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皆もこのざまを見ろ

2019年10月18日 17:06

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/18(金) 13:57:46.00 ID:mXMwVoJ5
信濃国安曇郡吉田の城主である木曽左馬頭義昌は、武田信玄の妹婿であり(実際には娘婿)、
信玄の無二の幕下であった。しかし信玄亡きあと、その後を継いだ勝頼と不和に成った。
そこで勝頼はこれを攻め滅ぼさんと、武田逍遥軒(信廉)に小山田備中守昌行、横田十郎兵衛守昌などの
部将を付けて出陣させた。もちろん木曽義昌にも油断はなかった。

天正十年正月二十八日、敵味方の激しい戦いが始まった。木曽方で奈川の城主・木曽兵部丞仲親、および
今井丹波守などの働きで、武田方は一旦退かざるを得なかった。

この間に木曽義昌は岐阜の織田信長に助勢を請うた。それについて、甲州乱入のための手引をしても良いと
伝えた。信長は大いに喜び、嫡子秋田城介信忠に先陣を命じた。
信忠は五万余騎を率いて二月十二日に岐阜を出発し、信州伊那郡高遠へ押し出した。
加勢の徳川家康も、三万騎を率いて二月十八日に遠州浜松を出た。案内役は穴山陸奥守入道梅雪庵で、
富士の麓の川内通りから市川口へと押し出した。
これらに続き信長も、三月五日に七万余騎を率いて安土を出た。

武田家は新羅三郎義光以来の甲斐源氏の頭領として、現在数ヵ国を領している名高き大名である。
それをただ退治するという事では名目が立たぬと思ったのか、信長は前関白である近衛前久公を
担ぎ出した。一見朝敵征伐に見えるからである。人の口を塞ぐ信長の策であった。

三月十三日、信長の軍は信州根羽駅に着陣、翌十四日波合へ軍を進めた。十日には既に、城介信忠の名で
関喜平治、桑原助六郎の二人を降伏を促す使いとして出していた。
織田方の先陣は滝川左近将監一益、川尻肥後守秀隆であった。

そして甲州田野郷天目山に頼る所もなく彷徨っていた武田大膳大夫勝頼とその子太郎信勝は、
織田方に捕えられる前に自害した。

彼等の首実検の時、信長はこのように言った。
「そなたの父信玄は、平生言葉に表裏があり、無礼無道であったため、その天罰が子孫に当たったのであろう。
こうして数代の領民を失い、かような仕儀となった。お主も思い知ったであろう。
皆もこのざまを見ろ。快いことではないか。」

(関八州古戦録)

関八州古戦録における、武田家滅亡についての記事。



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重ねを厚く、大平に御打たせなさり

2019年08月26日 19:36

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/25(日) 18:02:06.81 ID:lxfhKvwH
ある時に信長公は御成敗人(原注:信長の舎弟・武蔵(織田信勝)という)を仰せられた。仕手
(刺客)は討ち損じて(原注:3人に仰せ付けたが、討ち損じたという)かの者が逃げるのを、
廊下で勝入様(池田恒興)が刺し殺しなさった。

その後、(恒興は)御家来どもに御物語りされ、「脇差は何が何でも手強きものを用いるべし」
と仰せられ、前述の時は薄き御脇差で、ひわひわして(細く弱々しい様)御難儀であったとして、
その後に新身を大道(刀工の名)に重ねを厚く、大平(大平造)に御打たせなさり、御陣刀に御
用いとなられた。

御討死の時まで御差しになられ、今は永井家にあるはずである。

――『烈公間話』



159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/27(火) 12:56:02.40 ID:lqWpBlnz
まあ実際使うのは脇差の方かもしれんな

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/27(火) 13:19:00.08 ID:4VVq4NdH
上意討ちされても脇差でなら反撃してもいいとか面白い決まりあるよね

信長の唐櫃

2019年08月04日 15:51

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 15:12:01.37 ID:20SiqXwU
霜月21日(1567)に織田信長より織田掃部助(忠寛)を使いになされ、「信玄公の御料人(松姫)が
御歳7歳になられるのを承り及び、信長の嫡子・城介(織田信忠)の内方に申し受けたい」と仰せ遣された
のである。武田の家老衆各々は寄り集まって談合し、信玄公へ申し上げられるには、

織田信長はすでに34歳に罷りなられ、27歳の時に義元を討って庚申より去年まで7年の間に美濃・尾
張を治めて今は美濃岐阜に居住されています。

殊更今年は公方の霊陽院殿義昭公を都へ御供申し、信長の被官の柴田修理(勝家)・野村越中の両侍大将を
都に付け置き申されているので信長は望みも多く、万一どのような謀で信玄公と縁を結び申したいと申され
るのかも分かりませんので、これはまず差し置きなされ」

と諫め申し上げた。信玄公は聞こし召して、

「それは各々の意見もっともであるが、近年信長が信玄に入魂仕りたがることは少しも偽りには見えない。
その訳は、信長が音信に小袖を送り、信玄の召すものを格別に致すと言って入れて送った箱を削らせて見る
に殊の外の堅地で、蒔絵も我が家の菱を同じ具合になしたのは、町物ではなく念を入れて、わざわざ申し付
けたと見える。勝頼と縁者になる2年前からこの如くである」

と仰せられ、各々にその唐櫃を取り出させ、年々のを見せなされば仰せの如くである。信玄公は仰せられて、

「人の真実・不真実は音信で知るものである。1度や2度は念を入れるとも、3度までは主か親を除いては、
その他の只の者には重ねて念を入れることなど小身な者でさえしないというのに、ましてや国持ちは自分も
人も事が多いので、年々このようにはならない。

信長は1年に7度ずつ必ず使いを送る。それでさえもこちらから使いを遣るならば、その返報とも存じよう
が、2年に1度でもこちらから人を遣ることはないというのに、親主の如くに信長が仕るのならば、縁者に
信玄となりたいと信長が存じるのは一段と真実であろう」

と仰せられ、御合点あって御返事なされた。そうして織田掃部が長坂長閑(光堅)を介して申し上げ、「こ
の上は細かな事をも申し上げます。私めに万一暇があって、佐々権左衛門や赤沢七郎左衛門が参る時は誰を
介して申し上げるべきでしょう」と申せば、信玄公は仰せ出され「高坂弾正に付いて申せ」とのことだった。

掃部はまた申し上げる。「高坂弾正殿は信州川中島に罷りおられますが、甲府に弾正がおられぬ時に川中島
まで参るのもいかがなものでしょう。小事で大名の弾正をここまでというのも申し悪いので、御膝下で奏者
を仰せ付けられれば、その上でも大あらましの事は高坂弾正殿へ申します」と織田掃部は申すので、原隼人
佐(昌胤)・跡部大炊助(勝資)両人を仰せ付けられ、織田掃部と原隼人・跡部大炊助を長坂長閑のところ
まで呼んで引き合わせたのである。

掃部は甲府に長く奉公仕った故、両人とも知人である。中でも跡部大炊助は織田掃部が信玄公へ御奉公申し
た時の奏者である。ことさら掃部が岐阜へ帰り、やがてその年11月中旬に御祝言の御樽肴を持たせて甲府
へ参り、御祝めでたきことである。よって件の如し。

信長より信玄公への御音信は、
一、虎の皮3枚 一、豹の皮5枚 一、段子百巻 一、金具の鞍鐙10口 以上。

御料人様への御音信は、
一、厚板百端 一、薄板百端 一、緯白百端 一、織紅梅百端 一、代物千貫 一、毛掛の帯上中下3百筋。

この他御祝の御樽肴は作法の如くで、御使は織田掃部助である。

――『甲陽軍鑑』



132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 16:57:51.98 ID:W6PzTXQ5
そんな信長を平然と踏み潰そうとする信玄公

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 16:59:53.94 ID:w2LBZ5n+
その頃は信長のがデカいのにその表現は

四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのである

2019年07月31日 18:54

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/31(水) 18:17:56.42 ID:Yj3Qypa8
永禄8年乙丑(1565)9月9日に、尾州織田信長公より織田掃部(忠寛)という侍を甲府へ御使に
遣しなさり、信玄公へ仰せられるには、

「恐れ多い申し事ですが、去る申の年に駿河義元公が信長を踏み潰しなさろうとして尾州へ発向なされ、
勝利を失って殊に討死なさり、その勢いをもって我が本国は夏秋中に信長に従い、その暮れより美濃国
へ取り掛かって今年まで6年ですから、大方今年か来年の間には、美濃国も信長が支配仕るでしょう。

そこで信玄公が御持ちの木曽郡と隣続きになりますので、所々の往来も互いに申す事がないように伊那
の四郎勝頼公へ信長の養子の娘(龍勝院)を進上したいのです。

この女子については、信長の父・弾正忠(織田信秀)存生の時に、美濃国の苗木勘太郎(遠山直廉)と
いう侍を婿に仕り、すなわち信長にとっては妹婿でして、昔より美濃国苗木の城に居住しております。

かの者(直廉)の娘を幼少から信長は養い置き、姪女と申せども実子よりは労わっています。信長には
息女もおりますが、私めは今年32歳なので惣領の男子でさえ10歳程で、20歳になられる四郎殿の
内方になるべき息女を持ち申しておりません」

と諸々の信長の申されようあって、乙丑霜月13日、苗木殿の娘で姪女と信長は養親になって伊那の高
遠へ御輿入れし、四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのである。

また御使を仕る織田掃部は信玄公に11年召し使われ、5年前の辛酉11月に信長が呼び返しなさった
尾州侍で、しかも信長譜代の侍であるが、信長18歳の時に気に違えて11年甲府に罷りおり、信長2
8歳の時に召し返された。

信長公より信玄公へ御使の人は織田掃部・赤沢七郎左衛門・佐々権左衛門(長穐)。この3人は正月・
3月・5月・7月・8月・9月・極月の7ヶ月に樽肴・巻物・袷帷子を贈り、殊に信玄公の御召し料に
と御小袖1重ずつを格別に武田菱を大きく蒔絵した。この紅で緒をしめたものに、御頭巾1つ・御綿帽
子2つの合い3色を、これも小さい蒔絵をした箱に入れて、甲府へ信長は御音信申されたのである。

信玄公より信長公への御使は秋山十郎兵衛であるが、1年に1度でも御使を遣しなさるのは希であった。

――『甲陽軍鑑』



125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/31(水) 20:31:38.19 ID:zlGD2hC1
さすが信長

家康の事は良きように頼み入ります。恐惶謹言。

2019年07月29日 17:29

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/28(日) 23:37:06.23 ID:wJxV0U2v
(永禄13年)

駿河田中に御逗留の間に、織田信長より佐々権左衛門(長穐)を使者にして御音信があった。唐の頭20・
毛氈3百枚、そして猩々緋の笠。これは4年前に公方の霊陽院殿(足利義昭)と都へ御供仕り征夷将軍に備
え奉った時のもので、「弓矢に縁起の良き笠です」と信長は申されて、信玄へ送り進上なさった。

信長の使者がいる所で土屋平八郎(昌続)にその笠を下され、「信長の武辺にあやかれ」と信玄公は仰せら
れた。唐の頭は奥近習衆に下され、籤取りを仰せ付けられた。そうして2月下旬に江尻へ御馬を寄せなさる
と、江尻までまた織田信長より飛脚を御越しになされた。その御状は、

 三河岡崎の松平家康(徳川家康)は、私めが取り分けて目を掛けている者ですので、御引き回しを頼み
 入ります。そこで、その地に今川殿へ前々より差し置いていた家康の弟(松平康俊)を召し置きなされ
 ているそうですが、幸いですので家康の人質として甲府まで召し連れなさって、御心安く御用などを仰
 せ付けられますようにと、家康も私めの方へ申し越していますのでこの次第です。家康の事は良きよう
 に頼み入ります。恐惶謹言。

   2月18日                           織田上総守
      甲州法性院殿 人々御中                      信長

――『甲陽軍鑑』



三ヶ所手が違った

2019年07月23日 15:51

千利休   
106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/23(火) 01:23:47.89 ID:3NtwR41t
織田信長殿には、天王寺屋宗及が台子の茶湯をお教えした。
ところがこの宗及の茶湯を宗易(利休)が批判をしたとの噂が耳に入られ、信長殿は宗易を召して
台子で茶を点てさせた。

信長殿は立ちながら宗易が茶を点てる様子をご覧になり、「三ヶ所(宗及のやり方と)手が違った。」と
仰せになった。
宗易はこれに「その事でございますが、このように致しますと手間が入って悪くございます。また
こうすると手がねじれます。」と、一ヶ所につき三つほどの理由を申し上げた。

この事が有ってから、宗易の名が天下に上がったという。

(三斎伝書)



107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/23(火) 14:14:37.91 ID:wFZ44Ll2
マナー講師の戦いみたいだ

108 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/07/23(火) 15:31:01.11 ID:3VAbEL3P
信長は合理主義だから無駄が嫌い
でも一見無駄と思えることに意味を持たせるのが侘び寂びでもあるんだよね
そういうのは信長に教えずに秀吉にしたり顔で教えた

ただし一ヶ所、下手な部分が

2019年07月16日 15:51

千利休   
90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/15(月) 21:11:40.97 ID:Utl8jJEh
当時、北京大仏(方広寺)の小屋場で茶会が盛んに行われていた。
ある時、天王寺屋宗及が「利休と三斎公(細川忠興)の両人へ御茶を差し上げたい。」と言われた。
この時、利休は聚楽の屋敷に居り、三斎公が「泊りがけで私の小屋へ今晩御出下さい。」と
申した所、「そういたしましょう」と同意された、「それでは先に参り掃除を致します。」と言って
三斎公は帰られた。

早くも五つ時分(午後八時頃)に利休は三斎公の小屋へ御出になり、そのまま雑談をされた。
夜に入り大雪となったが、利休は九つ時分(深夜0時頃)に、「もう参りましょう」と出かけられた。
この時三斎公はそっと人を宗及の所に遣わしてこれを知らせたが、宗及の方も予期しており、既に
露地口を開けて迎えに出ていた。そこから灯籠の火が見えた。夜なので手水柄杓は置かれていなかった。
雪の掃除は難しいものだが、この時は習いの通りの見事なものであった。

席入すると、床の中央に千鳥の香炉が盆にのせず置かれ、また床の勝手の方には堆朱の香合があった。
客が席入してから、宗及は香炉を下ろした。この上げ下ろしには習いが有る。
宗及が香を焚くと、利休はその香銘を尋ねた。宗及は「月」と答えた。
続いて利休が香を継ぎ、宗及が同様に香銘を尋ねた所、利休は「もちろん東大寺(蘭奢待)です。」
と答えた。

さて、利休が香炉を床へ上げるよう宗及に言った所、宗及は「私が下ろしましたので、利休様が
お上げ下さい。」と申したため、「それでは」と利休が上げた。
それから炉中を直し、この茶会は宗及一代の上出来の数寄となった。

帰りに三斎公は自分の乗物に利休を乗せ、自分は乗物の脇を歩いた。
利休は「今日は宗及一世の上出来の数寄でした。ただし一ヶ所、下手な部分がありました。
見つけられましたか?」と言われたが、三斎公はそれが解らなかった。
利休は言った
「月の香を焚いたのがいけません。月に雪という発想は平凡で悪い。よって東大寺の香を
焚かねばならないと思い、私は東大寺を継いだのです。」

三斎公が乗物から降りて利休を乗せ、自身はその乗物に付いて歩かれるのは毎度のことであった。
その朝は大雪であったので、宗及は手洗鉢へ水を入れず、くぐりの前に手付きの水、次に湯を入れ、
新しい盥を添え置いてあったとの事である。

(三斎伝書)

信長の蘭奢待切り取りの時に利休も分け与えられたとは有ったけれど、それを茶会に使っていたのですね。



95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:34:25.20 ID:Krpjzwco
利休は性格悪いエピソードしかないのな

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:40:11.71 ID:A8uhVPMk
商人ですからなぁ

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:55:51.62 ID:6H5Y9heX
>>95
利休を嫌われものの銭ゲバとして描いた作品あったなぁ。
真田丸の利休も石田三成や大谷吉継から蛇蝎のように嫌われる俗物という描写だったような。

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:55:51.62 ID:6H5Y9heX
>>95
利休を嫌われものの銭ゲバとして描いた作品あったなぁ。
真田丸の利休も石田三成や大谷吉継から蛇蝎のように嫌われる俗物という描写だったような。

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 22:29:05.32 ID:5gA42Ipr
切腹言われても仕方ないわけですね

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 02:26:28.35 ID:z7/Ij/C3
利休と芭蕉は食えないからなw

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 12:22:51.24 ID:KpYWaZEK
芭蕉の利休煮か

若はいとこにておはせしを妹と披露して

2019年07月14日 16:59

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/14(日) 00:52:23.62 ID:bpKXLKyV
御所の御台所(崇源院。お江)は、贈中納言藤原の長政卿(原注:浅井備前守殿の御事なり)の
御娘で、御諱は“達子”と申す。御母は織田右府(信長)の御妹(お市の方)なり。

(原注:諸書に記すところは皆“妹”という。ところが溪心院という女房の消息(『溪心院文』)
を見たところ、信長の“従姉妹”であるという。あるいは従姉妹でいらっしゃったのを、妹と公表
して長政卿に送られたのであろうか)

(諸書にしるす所みな妹といふ。しかるに溪心院といふ女房の消息を見しに信長のいとこなりと
いふ。若はいとこにておはせしを妹と披露して長政卿にをくられしにや)

――『以貴小伝』



信玄公御座なくば家康を信長ころし候はん

2019年06月30日 15:09

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 14:09:52.24 ID:sks/4Xkg
一、信玄公の御仕置で、諸々の境目の侍大将衆へ近国・他国の大将の行儀・作法・仕形を聞き出して、
  その次第・善悪ともに一書にして言上致せとのことに付き、ある年に遠州犬居の天野宮内右衛門と
  申す侍大将の所より進上仕った書き付けによると、

  「美濃岐阜の織田信長へ周り1尺の桃3つがなったのを枝折りに仕り、霜月中の10日に上げると、
  信長は差し引きの冴えた名大将で、表面は事を破っても内心では時によって一段と練ったことの多
  き武士でいらっしゃった。

  そのため、桃の大きさに心祝いして1つは信長が召し上がり、また1つは嫡子の城之助信忠へ参ら
  せられ、3つ目を遠州浜松の徳川家康公へ送りなさった。家康は『世の常ならずかたじけない』と
  の返事をなされ、その桃を隠して捨てて家康が食う給うことはなかった」

  この事を天野宮内右衛門は書き付けて上げた。一書の多い中でこれは左程の事ではないと存じてこ
  そ、末にいかにも粗相に書いてあるのを信玄公は御覧になった。その書き付けを御手に取りなさり、
  しばらく目を瞑りなさって後に御目を開いて宣うには、

  「家康は今年きっと30歳ばかりであろう。40歳に及ぶ殊に大身の信長に、五位も増して締まり
  所のある分別だ。

  流石に武士の心遣いなき者ならば、『歳相応に似合わぬ』とも申すだろうが、三河国を治めようと
  19歳から26歳まで8年の間に粉骨を尽くし、戦功の誉れ形の如くなれば海道一番の武士と申し
  ながら、日本国にもあまり多くはあるまい。

  丹波の赤井(直正)・江北の浅井備前守(長政)・四国の長宗我部(元親)・会津の盛氏(蘆名盛
  氏)、若手にはこの家康であろう。

  さて時過ぎたる(旬の過ぎた)この桃を捨てた分別は、出世を考えてこうしたのだ。その出世とは
  年明かば吉事なり。この意味は馬場美濃(信春)・内藤修理(昌豊)・高坂(弾正)はきっと合点
  仕るだろう」

  と宣ったのである。

一、(前略)その中で馬場美濃が申されるには、「家康の身の上について私めは見及んでいる事がある。
  美濃の命を今20年生きて、この考えが当たるか試したい。20年生きれば80に今少しだ。鉄の
  鎖で繋いでも成らぬことを願うている」と言って笑いなさった。

  高坂弾正は申して「家康の身の上を何と馬場殿は考え給うぞ」と問えば、美濃は申されて「流石の
  弾正殿ならば、私めより早く考えがあるだろうに」と言った。すると小山田弥三郎は手を合わせて、
  「御両所の考えを願わくば聞きたい」と頻りに所望した。

  高坂は申して「美濃殿の考えを承りたさに、私めが下座から申そう」と、弾正はすなわち言う。

  「家康は今信長と二世までの入魂により両方が加勢を助け合い、それ故2人は堅固なれども信長の
  敵は上方14ヶ国の間で、信長に国を取られないことを基本として、信長の国へ取り掛けようと存
  ずる武士は1人もなき故に、この如く次第に大身となった。家康はいつまでも三河一国と遠州の3
  分の1なので、ついには家康は信長の被官のようになって、後に祝言は致した(終には家康信長被
  官のやうになりて後祝言は申しつ)。

  信玄公が明日にも目を塞ぎなされば(明日にでも死ねば)信長は安堵して、(かつて)今こそ嫡子
  の城介殿と同じに思うと3つの桃を1つ(家康に)送ったけれども、強敵にして大敵の難しき信玄
  公がおられねば、家康を信長は殺すことだろう(強敵大敵の六ヶ敷信玄公御座なくば家康を信長こ
  ろし候はん)。

  それで大事ないのならば、家康の果報は少々の藪神とは考えなりかねよう」

  と高坂が言えば、馬場美濃は大誓文を立てて「私めもそれなり」と言う。内藤修理も同じく誓文し
  てその通りであった。

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 18:12:33.34 ID:jSCm0gOK
まあ家康の腹のうちは分かるとして
藪神ってなんだろ

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 21:32:26.64 ID:lN9ljRxX
>>52
傷んだ桃食べたら命に関わるから食べなかっただけじゃないのん?
それは石田三成の逸話か

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 21:53:44.71 ID:sSNhz914
柿じゃねぇんけ?

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 22:16:13.98 ID:jK95gmra
TERUから秀吉に贈った桃を旬じゃないからって送り返した逸話があった気がする

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 22:39:53.21 ID:SUOfy+Yz
甘いもの好きなノブが桃を貰って捨てるわけがない

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/01(月) 00:20:46.00 ID:fSFnRT/t
森忠政「桃で人死なねーだろJK」

彼は当地において信長のよう

2019年06月19日 15:10

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 01:30:36.02 ID:dilkD3xh
柴田殿(勝家)は去る5月22日(天正9年4月20日)月曜日に我等を招待した。彼は越前国の半分以上、
及び征服した加賀全土の王の如き人で、領土及びその兵たちに対しては、当地において信長のようであった。
諸人は彼を上様 Vyesama 、その子(養子の勝豊、もしくは勝政か)を殿様 Tonsama と称していた。

饗宴は立派なもので、我等、すなわちダリヨとイルマン・コスメ、および私は各々食卓3つを与えられ、
私一人、食卓の頭(上座か)に置かれ、我等に対し多くの親愛が表せられたため、縁側に居る武士たちは
驚いた。また高槻から我等と共に来たキリシタンたちを別の食卓に招いた。

彼(勝家)はヨーロッパ並びにインドのこと、および尊師(イエズス会指導者)について色々尋ねたが、
ここに記すには長すぎる。また3,4回繰り返して、当所に聖堂が有ったならばキリシタンの数は増加するだろう、
もしパードレ又はイルマンが当地に居らねば、キリシタンと成った者たちは直ぐに失われるであろう、と言い、
ダリヨを招いて、私に市内を見せて良き敷地と認めた所を彼に通知したならばこれを与え、聖堂が出来たなら
恩恵を加えるであろう、と言った、彼の子もこれより先に同じ事を言い、この事について父に話す必要なく、
彼自ら我等の満足する地所を与えるであろうと言った。

(1581年5月29日(天正9年4月27日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

北ノ庄で柴田勝家に対面したフロイスの記録。勝家、領地で上様って呼ばれていたのですな。
そりゃ信長も国掟で勝家を縛ろうとするわ。



23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 14:17:43.21 ID:M0+GVcV7
>>22
もう少し読み込んでみるといい

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 09:37:30.92 ID:3qib0QTB
>>22
国掟が出されても上様と呼ばれていたのかな?w
縛りになってないな

信玄の最期

2019年06月18日 16:53

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 16:18:05.19 ID:XHJKzrW+
元亀3年(1572)12月、信玄は遠州表へ働く。信長・家康はかねて一身となっていたので、尾州よ
り家康へ加勢があった。信玄は井の谷へ押したところを、家康衆が足軽を掛けて合戦を始めて攻め戦った
ところ、家康衆と尾州の加勢衆は敗軍した。これを遠州三方ヶ原の一戦という。

「掘田の郷へ敵をやり過ごして合戦すれば家康の勝ちであったろうに、家康衆を遣って合戦を仕掛けて負
けになった」との批判があった。

その明年正月11日、信玄は三河の野田の城を攻め落とそうとして不慮に鉄砲に当たり、この傷を色々と
養生したけれども叶わず、ついに逝去した。(後略。>>113

――『北条記』


天正元年(1573)正月7日に信玄公は遠州刑部を御立ちになった。(中略)その後、信玄公は御患い
が悪くいらっしゃり、2月16日に御馬を入れた。

家康家・信長家の誰人の沙汰か、信玄公が野田の城を攻めようとして、鉄砲に当たり死に給うと沙汰仕る。
皆虚言である。およそ武士の取り合いでは、弱き方より必ず嘘を申す。越後の輝虎との御取り合いでは、
敵味方ともに、嘘を申した沙汰はついになかった。

たとえ鉄砲に信玄公が御当たりであっても、それが弓箭の瑕(名折れ)になることはない。長尾謙信(上
杉謙信)は武州忍の城において堀の端に馬を立てておられたのを、城の内衆は輝虎と見て鉄砲を寄せて、
いかほど撃ってもついに当たらなかった。その鉄砲に謙信が当たれば、結果強き大将と誉めはすれども悪
くは申すまい。

すでに信玄公が信州川中島において謙信に勝ち給う時、謙信が名馬の放生月毛を乗り捨てられた。これを
長坂長閑(光堅)が取って乗り、「流石の謙信も馬を捨てられた」と長閑が申せば、信玄公は大いに怒り
なされ、「馬がくだびれたならば乗り換えても構わないことだ。そして乗り換えた時に合戦が負けとなれ
ば、中間どもは馬を捨てて逃げることだろうに、それを輝虎が弱いとは一段と無穿鑿な申しようだ!」と、
長坂長閑を悪しく仰せられたのは、3年目に聞こえたことである。

輝虎が川中島合戦の時、和田喜兵衛が一騎で供を仕って退いた。そうして越後へ到着して馬から降りると
同時に、喜兵衛を謙信が手討ちに致されたのを信玄公は聞こし召して、「さては謙信ほどの侍も後れてし
まっては、ちと取り慌てることもあるのだろう。武士は誉めるも謗るも、踏まえ所をもって沙汰するもの
である」と信玄公は仰せられたのである。

――『甲陽軍鑑』



177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 12:22:42.43 ID:Er11dkC4
>>175
たんに長閑を悪く言いたいだけ

今度織田事、依難遁天命、令自滅候

2019年06月16日 17:23

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/16(日) 01:45:44.25 ID:kYm8Gowg
足利義昭島津義久ノ物ヲ贈レルヲ謝シ、近ク京都ニ復帰セントスルヲ以テ、更ニ義久ノ助力ヲ請ウ、

『薩藩旧記雑録』

今度の織田の事は、天命を逃れた難により自滅せしめたものである。それにつき、残る輩が帰洛する
ことを切々と申すので示し合わせ、きっと入洛するものである。この節にとりわけての馳走は喜悦の
ことであろう。よって太刀1腰と黄金10両が到来したことには喜び入る。なお、昭光(注釈:真木
島)と明秀(注釈:一色)が詳細を申すものである。

(今度織田事、依難遁天命、令自滅候、就夫相残輩帰洛儀、切々申条示合、急度可入洛候、此節別而
馳走可悦喜、仍太刀一腰、黄金拾両到来喜入候、猶昭光、明秀可申候也、)

     天正10年(注釈:朱書き)

         11月2日        (花押)(注釈:足利義昭


           嶋津修理大夫とのへ(島津義久

(注釈:義昭が毛利輝元を頼って京都に帰ろうとして果たせず、輝元をもって秀吉に説かせたことは
10月21日の条に見える)

――『大日本史料』



内裏様のみしり

2019年06月14日 16:25

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 12:23:58.89 ID:IHLOoPFL
織田の信長殿は内裏様を殊の外大切に思し召し、村井春長(貞勝)を奉行に付けられ、禁中のこと
尽く御修理をされた。この事についてうつけたる者が申すには

「内裏様の御念者(男色相手)は村井殿じゃ」

「何故に」

「今日も内裏様のみしり(御修理と御尻をかけている)をゆかせられるといって、日々御出であるから
そうかと思った。」

と言った。

(きのふはけふの物語)



京極高吉の改宗

2019年06月11日 14:28

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/11(火) 14:08:49.60 ID:tf9swAlS
我等が安土山に立派なガザを建てたことは、当地方に於いて非常に有意義であった。信長は特権として
城の瓦と同じ瓦でガザの屋根を葺く事を許したが、城の瓦のように金は用いなかった。
ガザは三階建てで均衡のよく取れた、甚だ立派な爽快なる建物であり、毎日多数の大身達がこれを見るために
来たり、我等はこの機会に彼らに説教しデウスのことについて語った。そしてガザにおいては毎日説教があり、
大身達が各地方から集まったために、この年ににコンパニヤ(イエズス会)が都、その他諸国に知られ、
デウスの教の広まりは、それまでの多年の間の成果と同じくらいであった。そのため、このガザが多数の人に
キリスト教の教えを知るに至る方便と成ることを期待している。もし敵が、例のように妨害を加えることが
無ければ、本年の収穫は少なからざるものと成っていただろう。

説教を聴いた者の中に、元近江国の王であり、今は国を失っているが、信長の庇護を受けている大いなる殿で、
(安土)城内にある最も立派な邸宅の一つを所有している人があった。この人はキヨクドノ(Chiocundobo
京極殿:京極高吉)と称し、夫人とともに説教を聴かんと決心し、デウスの教えを喜ぶあまり、四十日間
引き続いて説教を聴いてよくこれを悟り、四十日の末に夫人とともに洗礼を受けた。
この人に11,2歳の一子(京極高次)が有り、その頃他の町において信長に仕えていたが、父はこの子が
帰るのを待って全家族と共に洗礼を受けさせようと考えた。しかしながら、その後数日を経て我等の主が
彼(高吉)を御許に召し給うたため、その希望を達すること出来ず、又その子並びに家族はみな異教徒のままで
あったのみならず、子たちは父の死が神仏の罰によるものと考え非常に恐れたが、母はこれにかかわらず
信仰堅く、唯一その邸宅に住んでいる。我等の主が彼女によっていつかその子達を導き給わんことを期待する。

(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)

京極高吉の突然の死は、実際に仏罰だと噂されたらしいですね。

定直を“乾内蔵允義直”となされ給う

2019年06月03日 18:15

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 18:06:07.99 ID:LHCbPT9u
義昭(足利義昭)を都に据え置かれたが、信長と不和になって天正の初めに山城宇治にて合戦あり
(槇島城の戦い)。義昭公はたちまち敗軍して河内若江庄へ落ち行き、左京太夫義誥(三好義継
を頼みなさったけれども、どのように思ったのか城中へも入らなかった。

そのようなところで同じ若江の住人・乾太郎右衛門定直という者は、先年に義冬(足利義維)が都
から阿波へ下向した時に下った者であるが、義冬が周防へ下向した時に子細あって暇を乞い、故郷
若江に帰り義誥の旗下になっていた。定直は義昭公の有様をいたましく思い、自分の館へ招待した。

義昭公は定直の先祖を尋ねなさって、定直を“乾内蔵允義直”となされ給う。義昭公は乾の館で数日
過ごされなさったが、取り立てる人もいなかった。

――『阿州将裔記』



109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 08:55:14.01 ID:yjPfJm9C
義昭さんは信長さんの言うこと聞いとけば良かった

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 14:03:19.65 ID:19lOBpdD
統治機構パクれた時点で用済みではあるからなぁ

【雑談】『弥助』について

2019年06月03日 18:11

弥助   
92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/01(土) 16:30:35.40 ID:tPHC7BVm
外人さんの価値観で日本史を再構築されるのなんか嫌だ。
意識高い系の黒人さん達が弥助をモデルに映画化するんだけどちょっと美化が過ぎる。
奴隷じゃなかったとか、日本では仏像が黒いから尊敬の対象として見られてたとか
現代の価値観でブラッシュアップしすぎ。

93 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/01(土) 21:43:40.45 ID:wUAqMo66
でキャストも日本人一人もいなかったりしてねw

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/01(土) 23:26:18.37 ID:lKcUPN5J
日本人だってヒラコーとかが好き勝手やってるから無問題

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/02(日) 05:07:03.89 ID:myTmwpEj
>>93
さすがに1人はいるだろう…渡辺謙とか

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/02(日) 17:26:04.25 ID:hP+zLXOQ
仏像が黒いのは禅宗ダゾ
うちは浄土系だから金ピカ

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/02(日) 18:31:31.03 ID:INaZgM35
大国主(おおくにぬし)→ダイコク→大黒天(マハーカーラ)の垂迹
大きくて黒い男が神様仏様扱いされても問題ない気が

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/02(日) 18:35:59.90 ID:fbrKsrrq
>>97
宣教師の記録見ても日本人の記録見ても、どうみても珍獣扱いなんですが

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/02(日) 20:23:22.59 ID:BkTlaOA4
坊さんだったらまた違ったろうが奴隷だしな…>弥助

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/02(日) 21:22:08.93 ID:4fi9sHcb
>>98
制作者は弥助を洗った話などの宣教師の記録は黒人を貶めるための嘘と言ってるが
同じ宣教師の記録でも信長が城持ちにさせてやると言った件は映画に組み込むらしいよ
花の慶次並みのでっち上げヒーローを作る気でいるみたい
黒人の地位向上の為のなんちゃって日本の歴史が世界にばらまかれる

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 00:19:00.80 ID:jqkjDxBD
信長が疑って洗わせたのも差別って言われそうだよね
今の感覚で考えないでくれ

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 07:42:24.93 ID:oDTu8Lzk
禅僧でも城持ちになれる時代だしいいんじゃね

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 11:10:13.32 ID:k7P3FsGF
映画製作者「フロイスや太田牛一や松平家忠の書いてる内容は信憑性低いと考えて、我々の考えた真の弥助像を描きました」
と言い出したりして

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 14:33:42.04 ID:Zjew9uM6
黒人でユダヤ人でゲイでヴィーガンなヤスケが本能寺でポリコレ棒を振り回して大奮闘するよ


102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 00:19:00.80 ID:jqkjDxBD
信長が疑って洗わせたのも差別って言われそうだよね
今の感覚で考えないでくれ

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 07:42:24.93 ID:oDTu8Lzk
禅僧でも城持ちになれる時代だしいいんじゃね

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 11:10:13.32 ID:k7P3FsGF
映画製作者「フロイスや太田牛一や松平家忠の書いてる内容は信憑性低いと考えて、我々の考えた真の弥助像を描きました」
と言い出したりして

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 14:33:42.04 ID:Zjew9uM6
黒人でユダヤ人でゲイでヴィーガンなヤスケが本能寺でポリコレ棒を振り回して大奮闘するよ

三好義継三家老の別心

2019年05月31日 15:25

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 14:30:07.73 ID:lX7j0Ovy
霜月4日。信長御上洛、二条妙覚寺に御寄宿。

三好左京太夫殿(義継)が非儀を構えられたことにより、家老の衆である多羅尾右近(綱知)・池田丹
後守(教正)・野間佐吉(長前)の両三人が別心を企てる。

金山駿河は諸般を1人の覚悟に任せられたので、(両三人は)金山駿河を生害させて佐久間右衛門(信
盛)を引き入れて天守の下まで攻め込んだところ、(左京太夫殿は)叶い難しと思し召して御女房衆と
御子息達を皆刺し殺して切って出た。数多の者に手を負わせると、その後に左京太夫殿は腹を十文字に
切って比類なき御働きをされた。哀れなる有様なり。

御相伴の人数は那須久右衛門・岡飛騨守・江川。この3人が追腹仕って名誉の次第はこの節なり。若江
の城は両三人の御忠節に付き、(両三人に)預け置かれた。

――『信長公記』


義詰(義継)

長慶の息男である(実際は十河一存の子)。三好左京太夫と号す。天文の末より河内国若江に居住した。
将軍義昭公の妹婿なり。

天正の初めに義昭公を信長公が配流なされた時に「義詰は義昭公の妹婿で三好の惣頭なれば、とにかく
討ち果たせ」と、信長公が若江の城へ攻め寄せなさると、義詰の家老3人が信長公へ返忠した。

義詰は「この上は戦うべきにあらず」と大手の矢倉に上がって腹を十文字に掻き切り、臓を掴み出して
投げ捨てた。そして遊佐与伝という者を呼んで「介錯せよ」と申せば、与伝は畏まって太刀を振り上げ
るも、兜に妨げられて「介錯ならず!」と申した。

すると義詰は両手で兜を押し上げなされ、与伝は両手をかけて義詰の首を打ち落とし、差し上げて敵に
見せると、矢倉に火を掛けて同じく腹を掻き切って死んだ。

信長公は見なさって「天晴、大将かな。このような主君を持って逆心をなした家老どもの浅ましさよ」
と、惜しみなさったと聞く。

また一説に義詰は病死と言われている。誤りなり(三好義興との混同か)。

――『阿州将裔記』



961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 17:07:14.84 ID:iWjrhi5I
>金山駿河は諸般を1人の覚悟に任せられたので

ここはどういう事を指してるんだろう

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/01(土) 08:55:47.76 ID:tqmeloYc
オラ達は信長様に逆らっちゃなんねえってあれほど口酸っぱく言ったのに主君を唆してひどい奴だ!そうなんですコイツが悪いんですよ佐久間様!金山責任とれ切腹だ!

ついにその名は高きものだという

2019年05月29日 18:26

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/28(火) 23:02:18.14 ID:nF4+lOrm
  此比の大将衆弓矢取様之事

一、織田信長は取り巻いている城の包囲を解いて退き、境目の小城をいくつ競い落されても苦しからず。

  追い崩されて自分の人数を追い打ちに討たれなければ、世間の取り沙汰しは無いものなので、難しい
  ところを急いで引っ込み、やがて出て行き国を多く取って持ち、大身になったので、ついにその名は
  高きものだということである。

――『甲陽軍鑑』



藤きちろうおんなども  のぶ(印)

2019年05月26日 15:16

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/26(日) 14:18:28.07 ID:mopXN2yD
同集(古筆集)に、足守候(足守木下家)の蔵物として、織田信長が木下藤吉郎の妻に賜う書という
ものが掲載されている

『仰せの如く、今度こちらへ初めて越し、見参に入り祝着に候。殊にみやげ色々、美しさ中々目にも余り、
筆にも尽くし難く候。祝儀ばかりに、この方よりも何やらんと思い候へば、その方より見事なるもの
持たせ候あいだ、べちにこころざし無くのまま、まずまずこの度はとどめ参らせ候。重ねて参るの時、
それに従うべし。

なかんずくそれの見目振り、かたちまで、いつぞや参らせ候折節より、十の物、廿程も見上げ候。
藤吉郎、近々不足の旨申すのよし、言語道断、曲事候が、何方を相訪ね候とも、それさまほどのは
又二たび、かのはげねずみ、相求めがたき間、これよりいかにもかみさまなりに重々しく、悋気などに
立ち入り候ては然るべからず。ただし女の役にて候あいだ、申すものの申さぬ中に、もてなし然るべし。

猶文ていにはしいり、拝見請い願うものなり。
まいらせ候かしく

 月 日
  藤きちろう
     おんなども
             のぶ(印)』
(訳)
「前から仰られていた通り、今度こちらに初めて来られ、見参されたこと、祝着です。殊に様々なみやげは、
その美しさは目にも余り筆にも尽くせないほどで、こちらとしては祝儀であるのだから、何か与えようと
思っていたのですが、そちらが大変見事なものを持って来られたため、それに釣り合うようなものを思いつかない
まま、とりあえず今回は思い止めました。次に来られた時に、この思いに従った物を下すでしょう。

それにしてもあなたの見目ぶり、姿形まで、以前に参られた頃よりも、十のものが二十に成ったかと思うほど
見違えました。藤吉郎は最近、あなたに対し不足の旨を申しているようですが、言語道断、まさしく曲事です。
今、どこを探したとしても、あなたほどの女性は二度と、あのはげねずみが求めることは出来ないでしょう。
ですので、あなたも今後はいかにも御上様らしく重々しく、悋気などを起こすべきではありません。
ただし女性の役なのですから、物事を語らない中にも、察して対応するべきでしょう。

文末に至りましたが、拝見を請い願います。かしこ。」

(甲子夜話)

有名な織田信長が高台院に宛てた書状



信長の武辺形儀は父の弾正忠を少しも真似ず

2019年05月22日 13:20

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/21(火) 18:40:38.18 ID:D7yWtb0Y
(前略。元亀元年(1570)12月の事)

馬場美濃(信春)が申すには、

「尾州犬山の城主・津田下野守(織田信清)は信長の姉婿ですが、信長に負けて追い出され諸国を浪々致し、
3年以前より当国へ参って御舎弟の一条右衛門太夫殿(信龍)の咄衆となり“犬山哲斎”と申しております。

この人の物語りによれば、信長の武辺形儀は父の弾正忠(織田信秀)を少しも真似ず、舅の斎藤山城守(道
三)の弓矢形儀を仕っております。『(信長は)そそくさとしている様で、殊の外締まって働く』と、犬山
哲斎は沙汰致しました」

と申し上げた。信玄公が仰せられたことには、

「信長の父・弾正忠は尾張を半分も治めることならずして、小身故に故今川義元の旗下となって駿府へ出仕
致した。斎藤山城は殊に私めを頼っておられた。土岐殿浪々の後に美濃一国の主となり、越前の方まで掠め、
山城の嫡子・義龍の代には、越前から朝倉常住坊と申す従弟坊主を美濃へ人質に取るほどなれば、斎藤の弓
矢と弾正忠とはかけ離れた弓矢の位、山城が上である。信長が斎藤山城の弓矢の家風を取るところと致すは、
もっともなり。

しかも山城の孫・龍興を信長は押し散らして美濃侍を数多抱えたわけで、父の弾正の代には小家中であった
故、侍はどのようにしても大家中の家風を真似るものであるから、自然と信長衆の大方のことは斎藤山城の
ように致すものであろう。それはあえて真似るわけでなくとも、浄土寺へ行けば自然と『念仏申したい』と
の心になるのと同じことである」

と仰せになられた。

――『甲陽軍鑑』