これよりしてこそ、信長公の名誉は

2017年03月19日 15:44

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/19(日) 03:49:08.21 ID:WspcWOTG
今川義元の討死により、)残る敵どもはどうして少しでも溜まることであろうか、総軍一度に敗北して、
四角八方へ崩れ立ち、後から逃げる味方をも敵が追ってくるぞと見損じて逃げ散るところを、

ここに押し詰め、あそこに追い詰め、思うままに討ち取った。さてもこの合戦の場“桶狭間”というところ
は山の狭間、深田の辺りで高み低みも打ち茂り、足場はどこも難所なので、逃げ行く者どもはいっそうに
途方を失い、ことごとく討ち取られた。

味方の若者ども(織田勢)は追いつき追いつき、首を2つ3つずつ討ち取って、信長公の御前へ参った
ところ、首はみな清洲で御実検なさるとして義元の首だけを御一覧なさり、御馬の先にその首をもたせ、
勝鬨を作り、これより敵を追い捨てて、早々にその日の申の刻に清洲を目指して御凱陣なさった。

山田新右衛門という者は本国駿河の者で、義元懇志の侍であるが、はるばる後陣にいたところで義元の
討死と聞き、馬を速めて桶狭間に馳せ来たり、「まことに命は義によって軽し!」と言い捨てて、義元の
討死の跡で一足も引かずに討死した。

この他、遠江二俣の城主・松井五郎八郎宗信を始め一党2百余人、伊井肥後守、笠原等が一所で討死
した。三河勢は松平善兵衛が棒山で討死した。松平摂津守、同兵部、同次右衛門は所々での討死である。
松平上野介は大高の城から元康の使いに来て本陣にいたが、義元と一所で討死した。

駿河勢には、江馬左京助、由比美作、石河新左衛門、関口越中、斎藤掃部、庵原右近、同勝次郎、
朝比奈主計、西江、内藤、富塚修理進、温井蔵人、富永伯耆守、牟礼主水、四宮右衛門、伊井信濃を
始めとして、駿遠参州の兵どもは数を尽くして討死した。

清洲の城で首帳が記されたところ、その数は2千5百であったということである。また3千ともいう説もある。
これよりしてこそ、信長公の名誉は天下に聞こえたのである。

――『織田軍記(総見記)』
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「織田信長は類なき大うつけ者」

2017年03月10日 13:11

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 03:14:47.66 ID:wBEwJPR7
さて、信長公は17,8の御歳まで、特別の御遊びをなさらず、朝暮武芸を御好みになり、
日夜合戦の御嗜みであった。

弓の師は市川大介、鉄砲の師は橋本一巴、剣術の師は平田三位で、この者どもを
毎日召し寄せて稽古しなさった。朝夕、馬に乗りなさったが馬も優れた上手であった。

3月から9月までは、河水の遊びを御好みになり、たいそうな、水練の達者であった。
その頃、若侍どもを呼びなさり、竹で叩き合わせたのを見なさると、

「とにかく、槍は短き柄は良くないであろう。長柄に優ることはあるまい」と、仰せになり、
三間柄、あるいは三間半の柄で槍を拵えさせなさった。

その頃、信長の御行儀は甚だもって異相であった。日頃着なさる帷子の両袖をほどき
なさり、半袴や燧袋など、色々数多のものを身に付けなされた。

御髪は茶筅頭に紅糸、あるいは萌黄糸などで巻き立て結いなさり、太刀は朱鞘で皆
ことごとく赤武者の出で立ちにするよう仰せ付けなさった。

さてまた、鷹狩りを御好みになり、鷹野に出なさる時に毎度町を通りなさると、人目を
少しも憚らず、栗や柿、梨を馬上でかぶり食い、町中では立ちながら餅などを食い食い
通りなさった。

あるいは人に寄り掛かり、または人の肩に取り付き、連なりぶら下がって通りなさった。
その頃、世間は古風を慕って人は皆公方家の礼義を忘れず、儀式を好む世であった故、

このような異相であったから、近国や他国は押し並べて「織田信長は類なき大うつけ者」
と、申し合った。

――『織田軍記(総見記)』



713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 04:43:13.72 ID:e8L42e2/
三男坊だしええやん

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 08:09:59.39 ID:Ku4oyBYM
順序は関係ない
嫡男やし

すなわち御名を織田三郎信長と付けなさる。

2017年03月09日 20:38

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/09(木) 04:04:26.09 ID:v5m1NhMr
さて、吉法師殿(織田信長)を名古野(那古野)の城に差し置きなさり、備後守殿
(織田信秀)より、林新五郎(秀貞)、平手中務(政秀)、青山与三右衛門(信昌)、
内藤勝介、この4人が家老に付けられ、もっぱら傳り立て奉った。台所(財政)の
賄いは平手中務が奉行したということである。吉法師殿は内外共に、ことのほか
困窮しておられた。

成長に従い天王坊という寺へ毎日登山して、手習いをなされたが、すでにその頃
から気性は異相にして世の常人とは違っていた。信秀は古渡の新城におられた。
台所賄は山田弥右衛門がこれを勤めた。

かくて天文15年に吉日良辰を選び、吉法師殿は四家老を召し連れ、古渡の城へ
参上なされて、その城内で元服なさった。御歳積もって、13歳ということである。

備後守殿は怡悦なさり、上下の身分とも御祝いの酒宴をなさった。すなわち御名を
織田三郎信長と付けなさる。

翌天文16年、信長公は武者初めとして三河へと御出陣となった。この時、信長公
は紅筋の頭巾と羽織、馬鎧の出で立ちだった。これは、平手中務が計らい申した
ということである。

さて三河へ至り、今川家から人数を籠め置いていた吉良大浜という場所で信長公
は民屋を焼き払い、その日は野陣を張って一宿され、翌日に名古野へ帰陣された。

これが信長公の陣初めである。

――『織田軍記(総見記)』



709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/09(木) 07:48:00.48 ID:577KVNZe
宿舎を焼いて寒空の下で泊まるなんてバカな奴だな

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/09(木) 08:12:59.84 ID:O8/yWz+H
家康「というわけで信長公にあやかるため、秀忠の傅役には青山と内藤をつける」

浅井殿を打ち潰そうと心がけなさったことによって

2017年03月07日 21:34

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/07(火) 02:24:25.85 ID:f/PBwvWV
信長公はもともと上戸である。浅井殿を妹婿に取って後、浅井殿を
何とかして、打ち潰そうとの謀ばかりを心がけなさったことによって、
大酒を止めなさったという。

――『武功雑記』

桶狭間の戦いの時

2017年03月05日 18:35

697 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 02:56:50.58 ID:yOjylQgb
(桶狭間の戦いの時、)さて、信長公が「今日の合戦は首を取るべからず! 打ち捨て
にするべし! この戦場へ出た者は家の面目、末代の高名であるぞ!」と、諸勢を
勇めて攻め掛かりなさると、

先駆けの前田犬千代(利家)生年18歳、毛利河内(秀頼)、森十助、木下雅楽助、
中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人などが高名をなし、
手に手に首を持って来た。

信長公は御感あって、「皆々旗を巻き、忍びやかに山際まで押し付け、敵勢の後ろの
山を押し廻り、義元の本陣に打って掛かれ」と下知しなさった。この時、簗田出羽守
が申し上げるには、

「敵は今朝鷲津・丸根の両城を攻めてから未だ備えを変えていないはず。この分にて
攻め掛かりなされば、敵の後陣は先陣となりましょう。只今、この口より突き掛かって、
差し向かいなされば、必ず大将・義元を討ち取ることでしょう!」

とのことで、これは甚だ御心に叶うと信長公は御満足なされた。さて、忍んで山際を
御廻りなさると、にわかに急雨が降り、石などを投げる如く敵の顔へ風が吹きかけた。

敵にとっては逆風、味方には後ろから吹く風である。余りに強い雨風で、沓掛の山の
上に生えている、二峡三峡の松の木や楠の木なども吹き倒すほどである。

「これは只事ではない。熱田大明神の神戦、神風か」などと、言うほどであったので、
味方の大勢が廻り来る物音は、少しも敵には聞こえなかった。

698 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 02:59:19.28 ID:yOjylQgb
かくて雨の晴れ間を御覧になり、晴天になると等しく、信長公は槍を押っ取り真っ先に
御進みになり、「掛かれ掛かれ!」と大声をあげて下知しなさるところを、森三左衛門
(可成)が申し上げて、

「味方が下り立ち攻め掛かれば、敵はきっと備えるでしょう。ただこのまま馬を入れて
乗り崩しなされ!」と言い、信長公はもっともであるとして、

毛利新助(良勝)、林佐渡守(秀貞)、織田造酒丞(信房)、簗田出羽守、中条小一郎
(家忠)、遠山甚太郎、同河内守等が、大将に打ち続いて一度に馬をどっと入れ、

その勢いは勇みに勇んで黒煙を立てて駆け破れば、敵陣は思いも寄らぬところへ、
にわかに攻め掛かられ、心ならずも後ろへさっと崩れてしまった。敵どもはあまりに
慌て騒ぎ、喧嘩かと言う人もあれば、謀反人や裏切りかと思う人もいた。

取り捨てられた弓や槍、鉄砲、旗指物は算を乱すに他ならない。なかでも、義元の乗り
なさっていた塗り輿を捨て置いた。信長公はこれを御覧になり、「敵の本陣に疑いなし!
ますます追い詰めよ!」と、同未の刻、東へ向けて追い掛けなさった。

初めは3百ばかりの敵が義元を囲んで退いたのだが、繰り返し繰り返し追い付かれて
2,3度、4,5度取って返しては討死し、次第に次第に薄くなった。後にはようやく50騎
だけが取って返して戦っていたところへ、

信長公を初めとして皆々が馬から下り立ち、若武者は互いに先を争い、しのぎを削って
鍔を破り、切っ先からは火炎を出して散々に戦う内に、手負いや死人は数知れず。

今川義元は無双の勇者であり、なおここまでも騒がずに諸勢を下知しておられたところ、
織田方の服部小平太(一忠)が槍で義元を突き通した。義元は太刀を抜いて小平太の
膝の口を一刀で切り割きなさった。

小平太は尻もちをついて切り付けられ、起き上がることが難しいところを、毛利新助が
やって来て隙間なく切って掛かり、義元の首を取ろうとした。義元は組み伏せられ、

すでに、刀で切ることも叶いなさらず、新助の人差し指に、がばと噛み付き、ついにその
指を食い切りなさった。新助はもとより強かな者なので指を食い切られながらも押し付け、
義元の首を取った。義元はこの年、42歳であった。

――『織田軍記(総見記)』



699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 09:10:55.55 ID:C2X6WTSC
今日の大河のネタバレされた…
まさか先週あんなに勝ち誇っていた今川義元
桶狭間で殺されるなんて…


703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 21:47:41.55 ID:/43BOv/l
    ___________
   /|:: ┌──────┐ ::|
  /.  |:: |  今川義元  | ::|   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  |…. |:: |2万5千で上洛| ::|   | よし、決まったな!風呂にでも入るか
  |…. |:: |          | ::|   \_ ______
  |…. |:: └──────┘ ::|      ∨
  \_|    ┌────┐   .|     ∧∧
      ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∬  (  _)
             / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄旦 ̄(_,   )
           /             \
           | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|、_)
             ̄| ̄| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄

   ~30分後~
     ___________
   /|:: ┌──────┐ ::|
  /.  |:: |  桶狭間で  | ::|   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  |…. |:: |義元討ち死に| ::|   | ふう、いい湯だった…アレ?
  |…. |:: |          | ::|   \_ ______
  |…. |:: └──────┘ ::|      ∨
  \_|    ┌────┐   .|     ∧∧
      ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄     (  _)
             / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄旦 ̄(_,   )
           /             \
           | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|、_)
             ̄| ̄| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄ 


まず尾張を攻め平らげて攻め上らん

2017年03月05日 18:31

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 02:53:36.53 ID:yOjylQgb
永禄3年の夏の頃、今川治部大輔源義元は駿河・三河・遠江の大軍を引き連れ、
天下一統のために東海道を上洛するので、まず尾張を攻め平らげて攻め上らん
と企てなさった。

(中略)

さて信長公の御軍謀は、敵の先手の大軍を皆本道へやり過して、当方の御人数
はひそかに山の陰を隠れて廻り行き、義元の本陣へ一同にどっと突き掛かって、
切り崩さんとの御謀であった。

義元はこれを知らずに赤地の錦の鎧直垂、胸白の具足を身に着け、松倉郷の刀、
大左文字の太刀を帯びて、先手の者どもが鷲津・丸根の両城を攻め落としたのを
大いに喜び、桶狭間の山下の芝原に敷皮をしかせ、義元はそれに座し休んで、

勇み誇っていたところへ、近郷の寺社の僧社人などが喜びの樽を進上したので、
すぐにそれで酒宴を初め、謡をうたい、 興に入っておられた。

熱田表には織田方の先陣、佐々隼人(政次)、千秋四郎(季忠)などが人数2百
ばかりで信長公の御旗を待ち受けて、山際に控えていた駿河勢へ打って掛かり、
佐々、千秋は小勢なので取り囲まれて50余人が討ち取られ、

駿河勢は勝ち誇って隼人、四郎両将の首を取って槍の先に高く持ち上げ、一度に
どっと鬨を作った。そればかりでなく、信長公の寵臣・岩室長門守も抜け駆けして
討ち取られた。佐々、千秋、岩室3人の首を本陣へ遣わし、

義元に見せ奉ると、義元はますます勇み誇り、「それがしの矛先には、いかなる
天魔鬼神であろうとも、溜まるまい!」とのたまい、なおも勝ち戦に驕りを極めて、
酒宴にふけっておられた。

――『織田軍記(総見記)』



643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 05:13:29.81 ID:q0qI5IAz
長門が死んでるw

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 09:11:26.90 ID:xAM+rR9g
ザルすぎる防衛網

織田信長殿、内裏様を殊の外大切に思われ

2017年03月05日 18:30

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 14:02:31.44 ID:HSagfeNr
 織田信長殿、内裏様を殊の外大切に思われ、村井春長(貞勝)を奉行に任命し禁中を尽く御修理をなされた。

 このことであるうつけ者が言った。

「内裏様の御念者は村井殿じゃ。」
「なぜに。」
「今日も『内裏様のみしりをしに行く』と、日に日に御出かけされるのでそうだと思ったのだ。」

※みしり 御修理 御尻

(昨日は今日の物語)


【ニュース】織田信長=「大猿」「黒鼠」 豊橋金西寺文書に辛辣な批判記述

2017年02月04日 17:37

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 16:46:58.10 ID:qH0d9C1Q
【歴史】織田信長=「大猿」「黒鼠」 豊橋金西寺文書に辛辣な批判記述、恨み辛み込め「苛政暴虐枚挙に堪えず」弾圧時の仏教界感情示す

http://www.tonichi.net/news/index.php?id=58285

内裏の修理を完了

2017年02月03日 10:59

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 00:29:23.06 ID:sJ2XoiVV
内裏の修理を完了

内裏はいまや朽廃し、元の姿をとどめぬほどだったので、
信長は御恩に報いるため修理して差し上げようと考え、
先年(永禄12年)日乗朝山と村井貞勝を担当の奉公に任命した。
それから3年かかって紫宸殿、清涼殿、内侍所、昭陽舎、
そのほか諸々の建物などすべての工事を完了した。

さらに宮中の収入面において後々まで困ることがないようにと、
信長は思案を廻らし、京都市中の町人に米を貸付け、
毎月その利息を宮中に献上するよう命じた。
また零落した公家たちの領地と相続のことに関しても、復興のための諸施策を実施した。
天下万民の満足、これに過ぎるものはなかった。
信長の功績と名誉、および織田家の威勢は我が国において他に並ぶ者がいないものである。

また信長は領国中の関所を撤廃した。
点火の安泰を図り、往還の旅人の便を思いやる施策は、
慈悲深い信長の心から発したものであって、
このことにより神仏の加護も果報も誰にも増して恵まれ、
織田家がますます栄える基礎を築いたのである。
これもひとえに信長が
「道を学び、身を立てて、後世に名を残そう」
と望んだことだからである。めでたいことである。

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 11:43:11.27 ID:sJ2XoiVV
>>574
信長公記 巻4 元亀2年(1571)です


575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 00:40:23.32 ID:iWka4lYR
いい話だけど、その数年後に本能寺の変か・・
諸行無常、盛者必衰

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 00:51:25.94 ID:gB0AAng4
信長より父親の信秀が尾張守護代家臣の地位で内裏修繕費に4000貫寄進している事に驚く

津島支配だけでそれだけの経済力があるなら、子供の信長が上洛後、堺を支配したがるのも分かる

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 17:26:24.38 ID:iWka4lYR
>>582
本能寺の変の約10年前だったんですね
御貸米制度や内裏修理完成はもう少し後の話だと思い込んでました(汗)
ご指摘ありがとうございます

その後鶴の汁にあたり申した

2017年02月03日 10:58

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 03:42:19.15 ID:QlvkgnZx
利家様が鶴の汁を召し上がりなさったところ、すぐに御蟲にあたり(腹痛)申した。
それを契機に御物語りになられたことであるが、

信長公が安土山の御城に御成りの折、いずれの人にも御振舞を下され、鶴や色々
の珍物のうえに、信長公は御引出物を、御自身で御引きになられた。

柴田(勝家)の前で仰せになったことには、「貴殿を初めとして度々手柄を致された
ゆえ、このように天下を静めて万事成就し、満足し申しておる」とのことだった。

またその他それぞれに御言葉をかけた。さて7,8人が末座にいて利家様もおられた
のだが、信長公は御引出物をなされ申す時、

利家様は若き時は信長公の御側に御寝伏しなされ、御秘蔵であったと御戯言を
仰せになり、利家様はその頃までは大髭でおられたのだが、その髭を御手で掴み、

(利家様若き時は信長公御傍に御ねふし被成候。御秘蔵にて候と御ざれ言御意候
而、利家様其比までは大ひげにて御座候鬚を御取候而、)

「其の方が稲生合戦の時に16,7歳の頃、武蔵守(織田信勝)家中の宮井勘兵衛
という者の首を取った時、私は21歳になって初めての合戦だった。

私がその首を、『なるほど小倅ではあるが、この手柄を見よ!』と言って、馬上で
采振り致すと味方は気を得て、ただ7,8百ばかりで3,4千人の人数を押し崩した。

その如く各々が手柄を致したゆえ、このように私は天下を静めて万事成就致した」
との旨を仰せになった。「なんとまあ、かたじけなき御言葉!」と存ずるところに、

御近習衆の給仕を仕る衆までも「はてさて、冥加なる又左殿かな!」と、あやかり物
とばひやひ候(肖り物を奪ひ合ひ候?)ように給仕の者が誉めるので、

利家様は得意がりなさり、「かたじけなき御言葉!」とひたすら物を食べ過ぎ、鶴汁
を止む無く飲み過ぎて、その後鶴の汁にあたり申したと仰せになり、御笑いになった。

前述の通りを、太閤様も度々仰せられたとのことを、金森法印(長近)や羽柴下総殿
(滝川雄利)なども、利家様のもとへ御出でになられた折に御申しになられ、それを
承り書き付け申すものである。前述の御合戦の時、柴田殿は武蔵殿の衆でおられた。
色々の物語りがある。

――『亜相公御夜話』




578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 08:07:34.18 ID:iWka4lYR
信長はその話をする度に、「勝家の野郎、そのうち用済みにしたるー」と腹の中で思ってそう

それはさておき、織田家や羽柴家の雰囲気が伝わってくるちょっといい話だね

真田幸村の智謀

2017年01月18日 10:08

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 19:09:15.70 ID:qJMrCMga
真田幸村の智謀

上田籠城の時、織田、徳川、北条の三将、二十余万の大軍を以て百重千重に取り囲み、水も漏らさぬばかりに
ヒシヒシと取り詰め、哀れ上田城は粉々に踏み崩されんとしていた。
これには流石の真田昌幸も、城兵僅かにニ千余り、今は防御の術も尽き、如何にすべきかと思案し、苦慮して
いた所、倅の幸村、当年十四歳であったが、彼が『鶏卵煎り砂の謀計』を考えだした。

彼は鶏卵を二つに割り、中身を取り除いてこの中に煎り砂を入れて合わせ、水に浸した紙を割口に巻いた。
これを数万作り出し、それぞれの櫓に十籠、二十籠づつ取り備え、寄せ手を遅しと待ち構えた。

頃は天正十年三月二十五日の朝(ちなみに実際の第一次上田合戦は天正十三年閏八月である)、
織田徳川北条の軍勢はどっと鬨の声を作り押し寄せ、鉤縄打ち掛け勇みに勇んで攻め立てた。
城中よりは「時分はよし」と、件の鶏卵を合図とともに投げつけた。

兜面頬があっても、当たれば砕け、煎り砂は兵士の眼に入り、さしもの勇者たちも暗夜をたどるに
異ならぬ有様。城中よりはこれをみすまし、「時分は良きぞ」と、松本口の織田勢には真田源次郎(信之か)、
軽井沢口徳川勢には隠岐守信尹、笠ヶ城北条勢へは与三郎幸村、何れも三百余人を率いて鬨を作り
攻めかかれば、盲目に等しい寄せ手の面々は戦うことも出来ず、我も我もと敗走し、同士討ちするものも
あり、踏まれて死ぬものもあって、二十余万の大軍が、雪崩掛かって落とされたのは、たいへん見苦しい
有様であった。

この状況に信長は、如何にすべきかと思慮を巡らしたが、今だ良き工夫もつかぬ所に家康が現れ、
「鶏卵煎り砂の目潰しを防ぐためには、竹束を以て盾とし、鎧の袖を額にかざすより他、術がないでしょう」
そう献策した。
これにより夥しい竹束を用意し、またもや押し寄せた。

しかし幸村は「煎り砂に懲り果てた敵兵は、今度はこれを防ごうと竹束の盾を必ず用意してくるであろう。」
と推察しており、あらかじめ多くの投げ松明を用意していた。
果たして先手は竹束を束ね、、後ろに太い棒を取り付けた物をひっさげ、目潰しの鶏卵が今や降ってくるかと
待つ所に、城中は静まり返って音もせず、寄せ手充分に近づいた所で、一発の銃声が響くとともに、三方の
櫓より松明が投げつけられた。
すると油を注いだかのように、竹束はみるみるうちに燃え上がり、寄せ手の者達驚き騒ぎ、消そうとするも
うまく消火もできず、散々となって我先にと敗走した。

(芳譚)

何故か甲州征伐とごっちゃになっている上田合戦のお話



528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:13.13 ID:n+P9kTbE
>>527
鶏卵数万w

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:38.99 ID:/3OBSLpx
幸村が活躍するなら、そんなことはどうでもいいんじゃないの
物語なんてそんなもんでしょw

白熊の引きまわしなどでは、

2017年01月12日 08:38

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 04:42:22.31 ID:fItAvr7B
信長の御前へ武者修行を致しているという武功の者がまみえた。

冑に白熊の引きまわし(引き回し合羽)をつけて、甲立に立てて
出たのだが、公は見なさって、

「この者は手酷き合戦に、いままで合わなかったものだと見える。
白熊の引きまわしなどでは、なかなか戦の急な時には、叶わない
ものである」

と、仰せになったということである。

――『山鹿素行先生精神訓』



羽柴秀吉朱傘

2016年12月14日 16:59

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/13(火) 22:22:58.00 ID:8cn/idtk
羽柴秀吉朱傘


織田信長は中国攻のとき、羽柴秀吉を大将として行かせた。
朱傘を与えてこう言った。

「陣中にこれをささせて我がように武威を張ること、
この傘の開くようにしろ。」

秀吉はかしこまって退去し、直ちにその傘をささせて出て行った。
信長は櫓上から望み見て、

「彼に陣中で武威を示せと命じたが、早くもここから人目を輝かせた」

と喜び賞したという。


(甲子夜話)



承諾の無い以上は、力及ばず

2016年12月01日 16:13

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/01(木) 04:29:29.58 ID:tN7pLp6l
信長は9月11日(元亀2年)、勢多の山岡玉林斎(景猶)の所に
止宿しなさった。

「明日、叡山を攻め崩すべし」との旨を言うので、佐久間右衛門
(信盛)並びに、夕庵入道(武井夕庵)が達て諫言に及んだ。

信長は曰く、「去年、汝らをもって懇意の言葉を尽くしたが、承諾
の無い以上は、力及ばず」と、理を尽くして言うため、

彼らの考えは及ばず、各々は未明に出発致した。

――『当代記』



連歌その心自然に顕るる事

2016年11月30日 17:27

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 19:23:34.64 ID:OIDdaizr
連歌その心自然に顕るる事

 古い物語であろうか、または人の作り話であろうか、それは分からないが、
信長、秀吉と、恐れながら神君が御参会の時、
四月だというのにまだほととぎすの鳴き声を聞かないとのお話が出たので、

信長は 鳴ずんば殺して仕まへ時鳥 とあり
秀吉は 鳴ずとも鳴せて聞ふ時鳥  とあり
      なかぬから鳴時聞ふ時鳥  と詠まれたのは神君であったという。

 これらからその御徳によって感化される程に温順であられたり、
また残忍であったり度量が広かったりすることが自然とわかり、本性を顕している。 
 紹巴もその席にいて、

    鳴かぬなら鳴ぬのもよし郭公

と吟じたという。

(耳袋)


歴代の発句

 夜話のときある人が話したことである。
人が仮託して出た者であるが、その人の情実がよくあてはまっている。

郭公を贈ってきた人がいた。しかし鳴かなかったので、

なかぬなら殺してしまえ時鳥 織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤
なかぬなら鳴まで待よ郭公 大権現様

このあとに二首が添えてある。
これは憚る所あるうえに、もとより仮託のことであるので作家は記していない。

なかぬなら鳥屋へやれよほととぎす
なかぬなら貰て置けよほととぎす

(甲子夜話)


有名な三句に続きがあるとは知らなかった
甲子夜話の匿名の二句は、戦国三傑と対比して
当時の大名の拝金さを揶揄したものか、不甲斐なさを嘆いたものか…




359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 19:24:59.91 ID:S9zniyzk
鳴かぬなら それでいいじゃん ほととぎす 織田信成

織田信成のセンスは里村紹巴並であったか

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 09:46:10.75 ID:Buw+pmGC
ホトトギスがいつのまにかカッコウに...。

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 10:44:40.18 ID:3XLWPfr6
鳴け聞こう我が領分のホトトギス 加藤清正
なんてのもあったな

三原城石垣の紋

2016年11月21日 17:33

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 00:43:23.79 ID:UCg95lBi
三原城石垣の紋

 備後の三原城の外郭、石垣にはいろいろな紋が刻みつけてある。
升形、瓢箪、円形、短冊等である。
その故は
織田右府が毛利氏を討たれた時、豊閤がすぐにこの城を築き諸方から普請の助役があり、
その助役に出たものを区別する印であるという。
京の大仏殿前の石垣も、献備した諸大名の紋を刻んだのと同じ事だという話だ。
三原城は今芸侯の臣浅野甲斐が守っている。

〔城の中は至って広大だ、と城内へ入った者が語った。
海手の方に行くと広くなり、山の方に行くと狭くなる。
これから扇城という。
今往来の道は直接城櫓の下を通る。
ここを扇の要という。
以前船で行っており、度々海上からこの城を見たが、成る程、海手からは櫓など数多く見えた。〕
(甲子夜話)


秀吉が築いたことになってる?



信長のきてはやぶるる京小袖

2016年11月11日 11:12

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/10(木) 23:19:34.25 ID:K23paop2
摂津国高槻の城主である和田という侍。
信長公の御前で出世し出世頭となった。


信長のきてはやぶるる京小袖     わたがさしでてみられざりけり

信長から貰ったため着過ぎて破れてしまった京小袖 
綿が出てきて(和田が出しゃばって)見られないものになってしまった
                                  
(醒睡笑)





坂上頼泰の鉢植え

2016年11月07日 09:42

304 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/07(月) 07:21:03.05 ID:jnLT3IFc
天文元年(1532年)に多田院御家人衆筆頭の塩川伯耆守国満が、織田信長の台頭という時世から荒木村重について多田新田城を攻めた。
この時に山本郷(今の宝塚市周辺)も焼いて、多田院御家人だった34代山本荘司家の坂上頼泰は郷士となる。

しかし塩川国満は豊臣秀吉の九州征伐の間に挙兵して、謀反の疑いで誅されたため山本郷は豊臣家の天領となった。
秀吉が有馬温泉に湯治に行く際に山本郷に立ち寄った関係から、頼泰は秀吉の旗本になり朝鮮出兵へも参戦した。
頼泰は齢を重ねて隠居し、山本郷で農園を営みながら穏やかに過ごしていたところ、接木の技術を発明する。

ある時、天下人秀吉の元に見事な鉢植えが献上され大変気に入り、それが坂上頼泰のものと知り昔を懐かしんだ。
京や大阪での贅沢品の売買を禁止していたが、秀吉は頼泰に木接太夫の称号を与えて山本郷の植木に特別な配慮をしたという。

源満仲が摂津守に任官した際に、坂上田村麻呂七代孫の坂上頼次を摂津介にして多田院を警備させたのが山本荘司家の初代で坂上是則は従兄弟。
三代目の坂上季猛は源頼光に使えて卜部季武のモデルともされる。
仁平年間の坂上尚親の頃に平姓を賜り平尚親とし、その分家は今出川家諸大夫山本家として山本敬勝まで続く。



長篠に後詰のため出陣すべきや否や

2016年10月14日 21:15

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 21:46:35.99 ID:bYvnjc+T
織田信長は、毛利河内守秀頼、佐久間右衛門尉信盛を召して聞いた

「長篠に後詰のため出陣すべきや否や。各々、異見を申し述べよ。」

先ず、毛利秀頼が言った
「御出陣は無用です。何故ならば、味方は大軍ですが新参の集まりであり、武田方は小勢ですが、
信玄以来磨き上げた精錬の兵たちです。また長篠は切所が多く、大軍の駆け引きが自由にならない場所で、
小勢に利があり大軍に不利な地です。

今回の戦いに勝ちを得るためには、敵を広場に誘い出すよりほかありません。ですが武田には、
馬場、内藤、山縣ら武功者の老臣たちがあり、このような計略には乗ってこないでしょう。
そして実際にそのような結果になれば、我らは徒に対陣の日を重ね、その間に武田は、
瀧川あたりの切所に押さえを置いて、長篠城を攻め落としてしまうでしょう。そうなれば、
織田徳川の両旗にて、しかも敵に倍する大軍を率いて後詰しながら、目前に城兵を見殺しにし、
出来ることも出来ずおめおめと御馬を返す事となり、天下の嘲りを受けるでしょう。

無理な合戦をすれば、必ず負けるものです。」

これに対し佐久間信盛は言った
「毛利殿の申される所、至極尤もです。ですが万一御出馬無い時は、かねてから徳川と取り交わしていた
御誓詞は水の泡となり、家康は武田方と合体するでしょう。そうなれば御当家は甚だ手薄な状態となり、
今後の御家運もいかがかと考えます。

ですから、この度は勝っても負けても御出馬あるべきです。」

信長はこの意見に賛同した。
「これはおもしろき右衛門が言葉である。早々に出馬いたそう。」

ここで佐久間は更に申し上げた
「御合戦に御勝ちなされたいのなら、御勝たせ申し上げましょう。この事について、私に一つの才覚が
あります。何とそ信盛に一任してください。但しこれは、私が武田に心を通じてこのような事を
言い出しているわけではありません。後日の証拠に、起請文お手元に差し上げ置き、その上で武田に対する
計策を申し上げます。」

そして誓書を献じた上で述べた
「先ず長坂長閑、跡部大炊助の両人に金を取らせて謀りたいのです。」

「易き事である。何なりと取らせてやる。良いように取り計らえ。」

「では金銀に添えて、光忠の脇差も賜りたく存じます。」

こうして信長は家康家臣の小栗大六重常を召して「近日出陣する」との意向を伝えた。
大六は大いに喜び、御前を下がるとそのまま岐阜を出立して急ぎ浜松に帰り、あった次第を詳細に
家康に伝えた。家康も大喜びし、即座に陣触れをして岡崎まで出陣、信長をここで迎えるとした。

信長は浜松に返事を済ませると直ちに陣触れを行い、5月13日岐阜発陣、熱田に着陣後、桶狭間勝利の
吉例を用いて熱田神宮に参詣し、神官の田島丹後守、惣検校の千秋喜七郎に御目見得を許した。
この時、内陣において轡の音がし、これに信長は歓喜した
「この合戦、神明の加護を以て勝利を得れば、当社は勿論、八剣の破損、及び末社に至るまで残らず造営、
修理いたそう!」

そして翌15日、岡崎城に着陣した。

(長篠軍記)




『心掛けた武辺は、おのずからの武辺に優っている』

2016年10月13日 17:55

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 04:37:15.61 ID:p8RqE2DR
昔、江戸大普請の時、人の家居も未だ定まらず、大名高家の屋敷取りがここかしこに
あった。ある大名は屋敷の中にいかにも趣のある小屋掛けなどをしておられたのだが、
夏の時分に狭い所で蝿が多く、払いかねなさり、

13,4歳の小姓に蝿を打たせ、主人も蝿打ちを持って蝿をお打ちになっていた。この時、
主人は、「驚いたか!(おほへたる哉)」と言って、その小姓の背中を強く打った。これに
小姓は驚いて怯えてしまった。

小姓は心の中で、「このような面目なきことはないぞ。今の有様ほど滑稽なことはない。
『未熟な者だなぁ』と思し召されては、恥ずかしきことだ! あぁ、仏神の恵みあって、
いま一度お打ちになって下されよ!」と、思って、

蝿を打ち参っておると、しばらくしてまた初めのように、主人は言葉をかけて仰々しく
お打ちになったが、小姓は少しも騒がずに蝿を打っていた。主人は「汝はさっき打った
時は驚き怯えたのに、いま打ったら少しも驚かないのは何故だ?」と、問いなさった。

小姓が心に思ったことをありのままに申すと、主人は深く感心して、「信長公も秀吉公も
『心掛けた武辺は、おのずからの武辺に優っている』と、仰せになられていた」と、言い、
朋たち(意不詳)の大脇差に時服を添えて、その小姓へお与えになったという。

――『備前老人物語』



242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 06:08:27.64 ID:6i3gVmaF
誰なんだろう。あの人っぽいが。