左門殿は殊の外おどけた人で

2017年09月13日 18:21

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/13(水) 02:13:56.64 ID:5Fm8W0c9
大坂御陣の時分、織田左門殿(頼長)も籠城した。

左門殿は殊の外おどけた人で、牛の角に銀箔を捺して乗られ申した。
また女中に刀を持たせ、毎度堀裏を廻り申されるような人であった。

(牛の角に銀箔を置乗被申候。女中に刀を持せ、毎度堀裏を廻り被
申候様なる人に候由。)

その由を前述の御話と同じ時に拝聴仕った。

――『松雲公御夜話』



227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/13(水) 11:20:54.14 ID:mz9dNTx1
大阪の夏の前に上手いこと城から出て長寿庵を営んだけど早死した人か
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織田頼長、巡見に

2014年09月09日 18:52

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/08(月) 22:46:29.10 ID:UGSHgts3
大阪冬の陣の時、諸国の名高き浪人たちが勢い猛くこれを守ったが、大将秀頼が出馬することは
一度もなかった。そのままでは諸人も勇気が出ず勢いも自然と落ちてしまうと、大野治長や
七手組の面々が評議し、織田信長の舎弟である有楽斎(長益)の子息・織田左門(頼長)を
秀頼公名代として、城中大将の諸持ち口を毎日一度づつ廻り、その他は横目衆が代わる代わるに
廻る事となった。

織田左門は、最初は諸将の持ち口を礼儀正しく廻っていたが、しばらくすると市十郎という
18,9歳の遊女に具足を着せて諸士並に騎馬にて召し連れたため、軍中の諸卒は

「軍中に女性を召しつれないのは古今定まった禁制であるというのに、今、
大将の名代として城中を巡見する人が女を同道するのは法外なことである!」

そう言い合い、左門のことを嘲り軽蔑した。
この事について、織田左門に懇意の者があり、この様に異見した

「昔、判官義経は静御前を愛せられ、木曽義仲は巴という女性を戦場にも召し連れたといいますが、
死を前にしてはそれを召し連れることはありませんでした。
その上、両将は名高き良将です。
貴殿はこの事を学んでいるのでしょうか?」

これを聞いた左門は赤面し
「私がどうして、かの両大将から学ばないことがあるでしょうか?もしもの時急用があった場合に、
秀頼公に御使として申し上げさせるために、女性を一人召し連れていたのです。
しかし今後はこれを止めることにします。」
と言った。

(明良洪範)

織田頼長が巡見に女性を召し連れていたことについてのお話




『高木は風にあい、勇士は妬みにあう』

2014年01月01日 18:58

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/01(水) 16:33:42.31 ID:grFRENw+
織田有楽軒の息子左門(頼長)の家士に、常に武を心がけ、万事につけて埒が明く小身の者がいた。

傍輩たちはこの事を憎んだ。ある時、四、五人が申し合わせて銭湯の風呂に入った。
多くの人の中で、かの者は面を打たれて鼻血が流れ出た。風呂の中は暗かったので
相手が誰とも分からず、かの者は外に出て身体を拭い衣を着て、帯を締めて刀をさしはさむと、

「士の意趣は刀をもって勝負をするものぞ! 只今、拳をあげて我が面を打ったのは
女童のやり方のようである! 臆病者はまったく士の行為ではない! 志があるならば名乗れ!
名乗らなければ男とは言えないぞ!」

と、罵ったが、返答する者はいなかった。亭主が手をすってこれを止めたので、
かの者は裸者をことごとく撫で斬りにすることもなく、怒りを抑えて宿へ帰った。

それゆえに人々は口々に悪く取り沙汰した。これを聞いた左門は「かの者は平生の覚悟が良くないので、
我にまで恥辱を与えた」と言い、かの者が追放されそうなところを、

有楽軒は「『高木は風にあい、勇士は妬みにあう』と言われている。これはきっと傍輩どもの
仕業だろう。面を打つ程度の心で、名をも名乗らず黙っているのは、人知れず恥辱を与えたことを
勝ちとした臆病者だ。決してかの者が気後れしたわけではない」と言って、かの者を扶持して残した。

その後、かの者は合戦の場に赴き、大剛の働きあって名を揚げたのである。

――『武将感状記』