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加茂郡加治田の城主は

2021年05月02日 16:40

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/02(日) 15:34:35.17 ID:wBTwM86N
加茂郡加治田の城主は  斎藤新五郎長龍 同子斎宮龍幸

新五郎(斎藤利治)は龍興(道三の誤り)の子なり。信長に仕えて天正13年6月2
日、京都二条の城で、明智の家来・内藤内蔵助利一(斎藤利三)のために討死す。

その子・斎宮は岐阜中納言秀信(織田秀信)の小姓だったが、慶長5子年(1600)
8月23日、岐阜落去の際、信友・足立中務・武藤助十郎とともに、白昼に女の姿で
出立ち、長良川を越えて北山に落ちて行った。

その子孫は松平大和守道基(直基)に仕える。また池田三郎左衛門(輝政)の家にも
いるという。

――『美濃国諸旧記』



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可児郡池田の城主 池田織部正輝家

2021年05月01日 18:39

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/01(土) 17:32:56.21 ID:9P2krZ2J
可児郡池田の城主 池田織部正輝家

当家も明智の一家にして、元祖は明智遠江守光朝の三男・三郎左衛門尉輝継が
初めてここに住し、それより以来、輝家まで当城主なり。

右の織部正は光秀に属し、後に城州伏見の城を守り、天正10年6月14日、
羽柴の大軍を引き受けて討死しける。

右の他にも明智の一家にして、隠岐・溝尾・奥田・三宅・藤田・肥田・池田・
瀬田・柿田・妻木などと申し、数代血脈の一門多くして皆ことごとく嫡家光秀
に属し、後には天正10年、山崎の戦にて滅びたりぬ。

明智光秀は信長に仕えて、わずか15ヶ年にして60万石余の大名となりぬ。
按ずるにかくの如く良き家臣等が皆もって一門たる故、身命を捨てて働きある
ために、自然と武功も優れてありしと見えたりという。

――『美濃国諸旧記』



幾度か かくすみ捨てて 出でぬらん

2021年05月01日 14:44

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/29(木) 17:42:00.63 ID:RwG8RhcE
関ヶ原合戦の後、稲葉右京亮(貞通)は豊後国臼杵の城、太田飛騨守(一吉)没落
の地を賜り、ここに移って以後は臼杵の城主となるなり。

一鉄斎(稲葉良通)は濃州に止まり、旧領清水の北なる長良村の釣月庵に住しける。
右の釣月庵の西の面に1つの額をかけて、一鉄斎の自筆で辞世の一首あり。

「幾度か かくすみ捨てて 出でぬらん 定めなき世の ささのかり庵」

その翌年慶長6年丑11月24日、逝去なり。墳墓は長良月桂庵の境内にあり。

(中略)

稲葉両家(宗家と正成系)ともに徳川家に仕えて、武運長久たり。

――『美濃国諸旧記



しかるに一鉄斎は

2021年04月25日 16:32

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/24(土) 20:42:27.57 ID:zfA73aqp
しかるに一鉄斎(稲葉良通)は勇猛の剛将たる故に、生涯の内には不義不仁の事が多かったのだという。

傍友の安藤伊賀守(守就)が信長の意に違えて居城の鏡島を改易せられ、濃州を追放された時に稲葉が
郎等を鏡島に遣わして狼藉をさせたなどの事は、もってのほかの不道である。

それ故にその臣・斎藤内蔵助利三や那波和泉守(直治)などがこれを憎んで稲葉の家を出て、明智光秀
に仕えた事などがあった。その他に斎藤に背いて織田家に身を寄せた事も、天下国家のためといえども
実際は非義の振る舞いである。

しかして天正9年(1581)の正月元日に揖斐光親を攻め落とし、これより発心したという。三代相
恩の主君の連枝を追い落したことは本意にあらずと思い、入道して一鉄斎と号しける。さればその後か
らは善道を行ったといわれている。

それ故なのか、天正10年の夏であったが当国の先の太守・土岐頼芸は斎藤道三のために国を奪われ、
零落の身となってその頃は上総の国の海喜という所に蟄居しておられたが、この人は先年より眼病を受
けて悩み煩い、後には盲人となり、剃髪して宗芸と号し、世を頼みなく暮らしておられた。

稲葉一鉄斎は情を思い出し、君臣の義を重んじて痛ましく思い、なにとぞ宗芸入道を美濃国に帰し迎え
参らせんと欲した。しかしながら一鉄斎は先年に揖斐五郎を攻め出した頃のことなれば、これを聞かれ
たら自分を恨まれて来向なさるまいと思い、それより思慮をめぐらせた。

厚見郡江崎村に住む江崎六郎というのは頼芸の末子なる故に、すなわちこれをもって迎えのために遣わ
そうと六郎を尋ね出して、その事を申し含めた。しかし六郎は幼少で頼芸と別れて長らく父子の対面も
していない事ゆえ、心許なく思った。そこで乳父の十八条村の住人・林七郎右衛門を差し添えて、天正
10年7月、上総の国へ遣わし、宗芸を呼び迎えた。これによって頼芸入道は再び当国に来向せられた。

すなわち一鉄斎はこれを請じて大野郡岐礼村に新館を構えて頼芸を住せしめ、米2百石を参らせ、侍女
5,6人を付けて労わった。もっともこの岐礼の里は稲葉がしばらく住んだ所である。

しかるに頼芸は同年12月4日、仮初に病に伏してついにこの所で逝去なり。法名・東春院殿前濃州大
守左京大夫文閣宗藝大居士、年齢82歳なり。すなわち一鉄斎より南化玄奥和尚を招き、導師とせり。

――『美濃国諸旧記



136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/25(日) 19:44:32.71 ID:XU/4bKMy
>>135
地元の史書で不義不仁言われちゃうのがなんとも

鏡島村梅之寺・乙津寺の事

2021年01月12日 16:44

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/12(火) 00:50:45.38 ID:6vjf8+TQ
鏡島村梅之寺・乙津寺の事

厚見郡鏡島村の梅之寺というのはその昔は乙津寺と号し、ここはすなわち7里の渡海の大湊であった故
に船付大明神を鎮守とした。

(伝承によれば、この辺りはかつて「乙津島」と呼ばれて、海に浮かぶ島だったが、弘法大師によって
桑田となり、地名を「鏡島」と呼ぶようになったという)

その後、一寺に点ぜり。この寺一派の本寺にして、土岐・斎藤の両家が殊にこれを帰依して、数ヶ所の
庄園を寄付した。その記録は宗別に見えたり。

当村院内はことごとく梅樹を植えている。故に“梅之寺”と号す。按ずるに斎藤家信仰の一寺と見える。
信長御入国の後も、もっとも寺務繁く、並びもなく栄えた。

しかるに信長公は元来仏法を嫌い給いて、所々で寺院仏閣を数多破却し給いたけれども、故あって当寺
をのみ甚だ尊敬し給い、とりわけて当山の梅を愛し給いて、すなわちこれを分けて江州安土、ならびに
京都妙心寺などに移し給わったのである。よってその寺の威は甚だしく、勅願所にも異ならず。

しかるところ、天正10年(1582)6月2日、信長生害し給いてよりこの寺の威勢も薄くなったの
だという。その後、文禄2年(1593)癸巳閏5月、秀吉より寺領の御朱印を改正せられたという。

――『美濃国諸旧記



837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/12(火) 12:58:07.18 ID:O8i+wnF4
>>836
美濃に海なんてなくね?と思ったら、長良川の湊なのね。

中でも美濃国は光秀の生国なれば

2020年10月26日 17:34

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/25(日) 01:25:47.09 ID:TcotcfKQ
しかるに土岐一族の明智日向守光秀は弘治2年(1556)の秋に当国(美濃)を出てその翌年より
6ヶ年の間、国々を遍歴してその後に織田信長公に仕え、15年の内に68万石を領した。もっとも
智謀軍慮を兼ね備えていた徳である。

しかるに、主君の信長公は元来良智の大将なので、折に触れ時に寄せて光秀を召され諸々の事を尋ね
給う。しかしながら光秀は、一度もその問いの趣を知らないということがなかった。

ある時に織田殿が光秀に尋ね給うには、「汝は諸国を修行したので、およそその国の人の風俗の善悪
を知っていることだろう。どの国は善であるのか、かつどの国は悪いのか、その心を見たるところが
あらば、語り聞かせよ」と宣う。その時に光秀はあらまし国々の人風を言上するに及ぶことがあった。

しかしながら光秀は諸国修行を志してその国を領する太守の政道、将の心持ち、家中の諸士の剛臆を
見て、仕官を志していた故に人風を知るはずもなくとも、少しずつ日を重ねて逗留する内にその地の
人に接して察しただけである。しかしその察したことが、格別(信長の望むところと)相違していな
かったところは、もっとも御感あったことであった。

中でも美濃国は光秀の生国なれば、風俗の良き国と言うのも如何なものかと(信長へは)申し上げな
かったものの、元来濃州は代々良将の住む国故、おのずと人風もよろしき国であると(光秀は)家臣
などへ話したのだという。

これによって古は知らないが、近代に濃州より出でてその名をいささか知られた武士について、あら
ましを挙げきれない。もっとも土岐・斎藤の一族だけに限ったことではない。

明智日向守光秀、蜂屋出羽守頼隆、妻木長門守忠頼(省略。美濃出身の武士を列挙)この他に当国よ
り出でて大家に仕官の面々は数多ありといえども、際限なきによりあらましはここまでを記した。

――『美濃国諸旧記



揖斐氏顛末

2020年06月04日 18:44

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/04(木) 01:24:22.53 ID:pW5SX5wd
国枝正則の討死後。>>106

しかるに国枝の舅である清水城主・稲葉伊予守良通方へ、名礼の戦いで命を逃れし者一両輩が逃げ
込み、その様子を告げると良通大いに驚き、現在の婿を討たれて打ち捨て置けるはずもなく、速や
かに馳せ付け仇の光就(揖斐光就)を討ち取らんと即時に士卒を下知して清水を乗り出した。

戦場目指して馳せたところ、深坂の峠で国枝の家来がまた一両輩逃れ来たり「主人はすでに討たれ
て候。揖斐は早や兵士を纏め、城中に引き入りました」と申した。良通は無念骨髄に徹し、むなし
く揖斐の方を睨んで見つめ、歯噛みするといえども光就はすでに居城へ引き入ったので、力無く馬
を返して清水へと帰った。

光就はすこぶる勇剛の士なれば、容易には誅し難し。そこで折を窺って油断を見済まし、不意に押
し寄せようと月日を送った。天正8年(1580)に至り、12月下旬に及び、清水で良通急病な
りと沙汰した。これによって家の子や郎等は騒動する様子で、近辺を行き違う輩引きも切らず。揖
斐では稲葉の振る舞いを気遣い思うところであったから、これを聞いて事実と思い大いに喜んで油
断をなす。

すでに12月の大晦日なので早春元朝の儀式などを取り繕ったが、明ければ天正9年巳正月元日で
ある。良通は形の如く士卒に令を伝え、大晦日の夜より出馬の用意をなし、兵糧など十分にしてそ
の夜の丑三過ぎる頃に清水を出陣し、揖斐坂(原注:揖斐というのは谷汲道にして、白石から深坂
へ越える坂である)の辺りから打ち上り、山続きに押し通って城際へ押し詰めた。

揖斐の城中では元日新玉の儀式をしてそうとも知らずにいたところ、やがて寅の一天に至れば、城
の前後より一同に鬨を作り攻め立てた。城中大いに騒ぎ立ち「こは敵に不意を打たれたり!面々持
ち口に至り防ぎ候へ!」と、上を下へ大慌てした。そこを良通は下知し、数多の松明を灯し連ねて、
城の四方山上の樹木へ一同に火を掛ければ、たちまち猛火が八方へ燃え上がり、煙の下より寄手短
兵急に攻め立てれば、堀池備中守、その子・千代寿丸、大西源吾、花木藤五郎以下は思いのまま戦
い討死した。

城将・光就ももはや討死と馳せ出たのを士卒らが制し「一先ず城を落ちて逃れ給え!」と勧める故、
光就も力無く城の西より桂の郷へ逃れ出て、山岸勘解由左衛門光信の隠館へ落ち入ったが、東南の
風が荒く吹き来たり、山上の猛火はたちまち桂の郷へ焼き下って、その辺りは残らず一片の煙とな
り残さず焼亡した。この時、堀池父子、宇佐美平馬、稲川治左衛門、大西、佐藤、花木、畑野など
数多の勇士が討死した。稲葉の郎等では、加納悦右衛門が比類無き武功を顕した。

さて光就は桂を出て安八郡大垣へ落ち行き、氏家左京亮直元(直昌の誤り)を頼んで蟄居した。そ
の後、氏家は勢州桑名へ移ったので同じく桑名へ赴き、その後の文禄元壬辰年(1593)、濃州
石津郡駒野村で卒去した。56歳なり。

さて稲葉良通は光就を討ち得ずといえども、揖斐の一城焼落し大いに喜んで清水へと帰った。この
時に揖斐山上の城は断絶した。天正9年正月元日の事、未明に落城なり。これ故に今揖斐で俗説に
「朝寝すると城が落つる」というのは、これが例となったのである。今の揖斐中で元日の礼勤を朝
未明より行うのは、この例を引いた事なのだと言われている。

さて、稲葉はこれより揖斐の山下三輪村の要害に嫡子・右京亮(稲葉貞通)を入れ置いて守らせた。
しかるに良通は婿の怨みだと揖斐光就を攻め出し、いささか憤怒を散じたといえども、三代相恩の
主君の連枝(揖斐氏は土岐一族)を攻め落としたので、勇士の本意あらずと思ったのか、その年の
秋に清水北方の山の麓、長良村の釣日寺で法体し“一鉄斎”と号しける(原注:一説に岐阜長良の
崇福寺ともいう)。

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/04(木) 01:25:47.57 ID:pW5SX5wd
しかるに光就落去の折に子息3人あり。長男を栄千代丸という。この時より江州坂本に至り、明智
の養育によって成長し、後には江戸将軍に仕えたという。二男は早世、三人目は女子なり。成長の
後に他家へ嫁いだ。光就の室はこの折より尼となって横倉寺に入ったという。また徳山五兵衛(則
秀)に嫁いだとも聞く。

さて今回の放火によって桂の郷は皆類焼し、鎮守八幡宮も焼失したが本地はつつがなしという。後
に当社へ、明智光秀の霊を祭った。

さてまた周防守基信の妾腹の子に、揖斐六郎太夫基行という者あり。桂の郷戸(虫損)渡という所
に住んだが、弘治元年卯(1555)8月病死。その子・六郎太夫貞行は山岸勘解由左衛門の婿な
り。後に勢州近士の家に養子行ったという。晩年は明智に仕えて近士となり、四手衆の内なり。天
正10年6月2日、京都本能寺で湯浅甚助友俊(直宗)と組み合い、双方刺し違えて死す。

貞行の子を揖斐造酒三郎という。後に作之丞貞次という。母は山本対馬守和之入道仙入斎の娘なり。
貞次は明智の山崎合戦の前日に光秀の遠計に従って濃州に落ち来たり、後に江戸将軍に仕えて子孫
は関東にあり。

康永元巳年(1342)3月に揖斐出羽守頼雄が初めて当城を築き在住してより以来、揖斐氏代々
ここに住し、240ヶ年の星霜を経て、天正9年正月元日ついに落去したりけり。当城は山上に本
丸あって山下三輪村には要害があり、侍屋敷満々たり。山上落去の後は山下の要害だけであった。
故に後にこれを城に改築し、矢倉、塀、堀などを修復してよき一城である。

さて揖斐というのは庄の名で甚だ広大である。城のある所は揖斐の庄三輪村という。しかしながら
揖斐の本城があるので三輪とは言わず、ただ揖斐と称す。揖斐の庄の村々は数多し。三輪村を始め
として桂、南方、北方、房島、仁坂、中津、原野村もその内である。現在、この揖斐は岡田伊勢守
(善同。幕府旗本、美濃郡代)の陣屋である。

――『美濃国諸旧記



揖斐落城のこと

2020年06月03日 17:57

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/02(火) 22:27:47.54 ID:VzM8DUrR
義龍の子・龍興の代に至り、ついに信長のために当国を奪われる。この時に光親(揖斐光親)は
稲葉山で織田勢と戦い討死したと沙汰するも、その説は詳らかではない。しかればこれより揖斐
も織田家に降参し、相続いて揖斐に在住した。

さて揖斐落城のことを尋ねるに、その頃の池田郡本郷城主に国枝大和守正則という者あり。これ
は安藤一族の国枝大和守藤原守房の末孫である。数代本郷村の城主で、また本郷の内に良徳寺と
いう禅寺がある。当時は稲葉良通(一鉄)の父・臨仁定門が隠居していたので、正則と良通は折
節参詣した。

また揖斐光就も時々参詣したのだが、光就、良通、正則が良徳寺に参詣して碁会を催したところ、
光就と正則は碁の勝負のことで互いに口論に及んだ。良通はこれを仲裁して双方を宥め、ようや
く怒りを晴らしてその日の参詣は終わった。しかし光就の利はもっとも正しきものであった。良
通は正則の舅故に非を曲げて、無礼に扱った振る舞いであった。これによって、光就は甚だ憤り、
これより遺恨を差し挟む。

その後、天正6年寅(1578)8月18日のことであるが、正則は大野谷汲の観音へ参詣のた
め、わずかな主従で本郷を出て株瀬川を越え、道行の慰みに四方の景色を遊覧して赴いた。光就
はこの由を聞き大いに喜び、日頃の憤りを散ずべき時至れりと郎等を下知し、正則の来る道筋で
ある名礼の崎の広野に伏勢を隠し置いて、揖斐城の裏手へ出て待ち受けた。

そうとも知らずその日の巳の刻に至り、正則はわずかの士卒を引き連れやって来たのを、光就は
すは掛かれと呼ばわって大声を揚げ、「過ぎし頃の碁会の遺恨、良通の不道の扱い!その憤りを
晴らさんがため、早くよりここで待っていた!逃すまじ!」と呼ばわった。

正則大いに驚き、覚えのある事なれば、心を決して少しも恐れずに郎等を下知して切って掛かる。
揖斐勢も槍刀を打ち振り血戦したが、国枝勢もここを先途と戦った。折しも木陰より揖斐の伏勢
50余人がドッと叫んで突いて掛かれば、国枝も仰天してここまでなりと心を定め、太刀を持ち
自害しようと思った。そこへ揖斐の郎等・大西太郎兵衛が切り掛かり、ついに首を取ったりける。

正則すでに討たれければ、残る郎等は七転八倒の働きをしてことごとく討死した。(中略。国枝
方と揖斐方の戦死者を列挙)しかし光就は大いに喜び、兵士を下知して早々に城中へ引き入った。
本郷勢の13の輩の死骸を取り集め、名礼・結城村辺りの土中に埋めて13ヶ所に葬った。その
形は今も残って、谷汲道の傍らにある“十三塚”というのがこれである。

――『美濃国諸旧記

続き
揖斐氏顛末


109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/03(水) 03:18:02.59 ID:PNJemRL3
>>106
だから賭け麻雀はだめなんだ

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/03(水) 11:05:40.10 ID:ahKb3dTD
>>109
アハッ

斎藤義龍の死

2020年05月28日 17:47

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/28(木) 03:50:13.34 ID:z9c7xj6W
さて義龍(斎藤義龍)は一戦に道三を討ち取り悦喜少なからず。諸将へも様々な恩賞感状などを出し、
日根野備中守(弘就)、長井隼人正(道利)をして万事を計らわせ、ついに当国の守護となった。妻
室は江州小谷城主・浅井下野守久政の娘で近江の方というのを嫁する。もっとも義龍は生質勇猛絶倫
にして、身の丈7尺ほどの古今の剛将である。

嫡子の右兵衛大夫龍興は天文18年酉(1549)の2月誕生。すなわち家督として稲葉山に在城し
た。義龍は元来先の屋形・土岐頼芸の胤子であるといえども、道三の子としてかの家で成長し、親子
の恩恵もある仲なので、義を思って氏を一色とも改名した。

しかし子として親を誅した天罰は逃れられないのか、わずか6ヶ年を保った後に難病を受けて大いに
苦しみ、永禄4辛酉年(1561)6月11日、35歳を一期としてついに空しく相なりける。さり
ながら義龍は常に禅法に帰依し信心を明らめたのか、臨終に及んで辞世の偈を残した。その詩に曰く、

「三十余年 守譜人天 刹那一句 仏想不伝」

また永禄元年に自ら伝焼寺(伝燈寺)の別伝和尚に帰依して、国中の寺院の式を定めた。

令嗣の龍興は書工に仰せ付けて義龍の絵像を書し、快利和尚(快川紹喜)の筆を借りて辞世の偈をそ
の上に書いたのである。

――『美濃国諸旧記


義龍は器量世に優れた勇将なれば、国中に靡かぬ草木もなく井口の大将と仰がれたが、永禄4辛酉年
5月11日、病に臥して逝去し給う。常に禅法に帰依し心源を明らめ、辞世の偈に、

「三十余年 守護人天 刹那一句 仏祖不伝」

行年35。法名を雲峯玄龍居士と号す。

快川和尚(快川紹喜)の筆を借りて辞世の偈を寿像の上に書き記す。(義龍は)永禄元年より伝燈寺
の和尚に帰依して、国中の寺院の法式を定めた(永禄別伝の乱。この事件で義龍と快川は対立した)。
これひとえに、かの僧の所意によってであると国中の僧は大いに擾乱した。

――『濃陽諸士伝記


しかるに義龍は病に臥せて程なく、永禄4辛酉年5月11日、稲葉山城で逝去し給う。行年30有余
歳なり。すなわち常在寺に葬る。雲峰玄龍大居士と号す。日頃禅宗に帰依なされた故、辞世の偈あり。

「三十余歳 守護人天 刹那一句 仏祖不得」

長子の喜太郎龍興は家督を継いで右兵衛太夫、美濃守に歴任した故に、斎藤の一族どもは心を合わせ
られたため、国中は義龍の時よりも静かであった。斎藤の跡を継いだとして“斎藤右兵衛太夫龍興”と
名乗りける。

――『土岐累代記



光秀に子数多あり

2020年05月20日 18:31

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/19(火) 22:05:36.04 ID:GE2pY8cr
光秀(明智光秀)に子数多あり。嫡子を作之丞光重という。母は山岸勘解由左衛門尉光信(光秀の
叔父)の娘にして、千草という美婦であった。光秀が部屋住になっていた折、遊客となって山岸の
もとに来たり、桂の郷の下館にしばらく居住したのだが、ともに若年の頃なる故に密通して設けた
長男である。これによって明智氏の家督にならず氏を憚り、母方の氏を用いて西美濃に居住し、子
孫は郷士となって存在した。

次は女子なり。母は妻木勘解由左衛門範煕の娘で本室である。この女子は明智左馬助光春の室なり。
次の女子は同治右衛門尉光忠の室なり。次の女子は細川越中守源忠興の室なり。次の女子は織田七
兵衛尉信澄の室なり。

次は男子にして明智千代寿丸という。後に十兵衛尉惟任光慶という。次の男子を十次郎光泰という。
次は乙寿丸というなり。

他に養女あり。盛姫という。嫡家・光重の室なり。実はこれ土岐要人助盛秀の娘なり。古今希代の
英婦にして、光秀・光重に先立たれて後に自ら大義を志して国々の諸大名を語らい、羽柴の世を傾
けんと欲した程の烈婦であった。

また他に妾腹の男子あり。子孫は細川家にいると言われている。実はこれ左馬助光春の一子である
ともいう。また一人の男子あり。丹波の国桑田郷にその子孫ありという。

しかるに明智の城は弘治2年(1556)に落去してより後に守将なし。斎藤滅びて織田の支配と
なり、また光秀先祖代々の旧跡だからと拝領して家臣の石森九郎左衛門を代官として置いた。地形
のみで改築はなかったのである。

――『美濃国諸旧記



ここを落ちて存命をなし、明智の家名を立てられなされ

2020年05月17日 16:39

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/17(日) 04:19:59.93 ID:Noq7djiy
しかるところ、当国の守護職・斎藤右京大夫義龍は実父・頼芸の仇故に養父・道三と父子の義を断
ち合戦を初め、弘治2年辰(1556)の4月、方県郡城田寺村でついに道三を討ち取り、一国を
押領し“一色左京大夫”と改めて稲葉山の城に存在した。

まことに道三の多年の不義は、諸人皆がこれを憎んだ故に、その日の合戦には多くが子息の義龍の
手に加わり、道三のもとへ馳せ参る者は少なかったのである。しかるに、明智兵庫助光安入道宗宿
は兼々道三に尊敬されて常に厚情を尽くされた。元来、宗宿の妹は道三の本室である。もっとも早
世したといえども、一度縁者の因を結んだ仲であった。しかし、宗宿はもとより大丈夫(立派な男
子)の勇士なので、道三の威を慕ったわけではない。縁辺の義父・駿河守光継入道宗善が在世の時
に道三が妹を乞い、太守・頼芸に申して縁結したものである。

道三は元来大志あった故に明智の家を一方の盾ともなす心であったので、常々礼儀を厚くして懇情
を尽くした。あるいは尾州の織田を他国の垣根となして、我が娘を信長に嫁がせた。皆大志の下心
である。弘治2年の春に至り、子息・義龍は義兵を起こし合戦に及んだところ、国中の諸士は皆実
義を糺してことごとく義龍の手に至り、道三方は微勢となってたちまち武威衰え、戦う前に道三が
打ち負けること必然と見えたのだった。この時に宗宿が思うには、

「某は今度の合戦こそどちらにも加わり難い。道三はすこぶる逆臣だから誅するのは利の当然であ
るが、彼が日頃私を重んじ厚情を尽くしたことは言葉に述べ難い。その下心の程は『身の上難儀の
事あらば頼みにしたい』との斟酌であろう。彼はまさに今大事の期に及んだ。某は恩情に心を引か
れて傾くわけではないが、彼が衰えたる時節を見て無体に攻め討つのは大丈夫のすることではない。

また義龍は実父の仇を討つと称して義兵を挙げたのに、某が道三に与力して戦えば土岐・明智の先
祖代々に対して大不孝と言えよう。故に両儀決せず、いずれも加わり難い。だが某は進退窮まった
といえども甥の光秀は当家の真嫡なれば、これ一人は義龍のもとへ参らそう」

と光秀のみを稲葉山へ遣した。さて弘治2年、鷺山の合戦終わり道三すでに討たれて後は道三一味
の面々ことごとく討死し、残る輩は皆義龍に降参して国中はようやく平均した。すると宗宿は決し
て出仕せず、つらつら思うことには「義龍は義兵の名ありといえども、(道三は)現在の養父にし
て胎内からの恩は甚だ深い。また先の太守頼芸には本室の実子が数多いる。長男の一色小次郎頼秀
は尾州にいる。二男の左京亮頼師もまた当国にいる。しかれば、これらをもって義兵を発したなら
ば実に忠義孝心であろう。

ところが今すでに義龍の代となり、私がまたこれに伏せば世上の人は憎んで『宗宿こそ懇情あった
道三をも助けず、また合戦の折には義龍にも組せず、命を惜しんで運を両端に計り勝負を眺め、ど
こへも出馬せず戦は収まり、義龍の代になったのを見てたちまち身を寄せた』などと嘲り笑われる
のも口惜しき次第である。殊に某は道三の尊敬を受けた身なれば、諸人の心は道三を心贔屓してい
る様に思って、義龍を始め私の心中を疑い思うのは必定である。

所詮長らえて諸人の口外に残るのも残念なり。ただ速やかに当城に立て籠もり、華々しく討手の勢
を引き受け討死し武名を残してこそ本意であろう。そうでなくても某が『道三と一腹ではないか』
と諸人の疑い思う折であるから、城に籠って出仕すまじと言えばすぐに討手が来るのは必定である。
某が潔く死ねば義ある道三のためにも道が立つ。主家の恨みは心にあれど現在の妹の婿の名があり、
厚情はなお甚だしい。

某50歳の上に満ちて惜しからぬ命を1つ捨てようとして死に迷い、恥ずかしき名を取れば清和天
皇より21代の血脈を保ち、汚名を付けざる明智の一家を私だけで悪名を付け末代まで恥辱を残す
ことは無念の儀である。早く義龍方へ手切れの使いを送り、一門を催して当城に立て籠もり、討手
が来たら思いのままに戦って屍を大手の城門に晒し、本丸に墳墓を残すべし」と思惟を決し、討死
と覚悟を極めたのであった。時に弘治2年9月に至り、一門を催して明智の城に籠った。

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/17(日) 04:23:55.83 ID:Noq7djiy
大将の宗宿53歳、同次左衛門光久50歳、その弟・十平次光廉は尾州にいてこれを知らず。従う
一族には溝尾庄左衛門・三宅式部之助・藤田藤次郎・肥田玄蕃・池田織部・可児才右衛門・森勘解
由などを始め、その勢わずかに870余人であったが義心金石と固まり、心を一致して籠城した。

さて右の子細が稲葉山に聞こえると斎藤義龍は甚だ驚き「早く誅さねば東美濃の過半がこれに従う
だろう」と即時に討手を差し向ける。その時、揖斐周防守光親は義龍を諫めて曰く、「明智宗宿は
古今の義士なり。名を重んじ叶わないと知って籠城するのは大丈夫の振る舞いです。ただ速やかに
利害の使者を送り、ひらに帰伏の旨を申し宥めてしかるべきです」と、言った。

しかしながら義龍は血気の破将故にこれを用いず、ただ攻め討ちと決した。ここに至って揖斐も是
非なく討手に向かう。その人々は長井隼人正道利・井上忠左衛門道勝・国枝大和守正則・二階堂出
雲守行俊・大沢次郎左衛門為泰・遠山主殿助友行・船木大学頭義久・山田次郎兵衛・岩田茂太夫な
どを先手としてその勢3千7百騎。9月19日に稲葉山を出陣し、明智を目指して押し寄せた。

宗宿は少しも多れずここを先途と防ぎ戦った。元来、城の要害堅固にしてどこも破れる浅間も無く、
攻め兼ねて見合わせた故、その日はすでに暮れていった。よってその翌日、再び鬨を発して攻め寄
せたが、宗宿は前夜から酒宴をなし夜もすがら謡い舞い、死出の盃をなして、翌日城外に打って出
て思う程に一戦し早々に城に入ると、その日の申の刻、本丸の真ん中で火を掛けことごとく自害し
て果てた。康永元午年(1342)に明智開基してより年数215年にしてこの日ついに断絶した。

しかるに嫡子・光秀はここまでも城中にいたが、宗宿がこれに申したことには、「我々は自害せん
と存ずる。御身はきっと殉死の志であろうが、某らは不慮の事でこのようになり、家を断絶します。
御身は祖父の遺言もあり、また志も小さくないので、なにとぞここを落ちて存命をなし、明智の家
名を立てられなされ。ならびに我々の子供らをも召し連れて、末々まで取り立て給わるよう頼み申
すなり」と、申し置いて死んだのであった。

これによって(光秀は)死を止まり城を落ちて西美濃に至り、叔父の山岸光信のもとにしばらく身
を寄せ、すなわちここに妻子ならびに従弟どもを預け、それより6ヶ年の間諸国を遍歴して武術の
鍛錬をなし、それより永禄5年(1562)に越前の太守・朝倉左衛門尉義景に仕官して、その後
同11年の秋より足利新公方義昭公の推挙をもって織田信長に仕え、後に60万石余の大名となる。

――『美濃国諸旧記



さて通貞は

2020年05月16日 18:17

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/15(金) 18:51:02.51 ID:RLxOE1g1
一、大野郡清水の城主  稲葉伊予守良通入道一鉄斎 始めは安八郡曽根の城主なり。
  安八郡大垣の城主  氏家常陸介友国入道卜全  元亀2年太田村にて討死。
  厚見郡鏡島の城主  安藤伊賀守守就入道道足  天正11年に討死。
  安八郡西の保の城主 不破河内守通定(光治)  天正9年に病死。

  右の四家を“西美濃四人衆”と号して、土岐氏代々相恩の旧臣である。もっとも各々天文・弘
  治・永禄・元亀・天正の頃の人々である。土岐頼芸より義興に属して龍興の代に至り、永禄
  7年(1564)の頃より織田信長に随身した。右の内、稲葉は子孫繁昌、氏家は内膳・志
  摩守が関ヶ原で終わる。不破は彦三郎より北国に果てる。安藤は関東にいるという。

一、さて通貞(不破光治)は土岐の旧臣にして、美濃の国四人衆の内より土岐頼芸・一色義龍・
  斎藤龍興に属し、永禄7年の秋より心変わりして織田信長に属した。

  この人は勇猛武功のことについてさしてその名は無い。しかしながら、その気質温和にして
  人愛深く、その姿に威厳の相あり。殊に弁舌奇麗にして談合仲裁の事に良くその理明白の人
  であった。しかしながら戦功においては、生涯の中で一立の優れた働きを知らない。時に天
  正9巳年(1581)8月に亡くなった。

  その子・彦三郎通家(直光)は柴田勝家の与力として北国征伐の烈将であった。よって越前
  国に居住し、後には加州に移った。天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦では前田家に組
  し、度々武功をあらわした。子孫はどこにいるのか、その名を知れず。

  今、濃州不破郡にも不破氏を名乗る小百姓など少々ありといえども、通貞の子孫とも見えず。
  いずれにせよ彦三郎の子孫は北国にいると見える。今、西の保村にも少しの堀の跡、ならび
  に小高き丘などのようなものが見える。これすなわち河内守居城の跡と見えたり。

  ――『美濃国諸旧記



潔きこと誰がこの上に立てようか

2020年05月14日 17:22

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 06:05:02.71 ID:s3NizvQB
本巣郡山口の城主は、

古田左金吾安長、安長弟の同吉左衛門長宗、長宗弟の同兵部少輔長政、長政子の同織部正長脇(古田織部)。

この城は昔、梶原平三景時の居城であった。当城に居住した折に、この場所の鴨を取って頼朝に献上したと
『東鑑』に見えている。また文治(1185~1190)の頃、判官義経を来振寺で調伏したという。この
事は五大尊寺にあるなり。

さてまた古田吉左衛門は羽柴秀吉に仕えて、播州三木の城攻めの折に討死した。その子に古田兵部少輔長幸
(重勝)と二男の大膳大夫長盛(重治)という2人がいた。慶長5年(1600)、勢州松坂の城主となり
6万石を領した。その後、兵部少輔は病死した。

その時に6歳の狐子(古田重恒)がいたが、将軍家康公より大膳大夫に兄の跡目を相続し、兵部少輔となる
ようにとの旨仰せがあった。大膳が承って申すには「有難き上意でございますが、狐子を成長させて父の名
ですので兵部少輔と名乗らせ申したいのです」との由を望んだ。家康公は聞こし召して「今の世には希なる
者かな」と感じなさった。

狐子がようやく成長すると、父の挙具を残らず目録をもって元和6年(1620)の頃に渡し、もちろん6
万石の地をも付与して、自身は物寂しき様子で江戸に住んだ。潔きこと誰がこの上に立てようか。稲葉内蔵
助(道通か)・一柳監物(直盛)なども兄の跡目を名代として相続したが、いずれも古田に及ばないという。

――『美濃国諸旧記』

ちなみに美濃国諸旧記は寛永末から正保中(1624~1648)の成立と言われるが、正保3年に古田騒
動が起こり、その後の慶安元年(1648)に重恒は狂気により自殺したという。



173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 14:43:51.84 ID:rbOONCHf
重治とご内室の不義の子だもんな
真実を知って気狂いしたんだろ

心得ざる左近の言い分かな

2020年05月13日 18:15

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/13(水) 01:10:04.09 ID:6M4HJyPQ
安八郡西の保の城主・不破河内守通貞(光治)は、東美濃の遠山刑部允正元の孫であるという。
通貞の父は不破彦左衛門通直といって、西の保村の城主である。

一説に不破氏の先祖は山城国の松井蔵人直家といった者であるが、笠置の城没落の後に六波羅
の命に従い、後醍醐天皇を探し奉った。この恩賞として、美濃国に数ヶ所の荘園を六波羅より
賜って初めて当国に至り、不破郡府中村に居住した。その後に氏を不破と改めて、その子孫は
不破・多芸の両郡に数多おり、府中の住人・不破隼人直重は江州の篠原で討死した。

さてまた退翁軒法印の日記を見ると、天正元癸酉年(1573)12月、不破河内守通貞は滝
川左近将監一益に対し、刀傷に及んだことがある。これをもって見る時は源姓ではなかろうか。

その故は、滝川一益の長女を不破通貞の嫡子・彦三郎通家(直光)に嫁がせたいとの由を申し
入れたところ、滝川はどういうわけかこれを承諾しなかった。「我が娘は筋目正しき大名の内
へ嫁がせようとこそ思えども、不破などには得参らせ難し」と言ったである。これを聞いて通
貞は大いに怒り、

「心得ざる左近の言い分かな! 私は今は信長の臣であるといえど、その昔を言えば清和源氏の
後裔である土岐・遠山の正統にして、当国の本家である! 滝川は何程の者なるぞ! 彼はただ
江州佐々木出の浪人者とは聞いているが、祖父の来歴も分からない! 近年ようやく信長公の御
取立てに預かった者だが、今は勢いに乗って当家を侮るとは奇怪なり!」

と立腹して、その年の12月11日の夜に滝川の宿所へ打ち入り、刀傷に及んだと記してある。
しかれば、これなどをもって考える時は(不破は)当国の侍で土岐氏の庶流であろう。山城の
国から来たというのは不審である。

按ずるに土岐頼貞の末子に五郎頼之という者がいるが、不破郡府中に居住したと言われている。
これすなわち通貞の先祖だろう。しかしながら通貞までの来歴の次第は詳らかではないという。

――『美濃国諸旧記』




63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/13(水) 13:17:44.63 ID:4JVWnVPW
由緒正しき清和源氏の流れだったら息子の嫁も良いとこから貰えよw
なお正室は北畠具教の娘らしいが

しかるにその頃、斎藤道三という者あり

2020年05月08日 16:57

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 03:19:48.45 ID:f/1PIr3N
しかるにその頃、斎藤道三という者あり。その由緒を尋ねるに、元来その先祖は禁裏北面の武士である。
藤原氏にして大織冠鎌足公六代の孫・河内守村雄の子(中略)その子・左近将監基宗。その基宗の子が
道三である。松波は代々上北面の侍だったが、基宗の代に至り故あって山城国乙訓郡西の岡に居住した。

道三は永正元甲子年(1504)5月出生。童名“峯丸”という。生まれ付き美々しく諸人に優れ、幼
少の頃より智慮賢く、成人の後はしかるべき者ともなるだろうと寵愛甚だしかった。父の基宗は峯丸が
生まれ付き只ならぬのを察して、「凡下になし置くのも残念だ」と、峯丸11歳の春に出家させ、京都
妙覚寺の日善上人の弟子となし“法蓮房”と号す。元来利発の者なので日善上人に随身して、学は顕密
の奥旨を極め、弁舌は富楼那にも劣らず、内外を良く悟りすこぶる名僧の端ともなった。

(中略)

さてまた、法蓮房は常々南陽房を引き回すほどの者なのでもっぱら無双の名僧であったが、ある時いか
なる心が付いたのか三衣を脱いで還俗し、西の岡に帰って住居し、奈良屋又兵衛という者の娘を娶って
妻となし、かの家名を改めて“山崎屋庄五郎”と名乗り灯油を商いした。後に父の氏を用いて“松波庄
五郎”と号す。元来この者は心中に大志もあったのか、出家の間にも和漢の軍書に眼を晒して合戦の指
揮、進退駆け引きの奥義を学び、また良く音曲に達し、あるいは弓砲の術に妙を得ていた。

大永(1521~)の頃より毎年美濃国に来て油を売っていたのだが、かの厚見郡今泉の常在寺の住職
である日運上人は幼少の頃の朋友で、その知辺があることで数日常在寺に来たり、様々な物語りなどし
て当国の容体を窺った。

元来聡明英智にして武勇剛計を志し、身は賤しき商民なれども心は剛にして思い内にありといえど、時
を得ずして本国を離れ斯くの如く身を落として濃州に来たり、立身出世を心がけて川手・稲葉・鷺山な
どの城下に至り、日々灯油を売り歩いて行ったのだが、弁舌をもって諸人を欺いていた。

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 03:23:16.30 ID:f/1PIr3N
ある時、人に向かって申し「私めは油を測るのに上戸(漏斗)を使わずに、1文の銭の穴から通すこと
ができる!もし穴から外へ少しでもかかったならば、油を無料で進ぜよう!」と言えば、皆人はこれは
稀有の油売りだと城下の者どもは他の人の油はあえて求めず、ただ庄五郎の油のみを買った故に、しば
らくの内に数多の利分を得て大いに金銀を蓄え、なおも油を商いした。そのため稲葉山の城主・長井藤
左衛門長張(長弘)の家臣・矢野五左衛門という者は、この由を聞いて庄五郎を呼び自ら油を求めた。

すると庄五郎は畏まって銭1文を取り出し、件の油を四角の柄杓で汲み出し流れること糸筋の如く、細
く滴って銭の穴を通せば五左衛門大いに感じ、申して曰く「まことにこれ不思議の手の内なり。よくも
まあ手練したものだ。しかしながら惜しいことだ。これほどに業を良く得ていても賤しき芸である故に、
熟したところでわずかの町人の業である。哀れ、かほどの手練を私が嗜む武術において得る程であれば、
あっぱれ後代にその名を知られる武士ともなるだろうに、残念なことよ」と申した。

庄五郎はこれを聞いて、実に矢野の一言はその理に至極せりと我が家に帰り、そのまま油道具を売り払
い右の商売を止めて心中で思うには、「私はいささか軍書に心を寄せているといえど未だ熟していない。
いずれの芸を嗜むにしても、その極意の至るところは、1文の銭の穴から油が通る時に外にかからない
如く、皆手の内の極まるところにある。弓矢鉄砲で良く的当するのもこの理に等しい。それならば長槍
を手練しよう」と欲した。

庄五郎は自ら工夫して我が家の後ろに行き、藪のある所で銭1文を竹の先に釣り置き、3間半の長槍を
拵えて穂先は細い釘で作り、一心不乱に毎日毎日銭の穴目掛けて下から突いていたのだが、中々初めの
頃は掌定まらず突き通すことができなかった。しかし『極志も業も一心にあり』と兵書に言われる如く、
一心二業一眼二早速一心眼に入り早速心に入って業は定まり、後には終いにこれを突き通す程になった
ので、百度千度突くとも1つも外すこと無く、その術はほとんど一必定に止まったのである。

すなわち庄五郎はこれを旨として名師とさえ聞けばたちまち随身してこれを励み、切磋琢磨の功を積ん
で武術兵術一つとして欠けることなく、実に希代の名士となったのである。世に3間半の長槍が流布し
て用いたがこれより始まったのである。いかにもその徳はあまねく多かった。

また庄五郎は砲術に妙を得ていた。細やかにして、提針をも外さなかった。天正(1573~)の頃、
明智光秀が砲術に妙を得ているといってその名を知られたのは、初めこの道三を師としてこれを手練し
た故である。

――『美濃国諸旧記

麒麟がくるにも利政が銭を槍で突くシーンありましたね




155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 03:30:29.79 ID:UkSAmB4F
雑兵物語だと長槍は叩くものだけど、三間半の槍で道三は突いてるのね

それにしても長槍の兵を組ませたのは信長って俗説あったと思うけど、あれはどっから生まれたんだろうか

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 12:45:36.26 ID:wR/yUS7S
商売の達人であり鎗の達人であり砲術の達人でもあるのに内政・人望0の男

158 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/05/08(金) 15:42:06.18 ID:ASHIDqPN
というかそれは国盗り物語以来の有名なお話じゃん
槍で銭突くの

明智光秀由来

2020年05月06日 17:15

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/06(水) 06:34:26.34 ID:0n/Kroxt
可児郡明智の庄長山の城主の事。一説に曰く、池田の庄明智の里ともいう。実は明智の庄であろう。
明智の城のあった地を長山の地といった。これは字名であろう。

さて、明智城というのは土岐美濃守光衡より五代の嫡流・土岐民部大輔頼清の二男・土岐明智次郎
長山下野守頼兼が康永元壬午年(1342)3月に初めてこれを開築し、居城として存在し、子孫
代々、光秀までここに住せり。

(中略)光継に子息数多あり。嫡子を十兵衛尉光綱といい後に遠江守と号す。日向守光秀の父これ
なり。二男を山岸勘解由左衛門尉光信という。大野郡府内の城主・山岸加賀守貞秀の養子なり。三
男を明智兵庫頭光安という。後に入道して宗宿と号す。明智左馬助(秀満)・三宅第十郎などの父
これなり。

四男を次左衛門尉光久という。明智治右衛門光忠の父これなり。五男を原紀伊守光頼といった。原
隠岐守久頼の父これなり(原注:原久頼は関ヶ原合戦で討死した)。次は女子なり。斎藤道三の室
となる。織田信長の北の方、ならびに金森五郎八郎長近などの内室の母はこれなり。次の六男を明
智十平次光廉という。後に入道して長閑斎という。十郎左衛門光近の父これなり。

遠江守光総(光綱の誤記?)は家督を受け継ぎ明智に住し、代々の知行1万5千貫を領す(原注:
今の7万5千石なり)。大永元年(1521)の春、山岸加賀守貞秀の娘を迎えて室とした。光綱
は日頃多病であった。天文7年(1538)戊戌年8月5日に死去した。嫡子・光秀、その時わず
かに11歳なり。

右の幼少なる故に、祖父・光継入道の命で叔父の光安・光久・光廉の3人を後見とし、光秀を守り
立て城主とした。しかるに光秀は生まれ付き凡人とは変わり、幼少より大志の旨あった故か、明智
の城主としてわずか1万5千貫の所領を受け継ぐことを望みと思わず、家督を嫌って居城を叔父に
任せ置いて自身は遊楽となり、武術鍛錬のために諸方を遍歴した。

――『美濃国諸旧記



159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 18:13:26.97 ID:ojgmVDyY
>>148
>智十平次光廉という。後に入道して長閑斎という。十郎左衛門光近の父これなり。

新書太閤記で、炎上してる城の中から槍を構えて飛び出してくるシーンが最高すぎる