昔は蒲生家にて横山喜内、今は石田の家中で蒲生備中

2016年10月02日 15:30

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/02(日) 03:27:28.14 ID:3fVb6HB2
蒲生備中真令(頼郷)は石田三成の家中でも世間に知られた勇将である。関ヶ原の前、軍評定の時、
真令は「明日はひとえに必死と思い定めなさいませ」と、言った。島左近が、「明日は先陣に進んで、
忠義を冑として打ち勝つことであろうに」と言うと、

真令はまた「昔から利を得ることは天の助けに依るものではありますが、軍勢の正しさと法令の厳しさ
との2つがあってこそ、利を得るかは決まります。よく胸の内を省みてくださいませ。ひとえに必死と
思い定めなされなければ、勝ちの半ばでありましょう。そうでなければ、再び御目見えは致しますまい」
と言って、座を立った。

真令はもとより敗軍を悟って、三成に必死を極めた言葉を出したのだ。かくて、関ヶ原において真令は
ただ一騎で三成の陣に行き、何事かを言うと、三成は打ち頷いた。真令は馳せ帰って競いかかる敵に
向かい、散々に戦ったところ、織田長益に出会い、

「昔は蒲生家にて横山喜内、今は石田の家中で蒲生備中として人に知られている者である!」
と、言った。これに長益が、「殊勝である。私に降参せよ」と、言い終わらないうちに、

真令は「これは何事ぞや!」と言い、拝み打ちに斬って長益を馬から打ち落とした。これに長益の
従者・千賀文蔵が槍で真令を突き通すと、真令はその柄を握って文蔵と引っ組んだ。しかしながら、
文蔵の弟・文吉が刀を取り直し、真令を刺してついに打ち取った。

真令の子・大膳は、「戦いの半ばで首1つを提げて父親に見せるようでは、功名も何になるだろうか」
と言うのを聞いて再び東に向かい、押しかかる敵に駆け合おうとしたのだが、父が討たれたと聞くと、

「まてしばし 我ぞ渉りて 三瀬川 あさみ深みも 君にしらせん(少し待っていてください。私は三途川を
渡って、あなたにその浅深を知らせましょう)」という歌を高らかに唱えて、自害した。

大膳は幼い頃から戯れを好まなかった。関ヶ原へ出陣の時、彼の母親は「私は汝が富貴になることを
願わぬわけではないが、武士の家に生まれた身は、昔から名を重んじるのが習いである。およそもの
2つは兼ね難いものだ。身を全うして名を忘れよとは、言えるはずもない」と言ったのだが、彼は父親と
ともに死んで、母親の戒めに違わなかった。

――『常山紀談』




スポンサーサイト

このような物数寄を

2016年07月16日 17:47

千利休   
868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/16(土) 02:52:37.83 ID:+ouk6C8f
ある時、有楽公(織田長益)が千利休のところへお訪ねになった際、
折りしも茶入に古い蓋を取り合わせていたのだが、そのうちの

大ぶりな蓋がしっかりと合わなかったのを、「かえって趣がありますね」
と言って、利休は有楽へ見せ申した。

その後、有楽公が茶入に件の通り、古い蓋を取り合わせて利休へ
御見せになると、利休は、

「このような物数寄(趣向)を一概に良しとお思いになったのですか?
この茶入には、新しい蓋が良く合うものですよ」と、言った。

――『茶話指月集』




片桐の忠言はこの時に顕れた

2016年05月26日 15:34

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 22:58:06.80 ID:4/B3iYED
大阪冬の陣の講和に向けた動きが始まる中、大阪城の首脳である織田有楽、大野治長
豊臣秀頼の御前にて、このように講和の受け入れを勧めた。

「両将軍家より、御和睦の事を再三仰せ遣わっています。その上意疎意あるまじと、
神文を進ぜられるとの事です。

この度の合戦においては、日本国中の軍勢が雲霞のごとく集まり昼夜攻め戦いましたが、
我々にはさほどまでの負けもなく、これによって君のご威光は天下に秀で、人々はその武威を
皆恐れるほどです。然れば、また重ねて時節到来の時期が来れば、味方に属するものも多いでしょう。
また大御所も既に七十余歳。御余名も久しくはないでしょう。彼が薨去すれば必ず変があります。
その時は天下の大名2つに分かれ、合戦が起こり我らの存在が大きくなること疑いありません。」

秀頼はこれを聞くと
「お前たちが申すこと、一々道理が有る。だがその内容は結局、この戦が始まる前に片桐且元
私を諌めたものと同じではないか?

であるのに、その諌めを排除して今度の難儀に及び、ようやく今になって片桐の諫言に従うとは、
運の極まりである。
しかし運を天に任せ敵を討ち果たそうと思っても、今は皆和睦を好む。ここに至っては恥を忍んで
降を乞い、士卒の生命を継ぐ事を以って、軍勢の恩賞とするしかない。
早く和睦を調えよ。

片桐の忠言はこの時に顕れた。私は後世から嘲笑をうけ、その恥辱を雪ぐことも出来ない。」

そう、目に涙を浮かべて言った。有楽も治長も顔を赤らめたものの、秀頼が和睦を許諾したことに
喜悦して退出した。

(新東鑑)




651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 00:09:41.77 ID:36WfMBtD
その恥辱を雪ぐことも出来ないって断定しちゃダメでしょう。
家康の寿命尽きたら合戦になるって話てるんだから勝てばいいんだし、
そして結果がわかってる後世に書かれたってわかっちゃうという二重の意味で

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 09:29:40.29 ID:kWfovEN6


653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 09:56:11.27 ID:o5U5k782
最初に且元の進言を退けたのに結局はそれに従うことになったからだろ
後に合戦に勝てばよいとかそういうことではない

且元の書状

2016年04月15日 18:43

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/15(金) 17:59:53.48 ID:Qv6X6gsX
大阪冬の陣の直前、片桐且元がその大阪屋敷から退去した時、その屋敷の床の中央に一通の書状が
置かれていたという。それは織田有楽斎宛のものであった。中を見てみると、こう書かれていた

『且元、計らざる災いにかかり、城中を追い出されてしまいました。
私は関東に対して、力を尽くして豊臣家を守ろうとした、その寸忠は全て仇となってしまいましたが、
私は、秀頼公の御身の上が今後もつつがなく渡らせられることを望むばかりです。

今、且元が大阪を退いたことが関東に聞こえれば、定めて御不審を持たれるでしょう。或いは乱の
基とも成るかもしれません。

この上は、外に策もありません。ただ御台所(千姫)を早々に本丸へと引き取ることが肝要です。
夢々ご油断あるべからず。』
しかし、大野治長らは早々にこの策を用いず、終にその意図を外してしまったのである。

御台のことは、難波戦記やその他の書にも、大阪落城の時に坂崎出羽守が盗みとって岡山の御陣へ
お供した、とあるが、その説は否定されるべきものである。

(慶元記)