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景勝譜代の主にて候間、御免下され

2021年09月22日 17:26

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/22(水) 16:32:06.60 ID:ENFxkodI
上杉景勝の家において、荻田主馬(長繁)が武者奉行であった。
荻田が上杉家を立ち退いて(豊臣秀吉が上杉景勝の屋敷に御成になった時、秀吉に白湯を献ずる
役目を仰せつかった荻田の嫡男がその碗を落としてしまい「豊臣の天下に水(湯)を差した」と批判され、
激怒した景勝により父子共追放された)以降、蓼沼日向守(友重)、三股九兵衛が武者奉行と
なった。何れも大剛の覚えの侍であった、

そんな彼らに対して、越前黄門(結城)秀康卿より様々に接触が有り、蓼沼日向守に対しても
三股九兵衛に対しても、一万五千石宛にて自分に仕えるよう御呼ばれたのであるが、

「景勝譜代の主にて候間、御免下され」

として参らなかった。この二人について秀康卿は、大御所様(家康)より能く聞き召されて
いたのだという。

杉原彦左衛門覚書条々



566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/22(水) 21:54:19.20 ID:L9m3N/kA
大胆と言えば大胆かも知れないが
主君の景勝の頭越しに直接大領やるからうちに来いよとか
些か無礼に過ぎる話なんじゃないか…?
蓼沼三股両名の忠義の良い話かも知れんが
秀康の悪い話でもあるような…
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荻田主馬の待遇

2021年06月06日 17:44

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/06(日) 14:57:38.93 ID:hS/VC2gz
荻田主馬(長繁)は、童名孫十郎といい、上杉謙信の小姓であった。後に與騒兵衛と言った。
上杉景勝の代に、旗本の武者奉行となったが、文禄の頃、景勝への不足を言って立ち退き、
後に結城宰相秀康卿に召し出され、その後越前に御供して参った。

この主馬の事を。古い傍輩の筋目である故に、城和泉守(昌茂)が駿府に於いて徳川家康に対し、
その待遇について様々に執り成しを申し上げた。大御所(家康)はお聞きに成ると、

「その方の親の意庵(城景茂)は越後に居たが、その方は甲州にて生まれ、それで上杉家中のことを
どうして知っているだろうか。途方も無いことを申している。
総じて武辺のことは、その家に居て、見聞きした人の言うことが実である。
他国に伝わった評判、又伝、又話では、疑うべき事である。」

そう言ってお叱りに成られた。
その座に畠山入庵(義春)、その子伊勢守(畠山義真)が居たため、上意に
「荻田のことは入庵は存じているであろう。語り申すように。」と仰せに成られた。
入庵は承り

「荻田は、我が組に罷り在りました。彼が孫十郎と申していた時、越中の陣にて、敵味方が
堤・土手を挟んで睨み合っていた時、孫十郎は一番に走り出て、槍を打ち込み、合戦を始めた
手柄が在りました。また三郎景虎と景勝が戦った時(御館の乱)、北条丹後守に槍を付けた事と、
この二度の武辺がありました。その他の武功は、それぞれの合戦で少しずつの事です。」

と、憚り無く申し上げた所、大御所は

「さてこそ、和泉の申し分とはうらはらに違っている。ではあるが、景勝家にて口をも聞くほどの
者であったというのに、越前に於いてそのように小身では、人材を粗末にしてしまう事となるのに、
越前の息子は合点の行かぬ者である。」

との御意故、その後荻田主馬を越前に於いて、一万石に成されたという。

(信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記)



252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/06(日) 23:30:21.40 ID:2BcYQFS/
上杉家中の切り崩し