337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/16(火) 18:36:12.91 ID:3gjOkIHM
慶長二十年(元和元年)、両公(徳川家康・秀忠)は正月末に御帰府されたが、程なく大阪との
御和睦破れ、同三月、御陣令があり、速やかに出陣すべきとの由にて、四月、諸大名悉く上方へ登り、
両御所も四月末上洛された。
内藤紀伊守が尼崎御番を仰せ付けられ、肥後守(戸川達安)并びに備中組は残らず尼崎加番を仰せ付けられ、
各々そこに詰め番所を構え、往来を改めた。
五月始め、諸勢大和口より押し詰め。国分、道明寺、松坂に陣した。五月六日、両公御出馬され合戦が始まり、
同七日朝五時前注進があった。肥後守はこれを聞くやいなや、尼崎で松平宮内少輔へ見廻りと申し断って、
花房助兵衛(職秀)と申し合わせて天王寺表へ馳せた。
しかしその途中にて早くも阪城に火が掛かり、御勝利となった。
そこで茶臼山の御本陣へ参上し、與庵法印の取次にて家康公に御目見え申し上げた。
肥後守はこの時直に「尼崎の御番を仰せ付けられましたが、御旗本について心もとなく思い、推参
仕りました。」と申し上げると、上意に「何の尼崎」と仰せになられ、御機嫌良かった。
さて、花房助兵衛(この時六十六歳)は駕籠より抱き下ろされて肥後守の側に在った。
「花房助兵衛も参上しています。」と肥後守が披露申し上げると、大御所はご覧になり
「汝、若き時より軍好故、その躰にても出陣、奇特である!」との御意があった。
両人平伏して御前を退くと、助兵衛は肥後守を拝んで
「今、この御言葉を被った事、偏に君のおかげであり、生々世々忘れない。
老後の面目、何事がこれに等しいだろうか!」
そう、大変に喜んだ。
それより大樹公(秀忠)の岳山本陣へ参上し御目見得仕り、尼崎へと帰った。
肥後守の弟である戸川主水は御旗本に在ったが、榊原太郎左衛門佐(後飛騨守)と一緒に大阪城へ乗り込み、
桜の御門まで至った所で、城内に火が満ちて入ること叶わず、この事を中山勘解由に確認してもらい、
後に御旗本御検議の時、中山が証人に立った。
(戸川記)
慶長二十年(元和元年)、両公(徳川家康・秀忠)は正月末に御帰府されたが、程なく大阪との
御和睦破れ、同三月、御陣令があり、速やかに出陣すべきとの由にて、四月、諸大名悉く上方へ登り、
両御所も四月末上洛された。
内藤紀伊守が尼崎御番を仰せ付けられ、肥後守(戸川達安)并びに備中組は残らず尼崎加番を仰せ付けられ、
各々そこに詰め番所を構え、往来を改めた。
五月始め、諸勢大和口より押し詰め。国分、道明寺、松坂に陣した。五月六日、両公御出馬され合戦が始まり、
同七日朝五時前注進があった。肥後守はこれを聞くやいなや、尼崎で松平宮内少輔へ見廻りと申し断って、
花房助兵衛(職秀)と申し合わせて天王寺表へ馳せた。
しかしその途中にて早くも阪城に火が掛かり、御勝利となった。
そこで茶臼山の御本陣へ参上し、與庵法印の取次にて家康公に御目見え申し上げた。
肥後守はこの時直に「尼崎の御番を仰せ付けられましたが、御旗本について心もとなく思い、推参
仕りました。」と申し上げると、上意に「何の尼崎」と仰せになられ、御機嫌良かった。
さて、花房助兵衛(この時六十六歳)は駕籠より抱き下ろされて肥後守の側に在った。
「花房助兵衛も参上しています。」と肥後守が披露申し上げると、大御所はご覧になり
「汝、若き時より軍好故、その躰にても出陣、奇特である!」との御意があった。
両人平伏して御前を退くと、助兵衛は肥後守を拝んで
「今、この御言葉を被った事、偏に君のおかげであり、生々世々忘れない。
老後の面目、何事がこれに等しいだろうか!」
そう、大変に喜んだ。
それより大樹公(秀忠)の岳山本陣へ参上し御目見得仕り、尼崎へと帰った。
肥後守の弟である戸川主水は御旗本に在ったが、榊原太郎左衛門佐(後飛騨守)と一緒に大阪城へ乗り込み、
桜の御門まで至った所で、城内に火が満ちて入ること叶わず、この事を中山勘解由に確認してもらい、
後に御旗本御検議の時、中山が証人に立った。
(戸川記)
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