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景勝の知慮は、凡人の及ぶところではない

2021年06月18日 19:03

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/18(金) 16:17:46.48 ID:S4rXSrWM
新発田因幡守治長(重家)、同道如斎、同源太治時、五十公野采女が申し合わせ、天正十年の春より
織田信長に内通し、「信長公が品濃口、越中口より攻め入られた時は、会津の蘆名盛隆と共に
下越後より攻め上がり、景勝を攻め滅ぼすべし」と謀を定めたのだが、その年、信長公生害となり、
想定は崩れ、上杉景勝は軍勢を差し向け新発田を攻めた。度々の合戦が有ったが、勝負はまちまちであった。
これは蘆名盛隆より密かに兵糧、玉薬を運送し、新発田に合力あった故で、彼らは六年の間持ちこたえた。

会津の越後境の津川城に、金上兵庫が居住しており、金上方より、赤谷城の小田切三河守方を
絆ぎの城として、蘆名が新発田に加勢していることを景勝は察し、天正十五年の秋に、新発田表を
踏み越えて赤谷城を攻め落とし、小田切三河守をはじめ八百余人を討ち果たし、会津からの合力の
通路を遮断し、直ぐに新発田城へ景勝が向かうと発表した。

新発田も、これで最期であると覚悟したが、家人の羽多野忠右衛門という大力の剛の者が申し上げた
「もはや合戦では叶いません。しかし赤谷表より新発田までの道筋に、三淵という大切所があります。
そこで待ち伏せをして、景勝が一騎打ちに通られるのを引き掴んで、下の崖より大河の淵に落ちて
共に死んで、主の本意を達します!」
このことは議定され、彼は三淵に出て、景勝が来るのを待ち受けた。

三淵という切所は、山腹の切通で、馬も一騎でしか通れない路であった。上は青山がそびえて苔むし、
路より下は数千丈の石岩が剣のごとく、屏風を立てたる如く、さらにその下は大河がみなぎり流れる
淵であった。その道端に岩穴が有り、羽多野忠右衛門はそこに隠れて、景勝が通りかかったところを
躍り出て引き掴み景勝とともに崖の下の淵に飛び墜ち、ともに死せんと企んだ。

この時、景勝は赤谷を立ち、新発田に推し進もうとしていた。家臣たちは「直路であり、殊に近道と
なるのだから、三淵の方に進まれるだろう。」と皆申していた所、景勝は思案して

「大将は危うき所を行かないものだ。近道だからと言って切所を行けば、どうしても越度が有ること多い。
迂を以て直とし、患を以て利とする事、兵法用捨の大事である。廻り道であっても、足場の良い方を
進もう。」

として、迂回して本道を進んだことで、三淵を通ることはなかった。故に羽多野の計画も相違して、
本意を失った。景勝の知慮は、凡人の及ぶところではない。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

たまたま「やっぱ足場の良いところを通ろう」と言ったら暗殺を免れた、という事か。



269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/18(金) 18:16:30.25 ID:Pm9hueO+
近道をして落馬した誰かさんとはえらい違いやね
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