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岐阜城主十代衆

2021年05月04日 17:08

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/04(火) 01:10:47.30 ID:ME61kjQd
(岐阜城の戦いの時)

時に池田三郎左衛門尉輝政は当城の案内者なので、城山の後ろ水手口から攻め上った。
さてこの輝政は案内者たること理なり。この頃“岐阜城主十代衆”と言い伝える事がある。

その衆は、斎藤山城守秀龍入道道三、一色左京大夫義龍、斎藤右兵衛大夫龍興、織田弾正忠
平信長、同三位中将信忠、同三七郎蔵人侍従信孝、池田勝三郎信輝(恒興)、同三郎左衛門
輝政、羽柴少将秀勝、中納言秀信なり。

輝政は右の十人衆の内なれば、よく案内を知る故についに攻め落とした。

――『美濃国諸旧記』



148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/04(火) 17:49:08.99 ID:xJbwI1WL
どうしても腕を組みながら高速で走り抜けるジャイアントな絵柄しか思い浮かばないのであった

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 00:24:03.94 ID:VLdNf4zT
厳密に言えば
信孝没落後、恒興は大垣城に入って嫡男の庄九郎元助が岐阜城に入ったわけだが
1年程の話だから誤解、もしくは忘れ去られてるんだろうな
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私は法度に背き

2020年11月01日 16:28

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/01(日) 14:00:31.50 ID:YBnQkKyS
(秀吉の四国征伐で)阿波一宮に押し詰めた時、私(渡辺了)は法度に背き、鉄砲の者の中に混じり、
城方の出丸一つが取り固められておらず、その様子も敵は気がついていなかったので、この方より割り込み、
取り固めてこれに付き、ついに出丸二つが自焼し、この勢は本丸へと撤退しました。

このような仕方を仕ったため、我が方にも負傷者が多数出ましたが、戦闘自体は残る所無く成功したので、
私は法度(による処罰)をも逃れました。

私のその時分の主人は次殿(羽柴秀勝)で、歳は二十四、指物は鳥毛の棒でありました。
この仕方は銘々所々にて存じている面々が今も多くいるので、御不審あらば、証人を連れて申させます。
大したことではありませんが、書き付けておきます。

渡邊勘兵衛武功覚書

軍法に違反しても成功すればOKって所は有ったんですね



435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/01(日) 21:08:11.98 ID:gfNQ0oXe
西股総生「戦国の軍隊」の冒頭で
渡辺勘兵衛武功覚書の山中城攻めの際の突撃シーンが紹介されていたけど
毎回一番乗りを志してよく死ななかったもんだと思う

436 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/11/02(月) 00:45:04.54 ID:rKBagEyL
狙撃できる技能を持った奴なんて、そうそう居ないからな

もう精進は絶つことにしよう

2019年01月21日 17:08

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/20(日) 23:40:41.91 ID:Vh2MfU6r
(山崎の戦いの時)

秀吉は尼崎に御着きになり「禅寺はないか」と御尋ねになったところ、小庵1つを尋ね出して
御腰を掛けられた。しばらく御休みになって、御指図されたことには、

「信勝(羽柴秀勝)と久太郎殿(堀秀政)は聞きなされ。上様(織田信長)御切腹の知らせが
備中高松へ注進された時より、私は精進潔斎を確かに致し、すでに敵との距離も程近くなった。
この上は合戦に及ぶまでである。

私は年寄り故、この頃は腹中も思いのほか力が落ちたように覚える。もう精進は絶つことにし
よう。しかし御奉公には力を付けて槍をも取り、敵と太刀打ちする覚悟である。信勝と久太郎
殿は御若いのだから、精進を御絶ちになられてはなりませぬぞ」

と仰せになり、その次に台所衆へ「魚や鳥をなるべく使って料理を致し、我が前に出せよ。そ
れから亭主の僧を呼び出せよ」と仰せられ、御行水をなされて御櫛を下ろされた。

それから「信勝は若いのだから様を変えなさるのは無用である。短く茶筅に髪先を切りなされ
よ」と、秀吉は仰せになった。すると久太郎殿も「様を変えたい」と申されたが、「ただ髪先
を信勝と同様に御切りなされ」と秀吉は御教訓され、久太郎殿も信勝同様の体と相定め候事。

――『川角太閤記』

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/21(月) 17:53:58.69 ID:+QkshJgz
その御櫛(>>649)を紙に御包ませなさり、3人の御髪を仏前に御納めになられ、その僧に仰せ
出されたことには、

「合戦が利運となったならば、50石の地を末代まで差し遣し申す。多いというなら、すべて
代替わりの時の引出物とするがよい。そのために少し付けて遣そう。御祝いのためだ」

とのことで、金子3枚を遣されたのだと承っているが、かの50石の地は御所様(徳川家康)
の御代でも、今においても差し障りなしと相聞こえ申し候事。

御膳を据えて御盃を信勝(羽柴秀勝)へ御差しになり、仰せになったことには、

「惟任日向守は親の仇、または主の仇のこれ二つなれば、信勝は私めより先に討死なされよ。
その様子を見届けて秀吉は討死すると定めておる」

とのことで、盃を御取り交わしになったとの事である。

――『川角太閤記』


加藤嘉明、時に十三歳

2013年07月15日 19:52

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/15(月) 18:51:44.42 ID:wcFOw4zh
天正三年より、加藤嘉明は近江長浜の羽柴秀吉に仕えた。
秀吉は嘉明を養子の秀勝に近侍させた。時に十三歳。

天正四年、秀吉が播磨を征伐するや、嘉明は主の秀勝に暇を告げずに
おもむいて軍に従った。夫人(政所)は怒って秀吉に、

「孫六は無頼な者です。早くお帰しになってください」と書を送ったが、
秀吉はその盛んで勇ましい志に感心して嘉明を軍中に留めた。

――『加藤嘉明公(家譜)』