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宇喜田騒動とその後の波紋について

2021年04月02日 18:26

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/02(金) 15:27:20.49 ID:I1Do2lfE
その頃(慶長四年冬)、備前中納言殿(宇喜多秀家)の家老、浮田左京亮(坂崎直盛)、戸川肥後守(達安)、
岡越前守(貞綱)、花房志摩守(正成)の四人が、秀家への申し分が出来、この四人の衆、面々屋敷に
居ることは叶いがたしとして、高麗橋東北の角に、浮田左京の屋敷があったが、ここに引き籠もり髪を剃り、
家臣の者共を大阪町家の詰り詰りに遣わして、『屋敷に鉄砲の音が鳴れば、町中所々焼き立てるように。』
と、覚悟を定めていた。

これに対して扱い(調停)人として、大谷形部少輔(吉継)、榊原式部大輔(康政)、津田小平次の三人が
当たったが、式部大輔の扱い様悪しきとして、家康公の御気色を蒙り、関東に追い下された。
一方、大谷刑部少輔、津田小平次はこの時は家臣ではなかったため、御構い無かった。
大谷刑部少輔に対しては、殊の外御懇ろにて、折々に御相談の相手に成っていたのであるが、この頃より
御相談相手とされることは止んだ。彼が後に敵と成ったのも、この時の意趣からであると云われた。

(後の関ヶ原の折)、小山まで浮田左京、戸川肥後守は御供をした。岡越前守、花房志摩守も罷り下りたいと
様々に申し上げていたが、家康公は思召し有りとして、大阪に残し置いた。
そして四奉行が敵と成った時は、両人大和の郡山で、右衛門尉(増田長盛)の元に付け居られた。
これは、元より右衛門尉が家康公と裏で通じ合っていた故(下心能御座候故)である。

慶長年中卜齋記

宇喜田騒動とその後の波紋について



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