浅利のハイタカ

2017年09月09日 10:14

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/08(金) 23:39:00.53 ID:XzrI/Uma
尾張内府(織田信雄)の元に、「鷹の上手である」と、浅利牛乱という者が目通りした。
彼は「ハイタカに雁を取らす」との言い立てをした。信雄は「これは珍妙である」と、彼を召し抱えた。

浅利はこの雁取りの鷹を据えて御前に出たが、この鷹、殊の外羽を羽ばたかせて鳥を取ろうとする
様子であったが、その日は狩りをさせずに置いた。脇から見れば、まぎれもなく雁を取るような体であった。

しかしその翌日、浅利は信雄の前に出ると「あの鷹はイタチに食われてしまいました」と、涙を落として
説名した。

実は、先に鷹が羽ばたいていたのは、一方に餌を持って見せたため、鷹が興奮していたということで、
つまりは偽りであったという。すなわち、信雄を騙したということである。

(士談)



101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/09(土) 08:31:06.55 ID:4xz0EMTm
>>100
つまり、人を騙した浅利に罰があたった、ってこと?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/09(土) 18:19:41.24 ID:pozdrvhm
イタチにヤられたことだって本当かどうか
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豊臣関白北條征伐出陣の事

2016年11月29日 09:07

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 22:58:38.33 ID:GUK5L/Vi
豊臣関白北條征伐出陣の事

 秀吉が北条を討たれに行った時、諸将は浮島が原で並び居て秀吉を待っていた。
秀吉は糸緋威の物具を着て、唐冠の胄をかぶり黄金をちりばめた太刀を帯び、
大きな土俵空穂に征矢を一筋指し、仙石権兵衛が持ってきた朱の滋藤の弓を持って、
七寸ある馬に金の瓔珞の馬甲をかけ、静かに歩かせて打通られた。
東照宮が信雄と共に出迎えられたのを見て馬から降り、

「いかに、二心あると聞いたぞ。いざ一太刀で参らん」

と太刀の柄に手を懸けられた。東照宮は左右の人に目を向けられて、

「戦始めに太刀に手を懸けられとは、めでたいことですな。」

と高らかに仰せられると、秀吉は何も言わずにまた馬に打ち乗って通られた。
(常山紀談)



361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 23:05:09.17 ID:HNq+lJTq
権兵衛、許された直後なのに出張ってるな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 00:01:06.99 ID:BqHMB20x
いや、時系列おかしいだろ。

【ニュース】[織田信雄、秀吉の顔色うかがう 清洲会議3日前に書状]

2016年07月08日 16:27

814 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/08(金) 09:41:10.15 ID:lO69aRU1
[織田信雄、秀吉の顔色うかがう 清洲会議3日前に書状]
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160708-00000021-asahi-soci


本能寺の変(1582年)で織田信長が倒れた後、後継をめざした次男・信雄(のぶかつ、1558~1630)
が羽柴(豊臣)秀吉に宛てた書状を、中京大の村岡幹生教授らが入手し、7日発表した。日付は信長の後継者を決
めた清洲会議の3日前。秀吉に指示を仰ぐ内容で、慌てた様子もうかがえるという。
書状は、縦29・4センチ、横40・1センチ。古書市場に出品されていた。日付は6月24日。年は書かれてい
ないものの、共同で分析した播磨良紀教授が、時代で変遷した信雄の花押(サイン)の形を分析して特定した。
「そちらの様子でよきように決め、連絡して下さい。近くへ陣を寄せます」といった内容が書かれていた。本能寺
の変が6月2日。13日には秀吉が山崎の戦いで明智光秀を破っており、信雄が秀吉軍に加わろうとしたとみられる。

・・・古書市場で出品って誰が?



815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 13:32:55.55 ID:eVs+Krws
所有者

816 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/08(金) 14:09:34.84 ID:uhV5wMs+
だいたい価値の分からない遺族が一括して業者に渡すので
業者が市場に売りに出す

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 16:10:51.53 ID:EZmvQCNr
>>814
こういうのいいなぁ、もっとでてきて欲しい。

武夫の名を汚すまじ

2016年04月16日 17:41

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/16(土) 17:32:27.72 ID:eKrsW2py
豊臣秀頼家臣の石川伊豆守貞政は、片桐且元の討ち手の役を仰せ付けられていたが、且元と一味して
襲撃に先立って知らせたため、大阪において且元を討ち漏らす事となった。
そのため大阪では

「ならば石川貞政も誅するべし!」

との風聞が頻りであった。貞政は之を聞くと、元来武勇の聞こえある武士であったので、
ある日の暮れ頃に出仕し、大野治長、渡辺糺らを討ち果たさんばかりの勢いで殿中に上がり、
座中を睨み付けて言った

「この貞政、逆意有るに依って誅せられると承り、参上いたした!
誰でも、その命を承った者は貞政の頸を刎ねて上覧に備えるが良い!」

そう大音声を発し、仁王立に立った。
しかしそのような命令は出ておらず、誰も彼に立ち向かって勝負しようという者は居なかった。

貞政は暫く待ったが、大野、渡辺も姿を見せぬので、宿所へ帰り若党一人に薙刀を持たせて
玉造口から泉州堺まで移動した。家来たちは取るものもとりあえず、武具馬具のみを整えて
あとから追いついた。
そこから河内路を経て片桐且元の茨木城に向かい、且元に会ってこう言った

「大野、渡辺らが寄り来たらば、私も貴方とともに籠城してこれを防ぎたい。」

しかし且元は、この提案に肯かなかった

「傍輩と相語らって籠城すればこれは反逆である。私は謗臣たちが寄せくれば、恨みの矢一つを
射てから切腹し、武夫の名を汚すまじと思っている。であれば、あなたが当城に在るのは、
義において外れた所である。
幸いなことに織田常真が京都に居るので、これより直に上京するといい。」

貞政もこれに信服し、それより茨木を出て京都に上り、板倉伊賀守と対面して大阪の有様を語ると、
板倉は

「大阪には、既に御反逆の用意がある中、あなた方はこれを知って京都に逃れられたこと、
両将軍も定めてご満足でしょう。」

そういって屋敷を与え、日々の賄いも申し付けた。こうして織田常真、石川貞政の両名を京に留まらせることが
出来たのは、板倉伊賀守の智謀の深さゆえであった。

(慶元記)



常真入道はどう思い返したのか

2015年12月19日 07:54

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 18:40:34.20 ID:5rhQtNsR
慶長19年の秋、江戸の幕府と豊臣家の対立が深まる中、大御所徳川家康は片桐且元を駿河に召し、
且元は家康の仰せを伺い、大阪に帰って今後の方針を述べた。
しかしこの且元の意見は秀頼の心にかなわず、彼が下がった後、且元を斬って軍を起こるべきか否か、
という事が、織田常真入道(信雄)も召されて議論された。
ここで常真入道は言った

「今、天下の大名を数えるに、故太閤の御恩を蒙らなかった者など誰もおりません。
軍勢を起こした場合、どうして從い参る者がいないということがありましょうか?
またお手元にも軍勢の1,2万があります。この入道も若き頃は、1,2万の軍勢を
形のごとくに使い慣れたものです。老後の思い出に一方の大将を承り、由々しき振る舞いをして
見参に入れましょう!」

この発言に、淀殿初め一座の人々は喜ぶこと限りなかった。
「万事、入道の計らいに任せよう。」
こうしてこの議論は、軍勢を起こすことに決したのである。

が、常真入道はどう思い返したのか、且元に元に密かに使者を送り、有った事共をすべて告げ、
自身は夜に入って風雨に紛れ、大阪を落ち失せ都の方に隠れ、大御所徳川家康が上洛したと聞くと、
やがて二条城に参上した。

明けて元和元年5月、大坂の陣が終わった後、7月23日、大和国宇陀郡を与えられた。

(藩翰譜)



783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 19:57:51.83 ID:gPCxe1d2
これはちょっとどころか、悪すぎる話しだな

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 20:06:43.71 ID:kclQvIKE
じつに信雄

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 20:35:59.12 ID:GZRph2YS
これには有楽斎も苦笑い

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 23:40:22.19 ID:8E/nOHFQ
>この入道も若き頃は、1,2万の軍勢を形のごとくに使い慣れたものです

伊賀では少数の国人に返り討ちにあってた糞の役にも立たない従妹
有楽叔父さんもアホだし、唯一まともな老犬斎叔父さんはいきなり変死するし

ただ何となく所領していた地を失った

2015年12月16日 06:34

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 20:50:51.17 ID:CQuOImBi
関ヶ原の役が勃発すると、石田三成は織田常真入道(信雄)に使者を立て、秀頼の仰せとして伝えた
『急ぎ元の家臣たちを召し集め、軍勢を催し内府(家康)を討つべし!先ずは物の具の料として
黄金千枚を参らせ、また尾張の国は元の本領であるかた、領すること相違あるべからず。』

これを聞いた常真は喜ぶこと限りなく、やがて味方に参るべき旨を了承した。そして
「先ずは昔の家人たちを集め、物の具を揃え、馬を求めさせたい。
さらばその料に黄金を賜らん」
そうその使いに言い、奉行たちに乞わせた所、送られてきたのはただ銀一千枚であった。

「こんな事では、尾張の国を賜るというのもどうなることか…」
常真も流石に不安になりこの件を持て余していた所、子息の宰相(織田秀雄)が、越前大野の城で
父のこの所業を聞いて大いに驚き、急ぎ使いを出して言った

「如何なる事があっても、当家の人々が徳川殿に向かって弓を引き矢を放つなどと言うことが
ありましょうか?このような浅ましい約束はすべきではありません!」

そう教訓すると、常真も「それもそうだなあ…(是れも又謂れあり)、しかしこの上は
どうするべきか…。」

そのように悩んでいる間に、関が原の合戦が終わった。
子息の宰相は前田利長とともに大津の陣に参ったものの、父ため動きを取れず、
特に何もしていなかったので、ただ何となく所領していた地を失った。
常真はその後、淀殿の所縁につき大阪に下ってそこに住んだ。

(藩翰譜)




762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 21:04:20.83 ID:3JvDVqcG
ラスボスがのぶおとか秀秋にした仕打ちを治部は忘れたのかな
西軍が圧倒的に有利じゃなけらば、絶対に味方しないわ

丹羽長重がすんなり西軍になったのが奇跡

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 21:52:48.26 ID:PYoQdxLi
前田利長との確執だろ

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 01:43:00.15 ID:a9IDo31l
丹羽長重は前田に城明け渡せとか無茶言われて前田と対立した訳で、すんなり西軍てなんのことだか

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 02:41:57.09 ID:pfM5X15r
関係ないけど以前から丹羽長重と丹羽長秀の名前を見る度
ビワハヤヒデの名前が頭をよぎる…
馬なんて興味

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 02:42:22.82 ID:pfM5X15r
ないのにな

豊鑑より、小牧長久手の講和

2015年02月12日 18:46

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 23:26:07.65 ID:cpXwsAt5
小牧長久手の合戦の後も徳川家康織田信雄連合軍との戦争が続いていた羽柴秀吉は、
伊勢の桑名にて織田信雄の軍と対峙すると、元織田信長の近習であった富田左近、津田隼人の
両人を呼んで、このように言った。

「私が、信長公の恵みを受け、その慈しみの深かったこと、古にも聞かないほどであった。
私が明智光秀を討って信長公の亡魂の怒りを鎮め、亡くなられたその跡を清めた忠義は
決して小さな物ではないが、それでも猶信長公から受けた慈しみには及ばない。

そんな私が、信雄様を始めとした信長公の御曹司たちを、どうして疎かに思うだろうか。
しかし私を仇として滅ぼそうとされたために、仕方なくこの戦を行ったのだ。
全く、私の本意からのものではない。
であるので、信雄様には一度私と和平をして、対面していただけないかと思い願っているところであるのだ。」

これを聞いた富田、津田は喜びに涙を流して
「誠にそのように思し召しになっているのですか!であれば我々、信雄様の元に行き秀吉様の
お心の中を述べてまいりましょう。」

そう言って両名直ぐに桑名を越えて、信雄の陣にて対面し、かくかくと秀吉の言葉を伝えると、
信雄も
「私も一時の事でこうなったに過ぎない。ならば和平をしよう。」と答えたため、両人立ち帰って
これを秀吉に告げた。

次の日、秀吉、信雄の両名は桑名の南の河原に出、共に御座して対面した。
この場で秀吉は膝を折って地面に手を付き、言葉を出さず、ただただ涙を流していた。
そして秘蔵の刀を信雄に進上し、本陣へと帰った。
これに両軍は太平の歌を歌い互いに喜び合った。
尾張国犬山の城は元より信雄の物だったのでこれが返還され、そうして都へと帰った。

秀吉は信長の家臣でありながらその子信雄に従わず刃を研いだ。その罪は明らかである。
また信雄が父の仇を討った秀吉を滅ぼそうとしたのは義ではない。
この出来事をどのように筆するべきであろうか。愚かな私(竹中重門)の心では解らないことである。

その冬の頃、秀吉は再び富田左近、津田隼人を呼んで、徳川家康の元に遣わしこう伝えさせた
「元来私と家康殿の間に遺恨は無い。信雄卿と和平が成った上は猶そうである。であるので
あなたには上洛して頂きたい。萬の事を語り合いたいと思っている。」

しかしこれに、家康の家臣たちが猛反発した。
「秀吉の軍勢が押し寄せてくるならそこまででです!我ら皆、命をひとつにいたします!」
皆がそういった事を異口同音に言ったため、家康もそれに同意し、富田、津田を返した。

これを秀吉は聞くと、「私を疑うのも仕方のない事だ。母上を質に下すべし。」
と、母大政所を遠江に下した。家康も「この上は上洛も異議に及ばず」と遂に上洛し、秀吉と対面し、
秀吉はこれを二無く饗した。そしてこの時期家康には定まった正室が居なかったので、秀吉は
自身の妹を嫁がせた。そして両名はいよいよ隔たりなく心も融けて、何事も朝夕語り合われた。

(豊鑑)

豊鑑より、小牧長久手の講和についての記事である。




細川忠興軍功記より、清須会議について

2015年01月28日 18:54

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/27(火) 19:44:56.60 ID:tczRCWOg
山崎の合戦で明智光秀が滅びると、尾張国清州で、羽柴秀吉、柴田修理亮勝家が参会の上、
織田領国の国割を行うことに成り、織田三七(信孝)も岐阜より清須へ御出でになり、
羽柴秀吉、丹羽五郎左衛門(長秀)、池田勝入といった人々はそれ以前から清須に参り、
柴田勝家を待っていた。

柴田勝家が清須に到着する期日がわかると、その日は植原次郎右衛門の邸宅の広間に
織田信雄織田信孝、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田勝入らが御出でになり、柴田勝家が来るのを待っていた。
その広間の庭には、故信長・信忠父子の侍が、身分の大小共に、八百ばかり控えていた。

柴田勝家は堀重門より入ってきた。供の侍は三百ばかりであった。
柴田は縁に上がると角柱にもたれていた。柱の下には勝家の三人の甥達も詰めかけ控えていた。

信雄、信孝は座敷の間の内に居られた。秀吉は前から縁側に居た。池田、丹羽は前から御座の間に詰めていた。

秀吉は勝家に言った
「修理殿の御出を待って、御国割をしようと考えていたのですが、あなたの到着が遅くなり、
御両人様(信雄・信孝)より急ぎ国割をするようにとの仰せがありました。
信雄様は尾張に北伊勢を加え進上するようにと仰せられたので、お望み通りに進上いたしました。
信孝様は美濃に南近江を加え進上するようにと仰せられたので、お望み通りに進上いたしました。」

勝家はこれを聞くや怒った
「私への相談なしに国割を行うとはどういうことか!?そういう事をするのなら、その頭を押しつぶして
くれようか!?」
(我に談合なしに国割だてをいてくれい、其つれするならは、頭邊迄押くれう)

しかし秀吉
「私の頭を押しつぶすなど出来るものか!上様の御弔い合戦は私がしたのだ。笑わせる事をいうものだ!」
(我か頭邊押事成間敷候。上の御弔合戦が我か仕候。笑敷事申)
そう言い捨てた。

そこに、池田、丹羽が二人のいる殿中の間に入ってきた。信雄・信孝の兄弟も立ち上がって側に行き
「お前たち両人が、魚と水のように親しい関係にあることが、われら兄弟のためにも成るのだ。
そのようであってはならない」と諭した。
その時池田、丹羽が「急いで盃を出すのだ!」と言って盃を出させ、秀吉、勝家の両人に
盃を交わさせたため、その場は静まった。

その後織田信孝は秀吉にこう言った
「明日は修理も国に下る。その方も長浜へと帰るという。であれば岐阜にて、風呂を立てるよう
申し付けているので、帰りに立ち寄ってほしい。」

しかし秀吉は翌朝未明に清須を立ち、墨俣に馬上一人だけで着いた。墨俣の代官は、佐脇作左衛門の
親類であった。秀吉はそこに立ち寄り、湯漬けを食すと、乗ってきた馬を亭主の馬に乗り換えて、
そこから鈴鹿を左にして、水口を通り、その日は八幡山に出て、その夜、船にて長浜に到着した。
これは柴田勝家が国元へ帰るのを待ち受けるためであった。

柴田勝家は岐阜で於市様と祝言を相整えると、彼女を越前へと同道した。
長浜を通過という時、長浜の様子を聞いて、伊吹山の東面に沿った道があり、長浜を避けそこを通って
越前北之庄へと向かった。

これより、秀吉と勝家の関係に悪しき色が立ったのである。
細川忠興軍功記)

細川忠興軍功記より、清須会議についての記事である。




315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 09:57:01.76 ID:acmwtuGF
三七殿の面目が丸潰れだな。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 10:28:27.09 ID:YTE0kkux
三斎様はいろんなもの記録に残してるから立派かと思いきや、あれだからな。

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 10:43:52.78 ID:fOARUKvb
>>315
源義朝の例があるしな
ああだから野間に幽閉させたか

勝頼と同じたぐいの相手だと思って

2014年08月06日 18:50

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/06(水) 02:55:53.66 ID:nSnDUXdK
小牧・長久手の戦いの折のこと。

徳川家康織田信雄の連合軍は小牧山に陣を据えた。
これに対して羽柴秀吉は、陣地に堀や櫓を作るなどしていた。

小牧山の陣よりこれを見た徳川家康は、織田信雄に対しこのように言った

「先年、長篠において私は、故右府(信長)と共に、あのような手筈を整え武田勝頼
待ち受けましたが、勝頼は年若く血気盛んであったため、陣を乱して攻めかかってきました。
しかしこちらは待ち受けていた事なので、思い通りに引きつけ、鉄砲で打ちすくめ、労せずして
勝利を得ました。

今、秀吉はその故知を用いて、櫓などを作っているようです。つまり、秀吉は
あなたや私を、勝頼と同じたぐいの相手だと思っているのですよ。」

そう語り、笑ったという。

(落穂集)

つまり家康は信雄に「秀吉はお前のこと、罠に自分から突っ込んでくるような奴だと思ってるぞ」と
言ったという事ですね。逆にそう言って信雄がむやみに攻めていかないように釘を差したのかもしれませんが。

徳川家康織田信雄を煽ったお話。




873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/06(水) 10:07:32.63 ID:1A33Hc9L
のぶおは天正伊賀の乱のことがあるから独断専行しないようにとの家康の配慮か

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/06(水) 14:02:28.67 ID:ZtFjIi4q
確かのぶお家康側も柵作ってたような気がする>小牧長久手

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/06(水) 17:08:22.47 ID:Lw/WOK5k
まあ突っ込もうとしたら有楽さんが止めるんとは思うw

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/06(水) 19:48:07.95 ID:nSnDUXdK
>>874
『史跡で読む日本の歴史7 戦国の時代』(小島道裕 編)によると、小牧城に関して

> 織田徳川連合軍は信長時代の城郭の基本構造を活かし、堀や土塁といった防御施設を集中的に改造していた。
> 先ず山麓に山全体を囲む巨大な堀と土塁を巡らせて一帯を広大な陣地とした。山頂の主郭まわりは信長時代以来の
> 石垣をそのまま用いたが、山の中腹にも新たな堀を巡らせ、防御上の弱点には信長時代の石垣を埋め込んだ上に
> 大土塁を築いた。せっかくの石垣を土塁に戻したから見栄えはしなくなったが、軍事機能は飛躍的に高まった。

としていたそうで。

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/06(水) 21:16:18.52 ID:+vwNNjQ/
信雄ごときが猛将勝頼みたいとか言われたらウキウキしだして逆に秀吉に突撃しちゃうだろ

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/06(水) 23:18:57.61 ID:ZYu8zGE8
実はのぶを様の実力に恐れをなした秀吉と家康の共謀によるのぶを様抹殺計画だったんだよ

織田信雄を「のぶかつ」と唱する事は

2014年07月20日 19:01

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 07:49:57.79 ID:NMYLKHiG
流れをブッた切る為に投下

------

織田信雄を「のぶかつ」と唱する事は正しいが「のぶを」と呼ぶのも間違いではない。
公家であれば上にあれば「かつ」と読み、下にあれば「を」と読む。

初めは「のぶかつ」と呼ばれていたが公卿となってからは「のぶを」と改めたと言うのが
花山院前大納言定成卿の説である。

真田左衛門佐を諸記録によれば幸村と記すが続武者物語だけは信繁と記す。
西山公(水戸光圀)は御吟味の上、幸村ではなく信仍が正しいと書き残された。
仍の字を「しげ」と訓じるのかどうかは追考が必要だ。

(翁草)

江戸時代後半には読みが分からなくなっていたと言う信雄さんの悲劇




726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 08:41:36.99 ID:y2g7qIgZ
雄って"かつ"と"たけ"とどちらに読ませるほうが多いんだろうか
某所で暇潰しに野球中継を見るようになるまでは信雄の"かつ"しか知らなんだわ

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 08:47:54.09 ID:F8uJjcWj
俺は最初“のぶお”って読むもんだと思ってた
しかし雄が“お”じゃなくて“を”だったとは…

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 09:07:21.90 ID:V7o401sM
ほんと読みはふりがなでも振ってあったのかよて思う位難しいやつあるよな
古代中世の天皇の名前とかなぜこう読める?ての多い

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 10:39:22.94 ID:lkmgnqtr
かなで濁点無いのって難しすぎ

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 12:20:02.81 ID:v712/DjF
北信愛「せやな」
穴山信君「せやな」
後水尾天皇「俺の名前とか初見殺しにも程があるだろ」

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 12:44:41.01 ID:z7uOFCxN
滝川雄利おとしさん説

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 12:54:45.57 ID:aKRY19yj
今度からノブヲって呼ぶわ

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 17:03:22.48 ID:6Ie3+g8v
のぶをなの!なんだかオシャレ

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 18:19:00.32 ID:nQgL6tOU
諱なんてそう呼ばないんだから細かいことはええんじゃよ
主君と親ぐらいだろ?

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 18:40:33.10 ID:8QItkxBx
正宗「いやんちゃんと諱で、呼・ん・で。」

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 18:54:19.55 ID:0fmCEGi0
政宗「誰てめえ」

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 20:11:39.35 ID:EmYnAjsn
政宗「おっと、穴の開けどころが悪かったな」

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 20:53:44.13 ID:PMMLnWz5
>>739
五郎入道が何故このようなところに

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 21:30:02.65 ID:y2g7qIgZ
放浪していて迷いこんだんだろ
昔話なんかじゃあ、野垂れ死にしそうになってたこともあった気もするし

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/22(火) 08:15:42.21 ID:qCB1OruT
陶晴賢って読みにくいよね

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/22(火) 08:26:48.74 ID:uwvZy/Mi
トウセイケン、と読むと大陸の人っぽいよね

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/22(火) 09:42:24.83 ID:I32fJXcL
陶謙か

虎之助シルベステレの事

2014年03月16日 19:21

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/16(日) 11:53:42.05 ID:IvvXE4J2
 美濃の国に虎之助シルベステレと名乗る熱心なキリシタンがいた。彼は織田信雄に仕えていたために
信雄の没落とともに豊臣秀吉の寵を得なくなったが、虎之助自身が不興をこうむったわけではなく、
時おり秀吉は虎之助について話すことがあった。そこで彼の友人たちは上洛して関白殿の目に触れるよう
虎之助にすすめた。
 そこで、彼は京の都に出向いて、そして、秀吉が尾張に出かける際を見計らって、その途中にある小高い
場所でボロボロの着物をまとって待機していた。秀吉がその場所を通った時、ただちに虎之助に気づいたので
すぐに彼をそばに呼び寄せて親しく声をかけた。秀吉は「このように落ちぶれてしまったのは不憫だ」と言って
馬を一頭あたえて尾張まで一緒に連れて行き、そこで米二千俵の禄を扶養費としてあたえた。
(ルイス・フロイス書簡 1591、1592年イエズス会日本年報)




645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/17(月) 11:25:22.66 ID:6GJ4UiTe
>>643
>シルベステレ
ごめん、ついロッキーのテーマを流したくなった


関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである

2013年12月21日 18:03

928 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/12/21(土) 06:31:04.11 ID:RRRvXOwl
フロイス日本史22章より。
関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。





「心にかかるものは一人、織田常真である。」

2013年10月29日 19:00

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/28(月) 21:35:46.05 ID:TUlAiWxa
慶長十九年、豊臣秀頼に異心ありとの聞こえがあり、徳川家康はたびたび津田秀政を呼んで、
大坂の事について相談した。この時、家康は「心にかかるものは一人、織田常真である。
お前はなんとかして彼が大坂の城に籠らないようにはからえ」と言ったということである。

秀政は答えて「以前、常真の心底をうけたまわりましたところ、長久手の役の御恩恵は
いつも忘れていないとの旨を申しておりました。ですから、御言葉の趣旨を伝えれば、
必ず御味方に参ることは疑いありません」と申し上げた。

家康はこれを聞いて「お前の申すように必ず味方に属すのであろうな?」と重ねて尋ねた。
秀政は承って「もしこの御使いを仕損じた時には、それがしの白髪首を速やかに
お刎ねになってください」と、言った。

これに家康はとても上機嫌になって、それならば少しも常真を疎んじる気持ちはない
との旨を言いつけた。秀政はこの事をもって常真と通じ、味方させた。

――『寛政重修諸家譜』




445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 13:00:50.43 ID:BCLP5R4h
織田常真ってそこまでの人物かな?仮に大坂の陣の時采配ふるったとしても対して影響無いような。
家康が関東転封の時に家康旧領へ転封蹴って改易になったくらい時流が読めない方だし

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 13:51:26.13 ID:SUzHFdTK
本人の能力は置いといて織田信雄は何度も大軍を指揮した経験がある稀有な武将であり、
織田家の長者でもあり、淀殿の親族の長老でありと、名目的に旗頭になるには十分な境遇あり
信雄を名目的な中心として烏合の衆がまとまる可能性があった訳さ
んで、その後の信雄無き大坂方はみんなの知っての通り3派4派に分かれて派閥争いでグダグダ

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 15:11:02.99 ID:M+pvybLe
同じオダでも天庵様は実際何度か軍隊を率いて上杉謙信や佐竹義重とかと
戦っているんだけどね...(´Д` )

まぁ、率いりゃ良いってもんじゃないけどね。
ふと思ったけど相手が毘沙門天や鬼とかの渾名付きで天庵様運が悪かったのかもね。

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 17:46:59.35 ID:oLTHvw/c
そんなの相手に生き長らえている天庵様、きっと天が味方を

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 17:54:38.06 ID:tiBiOe3n
生きてるだけで身ぐるみ剥がされてるような

武田信治は伊予国に住み

2013年07月25日 19:55

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 23:15:46.76 ID:MDDnDXwB
武田信治は伊予国に住み、河野四郎通直に属した。
通直の死後、信治は仙石越前守秀久に付いて豊臣秀吉に仕えようとした。

秀久は先に秀吉の命により、大友氏の加勢となって豊後国に至り、
島津の兵と戦って利を失った。この時、秀久は信治に救われて逃げることができたので、
この事が露見するのを恥じて、信治のことを秀吉に讒言した。

そのために信治は高野山に逃れ、その妻子を安芸国竹原に隠した。
その後、織田信雄が伊予国に下向の時、信治はおもむいてこれに属した。
信雄は土方雄久と天野雄光をもって秀吉に請い求め、信治を剃髪させてその死を償はせた。

信雄が京都に帰る時、信治はこれに従い、終身扶助を被って死去した。

――『寛政重修諸家譜』




759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 01:17:16.66 ID:igpQpala
ググってみれば、この人若狭武田の流れなんだな
系図の書き換えがどうのと子孫の人のHPにあったが、それが正しければ武田元明の従兄か従弟なのか

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 02:18:18.51 ID:TmkU2EJ9
仙石はやっぱりクソだなって話?

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 02:32:07.35 ID:0WfaAUvp
武田信治でググると武田真治と穴山勝千代ばっかり出てくるな

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 20:49:20.26 ID:aUKSJxzL
安芸武田家、若狭武田家でググったら

安国寺恵瓊:安芸武田家
蠣崎信広:安芸武田家5代目(若狭武田家2代目)武田信賢の息子とされる
木下勝俊(長嘯子):武田元明の息子という奇説あり

どこまで本当だろ

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 20:57:50.13 ID:igpQpala
いくら奇説とはいえ、1569年生まれの人間が1562年生まれの人間の息子ってことはあんまり無いだろうww

織田信雄の遺作

2013年07月10日 19:59

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/10(水) 04:39:31.35 ID:wcR6MlGy
少し前に我らが常真様の話が出てたので、その後の常真様について

織田信雄の遺作

大阪城を退去した織田信雄とその郎党を、家康・秀忠は厚遇した。
上州甘楽などに5万石を与えるだけでなく、国主格まで与えたのだ。

「そういえば…北畠氏館にも見事な庭園があったな」
60近くなっていた信雄は、かつて自分が継いでいた名族の館にあった細川高国作の庭園を思い出していた。
そして実質的な藩運営は息子の信良に任せながら自身は陣屋内の作庭に没頭した。
「論語によれば智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむという。なら私は山を楽しもう」
とこの庭園を楽山園と名づけた。
その名の通り近隣の山々を借景とし、庭園内部にも山を思わせる立体的な空間を作ったその造りは見事で、
織田家が領地替えになった後も代々受け継がれ、初期大名庭園の傑作として群馬県での国指定名勝第一号となっている。

昨年発掘調査と復元工事も終わって一般公開されているので、一度是非。
城下の雰囲気もかなり残っていて、結構楽しめる場所ですよ。




652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/10(水) 09:23:52.32 ID:yUQUoM1X
常真様、智者でない自覚はあったのか・・・。

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/10(水) 12:33:23.71 ID:UTGj2i6t
>>652
でもあの激動の時代を生き抜いて家を残してるところは並の人ではないな。氏真公にも言えるが
親父様は天下人だしそういうプライドが邪魔して普通は家つぶしてるよ
秀頼公も信雄公のように柔軟に生きられたら豊臣も残ってただろうにな

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/10(水) 16:38:15.83 ID:0LWdkB0+

>>652
でも智者より仁者のほうが格上っぽいw

織田信雄、片桐且元に内通す

2013年07月04日 19:57

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/03(水) 20:55:54.74 ID:axVL+PD8
方広寺鐘銘事件などから豊臣家と幕府の関係は急速に悪化し、駿府での協議から
帰ってきた片桐且元は『私案』として、「豊臣秀頼自信が江戸に行く」「淀殿を江戸へ人質に出す」
「大阪城を放棄し他国への国替えを願い出る」の3つの考えを伝え、これに大阪城内では
大きな反発が起こった。

慶長19年(1614)8月22日夜、大坂では大岡雅楽頭の邸宅において、大野修理(治長)、
木村長門、渡邉内蔵介と言った人々が、徳川との対決を決める談合が行われた。

しかしこの事を、織田常真公(信雄)の家臣である、生駒長兵衛、梅心の二人が知り、
23日、織田常真は片桐且元の元へ内々の書状が一封遣わされた。これに返書はいらないとのことなので、、
且元はこの書状の使いに、家来である小島庄兵衛と申す者を添えて常真の元へ返した。

常真は小島庄兵衛が来ると、彼に直に言った

「市正(且元)の身の上に関する大事の事であるので、これから言う事を市正殿以外に
他言してはならぬ!其方、金打ちをせよ!」

金打ちとは、固い誓いの印として、金属製の物を打ち合わせる行為である。
武士は刀の刃、または鍔を打合せた。

「それは一体どういうことでしょうか?」

小島が尋ねると、常真は

「大阪城の本丸や、その他でも若き者どもが談合して、今度、市正の提言した三ヶ条の内、
一つも同意することは出来ないから、市正を騙して駿府に差し下し、その後で市正の妻子以下、
そして市正の弟である主膳正(片桐貞隆)も自殺させ、徳川への敵対の色を立てようとか、
市正を先々切腹させよう、などとの話し合いが行われている。

昨夜あった談合で決まったことは、市正に対し『御袋様(淀殿)が市正と対面して相談したいことが
あるので本丸に参るように』と伝え、本丸に入った所を、廊下で取り押さえて切腹させ、
主膳は千畳敷にて殺し、その後市正・主膳の屋敷に攻め懸かって妻子、並びに家来の者たちを踏み潰し、
屋敷に火をかけ、その上で籠城の態勢を取ろう、と言う内容らしいのだ。

私はこれに驚き、市正を殺しては成らぬと思い、今このように、内通する事にした。」

小島庄兵衛も大いに驚き
「忝い御意であります。そしてこの件に関して、市正が承服出来るように、常真様のお墨付きを
頂きたいと思います。」

「それは尤もなことである。しかし徒に時間をかけてはいけない。さあ、金打ちをするのだ。」

と、常真から誓言をした上で、金打ちをし、小島も金打ちをした。

そして小島庄兵衛は急ぎ帰ると、且元に委細を伝えた。
これにより片桐且元は『にわかに病気となった』と言い出し、その日より大阪城への出仕を取りやめた。
(片桐家秘記)

大阪冬の陣直前、織田信雄片桐且元に内通をしたその時を描いた記録である





豊臣秀吉の、織田信雄と徳川家康に関する評論

2012年11月15日 19:51

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 20:52:44.03 ID:KZrrNcPJ
ある時太閤秀吉が、近習達に対しこんな事を語った

「人という物にはな、その職分に対し、必要なことと、不必要なことがあるものだ。
織田常真(信雄)は、茶の湯・歌学・乱舞・管弦の上手、その他華奢風流のことは、およそ天下に
肩を並べることがない、というほどの才能の持ち主であるが、
肝心の国を治め家を整え、武道を磨くことに関しては、その父である信長公が切り捨てられた、
爪の先ほども持っていなかった。

対して徳川殿は、華奢風流なことは全くしないが、国を治め家を整える道をわきまえ、武道を専らにし、
軍士を取り扱わせることに関しては、まあ我が国は別にして、諸外国でも稀な人物である。
(武野燭談)

そんな秀吉の、織田信雄徳川家康に関する評論。
我が国は別にしてって、軍士の取り扱いに関しては俺のほうが上だ、って底意なんでしょうねw




339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 21:07:50.92 ID:bjSV0nkb
>>338
>まあ我が国は別にして

途中で我が国にはそういう人物が多かったことに気づいたんだな

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 22:12:41.58 ID:/we7SijK
有楽斎と常真じゃどっちが芸事が達者なんだろうか?

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 23:04:38.51 ID:gIQ61QyW
家康も結構、芸達者だよなぁ

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 23:14:01.10 ID:D8KGBkE0
武骨な方面の資格マニアだしな

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/14(水) 23:28:32.05 ID:ngiMIftZ
権現さま和漢の薬に詳しいんだよな
暇潰しのためだけの趣味はしなさそう
見習いたいけど暇だとネットでどうでもいい情報見てしまう・・・

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 00:08:55.23 ID:g6F5c+if
某直江状「上方の武士は茶器などの人たらしの道具をもっていますが、田舎武士は
鉄砲や弓矢の支度をするのがお国柄です」
家康「この年まで、これほどわしの考えにあった文を読んだことはない」

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 09:56:12.77 ID:+cL6Oq9N
家康が茶に全く無関心だった訳ではなく松平親宅に茶を栽培させたりしている
なお親宅は家康に初花肩衝を献上し、関東移封後も三河に留まったという興味深い人
どうやら徳川家や家臣が三河に残した菩提寺等の権益確保の意味もあったようで

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 10:02:30.60 ID:eKUiGN/E
祖母昔でもどうどす?

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 10:10:27.87 ID:dfWJvC5S
たぶん、江戸時代にはそういう評価が一般的になってんたんでしょうね
だから権現様は天下をとった、と結論づけるために

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 12:44:25.50 ID:CTJ+rpLg
某漫画のせいで光秀が家康に贈って、それを秀吉に贈った、とおもってた>初花

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 14:22:41.12 ID:+cL6Oq9N
信忠からどのような経緯で親宅に渡ったかは不明だからな

信雄の奮戦

2012年10月21日 19:29

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 22:21:38.38 ID:EFQoOfEl
信雄の奮戦

小牧・長久手終盤、天正十二年六月
桑名で伊勢戦線を督戦する織田信雄に急報がもたらされた

『蟹江城の前田長定、滝川一益によってご謀反』
清洲城のわずか三里南に存在する蟹江城を謀略により征圧したのは、滝川一益九鬼嘉隆の水軍
桑名(信雄)と清洲(家康)の連携を遮断するのがその目的だった

「こうしてはおれん。叔父上(有楽)、船団に触れを!」
報に接した信雄は蟹江城と九鬼水軍の連携を遮断すべく奮戦
『大船ニノリカケ敵船ヲ取リ人数討捕候』
と陣頭指揮をとって大いに活躍し、嘉隆らを撃退
一益の蟹江城を孤立させて戦いの勝利に大きく貢献した


家忠日記より、信雄さんの珍しく良い話お話でした




20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/21(日) 09:18:40.19 ID:2lJiCCqK
ちょくちょくやらかすせいで無能扱いの信雄さんだけど実際は無能ってほどでもないよなあ

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/21(日) 09:37:44.12 ID:k3bJAbMk
対抗馬の信孝さんの方がよっぽど
外面は良かったみたいだから無能扱いはされてないが

清正の思いもよらない挨拶

2012年10月13日 20:03

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 00:46:11.93 ID:5yVzBdzJ

織田信雄が京で猿楽を催した時、小早川秀秋ら諸大名が見物に行った。
この時、秀秋は十四、五歳であったが秀吉の猶子だったためにその従士までが
その威に誇り「金吾の御出ましだ!」とすぐに戸口に入っていったところ、

側にいた加藤清正の家臣十人ばかりが「何が金吾だ」と過言した。
怒った秀秋の近習は棒を取って三人まで打ち叩いた。これがきっかけで喧嘩となり、
秀秋の帰宅後、両家の士が伏見より馳せ来たり、互いに武装して警固した。

秀秋の老臣は「打たれた三人は清正が成敗するでしょう。ならばこちらの者も切腹
させなければなりません。先延ばしにして自害でもされたらそれこそ恥辱ですぞ」
と具申した。

「清正が何と言おうと元々彼の無礼により起こったことだ。我が家来が死ぬ必要は
ないだろう。お前たちの心配には及ばない」

秀秋はそのように言ったが、老臣たちは清正のような剛勇の士ならば必ず大事に
なると恐れ慄いた。また、打擲した者もすでに沐浴して礼服を身に着け、清正の使者が
来れば、すぐに自決しようと覚悟して待っていた。

間もなく清正自身がやって来た。秀秋はきっと争論になると思っていたが、思いの外
清正は温和な態度で「今日の家人の失礼を只今承り、遅参致しました。御近習の人々が
それがしの家人の無礼をもって斬り殺すべきところを、怒りをなだめられて打擲程度に
留めて下さったことは喜悦に堪えません。それがしも彼らを成敗しようと思いましたが、
それでは御近習も閉門になってしまうのではと思い、本国に帰して閉門を申しつけました。
どうぞ御近習を罰するようなことはなさらないで下さい」と、秀秋に詫びた。

秀秋は清正の思いもよらない挨拶に心も打ち解けて会釈すると、清正も大いに喜び、
「三里の道のりを急いで参りましたので喉が渇きました。御酒を一盃頂けませんか」と
言うので酒が用意された。また、清正は「打擲した人々も呼んで下さい」と言って
その席に招き、酒を酌み興を催して帰っていった。

――『名将言行録』




902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 00:55:46.91 ID:M/tDoDaQ
このとき仲が悪くなっていたら蔚山に援軍が来なかった可能性あるのかな

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 01:25:27.23 ID:zTi6fMAs
>また、清正は「打擲した人々も呼んで下さい」と言ってその席に招き
下手人どもをその場に呼び出して成敗するはかりごとかと思った・・・
まあ、他家でしかも格上の郎党に手を出すわけないけどさ

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 03:30:03.04 ID:2nQbfbWV
織田兵と喧嘩してやっつけちゃった人たちがいるじゃないか
まあ同盟の関係だけれど

徳川家康と佐々成政

2012年05月13日 21:03

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 14:55:58.88 ID:mQAiqYTz
長久手の戦いの後、佐々成政は越路の雪を踏み分けて
はるばる浜松までやってきた。世にいう『さらさら越』である。
成政が徳川家康と面会したところ、家康は成政を丁重にもてなした。

「この度は信雄様をお援け頂き感謝にたえません。
これからもどうか織田家興隆のためにお力添えをお願いいたします。」

「よくぞ深冬風雪をかえりみずに参られましたな。私は秀吉と遺恨が
あったわけではありませんが、信雄殿の窮状を見て忍びなく、
また亡き織田殿との旧好を忘れられなかったので、およばずながら
お援けした次第です。

しかし、信雄殿は秀吉と和議を結んだそうですから、私の信義も
詮なきこととなりました。ですが、成政殿が主のために義兵を起こす
おつもりであれば私も援兵を送りましょう。」

成政は家康の言葉に感謝した。その後、会話の中で成政は、
家康を武田信玄、自らを上杉謙信に例えて、己の自負を語ったという。

次に成政は織田信雄とも面会した。成政は信雄に上洛を勧めたが、
信雄は秀吉と和議を結んだことを理由に勧めを拒否した。
とうとう、どうしようもなくなった成政は後に秀吉に降伏した。

家康は成政が訪ねてきた時、高力正長に「佐々は人傑である。
あのような者とは知人になって、その様を見習うがよい。」と言い、
成政を評価した。

しかし、老臣の酒井忠次は成政の自負に不快感をあらわにし、
「あのような者に御加勢は無用でありましょう。あの者は
大剛の士なれば、その勇気に任せて失言するのも道理である。
関わらないほうがよろしい。」と批判した。




162 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/05/13(日) 14:58:01.65 ID:ZJGf6pn7
大剛自体は三河者にも認められるレベルだったのだな

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 15:01:37.70 ID:60Eo2k8l
忠次の場合、お前が言うなって話のような

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 15:29:25.23 ID:wk3JHOPB
三河武士は、本音の暴言は吐いても失言はしない(キリッ

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 17:58:20.11 ID:zXq2moZZ
というかタヌキをお屋形様になぞらえていいのか?

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 18:17:10.82 ID:So+1BAHS
家康はこの時期すでに、全盛期の信玄を超える勢力を持っているわけだが