【ニュース】織田信長=「大猿」「黒鼠」 豊橋金西寺文書に辛辣な批判記述

2017年02月04日 17:37

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 16:46:58.10 ID:qH0d9C1Q
【歴史】織田信長=「大猿」「黒鼠」 豊橋金西寺文書に辛辣な批判記述、恨み辛み込め「苛政暴虐枚挙に堪えず」弾圧時の仏教界感情示す

http://www.tonichi.net/news/index.php?id=58285
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内裏の修理を完了

2017年02月03日 10:59

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 00:29:23.06 ID:sJ2XoiVV
内裏の修理を完了

内裏はいまや朽廃し、元の姿をとどめぬほどだったので、
信長は御恩に報いるため修理して差し上げようと考え、
先年(永禄12年)日乗朝山と村井貞勝を担当の奉公に任命した。
それから3年かかって紫宸殿、清涼殿、内侍所、昭陽舎、
そのほか諸々の建物などすべての工事を完了した。

さらに宮中の収入面において後々まで困ることがないようにと、
信長は思案を廻らし、京都市中の町人に米を貸付け、
毎月その利息を宮中に献上するよう命じた。
また零落した公家たちの領地と相続のことに関しても、復興のための諸施策を実施した。
天下万民の満足、これに過ぎるものはなかった。
信長の功績と名誉、および織田家の威勢は我が国において他に並ぶ者がいないものである。

また信長は領国中の関所を撤廃した。
点火の安泰を図り、往還の旅人の便を思いやる施策は、
慈悲深い信長の心から発したものであって、
このことにより神仏の加護も果報も誰にも増して恵まれ、
織田家がますます栄える基礎を築いたのである。
これもひとえに信長が
「道を学び、身を立てて、後世に名を残そう」
と望んだことだからである。めでたいことである。

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 11:43:11.27 ID:sJ2XoiVV
>>574
信長公記 巻4 元亀2年(1571)です


575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 00:40:23.32 ID:iWka4lYR
いい話だけど、その数年後に本能寺の変か・・
諸行無常、盛者必衰

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 00:51:25.94 ID:gB0AAng4
信長より父親の信秀が尾張守護代家臣の地位で内裏修繕費に4000貫寄進している事に驚く

津島支配だけでそれだけの経済力があるなら、子供の信長が上洛後、堺を支配したがるのも分かる

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 17:26:24.38 ID:iWka4lYR
>>582
本能寺の変の約10年前だったんですね
御貸米制度や内裏修理完成はもう少し後の話だと思い込んでました(汗)
ご指摘ありがとうございます

その後鶴の汁にあたり申した

2017年02月03日 10:58

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 03:42:19.15 ID:QlvkgnZx
利家様が鶴の汁を召し上がりなさったところ、すぐに御蟲にあたり(腹痛)申した。
それを契機に御物語りになられたことであるが、

信長公が安土山の御城に御成りの折、いずれの人にも御振舞を下され、鶴や色々
の珍物のうえに、信長公は御引出物を、御自身で御引きになられた。

柴田(勝家)の前で仰せになったことには、「貴殿を初めとして度々手柄を致された
ゆえ、このように天下を静めて万事成就し、満足し申しておる」とのことだった。

またその他それぞれに御言葉をかけた。さて7,8人が末座にいて利家様もおられた
のだが、信長公は御引出物をなされ申す時、

利家様は若き時は信長公の御側に御寝伏しなされ、御秘蔵であったと御戯言を
仰せになり、利家様はその頃までは大髭でおられたのだが、その髭を御手で掴み、

(利家様若き時は信長公御傍に御ねふし被成候。御秘蔵にて候と御ざれ言御意候
而、利家様其比までは大ひげにて御座候鬚を御取候而、)

「其の方が稲生合戦の時に16,7歳の頃、武蔵守(織田信勝)家中の宮井勘兵衛
という者の首を取った時、私は21歳になって初めての合戦だった。

私がその首を、『なるほど小倅ではあるが、この手柄を見よ!』と言って、馬上で
采振り致すと味方は気を得て、ただ7,8百ばかりで3,4千人の人数を押し崩した。

その如く各々が手柄を致したゆえ、このように私は天下を静めて万事成就致した」
との旨を仰せになった。「なんとまあ、かたじけなき御言葉!」と存ずるところに、

御近習衆の給仕を仕る衆までも「はてさて、冥加なる又左殿かな!」と、あやかり物
とばひやひ候(肖り物を奪ひ合ひ候?)ように給仕の者が誉めるので、

利家様は得意がりなさり、「かたじけなき御言葉!」とひたすら物を食べ過ぎ、鶴汁
を止む無く飲み過ぎて、その後鶴の汁にあたり申したと仰せになり、御笑いになった。

前述の通りを、太閤様も度々仰せられたとのことを、金森法印(長近)や羽柴下総殿
(滝川雄利)なども、利家様のもとへ御出でになられた折に御申しになられ、それを
承り書き付け申すものである。前述の御合戦の時、柴田殿は武蔵殿の衆でおられた。
色々の物語りがある。

――『亜相公御夜話』




578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 08:07:34.18 ID:iWka4lYR
信長はその話をする度に、「勝家の野郎、そのうち用済みにしたるー」と腹の中で思ってそう

それはさておき、織田家や羽柴家の雰囲気が伝わってくるちょっといい話だね

真田幸村の智謀

2017年01月18日 10:08

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 19:09:15.70 ID:qJMrCMga
真田幸村の智謀

上田籠城の時、織田、徳川、北条の三将、二十余万の大軍を以て百重千重に取り囲み、水も漏らさぬばかりに
ヒシヒシと取り詰め、哀れ上田城は粉々に踏み崩されんとしていた。
これには流石の真田昌幸も、城兵僅かにニ千余り、今は防御の術も尽き、如何にすべきかと思案し、苦慮して
いた所、倅の幸村、当年十四歳であったが、彼が『鶏卵煎り砂の謀計』を考えだした。

彼は鶏卵を二つに割り、中身を取り除いてこの中に煎り砂を入れて合わせ、水に浸した紙を割口に巻いた。
これを数万作り出し、それぞれの櫓に十籠、二十籠づつ取り備え、寄せ手を遅しと待ち構えた。

頃は天正十年三月二十五日の朝(ちなみに実際の第一次上田合戦は天正十三年閏八月である)、
織田徳川北条の軍勢はどっと鬨の声を作り押し寄せ、鉤縄打ち掛け勇みに勇んで攻め立てた。
城中よりは「時分はよし」と、件の鶏卵を合図とともに投げつけた。

兜面頬があっても、当たれば砕け、煎り砂は兵士の眼に入り、さしもの勇者たちも暗夜をたどるに
異ならぬ有様。城中よりはこれをみすまし、「時分は良きぞ」と、松本口の織田勢には真田源次郎(信之か)、
軽井沢口徳川勢には隠岐守信尹、笠ヶ城北条勢へは与三郎幸村、何れも三百余人を率いて鬨を作り
攻めかかれば、盲目に等しい寄せ手の面々は戦うことも出来ず、我も我もと敗走し、同士討ちするものも
あり、踏まれて死ぬものもあって、二十余万の大軍が、雪崩掛かって落とされたのは、たいへん見苦しい
有様であった。

この状況に信長は、如何にすべきかと思慮を巡らしたが、今だ良き工夫もつかぬ所に家康が現れ、
「鶏卵煎り砂の目潰しを防ぐためには、竹束を以て盾とし、鎧の袖を額にかざすより他、術がないでしょう」
そう献策した。
これにより夥しい竹束を用意し、またもや押し寄せた。

しかし幸村は「煎り砂に懲り果てた敵兵は、今度はこれを防ごうと竹束の盾を必ず用意してくるであろう。」
と推察しており、あらかじめ多くの投げ松明を用意していた。
果たして先手は竹束を束ね、、後ろに太い棒を取り付けた物をひっさげ、目潰しの鶏卵が今や降ってくるかと
待つ所に、城中は静まり返って音もせず、寄せ手充分に近づいた所で、一発の銃声が響くとともに、三方の
櫓より松明が投げつけられた。
すると油を注いだかのように、竹束はみるみるうちに燃え上がり、寄せ手の者達驚き騒ぎ、消そうとするも
うまく消火もできず、散々となって我先にと敗走した。

(芳譚)

何故か甲州征伐とごっちゃになっている上田合戦のお話



528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:13.13 ID:n+P9kTbE
>>527
鶏卵数万w

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:38.99 ID:/3OBSLpx
幸村が活躍するなら、そんなことはどうでもいいんじゃないの
物語なんてそんなもんでしょw

白熊の引きまわしなどでは、

2017年01月12日 08:38

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 04:42:22.31 ID:fItAvr7B
信長の御前へ武者修行を致しているという武功の者がまみえた。

冑に白熊の引きまわし(引き回し合羽)をつけて、甲立に立てて
出たのだが、公は見なさって、

「この者は手酷き合戦に、いままで合わなかったものだと見える。
白熊の引きまわしなどでは、なかなか戦の急な時には、叶わない
ものである」

と、仰せになったということである。

――『山鹿素行先生精神訓』



羽柴秀吉朱傘

2016年12月14日 16:59

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/13(火) 22:22:58.00 ID:8cn/idtk
羽柴秀吉朱傘


織田信長は中国攻のとき、羽柴秀吉を大将として行かせた。
朱傘を与えてこう言った。

「陣中にこれをささせて我がように武威を張ること、
この傘の開くようにしろ。」

秀吉はかしこまって退去し、直ちにその傘をささせて出て行った。
信長は櫓上から望み見て、

「彼に陣中で武威を示せと命じたが、早くもここから人目を輝かせた」

と喜び賞したという。


(甲子夜話)



承諾の無い以上は、力及ばず

2016年12月01日 16:13

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/01(木) 04:29:29.58 ID:tN7pLp6l
信長は9月11日(元亀2年)、勢多の山岡玉林斎(景猶)の所に
止宿しなさった。

「明日、叡山を攻め崩すべし」との旨を言うので、佐久間右衛門
(信盛)並びに、夕庵入道(武井夕庵)が達て諫言に及んだ。

信長は曰く、「去年、汝らをもって懇意の言葉を尽くしたが、承諾
の無い以上は、力及ばず」と、理を尽くして言うため、

彼らの考えは及ばず、各々は未明に出発致した。

――『当代記』



連歌その心自然に顕るる事

2016年11月30日 17:27

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 19:23:34.64 ID:OIDdaizr
連歌その心自然に顕るる事

 古い物語であろうか、または人の作り話であろうか、それは分からないが、
信長、秀吉と、恐れながら神君が御参会の時、
四月だというのにまだほととぎすの鳴き声を聞かないとのお話が出たので、

信長は 鳴ずんば殺して仕まへ時鳥 とあり
秀吉は 鳴ずとも鳴せて聞ふ時鳥  とあり
      なかぬから鳴時聞ふ時鳥  と詠まれたのは神君であったという。

 これらからその御徳によって感化される程に温順であられたり、
また残忍であったり度量が広かったりすることが自然とわかり、本性を顕している。 
 紹巴もその席にいて、

    鳴かぬなら鳴ぬのもよし郭公

と吟じたという。

(耳袋)


歴代の発句

 夜話のときある人が話したことである。
人が仮託して出た者であるが、その人の情実がよくあてはまっている。

郭公を贈ってきた人がいた。しかし鳴かなかったので、

なかぬなら殺してしまえ時鳥 織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤
なかぬなら鳴まで待よ郭公 大権現様

このあとに二首が添えてある。
これは憚る所あるうえに、もとより仮託のことであるので作家は記していない。

なかぬなら鳥屋へやれよほととぎす
なかぬなら貰て置けよほととぎす

(甲子夜話)


有名な三句に続きがあるとは知らなかった
甲子夜話の匿名の二句は、戦国三傑と対比して
当時の大名の拝金さを揶揄したものか、不甲斐なさを嘆いたものか…




359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 19:24:59.91 ID:S9zniyzk
鳴かぬなら それでいいじゃん ほととぎす 織田信成

織田信成のセンスは里村紹巴並であったか

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 09:46:10.75 ID:Buw+pmGC
ホトトギスがいつのまにかカッコウに...。

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 10:44:40.18 ID:3XLWPfr6
鳴け聞こう我が領分のホトトギス 加藤清正
なんてのもあったな

三原城石垣の紋

2016年11月21日 17:33

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 00:43:23.79 ID:UCg95lBi
三原城石垣の紋

 備後の三原城の外郭、石垣にはいろいろな紋が刻みつけてある。
升形、瓢箪、円形、短冊等である。
その故は
織田右府が毛利氏を討たれた時、豊閤がすぐにこの城を築き諸方から普請の助役があり、
その助役に出たものを区別する印であるという。
京の大仏殿前の石垣も、献備した諸大名の紋を刻んだのと同じ事だという話だ。
三原城は今芸侯の臣浅野甲斐が守っている。

〔城の中は至って広大だ、と城内へ入った者が語った。
海手の方に行くと広くなり、山の方に行くと狭くなる。
これから扇城という。
今往来の道は直接城櫓の下を通る。
ここを扇の要という。
以前船で行っており、度々海上からこの城を見たが、成る程、海手からは櫓など数多く見えた。〕
(甲子夜話)


秀吉が築いたことになってる?



信長のきてはやぶるる京小袖

2016年11月11日 11:12

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/10(木) 23:19:34.25 ID:K23paop2
摂津国高槻の城主である和田という侍。
信長公の御前で出世し出世頭となった。


信長のきてはやぶるる京小袖     わたがさしでてみられざりけり

信長から貰ったため着過ぎて破れてしまった京小袖 
綿が出てきて(和田が出しゃばって)見られないものになってしまった
                                  
(醒睡笑)





坂上頼泰の鉢植え

2016年11月07日 09:42

304 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/07(月) 07:21:03.05 ID:jnLT3IFc
天文元年(1532年)に多田院御家人衆筆頭の塩川伯耆守国満が、織田信長の台頭という時世から荒木村重について多田新田城を攻めた。
この時に山本郷(今の宝塚市周辺)も焼いて、多田院御家人だった34代山本荘司家の坂上頼泰は郷士となる。

しかし塩川国満は豊臣秀吉の九州征伐の間に挙兵して、謀反の疑いで誅されたため山本郷は豊臣家の天領となった。
秀吉が有馬温泉に湯治に行く際に山本郷に立ち寄った関係から、頼泰は秀吉の旗本になり朝鮮出兵へも参戦した。
頼泰は齢を重ねて隠居し、山本郷で農園を営みながら穏やかに過ごしていたところ、接木の技術を発明する。

ある時、天下人秀吉の元に見事な鉢植えが献上され大変気に入り、それが坂上頼泰のものと知り昔を懐かしんだ。
京や大阪での贅沢品の売買を禁止していたが、秀吉は頼泰に木接太夫の称号を与えて山本郷の植木に特別な配慮をしたという。

源満仲が摂津守に任官した際に、坂上田村麻呂七代孫の坂上頼次を摂津介にして多田院を警備させたのが山本荘司家の初代で坂上是則は従兄弟。
三代目の坂上季猛は源頼光に使えて卜部季武のモデルともされる。
仁平年間の坂上尚親の頃に平姓を賜り平尚親とし、その分家は今出川家諸大夫山本家として山本敬勝まで続く。



長篠に後詰のため出陣すべきや否や

2016年10月14日 21:15

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 21:46:35.99 ID:bYvnjc+T
織田信長は、毛利河内守秀頼、佐久間右衛門尉信盛を召して聞いた

「長篠に後詰のため出陣すべきや否や。各々、異見を申し述べよ。」

先ず、毛利秀頼が言った
「御出陣は無用です。何故ならば、味方は大軍ですが新参の集まりであり、武田方は小勢ですが、
信玄以来磨き上げた精錬の兵たちです。また長篠は切所が多く、大軍の駆け引きが自由にならない場所で、
小勢に利があり大軍に不利な地です。

今回の戦いに勝ちを得るためには、敵を広場に誘い出すよりほかありません。ですが武田には、
馬場、内藤、山縣ら武功者の老臣たちがあり、このような計略には乗ってこないでしょう。
そして実際にそのような結果になれば、我らは徒に対陣の日を重ね、その間に武田は、
瀧川あたりの切所に押さえを置いて、長篠城を攻め落としてしまうでしょう。そうなれば、
織田徳川の両旗にて、しかも敵に倍する大軍を率いて後詰しながら、目前に城兵を見殺しにし、
出来ることも出来ずおめおめと御馬を返す事となり、天下の嘲りを受けるでしょう。

無理な合戦をすれば、必ず負けるものです。」

これに対し佐久間信盛は言った
「毛利殿の申される所、至極尤もです。ですが万一御出馬無い時は、かねてから徳川と取り交わしていた
御誓詞は水の泡となり、家康は武田方と合体するでしょう。そうなれば御当家は甚だ手薄な状態となり、
今後の御家運もいかがかと考えます。

ですから、この度は勝っても負けても御出馬あるべきです。」

信長はこの意見に賛同した。
「これはおもしろき右衛門が言葉である。早々に出馬いたそう。」

ここで佐久間は更に申し上げた
「御合戦に御勝ちなされたいのなら、御勝たせ申し上げましょう。この事について、私に一つの才覚が
あります。何とそ信盛に一任してください。但しこれは、私が武田に心を通じてこのような事を
言い出しているわけではありません。後日の証拠に、起請文お手元に差し上げ置き、その上で武田に対する
計策を申し上げます。」

そして誓書を献じた上で述べた
「先ず長坂長閑、跡部大炊助の両人に金を取らせて謀りたいのです。」

「易き事である。何なりと取らせてやる。良いように取り計らえ。」

「では金銀に添えて、光忠の脇差も賜りたく存じます。」

こうして信長は家康家臣の小栗大六重常を召して「近日出陣する」との意向を伝えた。
大六は大いに喜び、御前を下がるとそのまま岐阜を出立して急ぎ浜松に帰り、あった次第を詳細に
家康に伝えた。家康も大喜びし、即座に陣触れをして岡崎まで出陣、信長をここで迎えるとした。

信長は浜松に返事を済ませると直ちに陣触れを行い、5月13日岐阜発陣、熱田に着陣後、桶狭間勝利の
吉例を用いて熱田神宮に参詣し、神官の田島丹後守、惣検校の千秋喜七郎に御目見得を許した。
この時、内陣において轡の音がし、これに信長は歓喜した
「この合戦、神明の加護を以て勝利を得れば、当社は勿論、八剣の破損、及び末社に至るまで残らず造営、
修理いたそう!」

そして翌15日、岡崎城に着陣した。

(長篠軍記)




『心掛けた武辺は、おのずからの武辺に優っている』

2016年10月13日 17:55

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 04:37:15.61 ID:p8RqE2DR
昔、江戸大普請の時、人の家居も未だ定まらず、大名高家の屋敷取りがここかしこに
あった。ある大名は屋敷の中にいかにも趣のある小屋掛けなどをしておられたのだが、
夏の時分に狭い所で蝿が多く、払いかねなさり、

13,4歳の小姓に蝿を打たせ、主人も蝿打ちを持って蝿をお打ちになっていた。この時、
主人は、「驚いたか!(おほへたる哉)」と言って、その小姓の背中を強く打った。これに
小姓は驚いて怯えてしまった。

小姓は心の中で、「このような面目なきことはないぞ。今の有様ほど滑稽なことはない。
『未熟な者だなぁ』と思し召されては、恥ずかしきことだ! あぁ、仏神の恵みあって、
いま一度お打ちになって下されよ!」と、思って、

蝿を打ち参っておると、しばらくしてまた初めのように、主人は言葉をかけて仰々しく
お打ちになったが、小姓は少しも騒がずに蝿を打っていた。主人は「汝はさっき打った
時は驚き怯えたのに、いま打ったら少しも驚かないのは何故だ?」と、問いなさった。

小姓が心に思ったことをありのままに申すと、主人は深く感心して、「信長公も秀吉公も
『心掛けた武辺は、おのずからの武辺に優っている』と、仰せになられていた」と、言い、
朋たち(意不詳)の大脇差に時服を添えて、その小姓へお与えになったという。

――『備前老人物語』



242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 06:08:27.64 ID:6i3gVmaF
誰なんだろう。あの人っぽいが。

長篠合戦の図〔鉄炮片眼打の事〕

2016年09月08日 17:37

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/08(木) 11:25:17.38 ID:Rn2M2SzC
長篠合戦の図〔鉄炮片眼打の事〕

 成瀬隼人正の家に長篠御合戦の古図があると、年来聞き及びながら過ごしてきた。
そういったある日にふと幸便があり、借覧を請うてみたら、
彼も部屋住みのときからの知り合いだというので、こころよく貸与してくれた。

 そこで模写させる傍らで絵を視てみると、
長篠城の体から、
勝頼が敗軍して武田の武将のかなりの数が突撃して討ち死にする体、
兵馬旗鼓の状態、
実にその場の真を写すに十分であった。
考えるに、当時の目撃人が描いたのであろう。

 その中の信長の先兵は、神祖の御兵と陣を並べて烏銃を発砲する様を描いたところを
詳しく見ると、信長の兵は十に一か二であるが、神祖の御兵はすべて皆片目で撃っている。
これから思うと、予の藩士が烏銃を撃つときは皆片目である。
 予は初めは田付武衛等の流派では、両目を開いて撃つので、領内のは田舎の旧風であろうと思っていた。
そこで、今は全て田付武衛のに従わせている。
しかし神祖の御時ではもっぱら片目での銃法があることを、これにて知ることができた。

荻野長(八百吉)が言うに
先年系譜修撰の御用を勤めたとき、稲富氏の系譜の中に隻眼烏銃の術を神祖に申し上げるというのを書載していて、
なおかつその時に稲富氏に神祖が下賜された御誓書は、今正しくその子孫に伝わっているという。
この稲富流があるのは世に広く知られていることである。
昔は稲富の法を御当家が採用されたことはこの古画で知ることができよう。

また予の領内で伝えられた隻眼の術は真柳流というとか。
今はその伝は絶えて名のみ残っている。

(甲子夜話)



武田勝頼父子の遺体は

2016年08月14日 17:24

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/14(日) 02:25:15.53 ID:bkrryuWC
武田勝頼父子の遺体は田野にあったけれども、織田信長を恐れて恵林寺
の僧をはじめとして収める人はいなかった。

しかし、田野の西北4里ほどの中山というところの曹洞宗の禅僧・広厳院
やって来て、勝頼夫婦や信勝以下の遺体を収め葬った。

その後、徳川家康が甲斐を治め、一寺を建立して“景徳院”と名付け、田地
を寄付した。また、小宮山内膳友信の弟が僧であったのを、家康は同寺の
住職の僧にしたのであった。

――『常山紀談』



「徳川家の良き士は数を知らず」

2016年08月04日 14:06

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/04(木) 02:26:47.27 ID:wrZqDUGL
長篠の戦いの時、「徳川家の先陣を下知せよ」と言って、織田信長
の使者が徳川方のもとへ来た。すると、内藤四郎左衛門(正成)は、

「我が主君は、先陣の下知を他人に受ける者にはあらず! 内藤が
承って返答仕ったと申されよ!」

と、荒々しく言って、使者を追い返した。信長はこれを聞いて、

「徳川家の良き士は数を知らず」と、言いなさった。

【注釈:内藤を鳥居(忠広)とするものもあるが、鳥居は三方ヶ原で
討死したので、内藤のことであろう】

――『常山紀談』




39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/04(木) 07:05:19.10 ID:kfD42Jl/
>>36 家康が長篠では先陣をした、というのは事実だ。信長公記にも載ってる。
地元の者が先陣をつとめる、という慣例のとおりだから、織田信長が家康へ先陣の下知をした
というのは不自然なので、常山紀談のまたまた創作だろう。

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/04(木) 07:44:35.17 ID:eCDSoKFe
数を知らずってどういう意味なんだ?
計算の出来ない脳筋は猛勇ってことかい

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/04(木) 08:13:57.52 ID:acCVXDMz
この場合「数知れずいる」ってことだろ

氏真の蹴鞠

2016年07月31日 19:30

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 19:14:33.69 ID:dTisZ1jN
天正三年2月下旬、織田信長は岐阜を立ち、3月2日に上洛して、相国寺に滞在した。
同月16日、今川氏真が駿河より上洛して信長のもとに出仕し、千鳥の香炉、宗祇香炉などを進上した。

その後信長は、氏真が蹴鞠の上手であると聞き、蹴鞠の興行を行ってそれを見物した。
氏真に対し、三条大納言父子、烏丸殿、藤の宰相殿、飛鳥井殿父子、広橋殿、五辻殿、庭田殿といった
蹴鞠において名のある錚々たる人々が入れ替わり立ち変わり挑戦したが、氏真の足さばきは、
どこで区切りがあるのかすらわからないものであった。

(甫庵信長記)

今川氏真、信長の前で想像を絶する蹴鞠の実力を見せつけたらしい、というお話。



22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 19:21:00.54 ID:Jt9IzM1X
この話読むたび、親の仇の前でよくやるなと思うが

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 20:57:28.09 ID:yzm9L0zP
>>21 甫庵信長記ということは、信長公記にも原文の記載があるはず。ぐぐってみた。

3月16日、信長公のもとへ珍客が出仕した。
それは今川氏真殿であった。氏真殿は百端帆(香炉または何らかの宝物)
を持ってあらわれ、これを信長公へ進上した。なお氏真殿は以前にも
千鳥の香炉と宗祇の香炉を信長公へ進上しており、そのとき信長公は
千鳥の香炉のみ受け取って宗祇の香炉は返却してやっていた。
 会見の中で信長公は氏真殿が蹴鞠をよくすると聞き、見物を望んだ。
かくして3月20日相国寺内において蹴鞠が催され、信長公の見物するなか
氏真殿ほか三条殿父子・藤宰相殿父子・飛鳥井殿父子・広橋殿五辻殿・
庭田殿・烏丸殿が技芸を披露した。

甫庵やっぱり加筆してやがる。

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/01(月) 11:05:42.86 ID:as7OLeEf
>>23の中で、「会見の中で信長公は氏真殿が蹴鞠をよくすると聞き」とあるので、
氏真が自分から蹴鞠のことを宣伝したようだ。
だから、親の仇の前でやらされたのではなく、親の仇の前でパフォーマンスか
「戦では負けたが、信長よ、これがお前にできるか?。できまいて。本当は俺の勝ちだ」
ってか。

信長公の時代に勇者と申した者は

2016年07月20日 10:25

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 03:46:26.93 ID:cFB0egY4
信長公の時代に勇者と申した者は、

菅谷九右衛門(菅屋長頼)、安藤与兵衛、神子田半左衛門(正治)などである。
半左衛門は八右衛門の弟である。八右衛門の子の四郎右衛門は、大坂で討死した。

また他の説では、信長の時代の勇者というのは、稲葉伊予守(良通)、池田伊与守、
氏家卜全(直元)である。

美濃西方の三人衆というのは氏家卜全、稲葉伊予守、伊賀伊賀守(安藤守就)である。

――『武功雑記』




949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 09:59:34.15 ID:ZNGYzNmM
あと、鬼武蔵を止めようとした瀬田の橋の番人

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 12:29:48.39 ID:daAkwI4G
勇者として菅屋の名前があがるんだねえ
どちらかというと官僚をイメージしていただけに意外だった

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 12:56:10.58 ID:dOYI8WFy
美濃三人衆って何で4人いないの?

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 14:12:18.92 ID:nMsEvtnS
伊賀伊賀守って喉風邪の親玉ですか

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 22:24:15.75 ID:2PTcoJ25
>>952
つ 不破光治

公方が御謀反された時

2016年06月14日 17:46

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 17:15:53.28 ID:ZCjPkN6A
信長公に対し、公方が御謀反された時、
信長公が御出馬されて、上京を放火なされたことがあった。
その後連一検校が御前に出て
「このたびの御陣の洛中での騒ぎで、上下が怖がり恐れることは前代未聞のことです。」
と申し上げれば、信長公が
「そうであろう。さてその恐れたる様子とは?」
と仰せられたので、連一検校は以下の話をされた。

「上京に火がかかったと見ると、二条にいた者の妻が、
まず我が子だけでも連れて逃げればすむと思い、
三つか四つの子を背中に負い、慌てて走り、四条の橋のたもとまで逃げきった。
あまりに苦しくて、ちょっと子を降ろして休もうと思って地面の上にどっと置いてみると、
石臼でございました。」
(醒睡笑)



712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 18:27:43.12 ID:rxTBNthZ
>>711
落語みたいw

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 20:03:03.72 ID:ceKeV3cO
>>711
>信長公に対し、公方が御謀反された時、

謀反ってw

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 21:36:16.80 ID:tavheLe0
天皇御謀反ともいうんだから公方が謀反したっていいだろ

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 21:53:46.47 ID:F7+1vUHt
室町将軍が都を追い出されるのはよくあった事だけど
義昭の場合、昵近公家衆がついて行かなかったんだよな。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 23:48:29.32 ID:xgZWF6Y2
義輝の時点であまりついていかなかったそうだ
正確には京を退去するまでは従ったが、亡命先までは付いて行かなかった

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 23:54:02.95 ID:zYwTxKAt
>>713
信長公なんだから信長が主人公、公方は敵役

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 00:12:22.96 ID:twXBwpVX
東洋史学の岡崎文夫は魏の皇帝である曹髦が臣下のはずの司馬昭に対してクーデタを図ったのを
「浪漫的な反抗」と評してたが
義昭に対してそういう言葉を使う人はいないんかな
それともナポレオン3世の自己クーデタ(こっちは成功)のような喜劇扱いだろうか

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 02:53:59.02 ID:MKd78BCA
すでに傀儡だったじゃん。実権ねえから謀叛なんだって。

御爪が1つ足りません

2016年06月08日 17:09

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 03:07:57.55 ID:/fdBuAhc
ある時、信長公が手の爪を取りなさるのを小姓が取り集めていた。
すると小姓があれこれ調べ、探し求めている様子だったので、

信長公が「何を探しておる?」と問いなさると、小姓は「御爪が1つ
足りません」との旨を申した。そこで信長公が御袖を払いなさった
ところ、爪が1つ落ちてきた。

信長公は御感心なされ、「物事にはこのように念を入れなければ
ならぬ」と仰せになり、小姓に御褒美を与えなさった。

――『備前老人物語』




814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 03:24:05.47 ID:mrEuZqdb
これが後に乱ちゃんの話になるんだっけ

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 08:13:06.45 ID:RqtV25Pc
爪を取るだなんてどんな拷問だよ
サディストはやっぱ違うぜ

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 12:54:18.75 ID:oRXpAH/t
備前老人物語みたいな逸話集のせいで
本来の人物像からかけ離れちゃったイメージを植え付けられた被害者は結構いると思うんです