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【ニュース】政宗と有楽斎、親密な証し

2019年03月21日 18:03

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/21(木) 17:57:21.50 ID:nRNRXshP
政宗と有楽斎、親密な証し 河北・永昌寺所有、2人交わした書状と判明 山形新聞2019年03月20日

河北町の永昌寺(布川昱哉(いくや)住職)が所有する仙台藩主・伊達政宗の書状が、織田信長の弟で茶人の
有楽斎(うらくさい)に宛てた物と判明した。政宗と有楽斎が交わした書状は全国で2通発見されており、これで
3通目となる。解読した鈴木勲町郷土史研究会長は「2人の親密な関係が伝わる貴重な史料だ」とし、その価値を
県内外に広めたいと話している。

書状は布川住職が主催する茶会の掛け軸として、約20年前に東京美術クラブで手に入れた。政宗が書いた物だと
いうことは分かったが、宛先や内容が分からなかったため、長らく押し入れにしまっていた。
昨年末に鈴木会長が寺を訪れた際に、布川住職が解読を依頼。宛名や特徴的な花押などが手掛かりとなり、政宗から
有楽斎に宛てた手紙だと分かった。入間田宣夫東北大名誉教授(日本中世史)にも鑑定を依頼し、本物とのお墨付きを得た。

書状は縦約32センチ、横約41センチ。「羽越前正宗(政宗)」とあることから、1591(天正19)年~1602(慶長7)年の6月に書かれた物とみられる。
内容は有楽斎が政宗の元を雨の中訪れたことへのお礼で、政宗は書家としても知られ、流れるような筆跡からは趣が感じられる。


伊達政宗の書状 解読文】
            外不申候
             かしく

即御撚、却而御隔心之至候
 (手紙を頂いたが、かえってもどかしく思う)

誠ニ今日者、御出雨中と申
 (そう思っていたところ、きょうは雨の中おいでいただき)

何之興無之候処、緩々と御
 (何のお構いもできなかったが、ゆっくり打ち解けて話ができてとても良かった)

咄候而、外実共辱次第、書餘以
 (書面に書けなかったことは)

拝面御礼可申候、恐惶謹言
 (直接お会いしてお礼申し上げたい)

林鐘廿日    〈花押〉

     (6月20日     政宗)

http://yamagata-np.jp/news/201903/20/kj_2019032000350.php?keyword=%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97

正宗と政宗の書き間違い、誤変換はよくあることですが
本人もそう書いてんならいくら間違っても許されるよね?

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/21(木) 18:46:58.98 ID:nRNRXshP
署名の「羽」ってつい出羽の方かと思っちゃったけど、羽柴の方だったのね

>官位履歴[編集]
>天正19年(1591年)3月 - 侍従に遷任し、越前守を兼任。羽柴の苗字を関白豊臣秀吉から授かる[23]。
>慶長2年(1597年) - 従四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任。越前守如元。
>慶長13年(1608年)1月 - 陸奥守を兼任。越前守任替。松平の苗字を第2代将軍徳川秀忠より授かる[39]。



ちなみに山形新聞のサイトはパソコンから閲覧すると無料ですが、スマホからだと登録制有料になるという仕組みなんでご注意を



738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/21(木) 21:12:05.59 ID:v8i+Zr09
政宗が他の大名から「政宗なら正宗の脇差持ってるよな?」とからかわれて
正宗じゃない刀を正宗てことにして脇差にするために削った話を思い出した
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なにやってんねん織田家

2018年06月29日 18:16

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 19:52:50.59 ID:uDHlqSWM
大阪の陣が終わった後、京都ではもっぱら女能が流行した。

その頃、吉野という傾城の太夫が四条河原にて能を興行していたが、これを織田上心(常真・信雄)が
お忍びで見物をしていたところに、織田宇楽(有楽)も見物に来ており、ここで常真の衆と有楽の衆が
喧嘩と成った。
これにより双方多くの侍が死亡し、また能舞台も完全に破壊されるという、殊の外大きな騒動と成った。

この事件があったため、女能は固く禁止と成った。

(長澤聞書)

アイドルのライブで乱闘騒ぎ起こしたようなものか。なにやってんねん織田家



890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 20:36:11.72 ID:z4iy15Aq
>>889
>能舞台も完全に破壊される
とばっちりにもほどがあるw

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 21:02:27.51 ID:7FJJQwwj
喧嘩という名の局地戦。

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 22:20:16.12 ID:/ZvrGPKO
女能って言えばその芸女は遊女も兼ねてたから、きっとアフター権利を巡って争ったんだろうな

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 12:59:47.65 ID:aCJ1kYtX
阿国歌舞伎もレズビアンショーみたいなものだったしな

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 13:27:21.37 ID:5kUak/hA
あら^~

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 19:45:30.05 ID:Fy+Q12xR
どこからそうなるんえ?

織田有楽の殊勝な茶の湯

2017年04月07日 09:10

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/06(木) 21:02:56.40 ID:z6JxW6m+
 大坂全盛の頃、織田有楽が茶の湯として三人を招待した。
亭主が老人でかつ貴人であるので、遅く参るのもいかがと客同士で申し合わせて夜深くに参った。
宅に着くと中からおとなしそうな人が出てきた。

「早々に三人方が来臨されて、有楽も非常に忝く存じています。
早速罷り出て謝礼があるべきですが、歳ゆえに今は病気で床に伏しているところです。
確かに無礼ではありますが、今は罪を謝ることが難しい状態です。
老人のことなのでどうかお許しください。」

と言って、「ここに入っててください」と外露地への戸を開いて入ってもらった。
客も会釈して内露地の辺りで休んで、周りを見てみると、
石灯籠の火がほのかについていて、庭の遣り水、軒の松が風に響いている。
静かな装いから浮世の外に出たのかと三人は心を澄ました。
折から、障子の向こうでつくろった声と共に琵琶が鳴り出した。
これはと思っていたところに、
平家物語の『大原御幸』を、非常におもしろく語りだした。
客の面々は感に堪え、ただ茫然と聞いていた。
さるほどに、夜もようよう明けようとしたところに、
平家物語も終わると、内露地のくぐりが開ける音がして有楽翁がよろよろと出て来られて礼式の事が終わった。

 茶の湯も殊勝で、そのときの有様を思い出しても今の事のように感じられたそうである。
このように作法に心はあるべきである。
平家物語は高山検校が語られたとか。


『武士としては』


800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 22:41:11.34 ID:3FN6qypk
>>792
>遅く参るのもいかがと客同士で申し合わせて夜深くに参った。

いくらなんでも早すぎでは…

群盗蜂起

2016年05月23日 17:20

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 22:41:55.91 ID:Bf+Mj0o/
大阪冬の陣があって諸人漂白を踏む思いをなしていた所、和睦となったため人々は思いの外に
静かな春を迎え、安堵の思いをした。

ところがその頃、五畿内およびその周辺の国々では群盗が多く蜂起した。
彼らは「大阪籠城の浪人」と称し、民の財宝を奪い取り、旅人の衣装を剥ぎ取り、往還の人々まで
殺害した。

この時は四方より困窮した者たちも大阪浪人に与して集まってきたので、その数甚だしく、
諸国の庶民たちは大いに嘆き、大阪への恨みは日々大きくなっていった。
世間では『大阪城中の輩が申し合わせて、去年城郭を破却された報復として、このような非道をするのだ』
と言っていた。

板倉勝重松平定勝はこのような都鄙の騒動に大いに驚き、これを放置すれば終には乱の元になると
考え、両人申し合わせ諸国の大名に申し触れた。

『大阪籠城の浪人が諸国に分散し、押し取り、強盗を行い国々の煩いとなっている。
各々の領分の範囲で、手柄次第に捕縛し、なお手に余るようであれば討ち捨てにもされよ。
その委細は関東に報告する。』

しかし、或いは百、ニ百、或いは三百五百と徒党していたため、以ての外に手に余り、一揆が起こったのと
異ならない状況であった。

板倉はこの状況を急飛脚を以って関東へ知らせ、畿内の世上物騒であることを両将軍(家康・秀忠)に
伝えた。また大阪に対してもこの事を申し送り
『秀頼公の御為にも然るべからざる事なので、大阪からもこれを鎮めるようにしてほしい』
と伝えた。

これに対し織田有楽大野治長らの返答は
『去年集まった雑兵共は和睦のあと離散したため、何処に国に向かったかなど詮索も出来ない。
察する所、浪人によせて諸国の盗賊が集まったのだと見える。よくよくご詮議されるべきです。
秀頼公には毛頭和議を疎略にする考えはなく、この上何らかの雑説が流れても信用すべきでは
ありません、』

そう申し遣わしたが。上方ではこの年2月に神踊という事もはやり、貴賎老若動揺をなした。

(慶元記)

大阪冬の陣の和睦のあとも、安定しない上方情勢についてのお話



二人ともあきれ果てた

2016年04月04日 17:43

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/03(日) 15:18:51.96 ID:s1yGAbCK
大坂城の女中が集まる三の間に大砲の弾が撃ち込まれ茶箪笥を打砕き、淀殿の居間まで悲鳴が聞こえるようになるにつけ、
淀殿の口も和らぎ、織田有楽斎、大野修理へ「何卒和談を取り付けたい、秀頼の為なら自分が江戸へ下向してもいい」と言ったが、
秀頼が承知せず、この上は近臣の出頭の者に諫言させようと相談した。

渡辺内蔵助は鴫野の一戦以後秀頼の前を損し、
薄田隼人も博労淵の出曲輪を取られ、日頃の力量自慢ほどではないと城中のひとに取沙汰されているのを恥じて万事控えめになっている。
木村重成は後藤又兵衛が今福の戦いを秀頼に報告し、以前の倍も信頼を受けている、木村から言ってもらうのがいいだろう、と
有楽斎、大野が木村を招いて、和談の上淀殿を江戸へ差し出すことを秀頼へ提言するように言ったが、これを聞いた木村は
「今の話は片桐が最初に話したことと少しも違いはなく、今さらそのような申し上げはできない。
各々に幾度でも言うが、このような次第になったのは畢竟秀頼さまのご運の末と嘆くほかない」
と言うので、二人ともあきれ果てた。
その後後藤から強く申し付けたことで秀頼も得心し、和議の相談が進むようになった。
この話は難波戦記等にはないが、牧尾是休斎が語ったことである。

落穂集から抜粋

木村重成がいかにも若いな~って感じだ



秀頼の、和議受け入れまで

2014年07月04日 18:52

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 09:33:02.32 ID:E2O7/VxD
大阪冬の陣
幕府軍による備前島からの大筒による攻撃で、大阪城内の櫓が破壊されると、豊臣首脳陣は
これ以上の抗戦は不可能と見て、旗本である七手組の頭たち、そして織田有楽は揃って幕府との
和議を受け入れるよう豊臣秀頼に迫ったが、秀頼は

「この籠城を決断した初めから、私は自分の運を開くつもりはない。父の遺言に任せ、この城を
墓所だと思っている。それなのに何故お前たちは和議を受け入れよと申すのか?」

これには皆言葉なく立ち下がり「秀頼公は、古参の者達の申し分は聞き入れてくれない。この上は
新参の者達の考えを申し上げ、その上で諫めるのだ。」そういって長宗我部、真田、後藤、明石を始めとした
浪人衆に、「この事をどう思うか」と尋ねたが、その評議はそれぞれにまちまちな意見であった。

ここで後藤又兵衛はこういった
「諸大名に内通しているものがあると言われますが、一人も御味方に参るものは居ません。
弾薬も兵糧も限りあるものです。一体、何を頼りにこの和議を受け入れないと仰っているのでしょうか?」

次に真田左衛門佐(信繁)は言った
「籠城というものは、諸人心を一つにしてすら覚束ないものです。であるというのに、この頃の
南面の持ち口の状況を注意して見れば、運生寺(織田頼長)の持ち口では、鉄砲を撃つことを固く
禁止している。先日など誤って発泡したものを斬首し、その頸を晒しさえした。そんな状況であるから
敵は早堀の際まで仕寄せてきている。

また目立つ白い吹貫を、3度まで色々に染め替えるという不審な行動もしている。

そのうえ先日4日には、敵が柵にまで手をかけ、我々はその防御のため、童女に至るまで石を運ぶほどの
危機に陥り、諸人は息を呑んでいたのに、かの織田頼長殿はその前夜から「風邪を引いて咳が止まらない」と
家に入り、傾城(遊女)に身体を揉ませ深夜まで遊んで居られたと、そんな話も承っている。
彼といい此れと言い、疑念が晴れることはない。

この織田頼長殿は有楽斎殿の嫡子であり、秀吉公の御一門、南面の総大将です。そのような人物が
斯くの如くの有り様では、どうしてこの籠城が叶うでしょうか?
相手が和議を言ってきたのを機会として、時節をお待ちに成るべきです。」
そのように申し上げた。

この意見に他の浪人衆も同意した。
織田有楽、大野修理はもとより和議への賛成派であったので、古参新参の者達の意見を合わせて、
先ず、母の北方(淀殿)にこう申し上げた
「形のごとく計略をめぐらし諸大名の心を引いてみたというのに、一人も味方に参るものが居りません。
あまつさえ我等に野心を抱くものも、未だ城中にいると承っている。その上兵糧弾薬も徐々に
尽きてきています。

敵の家康は名将であり、日本中の軍勢をもってこの一つの城を攻めているのですから、味方につこうと
思うものが居ないのも当然なのです。今は、ただ一筋に、秀頼公が御母もろともにお腹を召されて
諸軍勢をお助けになられるか、この和議を許諾して、時節をお待ちに成るか、二つに一つです。」

母の北方はこれを聞いて「源頼朝は朽木の中に隠れて本意を遂げ、越王は心を秘して会稽の恥を雪ぐと申す。
命を捨てるばかりを勇者と申すべきではない。秀頼のためであれば人質となっても関東へ下り、
いかなる目にあっても露ばかりも厭う心はない。古参新参の人々を語らい、秀頼を諌め申すように。」

そして有楽を中心に、秀頼を様々に説得し、秀頼も終に
「私は未だ若年であり、弓矢の道もよく理解していない。おのおの一同がそのように申す上は力及ばぬ。
宜しく計るように。」

と、終に和議の受け入れを許諾したのである。
(秀頼事記)

秀頼の、和議受け入れまでの経緯である。



620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 19:13:05.96 ID:hb+FdUE6
これが本当だとすると秀頼は戦略眼はないにしても
気概だけはあったということか
しかし裏切り者はおいといて、淀君、豊臣首脳陣、浪人勢、秀頼
特に貶めてないのがなんかいい

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 19:21:45.64 ID:8LDaSUCl
左門「はいはい、ワシのせいワシのせい」

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 23:49:19.92 ID:jTl8WvhA
>>620

最近の説では、淀君自身は人質として江戸に行ことを承諾していたが、
秀頼が母親を人質にすることは受け入れられない
と強硬に反対していたという見方が有力らしいからねえ

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 02:35:04.60 ID:9R7ZIt2m
秀頼は交戦、淀は講和と、いままでとは真逆になってきてるし

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 03:51:46.28 ID:+DRSuoeO
夏の陣の方はどうなんだ?

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 11:24:12.90 ID:l4p3lJTi
淀殿は最初から講和派だったのか
それとも大砲にびびって鞍替えしたのかどっちだろ

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 11:51:39.42 ID:Ht6XSUXc
冬の陣前→開戦派
冬の陣中後→講和派
夏の陣前→フェードアウト

お袋様専制と言われるくらい権力をもって居たから
戦前より講和派なら戦になってない可能性が高いくらいの話
いざ始まったら味方する大名ゼロで講和派転向
夏の陣前は秀頼が発言するようになり代弁者でしかない淀君はフェードアウト
真偽はともかく淀君関係を拾っていくとこんな感じ

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 16:42:43.34 ID:0z3bdRYv
>>625

それ以前に、関ヶ原の時点で

通説

淀君 > 西軍
ねね > 東軍

だったのが、

淀君 > 東軍
ねね > 西軍(というか、宇喜多+石田派)

というのが有力になってる
その結果、淀君がお江の事もあって、家康や秀忠に託していたのが切り捨てられたという見方が強い

『高木は風にあい、勇士は妬みにあう』

2014年01月01日 18:58

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/01(水) 16:33:42.31 ID:grFRENw+
織田有楽軒の息子左門(頼長)の家士に、常に武を心がけ、万事につけて埒が明く小身の者がいた。

傍輩たちはこの事を憎んだ。ある時、四、五人が申し合わせて銭湯の風呂に入った。
多くの人の中で、かの者は面を打たれて鼻血が流れ出た。風呂の中は暗かったので
相手が誰とも分からず、かの者は外に出て身体を拭い衣を着て、帯を締めて刀をさしはさむと、

「士の意趣は刀をもって勝負をするものぞ! 只今、拳をあげて我が面を打ったのは
女童のやり方のようである! 臆病者はまったく士の行為ではない! 志があるならば名乗れ!
名乗らなければ男とは言えないぞ!」

と、罵ったが、返答する者はいなかった。亭主が手をすってこれを止めたので、
かの者は裸者をことごとく撫で斬りにすることもなく、怒りを抑えて宿へ帰った。

それゆえに人々は口々に悪く取り沙汰した。これを聞いた左門は「かの者は平生の覚悟が良くないので、
我にまで恥辱を与えた」と言い、かの者が追放されそうなところを、

有楽軒は「『高木は風にあい、勇士は妬みにあう』と言われている。これはきっと傍輩どもの
仕業だろう。面を打つ程度の心で、名をも名乗らず黙っているのは、人知れず恥辱を与えたことを
勝ちとした臆病者だ。決してかの者が気後れしたわけではない」と言って、かの者を扶持して残した。

その後、かの者は合戦の場に赴き、大剛の働きあって名を揚げたのである。

――『武将感状記』





大野治長と織田有楽斎が茶臼山にやってきて

2012年05月24日 21:00

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 00:30:52.68 ID:3WQ2Cwt1
大坂冬の陣の和議がなった後、大野治長織田有楽斎が
茶臼山にやってきて祝賀を述べた折、徳川家康は本多正純を呼び、

「わしは修理のことを只の若造だと思っていたが、こたび
主将として諸軍を指揮する様は、武勇はもちろん、秀頼に対する
忠節も見事なものであった。正純よ、お前も修理にあやかるのだ」

と言って治長の肩衣を所望し、それを正純に着させた。
治長はこの時「冥加にかないました」と感じ入り、涙を流して退出した。

そして、有楽は御次の間にて衆人に向かい

「このたび御和議がととのったのは本当にめでたいことです。
これよりは入道も太平の恩化に浴し、生涯を楽しんで送りたいと
思います」と言って、茶を点てる真似をして帰っていった。




315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 00:43:15.24 ID:fsKXrfLp
深そうな逸話だな。
有楽が構われず世代交代を察して退いたのか、豊臣の明日はないと思って保身に走ったのか。


316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 00:53:33.47 ID:L1gtvlb6
茶を点てる……真似?

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 01:05:59.39 ID:CgcdmOmV
織田有楽斎は信忠を見捨てて(彼が余計な進言しなければ信忠は死なず
に済んで織田家の没落もなかったかもしれんし)、その後は秀吉の家臣
として屈辱を受ける事もありつつも大阪の陣以降まで生きているけど
豊臣家の滅亡をどう思ったんだろう。
織田家を蔑ろにした報いで「ザマー」と思ったか、それとも諸行無常というか、
姪の茶々と秀頼を哀れに思ったか。。。。

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 07:52:25.55 ID:Cr0urHIm
有楽だし、我が身の無事以外は何も考えてなさそう

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 11:19:38.54 ID:/zOIRHeb
有楽「良かった、今回も生き残ったぞ」

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 11:59:40.13 ID:SexZ0GL/
有楽みたいに実際の行動じゃなくていつの間にか立った無責任な噂で人間決められてたら、趣味の世界に
逃げたがるのもわかる。

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 12:13:59.61 ID:MAQBFCeU
有楽殿は評判悪いなw
自分の能力をわきまえてうまく立ちまわってるだけなのに

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 12:20:14.71 ID:CgcdmOmV
>>320
あの例の有名な歌は嘘なんだ。

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 12:25:10.38 ID:J9GtnOfy
>>322
あー、フランク永井のやつね

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 12:26:36.80 ID:CnsFi+EX
うらく町で逢いましょう

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 12:45:34.52 ID:SexZ0GL/
>>322
後世の編纂物にしか存在しないし、他の脱出組は叩かれて無いからねえ。

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 15:25:52.56 ID:CgcdmOmV
へえ~そうだったんだ。

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 19:33:55.69 ID:0QPsSeJ7
すごいな、フランク永井

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 21:09:27.81 ID:fPnXHy8x
有楽殿好きだけどな、俺
あの立ち回りはただの凡人に出来る芸ではないと思う

この様子を笑って見ていたという有楽斎は

2011年12月12日 22:00

343 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/12(月) 03:35:48.58 ID:3doaVf8q
ある時、織田有楽斎は千利休亡き後に茶の第一人者となっていた古田織部と共に、
秀吉の遺児である秀頼のいた大阪城での茶の湯に招かれた。茶会では、豊臣家重臣であった
加藤清正が秀吉に献上した茶器が使われ、出席者は秀吉や清正に敬意を表すようにこの茶器を押し頂くのが
決まり事になっていたのだが、織部はそれに従わなかった。この様子を笑って見ていたという有楽斎は
茶会が終わった後、織部に

「くつろぎなされ。」

と枕を差し出して二人で座敷に寝転がり、側仕えの者に点てさせた茶を寝ながらに飲むという
無礼講を行ったという。 以上、微妙ですけど織部を注意しなかった有楽斎の悪い話。




344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/12(月) 09:26:42.72 ID:z2fdKoS5
有楽さんは信長の弟だからな
秀吉が生きてた頃はともかく、秀吉死後なら「秀吉や清正に敬意を表すようにこの茶器を押し頂く」とかアホらしかったんだろ

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/12(月) 11:52:42.60 ID:W2D1de8V
誰が主催したのか知らんけど、主人に対して失礼な話だな
織部の弟子の誰かによるものだったのかな。
有楽斎が招いた茶会というのなら笑い話だけど

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/12(月) 12:37:24.13 ID:JLg7dFG3
織部だけだと「あいつマジ感じわりーわー(怒)」ってなるけど
「そのあと有楽さんも一緒に寝転んでお茶飲んだんだってさ」ってなると
「ほんとマジあの二人子供だわーやんちゃで困るわー(笑)」ってなるじゃん?
ちょっとトンガリすぎた織部をフォローした有楽さんナイスじゃん?

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/12(月) 14:05:58.79 ID:W2D1de8V
でも招いたほうの主人は救われてないよね?w


348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/12(月) 14:35:51.90 ID:HZh4fW9F
だから悪い話なんだろうなw

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/12(月) 15:01:05.75 ID:Tb798F9g
そもそも、織部が家康・秀忠に切腹させられた理由は何?

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/12(月) 16:10:37.32 ID:HZh4fW9F
秀頼の子、かくまったから?

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/12(月) 19:06:19.58 ID:UwRNiIUM
織部の豊臣家に対する心情的には別に他にならえで構わんかった気がするんだよな。
単純に、茶にそういう無粋を持ち込むなよってことだったのだろうか?
間違いなく奇人変人に分類される人だけにやる事が意味分からん。

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/12(月) 22:25:05.00 ID:a1kIEFNx
>>343
この逸話は何年に起きたものという事になってるのかね?
関が原前なのか後なのかで見方が違ってくる気がする

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/12(月) 22:34:33.69 ID:eBOElI7u
>>353
関が原後

というかガイシュツの話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4303.html

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/12(月) 23:05:40.32 ID:nKoG+jpl
ちょっと話の流れが違うと思うんだが。
出典が違うのかね?

まとめに在る方だと織部がパニクってどんがらした話だし、
今度のはわざと秀吉や清正に敬意を払わなかった話だよね?

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/12(月) 23:14:28.64 ID:a1kIEFNx
>>354
thx、1607年の事か

つったらもう(表向きは秀頼が主君だが)徳川の天下状態
それもこれも自分も含めた皆が東軍についた結果
今更「秀吉の忠臣清正の~」とか何か薄ら寒くね?
とか感じた結果だったりとか

まぁ勝手な想像だが

大坂の陣と織田有楽・長政親子

2011年05月11日 00:00

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 09:48:25.57 ID:h7GnXY96
大阪冬の陣で和議の機運が起こると、徳川方に対し先ず最初に人質を出したのは、
事もあろうに大阪方総大将たる織田有楽斎であった。

大阪城の人々はこの有楽の行動に大いに疑念を持った。が、ともかくも和議は成り
戦争は終わった。
すると有楽は駿府の本多正純に使者を出し

『今回、入道(有楽)は思いもかけず大阪の城に籠ることになりました。
そこで私は大阪を脱出してそちらの御陣に馳せ参じようとしたところで、東西御和睦の事が
成りました。
この上はどうか(家康の)お許しをいただいて、京堺の間で隠居をし、余命を送りたいと思います。』

と言う表明をした。

さて、和睦は続かず大阪方は再び挙兵。夏の陣、起こる。
ところがこの時、未だ大阪城内にあった有楽の4男、織田長政が、「今度は自分が総大将になる!」
と言い出した。

大阪城内の人々は父の有楽の行動、特に和睦前後のことに強い不信感をもっており、長政の言葉を
誰も認めようとしなかった。
これに長政は激怒し

「私は織田信長の甥であり、淀殿の従兄弟である!大将を承れない理由がどこにあるのか!?
この上はこの城に籠っても意味が無い!!」
(我れ信長の甥にして淀殿の従弟なり、大将軍を承らんに何條かあるべき、この上は城に籠って栓なし)

と言い捨て大阪城を退去、京に向かった。

大坂の陣における織田有楽・長政親子についての逸話である。
(藩翰譜)




115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 09:54:25.26 ID:je+WCWhH
大阪はすでに淀に乗っ取られ織田の城になっていたということか
徳川も織田へのリベンジに燃えていたんだろうね 織田を滅ぼし戦国が終わった

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 10:25:44.94 ID:AFo/KJlI
アカデミー賞モノ…なんじゃないのかな?

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 10:55:40.55 ID:1iSoXTnu
大名の妻が当主代行を務めてその一族が後押しするのは、戦国時代じゃよくある事

ただ本来は正室の役目なんだが高台院様も木下一族も…な
すごい勢いで身を引いていってるから、結果淀殿に乗っ取られたというか押し付けたというか

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 11:30:20.88 ID:P/dCe96P
木下一族からしたら秀吉の無茶な立身は逆に迷惑だったぽいからな
大政所や朝日姫なんか悲劇もいいとこだぜ

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 12:22:35.08 ID:PL68Hs9m
関ヶ原のときといい、なんでこんなに統率がとれないかね
こういうエピソードが多いから秀頼名君説ってのがウソくさいんだよな

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 14:32:13.49 ID:yPFubTf1
>>114
織田頼長 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E9%A0%BC%E9%95%B7
のエピソードのような気が。

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 19:51:35.28 ID:sN7ju7Ad
>>117
上州だか信州で大名の妻が当主代行を務めて
その一族を押し出しかました事もあったな

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 20:13:17.47 ID:jYNI/f62
>>121
この人かな?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-531.html

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 20:16:01.20 ID:h7GnXY96
>>120
藩翰譜では織田長政の話だったので出典の通りにしました。


124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 06:09:07.35 ID:1QWZDUmh
もう”長政”多すぎ

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/12(木) 01:10:17.42 ID:po1iGnjT
信長の諞諱は>>114と浅野だっけ?

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/12(木) 07:40:08.30 ID:DdGZk4hB
佐久間信信殿が…

有楽斎の武功

2011年01月10日 00:02

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/09(日) 17:02:52 ID:f+qXzV9m
有楽斎の武功


関ヶ原の戦いもほぼ東軍の勝利が確定的な情勢となった時のこと。
石田家家臣、蒲生真令(頼郷、かつての横山喜内)は武士として最期の意地を見せんとして
残った味方を集めて東軍の部隊に突撃したが、
護衛も次々と倒され、いつしか真令の周りには護衛が一人もおらず、馬も失い徒歩で戦場を彷徨っていた。
そうしている内に頼郷は東軍方の織田有楽斎の姿を目にする。

真令「そこに居るのは織田有楽様ではございませぬか。それがし、元蒲生家の家臣で横内喜内でございます。」

有楽斎にも分かるようにあえて昔の名乗りで語りかける真令。
有楽斎も横内喜内とは旧知の間柄である。馬にも乗らず護衛も付けずに現れた真令の様子を見て
有楽斎は油断してしまっていた。

有楽斎「おお、存じておるぞ。わしに会ったのが汝の幸せ。わしが内府に命乞いやろう。付いて参れ。」

戦場慣れしていない有楽斎には敗色濃厚な西軍の武将がここまで単騎で突貫してきたという発想は
全くなかったらしい。
勝手に真令が投降するものと勘違いして家康への助命を頼んでやろうと言ったのだ。
真令はすとっぼけた事を言う有楽斎に笑いながらこう言葉を返した。

真令「ハハハ、信長公の弟君とは思えぬお言葉。命乞いする喜内とでも思ったか!」

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/09(日) 17:04:52 ID:f+qXzV9m
そう言うとただちに抜刀して馬に乗る有楽斎に横合いから斬りかかる真令。
まさかの不意打ちを受けた有楽斎であったがここで幸運だったのはこの状況で「体がスムーズに動いた」事であった。

有楽斎「うわああああああああああああああああああああああ!?」

仰天しとっさに体を真令の向かってる方の反対側へ倒した有楽斎であったが今は乗馬中である。
無理な体勢になった有楽斎はバランスを崩して落馬したのである。

ブンッ・・・
真令(なん・・・だと・・・)


還暦前の老人とは思えぬ反応で馬から滑り落ちた有楽斎の前に真令の刀は有楽斎の高股の部分を
かすめただけに終わった。
しかも落馬した有楽斎に次の太刀を食らわせようにも有楽斎の馬が邪魔で斬れない。すぐさま真令は
有楽斎の家臣たちに囲まれてしまった。
もはやこまれでと覚悟を決めた真令。寄ってきた有楽斎の家臣二人を斬り殺すが、多勢に無勢。
有楽斎家臣の千賀兄弟に取り押さえられてしまった。

千賀「今です、有楽斎様!首をお取り下さい!」
有楽斎「う、うむ・・・」(超腰痛い・・・)


こうして織田有楽斎は「負傷(主に落馬時)しながらも自らの手で(千賀兄弟の取り押さえた)蒲生真令
首を挙げる」という武功を立てたのである。
この武功は他の東軍の将に「有楽の武辺末の初物」とからかわれたが有楽斎もほとんど家臣のおかげで
首を取ったようなものなので「老の似合わぬ事」と謙遜しきりであった。




332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/09(日) 17:17:46 ID:p43BD3p4
本能寺の変で信忠に切腹を勧めておきながら自分は逃走したというのは本当だろうか。大阪の陣とかでも
直前で大坂城脱出してるし。

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/09(日) 17:41:10 ID:a81FPY1A
切腹云々の話になった時は流石にもう完全包囲されてて逃げれないとおもわれ
婦女子を逃がした時に一緒に逃がされたんじゃないかな
(戦力的に女子供と同等に考えられてたと言いたいわけじゃない、たぶんきっと。)

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/09(日) 17:53:34 ID:uzW1yDlb
これで3万2千石貰えちゃうんだからほんと運のいい爺さんだよw

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/09(日) 17:53:43 ID:LskCFhbs
>>333
()内でいいなら、伏見城から逃亡した木下さんも許されるだろうね

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/09(日) 17:58:47 ID:jgM4TFce
信長の弟としては
老犬斎>>>>>>>>>>>>有楽斎なのに
老犬斎の空気ぷりが半端ない。
有楽斎は茶の湯やってて文化人枠だからしょうがないか

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/09(日) 18:02:18 ID:+ThPPn5R
生かしておいても全く怖くないから3万石ももらえたんだろう
無能ゆえに戦国の世を生き残れた武将って結構いるよね・・・

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/09(日) 21:57:36 ID:jJ4xZMNM
>>336
有楽は茶人として大成したし、大名家としても存続しているからね。

無楽斎

2010年09月04日 00:00

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/03(金) 18:37:44 ID:78+dxaM6
無楽斎

織田信長の弟で、利休十哲の一人・東京都千代田区にその名を残す武将と言えば、誰の名を
思い浮かべるだろうか。

本能寺から奇跡の脱出を果たした織田源五長益は甥の織田内大臣信雄に仕えた。
しかし、天正18年に東海への移封を拒絶した信雄は太閤秀吉の逆鱗に触れて改易され、長益
も失領した。
この時、世をすねたのか長益は「織田無楽斎」と名乗って出家した。

小田原征伐からの帰陣の途上に、そんな織田無楽斎とばったり出会った秀吉はこう言った。
「源五殿。ワシのお伽衆として召抱えるゆえ、貴殿は今は楽有る人なり。無楽を止めて楽しく
有る人になられよ。」
無楽斎改め「有楽斎」に対して、摂津国嶋下郡味舌2000石を与えたという。
織田有楽斎」誕生の秘話である。




850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/03(金) 19:41:02 ID:McBjOuYs
こういうとんちっぽい秀吉は講談的だな