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さらに心の許されぬ男である

2021年02月28日 17:04

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/28(日) 14:44:02.56 ID:uwKv/9gu
ある人の言ったことによると、信長公が明智に滅ぼされたのも、尤もな事であった。
その故は、この殿は心猛くして、智浅くあられた故に、後難を顧みず、人の悪行をてきめんに
宣われたこと度々であった。

ある時、家康公が信長にまみえられた時、松永弾正(久秀)がその座に有った。
家康公は松永に対し、礼譲を厚くされていたのを、信長は見られて

「いやいや、あの弾正は左様にあしらわれる者ではない。元来弾正はわずかなる小身の身であったのを、
三好が取り立て大身に成した。しかるに聊かの恨みを含み、旧恩を忘却して、たちまち謀反反逆を企て、
三好を滅ぼした。そうして天道に背きし故に、戦に利を失い、流浪の身と成って、今、我を頼んで
ここに来ている。されど、さらに心の許されぬ男である。」

そう、苦々しく宣われたため、松永は面目を失い顔を赤らめてそこに在った。
その恨みを思ったのか、公方(足利)義昭に御謀反を勧め、信長に敵対したが、微運によって
望みを遂げずして滅んだ。
明智も信長公に遺恨が有ったのだという。

これに聞きどころ有り、心を付くべきものなりと言う人がある。ただ人は、恨みを受けぬように
ありたきものであると言った。

備前老人物語



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いずれにしても今日、平丞相信長公、本能寺にて御落命

2021年02月07日 17:28

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 16:48:57.43 ID:nyQaOx/U
6月朔日の夜、惟任日向守光秀は丹州亀山の城で反逆を企て、家臣の明智左馬助(秀満)、同次右衛門尉(光
忠)、藤田伝五(行政)、斎藤内蔵助(利光)、溝尾庄兵衛(茂朝)らを呼び寄せ、密かに閑所に請じて曰く
「各々、予がために一命を申し受けるべし。もし同心なくば予の首を刎ねられよ」と云々。

各々、黙口するところで左馬助が進んで曰く「臣らは主君のため、大事に当たってどうして猶予しましょうか。
某におきましては、まず畏まり入り候」と言った。残って四臣も皆これに同ず。

時に光秀言葉を設けて曰く「予が大悦これに過ぎず。さても伴の趣旨は予が身の上において大臣家(織田信長
の勘気を蒙り、誅伐に及ぶであろう事数多これあり。つまるところ、こちらから謀叛を起こし、いま大臣家の
無勢の在京を幸いとして、かの公に御事あらしめ予天下の主とならん。これすなわち止む事を得ざるの時なり。
各々、いよいよ同心においては、霊社の誓書を記されよ」と云々。

五臣すなわち誓書をしたため、この旨相違すべからざる由をひたすらに請け負い、人質を献じた。しかれば、
今夜光秀は多勢を率い、中国出勢の行装を大臣家へ御目に掛けるため上洛との由を披露せしめ、亀山より中国
への道筋三草越より取って返し、東面に馬を向けて大江山を打ち越え、左へ下って桂川を渡り越え、今夜暁方、
諸勢は本能寺へ参陣し、かの寺を取り巻いた。

同月2日明け方、光秀の総人数は弓鉄砲をしきりに放ち鬨をあげて本能寺を攻めた。大臣家を始め御小姓供廻
の面々まで、ただ当座の喧嘩による下々の騒動だろうと思い「各々御前近くで緩怠の働きとは、すこぶる慮外」
との由を仰せ出されたところ、次第に弾矢がしきりに来る。「さては謀叛か。誰だ」と仰せのところで森蘭丸
が門外を見帰り、惟任謀叛の由を申す。

大臣家は慌てることなく、不慮の大変是非に及ばざるの由で、自身矢を放って数多の敵を射殺し給う。

(中略。信長の近習たちが討死)

この時まで大臣家は未だ殿中において御弓を射給うところで、たちまち弦が切れてしまった。時に御弓を投げ
られ、自身また槍をひっさげて度々敵を突き払われた。しかるところで右の肘を槍で突かれ、御手重く進退叶
わず。これによって殿内へ入らせ給う。

その時まで女中は未だ御側に侍り、「女は苦しからず。早々に罷り出て一命助かり候へ」との由を3度仰せ下
され、すでに御殿に火がかかり来る時に奥深く御入りになり、内からも御納所口を引き立てられ、御切腹これ
あり。これは御姿を隠されるためだろうか。

その時、女房どもが取り巻いていて御最後の様体を見届け奉るという。また一説に御殿焼失の後、御死骸を探
し求めるといえども、ついに探し出せず、それかと疑う程の人もなかった。御自害か御討死か、人ついにこれ
を知らず。いずれにしても今日、平丞相信長公、本能寺にて御落命。御歳49歳なり。

――『総見記



550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 18:38:20.19 ID:bjp1HABi
このころすでに「森蘭丸」表記?
後世に「森乱」から変えられたかもしれないけど

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/08(月) 10:35:59.15 ID:bG7yJPbV
早稲田が公開してる総見記(織田軍記)だと乱丸表記だな

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 21:33:14.78 ID:hMmMh+W+
>>550
通俗日本全史版だと蘭丸でした

もとより信長公の異形不思議の御振舞に

2021年01月31日 17:53

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/31(日) 15:11:36.42 ID:jIZQT6cw
織田信長が安土に御座されていた頃、荒木摂州(村重)より仔細の事があり、使者を参らせるとして
家中より人選した所、荒木彌助でなければ使者にすべき者は無いとして、この彌助を安土へ派遣した。

彼は菅屋九郎右衛門(長頼)の取次によって御前に召された。使いの事が終わった後、信長公は
こう仰せになった

「汝は荒木彌助という者であるか。その名は内々に聞き及んでおる。これへ、これへ」
と、食籠にあった餅を二つ三つ脇差にて貫かれ、それを彌助の前に差し出された。

これに彌助は「畏まって候」と、己の脇差を抜き、腹ばいになって這い出て口を開けて
餅を賜らんとした。
この様子を御覧になって、信長公はにっこりと笑われ、その餅を御脇差ごと打ち捨てられたのを、
彌助が取って押し頂いて退き、餅を皆うち食らい、御脇差を袖にて拭うと、小姓衆にこれを渡した。

小姓衆は受け取って、鞘に収めて再び信長公に参らせると、脇差はそのまま、彌助が賜った。
彌助はこれを三度頂いて退出した。

もとより信長公の異形不思議の御振舞に、荒木のとっさの対応、古今珍しき事であると、その頃の人々は
申しあったという。

備前老人物語

脇差に指した餅の事、ここでは村重ではなくその家臣の話なんですね



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/31(日) 15:28:00.66 ID:77Y0ikbF
信長ってめんどくさい人だよな
こういうピエロじみた振る舞いも好きだし
謹厳居士もそれはそれで嫌いじゃないし
その時の気分次第か
秀吉は気分を読むのが格段にうまかったんだろうな

898 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/31(日) 15:37:47.65 ID:Vtd2rZqU
家康も信長に負けず劣らずの相当な気分屋に見えるけどな

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/31(日) 17:17:39.84 ID:IK6o6DfY
そういう無茶振りに対応できる人は有能だからね
名人Q太郎とか秀吉を重用したのも分かる
常識人の光秀には出来ない腹芸だよ

鏡島村梅之寺・乙津寺の事

2021年01月12日 16:44

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/12(火) 00:50:45.38 ID:6vjf8+TQ
鏡島村梅之寺・乙津寺の事

厚見郡鏡島村の梅之寺というのはその昔は乙津寺と号し、ここはすなわち7里の渡海の大湊であった故
に船付大明神を鎮守とした。

(伝承によれば、この辺りはかつて「乙津島」と呼ばれて、海に浮かぶ島だったが、弘法大師によって
桑田となり、地名を「鏡島」と呼ぶようになったという)

その後、一寺に点ぜり。この寺一派の本寺にして、土岐・斎藤の両家が殊にこれを帰依して、数ヶ所の
庄園を寄付した。その記録は宗別に見えたり。

当村院内はことごとく梅樹を植えている。故に“梅之寺”と号す。按ずるに斎藤家信仰の一寺と見える。
信長御入国の後も、もっとも寺務繁く、並びもなく栄えた。

しかるに信長公は元来仏法を嫌い給いて、所々で寺院仏閣を数多破却し給いたけれども、故あって当寺
をのみ甚だ尊敬し給い、とりわけて当山の梅を愛し給いて、すなわちこれを分けて江州安土、ならびに
京都妙心寺などに移し給わったのである。よってその寺の威は甚だしく、勅願所にも異ならず。

しかるところ、天正10年(1582)6月2日、信長生害し給いてよりこの寺の威勢も薄くなったの
だという。その後、文禄2年(1593)癸巳閏5月、秀吉より寺領の御朱印を改正せられたという。

――『美濃国諸旧記



837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/12(火) 12:58:07.18 ID:O8i+wnF4
>>836
美濃に海なんてなくね?と思ったら、長良川の湊なのね。

能ある鷹は爪を隠す

2021年01月06日 18:30

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/06(水) 17:21:27.53 ID:hk6W+Ej8
織田信長公の家に、弓好きの人が有り、的を射て当たらぬということがなかった。

ある時信長公がその様子を見たい言われ、日を定めてそれを見たが、他の人は的に当てるのに、
その者は当てることが出来なかった。そのうちに日が暮れ、信長公が的場より帰られる時、
「人の言うのと見る事とは違うものかな。」と仰せになった。

その後、一揆が蜂起したため人々馳せ向かったが、かの弓好きの人、信長公の馬先に進み、
さし詰め引き詰め敵を射ると、ほとんど外れた矢はなかった、そして味方はこれによって勝利を得たため、
信長公も悦ばれること斜め成らず、

「能ある鷹は爪を隠すという事がある。先の的場での事は、このような時を思って当てなかったのだな。
たしなみ深し。」

そう感じ入られ、褒美の物を給わった。
物と時によって、その種類は多いだろうが、人の芸はこのように慎むべき事なのだと、
弓をよく知れる人が言っていた。その時、かの弓を射た人の名も聞いていたのだが、忘れてしまった。

備前老人物語



827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/06(水) 18:44:07.62 ID:9ZqabgiX
本多忠勝のように普段は下手だけど戦場だけ強いのかと思った

いよいよ御勿体なき御分別かな

2021年01月02日 17:21

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/02(土) 00:09:24.98 ID:BlHmGHBQ
明智光秀が、家老の明智弥平次(秀満)を呼び、丹波の城の天守にてこのように言った
「私は信長に恨み多し。その上に又、このままでは終には我が身難儀に及ぶだろうと予想している。
この上は信長を失い、一度は天下を守るべしと思うのだ。どうだろうか?」

弥平次承って
「御恨みの事は、さもあるでしょう。しかれども信長公は御心安く思し召されているからこそ、
跡々の後遺恨も無く、その上に又、都に近い丹波国に添えて、坂本まで拝領された事は、
過分のお取り立てであり、冥加に叶い給う所であるのに、少しの恨みを思い捨てられず、
御逆心なされるというのは、天命が尽き果ててしまうこと疑い有りません。
思召し留まり給うべきです。」

そのように言葉を尽くして諫止すると、光秀もややあって
「よくよく分別してまた申すことにする。その方も分別有るように。」
と言い、その日この話は止んだ。

その後、溝尾藤兵衛、斎藤内蔵助、明智次郎左衛門、藤田伝吉の、四人の家老を召し集めて、
先の思い立ったことを言うと、彼らが諫止することも、弥平次が申すことと変わらず、その時
光秀も、とくと分別定まって、「ならば皆々、この事を深く秘すべし」と約した。

その後の六月朔日、光秀はまた弥兵衛を召して
「近頃私が言ったこと、年寄共とも密かに談合したが、その方の申した所と少しも違わなかった。
したがって、思いとどまることとした、その事、その方も心得ておくように。」
と言ったが、弥平次はこれを聞くと

「いよいよ御勿体なき御分別かな。それがし一人の口はいかようにも止められますが、
四人の口を止めさせるのは困難です。天知る地知る、我知る人知る、殿が信長公を恨まれるように、
かの四人の内に、もしも御前を恨み申すことが出来れば、その時に天罰を逃れることは出来ません。
この上は是非も有りません、思し召されたことを実行するのです。時を移されれば、一大事と
なるでしょう。」

そう荒々しく申すと、その時光秀は、困難に直面した気色にて、前後を忘却した様子であったが、
弥平次が引き立て進めた所、彼に気力を付けられて、
「さて、いかなる手立てが然るべしであろうか」とあった。
「ならば、家老共を召されて、『只今京都より飛脚到来、西国へ筑前守(秀吉)を遣わし置かれている
事について、仔細が有るので急ぎ罷り越すようにと仰せ下された、詳細は加茂川にて申し渡すので、
今夜、夜半に加茂川に腰兵糧ばかりにて集まるように』と、仰せになられるべしです。」

こうして、明日二日の未明に、加茂川より本能寺と二条の両方に軍勢を押し分けて、終に
信長公、城介殿(信忠)に御腹召させられたという事は、世に知られている所である。

その後光秀は、京の定めをあらまし仕置して、安土に赴き、安土の定めをして、また京に上るという時に
弥平次を呼んで
「ここは信長の居城であるので、その方はここにて、金銀等よろずの管理を、油断なく仕ってほしい。」
と言った。弥平次はこれを聞くと「私のようなものを!」と、自分の鼻を指差して
「ここに金奉行として置かれるなどというのは、いよいよ天命がお尽きになったようです!」
と腹立ちに言い返したが、光秀はこれを承引せず、弥平次を安土に留めさせた。
案の如く、明智は山崎にて討たれた。
弥平次は安土にて討ちもらされ、坂本に城に入って、腹切って死んだ。

この談合の次第は、信長記にも見えないが、この時の状況をよく知っている人の言うままに、
ここに記す。

備前老人物語



519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/03(日) 00:11:51.94 ID:BFsaYPMf
江戸初期の人物の記述だっけ?備前老人物語
そのおかげか、後世よく言われる明智左馬之助じゃなく弥平次なのね

左馬之助ってどっから来たんだろ

「愛宕参りに袖を引かれた」

2020年12月31日 17:21

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/31(木) 10:13:32.94 ID:uwNc3Av6
これもいつの陣の時だろうか、その人の名も忘れたが、信長公の侍に、賭博に負けて、
馬、物の具まで取られて、浅ましき有様と成った。その明くる日、どうしようもないので、
討死すべしと思い定めて、紙子羽織の後ろに黒き餅を書き付け、大きなささ板を求めて
鋸で刻み、腰指物にして戦いを待った。

ほどなく敵味方近づいて、互いに白眼を合わせるほどに、左手に扇を持ち、右手に刀を抜いて、
大音を上げて

「愛宕参りに袖を引かれた」

という小唄を歌って一人出た。

両陣はあまりのことにあきれて、しばし見物していたが、時分を見て「さあかかれかかれ!」と
一先にかかると、続いて七、八人、声をかけ合わせ、とつと、一度にかかって突き崩すと、大方
大利を得た。
突き懸かって駆け入った七、八人の者は、あらかじめ言い合わせていたと聞いている。

備前老人物語



806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/31(木) 11:00:02.00 ID:Rtjp6XfZ
>>805
名前も忘れられたということは、死ぬ気で一発芸かましたけど結局モブで終わったのか

其の方の只今の退き様、殊勝である。

2020年12月30日 15:57

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/30(水) 01:13:19.01 ID:Gm9dgAyq
ある時、織田信長公が「誰にても参れ」と仰せになったため、近習の小姓一人参って仰せを待った。
しかし「もはやよし」と仰せに成り、小姓は座より罷り出た。
そして再び前と同じように人を呼ばれたため、他の小姓が参ったが、これもしばし有って、「いらず」と
仰せに成ったため、罷り出た。

また、やや有って「誰ぞ参れ」とあり、また他の人が参った。暫く有って、これも事無くて
罷り出でる所に、座の側に塵が有るのを、取って罷り出た所に、信長公が「待て」と仰せあり

「総じて人は心と気を働かすを以て良しとするものだ。武辺というものは、かかるのも引くのも
時の潮時を見るのが合戦の習いである。其の方の只今の退き様、殊勝である。」

と褒められたという。

備前老人物語

「森蘭丸」の逸話の元ネタですね。



803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/30(水) 07:16:01.50 ID:RuoDJSgR
この前の麒麟が来る

光秀が諫言
→信長「もうよい、帰れ!」光秀「帰りまする!」
→あわてる近習に信長「帰りたいものは帰せ!」
→数秒後、近習に信長「ぐずぐずするな、呼び戻せ!」

塵は関係なく、ただ気が変わりやすかっただけだったり

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/30(水) 20:38:26.76 ID:OHqAH3+d
>>803
うっかり本題の丹波攻めを命じ忘れたから呼び戻しただけだぞ

明智令押領之由被聞食訖

2020年11月25日 17:02

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/25(水) 15:12:48.57 ID:OxAEvWpj
元亀二年十二月十一日

早朝、竹門より御使として宮内卿が来られた。禁裏より織田信長へ綸旨を出すこと、
同じく薫物(たきもの)十貝を渡すことへの異存について返答した。
綸旨の内容は、このようなものであった

今度就山門之儀、諸門跡領、明智令押領之由被聞食訖
諸門跡領之儀者、為朝恩天下安全之護持之事候條、
可混山門之儀更不可有之候、既及退転之間歎思召候、
諸門跡領悉以無別儀之様被申付者、可悦思召之由、
天気所候也、仍執達如件、

(今度の山門(比叡山)の事について、諸門跡の領地を、明智光秀が横領していると(天皇が)聞き
及ばれました。
諸門跡領については、天下安全を護持するための朝恩であり、山門領と一緒にすべきではありません。
既に退転に及んだというその嘆きを思し召され、諸門跡領悉く、別儀無いと申し付けられれば、
悦ばしく思われるでしょう。
天気(天皇の意思)所候なり。執達件の如し)


十二月十日  左中辨 晴豐
   織田彈正忠殿

言継卿記

比叡山焼き討ち後、明智光秀が諸門跡領まで横領したことに対して、朝廷よりその停止を求めた
信長への綸旨。



比叡山焼き討ちについて

2020年11月22日 15:35

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/22(日) 15:15:05.29 ID:AyJDst3j
9月朔日より3日に至り、信長は志村・小川・金ヶ森三城を攻落し、猛威に乗じて12日には大軍を勢揃いして
比叡山にぞ向かいける。これは延暦寺の衆徒が朝倉・浅井に一味して信長を討ち滅ぼさんと謀り、朝倉・浅井の
方へ軍糧まで運んだが故に、信長の憤りは大方ならず、急に攻め立てたられたのである。

山門の大衆は昔より猛威を張って、王命をも武威をも物の数とせざる習いであったため、法衣の上に甲冑を着し、
念珠を離すまじき手には太刀・長刀を引っさげて、坂下に下り立ち散々に切り立てれば、織田勢はこれに追い崩
され坂より下に追い落された。されども寄手は大勢なので新手を入れ替えて、踏み越え踏み越え攻め戦う。

その間に信長は忍の兵を山上に紛れ入らせ、堂社仏閣僧坊ことごとくに火を放たせた。折しも魔風吹き散り峰々
谷々院々坊々を黒煙が覆い火炎一円に蔓延れば、山法師どもは心は弥猛にはやれども、後ろからは猛火に責めら
れ、前からは敵に囲まれて逃げ出る道はなし。寄手の大軍は時を得て切り伏せ薙ぎ伏せ、たまたま逃れた者は縲
絏の恥を受け、法師児童おしなべて助かる者は稀だったのである。

今年今日はいかなる日であろうか。元亀2年(1571)9月12日、その昔、桓武天皇が伝教大師と御心を合
わせて草創し給いし王城鎮護の零場、根本中堂、文珠楼、日吉山王二十一社、およそ山上の三塔院々、経蔵、仏
宇、神社、一宇も残らず焦土となる。浅ましかりける事どもなり。

この時、金剛相模という悪僧は強弓の手練れであったが、如意ヶ嶽から2度まで信長を狙い射た。されども当た
らず。信長は山門を焼滅し、山麓に新城を構造して明智十兵衛光秀に守らせ、信長は岐阜へ帰陣せられける。

――『改正三河後風土記(武徳編年集成・織田真記)』


この時、信長公は東坂本の大鳥居をまっすぐに攻め上らせ給うと、山門の中衆、金剛相模という法師は無双の大
力強弓で、如意嵩から狙いすまして大きな矢をひょうと放つ。その矢は信長公の召されたる御馬の太腹に当たり、
馬はただ一矢に倒れてそのまま死に入った。

信長公はそれから大鳥居の石の上に腰掛けて居直り給い、諸方の焼けるのを御覧になっているところを、相模は
また二の矢を放った。その矢は信長公の腰掛けなさる石に当たり、たちまち砕けた。それより近習の軍兵どもは
鶴瓶打ちに鉄砲を揃え如意嵩へ撃ちかければ、相模はそれよりその場を落ち失せて行方知れずになったのである。

流石の精兵強弓なれども信長公の御運強く、2つの矢を射損じた。その矢の根は1尺2寸。後には京都大仏伝の
宝蔵に伝わり、籠め置かれた。信長公の腰掛石も坂本の大鳥居に近頃まで残った。

――『織田軍記(総見記)』



こうしなければ、信長は私を生かさない

2020年11月21日 15:30

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/21(土) 13:24:14.64 ID:h/eHLwQj
松永霜台(久秀)籠城の時、信長はその討ち手として太閤(秀吉)を遣わした。
秀吉は箇条書きを以て信長に注進した。その内容は

『某日、二之丸を破る、某日、本丸を破る、某日、霜台の首を取る。』

と、今後の予定が著されていた。
右筆が「これは如何なものでしょか」と云うと、秀吉は

「こうしなければ、信長は私を生かさない。もしこの通りに成らなければ死ぬ。」と云った。
そしてその期日通りに、無理に討ち破り、首を筺に入れて信長に報じた。
これを見て信長は云った

「これは偽である。霜台は首になっても、我が前に出てくる者に非ず。筑前は機知にて
この事を為したのだろう。」

筺を開くと果たしてその通りであった。
霜台は遂に降伏せず、鉄砲の薬に火をかけ、自ら焚死した。

老人雑話



細川藤孝の干支

2020年11月15日 15:21

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/15(日) 12:30:38.84 ID:5UJIyJ5x
ある時、織田信長公が細川藤孝に「その方の干支は何年か?」とお尋ねになった。

「上様と同年であります。」
「さればうまの年か。」
「いかにも、うまの年ではありますが、出来れば変わりたいものです。」

そう申したため信長公は、「どうして変わりたいなどというのか。」と仰られると、藤孝は

「上様は金覆輪に鞍を置き、一方私は小荷駄馬であり、つねに背中に重荷が絶えません。」

そう申した所、万座の笑壺に入り、大笑いと成ったという。

戴恩記



秀吉の、出生から信長の葬儀までの回想

2020年11月14日 17:04

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/14(土) 12:20:30.26 ID:eKnM9SJ7
ある時、豊臣秀吉公がいつもの御参内の時に、御装束を召し変えられている途中、施薬院にこのように云われた

「私は尾州の民間より出たため、草を刈る術は知っていても、筆を取ることさえ知らず、もとより
歌、連歌の道などを知るべきもないが、不慮に雲上に交わりを成す身となった。

ただし、我が母が若き時、内裏の御厨子所の下女であったが、思いもかけず玉体に近づき奉った事があった。
その夜の夢に、幾千万の祓箱が伊勢から播磨を指して、隙間もなく天上を飛び行き、また、ちはやぶる神が
見え、人々の手をとったという夢想を感じて、私を懐胎した。

この夢想が当たったと見えて、私は信長公より、御唐傘を許され播州に発向し、即時に斬り平らげ、別所を
従え、それよりすぐに、九州(西国という意味)にかかり、安芸の毛利と対陣し、彼等を水責めに
攻め殺さんとしたが、無道の明智日向惟任めが、六月二日に信長公を討ち奉ったという飛脚が到来した。

この事、天下にやがて隠れも無い事になるだろうから、敵に知らせず上洛するのは悪しき事だと思い、
しかじかの次第にて急ぎ罷り上がり主君の御弔合戦をいたさんと欲する。ただしこのような状況を見て、
我々の跡を追撃しようと思われるのなら、却ってその武勇は弱きに似ている、尋常に、只今一戦して、
それを弔い合戦にいたすべき、と申し使わせた所、毛利家も、さすがにあわれなることと感じたのか、
又は秀吉が主君のために身を捨てて最後の合戦をいたそうとするのを、恐ろしく思ったのか、異議もなく
人質を出したため、我々はそのまま上洛し、憎き惟任が鉾をほこりにほこって清龍寺まで出張してきたのを、
六月十三日に、山崎表より突き崩し、雑兵まで残らず討ち果たした。

惟任は主君の御罰が当たったのか、冥加尽きて、厠の中で、汚き百姓に殺されたが、その首を取り寄せて、
去る二日に失い奉った本能寺の焼け跡に、梟首にかけて我が鬱憤を散じたのである。

しかしながら、もし信長公が生きていた時、これほどの忠功を致して悦ばせ奉れば、一体どれほど自分も
嬉しいだろうかと、猶悲しみの涙が出て、しきりに落ちる故に、紫野にて御葬を勤め、太政大臣の御位を送り、
大徳寺に一宇を建立し、総見院殿を崇め奉ったのである。

(戴恩記)

秀吉の、出生から信長の葬儀までの回想



「上総介か、入洛めでたし。」

2020年11月13日 18:34

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/13(金) 17:03:57.49 ID:btSWIwXi
九条玖山公(稙通)はまた、勇猛ある御人であった。
当時、鬼神のように世に恐れられた織田信長公には、何れの公家門跡も媚びへつらっていたのだが、
玖山公は立ちながら差し向かい

「上総介か、入洛めでたし。」

と宣って帰られた。これに信長公は機嫌悪しく
「九条殿は、我に礼を言わせに来られた。」
と、ご立腹なされた。

この事について、『例え一命を失っても公家の行跡を見た。御家に恥を残すまじき。』
と、褒め称える人々が有る一方で
『先ず時に従わない、不用の御事である』と、そしる者も有った。
また『智者は惑わず、勇者は怖れず』とあるが、この玖山公の行為こそその事であると、褒める輩もあったとか。

戴恩記



熟したイチジクの如く

2020年11月13日 18:33

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/13(金) 17:10:35.32 ID:u5KAX4m3
竹内季治
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E5%AD%A3%E6%B2%BB

元亀2年(1571年)織田信長のことを「熟したイチジクの如く木より地上に落ちるだろう」と評したことから信長の逆鱗に触れ、同年9月18日に近江国永原(現在の滋賀県野洲市永原)で斬首された。享年54。

安国寺恵瓊より先に予言してましたね

参考
竹内季治、もう一つの予言・悪い話


金ヶ崎の戦いについての京での様子

2020年11月12日 18:45

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/12(木) 16:04:36.47 ID:7iTRDrjx
永禄十三年(元亀元年)四月二十日
早朝、弾正忠(織田)信長の出陣を見物する。一条から東に、坂本に下った。三万ばかりの軍勢であった。
両三日以内に若狭へ罷り越すという。
三好左京大夫(義継)はこれを送り、松永山城守(久秀)は共に下った。摂津の池田筑後守(勝正)は
三千ばかりの人数でこれに従った。
公家より、飛鳥井中将、日野等もこれに従った。今日は鰐まで行くのだという。
貴賤男女僧俗が見物をした。

二十三日
今日改元これ有り(永禄→元亀)。方々より借用の遣いがあった。
高辻よりは石帯、持明院・同、四辻相公羽林袍太刀、坊城沓、勧修寺辯大帷、等である

二十七日
一昨日、越前国に於いて合戦があったという。信長衆千人余り討ち死にしたという。
不確実な注進であり、詳しいことはわからない。

二十八日
禁裏に於いて御三間五常楽急百返、八幡御法楽があった。信長のための御祈祷であろうか。
十六反であり、次に太平楽急二反があった。

二十九日
越前の事について、毎日様々な沙汰が有るため、弾正忠宿舎へ行き、留守の衆である島田但馬守、
佐藤三河入道、猪子外記入道、鷹師衆等と雑談した。福角、森伝兵衛(可隆・森可成長男)、毛利河内守(秀頼)
等の討ち死には必死だという。

信長より自筆の書状が届き、金之崎(金ヶ崎)の城を開城させるため、作事、番匠、鍛冶、をか引き等
七十人ばかりを下すよう言ってきたという。

近江に六角が出兵し、方々を放火したという。そして北郡の浅井(長政)はこれと申し合わせ、信長に別心
したという。これによって越前から美濃への通路は封鎖されたという。ただし越前から若狭の西路は
往還できるという。

武家(義昭)の奉公衆である松井七郎は越前に於いて負傷したという。

弾正忠信長が、亥の刻(午後十時頃)帰陣したという。

言継卿記

金ヶ崎の戦いについての京での様子。浅井の寝返りが、朝倉ではなく六角と連動したものと捉えられていたのですね。



452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/12(木) 17:30:38.36 ID:3GjHpviy
京極の臣下→独立→朝倉に攻められる→六角に半臣従→信長と同名結んで独立→なかば信長の臣下で、信長政権的には名目上京極の臣下→朝倉・六角と同名結んで独立→滅亡という具合だから、
浅井のどこが義理堅い大名なのかを小一時間…

堺より都に至る道路に於いて、税を徴収することを

2020年11月11日 16:33

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/11(水) 13:02:34.18 ID:Zd444FhI
日本の真の王である内裏の顧問にして、甚だ身分高き人である公家達は、和田(惟政)殿に対し、
堺より都に至る道路に於いて、税(通行税)を徴収することを、彼等に許可すること切願した。
この収入は甚だ巨額なるもので、尾張の王・信長は、庶民の税を軽くするために、その徴収を免じたのだが、
再びこの徴収を再開することに関しては、総督(和田惟政)の一存に任されていた。

和田殿は公家に対し、
「この事、その他何事につけても自分の好意を得んと欲せば、彼等はただ一事を行えば、一切の報酬として
これを受けるだろう、即ち、ルイス・フロイスの事について内裏に話し、フロイスが謁見の許可を得、
また朝山日乗に与え、フロイスたち宣教師を追放し、会堂を奪った免許状を撤回することである。」
と云った。

しかして彼等の中、何人もこの事について内裏に語ることを欲さなかったために、その死に至るまで
和田殿は、彼等の請願した所を許可しなかった。

『一五七一年九月二十八日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

堺から京への関銭についてのお話



即時都よりパードレを追放するを可とする

2020年11月08日 18:48

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/08(日) 17:47:29.53 ID:GYyWhxaL
然るに今より八日、又は十日前、日本人イルマンのロレンソが堺より一書を送り、同地に於いて
起こっていることを通知したが、その中に、次の記事があった。

三好殿の書記官コスモが、我等の旅宿の主人ローケと語って伝えた事によると、篠原殿(長房)の重臣の
一人であるキリシタンの語った所に依れば、過日、阿波の大身及び主だった人々が集まって会議した時、
話し合いはパードレのことに及び、
『これらパードレの居住する国には、戦争、叛逆、不和、その他の不幸が起こるのみ成らず、
彼等を庇護する領主及び大身は、必ず名誉、地位、収入及び生命を失うが故に、今回自分たちが
勝利を得れば、即時都よりパードレを追放するを可とする。』
と云ったという。

これは堺の異教徒にして、阿波の大身たちに就いて、パードレ及びキリシタンの迫害のため
努力すること、我等の敵であるかの坊主(朝山日乗)が信長に就いて尽力したことに劣らない、
ベンジャノソウゼの成した所である。もし我等の罪により、彼等が勝利を得れば、彼等に劣らず、
我々に憎悪を抱く大阪の坊主と同一であるから、我等を都よ追放すること疑いない。

このような状況であるが、尊師は我等が、デウスの教えの敵に貶められて、豊後に帰るだろうと
想定すべきではない。何故ならそのような行為は、キリシタンにとっての失望となり、教化の障害とも
成るからである。

信長がもし存命したならば、たとえ都より遠き地に在っても、我等は信長領の内地に侵入して、美濃の国に
至るだろう。そしてもし信長の庇護を受ければ、その領内に帰依する者もあるだろう。
さらにデウスが再び彼に勝利を与え、都に帰ることを許し給う時は、我等が復帰するのも容易だからである。

(一五七〇年十二月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰)

志賀の陣で信長が追いつめられていた頃、阿波三好家(?)で、京に復帰したらキリシタンを追放する、と言う
話があったらしいという内容



447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/09(月) 12:33:28.35 ID:6xo3ofEz
天皇は一貫として伴天連追放の姿勢だったし、公家と仲のいい日乗は信長に重用されて安土宗論後でも発言力があった
伴天連追放に関しては信長と幕府の義昭(義輝は庇護)は取り合おうとはしなかったので朝廷に働きかけて綸旨を得るに至る

志賀の陣の様相

2020年11月07日 17:41

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/07(土) 17:17:59.84 ID:y38pgAVu
我等は当面の難破を逃れ、少しく静穏であることを得たが、それから一ヶ月を経ずに突然、更に激烈な
暴風が起こった。
即ち、信長が都に来た時、彼のために亡ぼされた二人の王(朝倉義景浅井長政)が急遽軍隊を集め、
その国に帰るに先立って、これを殺さんと図ったのである。

信長は既に軍兵を帰らして、当地にはただ一万三千人を留めていたが、彼はこの事を聞くと、即夜出発し、
翌日(九月二十四日)未明、当地より4レグワにして、坂本と称し、コーチンより少し小さな町に於いて
彼等を待ち受けた。

敵は六万にして、皆甚だ良き金の武具を着し、甚だ高き山に上った。同所には五百の僧院より成る、比叡の山の
大学が在った。
彼等の軍隊は山中に、信長は山麓に在って、既に一ヶ月を経過した。
寒気、風雪、霰雹甚だしく、風も又寒冷であり、ただ寒気の為に死す者、双方甚だ多かった。

敵は都の周囲、多数の村落を焼き、市内の混乱、不安甚だしく、一ヶ月以上、最後の審判の様相を呈していた。
何故ならば、勝利が何れに帰すべきか知ることを得ず、信長が敗戦すれば、直ぐにこの市(京都)は焼かれ、
的に蹂躙されるために、市民は、或いは山上に穴を掘り、或いは街路に逆茂木を設け、また家財を隠匿し、
或いは妻子を市外に出した。

而も、市を出れば直ぐに盗賊に襲われ、又は敵に殺された。
夜警、叫喚、警鐘、突撃、等、実に憐れなることばかりであった。

(一五七〇年十二月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰)

いわゆる志賀の陣の様子について。



朝山日乗について

2020年11月05日 18:18

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/05(木) 16:42:15.50 ID:rOtplAZH
朝山日乗は、『禁中の御殿が破壊したことの、御修理の営みを勤めよ』との夢のお告げに任せ、重大の知行、
相伝の家人をも打ち捨てて、出雲国より侘びしき体にて上京し、近衛龍山(前久)公に対し、その旨を
望んだ所、正親町天皇の勅によって参内し、御修理の営みを催した。

この話を織田信長公お聞きになり、その志の妙なるを感じられ、召し出され一両年も試みに使われた所、
美しい心映えであり、何事につけてもはかどって行う者であるとして、旧功の村井長門同然に、禁中方の
御修理を仰せ付けになった。そして万事、流れる水のように仕事が進んだ事で、山城国西院にて、
三千貫の地を下された。これは小泉という者は、勘当を蒙り牢人と成った跡職であったのを、その小泉の
家人たちも含めて恩賜されたのである。

甫庵太閤記

朝山日乗について



680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/06(金) 07:32:35.54 ID:8HRlh5Fr
いかに口上手でもデウスの前では無意味である

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/06(金) 07:47:17.39 ID:ipTx84SS
フロイス「日乗は日本のアンチキリスト、又は肉体に宿りたるルシフェル」

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/06(金) 09:51:10.17 ID:8HRlh5Fr
サタンではなくルシフェルと言ってるのが最高の賛辞だね


※管理人注

この投稿は、早稲田大学・松本和也氏の論文『イエズス会宣教師が見た中近世移行期日本の国王と国家』内、
『第一部 第五章 日乗の後半生』の抜粋と成っています。
内容は早稲田大学リポジトリより読むことが出来ます。内容をしっかり確かめたい方はこちらをご覧下さい
PDF注意
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=10862&file_id=20&file_no=10


443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/07(土) 01:41:21.26 ID:fCwnJg7j
はじめに永禄・元亀年間の畿内情勢を考察する際、必ずといってよいほど登場する人物が日乗である。
日乗の活躍する時期は、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄一一年から、義昭を追放する天正元年頃までである。その間、禁裏修理奉行や毛利への使者として活躍している。
また、信長は義昭との関係が悪化すると、永禄一三年に条書を発して義昭を詰問しているが、その宛所に日乗の名が登場する。
この条書は極めて重要な文書であるだけに、当時日乗がいかに重用されていたかが読み取れるだろう。このことは、同時期の畿内キリシタン史にも当てはまる。
永禄八年に伴天連追放の女房奉書が出され、イエズス会宣教師は京都退去を余儀なくされた。
永禄一二年、和田惟政の仲介によって京都復帰が実現したものの、以後も反キリシタン一派による執拗な妨害を受けている。その中心人物が日乗であった。
日乗は信長の面前でフロイスと宗論を行い、また信長や義昭に宣教師の追放を進言した。結局両者からはその許可は得られなかったが、天皇からは伴天連追放の綸旨を獲得している。
この事柄をとってみても、永禄一二年頃の畿内キリシタン史を考える際、日乗抜きで語ることはできないのである。


しくじり日乗上人の巻

〇元亀元年一一月四日付、ルイス・フロイス書翰
和田殿が信長からの勘当が解けてから五、六日後、彼に対して虚偽の訴えを行った、かの仏僧日乗は神の正当なる裁きにより、他の人々から彼が犯した重大な罪について訴えられました。
信長はこれを知って激怒し、多くの領主の前で彼を罵った後、足蹴にして追い出すよう命じました。彼は青ざめ、すぐさまその場から立ち去りました。
彼はそれまで有していた役職を奪われ、その後、縁故や懇願により、また、特に内裏の宮殿を再建するため彼に託した多額の金銭に関する報告がない間は、彼が逃げないように、信長は彼に対して素知らぬふりをしました。
彼は今も宮廷内におりますが、気にも留められておりません。

〇『言継卿記』永禄一三年三月二一日条
禁中御作事見舞了、日乗上人信長之勘気之由風聞有之如何、尚可尋之

公家衆の中でもとりわけ日乗と昵懇の仲であった山科言継は、日乗が信長から処罰されるかどうか気に掛けている。
「風聞有之」の文言が、信長が多くの家臣等の面前で日乗を叱責したというフロイスの記事に信憑性を持たせる。

天正元年に入って間もない頃は、義昭への使者として活躍するが、義昭追放後は毛利への使者や丹波国山国荘の入部に日乗の名が登場するに留まる。

※信長の寵を失って失脚したというのは誤りである。

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/07(土) 01:41:50.04 ID:fCwnJg7j
上人じゃなくなるの巻

〇『御湯殿上日記』天正三年三月二五日条
信長より日乗きようてうをしよくするほとに、てんさいといふへきと申入候

〇『宣教卿記』同日条
廿五日子天晴一、信長三大・勧大へ日乗上人ト云義イハレヌヨシ在之、各儀アラタメテ典済可然之由信長被申也、各尤之由申也、
使者始祐閑、後ニハ明知・五郎左衛門・塙九・祐閑四人 ニテ 三大へ被申也

※三大は三条西実枝、勧大は勧修寺晴右

〇『言経卿記』天正四年正月五日条
「典斎 日乗事也、」

〇『宣教卿記』天正三年三月二八日条
廿八日卯雨下、従七時分大雨也、一、二条殿へ御樽進上スル也、幡磨ノタチノムスメヲサゴノ御方、前ハ公方ノ上臈也、
今度信長ムスメ ニシテ、 二条殿御方御所へ進上也、警固ノ衆村井民部・日乗御供也、三献参也、御はいせんスル也、夜也

関白二条晴良の息昭実の嫁娶の記事である。 「ヲサゴノ御方」が信長の養女として嫁ぐことになり、その嫁入の警固として村井貞勝と日乗の名が挙げられている。

天正三年三月二五日に日乗は信長から「典済」と改めるように指示される。
三月二五日まで表記のほとんどが「日乗上人」とあり、「上人」という文言が必ずといってよいほど記されていた。しかし、それ以降は「上人」が全く用いられてない。
その後「朝山三位法印日乗」「典 三位法印 斎日乗」(『言継卿記』)・「日乗三位」(『宣教卿記』)と書かれている。
『宣教卿記』天正三年七月二〇日条の「日乗三位」が初見であるが、いつ三位法印となったかは不明である。
天正三年七月三日に信長が正親町天皇の官位昇叙の勧めを辞退し、家臣の任官を奏請しているので、このときに賜ったか?
※松井友閑が宮内卿法印、武井夕庵が二位法印


いつの間にか死んでたの巻

〇天正六年三月二日付、オルガンティーノ書翰
都地方のキリシタン教界の諸事はよく進展しており、今年約二千人をキリシタンにしました。すでにキリシタンとなった者は大いに利益を得ております。
コンスタンチィノや他のキリシタン達が強くせがむため、私は今尾張国に向かう道中にあります。私はかの国のキリシタンが利益を得ることを主(なるデウス)に期待しております。
もし美濃国で説教する機会があれば、私達は必ず主の御名において網を投じるでしょう。尊師フロイスが信長の前で宗論を行った日乗上人は先日死去しました 。

※『朝山家系図』によると没年月日は天正五年九月一五日となっている。


総括
元亀元年一一月四日付、ルイス・フロイス書翰の日乗追放として理解されてきた記事は、後半部分にその後も禁裏に出入りしていることが記されており、信長から追放されたのではなかった。
日乗が信長のもとから追放されたかのように記されているのは、フロイスが日乗に敵意をもっていたからであり、フロイスの誇張癖の範疇と捉えるべきである。



685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/06(金) 19:46:27.34 ID:FyEF9E1t
>>679
怪しい男だよなこいつも
尼子家臣だったのに京に逃げて近衛に気に入られるとかどういうことなんだか