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若輩でそのうえ理に当たる故

2019年08月19日 18:06

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/19(月) 16:33:51.23 ID:LMV/o/Q5
生駒左近(原注:光政様の家士である)は織田常信(常真。織田信雄)のところに居り申したという。
(生駒が)小小姓である時、(信雄は)何の用あってか居られた場所で「ここより内へ人を入れるな」
と御申し付けであったという。

その口で番をしている時、出頭の者(寵愛を受けた者)が通ろうとしたので、前述の事を申して留め
たが、聞かずに通ったので切り殺した。若輩でそのうえ理に当たる故、褒美されたという。

仁体静にして公儀就き良し。これ故か武州様(池田利隆)から光政様(池田光政。芳烈公)の御守に
附けられた。しかしながら少し私曲があり、それ故か生駒家は絶えた。下方(末裔という意味?)は
真っすぐである故か、今も相続申していると(光政の)仰せであった。

庚申11月19日、備前西の丸御内所での御物語り。

――『烈公間話』



149 名前:148[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 02:51:05.66 ID:/g8X7WjZ
>>148
ググったら下方覚兵衛という光政の傅役がいたようなのでその事みたいです>下方
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私が切腹に及ばない事の方を憂い

2019年03月23日 18:43

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/23(土) 12:03:33.17 ID:R2H6RQcv
織田信長の次男である信雄は、本能寺に於いて信長が弑されたことを知る前に、鬼頭内蔵助を信長の
様子をうかがわせるため京都に遣わした。

鬼頭が山科に至った時、伊藤安仲に出会った、伊藤は信長の笛役であった。
伊藤は鬼頭を見て「ここは何処だろうか。」と尋ねた。逆に鬼頭は「貴殿はどうしてここに
居るのか」と聞いた。伊藤は涙を流し

「貴殿は未だ知らないのか。信長公が今朝、明智の謀反により弑され給われた。私のような者共は
途方に暮れて行先も解らず迷い逃げたのだ。」

それは朝日が山端に差し昇る頃であった。鬼頭は且つ驚き且つ疑った。しかし伊藤は
「偽りも事による。もし今信長公が恙無く、私がこのように大事の偽りを言えば、一体どうして
日本の地に身を置く所があるだろうか。」

「然らばここより立ち返り、貴殿の言葉を信雄様へ申し上げよう。」

「尤もである。証拠として、これは信雄様が御覧じ覚えたるものである」と、小刀を渡した。

鬼頭は急ぎ信雄の居城伊勢長島へと乗り戻り、その日の太陽が傾く頃に、三十余里を馳せ到着した。
然れども馬は疲れを見せず、まさしく稀代の駿足であった。

さて、鬼頭はこの趣を申し上げたが、信雄は信じようとしなかった。そこで証拠としてかの伊藤の
小刀を出すも、猶信じず、却って鬼頭が狂気したと思うような顔色であった。
致し方なく鬼頭は「やがて注進が参るでしょう。」と言って自宅へ帰った。
信雄は御伽衆の梅心という者に命じ、鬼頭を訪れてその様子を伺わせた。

鬼頭は浴衣を着ながら梅心の前に出て対面し、
「私が狂気したのかと思われたによって、その方に伺わせたのだろう。
もしあの情報が虚説と成って私が切腹させられれば、むしろ大いなる幸いであり、まことに望む所である。
虚説ではなく、私が切腹に及ばない事の方を憂いている。」
そう言って外に出て、繋いでいる馬の湯洗いをすると、馬はいなないて前掻きをした。鬼頭は馬の健盛なる
事を梅心に自慢した。梅心は帰ってこれを信雄に報告した。

その日の日暮れより諸方の早飛脚が、本能寺での事を告げた。
信雄は信長の弔い合戦について、今日よ明日よと言いつつ、出陣を十余日も引き延ばした。
その間に秀吉が備中高松より上がって、信長の仇を討った。これは信雄が無勇の故である。
これによって、後年、信雄は秀吉のために領地を没収された。しかし秀吉は信雄の制しやすいことを知って、
害はないと判断したため、大和に於いて五万石を与えた。

(武将感状記)

関連
鬼頭内蔵助の報告と織田信雄、+おまけ


811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/23(土) 12:23:06.52 ID:1Z0ElKd4
信雄「大坂城捨てよっと」

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/27(水) 13:05:37.15 ID:BAFAiwld
>>810
史実は伊勢長島じゃなくて伊勢松ヶ島だろう

故に再び謀叛を起こした

2019年02月24日 19:16

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/23(土) 19:51:30.66 ID:MaZU3Wfr
山路正国の逃走後)

とりわけ織田三七信孝は秀吉に与するを好まず、また三介信雄に対しては牆に鬩ぐ(兄弟が内輪で
喧嘩すること)恨みがあって侮りを抑える心はなく、故に再び謀叛を起こした。

信孝が柴田・滝川と一統して天下を覆そうとする旨を議定したことは秀吉の聞くところとなり、4
月17日に秀吉は長浜より美濃大垣城に至る。信孝は美濃・伊勢の人数を端々で一手になし、方々
を焼き回った。

このため秀吉は「是非とも岐阜に攻め入り、鬱憤を散らさん!」とするところで、その頃は長雨が
止まず、郷土の川は洪水してまったく兵馬を渡すことができなかったので、秀吉は大垣に5,6日
滞留した。その間に伊勢峯城(滝川方の城)を信雄の御人数や、その他蒲生飛騨守氏郷・長谷川藤
五郎秀一・多賀・山崎・池田などが攻め詰め、落去したとの吉報があった。武辺勝利の吉兆である。

さて柴田勝家は信孝の御謀叛に力を得て、天下を取らんとしたのは無論のことである(可取天下事
勿論也)。旧冬に勝家が信孝に一味した時は救い奉ることができず無念であったが、今この時には
きっと一戦に及ばんとする。

幸いにも只今秀吉は美濃に赴いているので、その隙にまずこの表を打ち破るべく、かの謀叛人の山
路将監(正国)を案内者にして、敵の行動や陣取の様子をことごとく尋ね探らせた。

天正11年(1583)卯月20日、佐久間玄蕃助(盛政)を大将となして余呉の海馬手を通り、
賤ヶ岳を手元に置いて、中川瀬兵衛尉清秀が陣取る尾崎に押し寄せ、柴田父子は堂木山と左祢山を
襲うために近々と人数を立ち寄らせたのである。

――『天正記(柴田退治記)』


三七信孝も智勇は人を超えていた

2019年02月18日 17:34

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/18(月) 17:26:48.51 ID:QhmfMSe6
また織田三介信雄は人数を率いて岐阜に攻め入った。三七信孝(織田信孝)もまた将軍(織田信長
の御息男で、智勇は人を超えていた。(而智勇越人)

信孝がどうして自害を拒むことであろうか。かの山にて信孝は髪を洗って身を清め香を焚き、将軍
から賜った太刀で、首を刎ねて死んだ。逆心によって滅んだことは、おおかた天命なのではないか
(於自害豈可辞乎。彼山而沐髪淸身焼香以将軍所被下太刀首刎死。以逆心相亡事殆不天命乎)。

――『天正記(柴田退治記)』


彼を「ノブヲ」と云うのは誤りである。

2019年02月01日 18:09

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 20:45:58.89 ID:VSKpX2dp
織田信雄について、今の人が彼を「ノブヲ」と云うのは誤りである。本来は「ノブヨシ」である。
永禄の御湯殿上日記に、「今日織田ののぶよし参内」とあるのは、信雄の事であると、村井敬義が
語っている。

伊勢貞丈曰く、「私の同僚に、昔の土方勘兵衛(雄久)の嫡家の人が有るが、昔勘兵衛はこの信雄から
一字を賜ったとして、代々雄の字を通り字としている。今の亥之助は、実名を雄忠と号している。
先祖より代々雄の字をヨシと唱えている。」

(安斉随筆)

マジすか伊勢貞丈先生。つか江戸中期はノブヲ呼びが一般的だったのか信雄。



711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 21:24:51.97 ID:hUh1KEi1
>>710
そんな近い時代でさえ読み方論争があったのかw

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 21:43:06.46 ID:jlsrvXNy
土方雄久って、雄を貰った時は雄良を名乗ったんでしょ?
"よしよし"だったのか?

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 21:43:24.47 ID:bXFoRI6t
ノブカツの読み方はいったいw

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/01(金) 08:56:27.56 ID:d8IU6Pkh
信雄の読みについての考察は別の逸話でもあったな

常真を攻めなさろうと思し召し

2019年01月29日 21:41

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/29(火) 17:46:00.29 ID:Wr+hP5vY
(賤ヶ岳の戦い勝利後)

その年も暮れていけば、秀吉は大坂の城に御入りとなられた。年が明ければ尾張へ取り掛かって、
常真(織田信雄)を攻めなさろうと思し召し、

「私は水攻めで2つも3つも城を落とし遂せたのである。尾張の国は水攻めになる国だぞ。その
故は、ことのほか大河があって、少しの水でも国中へ暴れるからだ」

と秀吉は仰せになり、

「皆々皆々よ、さてさて御気を付けなさるのですぞ! 熱田辺りを丈夫に御塞き止めなされば、
国中は水に落ち込むことであろう。その用意をせよ!」

と御分国の鍛冶に鍬・鎌・斧などを仰せ付けられ、ならびに明俵をおびただしく御用意なさった
と聞こえ申し候。また、伊勢・近江・美濃の山々で枠の木などを仰せ付けられた。

(中略)

その年申の4月9日に、家康卿と秀吉との長久手の御合戦の次第は書き付け申し上げるに及ばず。

秀吉は大坂に御馬を入れられ、家康卿を何とぞ御引き付けなさりたいと思し召された。前述の水
攻めの御謀を仰々しくなされたので、東の常真方では恐れ慄く心をも抱き、

「秀吉が多勢を引率して当国に向かわれることは必定なり。当国は水が国中へ落ち込む国なれば、
ただ秀吉に御従いになられることが御もっともです」

と常真に申し上げれば、常真は悪心得で「さては家中は筑前守に内応でも入れたのか」と前疑い
なさったと聞いている。この事が秀吉に伝わり聞こし召され、秀吉はそれならばと思し召して家
中を御手繰りなさった。

常真の御家中の津川玄番(義冬)・岡田助三郎(重孝)・滝川(雄利)・浅井(長時)・丹宮の
5人に御状を送り付けられて、様々に御手繰りになられた。

この事を常真は聞こし召されたのか、岡田助三郎のことを土方彦三郎(雄久)に仰せ付けられて、
かの彦三郎が天守で助三郎を抱いたところを常真が手討ちになさったのだと、聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』


我を殺すのか、又甲冑を奪うのか!?

2019年01月03日 16:12

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/02(水) 20:21:19.56 ID:EIuaIzZA
丹羽佐平次は織田信雄の小姓であったが、後に豊臣秀頼に仕え、大坂落城の時、大阪城より
脱出し泉州貝塚まで落ち行ったが、そこで落ち武者狩りの野伏に道を遮られ取り巻かれた。
この時佐平次は彼等に言った

「我を殺すのか、又甲冑を奪うのか!?着ているものを剥がされるのは恥である。
しかし私は既に日本国を皆敵にしたのであるから、今も自分が世に有るとも思えない。
よって出家をしたい。どうかそのために、僧を一人呼んでほしい。」

これを聞いて野伏たちは僧を一人連れてきた。佐平次は「ならば」と、彼に立ち寄ると、
その僧をひしと取り押さえ、刀を僧の胸に当て、人質とした。

これに野伏らはどうにも出来ず、人質の命と引き換えに「どこであろうと送り申そう。」と言い、
そこで紀州和歌山に所縁の人があることを告げ、野伏たちにそこへ行かせ、暫くして迎えの者がきて
其の者と共に紀州に隠れ住んだ。それから程なくして赦免を被ったという。

(常山紀談)



563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/02(水) 21:09:01.11 ID:GSc+bkMx
>>562
落ち武者狩りなのに律儀w

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/03(木) 13:04:20.09 ID:+x4SZTyg
その僧の檀家たちが野伏だったのかもしれない

この王子、他の信長の子息達よりも、その父に似ている故

2018年11月09日 09:36

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 00:02:05.85 ID:of0Wpt0o
この王子(織田信雄)をもしキリスト教に帰依することが出来れば、大いなる収穫を得ること疑いない。
彼は意思甚だ強く、他の信長の子息達よりも、その父に似ている故である。

彼は諸人に対して甚だ親切なのだが、もし命令に背くものが有れば直ぐにこれを罰する。故にその家臣の
行儀正しく丁寧なることは驚くほどである。

先ごろ、彼は兵士たちに与える物がなく、一方で、一人の殿が余るほどの収入を有するのを見て、彼はその殿から
六千俵を奪ってこれを兵士に与えた。

この事件の後、信長は信雄を招き、何故そんな事をしたのかと尋ねると、

「私は父上の子の中で最も貧しく、兵士たちに与える物を持っていません。そのためあの殿より、有り余るものを
少し取ったのです。」と答えた。

信長は彼を責め、「奪ったものを返すように。」と言ったが、信雄はそれを理解した様子を見せなかったので。
信長は怒って小さな枕を彼に投げつけ、その殿の財産に対する彼の侵害を責めたのだが、それ以上は何も
出来なかったため、この殿に対し
「この上は武力を以て奪うべし。」
と言い、実際に対陣させた。

この殿は1万人、又は一万五千の軍勢を集め、一方の信雄は七百人ばかりであった。しかし信雄は
「何人も動くべからず」と命じ、一人で馬を馳せてその殿の陣中に乗り込み、諸方に乗り廻して混乱させたが、
殿の陣中では、彼が信長の子であるため誰一人これに触ることも出来ず、殿は隠れ、これを聞いた信雄は
「これを捜すのは時間を損ずるに過ぎない」と、闘いを中止した。

(一五七八年一月十四日(天正五年十二月七日)附、都發、パードレ・ジヨアン・フランシスコ書翰)

正直ひでえ話だな。



420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 02:09:06.89 ID:4LmF8tH6
相手は四十万石くらいの人だったのかな

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 07:39:04.23 ID:JEmsZ9R9
再評価せねばならぬ武勇伝だね

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 09:28:31.32 ID:ow9Yza7j
三介殿のなさる事だからしょうがない

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 09:54:57.62 ID:tNMLWG7s
>>421
斜め上に

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 18:43:03.92 ID:DZoKZpxX
>>419
何でそうなるんだ…としか思えない行動回路だ

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 20:18:27.35 ID:Py2/VUOM
確かに事実とは思いがたい

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 21:08:40.86 ID:xhuQeHXe
>>419
頭鳩山かな?

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 22:13:01.97 ID:0+fdcXJE
本多正純「一人の殿とは一体誰のことなんです?」

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 11:07:22.55 ID:DMxEB0Op
神君だろ

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 16:39:27.63 ID:9TutT64G
>>429
それは正純じゃなくても気になる

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 20:14:27.23 ID:Rb9DE5g9
収益のために頑張ったら主君のドラ息子に理不尽に収奪されるわ
気難しい主君がせっかく説教してくれたのに息子の物分りが悪いせいで
匙を投げられて合戦もどきまでさせられた挙句
アホでも主の息子だから手を挙げられないで居たら散々暴れられるとか
この殿にしてみれば降って湧いた災難すぎる…

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 15:18:40.73 ID:2rFScKgH
>>419
もしこのドラ息子の話が本当ならそんな役回りは光秀か村重かな
1年後に村重は謀反を起こしているし

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 17:16:11.36 ID:6IaFLY1o
本願寺に横流しする手筈だった兵糧を・・・
ぐぬぬ

水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで

2018年07月05日 12:48

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/05(木) 09:38:54.04 ID:OR8ekP7n
父・惣兵衛(水野忠重)の家臣である富永半兵衛と申す者が、私のことを惣兵衛に告げ口し
その仲を散々にさせたため、あまりにも迷惑し無念に思い、牢人するのならこの者を斬ってから
牢人しようと心に決め、伊勢の桑名で手討ちにした。

それから私は牢人したのだが、伊勢長島に常真公(織田信雄)が居られたので、伺候して「奉公をしたい」
と申し上げたものの、これを知った惣兵衛より「倅を召し出すのなら、我々は味方をやめ在所に引く!」と
殊の外強く構いをしたため、(当時、小牧長久手の戦いが起こっていた)奉公することは出来なかった。

それから私は小牧山に参った。権現様(徳川家康)へ本多佐渡殿、高木筑後を通して『前々のごとく
召されますよう』と申し上げたが、常真の時と同じように、これを知った惣兵衛が構いを申し上げたため
これも成らなかった。

この時権現様は「そのうちに惣兵衛を説得しよう。それまでは私が存ぜぬ体にて隠れて居るように。」
そう仰られたため、小牧に居るわけにもならず、清須の須賀口の寺に滞在した。

その頃太閤様(羽柴秀吉)は美濃口に出陣という沙汰にて、惣兵衛と丹羽勘助は美濃口のだきという所へ
遣わされた。その時、前田の城主である前田与十郎が常真公を裏切り、滝川一益を蟹江城に引き入れた。
このため惣兵衛、丹羽勘助も急遽こちらに向かい、私も駆けつけた。
6月17日、滝川の子である滝川三九郎が東の大手より出撃した所を、横合いから突撃し、黒母衣で
金の半月の指物の者(その名失念いたし候)と鑓を合わせ、三鑓突いたが、すばやく門内に引き返し
門を閉めたため、討つこと出来なかった。その時私も二ヶ所鑓によって負傷した。

その後、権現様が前田の城の傍に作った堤に馬を立て休憩されていたところに伺候し、先の私の戦いを
詳しく申し上げた所「今に始まらぬ手柄である」と御感なされた。この時、傍に朝比奈左近も居たので、
その様子は左近が詳しく知っている。

(水野日向守覺書)

水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで


908 名前:sage[] 投稿日:2018/07/05(木) 17:50:05.82 ID:/LwZ2lnk
父親大激怒。

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 16:33:36.73 ID:i9a9NQi9
どうも、最近の勝成研究では、富永半兵衛は佞臣だった、ということになっているらしい
https://blogs.yahoo.co.jp/tachanace/40076741.html

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/09(月) 14:06:32.67 ID:0EAhNFSl
佞臣という言葉がすでに新しくないというかなんというか

なにやってんねん織田家

2018年06月29日 18:16

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 19:52:50.59 ID:uDHlqSWM
大阪の陣が終わった後、京都ではもっぱら女能が流行した。

その頃、吉野という傾城の太夫が四条河原にて能を興行していたが、これを織田上心(常真・信雄)が
お忍びで見物をしていたところに、織田宇楽(有楽)も見物に来ており、ここで常真の衆と有楽の衆が
喧嘩と成った。
これにより双方多くの侍が死亡し、また能舞台も完全に破壊されるという、殊の外大きな騒動と成った。

この事件があったため、女能は固く禁止と成った。

(長澤聞書)

アイドルのライブで乱闘騒ぎ起こしたようなものか。なにやってんねん織田家



890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 20:36:11.72 ID:z4iy15Aq
>>889
>能舞台も完全に破壊される
とばっちりにもほどがあるw

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 21:02:27.51 ID:7FJJQwwj
喧嘩という名の局地戦。

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 22:20:16.12 ID:/ZvrGPKO
女能って言えばその芸女は遊女も兼ねてたから、きっとアフター権利を巡って争ったんだろうな

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 12:59:47.65 ID:aCJ1kYtX
阿国歌舞伎もレズビアンショーみたいなものだったしな

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 13:27:21.37 ID:5kUak/hA
あら^~

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 19:45:30.05 ID:Fy+Q12xR
どこからそうなるんえ?

この茶筅御曹司は

2018年04月22日 21:18

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/21(土) 20:37:34.77 ID:O7Cf+qsQ
本能寺の変が起こった頃、蒲生飛騨守(氏郷)は近江の日野の谷に居たが、即座に安土へ参り、
土山に在った茶筅御曹司へ使いを立てて

「私の人数は三千あまり有り、また信長公馬廻りの士は五千もおわします。
この五千は明智の十万にも勝るでしょう。
必ず明智は安土に参ります。これと合戦すべきです!」

そう申し上げたが、茶筅御曹司はどう思ったのか蒲生に同意せず、終に合戦は無かった。
この茶筅御曹司は、後に尾張常真(織田信雄)と申した人である。

蒲生も一人の力ではどうにも出来ず、空しく日野谷へ帰った。
その後明智は坂本より船にて襲来し、安土の城を焼き払い、金銀を取り集め坂本へと帰った。

(祖父物語)


時移り世変じて

2018年01月20日 18:02

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/19(金) 22:03:19.61 ID:o+2SsETU
高木主水正正次は殊なる勇士であり、元は水野下野守(信元)の家臣として、戦功隠れ無かった。
また同じく水野の家臣であった神谷金七も、家中において高木と並び称される勇士であった。

水野信元が謀殺された後、その家臣は散り散りとなったが、高木、神谷は勇士の聞こえあり、
徳川家康より召し出したいとの通知があった。

高木はこれに応じ家康の家臣となった。
しかし神谷はこれを断り、織田信雄に仕えた。その頃は織田信長が天下の権を握っており、
その息子で北畠を継いだ信雄には、天下の士は皆、これに仕えることを望んだものであった。

その後、時移り世変じて、徳川家康は遂に天下の主となり、織田信雄は次第次第に漂泊した。
神谷金七はそんな漂泊した信雄家にて没し、その子の左馬助は、かつて父が家康より召された
由緒により、徳川に仕えることになった。

(士談)

ちなみに高木正次は、元和九年に一万石ながら大名になっていますね。


浅利のハイタカ

2017年09月09日 10:14

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/08(金) 23:39:00.53 ID:XzrI/Uma
尾張内府(織田信雄)の元に、「鷹の上手である」と、浅利牛乱という者が目通りした。
彼は「ハイタカに雁を取らす」との言い立てをした。信雄は「これは珍妙である」と、彼を召し抱えた。

浅利はこの雁取りの鷹を据えて御前に出たが、この鷹、殊の外羽を羽ばたかせて鳥を取ろうとする
様子であったが、その日は狩りをさせずに置いた。脇から見れば、まぎれもなく雁を取るような体であった。

しかしその翌日、浅利は信雄の前に出ると「あの鷹はイタチに食われてしまいました」と、涙を落として
説名した。

実は、先に鷹が羽ばたいていたのは、一方に餌を持って見せたため、鷹が興奮していたということで、
つまりは偽りであったという。すなわち、信雄を騙したということである。

(士談)



101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/09(土) 08:31:06.55 ID:4xz0EMTm
>>100
つまり、人を騙した浅利に罰があたった、ってこと?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/09(土) 18:19:41.24 ID:pozdrvhm
イタチにヤられたことだって本当かどうか

豊臣関白北條征伐出陣の事

2016年11月29日 09:07

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 22:58:38.33 ID:GUK5L/Vi
豊臣関白北條征伐出陣の事

 秀吉が北条を討たれに行った時、諸将は浮島が原で並び居て秀吉を待っていた。
秀吉は糸緋威の物具を着て、唐冠の胄をかぶり黄金をちりばめた太刀を帯び、
大きな土俵空穂に征矢を一筋指し、仙石権兵衛が持ってきた朱の滋藤の弓を持って、
七寸ある馬に金の瓔珞の馬甲をかけ、静かに歩かせて打通られた。
東照宮が信雄と共に出迎えられたのを見て馬から降り、

「いかに、二心あると聞いたぞ。いざ一太刀で参らん」

と太刀の柄に手を懸けられた。東照宮は左右の人に目を向けられて、

「戦始めに太刀に手を懸けられとは、めでたいことですな。」

と高らかに仰せられると、秀吉は何も言わずにまた馬に打ち乗って通られた。
(常山紀談)



361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 23:05:09.17 ID:HNq+lJTq
権兵衛、許された直後なのに出張ってるな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 00:01:06.99 ID:BqHMB20x
いや、時系列おかしいだろ。

【ニュース】[織田信雄、秀吉の顔色うかがう 清洲会議3日前に書状]

2016年07月08日 16:27

814 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/08(金) 09:41:10.15 ID:lO69aRU1
[織田信雄、秀吉の顔色うかがう 清洲会議3日前に書状]
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160708-00000021-asahi-soci


本能寺の変(1582年)で織田信長が倒れた後、後継をめざした次男・信雄(のぶかつ、1558~1630)
が羽柴(豊臣)秀吉に宛てた書状を、中京大の村岡幹生教授らが入手し、7日発表した。日付は信長の後継者を決
めた清洲会議の3日前。秀吉に指示を仰ぐ内容で、慌てた様子もうかがえるという。
書状は、縦29・4センチ、横40・1センチ。古書市場に出品されていた。日付は6月24日。年は書かれてい
ないものの、共同で分析した播磨良紀教授が、時代で変遷した信雄の花押(サイン)の形を分析して特定した。
「そちらの様子でよきように決め、連絡して下さい。近くへ陣を寄せます」といった内容が書かれていた。本能寺
の変が6月2日。13日には秀吉が山崎の戦いで明智光秀を破っており、信雄が秀吉軍に加わろうとしたとみられる。

・・・古書市場で出品って誰が?



815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 13:32:55.55 ID:eVs+Krws
所有者

816 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/08(金) 14:09:34.84 ID:uhV5wMs+
だいたい価値の分からない遺族が一括して業者に渡すので
業者が市場に売りに出す

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 16:10:51.53 ID:EZmvQCNr
>>814
こういうのいいなぁ、もっとでてきて欲しい。

武夫の名を汚すまじ

2016年04月16日 17:41

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/16(土) 17:32:27.72 ID:eKrsW2py
豊臣秀頼家臣の石川伊豆守貞政は、片桐且元の討ち手の役を仰せ付けられていたが、且元と一味して
襲撃に先立って知らせたため、大阪において且元を討ち漏らす事となった。
そのため大阪では

「ならば石川貞政も誅するべし!」

との風聞が頻りであった。貞政は之を聞くと、元来武勇の聞こえある武士であったので、
ある日の暮れ頃に出仕し、大野治長、渡辺糺らを討ち果たさんばかりの勢いで殿中に上がり、
座中を睨み付けて言った

「この貞政、逆意有るに依って誅せられると承り、参上いたした!
誰でも、その命を承った者は貞政の頸を刎ねて上覧に備えるが良い!」

そう大音声を発し、仁王立に立った。
しかしそのような命令は出ておらず、誰も彼に立ち向かって勝負しようという者は居なかった。

貞政は暫く待ったが、大野、渡辺も姿を見せぬので、宿所へ帰り若党一人に薙刀を持たせて
玉造口から泉州堺まで移動した。家来たちは取るものもとりあえず、武具馬具のみを整えて
あとから追いついた。
そこから河内路を経て片桐且元の茨木城に向かい、且元に会ってこう言った

「大野、渡辺らが寄り来たらば、私も貴方とともに籠城してこれを防ぎたい。」

しかし且元は、この提案に肯かなかった

「傍輩と相語らって籠城すればこれは反逆である。私は謗臣たちが寄せくれば、恨みの矢一つを
射てから切腹し、武夫の名を汚すまじと思っている。であれば、あなたが当城に在るのは、
義において外れた所である。
幸いなことに織田常真が京都に居るので、これより直に上京するといい。」

貞政もこれに信服し、それより茨木を出て京都に上り、板倉伊賀守と対面して大阪の有様を語ると、
板倉は

「大阪には、既に御反逆の用意がある中、あなた方はこれを知って京都に逃れられたこと、
両将軍も定めてご満足でしょう。」

そういって屋敷を与え、日々の賄いも申し付けた。こうして織田常真、石川貞政の両名を京に留まらせることが
出来たのは、板倉伊賀守の智謀の深さゆえであった。

(慶元記)



常真入道はどう思い返したのか

2015年12月19日 07:54

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 18:40:34.20 ID:5rhQtNsR
慶長19年の秋、江戸の幕府と豊臣家の対立が深まる中、大御所徳川家康は片桐且元を駿河に召し、
且元は家康の仰せを伺い、大阪に帰って今後の方針を述べた。
しかしこの且元の意見は秀頼の心にかなわず、彼が下がった後、且元を斬って軍を起こるべきか否か、
という事が、織田常真入道(信雄)も召されて議論された。
ここで常真入道は言った

「今、天下の大名を数えるに、故太閤の御恩を蒙らなかった者など誰もおりません。
軍勢を起こした場合、どうして從い参る者がいないということがありましょうか?
またお手元にも軍勢の1,2万があります。この入道も若き頃は、1,2万の軍勢を
形のごとくに使い慣れたものです。老後の思い出に一方の大将を承り、由々しき振る舞いをして
見参に入れましょう!」

この発言に、淀殿初め一座の人々は喜ぶこと限りなかった。
「万事、入道の計らいに任せよう。」
こうしてこの議論は、軍勢を起こすことに決したのである。

が、常真入道はどう思い返したのか、且元に元に密かに使者を送り、有った事共をすべて告げ、
自身は夜に入って風雨に紛れ、大阪を落ち失せ都の方に隠れ、大御所徳川家康が上洛したと聞くと、
やがて二条城に参上した。

明けて元和元年5月、大坂の陣が終わった後、7月23日、大和国宇陀郡を与えられた。

(藩翰譜)



783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 19:57:51.83 ID:gPCxe1d2
これはちょっとどころか、悪すぎる話しだな

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 20:06:43.71 ID:kclQvIKE
じつに信雄

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 20:35:59.12 ID:GZRph2YS
これには有楽斎も苦笑い

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 23:40:22.19 ID:8E/nOHFQ
>この入道も若き頃は、1,2万の軍勢を形のごとくに使い慣れたものです

伊賀では少数の国人に返り討ちにあってた糞の役にも立たない従妹
有楽叔父さんもアホだし、唯一まともな老犬斎叔父さんはいきなり変死するし

ただ何となく所領していた地を失った

2015年12月16日 06:34

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 20:50:51.17 ID:CQuOImBi
関ヶ原の役が勃発すると、石田三成は織田常真入道(信雄)に使者を立て、秀頼の仰せとして伝えた
『急ぎ元の家臣たちを召し集め、軍勢を催し内府(家康)を討つべし!先ずは物の具の料として
黄金千枚を参らせ、また尾張の国は元の本領であるかた、領すること相違あるべからず。』

これを聞いた常真は喜ぶこと限りなく、やがて味方に参るべき旨を了承した。そして
「先ずは昔の家人たちを集め、物の具を揃え、馬を求めさせたい。
さらばその料に黄金を賜らん」
そうその使いに言い、奉行たちに乞わせた所、送られてきたのはただ銀一千枚であった。

「こんな事では、尾張の国を賜るというのもどうなることか…」
常真も流石に不安になりこの件を持て余していた所、子息の宰相(織田秀雄)が、越前大野の城で
父のこの所業を聞いて大いに驚き、急ぎ使いを出して言った

「如何なる事があっても、当家の人々が徳川殿に向かって弓を引き矢を放つなどと言うことが
ありましょうか?このような浅ましい約束はすべきではありません!」

そう教訓すると、常真も「それもそうだなあ…(是れも又謂れあり)、しかしこの上は
どうするべきか…。」

そのように悩んでいる間に、関が原の合戦が終わった。
子息の宰相は前田利長とともに大津の陣に参ったものの、父ため動きを取れず、
特に何もしていなかったので、ただ何となく所領していた地を失った。
常真はその後、淀殿の所縁につき大阪に下ってそこに住んだ。

(藩翰譜)




762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 21:04:20.83 ID:3JvDVqcG
ラスボスがのぶおとか秀秋にした仕打ちを治部は忘れたのかな
西軍が圧倒的に有利じゃなけらば、絶対に味方しないわ

丹羽長重がすんなり西軍になったのが奇跡

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 21:52:48.26 ID:PYoQdxLi
前田利長との確執だろ

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 01:43:00.15 ID:a9IDo31l
丹羽長重は前田に城明け渡せとか無茶言われて前田と対立した訳で、すんなり西軍てなんのことだか

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 02:41:57.09 ID:pfM5X15r
関係ないけど以前から丹羽長重と丹羽長秀の名前を見る度
ビワハヤヒデの名前が頭をよぎる…
馬なんて興味

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 02:42:22.82 ID:pfM5X15r
ないのにな

豊鑑より、小牧長久手の講和

2015年02月12日 18:46

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 23:26:07.65 ID:cpXwsAt5
小牧長久手の合戦の後も徳川家康織田信雄連合軍との戦争が続いていた羽柴秀吉は、
伊勢の桑名にて織田信雄の軍と対峙すると、元織田信長の近習であった富田左近、津田隼人の
両人を呼んで、このように言った。

「私が、信長公の恵みを受け、その慈しみの深かったこと、古にも聞かないほどであった。
私が明智光秀を討って信長公の亡魂の怒りを鎮め、亡くなられたその跡を清めた忠義は
決して小さな物ではないが、それでも猶信長公から受けた慈しみには及ばない。

そんな私が、信雄様を始めとした信長公の御曹司たちを、どうして疎かに思うだろうか。
しかし私を仇として滅ぼそうとされたために、仕方なくこの戦を行ったのだ。
全く、私の本意からのものではない。
であるので、信雄様には一度私と和平をして、対面していただけないかと思い願っているところであるのだ。」

これを聞いた富田、津田は喜びに涙を流して
「誠にそのように思し召しになっているのですか!であれば我々、信雄様の元に行き秀吉様の
お心の中を述べてまいりましょう。」

そう言って両名直ぐに桑名を越えて、信雄の陣にて対面し、かくかくと秀吉の言葉を伝えると、
信雄も
「私も一時の事でこうなったに過ぎない。ならば和平をしよう。」と答えたため、両人立ち帰って
これを秀吉に告げた。

次の日、秀吉、信雄の両名は桑名の南の河原に出、共に御座して対面した。
この場で秀吉は膝を折って地面に手を付き、言葉を出さず、ただただ涙を流していた。
そして秘蔵の刀を信雄に進上し、本陣へと帰った。
これに両軍は太平の歌を歌い互いに喜び合った。
尾張国犬山の城は元より信雄の物だったのでこれが返還され、そうして都へと帰った。

秀吉は信長の家臣でありながらその子信雄に従わず刃を研いだ。その罪は明らかである。
また信雄が父の仇を討った秀吉を滅ぼそうとしたのは義ではない。
この出来事をどのように筆するべきであろうか。愚かな私(竹中重門)の心では解らないことである。

その冬の頃、秀吉は再び富田左近、津田隼人を呼んで、徳川家康の元に遣わしこう伝えさせた
「元来私と家康殿の間に遺恨は無い。信雄卿と和平が成った上は猶そうである。であるので
あなたには上洛して頂きたい。萬の事を語り合いたいと思っている。」

しかしこれに、家康の家臣たちが猛反発した。
「秀吉の軍勢が押し寄せてくるならそこまででです!我ら皆、命をひとつにいたします!」
皆がそういった事を異口同音に言ったため、家康もそれに同意し、富田、津田を返した。

これを秀吉は聞くと、「私を疑うのも仕方のない事だ。母上を質に下すべし。」
と、母大政所を遠江に下した。家康も「この上は上洛も異議に及ばず」と遂に上洛し、秀吉と対面し、
秀吉はこれを二無く饗した。そしてこの時期家康には定まった正室が居なかったので、秀吉は
自身の妹を嫁がせた。そして両名はいよいよ隔たりなく心も融けて、何事も朝夕語り合われた。

(豊鑑)

豊鑑より、小牧長久手の講和についての記事である。




細川忠興軍功記より、清須会議について

2015年01月28日 18:54

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/27(火) 19:44:56.60 ID:tczRCWOg
山崎の合戦で明智光秀が滅びると、尾張国清州で、羽柴秀吉、柴田修理亮勝家が参会の上、
織田領国の国割を行うことに成り、織田三七(信孝)も岐阜より清須へ御出でになり、
羽柴秀吉、丹羽五郎左衛門(長秀)、池田勝入といった人々はそれ以前から清須に参り、
柴田勝家を待っていた。

柴田勝家が清須に到着する期日がわかると、その日は植原次郎右衛門の邸宅の広間に
織田信雄織田信孝、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田勝入らが御出でになり、柴田勝家が来るのを待っていた。
その広間の庭には、故信長・信忠父子の侍が、身分の大小共に、八百ばかり控えていた。

柴田勝家は堀重門より入ってきた。供の侍は三百ばかりであった。
柴田は縁に上がると角柱にもたれていた。柱の下には勝家の三人の甥達も詰めかけ控えていた。

信雄、信孝は座敷の間の内に居られた。秀吉は前から縁側に居た。池田、丹羽は前から御座の間に詰めていた。

秀吉は勝家に言った
「修理殿の御出を待って、御国割をしようと考えていたのですが、あなたの到着が遅くなり、
御両人様(信雄・信孝)より急ぎ国割をするようにとの仰せがありました。
信雄様は尾張に北伊勢を加え進上するようにと仰せられたので、お望み通りに進上いたしました。
信孝様は美濃に南近江を加え進上するようにと仰せられたので、お望み通りに進上いたしました。」

勝家はこれを聞くや怒った
「私への相談なしに国割を行うとはどういうことか!?そういう事をするのなら、その頭を押しつぶして
くれようか!?」
(我に談合なしに国割だてをいてくれい、其つれするならは、頭邊迄押くれう)

しかし秀吉
「私の頭を押しつぶすなど出来るものか!上様の御弔い合戦は私がしたのだ。笑わせる事をいうものだ!」
(我か頭邊押事成間敷候。上の御弔合戦が我か仕候。笑敷事申)
そう言い捨てた。

そこに、池田、丹羽が二人のいる殿中の間に入ってきた。信雄・信孝の兄弟も立ち上がって側に行き
「お前たち両人が、魚と水のように親しい関係にあることが、われら兄弟のためにも成るのだ。
そのようであってはならない」と諭した。
その時池田、丹羽が「急いで盃を出すのだ!」と言って盃を出させ、秀吉、勝家の両人に
盃を交わさせたため、その場は静まった。

その後織田信孝は秀吉にこう言った
「明日は修理も国に下る。その方も長浜へと帰るという。であれば岐阜にて、風呂を立てるよう
申し付けているので、帰りに立ち寄ってほしい。」

しかし秀吉は翌朝未明に清須を立ち、墨俣に馬上一人だけで着いた。墨俣の代官は、佐脇作左衛門の
親類であった。秀吉はそこに立ち寄り、湯漬けを食すと、乗ってきた馬を亭主の馬に乗り換えて、
そこから鈴鹿を左にして、水口を通り、その日は八幡山に出て、その夜、船にて長浜に到着した。
これは柴田勝家が国元へ帰るのを待ち受けるためであった。

柴田勝家は岐阜で於市様と祝言を相整えると、彼女を越前へと同道した。
長浜を通過という時、長浜の様子を聞いて、伊吹山の東面に沿った道があり、長浜を避けそこを通って
越前北之庄へと向かった。

これより、秀吉と勝家の関係に悪しき色が立ったのである。
細川忠興軍功記)

細川忠興軍功記より、清須会議についての記事である。




315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 09:57:01.76 ID:acmwtuGF
三七殿の面目が丸潰れだな。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 10:28:27.09 ID:YTE0kkux
三斎様はいろんなもの記録に残してるから立派かと思いきや、あれだからな。

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 10:43:52.78 ID:fOARUKvb
>>315
源義朝の例があるしな
ああだから野間に幽閉させたか