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信長の唐櫃

2019年08月04日 15:51

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 15:12:01.37 ID:20SiqXwU
霜月21日(1567)に織田信長より織田掃部助(忠寛)を使いになされ、「信玄公の御料人(松姫)が
御歳7歳になられるのを承り及び、信長の嫡子・城介(織田信忠)の内方に申し受けたい」と仰せ遣された
のである。武田の家老衆各々は寄り集まって談合し、信玄公へ申し上げられるには、

織田信長はすでに34歳に罷りなられ、27歳の時に義元を討って庚申より去年まで7年の間に美濃・尾
張を治めて今は美濃岐阜に居住されています。

殊更今年は公方の霊陽院殿義昭公を都へ御供申し、信長の被官の柴田修理(勝家)・野村越中の両侍大将を
都に付け置き申されているので信長は望みも多く、万一どのような謀で信玄公と縁を結び申したいと申され
るのかも分かりませんので、これはまず差し置きなされ」

と諫め申し上げた。信玄公は聞こし召して、

「それは各々の意見もっともであるが、近年信長が信玄に入魂仕りたがることは少しも偽りには見えない。
その訳は、信長が音信に小袖を送り、信玄の召すものを格別に致すと言って入れて送った箱を削らせて見る
に殊の外の堅地で、蒔絵も我が家の菱を同じ具合になしたのは、町物ではなく念を入れて、わざわざ申し付
けたと見える。勝頼と縁者になる2年前からこの如くである」

と仰せられ、各々にその唐櫃を取り出させ、年々のを見せなされば仰せの如くである。信玄公は仰せられて、

「人の真実・不真実は音信で知るものである。1度や2度は念を入れるとも、3度までは主か親を除いては、
その他の只の者には重ねて念を入れることなど小身な者でさえしないというのに、ましてや国持ちは自分も
人も事が多いので、年々このようにはならない。

信長は1年に7度ずつ必ず使いを送る。それでさえもこちらから使いを遣るならば、その返報とも存じよう
が、2年に1度でもこちらから人を遣ることはないというのに、親主の如くに信長が仕るのならば、縁者に
信玄となりたいと信長が存じるのは一段と真実であろう」

と仰せられ、御合点あって御返事なされた。そうして織田掃部が長坂長閑(光堅)を介して申し上げ、「こ
の上は細かな事をも申し上げます。私めに万一暇があって、佐々権左衛門や赤沢七郎左衛門が参る時は誰を
介して申し上げるべきでしょう」と申せば、信玄公は仰せ出され「高坂弾正に付いて申せ」とのことだった。

掃部はまた申し上げる。「高坂弾正殿は信州川中島に罷りおられますが、甲府に弾正がおられぬ時に川中島
まで参るのもいかがなものでしょう。小事で大名の弾正をここまでというのも申し悪いので、御膝下で奏者
を仰せ付けられれば、その上でも大あらましの事は高坂弾正殿へ申します」と織田掃部は申すので、原隼人
佐(昌胤)・跡部大炊助(勝資)両人を仰せ付けられ、織田掃部と原隼人・跡部大炊助を長坂長閑のところ
まで呼んで引き合わせたのである。

掃部は甲府に長く奉公仕った故、両人とも知人である。中でも跡部大炊助は織田掃部が信玄公へ御奉公申し
た時の奏者である。ことさら掃部が岐阜へ帰り、やがてその年11月中旬に御祝言の御樽肴を持たせて甲府
へ参り、御祝めでたきことである。よって件の如し。

信長より信玄公への御音信は、
一、虎の皮3枚 一、豹の皮5枚 一、段子百巻 一、金具の鞍鐙10口 以上。

御料人様への御音信は、
一、厚板百端 一、薄板百端 一、緯白百端 一、織紅梅百端 一、代物千貫 一、毛掛の帯上中下3百筋。

この他御祝の御樽肴は作法の如くで、御使は織田掃部助である。

――『甲陽軍鑑』



132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 16:57:51.98 ID:W6PzTXQ5
そんな信長を平然と踏み潰そうとする信玄公

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 16:59:53.94 ID:w2LBZ5n+
その頃は信長のがデカいのにその表現は
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四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのである

2019年07月31日 18:54

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/31(水) 18:17:56.42 ID:Yj3Qypa8
永禄8年乙丑(1565)9月9日に、尾州織田信長公より織田掃部(忠寛)という侍を甲府へ御使に
遣しなさり、信玄公へ仰せられるには、

「恐れ多い申し事ですが、去る申の年に駿河義元公が信長を踏み潰しなさろうとして尾州へ発向なされ、
勝利を失って殊に討死なさり、その勢いをもって我が本国は夏秋中に信長に従い、その暮れより美濃国
へ取り掛かって今年まで6年ですから、大方今年か来年の間には、美濃国も信長が支配仕るでしょう。

そこで信玄公が御持ちの木曽郡と隣続きになりますので、所々の往来も互いに申す事がないように伊那
の四郎勝頼公へ信長の養子の娘(龍勝院)を進上したいのです。

この女子については、信長の父・弾正忠(織田信秀)存生の時に、美濃国の苗木勘太郎(遠山直廉)と
いう侍を婿に仕り、すなわち信長にとっては妹婿でして、昔より美濃国苗木の城に居住しております。

かの者(直廉)の娘を幼少から信長は養い置き、姪女と申せども実子よりは労わっています。信長には
息女もおりますが、私めは今年32歳なので惣領の男子でさえ10歳程で、20歳になられる四郎殿の
内方になるべき息女を持ち申しておりません」

と諸々の信長の申されようあって、乙丑霜月13日、苗木殿の娘で姪女と信長は養親になって伊那の高
遠へ御輿入れし、四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのである。

また御使を仕る織田掃部は信玄公に11年召し使われ、5年前の辛酉11月に信長が呼び返しなさった
尾州侍で、しかも信長譜代の侍であるが、信長18歳の時に気に違えて11年甲府に罷りおり、信長2
8歳の時に召し返された。

信長公より信玄公へ御使の人は織田掃部・赤沢七郎左衛門・佐々権左衛門(長穐)。この3人は正月・
3月・5月・7月・8月・9月・極月の7ヶ月に樽肴・巻物・袷帷子を贈り、殊に信玄公の御召し料に
と御小袖1重ずつを格別に武田菱を大きく蒔絵した。この紅で緒をしめたものに、御頭巾1つ・御綿帽
子2つの合い3色を、これも小さい蒔絵をした箱に入れて、甲府へ信長は御音信申されたのである。

信玄公より信長公への御使は秋山十郎兵衛であるが、1年に1度でも御使を遣しなさるのは希であった。

――『甲陽軍鑑』



125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/31(水) 20:31:38.19 ID:zlGD2hC1
さすが信長