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細川政元は飯綱の法を行い

2021年10月12日 15:22

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/11(月) 20:41:39.46 ID:kFj4sQth
植松左衛門尉(資信)が曰く、

「私は乱世に生まれて諸々の道を知らない。しかしながら武士はただ
下手でも文武の道を学んでこれを行おうとして過ぎることはあるまい。

神道仏道は至って善とはいえども、これを行おうとして禍を得る者は
多い。細川政元は飯綱の法を行い、管領の家は断絶したのだ」

――『南海通記老父夜話記)』



88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/11(月) 23:38:24.08 ID:8WidEI55
>>87
なんか前段後段で文意がつながってないような気がする・・・ 

「過ぎることはあるまい」だと「いくらやってもやり過ぎではない」→「どんどんやりなさい」って意味だよね?

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 02:55:09.59 ID:LNSxAag1
>>87
魔法半将軍様の場合飯綱の法を行ったからというより
もっと別の因果からじゃないんですかね…?

90 名前:87[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 08:20:11.90 ID:QEbcGYk+
>>88
史料叢書版の原文は「文武ノ道ヲ学テコレヲ行ントシテハ過アルベカラズ」
武士には文武を学び実践する以上のことはなくて他の道にとらわれると家を滅ぼすってことかと
ちなみに史籍集覧版だと単に「武ノ道」とあって植松は武辺の人だからこっちの方が正しいかもしれない

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 13:21:50.44 ID:2E9AxWS5
過=あやまち

学テ 行ントシテ と動詞には送り仮名付けてる書き方してる以上
送り仮名がない時点で 過 は名詞と解釈するのが自然

92 名前:87[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 20:31:59.24 ID:QskEwL65
>>91
ご指摘ありがとうございますm(_ _)m

93 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/12(火) 21:01:03.28 ID:SVFHvk5E
>>89
南海通記の見解では
飯綱に凝る→男色に耽る→浮気を疑って無実の人間を罰する→そいつに恨まれて殺される
ってことらしい

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 21:53:29.37 ID:LNSxAag1
>>93
あくまで南海通記の見解へのツッコミなんだけど
女人禁制で男色に耽るまでは関連性として判らんでもないけど
そこから先はやっぱこじつけでは…?

そもそも南海通記って香西氏が書いたもので
政元の暗殺って香西元長が首謀者だって言われてるよね
要因を飯綱に求める事で飯綱に凝った政元が殺されるのは仕方ない的な
祖先の所業の正当化のこじつけなんじゃ…?

95 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/13(水) 12:30:19.92 ID:6rFIMn48
香西氏の自己弁護が入ってる可能性や、暗殺が個人的な恨みかは疑わしい点は同意だけど
暗殺を招いた政治的混乱の原因が実子のいないことによる養子の乱立なら、実子がいない原因になった
飯綱の法を根本原因にするのは、全くの無理筋ではないと思えるけども
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わらわが身籠った子が男子なら

2021年10月09日 15:15

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/08(金) 19:54:40.27 ID:C5mbXJku
老人夜話記

四国の老婦たちが口づから語り伝えて曰く「戦国の時に豪傑の家に
生まれては、女子といえどもその志は堅固にして願うところ高し。

三好長慶の母堂は長慶を身籠り給う時に大願を起こし、七夜の月を
待ち、誓いをなして曰く、

『わらわが身籠った子が男子ならば三好七代の天下を持たせてくだ
さり給え。女子ならば、皇后の位に立たせてくださり給え』

と言われ、三好の河瀬に立って水を桶に汲み入れて頭に戴き、月の
出るのを待ち、七夜の月の満ちる時に祈の験あって宿所に帰り給う。

それより月足り日重ねて、男子を産む。これが長慶である。長慶が
成長して天下を手にしたのも、この母堂の祈願によるのである」と
いうことであった。

――『南海通記

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/09(土) 18:45:09.33 ID:Taeh1ZwT
(>>653の逸話に続いて)

またある人は曰く「長慶の母堂は夫の元長戦死の後に憤りを起こし、
『三好七代の天下を知らせてくださり給え』と七夜の月を待ち給う」
と語る者もあった。

いずれにしてもその意は同じことである。三好三代は続けて戦場に
死んだ。婦女といえども、その憤りなくいられるはずもない。

長慶は成長して世の人を超えた気性あり。阿波の辺鄙より出て天下
群将の上に立つことは容易なことではない。母堂の立願が足りたの
だというべきである。

――『南海治乱記』



古の士は弓射ちして矢を作ってこそ

2021年10月08日 17:01

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/07(木) 20:40:00.08 ID:TSXgTVil
ある老父が語って曰く「古の武士は兵具を各々自分の手で作って用いるのを
上士といったのである。我が曾祖は香川郡井原の郷司の漆原という者だった。
寛正の頃であるが将軍家に参勤した。

ある時、細川勝元へ将軍家より征矢を賜る。勝元は拝して自愛深く、漆原を
呼んでこれを見せた。漆原某は曰く『この矢はこの私が作った矢です。どう
いう入れ違いで上覧に入ったのでしょうか』と言った。

勝元がその証拠を問うと、漆原はその矢の沓巻を解いて、矢柄の中から“讃州
井原ノ住漆原”と記された書を出し、また元の如く沓巻して勝元に返進した。

勝元は称美して奇作とし『古の士は弓射ちして矢を作ってこそ、上能の武士
である』と称誉したのだ」ということであった。

――『南海通記老父夜話記)』



その家業を失うべからず

2021年10月01日 17:01

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/30(木) 21:06:20.18 ID:ZsYDNCAX
飯沼五郎兵衛(常政。香西氏の家臣)は代々武勇の家である。また自身も
阿州重清合戦で場中の高名をあらわし三好存保(十河存保)の感状を賜る。

讃州伊勢馬場合戦で予州衆の鉄砲に膝の口を撃たれ、不具の身となり隠士
となった。彼が子弟に教示して曰く、「汝らは必ず主君を求めて奉公せよ。
三代に渡り仕を求めなければ、姓氏を絶やして凡民となるのだぞ」。

実に然り。天正の乱後、家産ある者は田野に交わって身を隠し、蓄積なき
者は主君を求めて四方に走った。君主を頼った者は姓氏を継いで武士とな
り、君主を頼まざる者は姓氏を絶やして凡民となった。

人としては必ず、その家業を失うべからず。

――『南海通記老父夜話記)』



阿州の老父が語って曰く、

2021年09月30日 15:31

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/29(水) 20:55:33.28 ID:bIhkFL35
阿州の老父が語って曰く、

「阿波国は辺鄙の山国であるから、刀脇差といっても世間の結構な拵えのように
は10人に1人もならずして、“山刀”といって椛巻の鞘で葛巻の柄のものを誰も
彼もが差しており、山賤の男どもが用いるに足るようなものだった。故に山中の
凡民までも武用に立たない者は1人もいなかった。

むかし阿州海部の城主、左近将監吉清(友光の子)という人がいた。その武功は
世に隠れなし。自ら刀を作ることを喜んで濃州備州の鍛冶を招き、これらととも
に鉄を鍛え刀を作った。後年は上手になってその作を世に遣り、人に用いられた。

“海部打”は刀が折れず屈せずして、竹木を切るによろしく、また物切れである。

元亀年中に阿讃の内乱があった。(海部氏は)寒川氏を攻めんと讃州に出陣した。
その留守を考えた土佐の元親(長宗我部元親)は阿州へ出陣し、海部城を陥して
南方二郡を奪った。これより食邑を失って、三好家に寄食した。

その以前に元親の弟弥九郎(島親益)が上洛して帰路の時に、海部佐奈の湊に舟
かかりした。すると海部より押し寄せて弥九郎を打ち殺した。

元親はその憤り深く、四国が元親に属する時に殺されんことを恐れて姓名を変え
て行方をくらまし、京家になって蜂須賀阿波守殿に出仕した。元和寛永の打物に
海部左近将監吉辰という者がこれである。

また備中国松山の城主、石川左衛門尉という人も刀を作ることを好み、その作が
世に残っているのだとか」

――『南海通記(老父夜話記)』



639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/30(木) 02:52:10.09 ID:lSVtxilg
鍛治師って火の熱で目がやられて隻眼でタタラで膝関節がやられて足が悪いって聞くけど実際どうなんやろ

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/30(木) 03:57:29.37 ID:kqNBNHgI
映像とか見てて思うけど刀鍛冶ってゴーグルしなくて異物が目に飛び込まんのかな?

予州の老父がまた語って曰く、

2021年09月29日 18:39

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 20:29:50.55 ID:7nwCmArB
予州の老父がまた語って曰く、

「世上の形勢を見るに盛んなる者は衰えて、衰える者はまた盛んとなるものだが、宇都宮
遠江守豊綱(伊予宇都宮氏最後の当主)は備後国で卒去した。

その子の豊治は零落し、その名を恥じて姓氏を変え、萩野与右衛門と称して小早川隆景に
陪従した。秀吉公は九州征伐をなされて、筑後の州半を小早川秀包(毛利秀包)に賜って
久留米の城に居住した。隆景は萩野与右衛門をもって領中の郡代とした。

この時、筑後国坂東寺村に蒲殿(源範頼)の虎月毛という馬がいた。その所以はというと、
むかし肥後国の菊池氏が源家の味方として忠があり、範頼はこれを感じて虎月毛を賜った。
この馬は寿命長くして、菊池家世々を渉って永禄年中においても生存した。

その頃、大友義鎮(宗麟)の武威盛大にして九州に冠たり。菊池氏はこれに服して婚姻の
好を結び自国を保守した。ここにおいて菊池家累世の宝器を出して大友氏に送る。虎月毛
もその一品である。義鎮はこれを受けて筑後国坂東寺村に居させ、田を給し飼口を付けて
これを育てた。その村が秀包の領となったのである。

萩野与右衛門はこの馬の由来を聞いて秀包に告げ、また田を増給してこれを養った。文禄
年中にこの馬は5百歳にして没した。郡中の凡民は葬の行粧をなして、野に出て弔う者は
1千有余人であったということだ」

――『南海通記(老父夜話記)』