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此の頃の大将弓矢取様之事

2023年07月09日 16:30

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/07/08(土) 22:09:11.41 ID:58EwJ9sF
此の頃の大将弓矢取様之事

一、北条氏康公は名大将にて度々の軍に勝利を得給う中に、夜軍にて管領上杉の大敵にひとしお付け、
  終に(上杉)憲政に斬り勝ち追い討ち、関東を切従えるように成った。つまり北条家の弓矢は、
  敵の油断を肝要に目を付けるものなのだ。

一、越後の(上杉)謙信は、後の負けにもかまわず差し懸る合戦をしようとするが、それは氾濫した川を
  無理矢理に渡るような仕方である。殊更相手がましい敵に対しては、いつも退き口が荒い。
  謙信は加賀、越中、或いは関東碓氷などで敗軍したことがあるが、武田信玄公と対峙する時は
  無二に仕掛け申された。

一、織田信長は取り囲んだ城の包囲を解いて撤退し、境目の小城をいくつ攻め落とされても問題としない。
  追い崩されて自軍の人数を追い討ちに討たれなければ、世間の取り沙汰は無いのだから。
  攻め難い所は急ぎ引き取り、すぐに(別方面に)出兵して国を多く取って持ち、大身と成れば、
  終にはその名は高きものとなる、という事である。

一、(武田)信玄公は軍に損害の無いように、敵を見て退き口が荒くならないようにした。
  包囲した城に対し敵の後詰め(援軍)が来ても、それを見て(慌てて)包囲を解いたり撤退しないよう、
  出陣の前からその方針を軍勢によく理解させて出る。
  総じて、我が領分の小城を一つも取られないように、跡の勝利を水にしないようにさえ有れば、
  末代まで名は残るものである。
  さて又、国を多く治めることについて信玄公は、その身の果報により少しも怪我無くして名を取ったが、
  この上寿命が長ければ終に扶桑(日本)六十余州の主とも成るだろうと仰せに成られた。

  信玄公の御作法は御小旗に文字で書かれている、四ヶ条の如くである。その古語とは、
  一其疾如風
  一其徐如林
  一其侵掠如火
  一其不動如山

甲陽軍鑑



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長篠の戦いをなされたために

2023年06月21日 21:02

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/21(水) 20:19:14.13 ID:74/agC1t
織田信長は長篠合戦の勝利の威を以て、その年七月越前朝倉を倒し(これは天正三年八月~九月の、
越前一向一揆討伐を指していると考えられる)、すなわち越前に於いて伊勢田丸の城を取り上げ、
二番目の息子、三の介(織田信雄)をかの城に差し置くべきと定められた。
武田勝頼公が若気故にこの合戦(長篠の戦い)をなされたために、朝倉まで簡単に滅びてしまった。

信玄公が御在世の時、伊勢の国司(北畠氏)、江州の浅井、備前、丹波の赤井悪右衛門、越前の朝倉等は
甲府に使者を付け置き、信玄公が御上洛成されるようにと申していたが、信玄公が酉の年四月に御他界
されると、各々力を落とした。その上勝頼公が亥年に長篠にて遅れを取られた故に、彼らには少しも
後ろ盾が無くなり、あのように滅びてしまったのだ。

さりながら、信玄公御他界した次の戌年、遠州高天神城を勝頼公が攻め落とされた時、信長、家康は
叶わぬを聞き、国司(北畠氏)贔屓の伊勢先方衆は歌を作って歌った。その歌は

「ただあそべ夢の世に 上様は三瀬へ御座れば高天神は落」

などと申し、表面上は信長に従う風をしていても、信玄公御他界の後、勝頼公御代までも
長篠の合戦に負けられるまでの間、三年は諸方にて、武田四郎殿を後ろ盾に仕り、信長への面従腹背の姿勢を
維持していたが、長篠合戦で遅れた後は、御旗本衆の事は申すに及ばず、御譜代衆である東美濃岩村の
秋山伯耆守(虎繁)まで、亥の極月に取り詰められた。しかし勝頼公は後詰め成り難く、信州伊奈まで
御馬を出されたが、大雪によって岩村の後詰めは叶わなかった。

このため、信長は岩村の城へ扱いを入れ、『秋山伯耆守は伯母聟なのだから、助けるべし』と言ったが、
これにより彼らは出し抜かれ、伯耆守、座光寺(為清)らは搦め捕られ、機物に上げられた。
これは、徳川家康の味方となった奥平九八郎の女房を、勝頼公が機物に上げた事への返報であったと
言われた。その上、伯耆守の内儀(おつやの方)は信長の伯母であったが、強敵である秋山伯耆守の
妻になった故、伯母子をも信長は成敗した。

甲陽軍鑑

「どっちが本物?藩の家宝すり替え事件」

2023年05月25日 20:09

768 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/05/25(木) 09:19:00.51 ID:UJbMz561
SNSで紹介されてたんで転載

山形県上山市 ふるさと散歩資料
※PDF注意
https://www.kaminoyama-lib.jp/img/2022/furusatosanposiryou.pdf
「どっちが本物?藩の家宝すり替え事件」
上山藩主 藤井松平家には先祖代々伝わる、とてもすごいお宝がありました。
そのお宝とは、江戸時代の前の戦国の時代に、藤井松平家のご先祖(松平信一)が戦で大活躍したご褒美
として、あの歴史上の有名人 織田信長から与えられた、桐の紋章がついた立派な胴服(羽織)でした。
江戸時代の中ごろの文化年間(1804~1818の間)のある日、上山藩主の藤井松平家のもとに、信
州上田藩(現 長野県上田市)藩主で親戚の松平伊賀守から、信長からもらった胴服を貸してほしいとのお
願いがきます。
このお願いを上山藩主 松平信行は許し、城の蔵にしまってあった胴服を貸し出しました。
それからしばらくして、貸した胴服は上山に返ってきましたが、それを見た上山藩士 谷野市右衛門はあ
る異変に気づきます。
それは、胴服の襟の裏についているはずの印が無かったのです。この印は、胴服がすり替えられないよう、
貸し出す前に谷野がこっそりつけていたものでした。
上山藩主 松平信行は胴服の襟の裏に印が無いことを松平伊賀守に知らせます。
そうすると松平伊賀守は、胴服を借りた後、そっくりなレプリカ(偽物)を作り、本物とすり替えて上山
に返したといってきたのです。
その後、偽物の胴服は上田に返し、本物の胴服が上山に戻ってきましたが話はそれで終わりません。
それからしばらくして、上田藩は「我が藩主の先祖が藤井松平家(上山藩主)から分家するとき、信長か
らもらった胴服を貰い受けていた記録がある」と主張し、上田にある胴服が本物で、上山のものは偽物だと
言ってきたのです。
結局、どちらが本物か偽物かは決着がつかなかったようですが、それ以来、上山藩では、上田藩の者には
簡単に気を許してはいけないと固く決意したそうな。
【参考】上山市史編集資料28「森本家文書集」、上山市史編さん委員会、上山市、昭和54年8月



770 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/05/26(金) 17:20:42.17 ID:lClEifdb
はてさて?

https://museum.umic.jp/hakubutsukan/collection/item/0013-1.html
上田市立博物館 収蔵品
織田信長所用韋胴服

種別 国重文 工芸品
指定 昭和51年6月5日
所在地 上田市立博物館
所有者 上田市

  織田信長の遺品として、旧上田藩主の松平家〔まつだいらけ〕に伝わったもので、鹿の革〔かわ〕で作られています。
「韋〔かわ〕」とは「なめしがわ」とも読み、毛皮の毛と脂〔あぶら〕を取り除いて柔〔やわ〕らかにしたものです。
「胴服〔どうふく〕」とは後〔のち〕の羽織〔はおり〕のもとになった着物を言います。
表は全体に白い小さな模様が染め付けられていますが、これは小紋染〔こもんぞめ〕といい、
今でも和服の地〔じ〕によく用いられています。

前田利長夫婦京見物に乗出し本能寺信長乱を知り勢多より帰る事

2023年05月22日 20:36

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/22(月) 17:50:40.97 ID:B5XhHAMH
続武家閑談」から「前田利長夫婦京見物に乗出し本能寺信長乱を知り勢多より帰る事」

関連話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13431.html
かかる太平の世に逢候事ハなりかたき事
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3779.html
利長が輿をかつぐ者達を見ると

前田利長夫婦(当時数えで利長21歳、永姫(信長の娘)9歳)が同伴で京見物のために北国から上京しようと、まず安土城にいたった。
天正十年(1582年)六月二日、安土から勢田までおもむいたところ、向うから信長の奴僕がまっしぐらに来て「本能寺で信長公が弑せられました」と言った。
供のものどもは色を失った。
利長が言うには「父利家の領地である越前府中はここから遠く、一足とびには帰られないだろう。
まずは尾張にいる一族前田与十郎(前田長定)のところに妻女を預けよう」
すると六人の供が皆もとどりを切って
「尾張への御供はいたしません」とはっきり申した。
利長はこれを聞いて
「我らが妻女をおもうのも、汝らが越前にある妻子を心配に思うのも、心は同じである。
おのおの帰ってよいぞ」とことごとく帰した。
そして内室(永姫)に大小をささせ、馬に乗らせた。
恒川監物と奥村茂右衛門(奥村助右衛門永福?)が馬の口をとり、尾張へおもむいた。
一方、利長はまず安土の屋敷に入り、そこから越前に帰ろうとした。
このとき新参の武士は残らずいなくなり、譜代のみが供をしたという。
人心は今も昔も変わらぬはずだが、新参者は世上に有縁のものがあるために身を片づけやすく、
譜代はなかなか他家には縁がすくなく、また母や妻子が皆主人の領内にあり、逃れる手だてがなかったためであろうか。



762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/22(月) 21:57:13.34 ID:xQCLqfeC
>>761
ちょっと良い話でもある

時期外れのこの桃を捨てたこの分別は

2023年04月05日 19:06

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/04(火) 21:21:31.29 ID:7VhXufKi
武田信玄公の仕置に、諸々の境目に在る侍大将衆に、近国・他国の大将の行儀、作法、仕形などを
聞き出し次第、善悪共に一ツ書にて言上いたせ、というものがあった。
或る年、遠州犬居の天野宮内右衛門(藤秀)と申す侍大将の所より進上仕る書状に、

『美濃岐阜の織田信長に、直系一尺(約30センチ)にもなる桃が三つ成ったものを枝折りにして、
霜月(十一月)中の十日に献上した所、信長は差し引きの冴えたる大将であり、上辺は事を破っている
ように見えても、内心には時により、一段と練れたる事の多き武士でありますから、この桃を大いに
心祝いして、一つは信長自身が取り、もう一つは嫡子城介信忠へ参らされ、三ツ目を遠州浜松の
徳川家康へと送られました。

この事に対し家康は、世の常ならぬほど忝ないことだという返事を出しましたが、その桃は密かに捨てさせ、
家康が食うことはありませんでした。』

これを天野宮内右衛門は書き付けて提出した。それは一ツ書の多い中に、「これはそれほどの事でも無い」と、
末にいかにも粗略に書いたものであったが、信玄公はこれをご覧になり、その書付を御手に取られ、
しばらく目を塞がれた後、御目を開いて申された

「家康は今年で定めて三十ばかりであろう。しかし四十代に及び殊更大身の信長に比べ、五位も増した、
締まりどころ在る分別である。これに対し、武士の心馳せの無い者が聞けば、年齢に似合わぬとも
申すであろうが、三河国を治めるとして、十九歳より二十六まで八年の間に粉骨を尽くし、戦功の誉れも
それに相応し、海道一の武士と呼ばれているが、日本国においても彼に匹敵する武将はあまり多くはないだろう。
丹波の赤井(荻野直正ヵ)、江北の浅井備前守(長政)、四国の長宗我部(元親)、会津の(蘆名)盛氏、そして
若手にはこの家康であろう。

さて、時期外れのこの桃を捨てたこの分別は、後の出世を考えてのことであろう。この出世とは、無事年を明ける
事ができれば吉事となるという事であり。その意味は馬場美濃、内藤修理、高政は定めて合点するであろう。」

そのように宣われた。

甲陽軍鑑



779 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/06(木) 12:18:07.62 ID:sy19QJwM
>>769
重要人物は季節外れの果物は食べないって、別の逸話でも見た気がするな。あれは誰だったか…。

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/06(木) 12:27:27.97 ID:wrO1aHin
毛利輝元と石田三成「テルとジヴ」・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-954.html

で輝元が秀吉に贈った桃を拒否している

781 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/06(木) 12:31:22.08 ID:sy19QJwM
>>780
おお、それだ。
ありがとうございます。

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/06(木) 16:53:04.10 ID:QdzFzLJH
少し意味が違うが、打ち首直前の石田三成が水を飲ませてくれと言ったら、水はないが柿ならあるけれどどうだ?と言われて、柿は腹を冷やすからいらないと言った話があったな

「続武家閑談」から、樋口石見守(樋口知秀)武勇のこと

2023年03月31日 19:23

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/30(木) 23:47:50.84 ID:wJymD5x+
「続武家閑談」から、樋口石見守(樋口知秀)武勇のこと

近江国の杉の沢に樋口信濃守盛継という武士がいた。
佐々木定頼(六角定頼)の配下として細川晴元を助けるため播磨に出陣した。
入江左近将監は樋口と同家だったため、両家あい並び武威をふるった。
樋口信濃は芥川城で卒去したが、その子供が石見守知秀である。
芥川城落城の時、家来の田村与七兵衛というものが守護した。
永禄十二年(1569年)正月、公方義昭が京都本圀寺御寓居の時に三好三人衆が攻めてきた。
このとき石見守は馳せ参じ軍功を成したため、信長に召し出され秀吉公につけられた。
近江・越前でも抜群の軍功をあげた。
その弟の樋口兼継も荒木村重の反乱の折、信長公の味方として出陣したが、太田川で戦死した。
石見守はその敵勢を突き崩し、一人を討ち取った。
そのとき池田恒興から笄を賜り、今に伝来している。

石見守はそのころ有名な太鼓の名人であり、秀吉公の寵を受け従五位下に叙し山城で百二十石を拝領した。
天正十八年(1590年)の小田原の陣では鼓の筒の指物をさしてお供し、御陣場で権現様から杯を頂戴した。(今も伝わる)
名護屋の御陣中でも秀吉公に出仕し七百石の加増を賜り千石を領した。
そのほか山崎八幡の奉行や、播磨摂津の道割の監督も務めた。
慶長五年(1600年)九月に権現様が関ヶ原で御勝利された時は重病であったが山科まで参上し拝謁した。
権現様から御感の上意があったという。
翌年四月に山崎近辺の別所村で卒した。

その子、甚七知直は幼少であった。
秀吉公から賜った亀の笄、ならびに遺品である樋口肩衝を献上して本領別所村の安堵を願った。
権現様は不憫に思われ、片桐且元、大久保長安に仰せつけられ安堵を認められた。
甚七は成長後、江戸にいたって白書院で秀忠公に拝謁し、御朱印を頂戴した。
寛永三年(1626年)の秀忠公御上洛の時、土井利勝が奏者として顔合わせをした。
秀忠公から「父によく似ている」との御言葉があった。
父同様に太鼓が上手なのでそののちも芸をあいつとめ、子孫も引き続き別所村百三十五石を領し、江戸に毎年参勤して太鼓の芸を上覧にいれた。
とはいえ武士であり、猿楽の四座とは別物と若年寄衆も承知されていた。
しかし子孫の久左衛門秀植の代に至って、貞享の頃観世座の合属となってしまった。
まことに武門が嗜むべきは弓馬の道、愛するべからざるは遊芸である。
その道をもて遊び、ついに役者に落ちてしまったこと、嘆くに余りある。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13843.html
「武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄

小田原の陣での話はこちらにもあった



「続武家閑談」から姉川の合戦と太郎作正宗

2023年03月01日 19:46

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/28(火) 21:16:51.50 ID:rNDNB3Wk
続武家閑談」から姉川の合戦と太郎作正宗

江北姉川で大御所様ならびに信長公が勝利された。
信長がおっしゃるには
「家康家中のものはよく合戦するとは常々聞いていたけれども、今眼前で見るに愛すべき者どもの働きであった。
家康の者どもが、こうも薄くのびて敵について離れないことを知らなかったぞ」
とお戯れになられたそうだ。
大御所様、御家中衆の誉となった。
この合戦の時、太郎作(水野正重)の刀がよく切れ、兜の鉢を切り割り、歯まで切り付けたという。
この刀は水野下野殿(水野忠政?)からたまわった、かくれなき名刀であったという。
大御所様もよくご存知であり、その刀には様々な不思議のことがあったという。
(このあとは有名な浅井長政ら三人の髑髏の話)

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/28(火) 21:29:21.32 ID:rNDNB3Wk
というわけで>>682
藤六の刀は太郎作の兜を割れなかったが、太郎作の刀は割れたようだ。

なお昭和18年刊行の「日本刀と無敵魂」には
「前田侯爵家の家宝太郎正宗は正宗中の傑作であるのみでなく、其の歴史は此の名刀に一段の光輝を添へるものである。
此の刀は磨上無銘で、長さは二尺一寸二分、切先から八寸五分程下所のに、小さき刃こぼれがある。
又切先から五寸二分程下の所に、矢目といって矢の当たった四角な小さな穴がある。
(>>683の話)刃こぼれは此の時の功名傷である。
清久(太郎作)も正宗の切れ味が余りによいので、自分ながら驚いて家康に話すと、
家康「それは下野守が常々自慢していた刀であろう」といって、自ら手にとり見て、「此は正しく五郎入道である、大切に所持されよ」と云はれた。
此刀後に徳川二代将軍秀忠に入り、三代家光に伝はり、家康の養女が加州四代藩主前田光高に嫁した時、光高へ贈られ以来前田家の家宝の一となった。」
と書かれている。現在国宝指定。



「続武家閑談」から「岡崎にて一揆どもと御合戦のこと」

2023年02月27日 19:32

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/26(日) 22:46:16.88 ID:EAgpXPFs
続武家閑談」から「岡崎にて一揆どもと御合戦のこと」

大御所様が岡崎に御居城あそばされた時、信長公へ六条門跡(本願寺、ただし六条門跡は堀川六条に西本願寺ができてからの呼称)が逆心したということで、宗旨の者どもも国々で一揆を起こした。
三河一国の宗旨の者もことごとく一揆をおこし、一揆勢には家中の歴々の武士も多かった。
これは当時、大御所様が信長公に御味方してらっしゃったためである。
一揆の者どもを御退治なさるべく評定を行い、明日御合戦をなさるとお決めになった。
青見藤六はその夜まで大御所様の近くにおり、御手立ての様子の委細を承知していたが、その夜に一揆勢方に加わり、一揆の大将となってしまった。
大御所様はこれをお知りになり小姓どもにお触れをなし
「今日の合戦でわしが討ち死にするようなことがあれば、忠義のものは石川新七と藤六の首をとってわが前に持って手向けをするように。
さすれば二世までの忠節と思おうぞ」とおっしゃった。
さて合戦で藤六と石川新七は先に進み、新七は水野和泉(水野忠重)に突きかかってきた。
新七は「和泉殿は日ごろは一家の主とあがめていたが、今日は敵となったからには一槍つかまつろう」と言って和泉と槍を合わせ、討ち死にした。
青見藤六は太郎作(水野正重)と出会い、太郎作は逃がすまいと進むと
藤六は「小せがれめ、射殺してくれるわ」と大弓を引いた。
こうして太郎作は槍、藤六は弓を引いたまま、互いににらみあった。
するとどこからかしらぬが流れ矢が藤六の肘に突き立った。
藤六は弓を捨て矢をかなぐり捨てたため、太郎作は「うれしや」と一槍突いたけれども、良い具足であったため槍がはしって藤六と鼻合わせになってしまった。
藤六は刀を抜き、太郎作の兜の鉢から斬ったものの、兜はよい兜であったため斬れなかった。
太郎作は槍を捨て、刀を抜いて一打ちすると、藤六は倒れながら「小せがれにやられるとは無念の次第」と言い、念仏を唱え「早く首をとれ」と申した。
こうして石川新七と青見藤六が討たれたため、一揆勢も討ちに討たれて敗北した。
その後、太郎作が藤六の首を持参すると大御所様は
「藤六を討ったのはその方か。まことに満足でなににたとえようか。
太郎作一世の奉公と思うことにする」と重々おっしゃられたそうだ。
これについては拙者よりも渡辺図書(渡辺半蔵の三男の子孫?)がつぶさに存じられている。
なおこの時、太郎作は二十歳だったという。

信長と本願寺との対立はもっとあとのはず。
また「三河物語」では水野忠重が討った一揆勢として石河新九郎、佐橋甚五郎、大見藤六郎を挙げている。



現代、織田信長は天下に意見するほどであるが

2023年02月27日 19:31

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/26(日) 20:07:30.52 ID:X2ZD+Z14
ある時、穴山(信君)殿が馬場美濃守(信春)に尋ねられた
「現代、織田信長は天下に意見するほどであるが、聞き及んで人の手本に用いるような軍法が一つも無い。
これは一体どういうことだろうか。」

馬場美濃、答えて曰く
「信長の敵は、美濃衆相手に七年にわたって手間取ったばかりで、残りは皆、信長に怯える人々です。
故に軍法も必要ありません。その上、信玄公は長尾輝虎との戦いの中で、おおかた世間で考えられるほどの
手立て、はかりごとを成しました。そのため他国の弓矢は御当家においては、さほど面白く思えないのです。

殊更、信長も当年三十八歳、天下においても三好殿を押し退け、都の事をまことに自身で意見するように
なったのは、去年七月からのことです。軍法というものも、大敵、強敵に遭遇しての行いです。
信長は国を隔て、信玄、輝虎とは終に武辺の参会が無く、そのような中に現在では、信長は嫡子の
城之介(信忠)殿を、信玄公の聟にとある、武田の縁辺となっています。そう言ったわけで、信長は
手立てすべき敵はさほどありません。

十二年前、今川義元との合戦(桶狭間の戦い)の時は、信長は二十七歳で無類の手柄を成しました。
その頃、信長は小身であり若く、大敵に対し様々なはかりごとを行って、勝利を得られました。

はかりごと、手立ての軍法が無い弓矢(合戦)は、例えば下手が集まって催す能を見物するようなものです。
しそこなわないかと思い、見ながら危なく感じます。

信長の弓矢というものも、美濃国と七年の間取り合いをしたことで、武功の分別が定まりました。
信玄公の弓矢は、村上(義清)殿との取り合いにて、武功の分別を定められました。当時、村上殿は
信州の内四郡、越後一郡ほどの、合計五郡を領していましたが、広き国なる故に、甲州と比較して一国半ほども
ある勢力でした。その上強敵でもありました。

また、徳川家康はこの頃の日本において、北条氏康、武田信玄、上杉謙信、織田信長の四大将に続いて
名を呼ぶほどの大将である十三人の中でも、殆どの者が家康の名を一番に上げる程であり、今年か明年の間には、
この家康と一戦せざるをえないでしょう。そうなった時は信長も、後を考えて、現在でこそ当家の縁辺として
無事であると雖も、家康に対して加勢を行うでしょう。その時は両家を相手になさって信玄公は合戦を遂げられ、
都まで誉れを上げねばなりませんから、これには猶以て軍法を必要とするところです。」

そう、馬場美濃は穴山殿に申し聞かせた。

甲陽軍鑑



「続武家閑談」より「家康公堺より岡崎へ入還の事ならびに御当家伊賀衆の事」

2023年02月10日 19:37

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/09(木) 19:21:30.30 ID:7bZBp8YZ
続武家閑談」より「家康公堺より岡崎へ入還の事ならびに御当家伊賀衆の事」

天正十年(1582年)春、葛原親王二十八代の末裔、伊賀の国の士、柘植三之丞(柘植清広)が浜松にきて伊賀の士が家康公に属したいむね言上した。
伊賀はいったんは信長に従い本領安堵を得たが、そののち背いたため、その年信長により城郭を屠られ追い払われ、あるいは山林に逃れ、あるいは先祖伝来の地を失っていた。
この年信長は甲州征伐し凱旋したので、権現様は慶祝のため安土城にいたった。
信長は御奔走し、徳川家の歴々衆の永井直勝などにも別席で饗膳を出し、信長自ら箸で肴を配膳された。
家康公は御上京なさり、堺の津を遊覧されたところに、京本能寺で信長生害の知らせが届いた。
このため堺をお立ちになり、御家人の諫言に従い、長谷川竹丸(長谷川秀一)を案内人として伊賀・伊勢を経て岡崎へ御帰還ということになり、宇治川にいたった。
瀬を渡るに際し、酒井忠次が小船一艘を求め得て権現様を乗らせ奉った。
船人が運賃を乞うたため、御腰の笄を下賜した。
御家人たちは酒井忠次はじめみな馬で宇治川を渡った。
御船が岸に着くと鷹匠の神谷小作が船人から笄を取り戻したため、権現様から神谷に笄が下された。
山岡景隆(明智軍を妨害するために瀬田橋を落とした)の弟・山岡景佐は瀬田からこの地に来て道案内をした。
宇治田原の者どもが蜂起しているため、この地にある呉服(くれはとり)大明神の社に入れば別当の服部貞信が案内するだろうと御判断された。
この別当が家人を連れて山中を道案内すると、野武士らはみな別当と親しかったため、ことごとく服した。

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/09(木) 19:24:15.75 ID:7bZBp8YZ
服部貞信は江州信楽まで案内した。
この地は代々多羅尾が治める地なので多羅尾光俊と旧交のある長谷川竹が権現様の御難儀について光俊に告げ、光俊はすぐに自分の屋敷に入れ奉った。
権現様は服部貞信の忠義をお感じになり、当座の御褒美として来国次の御刀を下賜された。
のちに服部貞信は浜松に参り百六十石取りの御家人となった。現在、服部久右衛門・服部采女がこの御腰物を伝来していると聞く。
権現様は多羅尾の宿に御一泊され、多羅尾の案内で伊賀の柘植にいらっしゃった。
この地の柘植清広(前述)の一族は信長に攻め滅ぼされたために民間に潜んでいたのであった。
柘植らは人質を出し、途中の一揆勢を追い払い、お供仕って鹿伏兎(かぶと、加太)まで権現様を送った。
これにより権現様は柘植たちを御感あさからずお思いになった。
ただほかの二百人の伊賀浪人は中途までだったため、御家人とはならなかった。
多羅尾父子は伊勢の関まで送り奉ったため、多羅尾の本領も安堵して御家人とした。
同国白子まで到着なさると、角倉七郎次郎(角屋秀持)というものが自分の船を貸し奉ったため、そののち今に至るまで子孫繁盛している。
伊賀の柘植・百地などはここで御暇を賜った。
三河の大浜に権現様が到着されると長田重元が迎え奉って君臣ともに饗応した。長田重元は永井直勝の父である。
こうして権現様の御体もつつがないということで万歳を称し、同年明智退治のために尾張へ御進軍したところ伊賀の諸士はことごとく参陣し御家人となった。
ただ柘植・百地をはじめとした鹿伏兎までお供をした者はみな御直参として御馬廻りとなったが、中途までで帰った二百人は徒歩・同心の格として召し抱えられた。
この二百人が今の伊賀衆の先祖である。



これはみな虚言である

2023年02月08日 19:11

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 20:59:36.20 ID:uH6/DNEA
天正元年正月七日に、武田信玄公は遠州刑部をお立ちに成って、同月十一日、三河野田城へ取り詰められた。
この時、徳川家康より織田信長へ、小栗大六という者を使いとして、野田城救援のための後詰の
有るように、と頼み申されたが、信長は軍勢を出さず、二度目の使いでも信長が出馬することはなかった為に、
野田城を守備していた菅沼新八郎(定盈)は降参し、城を明け渡し、山県三郎兵衛(昌景)に
菅沼新八郎の身柄は預けられた。

新八郎方より家康に申し越し、奥平美作守(定能)の人質が家康の元に有ったが、これを菅沼新八郎の身柄と
取り替える事となり、奥平の人質は信玄公に家康より進上され、菅沼新八郎は家康に渡された。
その取引は三州長篠の馬場において行われた。二月十五日の事であった。

その後、信玄公は御煩いが悪化し、二月十六日に御馬入された。
この時、家康家中、信長家中諸人は、信玄公が野田城攻めの最中、鉄砲に当たって死んだのだと沙汰した。
これはみな虚言である。惣別、武士の取合いにおいては、弱い方が必ず嘘を申すものだ。
武田家と越後輝虎との御取合においては、敵味方共に嘘を申す沙汰は終に無かった。
例え信玄公が鉄砲に当たったとしても、それが弓箭の瑕になる事は無い。

甲陽軍鑑

野田城の戦いについて



遠州から立ち退くことは有るまじき

2023年02月01日 19:46

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/31(火) 21:26:19.84 ID:kyUmYcqb
元亀二年辛未年七月、武田家は再び家康と御取合が始まったが、信長はいつもの如くの、武田に対する
御入魂ぶりであった。
そのようであったので、家康に対して信長よりの異見は、「家康は三河の吉田まで撤退し、遠州浜松には
家老を差し置くように。」とあった。

しかしこれに対して家康は、
「浜松城を立ち退くほどならば、刀を踏み折り、武辺を捨てるという事である。
どうであっても、武士を立てる以上、遠州から立ち退くことは有るまじき。」
そう内談を定め、信長に対しての返事には
「いかさま御意次第に仕りますが、先ずは一日であってもここに在りたいと思います。」
と伝え、その上で浜松から引き下がらないということを、遠州・三河の侍衆に伝えた。

未の九月、山縣三郎兵衛(昌景)が、信州伊那より四千の人数を引き連れ西三河・東三河の仕置に罷り出でた。
これは山縣の手元の衆に加え、信州諏訪。伊那の山縣三郎兵衛同心組衆を率いての事であった。

甲陽軍鑑

武田信玄の「西進」が始まった時の、信長と家康の対応について。



信長の弓矢が締まっているとは

2023年01月25日 19:25

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/24(火) 21:32:04.96 ID:bZTeiPzH
午の年(元亀元年)の極月に武田信玄公は、馬場美濃、内藤修理、山縣三郎兵衛、高坂弾正、
小山田兵衛尉、原隼人助、跡部大炊介の七人を召して、弾正にこのように仰せになった。

「信長の使いである織田掃部(忠寛)は、家康の人質(松平康俊)が甲府から逃亡した事について
どのように申していたか。」

高坂承り
「掃部が申すことによると、

『信長がこれを聞けば、家康も届かないことだと考えるでしょうが、定めてこれは家康も知らない事でしょう。
源三郎(松平康俊)が不覚悟であったために、そのような事態になったのだと推量いたします。
ですので、やがて又、定めて別の人質を、家康より武田に進上するでしょうし、そうしなかったとしても、
信長は信玄公に御無沙汰申し上げるような事は少しも有りませんので、以後は信長からも、
舎弟なりとも子息なりとも、進上致されるでしょう。』

このように、いかにも異議無きように、織田掃部は請け合いました。」

信玄公はこれを聞かれ
「信長は去年近江坂本において朝倉義景と対陣し(志賀の陣)、又は当年七月より天下を支配仕るにつき、
我々としては信長家中の者を深く取りなし、弓矢の義を能々問わなければ、弾正に対して本音を申すような
事は無いだろう。隼人、大炊介に対しても申さないだろう。偶々であっても、各々の被官共に語ったような
事はなかったか?」

高坂も隼人、大炊介いずれも「承らず候。総じて信長の使いに限らず、どこからの使者衆も、当方に参って
武者雑談などは終にいたしません。」と申し上げた所、馬場美濃がこのように申した

「尾州犬山の城主であった津田下野守(織田信清)は、信長の姉婿でしたが、信長に負けて追い出され、
諸国を牢々いたし、三年前より東国へ参り、御舎弟の一条右衛門太夫(信龍)殿のはなしの衆に成り、
犬山哲斎と称しております。この人の語った所によると、信長は武辺形義について、父弾正忠(信秀)を
少しも真似ず、舅であった斎藤山城守(道三)の、弓矢形義を仕ると。そしてそそけた(乱れてだらしがない)
ように見えても、実際は殊の外締めた働きをしている、そのように沙汰致しました。」

信玄公は仰せになった
「信長の父・弾正忠は尾張を半分も治めることが出来ず、小身故に今川義元の旗下となり駿府に出仕した。
斎藤山城は、殊に我らを頼まれていた土岐(頼芸)殿牢々の後、美濃一国の主となり、越前の方まで掠め、
山城の嫡子・義龍の代には越前より朝倉常住坊と申す従弟坊主を美濃へ人質に取るほどであり、斎藤の弓矢を
弾正忠と比べると、はるかにその弓矢の位は上である。信長が斎藤山城の弓矢の家風を取り入れたのは尤もである。

しかも、山城の孫である龍興を信長は押し散らし、美濃侍を数多抱えたのであるから、父弾正の代には小家中
である故に、侍はどうしても大きな家中の家風を真似るものであり、おのずから信長衆も大体の事は、
斎藤山城のやっていたように致すのだ。それは意図的に真似ようとしなくても、例えば浄土寺へ行けば、
自然と念仏を申したく成る心が湧くのと同じ事である。」

また信玄公は馬場美濃に問われた
「信長の弓矢が締まっているとは、どういった事を根拠に犬山哲斎は申しているのか。」

馬場は
「ある時、犬山勢が油断し、侍を在々へ皆返した時、信長は七千の人数を以て犬山の宿町まで乱入しました。
しかし哲斎方十八人が反撃し彼らを追い出し、その後信長勢を追尾し、上方道を一里あまり追ったものの、
信長勢は返してこれと戦おうとせず、逃げ散ったような形となりました。しかし尾張中は皆信長に降参仕り、
犬山一人で信長に楯突くこともは今後成り難くなったため、終に城を渡し牢人仕りました。

信長の七千の人数が、十八騎に追い出されるということは無いでしょうが、尾張一国が皆信長に
従う上は、犬山も問題なく手に入るものであると判断したため、分別して哲斎をさほど強硬に攻めなかった、
という事から、「締りある」と哲斎は物語ったのです。」
と申した

甲陽軍鑑

武田家における信長の軍略についての認識について



586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/25(水) 00:08:10.64 ID:AqQAHLQG
一矢報いたというのが言いたい負け惜しみやんけ

636 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/02/10(金) 10:46:03.47 ID:GWEK21bA
>>585

徳川家康の異母弟・松平康俊(勝俊)は、今川氏への人質に出されたり、その次は武田氏の元に、さらにそこを脱出してと
波乱の人生を過ごしたひとでしたが、早くに亡くなりました。
娘が一人しかいなかったので水野家から従兄弟にあたる松平勝政が婿養子となって入り、子孫は交代寄合の大身旗本として続き、
江戸中期の加増で多古藩(千葉県香取郡多古町)の大名となっています。

歴史のさと多古を歩く
https://www.town.tako.chiba.jp/docs/2018013100486/file_contents/11_TakoKanko_A4_p2229m.pdf

さて、康俊の娘(もしくは勝政)は伝承では天正14年(1586)伯父の家康から雨乞いの神通力がある龍頭「?蛇頭(りょうじゃとう)」を授かり、
代々の家宝として伝え、現在はご子孫から多古町に寄贈されています。
その?蛇頭はリンク先の町誌に写真があるんですが、どう見てもミイラ化したワニ頭骨。ヨウスコウワニ?
唐の頭も含めて、家康は早い時期から舶来品好きですよね。

遠州御発向の御備定は

2023年01月24日 19:00

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/22(日) 16:37:30.54 ID:Uf3aPfmT
長尾輝虎は十年以前の辛酉に、信州川中島において大きく負け(永禄四年の第四次川中島合戦か)、
三千あまりも討たれた後は、此の方(武田方)より押し詰め、この頃では信玄自身が出馬するに及ばず、
高坂弾正が越後の内で働いても、さほど危ういことも無い。

北条氏康は当年(元亀二年)十月に他界した。去る巳の年(永禄十二年)の最中度々押し詰め、すでに
小田原に日帰にした。足柄、深澤まで信玄が攻め取り、関東は氏康に掠められていたが、その氏康を
信玄が掠め取ったのである。

また佐渡庄内、加賀、越中、能登、関東までもに、輝虎が押し出したが、その輝虎も先のように押し詰めた。

この上信長、家康の二人に信玄が勝てば、西国までも弓箭において心もとないことは無い。何故ならば、
四国、九州は安芸の毛利によって仕詰められていた所、信長が都に発向して、天下を持っていた三好を絶やし、
中国の毛利をも、父(正確には祖父)元就の死後とは言いながら、早くも少しずつ掠め取っているとの
沙汰が有るからだ。

東海一番の家康、五畿内、四国、中国、九州まで響き渡る信長、彼らを一つにして信玄一方を以て
勝利を得るならば、日本国中は沙汰にも及ばぬ義である。
当時は唐国までも、武田法性院信玄に並ぶ弓取りは有るまじく候と言われていた。

遠州御発向の御備定は、午年(元亀元年)の冬中に高坂弾正の所で七重に定まり、書き付けて信玄公の
御目にかけた。

仍って件の如し

甲陽軍鑑

武田信玄が西上を決断した際の、外部情勢についての認識について。



その日に目出度く御祝言を上げた

2022年12月30日 17:13

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/30(金) 13:00:00.90 ID:fPD5q2c/
>>516の続き

それから、岐阜、そのほか国々、城々へ、先の夫婦で社参したいという断りを、下向の時に申した所、
「安き御事に候。来年は夫婦連れにてお下り候へ。分国においては随分御馳走いたしましょう。」と、
方々と約束し、磯伯耆守(磯野員昌)は国へと帰った。そして翌年の六月頃、先に計画していた
調義仕り、乗物七丁の中に、小侍従と申す物書きの上手なる上臈衆を召し連れ、これを内儀のように
もてなし国を出た。

考えていたように、道先の城下においては、城主の裏方(奥方)より音信文など参った。かの小侍従は
物書き故に自らその返事を仕った。
そのように道々を罷り通り、東の四ヶ国の社参を仕り、その後清須まで戻り、信長公の御妹を申し請け、
七丁の乗物の、上臈衆、および三十四、五人の下女、はした共を入れ替え、信長公は御自分の上臈衆、
はした者以下に至るまで、御手廻り衆を御妹子に付け、これに伯耆守がお供して近江へと上がった。

その際、それまで連れていた下女達は清須に置いていったが、先に申した小侍従と申す物書きの女は、
乗物の中に入れた。それは帰国途中の城々より文などが届いた時、先の筆跡と違わないようにとの
配慮からであった。

浅井殿の領分に近づくと伯耆守は、『このように調義仕り、信長公の妹の御供をして罷り上がっております。
ですので御家中の年寄その他残らず、境目まで御迎えに出られますように。』と申し上げた。
このため浅井家中の者たちは残らず御迎えに出、その儀式、残る所無く御輿を迎え取り、御城へ直に
入れ奉り、その日に目出度く御祝言を上げた。
この時、信長公より川崎と申す侍が、商人の姿に変装し、小さ刀すら帯びず、この御祝言を見届けると
清須へと戻った。信長公はこの報告を受けると、「喜悦これに過ぎず」とお祝いされたという。

川角太閤記

お市の方の、浅井家への輿入れについて



目出度く来年の御祝言、相調いました

2022年12月26日 19:29

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/26(月) 17:37:30.57 ID:hS9JgHQL
>>665の続き

浅井家の重臣である磯伯耆守(磯野員昌)は内々の分別に、
「天下を、この織田三郎信長が一度は取るという異見がある。また彼には妹が有るという。
備前守(浅井長政)には内儀が無く、方々より縁組について申して来ているが、どうにか分別して頂き、
信長殿の御兄弟に致したいと思っているのだが、信長への通路が敵に塞がれており、分別が成り立たない。
ところで私の煩いが東国へも聞こえたのは確かである。そこで国々へ使者を立て、手引してみよう。」

そう考え、道々の城々へ道を乞うてこのように申した
「私は当春、不慮に煩い存命も定かではない状況でしたが、両親がこれを悲しみ、神々へ命乞いをしてくれた為か、
不慮に助かることが出来ました。この時親は、東は伊豆箱根三島の明神、富士の御山へ立願をかけました。
そして神慮がこのように成ったため、そこまでの道の口を通行することを御赦免して頂きたいのです。
私は今年の六月を心懸、これらへの社参を遂げたいのです。」

そのように使者を立てて申し出た所、小田原までの間の城主は尽くこれに同意し
「御煩いの様子は承っております。さては神々への命乞いでしょうか。神慮に対し仕り通過を許可しましょう。」と、
小田原から江州までの道の口を請う事ができた。
さればとて、その夏に伯耆守は美々しい様子にて社参と称して東国へと下った。道々の城からは残る所無く馳走された。

清須まで到着した時、そこにおいて「霍乱(日射病、熱病)になってしまいました。信長公に御医者を頼みたく
存じます」と申し上げた。すると「御道中であり、安き事である。ここに暫く逗留して養生されるように。」と
御馳走を残る所無く仰せ付けられ。五、三日の間、養生として逗留した。

その夜、伯耆守は佐久間右衛門(信盛)殿をにわかに呼び寄せた。
「談合したい仔細があります。承った所に寄ると、信長公には御妹が居られるそうです。
我が浅井備前も未だ内儀がありません。そこで、御妹を申し請けたいのです。」

このように右衛門殿へ申し渡し、これは信長公の御耳に入ったが、信長公からは
「浅井との間には敵が多い。妹を送る道をどのように仕るべきか。その分別さえ確かに有るのなら
妹を遣わそう。そういう事なので直談したい。」との御返事であった。

ならばとて、伯耆守はすぐに御対面し申し上げた
「この事についての仔細ですが、今回、私はこのあと、東へと通過します。北条殿、義元、その他へこのように申します。

『道の口を通過する御赦免を頂いたおかげで、遂に社参が出来ました。この上、また御詫び言を申し上げたいの
ですが、今度は女たちを召し連れ、夫婦共に社参仕るべしとの立願を成したく、来年は夫婦ともにこちらへ
下りたいのです。』

そのように東の大名衆に御詫び言を申し上げます。夫婦連ねてという事であれば、なお以て別状は無いと、
道の口通過を免除していただけるでしょう。その同意をとりつけた上での帰りに、また御談合いたしましょう。」

翌日、伯耆守は東へと向かい、四ヶ所の宮々への社参を遂げ、北条殿、義元などへ先の御礼を申し上げ、
「来年は夫婦連ねて通行することをお許しください。」と断り申した所、案の定「安き事である。
神慮に対し仕る上は、御心安く来年、夫婦揃って御社参されるように。」との約束を堅く仕った。


そして清須に戻ると、再び霍乱気となったと申し出た。その上で
「東国ではこのように、来年妻たちを召し連れ下ることについてしっかりと申し極めました。
しかし私の妻を召し連れはしません。乗り物七丁、下女はした者に至るまで、三十四、五騎を召し連れ、
これを夫婦揃ってと称して下ります。そしてこの女共を入れ替えて、御妹を申し請けに罷り上がります。
これであれば、少しも問題はありません。」

信長はこれを聞き届け、「ならば妹を御目にかけよう。」と、伯耆守一人を召し連れて奥へ入り、伯耆守は御妹の姿を見奉った。

「目出度く来年の御祝言、相調いました」
そう直談仕り、帰国したという。

川角太閤記

続き
その日に目出度く御祝言を上げた


であれば、私の煩いは東にも響き渡っただろう

2022年12月21日 19:18

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/21(水) 19:01:33.82 ID:o5VOkXtJ
これは要らぬ義ではあるが、書き付けておく。
『信長記(信長公記)』に書かれていないと言うことなのだが、その仔細は、信長記をあらかた作った、
信長殿の家臣であった太田又助(後和泉守・牛一)が、この当時は未だ若かった故に、日帳を付けていなかった
ためだと承っている。

永禄元年午年、但し信長公二十五歳の御時、尾張一国をようやく御方に付けられたが、岐阜や伊勢などで
御競り合いがあり、尾張の内においても時々競り合いがあった。そのような時期の事である。

この時期、朝倉殿は越前より天下を望み、浅井殿は江州小谷より天下を望んだ。
同国観音寺山には佐々木(六角)承禎が、伊勢、岐阜、清須は信長殿、三州、遠州、駿河の辺り、
殊に駿河は(今川)義元、小田原には北条殿、このように方々に大きな勢力が在った。

そのような時節、信長殿は御妹を以て、江州北の郡の浅井備前守(長政)を妹聟に成されたが、
この事は浅井殿の臣下である磯伯耆守(磯野員昌の事と考えられる。なお実際には丹波守)の
分別故であると言われている。

浅井殿の家中では、この伯耆守は一大名であった故、世間にも聞こえる程の者であった。
例えば正月頃、彼が大病を煩い、もはや伯耆守はあい果てたと、東は北条家まで響き渡った。
しかしその頃、彼の大熱気、傷寒は突然持ち直した。
回復した彼は夢の覚えのような心地をしていて、何事も覚えていなかった。
「煩っていたのか?」と彼が申したことで、周りもそれに気がついた。

親、内儀達は「その事についてですが、殊の他の大熱気でありましたが、このようでは(病気のことを)
覚えておられるだろうか、と申すほどの大変な煩いでありました。」と申した所、伯耆守は心静かに分別し

「であれば、私の煩いは東にも響き渡っただろう。」と。信頼できる者たちに、物参りをする体に変装させ、
東の街道筋で情報を収集させた。彼らに「「磯伯耆守が果てたか」という話がどこまで伝わったか、
東は小田原まで聞き届けて罷り帰るように。」と申し付けて遣わした所、
「浅井殿内伯耆守は大病にて果てた。」と申す所もあり、「いやいや、思いもかけず生き延びたという。
その立願に於いては日本の神々に、『親二人が悲しむ故、立願を以て命を乞うたのだ。』」とも
取り沙汰している所もあった。

使いが帰ると、これらを伯耆守はよく聞き届けたという。

川角太閤記

続き
目出度く来年の御祝言、相調いました


何事につけても、最も身が危うく見えるのは

2022年11月06日 18:50

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/06(日) 16:46:48.05 ID:XrQtncg6
(賤ヶ岳の勝利の後、柴田勝家の所領である越前を平定した羽柴秀吉は、彼に従属した前田利家が領する能登国へ入った。)
能登国中を巡検した秀吉は、越中との境目である末森城を取り立てるようにと言われ、さらに
七尾城も見られ、前田又左衛門(利家)に委しく言い含めた。

この時、前田又左衛門が申し上げた
「この勢いで、越中へ取り掛かり、内蔵助(佐々成政)を御退治されるべきです。」

秀吉は返答に
「その事について、思い出したことが有る。何かと言えば、天正三年五月二十一日に、甲斐国武田四郎(勝頼)と
三州長篠において信長公が御合戦成された時、頸数一万二千余り討ち取る大勝利を得たこと、貴殿も御供した
故に能くご存知であろう。

あの時、そのまま甲斐国へ押し込むのだろうと、私も人も考えていた。ところが信長公はそうせず、
そこから帰陣なされた。あの時、御勢い、御利運でこれ以上はないと思われたが、ああ言う時は
天魔の所業というものもあり、五,三年もそのまま捨て置けば、国内に謀反も出来、家中もまちまちに
成ることが聞こえるようにもなるだろう。その時に馬を出して退治するのだ、という御分別であったと
聞いている。

又左衛門殿も皆々も聞いてほしい。勝家に打ち勝った以上、この秀吉もこれに過ぎる安堵はない。
その上で心ならずも慢心することもあると覚える。その上、下々以下に及ぶまで勝ちに乗る体で、
早々勇み悦び、興に乗るような様子である。

佐々内蔵助は剛なる上に手聞の上手である。また合戦の習いとして、勝敗は人数の多少に必ずしも寄るもの
ではない。よって、これより一足先に引き取ろうと思う。その内に、秀吉が再び軍勢を募り出陣してきた時は、
位詰めに成るだろうと内蔵助も、またその家中の者達も考え出すであろうことは必定である。そうなれば
家中にも謀反者が出てくるだろう。

何事につけても、最も身が危うく見えるのは勢いが過ぎている時であり、だからこそ今引き取るべきである。」

そのように申して、加州村山城に入られ、加州半国と能登一国を前田又左衛門利家に与えた。
また能登に於いて長九郎左衛門(連龍)に対し、「前田又左衛門に付け置く。何事も利家次第とするように。」
と仰せ置かれた。

川角太閤記



義元公と弾正忠子息の和睦が

2022年10月30日 17:36

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/30(日) 15:26:26.72 ID:dLte+MCx
尾州の織田弾正忠(信秀)が死して、その子息、今の信長であるが、彼は今川義元公の旗下とならず、
挙げ句義元公がお持ちの国であった三河の内、吉良の城へ取り掛け、附城を造ってこれを攻めた。

この事態に義元公は御馬を出されたが、跡を気遣い遠州引馬に逗留され、先衆を以て弾正忠子息(織田信広)の
拵えたる砦を包囲し、既に攻め殺さんとする所に、織田は降参して父の如く義元公へ逆義あるまじきと
起請を書き詫び言したため、義元公と弾正忠子息の和睦が成立したのであるが、これは尾州侍である
笠寺の新右衛門(戸部政直)がかねてより義元公を大切に存じており、この折に仲介した御蔭だという。

またこの時義元公は
「三州岡崎の城主・松平広忠の子、竹千代当年十三歳になるを、一両年以前より盗み取り、熱田に
隠し置くという。それも早々にこちらへ渡せ」
と仰せになり、義元公はこの松平竹千代を駿府に召し置かれた。今の遠州浜松まで平定して浜松に在る
徳川家康が、この竹千代である。

甲陽軍鑑

いわゆる第二次小豆坂の戦いについてのお話。この時点では織田信秀はまだ生きているのと、
どうも信長と織田信広を混同していたフシがありますね。



一に憂き事金ケ崎

2022年10月08日 19:16

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/08(土) 19:06:37.52 ID:10zWzOY3
尾州織田信長は日本において、上杉管領入道輝虎(謙信)に次ぐのは織田右大臣信長であると言われ、
武田信玄公が他界ましまして後は、この両大将を弓矢の花の本のように申した。中でも信長は、
六年以来都の異見であるので、武辺の強みである場数は、輝虎と言えども結局は信長に先を譲る、
と評価する者が多い。

しかしそんな信長に対しても、下郎たちはこのような歌を作り歌い申した

『一に憂き事金ケ崎、二には憂き事志賀の陣、三に野田福島の退き口』

甲陽軍鑑

甲陽軍鑑が書かれた段階で、金ケ崎、志賀の陣、野田福島の戦いが信長の三大苦戦と考えられていたらしい、
というお話。