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織田信雄、敵を助けた小姓を

2020年05月15日 18:18

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 22:50:40.61 ID:EOK6TkPy
織田信雄、敵を助けた小姓を


丹羽左兵太は織田常信(信雄)の小姓である。
長久手合戦のとき池田の手に石黒善左衛門、常信の手に石黒善右衛門がいて二人は伯父甥であった。
常信の手にいる石黒と丹羽は仲が良かったが、一戦で丹羽は池田の手の石黒と槍を合わせた。

丹羽の下人が「これは味方の石黒とは一家ですよ」と申したので、石黒と仕合を止め
(丹羽は)その先で敵一人に槍を付け首を捕ったが、味方の大兵が来て首を奪われてしまった。
「これ程多くいる敵を討たず人の討った首を奪うか!」と言って先に行きまた敵を討ったという。

その後東照宮(家康)へ(徳川家臣の)西尾丹後が「常信の小姓が、仕掛けた敵を助けました」と
申し上げたので、東照宮はそのことについて常信にお尋ねになられた。
常信は敵を助けたと申すのはどうかと思われて「左様の者はございません」と返答された。

その後東照宮が常信の所へ越されて、長久手での勝利を喜ぶ御話をされた後
「最前にいる御小姓に手柄をいたした者がいるそうですが、何と申す者でしょう」とお尋ねされたので
「只今お酌をしているのは(小姓ではなく)余の倅です」と常信は申されたという。
このとき佐平太[十九歳だったという]は、お酌取りとして御前にいたという。


――『烈公間話



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清州会議後の情勢と丹羽長秀

2020年04月11日 14:48

969 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 01:21:52.15 ID:CIFVpg9h
秀吉卿は天正十年十月十五日、信長公の御葬儀を相勤め、以来城南の宝寺を城郭と成し(山城国山崎城)、
梁于を畿内に棟、万民を撫育し、城介信忠卿の御若君が信長公の嫡孫であったので、江州安土山へ据えられた。
北畠中将信雄卿を、若君が15歳に成らせ給う迄の御名代と成し、諸事御計らいあったが、これも安土山に
置き奉り尊崇した。頗る君臣親愛の様子が巍然としており、まさに忠臣と言うべき姿であった。

秀吉卿は真に小柄な人物であったが(秀吉卿ハ真小輩之人なるか)、数ヵ国を領するのみ成らず
若君を守り立てるというのも名のみであり、実際には天下の政務はこの人に有った。そのため
故将軍(信長)の如く、威は月を追って加わり、禄は年を追って増した。これ偏に離倫の才知、絶類の武勇に
よってのものである。

然るを、小智小見なる傍輩はこれを妬み、これを悪む事甚だ以て浅からず、とりわけ深く妬み思うは、
修理亮(柴田)勝家に極まっていた。京童のうち、秀吉卿に頼り幸いいみじき者を。柴田方の町人は
羨みつつ、越前に至って秀吉卿の威勢の程を語るため、妬心は日々に生じ怨みは月々に増した。
これ誠に、古今不易の同情である。

これによって、柴田勝家は瀧川左近将監一益と与し、縁者でも有ったので、相談して言いけるは
「秀吉は、今若君を安土に置き奉り、おのれは後見として天下の裁判自由に至り、是非に及ばずとは
この事どもである。彼は、贔屓のものにはその沙汰快しとし、頼る者には粗略がないという。
今、小さな葉の内に切り取らねば、後日斧を用いることに成るだろう(「両葉不去、将用斧柯」の故事)。」
こうして織田三七信孝にありましを申し上げ、秀吉を押し下さんと謀った。

かくて丹羽五郎左衛門尉長秀を「この赴きに与してほしいと御頼みされるべきだ。」と瀧川より指図があり、
信孝より三宅中記が派遣され、長秀へ委細に仰せに成ると、
「秀吉が後見であることを嫌い、他の誰かにその沙汰が及んだとしても、若君幼稚の間は悪口両説を
絶えて申すまじき事、よくよく思召しに成るべきです。」
とだけ申し、しっかりと「与する」という返事はなかった。

長秀はこのように考えていた
「天下の裁判は、中々勇猛に達しているだけでは、古今成らざる例、和漢甚だ以て多い。
武勇を以てすれば、柴田形には十に八、九目出度い事こそ多い。何故かと言えば、第一に柴田は信長公の
老臣において武勇の長であり、殊に北国には前田左衛門尉、佐々内蔵助、不破彦三、原彦次郎などという
歴々の勇者多く有し、その上勝家甥である佐久間玄蕃允、舎弟久右衛門尉、同三左衛門尉、同源六郎、
何れも確かなる者にて、まして武備あり。これ偏に柴田に対し肩を比べるべき人無き事瞭然である。

一方で、天下の器にあたる地位は、能き人を知りてそれを用いる実があり、度量大やうにのび、才知盡くし、
武勇に達しながらも武を以て事とせず、賞罰両輪の如く用いると雖も、賞を強く、罰を弱く施し、何事も
理の正に当たり、せわせわしくしない。法度の立てるべき本は、己を正しくして他を悪む事も大やうに、
広く衆を愛し、民を撫育し、財貨を愛さず、専ら威の柄をよく養う、という類にある。

970 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 01:22:14.21 ID:CIFVpg9h
私は久しく信孝、勝家、一益の行いを窺ってきたが、彼らは武勇を以て事とし、その他は勝れない。
これは鳥とすれば、羽翼が片方だけあるようなものだ。それでどうして自由を得られるだろうか。

秀吉卿は勝家より勇功は少ないが、江北浅井父子を敵として小谷の城に向かって対陣し、終に大利を得、
その後播州の強敵の中に在国し、これも程なく一国平均に治めた。これは一国から六国を滅ぼした秦の威に
似ている。殊に勇猛も且つ備わり、才知は古今に独歩している程に見える。であれば秀吉が天下を席巻
すること、掌握に覚える。
また、勝家が大利を得ても、若君をないがしろにしてしまうだろう。周公旦のような事は、昔でさえ
稀であったのに。今の日本でどうしてありえるだろうか。ならば何れであってもはかばかしき事は無い。
同じであればどうすべきか。」

そのように、家臣である由戸田半右衛門尉、高木佐吉、坂井与右衛門尉などに対し悲嘆した。

「大方は、秀吉こそ天下の器に当たるだろう。惜しいかな、華麗に身を飾り、自己の栄華こそ天下国家を
知っての本意であると思っている。また翫物喪志(無用なものを過度に愛玩して、本来の志を見失ってしまうの意)
の癖もある。しかしこういった癖病を除けば、賢君と言うべき人物だ。何にしても彼こそ天下の器に近い。
天下の器に当たる才は、天のなせる所である。天が作るものを、人の道としてどうして妨げられるだろうか。
思いもよらぬところだ。

信長公には御連枝歴々多く、大臣数多侍っていたが、明智を討つ時は、池田高山に在し、さりながら秀吉着陣を
待ち得てこそ合戦を始めた。であれば、則ち主君の怨敵を滅ぼしたのは実際には秀吉卿である。
その上故将軍(信長)御葬送を、莫大な費えも厭わず勤めたのもこの人である。あれといいこれと言い、忠義
甚だ多い。天が忠義を感じられること当然であり、秀吉は何れも天の心に合う所が多く見える。どうして天心に
背けようか。私は天理に従おうと、深く思う。」

そう密かに老臣たちに評した所、各々承り「御遠慮、御尤も宜しきと存じ奉ります。これ当家繁栄すべき
金言であります。」と限りなく喜んだ。

賤嶽合戰記

清州会議後の情勢と丹羽長秀について。



971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 09:24:41.45 ID:993hYZ3y
長秀さんが勝家に与したら情勢変わっただろうか
でも他の人も似たような考えだったのかもしれんし無理かな?

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 11:13:28.03 ID:V/uRSZPV
真冬に滝川を落とした秀吉が有利すぎた

御自身御取り立ての侍によって命を失われたこと

2020年03月08日 15:35

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 11:04:03.83 ID:T94EJuRk
天正十年には正二位右大臣平信長公、嫡男三位中将信忠卿御父子、甲斐国へ御出馬有りて武田四郎勝頼を討ち果たし、
瀧川左近将監一益に関東八州切り取りにし、それより出羽奥州まで打ち平らげよと遣わした。

その頃、次男北畠中将信雄朝臣は伊勢国ホクスミという所へ、大河内の城を移され松ヶ島と改められた。
また、土佐国守護の長宗我部より、四国の大将を申し乞いければ、三男神戸三七殿に四国を給わって大将に
遣わされた。この時、関安芸守盛信は江州日野に預け置かれていたが、勘当を許され、流石文武を得たる者なればとて、
本領伊勢亀山を給わり三七信孝へ付けられ四国の御供に遣わされた。彼は蒲生賢秀の娘婿であったので、日野よりも
結解十郎兵衛を盛信へ付けられた。
こうして、信孝は一万五千余騎の人数を揃えここに神戸を立って摂津国住吉に下着された。

この時、羽柴筑前守秀吉は近年播磨国に在って中国毛利右馬頭輝元と合戦し数ヵ国を切り取ったが、将軍(信長)が
今度西国に出馬あって、九国二島(九州全域)まで太平に帰せんと宣いて、諸勢に触れさせられ、、京都にて
御勢を待たれるために、先手、手廻ばかりを召し具され、信長公、信忠卿御上洛されて仮に京都に御在されたのだが、
同六月二日、丹波守護明智日向守光秀が謀反を企て、二万余騎にて攻め上がり、先ず信長公を本能寺に取り囲み、
攻め奉った。この時戦うべき士卒も無かったため、将軍も叶わせ給いはて、遂に御年四十九歳にて御腹を召し果てられた。

次に信忠卿を二条の御所に取り囲み、御腹召させ奉る。御年二十六歳にお成りであった。

数度の大事を逃れられてきた将軍(信長)であったが、光秀という御自身が御取り立ての侍によって命を失われたこと、
御果報の程を申すも中々口惜しい事共である。

氏鄕記

「氏郷記」より天正十年の本能寺の変までの様子。長宗我部が信長に敵対したのではなく、むしろ信長に四国の総大将を
求めて来た、という描写はちょっと面白いと思いました。



906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 19:08:14.52 ID:sPex4AbI
>>905
信長が将軍というのは大将くらいの意味なのか、はたまた征夷大将軍なのか。いろいろ特殊な史料ですね

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 20:15:30.80 ID:U+SZeuSt
ヨーロッパの人は大名のことをショーグンっていうよね

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 20:38:14.12 ID:gAuGI6S0
ショーグンがジェネラル的な訳だと日本の王と伝わらないのでタイクーンなる単語が出来た

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 23:33:22.46 ID:sPex4AbI
将軍は台風や津波ということだな

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/09(月) 19:55:32.70 ID:9Wi1g3Dz
頼朝と同じ右近衛大将になってるからかな?

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/10(火) 16:37:09.05 ID:B1PPJbD0
氏郷記を読んでみたけど、この章から急に信長公や信長卿から将軍に変わるね。
官位としては右大臣と明記(やめてるはずだけど)しているし、一般名詞として使っているみたい。

北畠具教の滅亡

2020年03月07日 16:31

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 11:03:05.01 ID:4mIamn/1
天正四年には、織田信長公は近江国安土山に城を拵え給いて、岐阜は御子信忠へ譲られた。
同五月に大阪を攻め勝利を得られた。
またその年、伊勢国司北畠権中納言具教卿をも討った。

この北畠具教卿と申すは、心剛にして力も強く、塚原卜伝の一の弟子であり、兵法は一の太刀をも極められていた。
そのような人物であったので、信長の次男・信雄を養子にされたと雖も、自分の孫婿として田丸に置かれ、
主城である大河内には自らが居し、多気には子息の左中将信意(具房)を置いた。

信長はこの状況を然るべからずと思われたのか、去々年より、長島城に北伊勢四郡を副えて置いていた
滝川左近将監一益に、「国司(具教)並びに一味の大名共を謀り討て」と宣うた。
そこで一益は信雄と申し合わせ、鐘を合図として、ある朝国司の御所に押し寄せ、また同時に、北畠、大河内、坂、
名井、三瀬、羽瀬、長野などという一族を始めとして大名十三人を、味方の大名十三人の方へ呼び寄せて討った。

こうして北畠具教卿には味方が一人も無くなり、居合わせていた下臈たちも皆落ちていった。
しかし彼は究竟の強弓であったので、只一人門外に進み出て、差しつめ引きつめ、散々に射られると、矢庭に
鎧武者を多く射倒した。
そして殿中につつと入ると、大長刀を振るい斬って出て、また大勢の敵を薙ぎ伏せ、或いは十文字の鑓をかついで出、
或いは太刀を打ち振り斬って出、このように道具を持ち替え持ち替え兵法の秘術を尽くし給いし有様は、実に
雄々しく見えた。

卯の刻(午前六時ころ)から巳の刻(午前十時頃)まで戦い、遂に四十九歳にして討たれた。

こうして信雄は大河内城へ移った。国司の嫡男である北畠左中将信意については、「本より村上源氏の公家であるから」
として、京都に置かれた。次男は出家して奈良の東門院の御院家と申していたが、この事を聞いて、「如何様恨みを
散らさん」と、還俗して北畠具親と名乗り潜伏したが、恨みを遂げる力があるとも思われなかった。(この北畠具親に
ついては実在を確認できない)

氏鄕記



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 11:24:49.62 ID:D3fNQvLL
人間50年か
まるでドラマでのノブさんの最後のようだ

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 12:04:51.91 ID:oyNgTpDB
>>896
北畠信意は信雄ではないんだ

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 12:27:33.61 ID:4mIamn/1
>>898
どうもこの『氏郷記』は具房と信意(信雄)の諱を混同していると思われます。

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 13:08:04.80 ID:3FlUNxOP
https://i.imgur.com/RM8snGg.jpg
「信長の忍び」の具教暗殺場面
ドラマチックではない「刀も抜けずに殺された」
の方が真実な気がする

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 22:22:51.38 ID:z5ApWnH5
>>896
剣豪将軍らしい最後でこっちのが夢がある

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 22:34:24.41 ID:R5CMkxWC
>>901
剣豪将軍の話じゃないんだが?

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 23:35:06.84 ID:jDbW28ko
ロマンと実際どうだったかって別やしなぁ

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 08:46:07.12 ID:A/2T+4ly
>>902
将軍じゃなくて大名でした、失礼

小田原城、早川口攻めと豊臣秀吉

2019年11月09日 18:28

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/09(土) 12:33:12.19 ID:vMeEitIm
笠懸山に一夜城を築いた豊臣秀吉は、その高台よりつくづくと小田原城を見下ろすと
「北条家五代の間、面々と工夫をこらし修営を加えた名城だけ有って、塁壁高く、
水流は深く掘られ、要害堅固である。」と感心し、これを力攻めすればいかに多くの損害が
出るか、またそれによって敵に利を与える事を悟った。そこで、後はただ長陣を張って
ゆるゆると攻め落とすことだと考えた。

そうして間断なく攻めはするが無理押しをせず、連日鬨の声を上げて敵を脅かし、矢弾を飛ばすことを
一日も怠らなかった。毎日数万の鬨の声と、数千の銃声が山野にこだまして天地を轟かせ、
磯山嵐か沖津風の如く五里十里の間に響いた。それが昼夜を分かたず行われたのである。

しかしながら城中でも、早雲以来累世の恩を被る関東武者四万五千余りが、既に生命を投げ出して
城の要所要所を固め、大筒を仕掛け、盛んに寄せ手に撃ちかけるので、上方勢も城壁に
近づくことが出来なかった。

秀吉は韮山城攻めに加わっていた北畠内大臣(織田)信雄、細川幽斎・忠興父子、福島左衛門太夫(正則)を
呼び戻して小田原城の攻め口に向かわせた。その中より特に細川忠興を呼ぶと

「小田原城の、早川口の松山に敵は砦を築いた。これまで色々と攻撃したがどうにも落ちない。
そなたが計略を以て落とすように。」

と命じた。忠興は「畏まって候」とこれを受け、早速早川口に向かうと、先ず土嚢を用意し、弾除けの
竹束を作って砦へ近づいたが、その夜、たまたま城兵が打って出たのを、忠興の家人がこれを迎え撃って
戦い、敵の首級三つを得た。

翌日、忠興自身が指揮をして。堀際六、七間ほどまで接近した。

その翌日、笠懸山より早川口を見下ろしていた秀吉が、側に在った大谷刑部(吉継)に尋ねた
「遠くの大松の影に夥しい旗が立っている。あれは敵の旗か?」
「いいえ、あれは細川越中殿の旗印でございます。」
「なんと、よくあれほどの近くまで。」
「細川殿はご自身の働きで、今夜にもあの堀を埋めるのだと申されていました。」
「そうか、あれを落とせば今度の城攻めで一番の手柄である。」
秀吉はそう言ってにっこりと笑った。そしてその通り、程なく忠興は早川口の松山砦を落とした。

しかしこのような長陣に成ると必ずこういった事が起こるように、「徳川家康織田信雄はが
敵方に内通して反旗を翻す。」との噂が流れ、これが秀吉の耳にも入った。しかし秀吉は素知らぬ顔を
していた。

そして天正十八年四月十五日のこと、秀吉は突然、先達の案内も立てず近習の侍童五、六人を連れただけで
家康と信雄の陣を訪ねた。当然ながら家康も信雄も秀吉を快く迎え、陣中に酒宴を張った。
鼓、太鼓の音も心地よく、謡も出て、三人は何の拘りもなく歓談し、秀吉は家康、信雄の陣に
夜明けまでのんびりと過ごした。

これ以降、謀反の噂はたちまち霧散し、誰もが安堵に胸をなでおろした。

(関八州古戦録)

秀吉が細川忠興の活躍を促し、また家康信雄謀反の噂を消す、というお話。



若輩でそのうえ理に当たる故

2019年08月19日 18:06

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/19(月) 16:33:51.23 ID:LMV/o/Q5
生駒左近(原注:光政様の家士である)は織田常信(常真。織田信雄)のところに居り申したという。
(生駒が)小小姓である時、(信雄は)何の用あってか居られた場所で「ここより内へ人を入れるな」
と御申し付けであったという。

その口で番をしている時、出頭の者(寵愛を受けた者)が通ろうとしたので、前述の事を申して留め
たが、聞かずに通ったので切り殺した。若輩でそのうえ理に当たる故、褒美されたという。

仁体静にして公儀就き良し。これ故か武州様(池田利隆)から光政様(池田光政。芳烈公)の御守に
附けられた。しかしながら少し私曲があり、それ故か生駒家は絶えた。下方(末裔という意味?)は
真っすぐである故か、今も相続申していると(光政の)仰せであった。

庚申11月19日、備前西の丸御内所での御物語り。

――『烈公間話』



149 名前:148[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 02:51:05.66 ID:/g8X7WjZ
>>148
ググったら下方覚兵衛という光政の傅役がいたようなのでその事みたいです>下方

私が切腹に及ばない事の方を憂い

2019年03月23日 18:43

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/23(土) 12:03:33.17 ID:R2H6RQcv
織田信長の次男である信雄は、本能寺に於いて信長が弑されたことを知る前に、鬼頭内蔵助を信長の
様子をうかがわせるため京都に遣わした。

鬼頭が山科に至った時、伊藤安仲に出会った、伊藤は信長の笛役であった。
伊藤は鬼頭を見て「ここは何処だろうか。」と尋ねた。逆に鬼頭は「貴殿はどうしてここに
居るのか」と聞いた。伊藤は涙を流し

「貴殿は未だ知らないのか。信長公が今朝、明智の謀反により弑され給われた。私のような者共は
途方に暮れて行先も解らず迷い逃げたのだ。」

それは朝日が山端に差し昇る頃であった。鬼頭は且つ驚き且つ疑った。しかし伊藤は
「偽りも事による。もし今信長公が恙無く、私がこのように大事の偽りを言えば、一体どうして
日本の地に身を置く所があるだろうか。」

「然らばここより立ち返り、貴殿の言葉を信雄様へ申し上げよう。」

「尤もである。証拠として、これは信雄様が御覧じ覚えたるものである」と、小刀を渡した。

鬼頭は急ぎ信雄の居城伊勢長島へと乗り戻り、その日の太陽が傾く頃に、三十余里を馳せ到着した。
然れども馬は疲れを見せず、まさしく稀代の駿足であった。

さて、鬼頭はこの趣を申し上げたが、信雄は信じようとしなかった。そこで証拠としてかの伊藤の
小刀を出すも、猶信じず、却って鬼頭が狂気したと思うような顔色であった。
致し方なく鬼頭は「やがて注進が参るでしょう。」と言って自宅へ帰った。
信雄は御伽衆の梅心という者に命じ、鬼頭を訪れてその様子を伺わせた。

鬼頭は浴衣を着ながら梅心の前に出て対面し、
「私が狂気したのかと思われたによって、その方に伺わせたのだろう。
もしあの情報が虚説と成って私が切腹させられれば、むしろ大いなる幸いであり、まことに望む所である。
虚説ではなく、私が切腹に及ばない事の方を憂いている。」
そう言って外に出て、繋いでいる馬の湯洗いをすると、馬はいなないて前掻きをした。鬼頭は馬の健盛なる
事を梅心に自慢した。梅心は帰ってこれを信雄に報告した。

その日の日暮れより諸方の早飛脚が、本能寺での事を告げた。
信雄は信長の弔い合戦について、今日よ明日よと言いつつ、出陣を十余日も引き延ばした。
その間に秀吉が備中高松より上がって、信長の仇を討った。これは信雄が無勇の故である。
これによって、後年、信雄は秀吉のために領地を没収された。しかし秀吉は信雄の制しやすいことを知って、
害はないと判断したため、大和に於いて五万石を与えた。

(武将感状記)

関連
鬼頭内蔵助の報告と織田信雄、+おまけ


811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/23(土) 12:23:06.52 ID:1Z0ElKd4
信雄「大坂城捨てよっと」

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/27(水) 13:05:37.15 ID:BAFAiwld
>>810
史実は伊勢長島じゃなくて伊勢松ヶ島だろう

故に再び謀叛を起こした

2019年02月24日 19:16

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/23(土) 19:51:30.66 ID:MaZU3Wfr
山路正国の逃走後)

とりわけ織田三七信孝は秀吉に与するを好まず、また三介信雄に対しては牆に鬩ぐ(兄弟が内輪で
喧嘩すること)恨みがあって侮りを抑える心はなく、故に再び謀叛を起こした。

信孝が柴田・滝川と一統して天下を覆そうとする旨を議定したことは秀吉の聞くところとなり、4
月17日に秀吉は長浜より美濃大垣城に至る。信孝は美濃・伊勢の人数を端々で一手になし、方々
を焼き回った。

このため秀吉は「是非とも岐阜に攻め入り、鬱憤を散らさん!」とするところで、その頃は長雨が
止まず、郷土の川は洪水してまったく兵馬を渡すことができなかったので、秀吉は大垣に5,6日
滞留した。その間に伊勢峯城(滝川方の城)を信雄の御人数や、その他蒲生飛騨守氏郷・長谷川藤
五郎秀一・多賀・山崎・池田などが攻め詰め、落去したとの吉報があった。武辺勝利の吉兆である。

さて柴田勝家は信孝の御謀叛に力を得て、天下を取らんとしたのは無論のことである(可取天下事
勿論也)。旧冬に勝家が信孝に一味した時は救い奉ることができず無念であったが、今この時には
きっと一戦に及ばんとする。

幸いにも只今秀吉は美濃に赴いているので、その隙にまずこの表を打ち破るべく、かの謀叛人の山
路将監(正国)を案内者にして、敵の行動や陣取の様子をことごとく尋ね探らせた。

天正11年(1583)卯月20日、佐久間玄蕃助(盛政)を大将となして余呉の海馬手を通り、
賤ヶ岳を手元に置いて、中川瀬兵衛尉清秀が陣取る尾崎に押し寄せ、柴田父子は堂木山と左祢山を
襲うために近々と人数を立ち寄らせたのである。

――『天正記(柴田退治記)』


三七信孝も智勇は人を超えていた

2019年02月18日 17:34

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/18(月) 17:26:48.51 ID:QhmfMSe6
また織田三介信雄は人数を率いて岐阜に攻め入った。三七信孝(織田信孝)もまた将軍(織田信長
の御息男で、智勇は人を超えていた。(而智勇越人)

信孝がどうして自害を拒むことであろうか。かの山にて信孝は髪を洗って身を清め香を焚き、将軍
から賜った太刀で、首を刎ねて死んだ。逆心によって滅んだことは、おおかた天命なのではないか
(於自害豈可辞乎。彼山而沐髪淸身焼香以将軍所被下太刀首刎死。以逆心相亡事殆不天命乎)。

――『天正記(柴田退治記)』


彼を「ノブヲ」と云うのは誤りである。

2019年02月01日 18:09

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 20:45:58.89 ID:VSKpX2dp
織田信雄について、今の人が彼を「ノブヲ」と云うのは誤りである。本来は「ノブヨシ」である。
永禄の御湯殿上日記に、「今日織田ののぶよし参内」とあるのは、信雄の事であると、村井敬義が
語っている。

伊勢貞丈曰く、「私の同僚に、昔の土方勘兵衛(雄久)の嫡家の人が有るが、昔勘兵衛はこの信雄から
一字を賜ったとして、代々雄の字を通り字としている。今の亥之助は、実名を雄忠と号している。
先祖より代々雄の字をヨシと唱えている。」

(安斉随筆)

マジすか伊勢貞丈先生。つか江戸中期はノブヲ呼びが一般的だったのか信雄。



711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 21:24:51.97 ID:hUh1KEi1
>>710
そんな近い時代でさえ読み方論争があったのかw

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 21:43:06.46 ID:jlsrvXNy
土方雄久って、雄を貰った時は雄良を名乗ったんでしょ?
"よしよし"だったのか?

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 21:43:24.47 ID:bXFoRI6t
ノブカツの読み方はいったいw

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/01(金) 08:56:27.56 ID:d8IU6Pkh
信雄の読みについての考察は別の逸話でもあったな

常真を攻めなさろうと思し召し

2019年01月29日 21:41

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/29(火) 17:46:00.29 ID:Wr+hP5vY
(賤ヶ岳の戦い勝利後)

その年も暮れていけば、秀吉は大坂の城に御入りとなられた。年が明ければ尾張へ取り掛かって、
常真(織田信雄)を攻めなさろうと思し召し、

「私は水攻めで2つも3つも城を落とし遂せたのである。尾張の国は水攻めになる国だぞ。その
故は、ことのほか大河があって、少しの水でも国中へ暴れるからだ」

と秀吉は仰せになり、

「皆々皆々よ、さてさて御気を付けなさるのですぞ! 熱田辺りを丈夫に御塞き止めなされば、
国中は水に落ち込むことであろう。その用意をせよ!」

と御分国の鍛冶に鍬・鎌・斧などを仰せ付けられ、ならびに明俵をおびただしく御用意なさった
と聞こえ申し候。また、伊勢・近江・美濃の山々で枠の木などを仰せ付けられた。

(中略)

その年申の4月9日に、家康卿と秀吉との長久手の御合戦の次第は書き付け申し上げるに及ばず。

秀吉は大坂に御馬を入れられ、家康卿を何とぞ御引き付けなさりたいと思し召された。前述の水
攻めの御謀を仰々しくなされたので、東の常真方では恐れ慄く心をも抱き、

「秀吉が多勢を引率して当国に向かわれることは必定なり。当国は水が国中へ落ち込む国なれば、
ただ秀吉に御従いになられることが御もっともです」

と常真に申し上げれば、常真は悪心得で「さては家中は筑前守に内応でも入れたのか」と前疑い
なさったと聞いている。この事が秀吉に伝わり聞こし召され、秀吉はそれならばと思し召して家
中を御手繰りなさった。

常真の御家中の津川玄番(義冬)・岡田助三郎(重孝)・滝川(雄利)・浅井(長時)・丹宮の
5人に御状を送り付けられて、様々に御手繰りになられた。

この事を常真は聞こし召されたのか、岡田助三郎のことを土方彦三郎(雄久)に仰せ付けられて、
かの彦三郎が天守で助三郎を抱いたところを常真が手討ちになさったのだと、聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』


我を殺すのか、又甲冑を奪うのか!?

2019年01月03日 16:12

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/02(水) 20:21:19.56 ID:EIuaIzZA
丹羽佐平次は織田信雄の小姓であったが、後に豊臣秀頼に仕え、大坂落城の時、大阪城より
脱出し泉州貝塚まで落ち行ったが、そこで落ち武者狩りの野伏に道を遮られ取り巻かれた。
この時佐平次は彼等に言った

「我を殺すのか、又甲冑を奪うのか!?着ているものを剥がされるのは恥である。
しかし私は既に日本国を皆敵にしたのであるから、今も自分が世に有るとも思えない。
よって出家をしたい。どうかそのために、僧を一人呼んでほしい。」

これを聞いて野伏たちは僧を一人連れてきた。佐平次は「ならば」と、彼に立ち寄ると、
その僧をひしと取り押さえ、刀を僧の胸に当て、人質とした。

これに野伏らはどうにも出来ず、人質の命と引き換えに「どこであろうと送り申そう。」と言い、
そこで紀州和歌山に所縁の人があることを告げ、野伏たちにそこへ行かせ、暫くして迎えの者がきて
其の者と共に紀州に隠れ住んだ。それから程なくして赦免を被ったという。

(常山紀談)



563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/02(水) 21:09:01.11 ID:GSc+bkMx
>>562
落ち武者狩りなのに律儀w

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/03(木) 13:04:20.09 ID:+x4SZTyg
その僧の檀家たちが野伏だったのかもしれない

この王子、他の信長の子息達よりも、その父に似ている故

2018年11月09日 09:36

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 00:02:05.85 ID:of0Wpt0o
この王子(織田信雄)をもしキリスト教に帰依することが出来れば、大いなる収穫を得ること疑いない。
彼は意思甚だ強く、他の信長の子息達よりも、その父に似ている故である。

彼は諸人に対して甚だ親切なのだが、もし命令に背くものが有れば直ぐにこれを罰する。故にその家臣の
行儀正しく丁寧なることは驚くほどである。

先ごろ、彼は兵士たちに与える物がなく、一方で、一人の殿が余るほどの収入を有するのを見て、彼はその殿から
六千俵を奪ってこれを兵士に与えた。

この事件の後、信長は信雄を招き、何故そんな事をしたのかと尋ねると、

「私は父上の子の中で最も貧しく、兵士たちに与える物を持っていません。そのためあの殿より、有り余るものを
少し取ったのです。」と答えた。

信長は彼を責め、「奪ったものを返すように。」と言ったが、信雄はそれを理解した様子を見せなかったので。
信長は怒って小さな枕を彼に投げつけ、その殿の財産に対する彼の侵害を責めたのだが、それ以上は何も
出来なかったため、この殿に対し
「この上は武力を以て奪うべし。」
と言い、実際に対陣させた。

この殿は1万人、又は一万五千の軍勢を集め、一方の信雄は七百人ばかりであった。しかし信雄は
「何人も動くべからず」と命じ、一人で馬を馳せてその殿の陣中に乗り込み、諸方に乗り廻して混乱させたが、
殿の陣中では、彼が信長の子であるため誰一人これに触ることも出来ず、殿は隠れ、これを聞いた信雄は
「これを捜すのは時間を損ずるに過ぎない」と、闘いを中止した。

(一五七八年一月十四日(天正五年十二月七日)附、都發、パードレ・ジヨアン・フランシスコ書翰)

正直ひでえ話だな。



420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 02:09:06.89 ID:4LmF8tH6
相手は四十万石くらいの人だったのかな

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 07:39:04.23 ID:JEmsZ9R9
再評価せねばならぬ武勇伝だね

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 09:28:31.32 ID:ow9Yza7j
三介殿のなさる事だからしょうがない

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 09:54:57.62 ID:tNMLWG7s
>>421
斜め上に

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 18:43:03.92 ID:DZoKZpxX
>>419
何でそうなるんだ…としか思えない行動回路だ

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 20:18:27.35 ID:Py2/VUOM
確かに事実とは思いがたい

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 21:08:40.86 ID:xhuQeHXe
>>419
頭鳩山かな?

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 22:13:01.97 ID:0+fdcXJE
本多正純「一人の殿とは一体誰のことなんです?」

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 11:07:22.55 ID:DMxEB0Op
神君だろ

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 16:39:27.63 ID:9TutT64G
>>429
それは正純じゃなくても気になる

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 20:14:27.23 ID:Rb9DE5g9
収益のために頑張ったら主君のドラ息子に理不尽に収奪されるわ
気難しい主君がせっかく説教してくれたのに息子の物分りが悪いせいで
匙を投げられて合戦もどきまでさせられた挙句
アホでも主の息子だから手を挙げられないで居たら散々暴れられるとか
この殿にしてみれば降って湧いた災難すぎる…

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 15:18:40.73 ID:2rFScKgH
>>419
もしこのドラ息子の話が本当ならそんな役回りは光秀か村重かな
1年後に村重は謀反を起こしているし

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 17:16:11.36 ID:6IaFLY1o
本願寺に横流しする手筈だった兵糧を・・・
ぐぬぬ

水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで

2018年07月05日 12:48

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/05(木) 09:38:54.04 ID:OR8ekP7n
父・惣兵衛(水野忠重)の家臣である富永半兵衛と申す者が、私のことを惣兵衛に告げ口し
その仲を散々にさせたため、あまりにも迷惑し無念に思い、牢人するのならこの者を斬ってから
牢人しようと心に決め、伊勢の桑名で手討ちにした。

それから私は牢人したのだが、伊勢長島に常真公(織田信雄)が居られたので、伺候して「奉公をしたい」
と申し上げたものの、これを知った惣兵衛より「倅を召し出すのなら、我々は味方をやめ在所に引く!」と
殊の外強く構いをしたため、(当時、小牧長久手の戦いが起こっていた)奉公することは出来なかった。

それから私は小牧山に参った。権現様(徳川家康)へ本多佐渡殿、高木筑後を通して『前々のごとく
召されますよう』と申し上げたが、常真の時と同じように、これを知った惣兵衛が構いを申し上げたため
これも成らなかった。

この時権現様は「そのうちに惣兵衛を説得しよう。それまでは私が存ぜぬ体にて隠れて居るように。」
そう仰られたため、小牧に居るわけにもならず、清須の須賀口の寺に滞在した。

その頃太閤様(羽柴秀吉)は美濃口に出陣という沙汰にて、惣兵衛と丹羽勘助は美濃口のだきという所へ
遣わされた。その時、前田の城主である前田与十郎が常真公を裏切り、滝川一益を蟹江城に引き入れた。
このため惣兵衛、丹羽勘助も急遽こちらに向かい、私も駆けつけた。
6月17日、滝川の子である滝川三九郎が東の大手より出撃した所を、横合いから突撃し、黒母衣で
金の半月の指物の者(その名失念いたし候)と鑓を合わせ、三鑓突いたが、すばやく門内に引き返し
門を閉めたため、討つこと出来なかった。その時私も二ヶ所鑓によって負傷した。

その後、権現様が前田の城の傍に作った堤に馬を立て休憩されていたところに伺候し、先の私の戦いを
詳しく申し上げた所「今に始まらぬ手柄である」と御感なされた。この時、傍に朝比奈左近も居たので、
その様子は左近が詳しく知っている。

(水野日向守覺書)

水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで


908 名前:sage[] 投稿日:2018/07/05(木) 17:50:05.82 ID:/LwZ2lnk
父親大激怒。

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 16:33:36.73 ID:i9a9NQi9
どうも、最近の勝成研究では、富永半兵衛は佞臣だった、ということになっているらしい
https://blogs.yahoo.co.jp/tachanace/40076741.html

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/09(月) 14:06:32.67 ID:0EAhNFSl
佞臣という言葉がすでに新しくないというかなんというか

なにやってんねん織田家

2018年06月29日 18:16

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 19:52:50.59 ID:uDHlqSWM
大阪の陣が終わった後、京都ではもっぱら女能が流行した。

その頃、吉野という傾城の太夫が四条河原にて能を興行していたが、これを織田上心(常真・信雄)が
お忍びで見物をしていたところに、織田宇楽(有楽)も見物に来ており、ここで常真の衆と有楽の衆が
喧嘩と成った。
これにより双方多くの侍が死亡し、また能舞台も完全に破壊されるという、殊の外大きな騒動と成った。

この事件があったため、女能は固く禁止と成った。

(長澤聞書)

アイドルのライブで乱闘騒ぎ起こしたようなものか。なにやってんねん織田家



890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 20:36:11.72 ID:z4iy15Aq
>>889
>能舞台も完全に破壊される
とばっちりにもほどがあるw

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 21:02:27.51 ID:7FJJQwwj
喧嘩という名の局地戦。

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 22:20:16.12 ID:/ZvrGPKO
女能って言えばその芸女は遊女も兼ねてたから、きっとアフター権利を巡って争ったんだろうな

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 12:59:47.65 ID:aCJ1kYtX
阿国歌舞伎もレズビアンショーみたいなものだったしな

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 13:27:21.37 ID:5kUak/hA
あら^~

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 19:45:30.05 ID:Fy+Q12xR
どこからそうなるんえ?

この茶筅御曹司は

2018年04月22日 21:18

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/21(土) 20:37:34.77 ID:O7Cf+qsQ
本能寺の変が起こった頃、蒲生飛騨守(氏郷)は近江の日野の谷に居たが、即座に安土へ参り、
土山に在った茶筅御曹司へ使いを立てて

「私の人数は三千あまり有り、また信長公馬廻りの士は五千もおわします。
この五千は明智の十万にも勝るでしょう。
必ず明智は安土に参ります。これと合戦すべきです!」

そう申し上げたが、茶筅御曹司はどう思ったのか蒲生に同意せず、終に合戦は無かった。
この茶筅御曹司は、後に尾張常真(織田信雄)と申した人である。

蒲生も一人の力ではどうにも出来ず、空しく日野谷へ帰った。
その後明智は坂本より船にて襲来し、安土の城を焼き払い、金銀を取り集め坂本へと帰った。

(祖父物語)


時移り世変じて

2018年01月20日 18:02

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/19(金) 22:03:19.61 ID:o+2SsETU
高木主水正正次は殊なる勇士であり、元は水野下野守(信元)の家臣として、戦功隠れ無かった。
また同じく水野の家臣であった神谷金七も、家中において高木と並び称される勇士であった。

水野信元が謀殺された後、その家臣は散り散りとなったが、高木、神谷は勇士の聞こえあり、
徳川家康より召し出したいとの通知があった。

高木はこれに応じ家康の家臣となった。
しかし神谷はこれを断り、織田信雄に仕えた。その頃は織田信長が天下の権を握っており、
その息子で北畠を継いだ信雄には、天下の士は皆、これに仕えることを望んだものであった。

その後、時移り世変じて、徳川家康は遂に天下の主となり、織田信雄は次第次第に漂泊した。
神谷金七はそんな漂泊した信雄家にて没し、その子の左馬助は、かつて父が家康より召された
由緒により、徳川に仕えることになった。

(士談)

ちなみに高木正次は、元和九年に一万石ながら大名になっていますね。


浅利のハイタカ

2017年09月09日 10:14

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/08(金) 23:39:00.53 ID:XzrI/Uma
尾張内府(織田信雄)の元に、「鷹の上手である」と、浅利牛乱という者が目通りした。
彼は「ハイタカに雁を取らす」との言い立てをした。信雄は「これは珍妙である」と、彼を召し抱えた。

浅利はこの雁取りの鷹を据えて御前に出たが、この鷹、殊の外羽を羽ばたかせて鳥を取ろうとする
様子であったが、その日は狩りをさせずに置いた。脇から見れば、まぎれもなく雁を取るような体であった。

しかしその翌日、浅利は信雄の前に出ると「あの鷹はイタチに食われてしまいました」と、涙を落として
説名した。

実は、先に鷹が羽ばたいていたのは、一方に餌を持って見せたため、鷹が興奮していたということで、
つまりは偽りであったという。すなわち、信雄を騙したということである。

(士談)



101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/09(土) 08:31:06.55 ID:4xz0EMTm
>>100
つまり、人を騙した浅利に罰があたった、ってこと?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/09(土) 18:19:41.24 ID:pozdrvhm
イタチにヤられたことだって本当かどうか

豊臣関白北條征伐出陣の事

2016年11月29日 09:07

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 22:58:38.33 ID:GUK5L/Vi
豊臣関白北條征伐出陣の事

 秀吉が北条を討たれに行った時、諸将は浮島が原で並び居て秀吉を待っていた。
秀吉は糸緋威の物具を着て、唐冠の胄をかぶり黄金をちりばめた太刀を帯び、
大きな土俵空穂に征矢を一筋指し、仙石権兵衛が持ってきた朱の滋藤の弓を持って、
七寸ある馬に金の瓔珞の馬甲をかけ、静かに歩かせて打通られた。
東照宮が信雄と共に出迎えられたのを見て馬から降り、

「いかに、二心あると聞いたぞ。いざ一太刀で参らん」

と太刀の柄に手を懸けられた。東照宮は左右の人に目を向けられて、

「戦始めに太刀に手を懸けられとは、めでたいことですな。」

と高らかに仰せられると、秀吉は何も言わずにまた馬に打ち乗って通られた。
(常山紀談)



361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 23:05:09.17 ID:HNq+lJTq
権兵衛、許された直後なのに出張ってるな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 00:01:06.99 ID:BqHMB20x
いや、時系列おかしいだろ。

【ニュース】[織田信雄、秀吉の顔色うかがう 清洲会議3日前に書状]

2016年07月08日 16:27

814 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/08(金) 09:41:10.15 ID:lO69aRU1
[織田信雄、秀吉の顔色うかがう 清洲会議3日前に書状]
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160708-00000021-asahi-soci


本能寺の変(1582年)で織田信長が倒れた後、後継をめざした次男・信雄(のぶかつ、1558~1630)
が羽柴(豊臣)秀吉に宛てた書状を、中京大の村岡幹生教授らが入手し、7日発表した。日付は信長の後継者を決
めた清洲会議の3日前。秀吉に指示を仰ぐ内容で、慌てた様子もうかがえるという。
書状は、縦29・4センチ、横40・1センチ。古書市場に出品されていた。日付は6月24日。年は書かれてい
ないものの、共同で分析した播磨良紀教授が、時代で変遷した信雄の花押(サイン)の形を分析して特定した。
「そちらの様子でよきように決め、連絡して下さい。近くへ陣を寄せます」といった内容が書かれていた。本能寺
の変が6月2日。13日には秀吉が山崎の戦いで明智光秀を破っており、信雄が秀吉軍に加わろうとしたとみられる。

・・・古書市場で出品って誰が?



815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 13:32:55.55 ID:eVs+Krws
所有者

816 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/08(金) 14:09:34.84 ID:uhV5wMs+
だいたい価値の分からない遺族が一括して業者に渡すので
業者が市場に売りに出す

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 16:10:51.53 ID:EZmvQCNr
>>814
こういうのいいなぁ、もっとでてきて欲しい。