、徳川勢を追い払わんとするのを
見て、御本陣より本多平八郎(忠勝)が急いで馬を馳せて、雷の如く駆け来たるとこの敵を突き破った。

大久保兄弟(忠世・忠佐)と安藤彦四郎直次も同じく馬で馳せ来たりて奮戦する。朝倉孫三郎も激しく命じ諸軍を
進めて敵を川の向こうへ追い立てようとした。石川伯耆守(数正)は姉川の中ほどで返し合わせ、大塚甚三郎は敵
の槍を引き合ったが、ついにその槍を奪い取って敵を突き伏せ首を取った。この功により“又内”という名を賜る。

内藤正成の子・甚一郎正興(正貞)は槍を敵中に落としたので馬を乗り戻し、その槍を取って帰って来た。この時、
朝倉後陣の勢と浅井勢とがひとつになって進む。神君は御覧になって「これでは織田方は利を失うと見える。旗本
より敵の備を崩し掛かれ!」と御命じになり、本多平八郎は「畏まり候」と槍を引っさげ朝倉の1万余騎の中へ

喚いて掛かる。本多豊後守(広孝)を始めとして徳川勢は「平八討たすな!」と一同に3千ほどが突いて掛かった。
松井左近(松平康親)は左手を鞍の前輪に射付けられながら、その矢を抜いて敵を射倒した。松平甚太郎(家忠。
東条松平家)16歳は良く戦った。朝倉方は魚住龍門寺(左衛門尉)ら8千余騎が御本陣を目掛け突いて掛かると

大久保忠勝の子・新八郎広忠(康忠)を始め大久保党やその他に小栗又一(忠政)・服部一郎右衛門などがこれを
迎え打ち高名す。その中でも大久保権十郎忠直は敵の槍を奪ってその敵を突き伏せ首を取った。よって“荒之助”
という名を賜る。この時、神君の御下知あって、榊原小平太(康政)・本多豊後守に「敵の横を打つべし!」と

命じられた。小平太が左右を顧みると前方に水田あり。底は砂石で渡れるので、小平太が馬を乗り入れたのを見て、
豊後守とその子・彦次郎康重や渡辺半蔵(守綱)・本多三弥(正重)・水野太郎作(正重)も進み突戦す。小笠原
与八郎(信興)も進み戦えば、その手の者の渡辺金太夫・門奈左近右衛門・吉原又兵衛・伊達与兵衛・

中山是非之助など(姉川七本槍)も勇を振るう。越前勢はついに敗北して小林瑞周軒・黒坂備中守(景久)・前波
新八郎・同新太郎・魚住龍門寺などといった主だった輩が討死した。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


江州の滑者共さこそあらめ

2018年11月14日 19:13

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 06:37:54.35 ID:Kme0DLVB
永禄11年(1568)9月7日、足利義昭上洛のため六角承禎父子を討伐するべく織田信長は大軍を
催して近江へ出陣され、同8日、平尾村で人馬を休められる。11日には愛知川に着陣し、その近辺を

放火なされた。さて敵地に入ってみれば佐々木六角父子の設けた砦が数ヶ所あったが、織田殿は「諸塁
には目もくれてはならぬ。箕作・和田山両城を攻めよ」と手分けを定め、その後に宿老どもを召し集め

箕作城を攻める手立ては如何するかと評議された。坂井右近政尚が進み出て申すには「箕作と和田山の
間はさほど遠くはありません。敵もきっと互いに図り合って助ける手立てがあることでしょう。

幸いなことに、浅井備前守(長政)は味方であります。まずは和田山を浅井に押さえさせてしかるべき
でしょう」とのことで、織田殿も「もっとである。浅井はこの国の住人にして案内者であるから浅井に

箕作と和田山の間に陣を張らせて、和田山城を押さえさせよう」と仰せになり、佐々内蔵助(成政)と
福富平右衛門(秀勝)両人を浅井方へ遣わしてその旨を命じられると、浅井は「某父子はともに箕作

に向かい戦功を励みます。いかに織田殿の仰せであるとはいえ『和田山城の押さえをして手を虚しくし、
人の戦いを見物ばかりして日を暮らします』と申すことはできませぬ」と返答した。両使が帰って

その旨申せば、織田殿は重ねて両人を使者とされて、「浅井父子はそれならば急ぎ箕作城に攻め掛かる
ように」と仰せ遣わされた。浅井は承り「織田殿の御勢が攻め掛かる時は、某も引き続いて攻め掛かり

ます」と返答した。両使は立ち帰って来ると「近江第一の猛将と聞こえる浅井父子ですが、返答の鈍さ
からは近江侍の武勇の程が思い知られます」と申した。織田殿もこれを聞き給い、

「近江の浮かれ者どもはそんなものだろうよ」(江州の滑者共さこそあらめ)と打ち笑いなさり「それ
ならば我が手の者どもにこの押さえを命じる」と、美濃の三人衆といわれる氏家常陸介

(直元入道卜全)・稲葉伊予守(良通入道一鉄)・伊賀伊賀守(安藤守就)に、和田山の押さえを命じ
られ、また「箕作城の形勢を見て来い」と柴田修理亮(勝家)・森三左衛門(可成)・坂井右近の3人
に扈従・馬廻の侍5百余騎を添えて遣わされた。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』



441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 12:42:34.27 ID:bQ2xyhE3
姉川で備を突き崩されたのはこの時の近江弱兵の先入観が出来てしまったからだろうか

早くも軍伍を定めたぞ。心安く思い候へ

2018年11月14日 19:12

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 06:39:43.95 ID:Kme0DLVB
箕作城の物見に出た森三左衛門尉・坂井右近将監は敵方の足軽と交戦し、敵80余を討ち取る。かくて
信長卿が仰るには「首途は良し。魁の勢は尽く愛知川表へ引き取り、観音寺に向かって鶴翼に陣を取れ」

と柴田に仰せ付けられ、各々主だった人々を召されて「なんといっても、出征の印が無くては叶うまい。
箕作城を攻めようと思うがどうだ。皆々計らい申すべし」と仰せになれば、坂井右近将監が進み出て、

「箕作と観音寺の間は少しばかりの距離の様に見えます。佐々木父子は目の前にいるというのに、なぜ
これを捨て置くべきでしょう。まずは観音寺を押さえる御手立てこそしかるべきです」と申せば、

信長卿は「幸いにも浅井備前守にとって近江は自国である。さぞ案内を知っていよう。『かの両城の間
に割り入って押さえられ、箕作城を攻められよ』と使者を遣わしてはどうか」と仰せになり、各々は

「もっともです」と申した。そこで佐々内蔵助・福富平左衛門尉が参り、「浅井方にこの事を申せ」と
命じられ、両人は急ぎ馳せ向かってその旨を申せば、浅井も家老の者どもを召し寄せて評定したのだが、

どうしたことか御返事を申しかねる様子のため、両人はやがて心を定めて「これはどうにもならないな
(罷成候まじ)」と馳せ帰ってその旨申し上げると、信長卿もさぞ不快に思し召されたろうが、今回は
浅井と初めての御見参でもあるし、特に君臣の睦みも未だ物慣れていないので打ち笑いなされて、

「それならば我が勢をもって両城の間へ割り入らせて、承禎父子を押さえさせよう。備前守には箕作を
攻めさせよ」と重ねて両人を遣わされた。ここで信長卿はのたまって、「かの大変のろまな浅井の所存

ならば同城どちらにせよ矢は受けるだろう。(彼大ぬる者の浅井が所存にては、両城何れも矢はうけ候
べし)その上で尽くして早く早く評議せよ」と仰せになり「ただいま攻められなされ」と申す者もあり、

「いやいや夜に入ってから攻められてしかるべきでは」と申す者もあり。信長卿は内々夜に入って攻め
ようと思し召していたのか、「日中に攻めれば城中の兵どもの多くは漏らさないだろうが、坂井の申す

通りと同じく思う。皆々支度を致し、夜に入ったら攻めるべし」と軍中へ触れさせ給う。そこへ佐々・
福富が馳せ帰り「なかなか(浅井は)申し上げるまでもなし! 美濃・尾張の者の他には、勇猛の者は

おりませぬ!」と怒って申す他もなかった。信長卿はかえって両人の気分を労わろうと思われたのか、
「私もまたそう察して早くも軍伍を定めたぞ。心安く思い候へ」と、御心良さげに仰せになった。

――『甫庵信長記』



442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 14:51:12.18 ID:p3uXClc3
>>440
最後に怒ってる部下をいたわるのが良いなぁw

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 04:05:32.41 ID:fNoTZAMW
ボロカス言ってるけど地理的には浅井は重要な味方だからな
今後も度々使者に立つであろう両人の機嫌が良くないと
以後のやり取りで思わぬトラブルを産む事にもなりかねないし
信長一流の細かい気遣いという事か