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私は法度に背き

2020年11月01日 16:28

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/01(日) 14:00:31.50 ID:YBnQkKyS
(秀吉の四国征伐で)阿波一宮に押し詰めた時、私(渡辺了)は法度に背き、鉄砲の者の中に混じり、
城方の出丸一つが取り固められておらず、その様子も敵は気がついていなかったので、この方より割り込み、
取り固めてこれに付き、ついに出丸二つが自焼し、この勢は本丸へと撤退しました。

このような仕方を仕ったため、我が方にも負傷者が多数出ましたが、戦闘自体は残る所無く成功したので、
私は法度(による処罰)をも逃れました。

私のその時分の主人は次殿(羽柴秀勝)で、歳は二十四、指物は鳥毛の棒でありました。
この仕方は銘々所々にて存じている面々が今も多くいるので、御不審あらば、証人を連れて申させます。
大したことではありませんが、書き付けておきます。

渡邊勘兵衛武功覚書

軍法に違反しても成功すればOKって所は有ったんですね



435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/01(日) 21:08:11.98 ID:gfNQ0oXe
西股総生「戦国の軍隊」の冒頭で
渡辺勘兵衛武功覚書の山中城攻めの際の突撃シーンが紹介されていたけど
毎回一番乗りを志してよく死ななかったもんだと思う

436 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/11/02(月) 00:45:04.54 ID:rKBagEyL
狙撃できる技能を持った奴なんて、そうそう居ないからな
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もう精進は絶つことにしよう

2019年01月21日 17:08

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/20(日) 23:40:41.91 ID:Vh2MfU6r
(山崎の戦いの時)

秀吉は尼崎に御着きになり「禅寺はないか」と御尋ねになったところ、小庵1つを尋ね出して
御腰を掛けられた。しばらく御休みになって、御指図されたことには、

「信勝(羽柴秀勝)と久太郎殿(堀秀政)は聞きなされ。上様(織田信長)御切腹の知らせが
備中高松へ注進された時より、私は精進潔斎を確かに致し、すでに敵との距離も程近くなった。
この上は合戦に及ぶまでである。

私は年寄り故、この頃は腹中も思いのほか力が落ちたように覚える。もう精進は絶つことにし
よう。しかし御奉公には力を付けて槍をも取り、敵と太刀打ちする覚悟である。信勝と久太郎
殿は御若いのだから、精進を御絶ちになられてはなりませぬぞ」

と仰せになり、その次に台所衆へ「魚や鳥をなるべく使って料理を致し、我が前に出せよ。そ
れから亭主の僧を呼び出せよ」と仰せられ、御行水をなされて御櫛を下ろされた。

それから「信勝は若いのだから様を変えなさるのは無用である。短く茶筅に髪先を切りなされ
よ」と、秀吉は仰せになった。すると久太郎殿も「様を変えたい」と申されたが、「ただ髪先
を信勝と同様に御切りなされ」と秀吉は御教訓され、久太郎殿も信勝同様の体と相定め候事。

――『川角太閤記』

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/21(月) 17:53:58.69 ID:+QkshJgz
その御櫛(>>649)を紙に御包ませなさり、3人の御髪を仏前に御納めになられ、その僧に仰せ
出されたことには、

「合戦が利運となったならば、50石の地を末代まで差し遣し申す。多いというなら、すべて
代替わりの時の引出物とするがよい。そのために少し付けて遣そう。御祝いのためだ」

とのことで、金子3枚を遣されたのだと承っているが、かの50石の地は御所様(徳川家康)
の御代でも、今においても差し障りなしと相聞こえ申し候事。

御膳を据えて御盃を信勝(羽柴秀勝)へ御差しになり、仰せになったことには、

「惟任日向守は親の仇、または主の仇のこれ二つなれば、信勝は私めより先に討死なされよ。
その様子を見届けて秀吉は討死すると定めておる」

とのことで、盃を御取り交わしになったとの事である。

――『川角太閤記』


加藤嘉明、時に十三歳

2013年07月15日 19:52

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/15(月) 18:51:44.42 ID:wcFOw4zh
天正三年より、加藤嘉明は近江長浜の羽柴秀吉に仕えた。
秀吉は嘉明を養子の秀勝に近侍させた。時に十三歳。

天正四年、秀吉が播磨を征伐するや、嘉明は主の秀勝に暇を告げずに
おもむいて軍に従った。夫人(政所)は怒って秀吉に、

「孫六は無頼な者です。早くお帰しになってください」と書を送ったが、
秀吉はその盛んで勇ましい志に感心して嘉明を軍中に留めた。

――『加藤嘉明公(家譜)』