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信長の武辺形儀は父の弾正忠を少しも真似ず

2019年05月22日 13:20

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/21(火) 18:40:38.18 ID:D7yWtb0Y
(前略。元亀元年(1570)12月の事)

馬場美濃(信春)が申すには、

「尾州犬山の城主・津田下野守(織田信清)は信長の姉婿ですが、信長に負けて追い出され諸国を浪々致し、
3年以前より当国へ参って御舎弟の一条右衛門太夫殿(信龍)の咄衆となり“犬山哲斎”と申しております。

この人の物語りによれば、信長の武辺形儀は父の弾正忠(織田信秀)を少しも真似ず、舅の斎藤山城守(道
三)の弓矢形儀を仕っております。『(信長は)そそくさとしている様で、殊の外締まって働く』と、犬山
哲斎は沙汰致しました」

と申し上げた。信玄公が仰せられたことには、

「信長の父・弾正忠は尾張を半分も治めることならずして、小身故に故今川義元の旗下となって駿府へ出仕
致した。斎藤山城は殊に私めを頼っておられた。土岐殿浪々の後に美濃一国の主となり、越前の方まで掠め、
山城の嫡子・義龍の代には、越前から朝倉常住坊と申す従弟坊主を美濃へ人質に取るほどなれば、斎藤の弓
矢と弾正忠とはかけ離れた弓矢の位、山城が上である。信長が斎藤山城の弓矢の家風を取るところと致すは、
もっともなり。

しかも山城の孫・龍興を信長は押し散らして美濃侍を数多抱えたわけで、父の弾正の代には小家中であった
故、侍はどのようにしても大家中の家風を真似るものであるから、自然と信長衆の大方のことは斎藤山城の
ように致すものであろう。それはあえて真似るわけでなくとも、浄土寺へ行けば自然と『念仏申したい』と
の心になるのと同じことである」

と仰せになられた。

――『甲陽軍鑑』



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と、信玄公は仰せ渡されたのである

2019年05月17日 17:40

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 18:22:20.14 ID:ZU05vU4M
百年以来、本当の合戦はさほどない。ただし両度の本当の合戦があるというのは永禄4年酉(1561)の
信州川中島合戦と遠州三方ヶ原合戦、この両度合戦である。

(中略)

しかしながら、(三方ヶ原の戦いは)武田衆ばかりの手柄にあらず。家康衆も信玄公の衆に劣らぬ手柄なり。
その子細は良く働いて勝負を仕り、足並み揃えて逃げないからである。

武田信玄は)「どのように剛の武士が『手柄を仕りたい』と申しても、見崩れで逃げる敵が相手ではこの
ような手柄にはなるまい」とありて、これに付けても家康を「日本で若手の弓取り」と定められ、信玄公が
仰せになられたことには、

「長尾謙信(上杉謙信)と家康の両人は弓取りである。

信長が近江箕作の城を攻め落としたのも家康被官どもの働き故。北近江姉川合戦も信長は3万5千の人数で
浅井備前守(長政)3千の人数に切り立てられ尽く負けたというのに、家康は5千の人数、浅井備前に加勢
した越前の朝倉衆は1万5千だったが、それを家康衆は姉川を押し渡り、無二に掛かって切り崩し、信長の
利運にさせたのは家康が弓矢を強く取る故である。

金ヶ崎発向(金ヶ崎の退き口)の時も浅井が心変わりしたのを聞いた信長は味方を捨て、岐阜へ早々に引き
入った。そのようなところで家康が若狭の敵を切りひしいで、押付を打たれないように致した(信長が追撃
されないようにした)のは家康25,6歳の時分であるが、その時からこのように仕ったのである」

と、信玄公は御先の侍大将衆に仰せ渡されたのである。件の如し。

――『甲陽軍鑑』



927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 20:09:45.63 ID:F9IKVgUD
どういう理屈だw

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 17:43:16.02 ID:CnyBPqKP
野戦という、総大将が知恵を絞った陣形で勝負が決せられる戦さしか認めない!
という軍学脳かと思った

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 19:41:33.27 ID:sfWLld3+
足並みがそろってないことをそろってることよりageてるの草

勝ちを千里の外に決す

2019年05月16日 16:44

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 01:47:31.40 ID:JyrqVqki
その後、信長公は24歳で是非義元(今川義元)を討たんと心掛け給えども、ここに妨げる男あり。
戸部新左衛門(政直)といって笠寺の辺りを知行する者なり。

能書才学が形式通りの侍で、主君を無二と思って義元に属し、尾張を義元の国にせんと二六時中謀る
ことによって、些細であっても尾張のことを駿河へ書き送った。

これにより信長は心安き寵愛の右筆に、かの新左衛門の消息(手紙)を多く集めて1年余り習わせな
さると、新左衛門の手跡と違わず。この時に右筆は義元に逆心の書状を思うままに書きしたためて、
「織田上総守殿へ。戸部新左衛門」と上書をし、頼もしき侍を商人として出立させ駿府へと遣された。

義元は運の末であったのか、これを事実であると御思いになり、かの新左衛門を御呼びになると「駿
府まで参るに及ばず」と、三河吉田で速やかに首を御刎ねになった。

その4年(永禄3年の誤り)にあたって庚申、しかも七庚申のある歳5月。信長27の御年で人数は
700ばかり。義元公は人数2万余りを引率して出給う(桶狭間の戦い)。

時に駿河勢が所々へ乱妨(乱取り)に散った隙をうかがい、味方の真似をして駿河勢に入り混じった。
義元は三河国の僧と路次の傍らの松原で酒盛をしていらっしゃるところへ、信長は切って掛かりつい
に義元の首を取り給う。この一戦の手柄によって日本においてその名を得給う。

これでさえも件の戸部新左衛門が存命であれば中々難儀であったろうが、信長公は智謀深く、陳平と
張良が項王の使者を謀ったのと異ならず。

信長公の消息の手立ては24歳の御時なり。評言すれば、『籌を帷幄の中に運らし、勝ちを千里の外
に決す(戦略の巧妙なこと。漢の高祖が張良の軍事的才能を評した言葉)』。

そのため、尾張の諸侍で義元を大敵と称し信長を軽んじた者どもは、翌日から清洲へ参候して信長を
主君と仰ぎ申したのである。

――『甲陽軍鑑』



925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 01:54:39.69 ID:i428Al7X
ゆらり

信玄公御時代諸大将之事

2019年05月12日 16:48

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/11(土) 19:21:19.83 ID:HFu6A9lg
信玄公御時代諸大将之事

御歳増す次第の前に、まずこれを書く。もし反故落散して他国の人がこれを見て、我等の仏尊し(自分
の信じるものだけが尊い)と思われるように書いては、武士の道ではないのである。弓矢の儀はただ敵
味方ともに飾りなく有り様に申してこそ武道である。飾りは女人、あるいは商人の法なり。一事を飾れ
ば、万事の事実がすべて偽りとなるのだ。天鑑私なし。

一、永正12年乙亥の歳に平氏康公誕生。これは小田原の北条氏康のことなり。

一、大永元年辛巳歳、源信玄晴信公誕生。これは甲州武田信玄のことなり。本卦豊。

一、享禄3年庚寅歳、上杉謙信輝虎公誕生。これは越後長尾景虎のことなり。公方光源院義輝公より
  “輝”の字を下されて輝虎と号す。本卦履。

一、天文3年甲午歳、平信長公誕生。これは尾州織田上総守のことなり。本卦蠱。

一、天文7年戊戌歳、北条氏康公の御子氏政公誕生。(原注:一本に「此三人(氏政・氏真・義信)
  本卦の所きれて見えず」とある)

一、同年、今川義元公の御子氏真公誕生。

一、同年、武田信玄公の御子義信公誕生。

一、天文11年壬寅歳、徳川家康公誕生。これは三州松平蔵人公のことなり。本卦大壮。

一、天文15年丙午歳、武田勝頼公誕生。これは信玄四番目の御子、信州伊奈四郎の御事なり。信州
  諏訪頼茂(頼重)の跡目である故、武田相伝の“信”の字を避け給う。信玄公の御跡も15年の間、
  子息太郎竹王信勝が21歳までの陣代と称して仮のことであった故、武田の御旗はついに持たせ
  なさらず、ましてや信玄公尊崇の(原注:孫子)御幡も譲らせ給わず、もともと伊奈にいらした
  時の大文字の旗であった。ただし片時でも屋形の御名代であるからと、諏訪法性の御甲だけは許
  して差し上げなされたのである。

――『甲陽軍鑑』

「きれて見えず」は小幡景憲の筆記だと言われてますね



小次郎は信長の時分の脇の上手であるという

2019年05月04日 14:54

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 01:12:13.79 ID:LlOPDr9S
小次郎(観世元頼)は信長の時分の脇の上手であるという。信長の初めの頃である。

小次郎の嫡子に弥次郎という者がいた。これも脇の上手で小次郎に劣るまいという。これは大徳寺
だったかで能があって、その帰りがけに僕に殺されたのである。

優れた男色でその弟に了室という者がいた。了室は近頃まで存生した。これは脇は下手なり。

――『老人雑話』



978 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/04(土) 17:29:40.26 ID:1Ob+Bu4A
>>977
>これは大徳寺
だったかで能があって、その帰りがけに僕に殺されたのである。

犯人は江村専斎か…(すっとぼけ)

甲斐は結局信玄の子の代で滅び

2019年05月03日 16:27

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 16:23:18.51 ID:g74bPE9v
さて東照宮(徳川家康)は浜松にいらっしゃった。信玄方から度々攻め寄せられて難儀であったのを、
信長が救はれたことにより別条なし。

駿府には穴山(信君)という大名がいた。東照宮とともに信長に帰す。ある時、両人が同道して上京
することがあって、方々を見物し、京から大坂和泉に行くが、堺にいらっしゃる内に明智が謀反して
信長を弑逆する。

これより両人は伊勢路を越え本国へ帰るが、穴山は路次で一揆に殺されたという。また東照宮の所為
であるともいう。

さて駿府も易々と東照宮の御手に入る。甲斐に河尻与兵衛(秀隆)という者がいたが、これも東照宮
が討ち滅ぼして甲斐を取った。甲斐は結局信玄の子の代で滅び、信長に攻め付けられ天目山で自害す。

――『老人雑話』



佐久間信盛、信長を諫める

2019年05月01日 16:21

853 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 10:23:59.52 ID:Gr038wOZ
佐久間信盛、信長を諫める

1578年、河内の国人、三箇頼照・頼連父子が毛利氏に通じたとの噂が流れる。

噂を流したのは若江三人衆の一人・多羅尾綱知三箇頼照がキリシタンであり、多羅尾がキリシタン嫌いであったからと言う。噂を耳にして激怒した織田信長佐久間信盛に与力の三箇氏の処刑を命じた。

信長の命令にはいかなる異議も釈明も許されず、そのまま言葉通りに遂行する習わしであったにも関わらず、信盛はすぐに頼連を連れて上洛、信長に面会してまずは取り調べが必要だと説得した。
信長も了承して取り調べが行われることになり、三箇父子の無実が明らかになった。

三箇父子の危機は去ったように思えたが、多羅尾綱知は諦めず讒言し続けたため、信長は再び処刑の命令を下した。この時も信盛が信長と直談判、説得して翻意させたために三箇父子は救われたのであった。


(フロイス日本史)



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 10:45:54.85 ID:UFjyl7fE
佐久間GJな逸話に思えるけど
こういうところで信長のヘイト獲得したのかも知れない

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 10:46:32.27 ID:ciO/1tRa
ないあるヨ

858 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 12:29:05.60 ID:1MsaJoST
佐久間には他にも比叡山焼き討ちを思い止まるように訴えたり、有名な利根坂の時に信長に反論したりした話がある

この時も処刑の命令を翻意させているし、信長もその意見を無視することができないほどの存在だったんだろう

ただその度重なる直言で内心疎まれてもいたんだろうね

859 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 16:51:22.06 ID:7sIQcVFh
個人的には信長信盛の仲ってそんな悪くない気がするけどなぁ
悪くないから、お互い言いたいこと言う
信長の追放って現代に置き換えれば謹慎だしね
信盛保養地で死ななければ、また復帰してたんじゃ?

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 18:28:41.75 ID:idjiVlFy
見た感じ日記っぽいし淡々としてるのはそのせいでは?

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 21:09:52.17 ID:OREag7aG
>>859
室町時代の追放の意味も知らんと適当なこと言ってはいかん

864 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 22:03:55.38 ID:EFC/PbAa
信長は折檻状のあと、「佐久間親子は本来なら処刑すべきだが、長年召し使った者なので一度だけ助命する。しかし二度目は許さないので、忍びでも上方へ来るなら討ち果たせ」ていう厳しいお触れも出しているからそんな楽観的な状況ではなかったでしょうね

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 22:20:28.55 ID:XM3gZ2DZ
でも息子は許されて家は残ってるんDA

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 22:26:57.59 ID:SW8dwP43
>>865
信盛が死んで怒りのボルテージが下がったんじゃね

867 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 22:39:36.34 ID:EFC/PbAa
気にするな!

ってのは冗談で、信盛の死の直後に息子は赦免されてるから、折檻状で両方厳しく非難されてるとはいえ、怒りの対象の主体はあくまで信盛だったってことでしょう

あと息子の復帰が許されたのは信忠の根回しもあったようですね

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/02(木) 01:08:49.52 ID:wp+473rn
尾張に佐久間自前の領地(様々な既得権益付き)があるのが邪魔だったって見方もあるしな
その理屈なら信栄が身一つで仕えるならなんの問題もない

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 01:54:08.01 ID:zpbEIlwA
佐久間追放は、裏で暗躍していた
明智の謀略だったってのを、次の
大河の麒麟がくるで放送されることを
密かに期待している

フロイス評の明智光秀がいいなぁ

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 02:11:48.68 ID:H+rOAgLT
麒麟て信長の花押なのにそんなタイトルに決まったのか光秀大河

又ものの分として何とて能せん

2019年05月01日 16:18

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 13:19:53.30 ID:8nKSRDUM
信長が甲斐の四郎(武田勝頼)と対陣の時(長篠の戦い)、鳶の巣の城を乗っ取ることを酒井左衛門尉
(忠次)が信長に乞うた。信長は叱って曰く、「陪臣の分際でどうして良い働きができるか!(又もの
の分として何とて能せん)」と。

左衛門尉は重ねて乞わず、即時に赴いて城を乗っ取ったという。左衛門尉は東照宮(徳川家康)の家臣
なり。東照宮が甲斐・信濃・上野を所領し給う時、威勢は一人盛んであった。今の宮内(原注:四郎)
の父なり。

――『老人雑話』



950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 14:45:50.07 ID:zLaAnMy+
信長の功績を過少にしてる話多いよね

951 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 15:29:18.99 ID:2GWH/FK7
後であの場ではああ言ったが良い案だ、やれって言われたってバージョンもあったな。

小笠原与八郎の事

2019年04月30日 16:06

946 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/30(火) 02:50:22.89 ID:7AS7T0U+
1574年5月、武田勝頼は軍勢を率い、高天神城を攻撃した。

城主・小笠原与八郎(小笠原氏助)以下籠城衆はひと月以上粘り援軍を待ったが、徳川家康は単独で武田に相対する力がなく、織田信長の援軍がやっと吉田城についた辺りで開城してしまった。 

落城後、城主の小笠原与八郎が武田氏に一味し、家老衆らもこれに従っているとの噂が立っていた。

しかし彼らは家康に人質を出していることもあり、粗略にするような意図は全くありません、と浜松まで参上して申しあげた。しかし数日が経ち陰謀(与八郎たちの寝返りか)の内容が伝わると成敗されてしまった。 


月日は流れ1582年3月、武田氏が滅亡すると小笠原与八郎は北条氏を頼って小田原に逃れ、隠居の身となっていた。しかしこれは家康の知るところとなり、家康より信長へ与八郎を引き渡すように要請してほしいとの要望があった。

早速信長より北条氏へ命令が下り、与八郎は処刑された。その首は小田原より浜松へと直接届けられたという。 

『当代記』



これ武略なり

2019年04月27日 15:54

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/27(土) 14:13:34.77 ID:2r7o4uZh
信長は5千騎で今川義元の4万の人数を鳴海で敗った。義元の首を取ったのは川尻与兵衛(河尻秀隆
という者なり。後に信濃で死す。

この時、信長は清洲にいて乱舞し、先手から送られる文箱をも開き見ず、皆が「負けた」と推し量った
のである。信長は馬を出し、熱田の神前でしばしまどろみ夢を見ている体で、応じる声が3度あった。
これ武略なり。

さて大雨の降る中で信長が馬を進めると、輿を控えて諫める者あり。その時、信長は鞍の前輪を叩いて
敦盛の『人間五十年』のところを舞われたという。

人々は皆それならばと押し掛かった。義元が台子で茶会をしているところに急に打って掛かって、勝利
を得たり。この時、義元の勢4万は七備に陣を立てていた。しかし間道から本陣へ掛かった故に、七備
も空しくなったという。

――『老人雑話』



936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/27(土) 14:18:07.66 ID:mExy/+Tj
>>935
毛利新介「!?」

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/27(土) 16:24:35.08 ID:YVf5kat/
伝言ゲームのように話が変わっていくんでしょう
それにしてもこの場合の乱舞ってなんだ

義昭公の御果報のほどこそ

2019年04月18日 16:17

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 07:15:51.40 ID:nuv0nMir
足利義昭公は「どうしてもこの信長を滅ぼさねば、公方の家は成り立ち難い」と思し召され、江州の
佐々木(六角)承禎、浅井備前守(長政)などと語らうと、彼らは即時に同心したため、「何時なりとも、
出陣に於いてはあらかじめ内意を聞かせる。」と申し下した。こうして両人は加勢を催し、昼夜暇なく
信長に対する敵対行動を行った。これに拠って義昭公は心強くなられ、いよいよ信長との一戦を決意した。

こうして義昭公は、御領分の人数ならびに京勢を加えて、四千騎ばかりにて都を立たせ給い、山田、
矢橋、志賀、唐崎、比良、小松、和邇、堅田などの漁船を奪い取り、数百艘にうち乗り、これにてすぐに
安土へと発向すると聞こえた。

この情報に信長は驚き、「忠が不忠になるとはこの事ではないか。しかし今日このごろの公方の御身で、
この信長を倒すなどというのは、まさに蟷螂の斧であり身の程を知らない。しかしそうは言っても、
佐々木、浅井が手を合わせるのなら、(比叡山の)山法師たちもこれに加わることにも成るだろう。
万が一公方に多勢が付いては大変である。ならばすぐに打ち立ち追い散らさん。」
そして三万余にて馳せ上り、公方勢を散々に蹴散らし、公方勢が接収した船共も悉く元通りに繋がせ、
義昭公も都へ移し、そこに警護を数多付けられた。

信長は帰陣してつらつら案ずるに「とかくこの君を都に置いていては、私の出世の妨げと成る。」と思われ、
堺に下して或る寺に追い籠め奉り、番を堅く付けて置かれた。義昭公の御果報のほどこそ、おもいやられて
あわれである。

(室町殿物語)



880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:25:29.89 ID:hrCSpIgA
>忠が不忠になるとはこの事ではないか

将軍をナチュラルに家臣扱いしててくっそ笑うw

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:41:45.66 ID:/+XOGeZR
公方謀反とか主上御謀反とか
謀反とはなんぞや

883 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/18(木) 11:44:02.74 ID:8GdWClx3
>>882
後鳥羽上皇「せやせや」

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:57:13.59 ID:LDmTFWvv
>>880
忠誠を尽くしてきたのに、将軍に裏切られたってことだと思うよ

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 12:42:16.48 ID:QnIcR7fO
>>882
既存の秩序体制を乱す行為

日頃思し召していた恩謝を忽ちに翻し

2019年04月17日 17:26

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/17(水) 17:03:58.26 ID:Yukg+d+g
織田信長は尾州より義兵を挙げ、近国を切り広げ、その余威を以て七道へ鉾を振るうに、その利を
得ないということ無く、日往月来、既に15,6ヶ国の太守と成った。されば江州安土と言う所に、
咸陽宮を凌ぐほどの城郭を拵えて、諸国の大名を引きつけて、朝暮にその出仕を請け、取り巻かれ
尊崇されるその様子は、ただ四海の権将に等しいものであった。(このあたり時系列が異なっている)

そのようであったので、この頃は公方を公方とも扱わず、自分の被官の会釈で取りなしており、義昭公も
日頃思し召していた恩謝を忽ちに翻し、怨をむすばん事を思し召しに成った。

ある時、信長は義昭公へ使札を遣わし、その中に
『義昭公は数年浪々ましましけるを、信長の力を以て京都に遷らせ給い、大敵の筑前義長(三好義継の事か)を
一戦の内に追い詰め、先祖代々の家督に備わり給う上は、位官に不足は無いはずです。であるのに、公卿との
交わりや、禁中の御祭り事などを、よくよく執り行われる事なく、どうして諸国の大名、小名を近づけ、
馬具、武具の類を所望され、蓄え置かれる事、更に心得がたい。今後有るまじきことです。』
そう書かれていた。

しかしながらそれから、甲州武田信玄と信長の関係が悪化し、既に甲信の兵が上洛するとの風聞があり、
信長は義昭公へ「両将の間を仲立ちされ、無事をお計りなさいますように」と望んだ。しかし公方も
御腹立ちの折節であったため少しも取り上げず。何と言う返事もしなかった。

(室町殿物語)



「在る甲斐もない身の上かな」

2019年04月16日 17:35

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 05:04:01.24 ID:Am9ByBAt
足利義昭公が上洛に成功し京に遷られ、武将(将軍)の家督を継がれたと言っても、尊氏公より代々
蓄積された和漢の珍器、武具の類は、三好のために一時に炎滅したため(永禄の変)、万事について
調わないことばかりであった。御領分はわずかであり、将軍の体裁にかなうほどの奉行、役人を
抱えられたが、人を抱えれば日々に負担がかかるものであり、また御道具も乏しく、かくして義昭公は
「在る甲斐もない身の上かな」と、よろずに思い乱れ給われた。

ある時、義昭公は旧臣達を集めて御談合の事あり、織田信長へ使者を遣わした。これは
「よろずの道具について、少しづつ援助してもらいたい」旨を、条数をあげて(箇条書きにして)、
杉原を使者として尾張へ下したものであった。

やがて信長にこの書状を差し上げると、彼はこれを詳細に見て「こちらから後で御返事申すであろう。」と
使者に対面せずにこれを帰した。義昭公はその後数ヶ月待ったが、遂に返事すら無く時は過ぎた。
「いかなる所存を差し挟んでいるのか」と、都において怪しくのみ思し召しに成った。

(室町殿物語)



862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 07:53:39.76 ID:lmq9B1rw
どんだけ高い要求したのか気になる

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 11:20:21.79 ID:6J5IrijJ
そのあと色々用意して対面したんじゃなかったか

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/17(水) 12:18:40.10 ID:PvNFj2NX
センゴクの超人信長ですら、京都関係の出費は辛そうだったな

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/17(水) 13:12:00.11 ID:78rrwr85
信長? ああ、上京焼き討ちしたやつな。

武功を挙げた盛政は

2019年04月13日 12:47

794 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 11:41:30.13 ID:8euuL6hJ
佐久間盛政は、1554年尾張国御器所に生まれた。
『佐久間軍記』によれば、長じては身の丈六尺(約182㎝)となったとある。
相当な巨漢だったらしい。
盛政は勇猛果敢な武将であったが、微笑ましい逸話も残されている。
『陳善録』によると、まだ18歳の頃のこと、前田利家の家臣村井長頼とともに敵将の首をとるという武功を挙げた盛政は、信長ではなく真っ先に叔父の柴田勝家に首を見せに行ったため、一番首の恩賞を信長からもらえなかったという。



795 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 11:48:49.39 ID:aHLiQiKX
>>794
確か比叡山焼き討ち直前の金ヶ森攻めの時のエピソードだよね?

796 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 11:53:12.45 ID:8euuL6hJ
>>795
よく知ってるな!どマイナーEpなのに...
盛政からしたら立場的に一段下の村井長頼と仲が良かったのは意外だったことは印象に残るて

797 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 12:41:34.23 ID:aHLiQiKX
佐久間盛政って面白い逸話多いよね~

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 17:47:33.27 ID:w1OWPUsS
地下鉄で有名なあの御器所出身の人なんだ!

足利義昭の最後

2019年04月13日 12:46

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 01:16:19.42 ID:rxTT5let
さるほどに足利義昭公は、持病に癪があったのだが、突然大きな発作を起こされて、世の常成らず
苦しまれた。されば御内の人々も、昼夜御前にあって看病した。また毛利より派遣された御伽の僧たちが、
芸州にこの事を報告すると、やがて毛利から名医が派遣された。これが医術を尽くして治療にあたったが、
前世の行いによって定まった寿命に限りがおとずれたのか、日に日に御気色衰えられた。
人々は「これではどうにも成らない」と、今更ながら驚き嘆いた。

このような中義昭公は、鑑首座という禅僧を御枕近くに召して仰せに成った

「私はたまたま武将(将軍)の家門に生を受けたと言っても、戒力薄くしてその徳備わらず、
そのため織田信長に一度救われ、厚恩謝し難く思っていたが、やがて信長自身が時めくために、
忽ち私を捨てた。しかし秀吉がそんな私を情を以て労り、どうにかこうにか光陰を送っていた所、
毛利輝元よりは大分の扶持を加え参らせ、その上種々の懇志、この世成らず、後世までも忘れないだろう。
この旨を心得ていてほしい。」

などと仰せに成ると、首座も涙にむせび、ややあって

「上意の通り、つぶさに畏まりました。さりながら、心細く思し召しに成ってはなりません。
御気色は未だ普段と変わりませんから、程なく御快気なされるでしょう。今回は御持病がたまたま
甚だしい発作を起こしたので、いつもよりも弱らせているのです。」
そう励ました。

その後義昭公は侍女を召して、「御料紙箱に色紙が2枚有る。ここへ持って参れ。」と命じ、
「首座、お主がいつぞやに色紙を望んだことが有ったが、ついとかくにして放置していた。
今はこの世の名残であるから、これを取って、形見にしてほしい。」

そう仰せられて、首座に下された。首座は頂戴し、涙を流しながらそれを見ると、そこに
古歌が書かれていた

 いずくにも こゝろとまらば すみかへよ
         ながらへばまた もとのふるさと

 朝露は きえのこりても ありぬべし
         たれかこの世に のこりはつべき

かくて2,3日あって、いよいよ衰弱されたが、暁の頃に、監物入道(柳沢元政)と侍女を召して、
密かに仰せられること暫く有って、其後は仏号をひたすらに唱えられ、明け方に眠るように臨終した。
紅顔は忽ち変じて青色の肌となって生気を失い、浮世の面影も無くなってしまった。
無常のならいでは有るが、あわれに儚く覚える。
御遺言にまかせて、火葬にされ、御骨を拾い上げ、高野山へと納められた。
御戒名は、入道なされた時の号『霊陽院昌山道休大居士』と申し奉った。

こうして御後のいとなみは、このように執り行われ、そうして御中陰が過ぎると、御局は京へと
送られた。万事、御遺言にまかせて行われた。

(室町殿物語)

足利義昭の最後についての記事。



850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 07:56:06.56 ID:g5p7ulF5
>>849
前政権のトップにしては幸せな老後だったといえそう

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 11:23:47.15 ID:Pbv+XVB/
確かに
人生全うできたのは大切
本人はまた違ったのかもしれんが

織田信長公、座興ふかき事

2019年04月10日 17:16

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 00:31:04.91 ID:Y0JDf8tv
織田信長公、座興ふかき事

正月五日、「節振舞あるべし」と言うことで、佳例にまかせ、諸大名を集められた。
さて、種々の饗応あって後、夜に入ると信長公より「大盃にて、上戸も下戸も押し並べて給うべし」と
仰せになり、「余興として順に舞をするように」と言われ、面々は嗜んでいた芸を以て舞い歌い
入り乱れ、各々前後も解らぬほどの大酒盛りとなった。

このような所に、柴田修理介(勝家)が飲もうとしていた大盃を見て、信長公は「今一つ明智光秀に指すように」
と仰せになった。「畏まって候」と勝家は一息に飲み干し、これを日向守(光秀)に渡したところ、光秀は
「これは困ったことだ、たった今ようやくその盃を飲み干して貴殿に回したというのに、またそこから
給わるという事、どうやって給わればいいのか。そうか御免を頂きたい。」と、頭を畳につけて辞した。
これに修理介「私もそう思うが、殿の御意によって指すのだ。否応有るべからす。」
「如何ほど御意にても、もはや塞ぎ詰まっています。御宥免頂きたい。」
そう申して、座敷の隙間から次の間へと逃げた。

その時、信長公は座敷を立った。光秀が次の間でうつ伏せにひれ伏していると、その首を取って押し付け、
御脇差を引き抜き

「いかに、きんかん頭、飲むのか飲まないのか、一口に返事をせよ。飲まぬと言うならこの脇差の切っ先を、
後ろから喉まで飲ませてやろう。光秀いかに、いかに!?」

これを聞いて光秀も心乱れるが、この有様に酒の酔も俄に醒め、

「ああ殿様、切っ先がひやひやと見に覚え候。さりとては御脇差御ゆるし候へ。死に申すことは、
今少し早うございます。」

そう申し上げる。これに信長公

「そういう事なら、仰せを背かず飲むべきか、さに非ずば、脇差を飲ますべきか、何れを飲むのか、
はやはや返事をせよ。いかに、きんかん頭!」
そう言いながら、脇差のみねにてかなたこなたを撫で回した。
光秀は気も魂も消える心地して
「御ゆるし候へ、起き上がって、御意のごとく御酒を飲みましょう。」

「なるほど、それならば立ち退こう。もし飲めなければ、今度は脇差をしかと飲ますぞ!」
そう仰せになって立ち退かれると、光秀は顔の色青く、目の色、顔つきも変わって起き上がり、かの大盃を
取って戴き、酒を請けた。
そしてようやく九分ほど飲み及んだ時、信長公ご覧になり

「あれを見よ人々、何ほど詰まりても、酒は自由なる物にて飲めるものだ。餅や飯などは、詰まった時は
どうあっても食せない。私は饗宴の亭主役をつとめて、飲ませることが面白いのだ。」
そう仰せになると、座中一同、どっと興じた。

かくして夜も、はや東が白んでくると、信長公は簾中へ下がられた。これを見て、諸侍は、
我先にと帰っていった。


光秀は宿所に帰ってつらつらと考えた
「助かった。危うき命を保つことが出来た。諸侍数多ある中に、私一人がこのような目に合わされること、
今回も含めて三度目である。これは普段から、私を殺そうと折を待っているのではないだろうか。
酒というものは、必ず心底を打ち明けるものであれば、あのようにされたのだろう。
『思う内に有れば色外にあらはるる』という言葉はまさにこれだ。重ねてよくよく心得ておくべきだ。」

この事があってから、光秀は事(謀反)を思い立たれたと言われる。

(室町殿物語)



840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 01:16:14.65 ID:/JL74bm0
さすがに嘘だろ

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 01:24:54.58 ID:Y0JDf8tv
>>840
室町殿物語の元になった「室町殿日記」は慶長二年から慶長七年の間には成立したと考えられていて、なおかつ文禄五年ころに成立したとされる
「義殘後覺」にもほぼ同じ内容の話が収録されているので、事実かどうかはともかく、秀吉の時代に、光秀の謀反の理由についてこういう話が
語られていたのは確実だと思う。

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 01:30:16.23 ID:zxEYpi3D
年次はいつなのか 3回目というが1回目と2回目は何があったのか

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 04:14:55.06 ID:oaAsJqRE
「是非もなし」

やっぱアイツ怒ってたのか
( ´•ω•` )

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 20:55:15.98 ID:LRQ0nIoS
>>841
思い付くのは2つあると思うんだ

そんなに極端に本能寺から経ってないこの時代でも
光秀謀叛の理由は良く分かってなくて話の種になってたんだなってことと

なんかもう面白くする方向に走っちゃってるんじゃないかということ

今宵、なんとも心得ざる夢を見たため

2019年04月09日 12:23

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 07:59:58.78 ID:aTiipaij
ある時織田信長公は不思議の夢を見て、心もとなく思い「誰かこの夢を判じてくれないものか」と
かれこれ案じわずらっていたが。急に思いついて、乗慶僧都を召され、仰せに成った

「ちと御坊に考えて頂きたいことが有って、このように招いたのだ。」

「承ってみましょう。どのような事でしょうか」

すると信長
「今宵、なんとも心得ざる夢を見たため、御坊の判断を聞きたいのだ。その内容を具体的に言うと、
広々とした山野に、私は唯一人躍り出て、東から西へと向っているようだったが、道の中ほどと
思しき所に、その向こうに半反(約5.5メートル)ほどと見える大河が有った。それは岸打つ波荒く、
水面の様子も凄まじく、どうやってこれを渡ろうかと立ちすくんでいた所に、この河の水が俄に
紅血に変じ、生臭いことこの上なかった。

そのような中、三尺ほどに見える剣が流れてきた。夢心にこれを取ろうと思ったが、たやすく取れず、
どうするべきかと色々考えていた所、そのまま汗して夢が覚めた。
この夢は一体どう言うことなのか、心もとない。」

そう仰せに成ったのを僧都は聞かれて
「これは誠にめでたき御夢です。近きうちに、河内(河血とかける)の国が手に入るでしょう。
また、その剣は、則ち敵の魂であり、その精魂が抜け出て水に流れ失せる、という御告げでしょう。」

そう判じた所、信長公は大いに感じ入り、御手をちょうと打って
「さてさて目出度く判じられたものかな。そういう事であれば、年来の本意を達するための不安や心配が
消滅した!」そう喜び、「それそれ」と宣うと、当座の引き出物として料足五貫文、白布弐端を賜った。
僧都は「ありがたし」と拝領し、御前を立たれた。

(室町殿物語)



779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 11:59:53.32 ID:+CA7OqT0
ニンジャの仕業ですね間違いない

782 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/09(火) 20:40:54.30 ID:OrWwEnk8
>>778
人の夢と書いて儚い…何か物悲しいわね…。

禁中は信長の時から興隆した

2019年04月05日 16:42

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/04(木) 19:45:06.04 ID:/rqPzBC8
信長の時代の禁中が微々なりしことは、近郊の民屋と異ならず。築地などは無く、竹の垣に茨などを
結い付けた有様であった。老人(江村専斎)が児童の時は遊びに行って、縁で土などをこね、破れた
簾をちょうど開けて見れば、人もいない様子であった。

信長が知行などを付けられて、造営など寄進があった故に、少し禁中の居做は良くなったのである。
これによって信長を御崇敬なされて、高官にも進められた。

禁中は信長の時から興隆したといえども、太閤の時代の初めまでは未だ微々たるものであった。近衛
殿(近衛前久か)のところで歌の会などがあると、三方の台の色はあくまで黒く、ころころとする赤
小豆餅を乗せて出されたのであった。しかしながら、歌は今時の人に10倍した。

――『老人雑話』



大峰入り、すなはち大なる山に入るといふ意

2019年03月25日 21:13

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/25(月) 09:03:55.88 ID:qi5DIp20
この山伏達は毎年二回大峰入り Vomineiri(すなはち大なる山に入るといふ意)と称する巡拝を行ふ。
このためには日本全六十六ヵ国より二千人以上が都より一日路の大和国に集るのであるが、ここに
先達 Xendachiと称する同派の頭二十四人が別々に門弟を率ゐて来る。この山伏達は皆大和国より
その巡礼を始め、甚だ高い山の峰を経て熊野権現Cumanono Gonguemと称する寺院に向ふのである。

この山には動物も鳥も虫もゐず、一年中雪がある。巡拝の始まる所より終点に到るまで七十五レグワある。
彼等は毎日一レグワ以上行くことを禁ぜられてゐる故、これを七十五日の間に歩行する。彼等の苦行は毎日
飯一握づつ二回、すなはち朝夕に食するのみであり、もし途中病に罹る者があれば、そこに止って死するか、
または回復するまで居る。また八日間水なき所を通り、この間に飲む水は携帯するが、大なる欠乏を感ずる。

この山中に居住する者は二種類に分れてゐる。すなはち(ゴキGuoquiと称し、後の鬼といふ意味である)
五人の頭と、多数の門弟ゼンキ Jenquis、すなはち前の鬼といふ者である。山伏等は皆一緒に大和国の
奈良と称する地を発し、各々荷物と途中の食物を背負うて吉野 Yoxinoと称する八レグワの町に着けば、
多数の前鬼が彼等を出迎へて案内し、彼等のために荷物を負ふ。この前鬼は頭髪を縛った恐しい人間であり、
彼等の歩く所には絶えず雷鳴大風が起り、もし巡拝者の一人がその家または国に物を忘れた時は、その距離が
二百レグワを超えることがあっても、前鬼が行って半時間の内にこれを携へて来るのである。

山中に進んで吉野より八レグワの小笹 Ozasaと称する他の町に着けば、後鬼と称する五人の頭が出迎へる。
彼等は人間の形の悪魔であり、性質も悪魔的である。彼等は陰気で甚だ恐しくまた傲慢で、一日に五語も話さぬ。
彼等の頭髪は縛り、頭に長さ一指半の角があって、これを隠すことに努め、甚だ長き頭巾を被りてその角を隠す。
彼等の山中の家また住む所は何人も知らぬ。彼等は約五十レグワの甚だ険咀にして難儀な道を案内するが、
道は悉く断崖で甚だ険しいため立って歩くことができず、一同は手足を用ひて進むが、後鬼は真直に進み、
平地を歩くやうである。彼等は山伏に対し、全七十五日の間、歩行中は清浄にして信心を深うし、少しも悪事を
行はず、釈迦の苦行と行状に倣ふことを勧める。釈迦は日本人の崇拝する二つの主なる神の一つである。
もし巡拝者中途中で彼等の喜ばざることをなすものがあれば、後鬼はこの罪人を速に空中に投上げ、
手をもって山より突出した木の小枝に縋らしめる。そこより下を眺むれば、眩暈を感ずる。
この罪人はそのまま下り、疲れて墜落粉砕するに至る。他の巡拝者は前進し、父子或は兄弟であっても
遺憾を表せず、彼等もまた同じ運命に陥らざるやう努める。巡拝者が夜寝た後には、五人の後鬼は姿を消し
少しも認めることができず、翌朝再び来って旅行を続ける。また千人以上ある前鬼の家を知る者なく、
彼等が同所に行った山伏のうち何人にもその家を観せたことを聞かぬ。また後鬼は七十五レグワの終まで
山伏と同行せず、熊野権現と称し紀の国に在る最後の寺院に達する数レグワ前で彼等と別れる。

巡拝者は二千人を超えるが、一年に二回巡拝し、各々三十匁すなはち千八百三十六レイスを後鬼に与へる。
彼等はまた旅行中絶えず後鬼の顔色を窺ひ、彼等に不快を与へ、空中に吊されて粉砕することを危惧してゐる。

(中略)

信長が近江国の安土山の城をほとんど建築し終った頃、後鬼の一人が同所を通過した。彼等は一生のうち
一回の他は、かの山を出づることなく、各々高野 Coyaの寺院に巡礼に行く。同所は約七百年前に最も悪魔的
ルシフェル的な人である弘法大師 Combodaixiを生きながら葬った場所である。

右の後鬼が右の城を通過した時、信長が造らせてゐた大きな壁の一片が落ちた。そこで後鬼が害をなさざるやう
宥むるため、途中にある二つの寺院、すなはち一つは吉野に、また一つは更に遠い所にあるものを、
金をもって十分に塗ることを命じた。当地の寺院は悉く木造で、壁も屋根裏も柱も皆木であるが、
これを立派に金で塗った。右のジョアンが寺院の中でこれを観たのである。
(一五八三年二月(天正十一年一月)パードレ・ルイス・フロイスが口ノ津より発せし書翰)


フロイスが伝える大峰入りのお話。安土城の壁を後鬼が通っただけで破壊したことが有ったらしい。



747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/25(月) 10:28:29.41 ID:1TEMDgUp
山伏の生態は興味深いな

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/25(月) 11:37:11.55 ID:HcURMdn0
弘法大師が衆道を始めた、って言ってたのはフロイスだっけ?

私が切腹に及ばない事の方を憂い

2019年03月23日 18:43

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/23(土) 12:03:33.17 ID:R2H6RQcv
織田信長の次男である信雄は、本能寺に於いて信長が弑されたことを知る前に、鬼頭内蔵助を信長の
様子をうかがわせるため京都に遣わした。

鬼頭が山科に至った時、伊藤安仲に出会った、伊藤は信長の笛役であった。
伊藤は鬼頭を見て「ここは何処だろうか。」と尋ねた。逆に鬼頭は「貴殿はどうしてここに
居るのか」と聞いた。伊藤は涙を流し

「貴殿は未だ知らないのか。信長公が今朝、明智の謀反により弑され給われた。私のような者共は
途方に暮れて行先も解らず迷い逃げたのだ。」

それは朝日が山端に差し昇る頃であった。鬼頭は且つ驚き且つ疑った。しかし伊藤は
「偽りも事による。もし今信長公が恙無く、私がこのように大事の偽りを言えば、一体どうして
日本の地に身を置く所があるだろうか。」

「然らばここより立ち返り、貴殿の言葉を信雄様へ申し上げよう。」

「尤もである。証拠として、これは信雄様が御覧じ覚えたるものである」と、小刀を渡した。

鬼頭は急ぎ信雄の居城伊勢長島へと乗り戻り、その日の太陽が傾く頃に、三十余里を馳せ到着した。
然れども馬は疲れを見せず、まさしく稀代の駿足であった。

さて、鬼頭はこの趣を申し上げたが、信雄は信じようとしなかった。そこで証拠としてかの伊藤の
小刀を出すも、猶信じず、却って鬼頭が狂気したと思うような顔色であった。
致し方なく鬼頭は「やがて注進が参るでしょう。」と言って自宅へ帰った。
信雄は御伽衆の梅心という者に命じ、鬼頭を訪れてその様子を伺わせた。

鬼頭は浴衣を着ながら梅心の前に出て対面し、
「私が狂気したのかと思われたによって、その方に伺わせたのだろう。
もしあの情報が虚説と成って私が切腹させられれば、むしろ大いなる幸いであり、まことに望む所である。
虚説ではなく、私が切腹に及ばない事の方を憂いている。」
そう言って外に出て、繋いでいる馬の湯洗いをすると、馬はいなないて前掻きをした。鬼頭は馬の健盛なる
事を梅心に自慢した。梅心は帰ってこれを信雄に報告した。

その日の日暮れより諸方の早飛脚が、本能寺での事を告げた。
信雄は信長の弔い合戦について、今日よ明日よと言いつつ、出陣を十余日も引き延ばした。
その間に秀吉が備中高松より上がって、信長の仇を討った。これは信雄が無勇の故である。
これによって、後年、信雄は秀吉のために領地を没収された。しかし秀吉は信雄の制しやすいことを知って、
害はないと判断したため、大和に於いて五万石を与えた。

(武将感状記)

関連
鬼頭内蔵助の報告と織田信雄、+おまけ


811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/23(土) 12:23:06.52 ID:1Z0ElKd4
信雄「大坂城捨てよっと」

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/27(水) 13:05:37.15 ID:BAFAiwld
>>810
史実は伊勢長島じゃなくて伊勢松ヶ島だろう