木下藤吉郎、堂洞城攻めの功

2018年04月26日 18:51

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 19:54:47.09 ID:isUtGnGf
織田信長が美濃国ドウノ洞(堂洞城か)に出陣する時、当時まだ乗馬を持っていなかった
木下藤吉郎に対し
「汝の一門の内にて馬を借りて乗ってくるように」
そう仰せになると、藤吉郎は「畏まり候」と、海東郡のオトノコウという場所に、彌助という
綱差しが居り、これは藤吉郎の姉婿であったのだが、彼の所持する栗毛の草役馬(農耕馬)を
借り受けた。

しかしこの馬には、鞍はあるが鐙がなく、しかしながら腐った金鐙が片方だけあり、
もう一方には細引きを付けて鐙の代わりとした、

そして馬は準備できても、藤吉郎には供に連れて行く者も居なかったのだが、この時
彌助は、これから合戦に行くことを知りながら「私が付いていこう」と、藤吉郎の供をした。

藤吉郎は堂洞にて坪内十郎右衛門という者を討ち取った、堂洞城の城主である坪内某は、
本丸に追い詰められると詫び言をして開城し、助命を受けた。そして信長に対し、岐阜に
退去する間の安全のため人質を乞うた。

信長はこの坪内への人質として、木下藤吉郎を遣わした。その出発前、信長は藤吉郎に言った
「道中にて坪内を、汝もろとも打ち殺す事もある。お前の命を私にくれ。」
これに藤吉郎は
「何れの道にても、御用にて命を召されること、いと易き御事であります。」
そうしっかりとお請けした。

信長は坪内を藤吉郎もろとも殺そうと思っていたのだが、藤吉郎が潔く命を差し出すことを
不憫に思い、そのまま指し行かせた。その後、藤吉郎が各務原より無事に帰国すると、
美濃国の織田領の内より七千石の知行が与えられた。

藤吉郎は俄大名と成ったが、これを切り盛りする人材が居ないことに困り、七郎左衛門といって
清須で連雀商人(行商人)をしている者があり、彼は藤吉郎の伯母婿であった。
藤吉郎が小竹といった幼少の頃は、この七郎左衛門を主人のように尊重していたのだが、
今や七千石の主となった藤吉郎は七郎左衛門を呼び寄せ、七百石を取らせ
「末々いかほどの大名に成ってもその十分の一を取らせる」と約束し、木下家中のおとな(家老)と
した。後の杉原伯耆守(家次)はこの七郎左衛門の事である。

馬を貸した姉婿の彌助には五百石を取らせた。後の三位法印(三好吉房:豊臣秀次実父)と申すのが
この彌助である。

(祖父物語)



807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 20:08:25.07 ID:h0+s79/n
>>806
秀吉が敵を討ち取った事があるんだね!
小男で非力なイメージだったから意外だった

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 21:00:27.02 ID:E63W07aK
>>806
>豊臣秀次実父
(´・_・`)

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/26(木) 18:08:20.54 ID:7yEMWFBt
杉原伯耆も秀吉が天下取った直後に発狂して亡くなるんだよなあ…

810 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/26(木) 18:33:18.40 ID:0K6Usc3/
約束反故にされたもんな

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/26(木) 19:53:27.83 ID:fAuyfDAC
秀吉がいなかったら埋もれていただろう秀長とか浅野長政なんてのがいると思うと
実際に埋もれてしまった人材ってのはたくさんいるんだろうな

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/26(木) 20:36:51.10 ID:KtbdE/GA
爆弾正だって弟が長慶の目に留まらなければ埋もれていた人材だし
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藤吉郎は才覚者である

2018年04月25日 15:40

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 19:50:39.26 ID:AYcHC9q1
織田信長が清須から小牧山へ本拠を移した時、信長は「清須に残るものは成敗する」と
宣言し、「小牧に引っ越さぬ者は家を焼け!」と、木下藤吉郎を奉行として遣わした。

この時藤吉郎は、駄賃馬(民間運搬業者の輸送馬)に乗って清須へ向かった。

すると清須の町人たちは「家を焼かれては悲しき」と皆藤吉郎に詫言し、すぐに
小牧へと引っ越しをした。

これに信長は「藤吉郎は才覚者である」と褒めたという。

(祖父物語)

これはつまり、輸送用の馬を使ってわざとゆっくり清須に向い、その間に
転居しないものは家を焼くという命令が出たことを知れ渡るようにした、という事
なのでしょうね。



797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 20:29:12.02 ID:070XowX1
>>796
命令の範囲内で配慮する秀吉、それを咎めず褒める信長…イイハナシダナー(´;ω;`)

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 22:03:01.32 ID:ZqzhFfys
>>796
安土への移住命令に従わないのが100人以上いなかったっけか
信長の再三の命令にもしたがず知人宅を転々としていた輩が岐阜で捕まって処刑されていた気がする

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 22:33:44.31 ID:ADL7JM1P
当時の強制連行の歴史をまとめると面白そうだな

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 22:55:15.25 ID:Qd+Euo80
文化の輸入も含めて面白そう

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 09:46:07.73 ID:QuxLrWiC
なんで処刑されるまで移住に抵抗したんだろう。
たしかに旅費や治安とか安土での生活が成り立つかどうかわからないとかあるけど。

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 11:57:51.54 ID:6CB1aaf0
>>802
以前、投稿された時には嫁さんが怖かったからって茶化されてたね
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/?cat=904

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 11:59:10.94 ID:E63W07aK
>>802
今でいうなら別の国に移住するようなもんだし、家や土地に対する執着もずっと強いだろうし。

”信長”という字が欲しい

2018年04月23日 12:04

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 10:23:47.49 ID:0sNfbvnH
織田信長という人は、若い頃はお供を一人も召し連れず市町在々を歩き回るような、
諸人にすぐれたわやく者(無法者、いたずら者)であった。

御若名を三郎と申していた時、中間一人に荷俵を背負わせ矢立を腰に挿し、西国巡礼に
出かけた。
堂宮に落書きをしながら廻り、摂津国天王寺に参ったが、近くの寺に侍らしき者6,7人
寄り合い、名乗り字を書き読んでいた。
信長はこれに近づくと

「その名乗り字一つ、私に頂きたい。国への土産にいたしたい」

そう望んだ所、先の者達尋ねた

「何れの字が欲しいのか?」

「”信長”という字が欲しい」

「これは天下取りか国盗りの付ける名前だ。その方などにはもう少し身の丈に合った
名乗りのほうが良い。」
そう笑いながら言われたが、三郎は

「それを付けるというのではない。ただ国の土産にしたいとだけ考えているのだ。」

「そういう事なら、使わない、付けないのであればこのまま取らせよう。」

そう言って、”信長”の書かれた所を切り取って三郎に渡した。

(祖父物語)

この話、司馬遼太郎の国盗り物語にまんま出てたけど、祖父物語が元ネタだったんだな。



786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 10:40:38.48 ID:Wg26+URo
武田信長は上総国盗りを意味する名前だったのか

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 19:21:46.66 ID:rCIHAaKF
>>786
甲斐を追われたあとは義教に仕えて結城合戦とかで活躍してるんだよね
義教が没したあとは成氏を頼ってその命で上総の上杉領を攻略して息子たちに残した
結構、激動の人生を歩んでるよね

本能寺の変、当日のドキュメント

2018年04月21日 19:18

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/20(金) 22:39:13.18 ID:z47y627O
明智光秀が本能寺を取り囲んだ時、信長の人数は上下百人程度でしかなく、明智勢は
三千余騎にてこれを即時に踏み破った。

そして信長の死骸を捜索したが見つからず、光秀は動揺し「もしや逃げ延びたのではないか?
如何すべきか!?」と案じている所に、明智の臣下である斉藤内蔵助(利三)という者が申し上げた

「御心やすく思し召して下さい。信長公が兵と手を合わせた後、奥に入っていったのを私が
目撃しました。」

これを聞くと明智も安心し、二条の織田信忠への攻撃へ急いだ。
信長公の死骸には、その上に森乱丸(蘭丸)が、死骸が燃えるよう畳5,6畳を重ねたと
言い伝わる。

本能寺門外の小川の端石の上に、首が十三置かれていた。
森乱丸兄弟三人、狩野又九郎、御馬屋の庄助、高橋虎松、小沢六左衛門、これは御鷹師頭であり、
鷹の御羽を継ぐ名人と呼ばれた人物であった。
その他の首は見知らぬものであった。

二条落去して5日過ぎ、明智は参内をして洛中を乗り廻し、町中の地子(固定資産税)の免除を
発表した。

(祖父物語)

本能寺の変、当日のドキュメント



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/21(土) 17:47:41.68 ID:Onnh1i4N
村井貞勝や毛利新助は晒されてないのか

そして明智光秀は本能寺を取り巻き

2018年04月20日 15:55

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 20:26:31.02 ID:A4D8S2I6
織田信長が甲州征伐から帰陣の後、徳川家康の上洛があり、これに対し、明智光秀
その御馳走が命ぜられた。

光秀は「忝なし」と承り、その接待のために珍物を調え、京堺の傘や木履(木靴)まで
買い占め、夥しく用意した。

ところが、俄に役目替えが命ぜられ、家康の馳走は他の者に仰せ付けられ、明智は
羽柴筑前守(秀吉)が安芸の毛利と対陣し難儀に及んでいるとの注進があったため、
「急ぎ加勢にまかり下るべし。横目に堀久太郎(秀政)を差し備える)と仰せ出された。

この時、明智は思った
「諏訪(の打擲事件より)このかた、御目見得も宜しからず。今度の御馳走の事も中途で
他人に仰せ付けられ外聞も然るべからず。」
そう腹立ちに思いつめ、用意した御馳走も調えものも一緒に、安土城下のどどが橋(百々橋)の
下にみな捨てた。ちなみにこの橋は「昼夜人が通うから」と、織田信長が名付けたものだという。

そして明智光秀は、秀吉への加勢に向かう人数にて本能寺を取り巻き火をかけたのである。

(祖父物語)

明智光秀大河決定記念(?)に



684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 21:01:04.74 ID:FJu9jTQg
最後はパワハラで終わる大河なんて嫌だ

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 21:55:37.04 ID:MP4IvDR6
大河で明智…どうせ信長がスゲー嫌な奴で光秀が聖人のようなキャラクタになるんだろうな
本能寺の変も義挙ってことになるんだろう

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/20(金) 02:15:42.06 ID:bbtGVHM5
オホホ、麻呂が来た意味分かるであろ? は最近使われなくなったな

信長公、木曾義昌を酷評

2018年04月18日 10:01

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 20:48:00.99 ID:fBlgphlZ
織田信長の甲州征伐の折、諏訪の寺へ本陣を据えるため入る折に、信長は
木曾(義昌)に軍勢を見せるべしと思われたためか、「従う大名小名、一人も
騎馬してはならない。歩行にて我が馬の先へ立つように」と命じ、五千人の人数皆、
信長の御先を歩んだ。

その頃、燻革(ふすべがわ)のたちつけ(膝から下の部分を脚絆のように仕立てたもの)が
流行っており、殆どはその装束であった。

寺の門前にて菅谷九右衛門(長頼)が信長に申し上げた「木曾殿がここに参られました」
信長は「寺に入れ、ここで礼を申させよ」と命じ、木曾義昌を寺の中に通すと、
礼を述べる木曾に対し、黄金二百枚を台に積んでこれを与えた。
この時、木曾義昌は台を持ち上げてこれを戴こうとした。

後に信長はこう言った
「木曾はうつけ者であるな。二百枚を積んだ台が持ち上がるものか。ああいう時は
台に手をかけ頭を付けて礼をするものだ。山家の遠国者は何も知らぬ。」

(祖父物語)

信長公、木曾義昌を「うつけ者」「田舎の礼儀知らず」と酷評



674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 21:47:39.53 ID:KT0ozs1S
持ち上がったら危険だからと謀殺するんだろうなあ

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 21:49:48.25 ID:9ncWBotz
自称、木曽の山猿の子孫だし
なお義昌に裏切られた勝頼の敗走ぶりは木曽義仲に例えられたとか

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 22:05:20.90 ID:TfZAIlfs
まあ、本能寺後の動向やら末路やらを考えるに、木曾義昌は本当にうつけだからしょうがない

今後『菊石』と呼ぶ

2018年04月17日 16:11

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 22:17:26.90 ID:1I0mDnDt
ある時、織田信長は御刀持に名をつけたことがあった。

「汝の事を今後、『菊石』と呼ぶ。何故ならば、長刀持は庭に居て良きものである。
また菊石も庭にあって見事であるからだ!」

そのように仰られたのである。

(祖父物語)

信長のネーミングセンスもわりと反応に困るものが多いような。
菊石というのはこういう「菊花石」の事でしょうね
https://i.imgur.com/jE6DOtF.jpg
img27.jpg




776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 08:31:00.65 ID:Tn6Pyrjz
庭にいていい者か
なら禿鼠でいいんじゃね?

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 20:22:44.33 ID:DiicARIH
まあ菊石なら名字にしてもカッコがつくからええわ

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 22:14:32.61 ID:b4/LIygH
人「」

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/18(水) 12:57:54.91 ID:4ciD4O7a
ノブ「お前の菊花は実に締まり具合が良いので、お前は菊石だ」

汝は何方にて骨折り、武辺を仕ったか!?

2018年04月16日 18:29

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/15(日) 23:12:20.06 ID:jJSKP1dL
織田信長の甲州征伐の折、

織田信長は信州諏訪郡の何れの寺であったか、御本陣を据えられると、その席にて
明智光秀がこう申した

「このような目出度き事は御座いません。私も年来骨を折りたる故、諏訪郡の内は皆
織田家に従っています。何れも御覧ぜよ!」

そのように武田の総崩れを喜んだ所、信長の御気色たちまち変わり

「汝は何方にて骨折り、武辺を仕ったか!?我こそ日頃粉骨を尽くしたのだ!
憎き奴なり!」

そう激怒し、懸造りの欄干に明智の頭を押し付け叩いた。
その時、明智は諸人の中で恥をかき無念千万と存じ詰めた気色が現れたという。

(祖父物語)

有名な逸話ですが、出典は祖父物語だったのですね



670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 03:07:07.82 ID:7xkzIepw
川角太閤記にもあるので、そっちが原典かもしれないし、いずれにせよ又聞きした話だからなぁ。
ただ、フロイスの書簡にも光秀が殴打されたという話はあるらしい。

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 04:27:04.65 ID:PS026Nxp
川角太閤記の光秀殴打に関する記事は至って簡潔で「信濃の上の諏訪にての御折檻」としか書いてないな

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 23:23:57.60 ID:9mr2vYq2
おまゆう

弓取りほどの者は、彼の行いを煎じて飲むべき

2018年03月20日 18:19

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/20(火) 17:17:15.85 ID:Hwko5hvB
丹波国は惟任日向守(明智光秀)が、織田信長の御朱印を以って一国を下された。
これはこの時の理にかなった申し付けであった。

光秀は前代未聞の大将であり、坂本城主にて滋賀郡の領主であった。
信長に敵対した多喜郡高城の波多野兄弟(波多野秀治、秀尚)が扱いにより安土に送られた時、
光秀は彼らをその路中で絡め取り、安土まで馬上に縛り付け、筒を差し、そこに手足を結び、
波多野兄弟を磔の姿にした。前代未聞である。その姿で天正7年6月10日、京都を通過した。

光秀は美濃国住人で、土岐氏の随分衆であり、明智十兵衛尉と名乗っていたが、その後
上様(信長)の仰せにより、惟任日向守となった名誉の大将である。
弓取りほどの者は、彼の行いを煎じて飲むべきである。

(立入左京亮入道隆佐記)

なんだか光秀の評価が恐ろしく高い立入宗継の記録である


荒木は思わず計らず、信長の敵と

2018年03月18日 19:10

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 20:24:38.14 ID:3TbVHzKY
天正6年の秋の頃より、摂津国有岡方面では雑説が流れ、しきりにこの方面の者達が
織田信長の敵に成るとの風聞が聞こえた。それはあってはならないことであると、
信長より織田政権の歴々が差し下され調査が行われるということで、荒木信濃守(村重)にも
雑説があったため、彼は茨木城まで移動し、そこから安土へと向かおうとしたところ、
茨木城の守備を担当していた中川瀬兵衛(清秀)がこのように諫言をした

「絶対に安土に行くべきではありません。安土に置いて切腹させられるよりも、摂津国表へ
軍勢を引き請けるべきです。合戦に及んだとしても、手に溜めず切り崩せるのに、安土に置いて
犬死するなど、沙汰の限りです。」

もう申し留めたため、荒木は有岡に立ち返り、思わず計らず、信長の敵となってしまった。

この時荒木は、国中の年寄共を集めて談合に及んだのだが、皆も中川瀬兵衛が申す所に
同心した。
その中で、高槻城守であり、高山飛騨守の息子である高山右近だけは
「言語道断である!荒木摂津守の普段の覚悟と相違した、曲事の仔細である!
信長の御芳志のかたじけなさを、たった今忘れ去り御敵申し上げるなど、
沙汰の限りである!」

そう、一人反対したが、彼以外は尽く中川の意見に同心し、高山の意見には同意しなかった。
ために是非に及ばず、高山も最後には摂津国衆の総意に同心した。

(立入左京亮入道隆佐記)

ちなみに荒木村重、「信濃守」は自称(受領名)で、「摂津守」は正式な任官ですね



611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 21:04:41.19 ID:jtiZDeeJ
このあと、清秀は右近に説得されて荒木を裏切るんだよね

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 00:21:49.38 ID:yFZe1MKP
そもそも荒木が翻身しようとしたきっかけも中川が原因なんだよな
早死にしても仕方ないわなこのオッサン

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 05:58:38.93 ID:jdyuLToD
でも賤ヶ岳だと…よく分からない人ですよね…

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 07:38:22.99 ID:4WKc0lBa
人望はあったらしい

諍いの原因は、「男色のもつれ」

2018年03月18日 19:08

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 12:23:05.91 ID:T43lWMTR
「信長記」首巻によれば、織田信長は父信秀から那古野城を譲られた際、四人の家老を付けられたという。
その筆頭は林秀貞(通勝)、次席に平手政秀、三番が青山与三右衛門、末席が内藤勝介
林・平手の二人がよく知られているのに対し、青山・内藤の知名度は低い。青山などは信長元服前に戦死
したのではないかとも言われ、内藤も家老と呼べる程の分限であったか疑わしい、などとされている。

信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち、三河の徳川家康と同盟を結び、美濃攻略のため、本拠を清洲から
小牧山に移そうかという永禄六年(1563年)のこと。
既に廃城となっていた古渡城付近の松原で一つの事件が起きた。青山与三右衛門の嫡男虎と内藤勝介
嫡男小三郎の二人が織田因幡守家臣桜木隼人助を襲撃したのである。といっても、虎と小三郎の二人で
襲撃したのではない。青山・内藤両勢合わせて八十六人!対する桜木も三十人を揃えていたというから、
これはちょっとした合戦である。戦いの結果、双方合わせて四十二人の死人が出て、桜木隼人助は青山の
家臣に弓で射殺されたという。虎と小三郎はそのまま織田家を退転、揃って三河に逃げて家康を頼ったと
いわれる。


諍いの原因は、「男色のもつれ」。


息子の不始末ゆえ、内藤勝介の立場が弱くなり、既に冥途へと旅立ち現世で活躍できなかった青山とともに
影の薄ーい存在とならざるを得なかったのかも知れない。

それにしても、男色のもつれで五十人近くが死ぬとは… すごく 濃い世界です…


以上、和田裕弘「織田信長の家臣団」からの受け売り。
名古屋の鶴舞中央図書館にある「津島十一党家伝記及牛頭天皇社記」に書かれているそうな。
誤読あったらごめんm(__)m。



617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 12:56:52.98 ID:5nKM9M85
秀忠「こっちの傅役の青山・内藤はかなりの知名度なのに
地名になるほど」

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 21:19:39.10 ID:xl9vsyvP
徳川に使えたのが正解だったようですね

桶狭間の戦い

2018年03月17日 18:18

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 19:40:54.30 ID:FA5jxJkX
ここに織田弾正正信長と申す人、父に少年にて死別したが、少しもその跡を敵に侵入
させなかった。

そのような中、駿河国の今川義元は、三河遠江駿河伊豆四ヶ国の軍勢を率い、三河と尾張の間の、
信長方の城である大高、沓掛二ヶ所の取手(砦)を一刻に攻め取り、永禄三年五月十八日の晩、
桶狭間と申す所に今川義元は陣をとった。

一方、尾張清州城では、林、平手を始めとした信長の重臣たちが揃って、
「清須は日本一の名城なれば、籠城こそ最善です」
と申し上げたが、信長はこれを聞くと拒絶した
「昔より籠城して運の開けたことはない。明日は未明に鳴海方面へ打ち出て、義元の首を
刎ねるか、私が討ち死にするかである。」

信長が日頃から心をかけていた侍である、森三左衛門(可成)、柴田権六(勝家)といった者達は、
「快き仰せである。我らは御馬の先に立ち、討ち死にを致しましょう!」
と申し出、その他何れも、信長の方針こそ然るべしと申し上げ、座敷を立った。

十八日の夜半過ぎ、信長は広間へ出て、”さい”という女房に「今は何時か」と尋ねた。
「夜半過ぎです」と申し上げると
「馬に鞍を置かせよ!湯漬けを用意せよ!」と命じ、御前に昆布、勝栗を持って参らせた。
そして床几腰を掛け、小鼓を取り寄せ、東向きになり

「人生五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の間なり 一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか」

そう、三度舞われて、城の内より、小姓七、八騎を引き連れただけで出立した。
既に大手の口にて、森三左衛門、柴田権六、その他三百ばかりが控えていた。信長は森、柴田へ
「両人早し!早し!」と声をかけた。

熱田源太夫殿の宮の前にて、千七、八百となった。星崎方面に控えていた佐々下野守(政次)は
その手勢三百あまりにて今川軍六万を抑える役割を仰せつかり、信長の前に出ると

「それがし、一人であっても今川と組み合い、討ち死にしようと考えていたところ、
さても妙なるお出でです。それがしが命を捨てる以上、今日の合戦に御勝ちすること
必定です。今日の戦いこそ、天下分け目の合戦です。殿が天下を治められた時、
弟の内蔵助(成政)、また私の倅を、お見捨てなされませんように。

我々は東向きに、今川の旗本へ乱れ入ります。殿は脇鑓に向かわれ、鉄砲弓も打ち捨て、
ただひたむきに打ってかかって下さい。」

そう伝えて攻撃へと向かった。

今川義元は油断していた所に、織田軍三百五十ばかりが突然攻撃をしてきた事で、「本陣で
喧嘩が起きた」と、六万余騎の者達騒ぎ立てた所へ、信長が二千あまりにて
「一人も逃さじ!」
とわめき叫んで大音を上げて切ってかかった。

これに今川勢は一支えも出来ずたちまちに敗軍し、義元の頸は毛利新助が取った。
この時、大風、あられが降り、大高、沓掛では大木が吹き倒れたという。

五月十九日巳の刻(午前十時ころ)、首数五千ばかり討ち取り、大利を得た。
この時織田信長、二十七歳であった。

(道家祖看記)



703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 07:59:50.97 ID:q6+MveO/
柴田勝家は桶狭間に参加してないと思うけどね

両大将の御軍法

2018年02月18日 19:04

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 18:31:02.46 ID:dR3J4lSy
一、信長様の御軍法は、敵と成った者は、その子々孫々までも討ち果たし、その跡まで
  掘り返すほどに厳しくして、天下を治められた。内裏の修理など仰せ付けられ、王法の
  衰えたのもお取り立てされ、その後仔細あって、上京の騒ぎを払うとして、京の地子を
  御免になられた。万事において賞罰を正しく仰せ付けられた故に、万民に至るまで、
  その仰せを奉らないという事は無かった。
  ではあったが、一度敵対した者は、詫び言を申し上げ旗下に付いても、お心を許すこと無く、
  御憎み浅からず、故に謀反人が多く出た。こういう時は、強いだけではどうにもならないものだ。

  こういった事を太閤様(秀吉)はよくご覧になっており、敵対した者へは厳しく申し付け、
  これに対し詫び言申し上げ旗下と成れば、御譜代同然に懇ろに心を開かれた。是故に、昨日まで
  敵対していた者でも、身命を捨て忠節を致すべきと考え、故に謀反人も無く、早く天下を
  治められたのだ。

  両大将の御軍法はこのように裏腹に違う、この心持ちは、小身の召使の者にも心得あるべきである。

(細川幽齋覺書)



651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 18:57:18.66 ID:cegVxge2
秀頼シフトを敷かなければ豊臣政権は続いたのだろうか?

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/19(月) 15:28:24.75 ID:TRb3+EFk
>>650
信長のほうが寝返りに甘い印象あるけどなー、細川の処世術かな

>>651
秀吉死後に秀次派と秀頼派で関ヶ原なりそう

653 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/02/19(月) 15:41:39.50 ID:jY3t1EHB
>>652
「信長と消えた家臣たち」って本を読むと細川幽斎の気持ちが少しわかるよ

北條五代記より、信長、秀吉について

2018年02月01日 17:24

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/01(木) 11:20:39.69 ID:I+NaHYvb
ある老人が言った、「信長と秀吉の弓矢の取り様は、全く別物である」と。
それはどういうことかと問うと、こう答えた

信長は永禄年中に京都へ攻め上がり、その勢力を広げ、山城、摂津、和泉、河内、越前、若狭、丹後、
但馬、播磨を手に入れられ、美濃、尾張、三河の遠近を合わせれば、15ヶ国を治めた。
ではあったが、大阪の一向宗は、坊主の一人も信長の旗下につかず敵となり、それに地下の旦那共
一味して籠城した。これらは一を以って千に当たる血気の者共であった。それに対し信長は、
強引に攻めれば味方に多くの損害が出ると考えたのであろう、5年間打ち置き後に、和平があって
城を開き退いた。

甲州で武田信玄が逆威を振るっている間も、返ってなだめ和睦し、勝頼の時代に馬を出すと、
武田家は聞き落ちに敗北し、滅びた。
人々は、この勢いで信長は関八州まで望むだろうと思ったものであったが、当時関東にあって
北条氏直は大国を守護しており、また西国も未だ治まっていなかったため、甲州より帰洛した。

このような例から考えるに、織田信長という人は、一般には武勇に長け苛立ちやすく、短慮未練であると
言われているが、そうではなく、智謀武略の大将であると評価すべきであろう。

一方で秀吉は、一身の武勇に秀で、運に任せて弓矢を取り、勝ちに乗じて驕りを旨とした。

例えば北条氏直は秀吉に臣従し、使者を登らせその上来春の上洛を決定しその支度もしていた所に、
遅参であると事を左右にして関東へ出馬した。
名大将というのは戦わずして勝つことを本意とするものだが、秀吉は弓矢の手柄を以って国を治めるのを
専らとした。その上、秀吉の奥州下向は何ゆえであろうか?

小田原攻めの間に、伊達政宗を始め、奥州の諸侯はことごとく馳せ参じ、手をついて臣従していた。
その上、諸軍は小田原百余ヶ日の長陣に草臥れ気も疲れ果てていたが、そういった所に思いの外の
計策の扱いあって、小田原城は落城した。

惣軍、早く帰国したいと希望していた所に、諸勢の労苦も考えず驕るに任せて敵も居ない奥州に下り、
田畑の検地をさせ黒川から帰洛した。
これは偏に、秀吉の弓矢の勢いを、百姓らに知らせるだけのための物であった。

(略)

その上、天下を争い戦いを為すと言うが、その身のために軍を起こすのは、一旦の利があると雖も、
その治世は久しくならず、果の滅亡の兆しが既に生まれている。
国のため、万民のために弓矢を取れば、神明の加護があって、身の幸いが生まれる。
上より下を撫育すれば、下は上に対し父母の思いを成す。
天下を治めて後、干戈を箱に納め弓を袋に入れ、秩序を専らとし民を豊かにするのが、君子の道である。

然るに秀吉、高麗国への出陣は、唐の使いが遅参した事が無礼であると言葉巧みに宣伝し、
戦争を望んだ故のものであった。これに動員されたのは五十万騎だという。そしてこれに対する
兵糧米の運送を行ったのは、日本国の民百姓である。その嘆き、悲しみ、その費え、計ることも出来ない。
その上に、敵味方の死者は幾万幾千と数えることも出来ないほどだ。これは秀吉が、驕りを旨とし、一身の
誉れを願うが故の事である。このような彼の科から、目をそらしてはならない。

(北條五代記)



524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/01(木) 11:41:24.60 ID:GfisAjrZ
ラスボス絶賛されてんなーと思ったら五代記かよ

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/01(木) 12:22:40.18 ID:90CjWerw
絶賛?

つまり大澤は信というものを

2018年01月26日 16:43

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:05:07.82 ID:Grb8o8m1
美濃国宇留間の城主・大澤二郎左衛門は、木下秀吉の謀を以って織田信長に属した。
秀吉は大澤を引き連れ信長のもとに参り、清須において信長へ御礼を申させた。

その夜、信長は密かに秀吉を招いて命じた
「大澤は名のある勇士である。もし志を変じては、重ねて退治するのも大儀であれば、
夜中に彼を誅するように。」

秀吉はこれを諌めた
「大澤大敵なりと雖も、我らを信用したくれた故に、降参を遂げたのです。
今これを殺すことは、約を変じ信を失い、ただ一時快くするだけの話であり、
今後重ねて、所々の剛敵が降伏しなく成るでしょう。」

そう説得したが、信長は得心しなかった。

秀吉は急ぎ大澤の元に行くと、信長の命を残らず説明し
「こういった事となったが、あなたは私を人質として、急ぎ退去するのだ。」

これを聞いて大澤は大いに喜び、秀吉を人質に取って帰城した。

後に秀吉はこの時のことをこう語った
「私が大澤に信を示した所、大澤は私を以って人質とし、小刀を抜いて私に指し当てて退いたが、
つまり大澤は信というものを知らなかったのだ。」

(士談)


真に必死と志さなければ

2018年01月06日 19:26

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/05(金) 21:09:25.99 ID:GQe9Igv/
織田信長のもとに、美濃侍で元は斎藤道三に仕え、度々戦功のあった平野与兵衛という勇士が
招き召された時、この平野に近付きになろうと、織田家の諸士がこれを訪ねた。
道化清十郎も彼の所に至りて対面し、このように言った

「平野殿の事は隠れも無き儀であり、当家にも招かれた以上、今後別して御意を得、
御指引にも預かりたいと思っています。」

これに平野
「思いのこもった仰せです。私は他家にあったとは言いながら、斎藤の家は御当家とも
縁がありますし、今後は御指図も請けたいと思います。
…ところで貴殿のお名前は?」

「私は当家でこれといった者でもありませんので、名乗るのもいかがと思いますが、
お尋ね故に申します。私は無双道化と申す者です。」

「さては聞き及ぶ無双殿でありましたか、初めて面謁いたしますが、久しくその名は伝え聞いて
おりましたので、久しき知音のように思います。」

この時道化は尋ねた
「非常に粗忽な質問だと思いますが、平野殿はいつでも、攻めかかるときは先駆け、
退く時には殿と、先駆け殿を毎回勤められていると承っています。こういったことは、
若輩として承っておきたい事です。我らもそういった働きを致すこともあるでしょうから、
その心がけを知りたく、仰せ聞かせて頂けないでしょうか?」

平野はこれを聞くと
「結構な質問だとい思います。ただ私は、何であっても存ずることがあって仕るという事は
ありません。

斎藤の家の子たちは、度々の取合いに、冥加に叶う者達は、先に先に、討ち死にしました。
私などは生き残ってしまった故、何とぞ重ねての戦にては必ず討ち死にを仕ろう。そう考えて
いるのですが、武勇が足らないゆえでしょうか、度々死を逃れ今日まで永らえ、つれなき命を
全うして、このようなお尋ねに出逢ってしまいました。恥ずかしいことです。」

道化はこれに
「平野殿の只今の御返答を承って、さても深切な事と存じました。
先駆け殿の事は、真に必死と志さなければ、勤め難きものなのですね。」
そう、感じ入ったという。

(士談)

まとめ1544の「俺は断じて及ばない」の、詳しいバージョンですね



566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/05(金) 21:15:57.17 ID:dyTR67CM
無双

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 21:21:50.09 ID:V+zRlDZ1
>>566
信長が、道化清十郎の武功を賞賛して、彼の旗指し物に「無双道化」と書いたそうな。

形は人であるが、心は畜生である

2018年01月05日 15:54

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/05(金) 01:10:37.80 ID:GQe9Igv/
小谷落城の時、浅井備前守長政が既に自害に及ぼうとしているのを、織田信長
不破河内守(光治)を遣わし、このように伝えた

「今までの縁者の好があるのだから、私の方に少しも疎意な気持ちはない。
ただ兜を脱いで、降参してほしい。」

長政はこれに返答もせず、しきりと自害しようとしたのを、傍の者達が諌めた

「信長がこれほどまで慇懃な礼を遣わした以上、何か仔細があるのでしょう。
どうか平に御降参あって、御家の相続を成されるべきです。」

この説得に長政も遂に同意し、「であれば、父下総守(久政)の生害も御免あるべし」と申し送り、
城を出て、百二三十騎ばかりで、降参の体を示した。

信長はこれを櫓の上から目にすると、声高に罵りの声を上げた
「彼は長政か!何の面目あって降参するのか!?」

長政は大いに面目を失い、その道から赤尾美作守の宿所に入り、そこで自害して果てた。

この時、浅井の重臣である浅井石見守赤尾美作守も続いて一緒にはせ入り自害せんとしたが、
大勢の敵に隔てられ、また彼らは老齢でもあったので足がついていかず、剰え生け捕られてしまった。
信長は彼らを引き出させ、また罵倒した

「汝らは故なきことを長政にすすめ、朝倉と一味して親しき我を敵と致し、
今このような姿に成り果てた。何か言いたいことはあるか!?」

赤尾は何も言わなかったが、浅井石見守は居ずまいを直して言い放った
「事新しき仰せに候!朝倉義景を相違わず立て置くとの誓状の血判が未だ乾かぬ内に、
越前に攻め入った事、これによって長政は義理を違えず義景に一味したのだ!

只今も、『城を出られ候へ、別儀あるまじき』と様々に言ってきたが、長政は
『信長の心中は、手の裏を返すつもりなのだ。ただ自殺すべし。』そう申されたのを、
『もし天命あって長政様の命が続けば、時節を得て信長をこのように仕りましょう!』と、我らが
達って諌めた、そのためにあのようになったのだ。

御辺はただ、天運が強いだけだ。義理を知らず恥を知らず、全てに偽りを行い、
形は人であるが、心は畜生である!」

そう憚ること無く言うと、信長は激怒した
「汝はその言葉と違い、生け捕られているではないか!」

「我ら老衰し、止むを得ず生け捕られた。だがこのような事、古今に例も多い。
武勇にて敵を討たず、偽りを以って人を滅ぼす。これは武士の恥辱である。
今に見ておれ、御辺は必ず、下人に頸を斬られるであろう!」

信長は憤激に耐えず、杖で石見守を打った。石見守はカラカラと笑い
「搦め捕った者へのかくの如きはからい、あはれ良き大将の作法かな。
いかほどでも打てや犬坊!」
そう言い放った。

この後両人とも、斬罪となった。

(士談)



455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/05(金) 14:10:16.44 ID:Y5hAbSpF
江戸時代の人はこういう信長像を信じてたんやなぁって

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 10:59:06.70 ID:fLWOIJC3
かと言って現代の信長像が正しいとも限らないのが難しいところ
七回忌にはすでに世間に忘れられた存在になってたり
秀吉がその後の法要をやめても非難の声すら出なかったり
信長と同時代を生きた人間達のドライな対応を考えると
現代の持ち上げとの差が興味深いね

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 11:07:57.66 ID:eCvOkl/F
三好長慶だってあっという間に忘れ去られたしなぁ。

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 11:14:44.36 ID:VaK1oG/E
信長の信奉者は三斎の他には誰がいたんだろう

459 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/06(土) 11:44:25.80 ID:BFNYuTQs
森一族は信奉してそうだが

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 12:54:14.27 ID:027hV0Ea
政宗

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 13:12:31.57 ID:b26EW6jH
信長の場合忘れられたんじゃなく秀吉に吸収されたといった方が正しいだろう

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 19:23:00.32 ID:V+zRlDZ1
実は信長が暴君だったって話を広めたのは秀吉なんだよね。
秀吉が編纂させた天正記なんかは、露骨には書いてないけど「信長はすごい暴君だから裏切られまくった!
そんな信長に誠心誠意忠義を尽くした秀吉偉い!」
って基調で書かれてるし。

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 19:52:49.88 ID:VtzcOti0
怖くて逆らえずに共犯者に成り下がったただのヘタレやん

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 20:06:27.07 ID:b26EW6jH
>>463
それに従った全日本人はヘタレを超えたヘタレであり君もその子孫ということになるんやがw

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 20:26:49.68 ID:51Y0Y3LF
なのに「俺は信長ほど甘くない」と言っちゃうラスボス。どんだけやん

此輪の内になしと知れ君

2018年01月02日 20:59

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/01(月) 21:34:22.11 ID:DaFU5Q93
越前への織田信長の侵攻により、朝倉義景が一乗谷を棄てて大野に退く時、義景は
福岡石見守に二人の子を預けた。そして
「一人は女であるが、髪を下ろし、後々比丘尼として出家させよ。もう一人の喝食は
大阪(本願寺)との契約であるので、大阪に遣わすように。」

しかし福岡は
「私が二人の女子を預かり申すこと如何でしょうか?私はただお供つかまつり、
死ぬことを一途に決めているのです。」
と反論したが、たって命じられたため力なく、彼は急ぎ二人の女児を連れて宿所は帰り、
妻女にも告げず、一首の歌を書き付けて涙とともに出立した

『今日出て 廻りあはずば小車の 此輪の内になしと知れ君』

二人の息女を馬に乗せ、中間二三人計りにて豊原寺を目指して進んだが、野伏たちが
集まり押し留めた。
福原は目的をありのままに伝えた。
野伏たちは聞いてきた「殿は何者か?」
「私は福岡である。」

これを聞くや野伏たち
「ならば通せない!先年鳴鹿の村と公事(裁判)の時、そなたは彼らの奏者をして、
我が村は負けとなった。今参り会った事こそ幸いである、その時の返報申さん!」
たちまち村々より軍勢が出てきた。福岡は今は叶わぬと思い、下人に持たせた薙刀を取って
大いに戦い、討ち死にした。

その後、二人の息女は方々流浪し、喝食は後に本願寺門跡の妻と成ったという。

(士談)



428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/02(火) 11:55:26.17 ID:jyp6Z660
娘たちには手を出さなかったんか
殺して身ぐるみ剥ぐのかと思ったわ

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/02(火) 18:49:33.17 ID:isK3qbhd
だなぁ。女はそうそう殺さない気が。

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/02(火) 19:04:58.13 ID:isK3qbhd
一揆衆根切りのときは女子供も殺すけど、基本は奴隷として売り飛ばす

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/02(火) 19:14:46.22 ID:jyp6Z660
娘だったかどうかは覚えてないけど姉小路のところは殺されてたはず
殺した連中だったかが、寺に着物とかを納めてる

速やかに誅し賜るべし

2017年12月30日 18:04

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/30(土) 17:41:51.16 ID:EhiSMOPN
元亀四年八月、織田信長は越前を退治し、朝倉尽く敗北、朝倉配下の屈強の者共は、
討ち死にするか、あるいは生け捕られた。信長は朝倉より寝返った前波吉継、富田長繁を
召し出して、そういった人々の名字を尋ねた

この時、牧弥六左衛門が生け捕られ連れてこられた。
信長が「彼は何者か?」と聞いた。前波が「彼は牧と申す者です。」と答えると
「牧といえば聞き及びたる者ではないか。それほどの者がどのようにして捕えられたのか?」

これに牧が答えた
「御家臣の前田又左衛門(利家)、佐々内蔵助(成政)と名乗り懸り、刀禰山まで追い詰め、
勝負決しようという所で、膝口を強かに突かれ、進退窮まりて生け捕られました。」
そう聊かも気後れ無く語る姿に、信長は

「彼は勇姿である!死罪を宥して、今後は味方に参り、忠戦を尽くすように。」

牧はこれを承るも
「先程からの御恩言、忝なく存じます。しかしながら、私は譜代として朝倉の家に奉公の
身であり、ことに国中に奉行として知られた者でありますから、何の面目があって命を
生き長らえるでしょうか。ただ、速やかに誅し賜るべし。」

前波吉継はこれを聞くと
「信長様のお言葉に偽りはない。本領も更に別義なく安堵される。畏まって忝ないと申す
べきだ。」

牧は目を見開いて前波を睨みつけ、言った
「和殿は朝倉普代の者にて義景の厚恩を蒙りながら、己が不義だけでなく、人まで汚す気か!?
ただすぐに頸を刎ねられよ!」

信長も力及ばず、彼を河原に引き出して頸を刎ねた。
この時牧は、「侍品の者、打ち捨てにすることがある。だから先に腹を斬ろう。」
そう言って、脇差を乞うて腹を斬ったという。

(士談)



信長の度量

2017年12月08日 21:24

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 21:42:06.30 ID:ZG2/Mmcy
織田信長は二十年あまり、憤怒を抑えていたが、石山本願寺が和睦し開城すると、
天下はここに平均成った。

すると天正八年、信長は林佐渡守を流罪とした。
彼がかつて、名古屋において信長を謀ろうとした罪によってであった。
また安藤伊賀守を流罪とした。
これは、彼がかつて武田信玄に内通したためであった。

小さなことであっても、自分が恨みに思ったことを、後に自身が世に盛んになってから、
報復することを考えるのは、おおよそその人に度量があるとはいい難い。
我が身の遺恨故に人を害し、損なおうというのは、大丈夫の心とはいい難い。

織田信長にはこう言った誤りがあった故に、荒木村重、松永久秀らは安んずること出来ず、
天下に乱逆を成した。惟任光秀による禍も、この故であると言えるだろう。

一方秀吉は、毛利が柴田と内通し、室町殿(足利義昭)を再び京に復帰させようとしたことを
知りながら、後に毛利や義昭に対し、聊かもそういった気色を見せなかった。
信長と比べ、その度量大きく違うと言うべきであろう。

(士談)



397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 21:46:35.05 ID:ek3nQsgY
毛利そんなことしたの

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/08(金) 07:31:31.32 ID:H32lLvCl
>>397
史実で言うと本能寺の変後にあった義昭の京復帰話は秀吉や家康も絡んでて
史料を見てるとかなりの進展を見せていた時期もあったようです。

柴田に内通うんぬんは秀吉と勝家のどっちが勝つか分からんので片方に加担せず
様子見を続けたってのが真相ですね。

そういった事で勝家滅亡後に秀吉から隆景へ送られる脅迫状としか思えない書状へとつながる訳ですが....