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皆々家一つで育った片口者なので

2018年11月22日 18:12

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/22(木) 13:45:43.46 ID:kEbWa5TN
皆々家一つで育った片口者なので


若原右京は(池田家臣の)若原勘ヶ由の甥にあたり、関ヶ原の戦で功があった。
段々出世し禄四千石になり、中村主殿と共に国政を執って過分の威勢を持っていた。
国清公(池田輝政)が薨じた後、右京と主殿は奢侈に流れて仕置もよくないと
関東に伝わったので、神君(家康)はとてもお怒りになった。
それにより安藤対馬守(重信)、村越茂助(直吉)両人が上使として姫路に来たる。
時に二(三)月十五日、池田の御一族ならびに老臣物頭どもの列座にて、右京と主殿の
御不審のことなどについて御穿鑿があった。

第一に、右京は四千石の身上で騎馬の士を百人召し抱えているのは甚だ不審である。
第二に、良正院殿は神君の御女であり、その御腹の君達は御孫である。しかし右京は
良正院殿を初め幼君達に対し、無礼過分の振る舞いがあったこと。
第三に、池田の一族、歴代の家老どもを差し置いて、おのれ一人威勢権柄を振るい
諸事ほしいままに執り行ったこと。
この条々について申し分があるかと、村越安藤両人が上意として申し渡した。

右京は承って

「上意の如く心馳せの浪人どもに、後々三左衛門(輝政)直参として召し出されると
 申し聞かせ、優れた百人を自分で召し抱えたことは確かです。これは三左衛門が
 当国を拝領したとき莫大の御恩を忝なく思い、内々思うところがあったのでしょう
 当地は海陸肝要の所でその上関東より御心懸けがある国なので、とりわけ大切だと
 その任に当たるべき者を選ばれ、国法軍法を拙者一人に申し付けられました。しかし
 小身では叶わないからと加増をすると、家老初め譜代の者が恨み憤ることは必至。
 そのため蔵入五万石の地代官に申し付けられ、知行代わりとして心のままに取り
 計らうように命じられたからなのです。浪人どももそのために召し抱えていました」

「第二に、奥方子息などに無礼慮外を仕ったとありますが、これは三左衛門が奥方の
 暮らしが華美に過ぎるときは家の破れる元である、子息の方も同じことだ、左様の
 ことがあれば遠慮なく取り計らうよう、内々に申し付けられたからです。大御所様の
 御姫君、御孫であっても、過分の御振る舞いがあるときは恐れながら諌めましたのは
 確かです。武州(利隆)は別腹の惣領で、左衛門督殿(忠継)は当腹の愛子、その次々の
 子息の方も同じことですが、ややもすれば武州を越えて若輩が奢り、全てのことが
 過分になったときに異見をし、差し止めたので無礼と聞き及びになられたのでしょう。
 不敬と言い立てる程の事柄は、露ばかりもございません」

「第三に、一門家老どもを踏みつけたとのことですが、上意の如く池田出羽(由之)は
 池田の嫡家で一城の主、その他家老どもも多くは城主郡主です。このような一門譜代の
 歴々が国中の仕置などに召し使う才略があれば、それが一番よいことだったのですが
 皆々家一つで育った片口者なので、その任に付けるのは難しかったものですから
 三左衛門の思いのままに、国政軍法を某に申し付けられましたのは周知のことです。
 これについては何の子細もございません」

と申したところ、丹羽山城入道(右京の親戚)が末座より進み出て
「上使の御前にて高声無礼である」
と叱ると、右京は(丹羽の)眼を見て
「なんだ徳入、無礼とは何事か。亡き殿が御在世のときに我に対して、左様のことを
 言い張るべきなのに、今更出てきて我を折檻する方が無礼だ」
と言ったので、丹羽は言葉もなく引き下がった。

右京の申し開きは悉く立ったが、国政に相応しい者ではないと、将軍家は播州から
右京を御改易にし、主殿も同罪になったという。


――『池田家履歴略記』

右京が改易になったせいで、加増や召し抱えが反故になった士も多かったとか。


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池田家臣伊木豊後と若原右京の衝突(未遂)事件

2017年01月16日 10:23

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 17:52:22.35 ID:ryfezp7n
池田家臣伊木豊後と若原右京の衝突(未遂)事件


ある時、伊木豊後(忠次)と若原右京には確執があった。
豊後は第一の寵臣で播州三木の城主であり、若原右京は中村主殿と同じく
領国の仕置を掌っており、その威勢は肩を並べる者はいなかった。
豊後は右京と常に不和だったので、双方の家臣も不通であり
互いに己の主の権勢を恃みにし、何事も負けないと争い合っていた。

右京が姫路に登城しようとして、大手(正門)で馬から降り歩いていると
豊後の鑓持ちの男が両足を投げ出して、打ち仰いで髭を抜いていた。
右京が前に来ても両足を引こうともせず、人がいないような態度でいたので
右京は怒り刀を抜いて、そのままその男の両足を切り落とした。

(右京は)登城せず急ぎ馬に乗って引き返し、己の屋敷に馳せ帰ると
「豊後が程なくして寄せ来るだろうから、その用意をしろ」
と言い、与力の士五十騎、足軽二百人に自分の人数を加えて
屋敷の四方に隙間なく配置し、鉄砲兵はみな屋根に上げて
自らも六文目の鉄砲を持って書院の棟に打ち跨り
豊後が来たら討ち取ってやると待ち構えた。

豊後も右京の大手での振る舞いを聞き、同様に下城して人数を揃えて
右京の屋敷に押し寄せようと鬩いでいたところ、国清公(輝政)の耳にも入り
(輝政は)急ぎ使者を以って先に豊後を呼ばれ
「右京の所業で、そのほうが立腹するのは尤もなことだが
 今押し寄せて攻めるのは、我に免じて堪忍してくれ
 そのほうが遺恨のないように(右京に)申し付けろ」
と仰せられ無理に留め置いたところで、右京を呼ばれた。

右京も豊後が静まったのを聞いて登城したが、(輝政は)右京が普段から
豊後に対し過ぎた振る舞いをしていることを(豊後から)聞いたために
「今日の粗忽は言語道断である。当家にいることは叶わないだろう。
 どこへなりとも立ち退くように」
と仰せられたのですぐに退出しようとしたが
これを聞いた豊後が御前に出てきて
「只今の指図は忝ない仕合わせに存じますが、右京に暇を与えるのは
 私の本意ではありません。右京のような者と権威を争ったと
 他家の人が評論することになるのは恥ずかしく、当惑しています。
 是非とも右京を召し返して下さい」
と申し上げたので、公もお許しになり急ぎ召し返された。

右京は何事だろうと再出し、御前近くに呼ばれこのことを聞いたので
このときから右京は豊後に心服し、懇ろに会釈などをするようになった。
この豊後は東照神君(家康)も懇ろにお会いする者だったので
この頃の勢いは申すに及ばず、姫路では平時の供廻りが三百人いた。
時々摂州(摂津)にも踏み込み、鷹狩りなどをしたのに咎める者がいなかったとか。
その他の事跡については推して知るべし。


――『池田家履歴略記』

あわや大惨事……。