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平蜘蛛の釜と同様に微塵に砕けた

2019年01月15日 19:06

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 23:01:14.76 ID:O4RpCBZN
後に人々は算段して「これ(明智秀満が吉広江の脇差を渡さなかったこと)は松永殿(久秀)が大和
信貴山の城で切腹した時、櫓の下へ付いた佐久間右衛門(信盛)の手勢より、城内へ呼ばわりかけた
のとちっとも違わない」と、申されたのだという。

その子細は、佐久間右衛門が所存を出されて、松永殿へ申し付けられた言葉だと聞いている。

「この度の事に及んでは、内々に御秘蔵の平蜘蛛の御釜を、上様(織田信長)も常々御望みに思し召
されておられる故、御出しになるのがもっともである! それで滅んでしまっては、あまりに本懐なき
次第と存じ奉る!」

以上の通りに松永殿へ告げ知らせたとおぼしく、ややあって城内からの返事があった。

「平蜘蛛の釜と九十九髪の茶入、これは来世まで持って行き、慰みにと存じていた。そんなところに、
安土の御城で信長殿は御自身で御茶を下され、その時に『いつまでも御手前の九十九髪の茶入で数寄
を致すがよい』と、仰せられたのである。

その時に私めは茶室を新しく建て、九十九髪で信長殿に一服申し上げようと存じていたのだ。しかし、
その頃の信長殿は私めを方々に御遣わしになられたので、その機会もなく打ち過ぎた故、九十九髪を
安土の御城で進上したのである。

しかしながら、平蜘蛛の釜と私めの首の二つは信長殿の御目には掛けまいぞ!」

このように返答すると、松永殿は平蜘蛛の釜を微塵粉灰に打ち割り、その言葉に少しも違わずに首は
鉄砲の薬で焼き割り、平蜘蛛の釜と同様に微塵に砕けたのである。(頸は鉄炮の薬にてやきわりみし
んにくたけけれはひらくもの釜と同前也)

この九十九髪は、古に九十九石の田地で買い取ったため、その名で呼ばれたと承っている。信長殿は
御秘蔵なされ、御最期の時に本能寺で焼き割れたと、相聞こえ申す事。

――『川角太閤記』



647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/15(火) 13:48:55.66 ID:0qpatG4+
>>644
九十九髪も同じ運命をたどる皮肉、悲しいなぁ
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その悪しき臭いは安土中へ吹き散らし申した

2019年01月10日 17:45

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 19:56:15.67 ID:O6+KCoqz
天正10年(1582)午の年、信長公は甲斐国の武田四郎勝頼を御追罰のために、近江安土の
御城より御馬を出された。ただし先手は信忠公に仰せ付けられ、城之介殿は岐阜から御出陣なり。

家康卿は駿河口より御入りになられ、その他にも方々口々より飛び入れば、勝頼は甲府の家城を
開け退かれ、同国の田野里山林で討ち果てられた。その後、御仕置を残すところなく仰せつけら
れて駿河国を家康卿に進ぜられ、同年4月初め頃、信長公は安土の御城に御馬を納められた。

そこに家康卿が駿河国御拝領の御礼のため、穴山殿を御同道されて御上洛の由を聞こし召されて、
明智日向守の所をその御宿として仰せ付けられた。

そのようなところに、信長公は御もてなしのあまりにか、肴などの用意の次第を御覧になられる
ため、御宿を御見舞いになると、夏ゆえに用意された生肴は殊のほか鮮度が落ち申していたので、
門へ御入りになられるや風に乗って悪臭が吹き来たり、その香りを御嗅ぎ付けられて、もっての
ほか御立腹された。

信長公は直ちに料理の間へ御成りとなられ、「この様子では家康卿の馳走はできない!」と御立
腹になられて、堀久太郎(秀政)の所へ御宿を仰せ付けられたのだと、その時節の古き衆の口か
ら以上の通りに受け賜った。

信長記(信長公記)には『大宝坊の所を家康卿の御宿に仰せ付けられた』とある。この宿の様子
は二通りあると御心得なさるべきだろう。

日向守は「面目を失った!」と木具膳や肴の台、その他用意した取り肴以下を残らず堀へ打ち込
み申した。その悪しき臭いは安土中へ吹き散らし申したと相聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』



576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/10(木) 11:01:21.60 ID:+0PwuB4l
信長「このアライを作ったのは誰だあっ!!」

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/10(木) 15:07:09.56 ID:T4ak4Lvy
お堀ってゴミ捨て場でもあったんだね

正信偈合戦顛末

2018年12月24日 03:34

顕如   
583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/20(木) 23:41:06.86 ID:riCaTj9j
 1570年、本願寺顕如は全国の門徒たちに織田信長との決戦を呼びかける檄を飛ばした。
その後。信長が軍勢を率いて摂津河内に迫ってくると、その動きはすぐに本願寺側に
伝わった。信長軍の中にも一向宗の門徒が多数いたので簡単に情報が漏れたのである。
 迎え撃つために富田や唐崎、西面、柱本、鳥飼、一津屋の門徒が集結し、彼らは
味舌下の明善寺の住職 正義坊と、その檀家の勘兵衛の指揮に従って戦うことになった。
 門徒衆は本願寺から支給された槍を一本ずつ装備していた。指揮官の勘兵衛
槍の扱いを教えようとはせず、「5人から6人の厚さでずらっと並ぶように」とだけ
指示した。門徒たちがその通りに5~6列で横並びになると、対峙する信長軍も
同じ5~6列の厚さで並んでじわじわと近づいてきた。
 両軍が互いの顔を見分けることができるほど接近すると、教主の本願寺顕如
陣中の大きな櫓にのぼって「国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発稀有大弘誓」
などと親鸞聖人の教えの正信偈(しょうしんげ)を唱え始めた。
 正義坊と勘兵衛はその正信偈に合わせて槍を振り上げたり、振り下ろしたりするよう
門徒たちに命じた。すると、敵の信長軍の方から正信偈を唱える声が聞こえてきて、
その声に合わせて信長軍の兵士たちも槍を上げたり、下ろしたりする動作を始めた。
両軍がにらみあったまま、同じ動作を繰り返すばかりでぶつかる気配は見られない。
そのうち、信長が業を煮やしたのか、信長軍の方から法螺貝の音が聞こえてきて
さっさと退却していったので、その日の戦いは勝敗なしの引き分けになった。
 これが後に正信偈合戦と呼ばれる合戦である。
 本願寺側は敵軍が同じ一向宗の門徒ばかりで戦意がないのを見抜いて、あらかじめ
両軍とも戦うふりだけするよう根回ししていたのであった。



586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 11:24:11.01 ID:WanFXouX
>>583 の戦いで兵士が信長の指揮に逆らって怠慢行為をしたら、後で恐ろしい処罰を
受けそうだが、はたして大丈夫だったのか気になる

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 22:06:47.53 ID:t8Zi+qo1
>>583
正義坊って90年台のアニメに出てきそう



590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 13:10:00.59 ID:4szgCXxf
>>583
あえて信長陣営に残ってかく乱する一向宗徒がたくさんいたんだろうな
そりゃ10年もかかるわ

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 23:07:15.64 ID:m1+OhMdA
>>583 で紹介した「正信偈合戦」の話には続きと言える逸話が存在しているが、
内容がどちらかといえば悪い方の話だったので、「戦国ちょっと悪い話」のスレに載せました

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/24(月) 00:21:08.78 ID:S0D4pHu3
戦場で両軍から南無不可思議光~法蔵菩薩因位時~
とか聞こえてくるのか。想像したらワロタ



548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 23:04:25.86 ID:m1+OhMdA
この話は「戦国ちょっといい話46」の >> 583 で紹介した「正信偈合戦」
の続きにあたる逸話である。

 十年も続いた信長と本願寺の争いは和睦という形で一応の決着はついたが、
信長の方はそれで済ませるつもりはかけらもなかった。本願寺の側に属して
戦っていた摂津の人々が和睦成立後にそれぞれの村に帰って元の生活に戻った頃、
突如として信長軍が村々に襲撃を仕掛けてきた。信長軍の一番の目標は摂津近辺の
門徒を率いて戦った二人の指揮官、味舌下の明善寺の正義坊とその檀家の勘兵衛
討つことであった。
 襲撃を受けた村では一向一揆に加担したと見なされた村人が捕らえられ、次々と
命を奪われていった。その光景は凄惨で、流血の現場を「流れの馬場」、
死体を積み上げた場所を「しかばね谷」と呼ぶほどであった。
 襲撃を事前に察知して運良く逃れた正義坊は、勘兵衛を連れて北の山へ落ちのびた。
「明善寺の正義坊は手ごわいぞ!」
 信長は騎馬兵三千人に正義坊への追撃を命じた。正義坊たちは箕面の止々呂美という
ところで追いつかれ、檀家の勘兵衛が身代わりとなって捕まり、その場で殺されてしまった。
 その後、勘兵衛がいた地元の明善寺周辺では亡くなった勘兵衛の霊を弔うために
供養塔を建て、念仏講をおこなった。無念講と呼ばれるその念仏講はこの時から
始まったそうである。



※出典 高槻物語(管理人調べ)

姉川勝利

2018年11月22日 18:15

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/22(木) 02:44:20.60 ID:hd5SfMHy
(姉川の戦いの時)

浅井長政も叶い難く小谷を目指して敗走すると、味方は矢島郷の尊照寺・田川辺りまで追い討ちした。安養寺
三郎左衛門経世(氏種)は生け捕りとなり、信長の前に引き出された。信長はかねてよりその名を

聞き知っておられたのでその命を許され、「私はこの軍威に乗じてただちに安養寺に案内をさせて小谷を攻め
ようと思うがどうだ」と問われた。安養寺は答えて「長政は今日は敗走したといえども、父の下野守久政の勢
1,800ほども備えて城を守っていますので、軽々しく押し寄せなさるのは御遠慮あるべきでは」と言った。

信長はその言葉をもっともであるとして、「小谷はまたのことにしよう」と安養寺を助命し、そのうえ願いの
ままに小谷へ送り帰しなさった。かくて今日討ち取った敵の首を数えると3,170級。多くは徳川勢の討ち
留めたところである。信長は神君の大功を感心されて、

 今日の大功は殊更に言うまでもない。前代に比類なく後世の誰が雄を争えようか。当家の綱紀にして武門
 の棟梁というべきものである。(今日大功勝て言う可からず。前代比倫無し。後世誰か雄を争う。当家の
 綱紀武門の棟梁と謂う可き也)

以上の感状に長光の刀を添えて進上された。この刀は光源院将軍(足利義輝)の秘蔵でその後に三好下野入道
謙斎(政勝)が所持した世に優れた名物である。(原注:『柏崎物語』にこの時、信長より源為朝の用いた

矢根を進上され、御当家で槍にされたと見える)その他氏家・稲葉・伊賀の3人(美濃三人衆)も横槍の功を
賞して感状を賜り、諸手の将卒の勲功も漏らさず褒美なされ、姉川で勝利の凱歌を奏せられた。

姉川の戦い大勝により信長は頻りに礼謝の言葉を尽くされ、神君は御勢を引き連れられて三河へ凱旋された。
信長はただちに横山城を囲んで攻めなさった。大野木土佐守・三田村左衛門・野村肥後守・同兵庫頭などは
随分と防戦するも叶い難く、ついに城を渡して小谷に引き取ったため、ここは木下藤吉郎秀吉に守らせ、

姉川で討ち取った首は京都へ遣わして、義昭将軍の実検に備えて六条河原で梟首せしめた。京都では「ああ、
おびただしい首かな」とこれを見る貴賤ともども驚嘆して肝を潰したということである。信長は7月に至り
軍勢を進めて、磯野丹波守(員昌)が籠る佐和山城を囲み攻められた。この城は険阻な要害の地であり、

丹波守はさる老練の宿将で防戦の術を尽くしたので容易に攻め取り難く、そのうえ織田方の軍勢は打ち続いた
合戦で人馬も大半が疲れたため「この城はまた攻めるとする」と城の近辺に獅子垣を結い回し、鳥居・本口・
百々屋敷に向かい城を取って丹羽五郎左衛門(長秀)に守らせ、北方の尾末山に市橋九郎左衛門(長利)、

南方の佐渡山には水野下野守(信元)、西の彦根山には河尻与兵衛(秀隆)などと定め佐和山を押さえさせて
信長は入洛なさり、義昭将軍に謁して姉川の戦い勝利のことを告げられ、7月8日に岐阜城へ帰られた。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞・織田真記)』


おそらくこれが信長であった

2018年11月22日 18:14

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/21(水) 20:25:38.67 ID:ucCeN/Yq
明智日向守が本能寺に押し寄せ、その軍勢が織田信長の御座所まで入った時、日向守の家臣である
天野源右衛門、鑓を持って縁へ上がると、鴨居に兜を当てて尻餅をついた。そこに森乱丸が鑓で源右衛門の
外腿を突いた。その後乱丸は内へ入ったが、源右衛門立ち上がり、障子越しに人影を見てこれを突いた。
おそらくこれが信長であったのだという。

(武功雑記)



460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/21(水) 22:08:46.32 ID:sPYXC3wR
確かこの人はこの後に森長可の部下になるんだよな
そして信長と同じ日に死んだ

名門貴族の人々はよくよく心得なさるべきことではないか

2018年11月21日 16:43

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/20(火) 19:32:26.29 ID:nigKKgzI
・佐々木六角左京太夫入道承禎とその子・弾正少弼義弼(義治)は観音寺城にあって箕作城へ敵が押し寄せれば
後詰して救おうとかねてより思い設けていたが、美濃三人衆がその道筋を取り切ったのでどうすればよいかと心
を苦しめた。そこへ箕作城は落城して和田山城も開け退いたと聞こえ、今や防戦の頼みもなく興ざめていた折に

織田家の大軍が勝ちに乗じて観音寺城に押し寄せると聞こえて承禎父子は大いに狼狽し、ついに堪りかねて城を
落ち失せ、甲賀の山中に逃げ入ったのである。入道父子が落ち失せたと聞けば、承禎がかねてより設けて置いた
国中の城々18ヶ所は一夜のうちに尽く落去した。織田殿の武威は破竹の如く、1日の間に近江を切り靡き

13日に観音寺城に入り給えば、国中の輩は皆々が降参して人質を献上し、柴田修理亮(勝家)・森三左衛門
(可成)・坂井右近(政尚)・蜂屋兵庫頭(頼隆)などへ命じられ、功を賞し罪を罰し、国法を沙汰された。

・さてさてこの度、佐々木六角承禎が大軍を有し数多の城々堅固に備え、国は富んで兵は強くありながら僅かに
一両日も支えられずたちまち没落したことは代々将軍家に不臣の乱逆挙動をした天罰ではないかと世上の評する
ところである。その故は常徳院義尚将軍の時にあたって大膳太夫高頼の子・弾正少弼定頼は武命を蔑如し上洛も

なさず、そのうえ将軍家近付きの御家来たちの領地を侵略した。常徳院は御憤りあって、長享元年(1487)
9月、近江鈎の里まで御動座されて3年まで攻め給えば、定頼は叶い難く甲賀の山中へ逃げ隠れた。明応元年
(1492)8月、恵林院義稙将軍が常徳院殿の御志を継がれて再度近江へ御動座された時もまた甲賀山中へ

逃げ入って頭をも差し出さず。永正5年(1508)6月、恵林院殿が周防国山口より大内義興を供奉し御上洛
された時には、定頼は細川左馬頭政賢・三好奇雲斎(之長)などと一味して京都へと攻め上り、これを阻まんと
するが打ち負け近江へ引き返した。光源院義輝将軍が北白川に城郭を構えておわした時は、今の承禎入道が大軍
を引き連れ京都へ乱入し、光源院殿を追い出し奉った。天文16年(1547)7月のことである。

また永禄8年(1565)に三好・松永が乱逆を振舞った時も内々承禎はその与党であったので、義昭が矢島に
おわして、しばしば御頼みあっても表では了承しながら内々では三好・松永と謀を通じて義昭を亡きものにせん
とし、今度の義昭上洛の道をも遮り留めようとした。

このように代々不忠不臣を振舞ったので数代の名家が一朝に失われたのも天命の然らしむる所とぞ知られける。

(原注:案ずるに足利殿は有力の人を頼んで怨敵を滅ぼして後に、またその功ある者を嫌って他人を頼み、その
功臣を滅ぼすことをもって代々の家風とされ、その旧轍を改めず。義昭は信長の功を忌み嫌われて朝倉・武田・
北条などを頼んで信長を滅ぼさんとしてついに天下を失うに至る。佐々木六角は攻められれば甲賀の山奥へと

逃げ入って、敵が去る時には首を差し伸ばして自国へ立ち帰るのを万古不易の謀計と代々思っていたのである。
よって今度も甲賀へ逃げ入ったが、時代は変じてその誼もまた異なり、ついに再び旧轍を踏むことはできずに
長くその家を失ってしまった。琴柱に膠して旧弊に因循し、改革の時を失う類は古今少なからず。

名門貴族の人々はよくよく心得なさるべきことではないか)

――『改正三河後風土記』


大将は何処におわしますぞ

2018年11月19日 11:21

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/19(月) 02:57:32.31 ID:CTrXDgYx
(姉川の戦いの時)

遠藤喜右衛門(直経)は昨夜浅井長政の前で軍議があった時、「某は味方が万一敗軍と見れば敵軍に
紛れ入り、信長と引き組んで討ち取るべし!」と申したが、果たしてその言葉の如く首1級を携えて、

「この首を実検に入れたいと思うなり。大将は何処におわしますぞ」と言いながら信長の本陣近くに
進んで来たのを竹中久作(重矩。半兵衛の弟)が見咎めて引き組み、遠藤を切って首を取った。

遠藤の郎等・富田才八、その他に弓削次郎左衛門・今井掃部助も引き返して討死した。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』



454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/19(月) 19:26:00.30 ID:VZBn70rG
>>452
神風特攻…

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/20(火) 00:25:20.12 ID:IhX79kpM
そこまで追い込まれてたんだね

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/21(水) 03:32:06.45 ID:t6PeB9XF
姉川って互いに3倍以上多いほうが崩されてるのが面白い

6月28日姉川合戦・徳川勢

2018年11月15日 12:10

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 01:25:00.65 ID:AH/VRodr
(姉川の戦いの時)

28日の暁に信長が敵陣の様子を見られると、浅井勢は8千ほどが野村に備えて東にあり、朝倉勢1万5千ほどが
三田村に備え西にあって姉川を境に陣を取っていた。信長は徳川殿に使者を立て「昨夜軍議を定めたが、我が恨み
は浅井にあるので私が浅井を討つ。徳川殿は朝倉に向かわれよ」と申し送った。酒井左衛門尉(忠次)がこれを

聞いて「味方はすでに浅井に差し向かっています。今にわかに陣備を立て替えようとすれば隊伍は乱れましょう」
と申せば、神君は「浅井は小勢、朝倉は大勢だ。大勢の方へ向かうは勇士の本意である。とにかく織田殿の仰せに
任せる」と御返答されてその使者を返し、にわかに軍列を立て直し西北に向かい直された。

(原注:『柏崎物語』によると南は横山、東は伊吹山と草野山の間より姉川は流れ出る。堤26丁程の高岸なり)

(中略)

徳川勢先手が弓鉄砲を放ち掛けるのを見て越前勢大将・朝倉孫三郎(景健)が「この手の敵はわずかな小勢なり!
打てばたちまち破れるぞ!」と命じれば、平泉寺の衆徒は心得たと徳川勢に切り掛かり、姉川を追いつ返しつ戦う。
折しも6月28日の極暑であり、馬汗や人汗は流水に異ならず。浅井方では磯野丹波守(員昌)がこれを見て、

「越前勢は早くも槍を入れたるぞ!」と呼ばわり、西南に向かって千5百の勢を押し出した。越前勢大将の朝倉
孫三郎が味方を離れて百騎ほどで平泉寺の僧らが力戦する横合から切り掛かり、徳川勢を追い払わんとするのを
見て、御本陣より本多平八郎(忠勝)が急いで馬を馳せて、雷の如く駆け来たるとこの敵を突き破った。

大久保兄弟(忠世・忠佐)と安藤彦四郎直次も同じく馬で馳せ来たりて奮戦する。朝倉孫三郎も激しく命じ諸軍を
進めて敵を川の向こうへ追い立てようとした。石川伯耆守(数正)は姉川の中ほどで返し合わせ、大塚甚三郎は敵
の槍を引き合ったが、ついにその槍を奪い取って敵を突き伏せ首を取った。この功により“又内”という名を賜る。

内藤正成の子・甚一郎正興(正貞)は槍を敵中に落としたので馬を乗り戻し、その槍を取って帰って来た。この時、
朝倉後陣の勢と浅井勢とがひとつになって進む。神君は御覧になって「これでは織田方は利を失うと見える。旗本
より敵の備を崩し掛かれ!」と御命じになり、本多平八郎は「畏まり候」と槍を引っさげ朝倉の1万余騎の中へ

喚いて掛かる。本多豊後守(広孝)を始めとして徳川勢は「平八討たすな!」と一同に3千ほどが突いて掛かった。
松井左近(松平康親)は左手を鞍の前輪に射付けられながら、その矢を抜いて敵を射倒した。松平甚太郎(家忠。
東条松平家)16歳は良く戦った。朝倉方は魚住龍門寺(左衛門尉)ら8千余騎が御本陣を目掛け突いて掛かると

大久保忠勝の子・新八郎広忠(康忠)を始め大久保党やその他に小栗又一(忠政)・服部一郎右衛門などがこれを
迎え打ち高名す。その中でも大久保権十郎忠直は敵の槍を奪ってその敵を突き伏せ首を取った。よって“荒之助”
という名を賜る。この時、神君の御下知あって、榊原小平太(康政)・本多豊後守に「敵の横を打つべし!」と

命じられた。小平太が左右を顧みると前方に水田あり。底は砂石で渡れるので、小平太が馬を乗り入れたのを見て、
豊後守とその子・彦次郎康重や渡辺半蔵(守綱)・本多三弥(正重)・水野太郎作(正重)も進み突戦す。小笠原
与八郎(信興)も進み戦えば、その手の者の渡辺金太夫・門奈左近右衛門・吉原又兵衛・伊達与兵衛・

中山是非之助など(姉川七本槍)も勇を振るう。越前勢はついに敗北して小林瑞周軒・黒坂備中守(景久)・前波
新八郎・同新太郎・魚住龍門寺などといった主だった輩が討死した。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


江州の滑者共さこそあらめ

2018年11月14日 19:13

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 06:37:54.35 ID:Kme0DLVB
永禄11年(1568)9月7日、足利義昭上洛のため六角承禎父子を討伐するべく織田信長は大軍を
催して近江へ出陣され、同8日、平尾村で人馬を休められる。11日には愛知川に着陣し、その近辺を

放火なされた。さて敵地に入ってみれば佐々木六角父子の設けた砦が数ヶ所あったが、織田殿は「諸塁
には目もくれてはならぬ。箕作・和田山両城を攻めよ」と手分けを定め、その後に宿老どもを召し集め

箕作城を攻める手立ては如何するかと評議された。坂井右近政尚が進み出て申すには「箕作と和田山の
間はさほど遠くはありません。敵もきっと互いに図り合って助ける手立てがあることでしょう。

幸いなことに、浅井備前守(長政)は味方であります。まずは和田山を浅井に押さえさせてしかるべき
でしょう」とのことで、織田殿も「もっとである。浅井はこの国の住人にして案内者であるから浅井に

箕作と和田山の間に陣を張らせて、和田山城を押さえさせよう」と仰せになり、佐々内蔵助(成政)と
福富平右衛門(秀勝)両人を浅井方へ遣わしてその旨を命じられると、浅井は「某父子はともに箕作

に向かい戦功を励みます。いかに織田殿の仰せであるとはいえ『和田山城の押さえをして手を虚しくし、
人の戦いを見物ばかりして日を暮らします』と申すことはできませぬ」と返答した。両使が帰って

その旨申せば、織田殿は重ねて両人を使者とされて、「浅井父子はそれならば急ぎ箕作城に攻め掛かる
ように」と仰せ遣わされた。浅井は承り「織田殿の御勢が攻め掛かる時は、某も引き続いて攻め掛かり

ます」と返答した。両使は立ち帰って来ると「近江第一の猛将と聞こえる浅井父子ですが、返答の鈍さ
からは近江侍の武勇の程が思い知られます」と申した。織田殿もこれを聞き給い、

「近江の浮かれ者どもはそんなものだろうよ」(江州の滑者共さこそあらめ)と打ち笑いなさり「それ
ならば我が手の者どもにこの押さえを命じる」と、美濃の三人衆といわれる氏家常陸介

(直元入道卜全)・稲葉伊予守(良通入道一鉄)・伊賀伊賀守(安藤守就)に、和田山の押さえを命じ
られ、また「箕作城の形勢を見て来い」と柴田修理亮(勝家)・森三左衛門(可成)・坂井右近の3人
に扈従・馬廻の侍5百余騎を添えて遣わされた。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』



441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 12:42:34.27 ID:bQ2xyhE3
姉川で備を突き崩されたのはこの時の近江弱兵の先入観が出来てしまったからだろうか

早くも軍伍を定めたぞ。心安く思い候へ

2018年11月14日 19:12

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 06:39:43.95 ID:Kme0DLVB
箕作城の物見に出た森三左衛門尉・坂井右近将監は敵方の足軽と交戦し、敵80余を討ち取る。かくて
信長卿が仰るには「首途は良し。魁の勢は尽く愛知川表へ引き取り、観音寺に向かって鶴翼に陣を取れ」

と柴田に仰せ付けられ、各々主だった人々を召されて「なんといっても、出征の印が無くては叶うまい。
箕作城を攻めようと思うがどうだ。皆々計らい申すべし」と仰せになれば、坂井右近将監が進み出て、

「箕作と観音寺の間は少しばかりの距離の様に見えます。佐々木父子は目の前にいるというのに、なぜ
これを捨て置くべきでしょう。まずは観音寺を押さえる御手立てこそしかるべきです」と申せば、

信長卿は「幸いにも浅井備前守にとって近江は自国である。さぞ案内を知っていよう。『かの両城の間
に割り入って押さえられ、箕作城を攻められよ』と使者を遣わしてはどうか」と仰せになり、各々は

「もっともです」と申した。そこで佐々内蔵助・福富平左衛門尉が参り、「浅井方にこの事を申せ」と
命じられ、両人は急ぎ馳せ向かってその旨を申せば、浅井も家老の者どもを召し寄せて評定したのだが、

どうしたことか御返事を申しかねる様子のため、両人はやがて心を定めて「これはどうにもならないな
(罷成候まじ)」と馳せ帰ってその旨申し上げると、信長卿もさぞ不快に思し召されたろうが、今回は
浅井と初めての御見参でもあるし、特に君臣の睦みも未だ物慣れていないので打ち笑いなされて、

「それならば我が勢をもって両城の間へ割り入らせて、承禎父子を押さえさせよう。備前守には箕作を
攻めさせよ」と重ねて両人を遣わされた。ここで信長卿はのたまって、「かの大変のろまな浅井の所存

ならば同城どちらにせよ矢は受けるだろう。(彼大ぬる者の浅井が所存にては、両城何れも矢はうけ候
べし)その上で尽くして早く早く評議せよ」と仰せになり「ただいま攻められなされ」と申す者もあり、

「いやいや夜に入ってから攻められてしかるべきでは」と申す者もあり。信長卿は内々夜に入って攻め
ようと思し召していたのか、「日中に攻めれば城中の兵どもの多くは漏らさないだろうが、坂井の申す

通りと同じく思う。皆々支度を致し、夜に入ったら攻めるべし」と軍中へ触れさせ給う。そこへ佐々・
福富が馳せ帰り「なかなか(浅井は)申し上げるまでもなし! 美濃・尾張の者の他には、勇猛の者は

おりませぬ!」と怒って申す他もなかった。信長卿はかえって両人の気分を労わろうと思われたのか、
「私もまたそう察して早くも軍伍を定めたぞ。心安く思い候へ」と、御心良さげに仰せになった。

――『甫庵信長記』



442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 14:51:12.18 ID:p3uXClc3
>>440
最後に怒ってる部下をいたわるのが良いなぁw

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 04:05:32.41 ID:fNoTZAMW
ボロカス言ってるけど地理的には浅井は重要な味方だからな
今後も度々使者に立つであろう両人の機嫌が良くないと
以後のやり取りで思わぬトラブルを産む事にもなりかねないし
信長一流の細かい気遣いという事か

そんな秀吉の元同僚

2018年11月13日 21:16

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 00:32:10.68 ID:ZVjC4cpg
日下部兵右衛門は、元は尾張の織田信長の家臣であったが、秀吉が未だ藤吉郎と称していた頃、
信長の命により、二人は堤の奉行をした。この時秀吉は褒美に預かったが、日下部には褒美がなく、
そのため信長の元を立ち退いて徳川家康に仕えた。

彼は関ヶ原の戦いの後、山城国伏見に在番した。この在番の間、常に下々に三度の食を食わせ、
自分の馬に鞍を置き、わらんず(草鞋)を傍に置いて、下々の者たちには身ごしらえを致させた。

彼は普段からこう言っていた
「もし不慮のことあれば、一番に城の大手に乗り出して討ち死にを遂げ、武士の職分を守り、
潔く死を善道に守ること以外は必要ない。」
自身も常に、そのように行動していたという。
(士談)

そんな秀吉の元同僚のお話



510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 00:01:48.69 ID:kj0e+PB+
>>506
かっての同僚が天下人となり
その天下人が築いた城の在番として生涯を終えるってのは、なかなか数奇なめぐり合わせだね

春の花に秋の紅葉を混ぜ合わせた様

2018年11月13日 21:16

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 15:04:49.28 ID:L+t9VgNU
織田上総介信長はこの度足利義昭を守護して近江より切り上り、三好・松永などの逆徒を誅伐して足利家
再興の功を成就し、中国へ旗を立て将軍家を堅く抱えて四海を令すれば、斉の桓公や晋の文公のような

覇業も瞬息のうちに定まるであろうと喜び勇み、その旨早く近国へ触れ渡されると美濃・尾張・伊勢3国
は言うまでもなく近国の諸軍勢は我劣らじと、美濃岐阜城下へ馳せ集まる者は雲霞の如し。

信長は近江一円の地図をもって軍議を凝らして、永禄11年(1568)9月7日、5ヶ国の大軍を引き
連れて早く出陣すべしと、まずは義昭の旅館・立政寺に参上して細川藤孝をもって申し上げられ、

「5ヶ国の大軍は早くも参着しました。よって速やかに上洛を急ぐべきといえど、近江の佐々木六角承禎
父子は内々に三好・松永などの逆徒と志を通じ、伊勢国司・北畠の加勢を受けてこの度の主君御上洛の

御道を遮らんとすると聞きます。まず承禎父子を誅し、彼らの首を刎ねて軍神を祭り、その後に御迎えを
奉りましょう」と御伝えすると、義昭も対面されて世にも嬉し気に「当家再興の事をひとえに頼み参らす」
と礼を厚くへりくだって仰せになれば、信長も「畏まり候」と返答なさって退出された。

(中略)

都合4万余騎と聞こえる織田勢は先陣がすでに近江平尾辺りに至るも、後陣は未だ美濃垂井・赤坂辺りで
遮られるほどの数だった。信長は先祖・平相国清盛より相伝の蝶1羽を染め出した赤旗と、この度義昭

より賜った桐紋・二引両紋の旗、斯波武衛家より伝えられた瓜紋の旗、また織田殿の馬前には黄絹1幅に
永楽通宝の銭を墨で描いた1流の旗、また妙法蓮華経と題目を書いた馬印9本を立てて、この日は

平尾村に着陣された。8日には近江南宮山に滞留されて人馬の息を休めなさった。茫々たる平原に色々な
旌旗が翻っている有様は、春の花に秋の紅葉を混ぜ合わせた様に異ならず。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 22:42:11.03 ID:E/F+EuE0
桓公に文公とはまるで漢書のような

伊予の身において誉れとすべし

2018年11月11日 16:24

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 03:32:25.39 ID:KKOyQnSl
(姉川の戦いの直前)

終夜火を焚く敵方を見た織田信長は龍ヶ鼻本陣への敵襲を悟り味方の備定めをされた。毛利新助(良勝)を神君御陣
へ使者に遣わし「明日の合戦で信長は越前勢に向かう。徳川殿は浅井に向かいなされ。しかしながら、御勢は多くは

ないので、誰でも加勢を申し付けよう」との口上をした。神君は聞かれ「私がここに来た以上は水をも火をも避ける
わけにはいきません。朝倉・浅井のどちらでも受け取り申しましょう。しかし左様な打ち込みの合戦はまったく本意

ではありません。強敵と覚える一方を受け取り勝負を決します。浅井の8千を我が3千で戦うことは、人数において
不足なし。されども加勢を添えて下さるならば稲葉伊予(良通入道一鉄)を差し遣して下さい」との御返答であった。

新助は帰り、信長はこれを聞かれて「徳川殿は伊予に将略があるのを知られて加勢に望まれた。この事は伊予の身に
おいて誉れとすべし」と仰せられ、伊予守に加勢を命じられ、重ねて織田勢を13段に定められた。1番は坂井右近

(政尚)、2番は池田勝三郎(恒興)、3番は木下藤吉郎(秀吉)、4番は柴田修理亮(勝家)、5番は明智十兵衛
(光秀)、その他に中条将監(家忠)・簗田出羽守(広正)などを堂々整々として備え、また丹羽五郎左衛門長秀・

氏家常陸介卜全・伊賀伊賀守範秀(安藤守就)などは横山城の押手と定められた。徳川勢は酒井左衛門尉(忠次)と
石川伯耆守(数正)を先手になされ、松平甚太郎家忠・松井左近(松平康親)・大須賀五郎左衛門(康高)・高天神

の小笠原与八郎(信興)など総じて2千余騎を2陣となされ、中軍の御大将左右に榊原小平太(康政)・本多豊後守
(広孝)が備え、稲葉伊予守を後軍として都合6千余騎なり。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


信長は手早き大将なので

2018年11月10日 16:44

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 17:20:01.51 ID:WhLjlONa
(姉川の戦いの直前)

織田信長は龍ヶ鼻に本陣を張り、総軍は横山城を取り囲んで攻めること急なり。城中には三田村・大野木・野村・
高坂、その他宗徒の者どもが少しも弛まず防戦するが寄手は大軍のために叶い難く、頻りに小谷へ加勢を乞うた。

浅井長政は小勢ながら捨て置き難く、8千余騎で小谷より出勢して大寄山まで着陣した。その時、越前よりも加勢
に朝倉孫三郎景健の1万余騎が26日に近江へ着陣する。神君は23日に近江坂田郡に御着きになり、24日に

信長の龍ヶ鼻の陣所へ御越しになって御対面された。浅井方では越前の加勢が来ることに力を得て「明日必ず一戦
すべし!」と評議した。長政の計策は「信長本陣の龍ヶ鼻まで50町あるので、ただちに攻め掛かれば人馬は

疲れてしまうだろう。今夜野村・三田村へ陣を移して、明日の夜明けに信長本陣へ切り入らん!」とのことだった。
浅井の家人・浅井半助はこれに「信長は手早き大将なので、野村・三田村までの陣替は覚束なく思われます。

今少し軍勢の様子を御覧になるべきでは」と申した。一方で遠藤喜右衛門(直経)は「長政の御謀はもっともなり。
是非一戦で勝負を決しなさいませ。私は敵中に紛れ入って、信長と引き組み討ち果たしましょう!」と申した。

長政は大いに喜び、27日の深夜に越前勢は三田村へ帰り、浅井勢は主計村・野村に移る。果たして半助の言葉に
違わず信長は「敵方が終夜火を焚くのは朝に合戦を心掛けているものと見た」と味方の備定めをされた。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』



498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 03:43:41.72 ID:fcfYanbe
織豊期って成り上がりで大名になったのがたんまり出てきたから
それ以前や以後と比べてパワハラアルハラが多そう
その分自分が間違ってたと思えば素直に悪かったといえる
ある意味で君臣間の距離が近しい空気もあるけど

この王子、他の信長の子息達よりも、その父に似ている故

2018年11月09日 09:36

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 00:02:05.85 ID:of0Wpt0o
この王子(織田信雄)をもしキリスト教に帰依することが出来れば、大いなる収穫を得ること疑いない。
彼は意思甚だ強く、他の信長の子息達よりも、その父に似ている故である。

彼は諸人に対して甚だ親切なのだが、もし命令に背くものが有れば直ぐにこれを罰する。故にその家臣の
行儀正しく丁寧なることは驚くほどである。

先ごろ、彼は兵士たちに与える物がなく、一方で、一人の殿が余るほどの収入を有するのを見て、彼はその殿から
六千俵を奪ってこれを兵士に与えた。

この事件の後、信長は信雄を招き、何故そんな事をしたのかと尋ねると、

「私は父上の子の中で最も貧しく、兵士たちに与える物を持っていません。そのためあの殿より、有り余るものを
少し取ったのです。」と答えた。

信長は彼を責め、「奪ったものを返すように。」と言ったが、信雄はそれを理解した様子を見せなかったので。
信長は怒って小さな枕を彼に投げつけ、その殿の財産に対する彼の侵害を責めたのだが、それ以上は何も
出来なかったため、この殿に対し
「この上は武力を以て奪うべし。」
と言い、実際に対陣させた。

この殿は1万人、又は一万五千の軍勢を集め、一方の信雄は七百人ばかりであった。しかし信雄は
「何人も動くべからず」と命じ、一人で馬を馳せてその殿の陣中に乗り込み、諸方に乗り廻して混乱させたが、
殿の陣中では、彼が信長の子であるため誰一人これに触ることも出来ず、殿は隠れ、これを聞いた信雄は
「これを捜すのは時間を損ずるに過ぎない」と、闘いを中止した。

(一五七八年一月十四日(天正五年十二月七日)附、都發、パードレ・ジヨアン・フランシスコ書翰)

正直ひでえ話だな。



420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 02:09:06.89 ID:4LmF8tH6
相手は四十万石くらいの人だったのかな

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 07:39:04.23 ID:JEmsZ9R9
再評価せねばならぬ武勇伝だね

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 09:28:31.32 ID:ow9Yza7j
三介殿のなさる事だからしょうがない

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 09:54:57.62 ID:tNMLWG7s
>>421
斜め上に

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 18:43:03.92 ID:DZoKZpxX
>>419
何でそうなるんだ…としか思えない行動回路だ

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 20:18:27.35 ID:Py2/VUOM
確かに事実とは思いがたい

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 21:08:40.86 ID:xhuQeHXe
>>419
頭鳩山かな?

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 22:13:01.97 ID:0+fdcXJE
本多正純「一人の殿とは一体誰のことなんです?」

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 11:07:22.55 ID:DMxEB0Op
神君だろ

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 16:39:27.63 ID:9TutT64G
>>429
それは正純じゃなくても気になる

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 20:14:27.23 ID:Rb9DE5g9
収益のために頑張ったら主君のドラ息子に理不尽に収奪されるわ
気難しい主君がせっかく説教してくれたのに息子の物分りが悪いせいで
匙を投げられて合戦もどきまでさせられた挙句
アホでも主の息子だから手を挙げられないで居たら散々暴れられるとか
この殿にしてみれば降って湧いた災難すぎる…

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 15:18:40.73 ID:2rFScKgH
>>419
もしこのドラ息子の話が本当ならそんな役回りは光秀か村重かな
1年後に村重は謀反を起こしているし

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 17:16:11.36 ID:6IaFLY1o
本願寺に横流しする手筈だった兵糧を・・・
ぐぬぬ

三田村の後殿

2018年11月09日 09:34

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 02:54:07.70 ID:y13JWHDr
(姉川の戦いの直前)

織田弾正忠信長は浅井父子が朝倉に一味して前約を変じたのを深く恨み憤り「ならばまず朝倉を捨て置いて浅井を
誅すべし!」と、その5月21日、毛利新助秀詮(良勝)を使者として、援兵を徳川家へ請われた。神君は少しも
御辞退なく御了承になられて早々に軍勢を催促なされたところ、まず3千余騎が援兵となったという。

(中略)

6月17日、信長は数万の大軍を引き連れて岐阜城を発向され、近江へと向かわれた。これより先に近江では浅井
父子がかねてよりこの事を心得て防戦の用意をし、南郡苅安・長比両城を構えて越前の勢を分けて籠め置き、

鎌刃城には堀次郎(秀村)と後見に樋口三郎兵衛(直房)と多羅尾右近を籠め置き、本江の要害には黒田長兵衛を、
横山城には大野木土佐守・三田村左衛門・野村肥後守・同兵庫頭を籠め置いた。浅井父子は小谷城にあって色々と

手配りし織田勢が寄せ来るのを遅しと待ち受けた。江北は要害堅固で急に攻め入るのは難しく、信長は出陣以前に
木下藤吉郎秀吉に内意を含め、竹中半兵衛重治に内々樋口と語らわせた。重治は樋口と数年来の知音なので樋口の

方へ赴き、理を尽くして誠を現し諸々語らうと、ついに樋口も得心し同列の多羅尾に相談して信長方に一味した。
この城が織田方へ降参したと聞いて苅安・長比両城に籠っている越前勢も浅井には一言の伝えもなく3千余騎は皆

越前へ逃げ失せた。信長はこれを聞いて近江へ攻め入り18日に坂田郡柿田村の西山に陣を張り、19日に横山城
を巡見された。この城の押さえとして水野下野守信元・織田上総介信包・丹羽五郎左衛門長秀ならびに堀次郎の勢

を残し置かれ、信長は坂井右近(政尚)・森三左衛門(可成)を両先手とし数万の軍兵を引き連れて小谷の向かい
虎御前山に備えて雲雀山の方より森・坂井、尊勝寺の方より柴田・内藤らが攻め入って小谷の町中を所々放火した。

この時、浅井備前守長政は「城より打って出て一戦せん!」とはやったが、「城兵は小勢で信長の大軍には当たり
難し。越前の加勢を待ちなされ」と、家老どもが諫めて出陣せず。よって織田勢は西は馬上、東は小室・瓜生まで

焼き立て、その夜は矢島に野陣して明朝には早々に龍ヶ鼻へ本陣を引き横山表へ向かわんとした。長政はその機を
察して「明朝に打って出て信長の退口を追討せん!」と申したが、この時も父・下野守久政も家老どもも、

「とにかく越前の加勢を待って合戦すべし」と申して長政の申すところを用いず。しかし長政の家人の若者どもは
あまりに無念に思って2百騎ほどが打って出ると、織田勢の佐々内蔵助(成政)・中条将監(家忠)の陣に弓鉄砲

を撃ち掛けて多くの敵を討ち取ったのである。織田方でも佐々・中条ならびに簗田左衛門次郎(広正)が奮戦し、
柴田勝家も味方を救って引き取らせた。これを“三田村の後殿”といい、当時美談とした。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


手ひどき合戦には不合と見へたり

2018年11月08日 18:23

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 17:41:29.66 ID:Y2HvOdmo
ある時、織田信長の前に武者修行をしているという武功の者がまみえた。
彼は冑に白熊の引き回しを付けて、冑立てに立てさせ、後ろに持たせて出た。

信長はこれを見て「彼はいままで手ひどい合戦には出会わなかったらしい。気に入らない。」
(彼はつひに手ひどき合戦には不合と見へたり。心にくからず。)
と言った。

これは白熊の引き回しなどと言うものは、それを損ねずに戦をするなどありえないためだという。

(士談)

関連
白熊の引きまわしなどでは、



415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 18:07:11.78 ID:/DFHlKKj
おお。読んだことあると思ったら違うソースだった
いい悪いブログ10501 (まとめサイトのURL貼るとエラー出る)

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 20:17:44.62 ID:1gkzLAvN
>>414
信長公へのお目通りという事で気合入れて新調しただけかも知れないのに…
まぁ、何となく信長ってこういうの嫌いそうなのも判る
でも傷だらけの甲冑で来たらそれはそれで主張がワザとくさくて信用ならないとかも言いそう

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 20:34:15.44 ID:0WodYPFi
白熊ってホッキョクグマじゃなくてヤクのことなんだな

御父 織田弾正忠殿

2018年11月07日 19:38

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/07(水) 04:36:39.32 ID:yJTjxHUj
足利義昭将軍宣下の時)

信長が帰国の暇を申し上げられると、義昭は不日に逆徒を退治し将軍家を再興した御感激のあまりに3通の
御内書を賜った。そのうち一通は信長を左兵衛督にと仰せ出されたものだったが信長はこれも辞退された。

その他には、

 今度国々の凶徒らを日を経ず時を移さずして退治せしめたのは武勇天下第一なり。当家再興の大忠として
 これ以上のものはない。ますます国家の安治をひとえに頼み入り候。この他に頼み入る他事はなし。なお
 子細は藤孝(細川藤孝)と惟政(和田惟政)が申すものである。

  永禄11年10月24日 判

    御父 織田弾正忠殿

また1通には、

 今度の大忠により桐紋と引両筋の紋を遣わし候。武功の力を受けることだろう。祝儀である。

  永禄11年10月24日 判

    御父 織田弾正忠殿

信長は大いに面目を施され、ただちに暇を賜り25日に京を発って、28日に美濃岐阜城へ帰陣され諸軍勢
に銘々賞禄を施して帰国せしめられた。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』


あの兄弟の働きは良き膏薬

2018年10月31日 19:10

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 03:54:41.31 ID:CQKUgdKl
(長篠の戦いの時)

5月21日、武田四郎勝頼は夜中より軍勢を追々繰り出した。また曙に備を立てて一備ごとに分かれて攻め
掛かる様子なので、織田・徳川両将はかねて仰せ合わされたように「軍勢は柵外に出てはならない」と堅く

制し、鉄砲3千挺ずつ用意して待ち設けた。信長卿は「今日敵を練雲雀の如くせんものぞ!」と仰せになる。
その頃、徳川御陣では大久保治右衛門(忠佐)が兄・七郎右衛門(忠世)に向かい「今日の戦で当手は本主、

織田勢は加勢である。万一織田衆に戦を始められてはこれ以上の恥辱はありません! 某が進んで足軽戦を
始め候べし! 鉄砲の歩卒を添えてください!」と言うのを、神君(徳川家康)は聞かれ「もっともである」

との仰せにより柴田七九郎康忠・森川金右衛門氏俊・江原孫三郎利金・日下部兵右衛門定好・成瀬吉右衛門
正一らの属兵を大久保兄弟に差し添えて先頭に進められた。成瀬は徳川の御家来であったが、

一度子細あって甲斐へ立ち越し、この年頃武田家に仕えたが、今回御内意あって帰参した。それゆえ武田家
の侍大将どもの旗指物をよく覚えているからと先手に加えられたという。

(中略。大久保兄弟は先陣を切って山県昌景勢と戦い活躍)

今日の大久保忠世・忠佐兄弟の戦場での働きを信長卿は御覧になって、「徳川家の中で金の揚羽蝶と浅黄に
黒餅の指物をしているのは、何と申す男か」と問われ、神君は大久保兄弟と御答えし、信長卿は「徳川殿は
良き人を御持ちだ。あの兄弟の働きは良き膏薬のようだ。敵に付いて離れない」と仰せられた。

(中略)

かれこれする間に神君は岐阜におられた。信長卿は今回の加勢を感謝されて神君を厚く饗応なさり、御供の
人々へも若干の被け物を賜われたが、信長卿は「長篠で見た髭は来ているか」と問われた。その時、大久保

治右衛門が進み出て「兄の七郎右衛門は供に参ってはおりません」と申せば、信長卿は「汝の兄弟は今回の
功抜群なり」と仰り、御自身の手で衣服を取って授けられた。大久保は大いに面目を施され、神君も殊更に
喜びなさって浜松へと帰られた。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談・三河物語・
   神君御年譜)』

417 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/31(水) 06:53:32.42 ID:zbk28BfY
流石は大久保、真田に付いて離れない。

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 14:02:12.81 ID:hpbAKV9H
>>416
>金の揚羽蝶と浅黄に黒餅
どういう組み合わせだw

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 17:03:16.97 ID:VrOWLq6S
こう、殿様が家臣などを褒めて色んなものを賜るというのがお話でよく出てくるけど
頂いた衣服や刀などなどって飾っておくもの?
馬とかの場合飾る訳にもいかないだろうから、乗ったり使うのが普通なのかな。

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 19:07:11.87 ID:Df67X3vF
>>418
黒餅ってお餅じゃなくこういう黒の円の事だぞw
https://i.imgur.com/zAouSP3.jpg
zAouSP3.jpg

426 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/11/01(木) 10:30:04.24 ID:kmp/q02H
黒丸って言えばいいのに黒餅に見えたなんてよっぽどお腹空いていたんだな
もしかしたら本当に餅をぶら下げていたかもしれん
返り血を浴びて黒くなっていったんだろうな

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 11:33:31.48 ID:KZhZzpkc
菓子好きだから、そっちでイメージが浮かぶんじゃないの

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 19:25:38.00 ID:VVf5sW8r
>>426
黒丸だと黒で描かれた円(蛇の目)とも取られそうだし、便宜的に餅と呼称したのでは?

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 19:31:04.15 ID:6GoIIEmA
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤堂高虎#/media/File:Site_of_T%C5%8Dd%C5%8D_Takatora_and_Ky%C5%8Dgoku_Takatomo%27s_Positions.jpg
藤堂高虎の旗印(一番右)も「三つ餅」と言われてるな
Site_of_Tōdō_Takatora_and_Kyōgoku_Takatomos_Positions

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 19:46:51.86 ID:KZhZzpkc
高虎のは餅の逸話からきてるんじゃないの?

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 23:36:57.17 ID:eJY+p62H
>>436
多分逆。旗印が三つ餅だったから出世の白餅の話が作られた。

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 08:56:26.72 ID:PhpvOcLA
もしそうなら参勤交代の時に立ち寄る風習ができた吉田の餅屋はマル得だな
あと初期の高虎の逸話を見ると食い逃げが本当でも驚かない

織田信長を模倣する

2018年10月29日 17:28

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 00:30:57.48 ID:IayTbgkZ
世子(大友義統)は政治に当たるように成ってから、ますます国内の坊主および偶像崇拝を嫌い、
生来鋭敏にして才知あるがゆえに、神仏の崇拝を嘲笑し、この事について織田信長を模倣することを希望した。
信長はこれらを破壊することによって、所領、名誉および評判はますます加わったのだ。世子はこれを
実行せんとし、本年は祖先の何者も成さざりしことに着手した。

第一には復活祭(1578年3月3日(天正6年2月22日))前に使いをパードレのもとに遣わし、彼に仕える
武士および殿中に常に侍する青年が悉くキリシタンとなることを希望し、勧告は彼自身が成すべきが故に、
当院より人を遣わして説教を成し彼等に悟らしめんことを請うた。彼等が説教を始めた後、世子は突然
戦争(土持親成征伐)に臨むことになったため、さらに良き機会までこれを延期する必要が生じた。

世子はまた、神殿および坊主の僧院の収入を没収して家臣に与えることを始めた。(中略)一昨日一人の
キリシタンが私に告げたことによれば、世子は彼を当所より40レグワ余りの肥後国に遣わし、僧院の偶像を
焼かせ、其の収入は彼の兄弟に与えた。国の大身たちはこの事の理由を世子に尋ねたが、彼はこれに
こう答えた

「坊主等は国の髄を食い贅沢なる生活を成し、労働また戦争において死する貧民および兵士を嘲笑する。
彼等がもし宗規を守り、また来世において賞罰を与え、或いは現世において幸福と富を与える神仏であるのなら
猶忍ぶであろうが、坊主の生活は偽善と悪行に満ちており、その祈祷と供物は何等の効能も無いことは
経験によって明らかである。故に彼らに対して躊躇するのは愚の極まりであると思う。

織田信長は都の地方において同一の事を行ったが、かつて神仏より罰を蒙ったこと無く、むしろ繁栄
している。この故に坊主達に勧告するは、結婚する(僧侶をやめる)か、或いは兵士となることである。」

(1578年10月16日(天正6年9月16日)付パードレ・ルイス・フロイス書簡)

すっかり信長かぶれの義統。多分これ、フロイス自身が信長のことをキリスト教的に盛りに盛って報告して
義統を煽ってたんでしょうね。