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岐阜城主十代衆

2021年05月04日 17:08

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/04(火) 01:10:47.30 ID:ME61kjQd
(岐阜城の戦いの時)

時に池田三郎左衛門尉輝政は当城の案内者なので、城山の後ろ水手口から攻め上った。
さてこの輝政は案内者たること理なり。この頃“岐阜城主十代衆”と言い伝える事がある。

その衆は、斎藤山城守秀龍入道道三、一色左京大夫義龍、斎藤右兵衛大夫龍興、織田弾正忠
平信長、同三位中将信忠、同三七郎蔵人侍従信孝、池田勝三郎信輝(恒興)、同三郎左衛門
輝政、羽柴少将秀勝、中納言秀信なり。

輝政は右の十人衆の内なれば、よく案内を知る故についに攻め落とした。

――『美濃国諸旧記』



148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/04(火) 17:49:08.99 ID:xJbwI1WL
どうしても腕を組みながら高速で走り抜けるジャイアントな絵柄しか思い浮かばないのであった

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 00:24:03.94 ID:VLdNf4zT
厳密に言えば
信孝没落後、恒興は大垣城に入って嫡男の庄九郎元助が岐阜城に入ったわけだが
1年程の話だから誤解、もしくは忘れ去られてるんだろうな
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加茂郡加治田の城主は

2021年05月02日 16:40

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/02(日) 15:34:35.17 ID:wBTwM86N
加茂郡加治田の城主は  斎藤新五郎長龍 同子斎宮龍幸

新五郎(斎藤利治)は龍興(道三の誤り)の子なり。信長に仕えて天正13年6月2
日、京都二条の城で、明智の家来・内藤内蔵助利一(斎藤利三)のために討死す。

その子・斎宮は岐阜中納言秀信(織田秀信)の小姓だったが、慶長5子年(1600)
8月23日、岐阜落去の際、信友・足立中務・武藤助十郎とともに、白昼に女の姿で
出立ち、長良川を越えて北山に落ちて行った。

その子孫は松平大和守道基(直基)に仕える。また池田三郎左衛門(輝政)の家にも
いるという。

――『美濃国諸旧記』



”岐阜”の変転

2020年01月28日 17:47

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/28(火) 13:40:48.67 ID:VFA0F6Hg
永禄七年(正確には永禄十年)九月中旬、織田上総介信長は稲葉山の城に移り岐阜と称した。
この城の麓、常在寺は元の寺領五百貫を召し放たれていたが、由緒ある寺であるので、当住の
日韵上人の申出により日野村にて百貫文の朱印を賜った。
その後、信長は江州安土に城を築いて移り給い、信長長男信忠を岐阜城の守とした。

天正十年六月二日、明智(光秀)謀反にて信長信忠父子とも、京都にて生害の後、岐阜城は
信忠の長男・秀信の後見として神戸三七信孝が当城に住せられた。

天正十一年、柴田修理亮勝家に同意して秀吉と取り合いが発し、そのため三七信孝は当城を去り、
尾州野間の内海にて、二十六歳にて切腹した。この時の乱に、常在寺も兵火にあい、信長より賜った
朱印、そのほか遺物共に焼失した。しかしながら、その後当寺は再興された。

三七信孝の跡に、少将豊臣秀俊(間違い。実際には豊臣秀勝)が住せられた。これは織田秀信の後見であった。
秀勝は朝鮮軍の時、肥前の名護屋へ出陣して、彼の地にて病死した、

慶長五年、岐阜中納言秀信公は石田三成に与して岐阜城は攻め落とされ、終に紀州高野山に入って卒し給う。
この時の兵火に瑞龍寺も炎焼したが再興された。常在寺は信長に賜った日野村百貫文の朱印を、秀信公まで
相違なく給わっていたのだが、慶長五年に秀信公が亡びられた後は寺領断絶し、常在寺に現在残っているものは、
斎藤道三の画像と斎藤義龍の寿像ばかりである。

道三の画像は、信長の北の方が、父のために建立したもので、また義龍の寿像は、その子息である龍興が
建立したものである。
常在寺の本尊である文殊菩薩は、昔長井藤左衛門長弘が本巣郡文殊の城が落ちた時、そこの文殊堂も兵火に
かかった。この時本尊を取り出し、斎藤氏の由緒ある寺なればと、常在寺に安置したものである。

(土岐累代記)

この常在寺に残った道三の画像というのが、有名なこちらですね。
https://i.imgur.com/RPTq9Wt.jpg
1024px-Saito-Dozan-2.jpg



岐阜をもって降参し、これ故に敗軍した

2019年04月24日 16:46

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 00:18:57.62 ID:2NRXAsO+
景勝追討の時に相従う大名は7人、小名は46人、総じて53頭(原注:上方御譜代とも)であるという。
江戸を1日程に出て小山に至ると上方より注進あり。「石田謀反して日本一味す」と。

東照宮(徳川家康)及び諸大将は大いに驚いて、何も言えなかった。即時に江戸へ帰り、評定が行われた。
上方御譜代衆を各々一人ずつ召し出して方策を問うと、皆答えることができなかった。

上方衆の中で只一人、福島左衛門大夫(正則)が進んで曰く「太閤の遺言の如く、秀頼を立て給うならば
私が先手を致そう」と言う。諸将はこの時に皆同意する。左馬(加藤嘉明)も言うことができなかったが、
福島が言い出した後に、「我が心もこの如し」と言った。譜代の衆も一人も言い出す者はいなかったが、
ただ井伊兵部(直政)が進んで曰く、「私が先手を致そう」と言った。

評定の後に諸将が皆言うには、「妻子が人質となっている。この事があるので一旦偽って『降る』と言お
う」とのことだった。東照宮はこれを許され、諸将は打ち立って上方へ上った。しかしながら、東照宮の
後陣は至らず、7月に事が起こって9月にようやく到着した。

美濃青野ヶ原(関ヶ原)で合戦があったが、初めは治部方に利あり。後に筑前中納言殿(織田秀信)が岐
阜をもって降参し、これ故に敗軍した。

――『老人雑話』

関ヶ原一乱の勝敗は岐阜陥落で決まったとのこと



822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 00:41:26.90 ID:y+S9JmHK
これいい話っていうか間違った話だろ

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 08:35:47.43 ID:bs3dFm3P
>>821
秀秋で決まったのは後世の影響で岐阜城陥落の時点で勝敗決まってたそうだが、
この時代にもそういう見方はあったんだな、ていうかまだ後世の創作の影響がなかったからか

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 15:35:49.04 ID:8I/LPCNJ
>>821
筑前中納言は秀信じゃないでしょ

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 16:38:02.82 ID:1ua9YfKL
参謀三法師

勝豊は内々恨みを含んでいた

2019年02月21日 10:15

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/20(水) 19:51:45.68 ID:CW5ADGE9
(長浜城攻めの時)

かの地(長浜)は秀吉が長く居住した要害である。このため、秀吉は長浜の案内を知っており、敵の
痛所を思惟して付城を構え、内側を繰り破るべく列をなす。

勝豊(柴田勝豊)は越前の援兵を頼みにするも、頃日の雪は例年を超過した。寒威は実に綿を透かせ、
風力はまさに酒を凍らせんとす。住む者は籠り伏し、来る者を凍え殺し、ことこどく人馬の通行は絶
えた。ここに至って勝豊は釈近謀遠しても労をなして功は無く、秀吉へ降参に至ることを考えた。

ところで、勝豊の本素は他名なり。勝家(柴田勝家)の養子となしたものである。只今秀吉に降参し
て一味することは、すこぶる本意を失うようなものだ。しかしながら、佐久間玄蕃助盛政はかの分国
において権柄を執ること実に甚だしく、これによって勝豊は内々恨みを含んでいた。

秀吉はその由来を知って疑わせること無く勝豊を引き付け、すなわち美濃へ向かった。これに従った
面々は惟住五郎左衛門尉長秀(丹羽長秀)・筒井順慶・長岡越中守忠興(細川忠興)・池田紀伊守之
助(元助)・蜂屋伯耆守頼隆、その他諸国の軍兵を引率して都合3万余騎。これが大風を凌ぎ深雪を
分けて、岐阜に至り押し寄せた。

国中の凶徒は、あるいは追罰を加え、あるいは降参して従い、日を経ずして残るは一国一城となった。
信孝はこれに惨憺して、ひとえに和与を嘆き慕う。そうして信忠の御若君(織田秀信)に信孝の老母
と息女を添えて、人質に出したのである。

秀吉はこれを見て古を思い、なおも憐憫奉る志あり。秀吉は囲みを解いて12月29日に美濃を去り、
山崎城へと至って、かの地で越年した。

――『天正記(柴田退治記)』


すなわち筑前こそ上様

2019年01月26日 20:03

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/25(金) 22:22:58.26 ID:r9OmiDI6
(清州会議後)

吉法師様への御礼次第の目録を作るにあたり、秀吉は信忠様に御目を掛けられたことを仰せになって、
吉法師様の御守りを望みなさった。これを柴田殿(勝家)ら各々は感心され、秀吉は大名衆の目録に御
入りにはならなかった。

吉日の日が来ると、御一家衆(織田一族)はもちろんのこと、大名小名も残らず太刀折紙を御持参と定
め、御一家衆などは早朝に並み居って伺候なされた。

吉法師様は御月代になされて長袴に小さ刀だけで、秀吉は上段に厚畳を2畳重ね、座布団の背後の上段
3分の1ほどに屏風を立て回し、その裏側に上臈衆や御乳の人を御置きになられた。

秀吉が若君様を御抱きになられて上段に上がりなさるのと等しく、御礼事は始まった。三七殿(織田信
孝)と成心(常真。織田信雄)、その他の御一門中は御目録の如く御礼され、次第次第に事は納まった。
これは直接の御参上である。

大名衆の目録は柴田修理殿が参上し、その他も目録の如く目出度く納めたと聞こえ申し候事。

屏風の陰に御乳人や上臈衆を御置きになられた御判断は、吉法師様が御存知のない供を御覧になられて、
御機嫌を損ねた場合は御乳の人を呼び出し、御乳などを差し上げなさるためである。その他に不断に御
側に付き添い周られている上臈衆を皆々屏風の陰に御入れ故、御機嫌を一度も損ねなかった。

考えのまわる衆中はこの様子を見出し、目配せや鼻で合図して陰で笑いなさった。その子細は、

「御一家衆の御礼を始めとして、直接の御参上である。謹んで頭を地へ付けられて御礼なされているが、
筑前守殿は若君様を御膝の上に置かれて、少し頷きなさっているだけで、まことまことに上様が御礼を
御受けなさるような作法と、ちっとも違わぬように礼を御受けになられている。

柴田修理亮や滝川左近(一益)、丹羽五郎左(長秀)などにとっては猶更上様の位のように拝見致す」

前述に申し上げたような考えのまわる衆は「あれを見なされ。筑前守を上様とあがめるのは、すなわち
筑前こそ上様。御一家衆も柴田を始めとした皆々も、筑前に欺かれたのだよ」と内密に笑いなさったの
だと聞いている。

しかしながらその御礼は目出度く納まり、大名高家に至るまで宿々へ帰られたと聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』


私に吉法師様の御守りを

2019年01月25日 17:40

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/24(木) 20:40:30.79 ID:OZsAZlBz
(清州会議の時)

「それでは吉日を選び、吉法師様への御礼を定める」と、勝家(柴田勝家)は申し出された。それより
「日柄を見よ」とその役の者に申し渡され、ややあって談合は終わり、その日から4日目に御礼は定め
られたとの事である。

「それでは御礼の次第目録を作れ」と、まずは御一家衆の御礼目録の巻物1巻ができた。またその次に
国大名衆の御礼の目録が別紙に1巻できた。「国大名衆は柴田修理殿、次に滝川左近殿(一益)、丹羽
五郎左衛門殿(長秀)、それから羽柴筑前守を目録に書き付けよ」とのことだった。秀吉はこれを御見
及びなさると、

「勝家と各々らへ訴訟がござる。御聞き分けになられればかたじけない。各々も内々に御存知のように、
信忠様がとりわけて私に御目を掛けられた子細(>>652)がござるが、御存知なので申し上げる必要も
あるまい。特別な訴訟ではござらぬ。私に吉法師様の御守りを仰せ付けられて下され。

私は早々と年寄りになったので特別な望みもござらぬ。城介様(織田信忠)に御奉公致すと心に取り置
いているので、この吉法師様を信忠様と存じ奉り、随分と御奉公を致したい。とりわけて申し上げる子
細はござらぬ」

と仰せ出された。これに勝家が「勝家を始めとして、秀吉が訴訟と申し出された時にはどのような事か
と各々存じたが、これは以ての外に心安き訴訟だ。我らとしても同心致す。各々もきっと別条あるまい」
と申された。

これにその他の大名衆も「貴所(秀吉)に信忠様が御目を掛けられたその様子は隠れ無きことでござる。
昔を思い出されて、吉法師様の御守りと仰せられたことは感じ入り申す。筋目を立て申し上げたうえに、
ひとしお頼もしき御覚悟である」と、各々申されたのだと聞いている。

こうして、その目録に秀吉は御入りにはならなかった。それから、その次々に御礼の次第目録を定めて
納めたとの事である。それより、柴田殿を始めとして各々は御城を出られ、屋形屋形へと戻られた。

――『川角太閤記』


清州会議

2018年10月07日 16:05

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/07(日) 15:22:44.89 ID:KeNTnhbo
その日、秀吉は勢を分けて丹波亀山城をも攻め取り光秀の長子・十兵衛光慶をも誅殺し、信長公御父子を始め
本能寺・二条御所で忠死した人々を厚く改葬し、それより岐阜へ赴いて、

信長公の長子・三法師丸(信忠嫡子・秀信)に拝謁した。この時、柴田勝家も北国より馳せ上り信雄・信孝も
来会せられ、丹羽・池田などの輩も皆来会したところ、秀吉の計らいで三法師丸は今年わずか2歳ではあるが、

織田家の正統なので主君と定めて信雄・信孝両人を後見とし、信忠卿の御遺命であるからと前田徳善院玄以・
長谷川藤五郎(秀一)を保傅の役とし、三法師丸を安土に移した。また三法師丸が15歳になられるまでは、

信長公の所領の国々を諸将が配分して守護すると評定し、尾張は信雄、美濃は信孝、近江長浜に旧領を添えて
柴田、播磨と光秀が領した丹波を秀吉が預かり、丹波は以前養子と定めた信長公の末男・次丸秀勝(羽柴秀勝)
に授けるとのことだったという。これにつけても「秀吉の計らいは私無し」と言って人々は感服した。

若狭は丹羽、摂津尼崎は池田父子、伊勢長島は滝川に授けて5万石を渡し、3万石は蜂屋(頼隆)に授けた。
その他、近江30万石は三法師丸の賄料と定めた。何事も秀吉一人の沙汰としてなされ、信雄・信孝も一言も

加えること及ばなかった。丹羽長秀らはまったく秀吉の指示のままであえて異論を申す者もいない。柴田勝家
は大いに憤りを含んで秀吉の威権を嫉み、今日の評定の席上でも勝家は一人縁側へ出て投げ足をし、または

衣をかかげて尻を叩くなどして傲慢不礼の有様であった。このため丹羽は秀吉に囁き「ただいま四海は大いに
乱れている。貴殿に大望があるなら早く勝家を討ち果たしなされ」と言った。秀吉は大いに笑って、

「勝家は当家の元老宿将である。傲慢不礼も咎めるべきにあらず」と、少しも心頭にかけない様子に見えた。
さて諸将は三法師丸に拝謝して各々帰国に赴いた時、勝家は秀吉の帰路に伏勢を設けて秀吉を討たんとして

いるとの由が聞こえたので、秀吉は道を変えて早く美濃長松から近江長浜へと帰城した。勝家はこれを聞いて
自身は越前に帰るとして近江長浜を通行するという時に、「秀吉はどんな計略を設けているだろう」と大いに

気を遣い、美濃垂井の道で躊躇して大いに狼狽した。これを聞いて秀吉は大いに笑い、「私が何の遺恨あって
勝家を害するだろうか。心置きなく通行せられよ」と言って養子の次丸を人質に遣わすと、

勝家はようやく安心して木本辺りまで次丸を同道し国境より帰した。この時に人々は皆、秀吉と勝家の優劣を
察した。賤ヶ岳の戦いより前に、早くも勝敗雌雄は現れていた。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武家閑談・武徳編年集成)』



281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/07(日) 15:34:22.16 ID:Pi4MhT5K
>>280
>勝家は一人縁側へ出て投げ足をし、または衣をかかげて尻を叩くなどして
えぇ…w

常在寺の盛衰

2018年07月15日 17:55

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 20:07:50.52 ID:SA5mBLDe
永禄7年の9月中旬、織田信長は稲葉山城に移り、これを岐阜と称した。
この城の麓にある常在寺は、もともと寺領五百貫があったのだが、この時織田家によって没収された。
しかし由緒ある寺だったため、住職の日韵上人の申し出によって、日野村にて百貫文の朱印を賜った。

その後、信長は江州安土に城を築いて移り、嫡男信忠を岐阜城の守とした。
天正10年6月2日、明智光秀の謀反により信長信忠父子とも、京都にて生害した。
その後当城は信忠の長男である秀信の後見として、神戸三七信孝が住んだが、天正11年に柴田勝家と結んで
秀吉と戦い、これによって当城を去り、尾州野間の内海にて26歳にて切腹した。

この乱で常在寺も兵火に巻き込まれ、信長より賜った朱印やその他の遺物が焼失した。
しかし後に寺は再興された。

信孝の跡に岐阜城に入ったのは、少将豊臣秀勝であった。彼は織田秀信の後見であったが、
朝鮮の役の時に、肥前名護屋へ出陣し、彼の地にて病死した。

慶長5年、岐阜中納言秀信は石田三成に与して、東軍により岐阜城を攻め落とされ、終には紀州高野山に入って
没した。この時の兵乱で、瑞龍寺も焼けたが、後に再興された、しかし常在寺は、この秀信の時までは、
信長より賜った日野村百貫文の朱印地よりの収入を相違なく給わっていたのだが、秀信が滅んだ後は
寺領が断絶し、常在寺に今残るものは、斎藤道三の画像と、斎藤龍興の寿像だけである。

斎藤道三の画像は、道三が信長の北の方の父であることから、彼女が建立したものであり、斎藤龍興の寿像は、
その子息である龍興が建立したものだという。

(土岐累代記)

稲葉山の麓にあった常在寺の盛衰



932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 20:42:02.56 ID:WP6C3Ozs
織田家がいなくなったら、領地の保証もなくなったわけか。しかし、頻繁に焼けてるなあ・・・

岐阜四天王(ただし一人)

2018年06月03日 18:24

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/03(日) 17:55:52.18 ID:PvhrymRI
岐阜四天王(ただし一人)

 「常山紀談」178話(巻12)は、関ヶ原の戦いの前哨戦、河田木曽川渡河の戦いにおい
て、池田輝政家臣の森寺長勝が、織田秀信配下の飯沼小勘平を討取ったエピソードである。
互いに傷を負いながら、最後は組打ちで、小勘平は討取られる。まあ、合戦場での戦功と
いう良くあるエピソード。
 しかし、本エピソードが印象的にするには、飯沼小勘平の肩書き。「岐阜四天王」の一
人と称されるが、四天王のうち、他の三人が誰か不詳という。現代語訳本の解説には、
「俗に、『岐阜四天王」は小勘平以外にその父勘平長実が入るともいうが、残り二人とと
もに未詳」と書かれている。つまり、確定一人、不確定一人、ほかは名前も伝わらない。
 四天王(五人)とかよく冗談にされるが、充足率半分以下というのは、あまり聞いたこ
とないなあ、と。

 ちなみに、飯沼小勘平を討ち取ったのは、池田長吉という説の方が有力らしいが…
若武者・飯沼長資
ttp://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/nagasuke.html



840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/03(日) 19:26:55.57 ID:C7getkxy
>>839
>岐阜四天王(ただし一人)
雑すぎて草

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/03(日) 20:04:39.33 ID:bFotNPBF
残りは百々綱家と木造長政と斎藤元忠が入りそう
あと加えるなら滝川主膳か

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/03(日) 21:22:55.20 ID:QZ7pvvdB
秀信は身分のわりに石高なんでこんなに低いんだか…

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/04(月) 01:57:22.27 ID:VAgWHEJe
実績がないから

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/04(月) 03:18:46.58 ID:815y0WmW
朝鮮に行った実績はあるお

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/04(月) 09:41:31.16 ID:+J45hqnd
あとは四天王(2人)と四天王(3人)が揃えばコンプリートだ

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/04(月) 16:12:17.59 ID:U+nzB9tZ
憲政四天王、という言葉があるか知らないが
伊藤博文、板垣退助、大隈重信
(国会議事堂の台座は四つあるのに
「憲政に終わりはない」ということで3人の銅像だけ)
わざと一つだけ空席にするというのはあり得るかも
それか武田二十四将みたいに当主が含まれるから実質マイナス一人とか

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/04(月) 19:35:37.84 ID:pYE9vd5P
四天王って5人いるもんだと思ってたわ

岐阜城攻めと城受け取りの時の争論

2017年04月15日 18:59

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:19:54.21 ID:84ycGhCm
岐阜城攻めと城受け取りの時の争論


岐阜城攻めの日にあたり、大手の主将(福島)左衛門大夫正則を初め
細川越中守忠興、加藤左馬助嘉明、生駒讃岐守一正、寺沢志摩守広高
蜂須賀長門守至鎮、京極侍従高知、井伊兵部直政が萩原の渡りを越え
敵地の家屋に放火して太郎堤に陣した。

搦手の主将は池田輝政で浅野幸長、山内対馬守一豊、有馬豊氏
一柳監物直盛などは河田川岸を臨む所にいたのだが
岐阜城からは百々越前守(綱家)が三千ばかりの人数で新加納に出張して
川端へ備えを出して持ちこたえようとしてきた。

一柳直盛は(尾張国)黒田城主なので、川口の渡り瀬を心得ており一番に
川へ乗り入れ、その配下が瀬を渡っていくのを見てから、輝政は先手に
伊木清兵衛を初め家中一同を上の瀬に渡らせた。
したがって浅野、堀尾などその他の軍勢も各々川を渡り向こう岸へ馳せ上る。

(岐阜方の)兵が弓鉄炮を持って防ぐのだが、大軍が一度に押しかければ
悉く崩れてしまい引き返していった。
また飯沼小勘平(長資)を池田備中守長吉(輝政弟)自身がこれを討ち取った。
城方の主力は新加納に控えて防戦しようとしたが叶わず城中へ引いた。
搦手へ向かう途中新加納での競り合いでは敵の首級を七百余り討ち取り
そのことを輝政が江戸と太郎堤(大手側)にも知らせた。

すると正則は大手の諸将達に向かって
「各々はどう思われるか、搦手へ向かった面々は新加納で首尾よく
 逢えたそうだが、こちらは敵勢が出てこなかったので逢えなかった。
 ただそれだけのことではあるが、明朝の城攻めのとき千万に一つも
 搦手の面々に先を越されてはどうにもならないのだから
 今夜中に岐阜の城下まで人数を押し詰めるのがよいと思う」
と申されたので、みなこれに同意して急ぎ支度を調えて、酉の下刻から
戌の上刻までに繰り出して、岐阜の町はずれ近くまで押し詰めた。

夜が明けるのを待って段々と攻め上っていくところに、搦手も主将輝政を
初めとして着陣し攻め上ってきた。
そこに正則は大手方の諸勢を押し上げるため、大橋茂右衛門、吉村又右衛門に
申し付けてそのまま左右にある家に火をつけて焼いてしまった。
それで煙が山下へと吹きかかるので、池田を初め搦手の軍勢はここから
攻めることが出来なくなったので、輝政は大いに怒って軍勢を引き返させ
長良川のあたりにまわって水の手より攻め上った。

大手口では木造百々津田などが突いて出て坂中で防戦するので
寄せ手は大軍だったが直ちに攻めることはできなかった。
搦手からは城兵が出てこなかったので瑞龍寺の砦まで進んだ。
この砦には石田方から加勢として樫原彦右衛門、川瀬左馬助を主将として
二千人余りで守っていたが、浅野左京太夫幸長の家中の者共が一番に
攻めかけたのを見て、搦手の軍勢は一同に攻め寄せ急に乗り入った。
城兵がこれを防ぎかねている所、さらに大手勢が次々に攻め入ったので程なく
出丸は落ちて、樫原彦右衛門を浅野幸長の家人の岸九兵衛尉が討ち取った。
川瀬左馬助は二の丸に行った後本丸にこもったという。

(中略)

さて大手搦手の軍勢が悉く攻め上り、城兵が余りにも多く
討ち取られてしまったので敵は二三の曲輪を捨て本丸へとこもったが
池田家の旗奉行は武功の者だったので城内へ手早く旗を入れた。
したがって岐阜城は輝政が一番乗りしたように見えた。

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:20:30.78 ID:84ycGhCm
(織田)秀信の家老の木造左衛門が正則方に降参し、主人の秀信の助命があれば
本丸を明け渡すことを伝えると、正則は差し支えないと返答した。
家人の可児才蔵に使番の侍共を添えて味方に矢留めのことを触れ回らせた。

その後寄せ手の諸将が集まったとき、秀信を助命するのはどうかという話になり
左衛門太夫が
「秀信は自身の不了簡で内府(家康)へ敵対されたが、信長公の嫡孫であることは
 間違いなく、味方の中には信長の厚恩に預かった筋目の方もいるので
 この正則の計らいをよもや悪くは思わないだろう。我は織田を贔屓する
 筋目ではないが助命を承り、左様に心得て返答に及んだことなので
 今更変えようとは思わない。秀信の助命のことが内府卿の心に
 叶わなかったら、我の今度の骨折りを無にしてもらうまでのことだ」
と申されたので、その後あれこれと申す人はいなかった。
秀信は正則の世話で芋洗という所に逗留された後
関ヶ原御合戦後は紀州高野に登山して程なく病死したという。

秀信が出城した後、城受け取りのことについて正則と輝政とで争論があった。
正則は城主秀信から助命があれば城を明け渡すと申してきたので、願いの通り
助命するから城を空けるようにと返答した上は我らが受け取るほかないという。
輝政はそのことはもっともだが、我らの旗を一番に城内に入れたのは間違いなく
弓矢の古法に照らして、城を我らが受け取れないことがあるだろうかという。
大手搦手の諸将はみな並んでおられたが、面々には関係のないことである上
難しき争論の話なので、みな口を閉じ仲裁する人もいなかった。

井伊直政と本多忠勝が二人の間へと入られ、正則に向かって
「先程よりここで聞いていましたが、御双方ともに根拠があることですから
 御両人の御家来を立ち会わせて受け取るのはどうでしょうか」
と申されたが、正則は
「それは普段、人がいる城などを受け渡しする時のことで
 攻め落とした敵の城を受け取るときは、左様にはしない」
と申されて埒が明かなかった。

そのとき本多中務(忠勝)は一柳監物の側に寄り、何事か小声で申した。
輝政は近い所にいたので監物に
「中務はそこもとに何を申されたのか」
と尋ねられたので、監物は
「『今度の逆徒追討で各々命を投げ打たれ
  内府へ合力して下さる以上は、少々の不足があっても
  内府の為によきようにしたいと思って下さるのだと考えていた』
 と申されました。もっともだと拙者なども思います」
輝政はそれを聞かれて
「本当に中務の申されることはもっともだ。内府の為に
 不足を取るべきなのはそれがしより他にはいないのだから
 正則が城を受け取るのがもっともだ」
と言われ事が済んだという。

そのとき正則は
「最初に両人の衆(井伊・本多)が申された通り、両家の立ち会いで
 受け取るので輝政の家人も出されるように」
と申されたが、輝政は
「我らの家来を出すには及ばない。時が過ぎてしまったので
 早々に城受け取りの片をつけた方がよい」
と申されたという。

岐阜城攻めのときの正則と輝政の争論と世に知られているのはこのことだと
一柳助之進(直良)が語ったのを聞いて書き留めた。
きっと親父の監物殿が雑談されたことがあったのではないかと思う。


――『落穂集』



817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:25:04.56 ID:WMM//8tO
岐阜城は見た目は堅城そうなのに
あっさり陥落し過ぎだよな
http://i.imgur.com/4PTFNsx.jpg
ぎふ

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 16:51:46.84 ID:2QxKWdjF
常真さんでも落とせる岐阜城

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 18:04:45.57 ID:RKT7CIGM
後詰めなけりゃ落ちるわ

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 18:51:08.08 ID:VwHS4dM6
岐阜城は水源が少なくて大勢で籠城するとあっという間に干上がる、と聞いたことがある。

実は鷹オタクだった三成

2014年07月13日 18:51

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/13(日) 10:45:58.03 ID:409e/6Nw
実は鷹オタクだった三成

石田三成からの手紙」を読んだら興味深い書状が載っていた


『内々進上するつもりで先日お目にかけた鷹ですが、その時には
獲物を取ることができず、残念でした(昨、御覧候所にて取飼い申さず候、遺恨)。
今日は私の鷹師を遣わして雁を一つ取らせたので、鷹と一緒に進上します。
この鷹は申し上げた通り私の秘蔵の鷹です(我ら秘蔵に候、)。青鷺を取るということで来たのですが、
私のところでは雁に力を入れてこの春、菱喰(別名オオガリ)を入れて雁を二十ほど取りました。
その手際は同行した城州(山城守)がご存知ですのでお聞きになってみてください。

(中略)

ところで先日貴方の手から飛ばせた若鷹は、私の手からは雁を二つ、鷹師からは七つ、
大崎方では青鷺を二つ取りました。この鷹は次の秋に確かに鶴を取るでしょうから、大崎方へ残しています。
夏の間は青鷺を取ってお遊びになるといいでしょう。秋に鶴を取ったらお返しください。
(いったん渡したものを返せと言うのは)おかしなことですが(鶴取り候ハバ御返しあるべく候、おかしく候、)。

恐々謹言 廿六日 三成(花押)』

(「年代未詳 某中納言宛て書状」 下条文書)


三成は真田信幸にも鷹をもらったことに対する礼状を送っているので、鷹狩が好きだったのは確からしい
「中納言」「山城守」と言えば思い浮かぶのは上杉景勝・直江兼続主従だが、
三成がこれほどくだけた手紙を景勝に送るのは考えにくいということで、
著者はこの書状は岐阜中納言(織田秀信)宛てではないかと推測していた。真相はいかに。

鷹について熱く語る三成が微笑ましいのでいい話に




294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/13(日) 12:11:46.51 ID:7t4l/Swu
>>293
前田慶次でそんな場面あったな。三成の鷹狩りの最中に慶次と会ってバカにされてた。

織田秀信の没落

2014年03月05日 18:57

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/05(水) 17:58:57.63 ID:R5Jpo6Py
織田秀信は慶長五年の石田三成の呼び集めに応じて一味し岐阜に籠城した。

関東の先手ならびに軍鑑の井伊と本多たちはこれを攻め、
先手田中兵部少輔(吉政)の合渡川の先陣に織田勢は敗軍した。

池田と福島が大手と搦め手より攻めたために、ついに落城するという時、
秀信は硯を取り寄せて戦労の者へ感状を与え、それぞれに暇を遣わして
自身は高野山へ遁世した。

「この急戦中に静かに感状を書き与えるなどとは、若将ながらさすがは
右大臣信長公の御嫡孫かな」と、その頃、敵方においても賞美された
ということだ。

その時、秀信は少々の御供とともに敵数万の中を参然として通った。
その折に生け捕るべきだと相談したところ、福島正則は、

「家来に暇をやるのは命を助けたいと思ってのことだ。こうして僅かに
十人ほどの小姓者ばかりを連れて、この大事の中を落ちて行くのを
生け捕ったからといって功にもならない。かえって非義無道である。
士の情はこのような時にこそあるのだ」と言って、制止した。

――『明良洪範』






福島正則、高野山に向かう織田秀信を

2013年07月29日 20:03

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/29(月) 18:19:27.15 ID:gxxVNgUl
岐阜城の戦いで織田秀信は力尽きて降参し、少勢で諸将の備の中を通り、
高野山へ行こうとした。

時に秀信を生け捕りにすべきだと言う者がいた。福島正則はこれを聞いて、

「武士は約束を違えることを恥とする。
和睦が成立して戦いを止めたところを陥れるのは、武の冥利の尽きるところである」

と、固く制止したので、事故もなく秀信を通したのだという。

――『名将言行録』




803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/29(月) 20:17:44.78 ID:lau0QR5U
最近悪い話がやや目立った市松さん名誉挽回のいい話やね

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/29(月) 21:05:03.29 ID:naIGmsib
戦場にいて、酒が入ってなくて、機嫌が悪くなければ、市松さんはだいたいこんな感じの逸話が多いよな

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/29(月) 21:45:02.93 ID:5eKdGnD7
酒の入っていない市松は割と名君。

文禄元年正月二日、聚楽謡初の式にて

2012年08月31日 20:50

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 18:44:27.68 ID:i/fqgRtP

文禄元年正月二日、聚楽の邸にて謡初の式が行われた。
着座は第一が豊臣秀次、第二が織田秀信と定められた。

これに前田利家が「秀信は正しく織田殿の孫なのだから
第一たるべきだ。今日の儀注は誰が書いたのだ」と言うと、

石田三成が「それがしが殿下の仰せにより書きました」と言った。
そこで利家が豊臣秀吉にこのことを告げると、

「それは道理だが、秀次は我が甥ゆえ、ゆくゆくは養子にして
家を継がせるつもりだから第一座に定めたのだ」と、秀吉は答えた。

主張を聴き入れようとしない秀吉に気分を害した利家は座を立とうと
したが、その様子を見ていた徳川家康に「利家、しばし待たれよ」と

引き止められた。続けて家康は秀吉に向かい「殿下はかりにも秀信を
後見なさったゆえ、織田家の旧臣もみな帰服しました。

いま利家が秀信を上座に立てようとするのも旧義を忘れない心から
であって、決して秀信の味方をしているわけではありません。

ですから秀信を別に奥の間にて拝礼盃酌の儀を済まし、
表様では秀次を一座につけなされば、人心事体において両方の
便宜を得られるのではないでしょうか」と言った。

秀吉もその理にかなった処置に感心し、その通りに処理したことで
謡初の式は事故なく遂行された。

――『徳川実紀(武辺咄聞書)』




織田秀信の感状

2011年06月13日 00:01

67 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/06/12(日) 02:11:11.34 ID:+dAo55Yr
1600年にあの織田信長の嫡流である織田秀信は石田三成と
徳川家康の争いである関ヶ原の戦いにおいて家中には東軍派も多かったが
三成率いる西軍に直々に秀信が三成と面談し祖父の旧領である美濃尾張を約束され三成に同心することとした。

東軍が小牧評定の後に福島や池田を先鋒として美濃に攻めかかり
美濃は西軍派が多かったにも関わらずあっという間に防衛戦を突破されてしまう。
秀信は岐阜城に東軍の大軍が迫ってくると3500人で木曽川を用い1万7000人を迎え撃ち川の手で鉄砲を打ちかけたり
百々綱家が伏兵を用いたりで奮戦するものの大軍に勝てるわけもなく敗北、秀信軍は撤退して岐阜城に籠城した。

岐阜城はけして堅固ではない城であるが、東軍と西軍は相当な激戦となったようで秀信の家臣である
飯沼長資が一騎打ちで
東軍の一柳家の勇士大塚権太夫を討ち取ったり正面から攻めてきた福島隊相手に上格子門で
またその他の東軍にも砦や施設でも奮戦を見せたようである。
しかし岐阜城は大軍相手にはとても支えきれず一日で本丸に追い詰められで38人が籠城してるだけとなった。

秀信はここにいたり家臣の軍功を褒めた感状を書き記し最期まで付き従っていた家臣全員に与えたのである。
感状は再仕官の際の証明書のようなもので、その内容により仕官の可否や禄が決まるということで禄を失った
家臣への
秀信の最後まで従った家臣への優しい配慮であった。またそれを書き終えたあと自害しようと秀信はしたのであった。

東軍の池田輝政の降伏勧告もあり秀信は岐阜城を開城開城、助命されることとなった。

どうでもいい余談
せっかく感状を書いてもらったであろう秀信家臣の38人は落城時に切腹、現在でも血痕が残っている。
秀信家臣の多くは福島家に仕えるものの福島家は旗本となってしまったり元秀信家臣の中にはキリシタンで
処刑されたのがいたり、
歌人になった人間がいたり秀信自身は高野山を追い出され仕官すら出来なかったようで感状はあまり役に
立たなかったようである。




68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 02:35:08.89 ID:DB6hDY3y
>>67
この感状の逸話のおかげで秀信の評価上がってるよね
やっぱり人間こういう時の対応が大事なんだなあ

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 03:17:56.83 ID:lv47T30d
そっせん東軍に参加」したほうが・・・・。
寝返りの機会なんざいくらでもあっとぁ訳だし・・。

70 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/06/12(日) 03:54:29.58 ID:SQTIMzee
たった38人に降服勧告って、、、

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 04:12:22.67 ID:3ylVv9Q6
3500人の兵力があるなら、最初から篭城しておけば
決して堅固でない城でもそう簡単に落ちなかったと思うんだが
なんか討って出なきゃあいかんという事情でもあったのかな

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 04:15:22.27 ID:G8BFWHS/
たしか、お爺ちゃんの信長のマネをしたからだって聞いた事があるな

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 07:10:10.63 ID:axYSqfbc
>>71
山中城は4000人篭めて半日で陥落

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 14:56:39.91 ID:e36bx8l+
>>77
竹中が二十人以下で制圧したくらいだしね


82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 15:19:53.59 ID:t2Qc1imh
>>80
逸話と史実は区別しようぜ