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かつよりと なのる武田之かいもなく

2020年07月11日 17:24

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:17:31.05 ID:3i8UXQ9T
天正十年三月五日、織田信長は甲州征伐のため安土を立たれ、翌日濃州六の渡に飛脚が来て、
『甲信駿三ヶ国異議なく討ち果たした』という旨が伝えられた。
仁科盛信(勝頼弟)の首がここに持参され、信長は大いに悦ばれた。

十三日、信長は信州の根羽に到着されると、ここに武田勝頼、並びにその息子太郎の首がもたらされた。
信長は甚だしく喜悦され、狂歌を読まれた

『かつよりと なのる武田之かいもなく いくさにまけてしなのなければ』

当代記



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高野聖誅伐

2020年07月10日 18:50

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/10(金) 12:29:43.45 ID:9UfOtJty
天正九年八月十七日、織田信長は高野聖を方々にて搦め捕らえるよう仰せに成った。その仔細は、摂州伊丹の
牢人(荒木村重残党)の内二人がかの山に在ると聞き召され、急ぎその者たちを出すように、使者を以て
仰せ遣わした所、返事さえ申さず、あまつさえ使者上下の者共二十余人を討ち果たした事も申し届けなかった。
事に御腹立てられ、方々に仰せ触れたのである。
これによって高野聖数千人が搦め捕られ引き立てられた。その誅伐の有様は非常に哀れであった。

昔、高野聖が諸国に下る時、予め宿を取るという事はなかった。路巷において「宿かや宿かや」と呼びかけ、
これに心有る人は、上下によらず宿を貸した。もし宿がなければ、そのまま路頭にて夜を明かした。

しかし信長がこの年に聖たちを殺害して以来、こう言ったことは無くなった。信長が相果てた後でも、
これ以後元のように戻る事は無く、普通の旅人のように宿を取るように成った。
(殊に現代では、聖は商人のように、衣類など様々なものを持ち運び、これを売却する。
少しの坊をも持つような聖であれば、笈(書籍を入れて持ち運ぶ箱)も持たず、馬上にて国を上下する。
何れも大師の掟に違うのではないだろうか。)

当代記

高野山側の記録だと、この時信長から遣わされた使者というのが非常に横暴で猛反発を受けたとあったりますね。



金銀を 遣捨てたる馬揃

2020年07月09日 18:21

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 13:15:27.85 ID:8tUCxMUS
天正九年、正月二十三日より触れられてた馬揃が、二月二十八日に行われた。
各々美を尽くした色々な出で立ちであった。
馬上の者達は百騎に及び、一番の明智日向守(光秀)は紅の出で立ちであった。
そこから次々と、書き表すのも及ばぬほどの、結構の体であった。

信長はこれらの馬の後に乗られ、先馬の前に(武井)夕庵法師を通した。その体は小袖をつまんではしょり、
白髪をかぶった出で立ちで、鞍に取り付き、まるで誠の老女が馬に乗っていて危ないように見えた。
この夕庵は信長の右筆で、歳は七十余の入道であった。

信長公の出で立ちは、ほほに頬紅をされ、牡丹の造花を腰に指し、冠物にも花を指されていた。
馬先に乗り換えの馬が十疋、それぞれ無量の仕立てであった。或いは唐織、或いは染綾薄、猩々緋などにて
泥障(あおり:鞍の四方手に結び付けて馬の腹の両脇に下げる、泥よけの馬具)とし、例えるべき様もない
結構であった。

信長の馬の廻りには小人衆が紅梅の袷、上に黄衣、立烏帽子、のし付脇差、金の鼻ねち、紅のうてはしりにて
思い思いに乗った。

池田庄九郎は惣金の出で立ちであった。その身については申すに及ばず、馬の毛や爪まで何れも金であった。
馬の毛には、ふのりを以て薄を置いたという

主上(正親町天皇)は御桟敷にて御見物された。馬場は内裏の東に、縦三町横二町ばかりに構えられた。
周りに柳を植えてあった。

また翌日には、「昨日の馬揃残り多し」と羽織頭巾にて馬に乗り、この時猩々緋を羽織った。それぞれ
先の馬上衆が、一夜の間に仕立てたのだという。

そして何者の仕業か、落書があった

『金銀を 遣捨てたる馬揃 象棋に似たる王の見物』


当代記



394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 19:37:38.79 ID:Pvl2OpoO
>>393
金銀を捨てても王様が詰まされなければ勝ちだからね、将棋は
京童としては成り上がりの信長なんぞ捨て駒で、天皇こそ、といいたいのかな

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 21:52:22.55 ID:f3UPKo8d
援助が無ければ没落する哀れな王様なのにか?

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 23:58:32.00 ID:Pvl2OpoO
>>395
それが天皇の権威であり、皇家でもないのに京に住んでるだけでぶら下がるぶぶ漬けどものアイデンティティー

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/10(金) 11:06:40.83 ID:zbAHFZVo
>>393
先頭は丹羽じゃなかった?

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/10(金) 17:12:15.97 ID:ZQ4CsC64
中国攻めのためこの馬揃えに参加出来なかった秀吉が長谷川秀一に宛てた
「馬揃えに参加出来なくて無念だ。せめて各々がどんな出で立ちだったか教えて欲しい」って言ってる書状があるな

信康事件について

2020年07月08日 17:45

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/08(水) 13:20:09.92 ID:sYb4nnxC
天正七年、岡崎三郎(松平)信康(家康公一男)が牢人された。これは信長の婿であると言えども、父家康の
命を常々違背し、信長公をも軽んじ奉り、被官以下に情けをかけず、行いが非道であったため、その旨を
去月酒井左衛門尉(忠次)を以て信長に内証を得た所、「左様に父、臣下に見限られている上は是非に及ばず、
家康の存分次第にせよ。」と返答された。

家康は岡崎にお越しになると、信康を大浜に退き下らせ、岡崎城へは本多作左衛門を移した。信康はこの措置を
当座の事と心得られていた。家康公は西尾の城に移られ、信康は遠州堀江に移され、さらに二股に移られた。
九月十五日、彼の地に於いて生害された。信康の母公も浜松に於いて生害された。

当代記

信康事件について。ここだと酒井忠次は家康の指示で信長の意向を尋ねたという事になっていますね。



献上された人魚

2020年07月07日 17:38

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 13:33:40.85 ID:SGT8Vxh6
天正七年二月十八日、織田信長が上洛された。この春、信長公が在京の砌、若狭国の丹羽五郎左衛門(長秀)
が人魚を献上した。これの顔や手足は人と違わず、長さは五尺(約1.5メートル)ばかりであった。
この人魚は岩の上に登ってしばらく寝ており、その所を見つけ、これを取ったのだという。
この在京中に、三条の宗運という町人が、老父に至孝であるという事を信長公が聞かれ、諸役を免許し
米百石を下した。

当代記



381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 13:43:52.64 ID:1MncSJu9
足がある人魚?

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 13:49:11.85 ID:vnEUtyqx
半魚人?

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 14:13:15.68 ID:IvWV8E6Z
河童やね(適当)

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 14:59:52.28 ID:emopB1HD
>>380
福知山城に行ったら丹後浦にトドが迷い込んで捕まったという手紙が絵付きで展示されてた
多分トドじゃなくアザラシだと思った

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 15:10:02.84 ID:3vqzziLb
献上された人魚って食べるの?生け簀みたいなので泳がせるの?

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 15:34:01.50 ID:n4Ey8St4
海獣の類いでしょ
日本だと海獣以外にリュウグウノツカイを人魚と見間違えたという話もあるとか聞いたけど

やっぱ食べるのかな?海獣だったらしばらくは飼えそうだけど

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 20:50:16.68 ID:UOpvQdJP
>>380
八百比丘尼「食べなきゃ(使命感)」

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 21:48:27.41 ID:sY0DV/cH
家康も不老妖怪の逸話あったし権力者あるあるか

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 23:51:51.78 ID:OWOT8Gkc
>>380
家忠日記に人魚みたいな絵があったね、これのことかな?

と思って調べたら家忠日記のは天正九年に安土に揚がったヒト食い人魚のようだ

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/08(水) 00:01:29.70 ID:rjLtYiQe
戦国日本ヤバイ

松永星

2020年07月06日 16:21

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/05(日) 21:53:20.38 ID:IfAny+F9
天正五年、松永久秀が亡んだ後、彼の居城であった多聞山城の家屋を毀ち、信長はその建物を
京都二条に造作し、親王(誠仁親王)に奉った。

この秋、客星(彗星)が未申(西南)に表れた。時の人々はこれを「松永星」と呼んだ。

当代記



信長の鷹

2020年07月05日 17:34

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/04(土) 23:32:18.18 ID:K1RlApYW
天正四年十一月、織田信長公は叡覧に入れるため、内裏に鷹を据え、庭上まで参内された。
各供奉の衆の装束は結構を尽した。
退出の後は常の狩の出で立ちにて、東山の鷹野へ向かったが、雪甚だしく、秘蔵の鷹を見失ってしまった。

信長はこれを本意無きことに思われ、「この鷹を据え来た者には必ず褒美を与える」との札を立てた所、
一両日後に、大和国で発見された。信長は甚だしくこれを悦ばれた。

当代記

この時期の信長の威令の強さを感じさせるお話。



371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/05(日) 17:26:01.40 ID:uMAdPURW
>>368
そんなひどい雪の中で鷹狩りすんなよって思ったけど
内裏に鷹を据えるというセレモニーの一環だから延期や中止はできなかったんだろうな

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/06(月) 08:14:05.60 ID:tQwxA9zj
11月に雪降るとか妄言も大概にしろよ
いくらなんでも盛りすぎだろ

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/06(月) 09:05:49.99 ID:1iAfCj1a
旧暦計算なら今の11月よりは後ろになるからその年の気候次第ではあり得るんでは。
しかし腹も減ってないのに雪の中飛ばなきゃならんとか、鷹のほうも嫌だったに違いない。

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/06(月) 11:06:26.16 ID:s0CFQ3DQ
天正4年11月20日明け方に京都で初雪、ただ一寸降っただけ
信長内大臣任官お礼の参内が23日
この間、21日~25日の京都は晴(『言継卿記』)

ただし京都の東山じゃなくて近江石山寺近辺で鷹野をしてる(『信長公記』)から
当代記』の通りに滋賀だと大雪だった可能性もほんのわずかながらあるかも

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 07:47:43.39 ID:yPD1u5Ou
そもそも、戦国時代は小氷期で地球全体が今より寒冷な気候だ

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 08:54:49.45 ID:piBEUhHC
信長公記に同じ話があった気がするが、天正4年条には見当たらなかった

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 10:02:59.13 ID:IvWV8E6Z
御鷹山猟御参内の事
天正5年11月18日

これかな

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 10:40:20.70 ID:piBEUhHC
>>377
手元ので改めて確認

天正6年11月27日条
「北野まはり御鷹つかはされ、御秘蔵の鷂(はいたか)失せ申候。方々御尋ねなされ候処、十二月朔日、丹波より居上せ進上」

これは見つけたんだが、もうちょっと詳しい描写があったような、なかったような…

公記を見る限り、信長は天正4年11月に上洛参内し、内大臣の官位を得ている。公家にもいろいろ配っている。鷹狩りについてはその後、石山世尊院で二日間、行っている。なんらかの混同が当代記ではあったのかな
京童の噂話が間違って伝わった可能性もあるし

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 10:41:56.90 ID:piBEUhHC
>>374
あ、見落としてました。一次史料をどうもです

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 14:13:15.68 ID:IvWV8E6Z

>>378
>>377も信長公記です。「俄かに大雪降り来たりて」等、>>368の当代記よりも詳細な記述。

同じ日の兼見卿記にも「内府御鷹山也 各着頭巾道服 心々之仕立也 御分国之大名其外馬廻数百人也
見物無比類云々 祇候禁中於小御所 有御盃之義云々 其以後東山へ御鷹山也」(東大史料編纂所より。
転記ミス御容赦)とあるので、当代記の記述(国会図書館DBで確認)が1年ずれてるのでは。

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 16:26:01.69 ID:Mg35n5Ah
太陰太陽暦では冬至を含む月を11月とするから11月に雪が降ってもおかしくはない

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 23:41:18.03 ID:OWOT8Gkc
>>383
おー、ありがとうございます!これこれ!
越智玄番が欠地を回復する話。
しかし、信長は2年連続、11月に御秘蔵の鷹を逃がしていたことになる。鷹匠の消息は触れられていない。

申す旨に任せ、朱印を遣わす

2020年07月03日 18:12

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/02(木) 22:01:31.81 ID:IgtsYTjv
天正五年十月二十三日、羽柴筑前守(秀吉)は播州に入ると、「この次に中国で一州を望む」という事を
言上した。これを信長に、右筆の楠長庵が披露した所、これを聞いた信長は不快な様子であった。
しかし暫く思案し、「申す旨に任せ、朱印を遣わす」と言った。
ところがどうしたわけか、楠長庵はこの朱印を作成しなかった。

その後、筑前守は但馬国へ相働き、敵城を数多攻め落としたことが注進されると、信長は御感甚だであった。
この時に成って長庵は、中国の内一州の拝領を許可した朱印状を作成し秀吉に遣わした。
これについて信長は、非常に心地よい様子であった。

『当代記』



343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 01:27:08.17 ID:wNBo2v6N
>>341
見事なまでのブラック企業

弘法大師が玉造という双紙を絵に書き置かれ

2020年07月01日 17:13

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/30(火) 21:54:30.51 ID:G1TABAxh
織田信長公より九八郎(奥平信昌)が拝領した刀は、目貫口蓋は、去々年後藤光乗に仰せ付け、京都に於いて
掘られたもので、昔、弘法大師が玉造という双紙を絵に書き置かれ、それは、女は色に耽る者なれども、
老年なれば面は猿に似て手にあじか(土を運ぶ道具)を持ち、その中にくわえ蕨など入れ、肘に掛け後ろに
袋を負い、前打ち広げて腰を掛けていたる体が書かれており、信長はこれを見給うと、「この図を写すべし」
と命ぜられ、そうして掘られた口蓋であった。

その頃、この図を明智日向守(光秀)が狩野が絵像に写させた所、尽く出来、眼に点入れまでしてあったのが、
一夜の内にこの絵が腐り果てた。この事を明智に申し上げた所、「権者の筆跡を凡夫として写しけるによって、
このように成ったのだろうか。奇特である」と云ったという。

『当代記』



十七ヶ条の意見書

2020年06月30日 18:00

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/30(火) 01:40:08.43 ID:G1TABAxh
元亀三年の冬、織田信長は十七ヶ条の書付を以て足利義昭に諫言を遂げた。
この諫言の書は信長記(信長公記)にこれ有り、右は何れも忠言である。
後に武田信玄はこれを見て、信長を「ただ人ならず」と云ったという。

元亀四年(天正元年)正月十日、松永久秀は織田信長に降参し、岐阜へ参上した、
この時、不動国行の刀、薬研藤四郎の脇差を進上した。これらは何れも天下無双の名物であった。
このように松永が降参したのは、佐久間右衛門(信盛)の取り扱いを以てであった。

この頃、将軍足利義昭は信長を亡ぼす旨を思い立てられた。これは去る年の冬に信長が出した
諫言の書(十七条の意見書)が御耳に逆らう故であると聞こえた。

当代記



乱以後その猿は居なく成った

2020年06月29日 17:17

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/29(月) 15:44:13.80 ID:tj/soCjd
元亀二年九月十二日、織田信長は叡山を退治した。
近年朝倉義景と内通し、特に去年、越前衆がかの山に陣を敷き、信長に敵対したために斯くの如くとなった。

この時の消息に依ると、衆徒、児童に至るまで、或いは首を刎ね、或いは焼き殺し。逃げ去る者から
衣類を剥ぎ取った。堂舎仏閣一宇も残らず焼き払い。哀れなりし事共であった。

これは偏に近年、叡山が大師の掟に背き、衆徒乱行、殊には去年越前衆が陣を張り、この時伽藍、仏前で
食事に魚鳥を用い、男女が登り乱れ放蕩したため、自業自得の果の道理ではないか。

これについて、山王の使者であるため、この乱の時までは山に猿が限りなく充満していたのだが、
乱の以後はその猿が全く居なく成った。奇特なことであると云われた。

信長はこの時、「後代にもし、当代の衆天下に知られていると云えども、叡山を建立しないと、各々に
起請文を捧げさせた。

当代記



猶以てこのように

2020年06月28日 17:11

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/28(日) 10:40:18.37 ID:vBavp88v
元亀三年、武田信玄は遠州に発向した。この時織田信長公はその歴々の衆を徳川家康公へ
加勢有り、またかの信玄の娘と信長息(信忠)との縁辺の契約もあり得なくなった。
年来家康と信長は別して子弟同然の間であり、その贔屓の沙汰も斯くの如しであったが、
この時の信長の真実の心底は、「家康が滅亡すれば、定めて信玄は信長を討ち、天下を取るべき
企てがある」と予てより推察されていたため、猶以てこのように援助したのである。

当代記



五重の天守を建てられ然るべし

2020年06月24日 18:00

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/24(水) 05:42:21.15 ID:HdBIPCnD
織田信長が安土に城を築く時、明智光秀に意見を問うた。光秀は里見義弘、大内義興等の天守の事を申し、
「当御城の義は天下を知ろしめすべき御城なれば、五常五行を表し、五重の天守を建てられ然るべし」と、
故実などを委細に申すと、信長は大いに喜び、光秀を奉行として天守を建てられた。

名将言行録

里見義弘や大内義興に天守を建てたという話があったみたいですね。



148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/25(木) 15:01:34.87 ID:Dcg4FVjg
安房国館山が三層の天守、周防国山口が四層閣らしいぞ

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/25(木) 15:10:40.60 ID:Dcg4FVjg
ただし館山は義頼、義康が築城したらしいので創作くさいね

柴田勝家の刀狩り

2020年06月19日 18:06

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/19(金) 00:53:50.92 ID:A3E0IVhU
朝倉氏の亡んだ後、越前国では一揆が度々起こり、強敵が蟠り居りけるを、柴田勝家が数年かかって
攻め伏せ、漸く一国平均した。
そうして勝家は村里へこのように触れを出した

『よろず掟を正しくして撫育を致すにつき、自今以後、一揆を起こすべき覚悟が無いという事を
汝らが相断った事、尤も神妙の至である。この事は信長公にたしかに申し上げた。
であれば、汝らの持っている武具は、もはや所持していても益のない物なのだから、少しも残らず
上へ差し上げるべきである。その代わりとして、我等は農具を拵え、各々の望みに任せて、何程も
下し賜るべし。もし兵具の類を隠し置き、なんのかんのと違背するような輩は、心底に悪事を
挟んでいるのではないだろうか。』

そう言い渡した。郷民等に承り届くと、遅参に及べばどうなるかわからないと、弓銃は勿論、太刀、鞍、
鎧等まで己が村中を穿鑿し、我劣らじと持ち参った。
集まった兵具は幾千万とその数を知れず、山のごとくに積み上がった。勝家は鍛冶を召し寄せ、農具に
打ち換えて与えると、国中いよいよ静謐にして、一揆の沙汰は無くなった。

名将言行録

柴田勝家の刀狩りについての逸話ですね。



大船検分と茶の湯

2020年06月19日 18:04

291 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/06/19(金) 11:40:20.33 ID:eM6MrUNt
大船検分と茶の湯

1578年9月30日、織田信長は第二次木津川口の海戦で活躍した大船の検分の為、昵懇の公家、重臣、側近を引き連れて堺の港へ赴いた。
大船は九鬼嘉隆がのぼりや旗指物をたてるなどして飾り立てており、堺衆は信長の御座船に唐物の茶道具を集めていた。
その他各所から集まった船もそれぞれに武具を並べ立てるなど装飾を凝らしていた。
堺中の人々が着飾って見物に集まり、彼らが衣服に炊きこめた香りがあたり一帯に立ち込めたという。

その後、堺衆の今井宗久、紅屋宗陽、津田宗及、天王寺屋道叱の屋敷に順番に御成した。
この時信長に同道したメンバーが宗及の『天王寺屋会記/自会記』に記録されている。

・宗及の茶の席に同席した者
近衛前久、松井友閑、佐久間信盛、滝川一益

・御供衆として供奉した者
細川昭元、津田信澄、細川藤孝、佐久間信栄、筒井順慶、荒木村次、
万見仙千代、堀秀政、矢部家定、菅谷長頼、長谷川秀一、大津長昌、
河尻秀隆、三好康長、若江三人衆



292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/20(土) 03:28:51.70 ID:r6tZbjLO
河尻がいるのが興味深い

298 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/06/21(日) 11:29:41.97 ID:VyXDYm6h
有閑、佐久間、滝川がトップで
中でも息子も供奉している佐久間が別格か。

存命は 又信長や忍ばれん

2020年06月13日 17:26

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/13(土) 01:31:09.72 ID:C/rfgG4J
永禄十二年(1569)五月二十日、織田信長は勢州の北畠が上洛しないため征伐するとして、数万人を率いて
彼の国へ発向し、同十一月まで百余日在陣し、所々の城を攻め破り、或いはまた和議を知れて、勢州を残らず
一統に退治すると、直ぐに同十一月十一日、勢州より上洛し、この事を将軍・足利義昭に言上すると、
公方家は大いに御感有って、國光の御脇差を下賜され、御暇を賜り帰国して、長陣の疲労を休息し、大将も士卒も
相悦んで越年した。

そのような中、信長より任命された朝山日乗村井貞勝島田秀満の三人の奉行は、諸公家と相談し、旧式
先例を正し、禁中の御修理の事も三ヶ年で成就したため、今上の御移徒があった。
諸公家、堂上の面々も皆、信長より宅地を修理され、乱中に領地を奪われた人には、旧規証文の旨に任せて
各領地を還付されたため、朝廷も諸公家も皆々安堵の思いを成し、

「織田弾正忠信長は近代無双の執権也」

と、都鄙遠近ではそう美談した。然れども、京童の曲として、その頃このような一首の落首があった

「存命は 又信長や忍ばれん 憂と三好ぞ今は恋しき」

續應仁後記

本圀寺の変の後くらいの、信長の評判について



桶狭間後日譚

2020年06月11日 17:03

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/11(木) 02:07:06.11 ID:HTSH4nvb
上総介信長は御馬の先に今川義元の首を持たせられ御急ぎなさり、その日の内に清州へ御出あって
翌日に首実検をなされた。首数3千余あり。そこへ義元の差された鞭と弓懸を持った同朋衆を、下
方九郎左衛門と申す者が生け捕りにして進上した。「近頃の名誉を仕った」との由で御褒美があり、
御機嫌ななめならず。

同朋衆は義元前後の始末を申し上げ、首々に一々誰々と見知り申す名字を書き付かせなさった。か
の同朋衆には、のし付きの大刀脇差を下された。そのうえ10人の僧衆を御仕立てになり、義元の
首を同朋衆に添えて駿河へ送り遣わされたのである。清州から20町南、須賀口・熱田へ参る海道
に“義元塚”という塚を築かせなさり、弔いのためと千部経を読ませ大卒塔婆を立て置きなさった。

今回、分捕りになった義元が日頃差されて秘蔵した、名誉の左文字の刀を召し上げられて何度も切
らせられ、信長は日頃差しなさったのであった。御手柄は言葉で申し尽くせない次第である。

――『信長公記 首巻』


桶狭間の戦場で義元の同胞衆の権阿弥という者は、義元の差された弓掛けと鞭を持っていた。下方
九郎左衛門という者はこの権阿弥を生け捕って大将へ奉る。(中略)大卒塔婆を立てなさり「信長
は情けある大将かな」と、近国までも沙汰しけり。

熱田大明神へも今回の御願成就があった奉幣を捧げ、御修理を加えなされた。また今回、義元が陣
中へ差しなさった松倉郷義弘の刀をこちらへ分捕りに取って差し上げると、「これは天下の重宝で
ある」と信長公は御秘蔵なされ、この刀を御差料になさった。

――『織田軍記総見記)』



桶狭間の毛利新介と服部小平太

2020年06月10日 17:16

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/10(水) 01:56:53.83 ID:tKLQnxUk
(桶狭間の戦いの時)

毛利新助(良勝)、服部小平太(一忠)などを初め、高名の輩に一々恩賞を宛て行われ、いずれも
面目を施した。さても今回、服部小平太は早く義元を槍付けたが切り倒され、新助は遅かったが、
ついに義元の首を取って末代まで聞き伝える高名となり、これは只事ではない。天の恵み、仏神の
冥加に叶いたり。

先年の清州騒動の時、新助は未だ毛利十郎(実際は別人)といって若輩だったが、先武衛(斯波義
統)の若君を生け捕って御命を助け参らせた。「代々の国主にかようの大忠を致した故に、天道に
も叶ったのではないか」と、皆人は感じ褒め合った。

――『織田軍記(総見記)』


服部小平太は義元に掛かり合い、膝の口を切られ倒れ伏す。毛利新介は義元を切り伏せ首を取った。
これひとえに先年の清州城において(織田彦五郎が)武衛様をことごとく攻め殺した時、(一族の
毛利十郎が)御舎弟を1人生け捕って助け申され、「その冥加たちまち来て、義元の首を取り給う」
との、人々の風聞であった。

――『信長公記 首巻』

桶狭間の戦いと熱田町口の紛争

2020年06月08日 17:10

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/08(月) 03:16:57.31 ID:ZQsC5wnO
(桶狭間の戦いの時)

ここに尾州河内二の郷の一向宗、鯏浦の服部左京(友貞。織田家に属さない尾張国人)
は此度の合戦で義元に力を合わすべしと一向宗を数多引き連れ、武者舟数十艘に取り
乗って大高の下、黒末の河まで乗って来た。

まず大高城に兵糧を多く運び入れて松平元康に力添えし、自身は戦場へ赴いたところ、
19日の未の刻、はや義元討死なれば力を失い、舟に乗って帰りがけに熱田の港へ舟
どもを寄せ掛けて、遠浅の所から下り立ち町口を放火しようとした。

町人どもはこれを見て、味方の勝ち戦に力を得て、大勢が出て来て追い払ったところ、
服部の者どもは駆け散らされて数十人が討たれ、また舟に取り乗り、河内を目指して
引き入った。

――『織田軍記総見記)』



『松平記』より、桶狭間の戦い

2020年06月07日 17:21

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 22:40:28.14 ID:TUf8uXey
永禄3年(1560)5月19日、昼の時分に大雨しきりに降る。(今川義元は)今朝の御合戦
御勝利で目出度いと、鳴海桶狭間で昼弁当に参る。そこへその辺りの寺社方より酒肴を進上仕り、
御馬廻の面々に御盃を下されたが、その時、信長が急に攻め来たる。

笠寺の東の道を押し出で、善昭寺城より二手となって一手は御先衆へ押し来たり、一手は本陣の、
しかも油断しているところへ押し来たる。鉄砲を撃ち掛ければ、味方は思いも寄らぬことなので、
ことごとく敗軍して騒ぐところに、上の山からも百余人程が突いて下った。

服部小平太(一忠)という者が長身の槍で義元を突き申すと、義元は刀を抜いて青貝柄の槍を切
り折り、小平太の膝の口を割り付け給う。毛利新助(良勝)という者が義元の首を取ったが、新
助の左手の指を義元は口へ差し入れ、食い切られたと聞く。

義元の御馬廻衆も随分働いたため尾州の物頭の佐々隼人正(政次)、千秋新四郎(季忠)、岩室
長門守、織田左馬允、一色などと申す良き者が、数多その場で討死した。

御先衆で討死致した衆は、三浦左馬助、斎藤掃部助、庵原右近、同荘二郎、朝比奈主計、西郷内
蔵助、富塚修理、松平摂津守、富永伯耆守、牟礼主水、四宮右衛門八、井伊信濃守(直盛)、松
平兵部、温井蔵人、松平治右衛門、その他60余人、近習1人も残らずその場で討死なり。

――『松平記



115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/07(日) 04:41:47.74 ID:Jsn8uRP9
>>114
大雨だと鉄砲使えなくね?

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/07(日) 15:24:03.51 ID:FjC4Cc4v
俄か大雨に紛れて接近→晴れてから襲撃ってのが桶狭間の流れ
まあ、所詮は他家と他家の話の上
義元本陣にほとんど家康系がいなかったとかの事情で詳細には書く気がないのかも

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/07(日) 17:25:34.03 ID:E7+MQt/A
>>116
信長公記が底本と分かるな

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/07(日) 17:30:27.64 ID:60NDTf3c
信長公記とは内容違うよ