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常々変わり者であった故

2019年08月12日 18:49

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/12(月) 18:41:01.21 ID:noQSFKLS
織田左門(頼長。有楽斎の次男)が秀頼(豊臣秀頼)から家康公へ御使に参った時、御当家(徳川
家)の御家老衆が玄関へ迎えに出られた。

左門は家老衆に向かいなさり「出たか」と立ちながら不礼に致され、御書院へ通り上座におられた。
いかにも鷹揚の顔色でおられ、小姓衆は覗き見て(左門が)元来変わり者なので密かに笑った。

その様子を左門は見なさり小姓が茶を持参などすると、いかにも不礼を申されて小姓衆を憎み、大
茶碗に熱き茶を持って来たのを見ぬ顔をして、長くそのままにして小姓衆は耐え難く、難儀させた。

その後大茶碗を取ると熱いまま食らいなさり、「しゃ!」と罵って投げ出し御座敷を汚した(其後
取テアツクテクラワレテ社トテ抛出御座敷ヲヨコシ)。家老衆が出ておられたのにこの通りである。

さて家康公が御出になり御返答が済んで帰る時にまた御家老衆が出られると、「さてさて迷惑を仕
りました。こちらへおいでなされ」と下礼を厚くして(左門が)申されるには、「先刻は上使なの
でやむを得ず不礼の仕方でしたが、今は元の左門になりました」と申されたのだという。

常々変わり者であった故という。

――『烈公間話』

「社トテ」は次の意味にしました
しゃ( 感 )
人をあざけったり、ののしったりするときに発する語。 「 -何事かあらん/浄瑠璃・最明寺殿」



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一生の期はここにあり

2018年09月06日 21:10

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 07:40:35.46 ID:4nhJDA70
織田有楽の子、河内守(長孝)の所へ出入りする浪人に鈴木道休という者があり、彼は以前には
侍の役も勤めた者にして、大名貴人であっても侮らせないものがあった。

或る時、河内守の所にて人々寄り合い咄の有った時、河内守弟の左門(頼長)が鼓を鳴らした。
道休はそれを褒めたのだが、その褒め方が気に入らなかったのか、左門は鼓を道休に投げつけた。

道休もさしもの者故、その場にて左門を討ち果たそうとしたが、大勢が押し留めあつかいとなり、
その場は治められた。

道休はこの時不首尾に終わったため、返報の機会を待っていたが、その冬、大阪冬の陣が起こった。
織田左門は大阪城へ向かい、道休はこれをつけた。しかし左門は大名故に、道中で襲撃すること
叶わなかった。ここに於いて道休は思い究めた

「私は既に年老いている。もはや左門を討つ機会はないだろう。明日は左門が城中に入ってしまう
以上、一生の期はここにあり!」

そう言って、枚方において切腹した。

その後、織田左門はどう思ったのか、無頼漢と成り、冬の間城中に於いて戯け者となって、牛の角に
金銀の箔を貼り、自身はその牛に乗り、遊女にその牛を引かせるなどした。故に城より追い出され、
左門は入道して雲生寺と号して、武士を止めたという。

(士談)



98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 10:15:29.07 ID:Ww/zjHKh
かぶいてるな

左門殿は殊の外おどけた人で

2017年09月13日 18:21

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/13(水) 02:13:56.64 ID:5Fm8W0c9
大坂御陣の時分、織田左門殿(頼長)も籠城した。

左門殿は殊の外おどけた人で、牛の角に銀箔を捺して乗られ申した。
また女中に刀を持たせ、毎度堀裏を廻り申されるような人であった。

(牛の角に銀箔を置乗被申候。女中に刀を持せ、毎度堀裏を廻り被
申候様なる人に候由。)

その由を前述の御話と同じ時に拝聴仕った。

――『松雲公御夜話』



227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/13(水) 11:20:54.14 ID:mz9dNTx1
大阪の夏の前に上手いこと城から出て長寿庵を営んだけど早死した人か

織田頼長、巡見に

2014年09月09日 18:52

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/08(月) 22:46:29.10 ID:UGSHgts3
大阪冬の陣の時、諸国の名高き浪人たちが勢い猛くこれを守ったが、大将秀頼が出馬することは
一度もなかった。そのままでは諸人も勇気が出ず勢いも自然と落ちてしまうと、大野治長や
七手組の面々が評議し、織田信長の舎弟である有楽斎(長益)の子息・織田左門(頼長)を
秀頼公名代として、城中大将の諸持ち口を毎日一度づつ廻り、その他は横目衆が代わる代わるに
廻る事となった。

織田左門は、最初は諸将の持ち口を礼儀正しく廻っていたが、しばらくすると市十郎という
18,9歳の遊女に具足を着せて諸士並に騎馬にて召し連れたため、軍中の諸卒は

「軍中に女性を召しつれないのは古今定まった禁制であるというのに、今、
大将の名代として城中を巡見する人が女を同道するのは法外なことである!」

そう言い合い、左門のことを嘲り軽蔑した。
この事について、織田左門に懇意の者があり、この様に異見した

「昔、判官義経は静御前を愛せられ、木曽義仲は巴という女性を戦場にも召し連れたといいますが、
死を前にしてはそれを召し連れることはありませんでした。
その上、両将は名高き良将です。
貴殿はこの事を学んでいるのでしょうか?」

これを聞いた左門は赤面し
「私がどうして、かの両大将から学ばないことがあるでしょうか?もしもの時急用があった場合に、
秀頼公に御使として申し上げさせるために、女性を一人召し連れていたのです。
しかし今後はこれを止めることにします。」
と言った。

(明良洪範)

織田頼長が巡見に女性を召し連れていたことについてのお話




『高木は風にあい、勇士は妬みにあう』

2014年01月01日 18:58

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/01(水) 16:33:42.31 ID:grFRENw+
織田有楽軒の息子左門(頼長)の家士に、常に武を心がけ、万事につけて埒が明く小身の者がいた。

傍輩たちはこの事を憎んだ。ある時、四、五人が申し合わせて銭湯の風呂に入った。
多くの人の中で、かの者は面を打たれて鼻血が流れ出た。風呂の中は暗かったので
相手が誰とも分からず、かの者は外に出て身体を拭い衣を着て、帯を締めて刀をさしはさむと、

「士の意趣は刀をもって勝負をするものぞ! 只今、拳をあげて我が面を打ったのは
女童のやり方のようである! 臆病者はまったく士の行為ではない! 志があるならば名乗れ!
名乗らなければ男とは言えないぞ!」

と、罵ったが、返答する者はいなかった。亭主が手をすってこれを止めたので、
かの者は裸者をことごとく撫で斬りにすることもなく、怒りを抑えて宿へ帰った。

それゆえに人々は口々に悪く取り沙汰した。これを聞いた左門は「かの者は平生の覚悟が良くないので、
我にまで恥辱を与えた」と言い、かの者が追放されそうなところを、

有楽軒は「『高木は風にあい、勇士は妬みにあう』と言われている。これはきっと傍輩どもの
仕業だろう。面を打つ程度の心で、名をも名乗らず黙っているのは、人知れず恥辱を与えたことを
勝ちとした臆病者だ。決してかの者が気後れしたわけではない」と言って、かの者を扶持して残した。

その後、かの者は合戦の場に赴き、大剛の働きあって名を揚げたのである。

――『武将感状記』