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これは正利が天性勇猛で物に動じることが無かったため

2020年01月17日 15:08

菅正利   
533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 11:47:44.41 ID:goDK3ZeI
寛永六年、菅正利五十九歳、六月の初めより傷暑を病み、二十九日、家にて没した。博多聖福寺の内、
順心院に葬られた。

正利は天性、勇猛人に超えていた事は今まで記していたため、更に記するには及ばないが、
黒田長政公は豊前、筑前に於いて罪過有ることで誅殺される者がある時は、諸士に命じて見逢いに
斬り殺させた。長政公の側近くに呼ばれ、その事を命じられた時、命を聞き終わって退出する姿を
次の間に在る諸士は、その様子を見て、彼が仕者を命ぜられたのだと察したという。
ところが正利の時のみ、人々はそれを察することが出来なかった。これは正利が天性勇猛で、
物に動じることが無かったためである。

また正利は新免無二助(宮本武蔵の父・新免無二の事か)に剣術を習い、その後疋田豊五郎(景兼)にも
学び、二つの流儀に達して奥義を極め知っていた。
長政公が筑前に入国された後、何国の者であったか、剣術の名人であると言って、長政公に仕えることを
求めて来た者があった。この時長政公は正利に命じ、福岡城の本丸に於いて木刀にて仕合をさせられた所、
三度打って三度共に正利が勝ち、剣術者は恥ずかしく思ったのか、いつともなく逐電したという。

正利は身の丈六尺二寸(約190センチ)有り、力も群を抜いていていた。天性勇猛なだけでなく、仁愛の心深く
忠義の志浅からず、智恵才力も人に超えていたという。

(菅氏世譜)

かなり有名な兵法家に教えを受けていた菅正利さん。



534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 11:54:03.34 ID:YRUINvko
平均身長155も無いのに190の怪力手練が殺意を持って殺到してくる恐怖

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 16:16:52.85 ID:MxJGeR6p
江戸時代に急激に縮んだのさ、知らんけど

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/19(日) 02:56:27.71 ID:Ssi+Cz09
>>533
さすがSAKONを打ち取っただけありますね
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百道松原

2020年01月16日 17:44

菅正利   
530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/16(木) 02:28:32.15 ID:bRzsaQCE
元和四年正月二十五日、黒田長政公は命を下され、福岡の城下、荒戸西の町外れより早良川の遠干潟までの
間広き砂原があり、無用の地であれば松を植えて松原にすべしとて、その事を計り実行させた。
この事業について菅正利が惣司となり、宮崎織部、手塚久左衛門も正利に加えてその事を成さしめた。

博多、福岡、姪浜の町中に命じて、家一軒に付き高さ四、五尺程の松一本を提出させ、これを植えた。
年を経て徐々に成長し、十年後には広い松原となった。その後いよいよ成長し、後には、古より事ふりたる
生の松原にも勝り、名にし負う箱崎の千代松原に等しき地となった。

(菅氏世譜)

福岡の百道松原造成のお話。なおこの松原は戦後切り開かれ宅地として造成された。



531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/16(木) 21:54:17.07 ID:rEEY05pW
松根油にされて特攻に行ったんだな。この松の木も、

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 23:49:01.34 ID:B84WcHgd
>>531
ネタだと思うけれど松根油なんて使われてないぞ~~

ただ士の成しおくべき物は武功である

2020年01月14日 17:16

菅正利   
516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 12:14:17.26 ID:2Ea+Petg
慶長二年、豊臣秀吉公は重ねて兵を遣わし朝鮮を征し給った。菅正利(三十一歳)も又、黒田長政公の供をして
先手を勤めた。

秋の頃、大明の大軍が忠清道の内、禝山に在ることが聞こえたため、これを討たんとして九月七日、長政公は
毛利秀元と共にその勢三万余騎にて馳せ向かわれた。長政公は先手であった。
その後、長政公の勢は大明の大将・解生、楊登山、牛伯英、等と戦い、大勢を追い崩した。しかしこの時、
千総、李益、喬把、劉遇節などと云う者たちが大軍を率い、黒煙を立てて救援に来た。
解生はこれに力を得て取って返し戦った。長政公の諸勢もまた勇み進んで攻め戦うと、大明勢の勢いも一時に屈し、
さっと引き取って息をついでいた。

ここに、大明勢の大将と見える者が、西の山の高い場所に兵が多く集まって在るのを長政公が見られ、
「あれこそ大明の陣である!自余の敵どもを多く討つより大将を討ち取るべし!続けや兵ども!」と下知して
旗本をそこに定め置き、井上九郎右衛門(之房)、栗山四郎右衛門(利安)を残して敵が来た場合の防ぎに
備え、自らは手勢の内で一騎当千と思われた人々を選んで召し、供をさせた。その人々は、黒田三左衛門、
後藤又兵衛、野村市右衛門、菅六之助(正利)、林太郎右衛門、堀久七、野口藤九郎、益田与助、等であった。

長政公は彼らを引き連れ真っ先に進まれたため、菅正利を初めとして後に続く兵たちは、我劣らじと敵陣へ
駆け入り、即時に敵の大勢を切り崩して二里ばかり追討ちした。この時、敵勢の中より一騎踏み留まり、
弓馬の達者と見えて、馬を留めて寄り来る者共を射ると、あだ矢は一つも無かった。彼に向かっていった
者は、或いは射殺され、或いは深手を負ったため、味方に手負い、死人多く出た。このようであったので
我討ち取らんと進む者も無く、長政公はこの様子を見て「正利は近くに居らぬか!?」り尋ねられた。

菅正利は丁度敵を討って、首級を大将に御目にかけんと持って帰っていた所であった。
急いで進み出ると長政公は正利に向けて
「汝、行き向かい、あの敵を討ち取れ。」と命ぜられた。

正利は命に従い速やかに馬に打ち乗り馳せ向かった。かの敵は正利が向かってくるのを見て弓を引き堅め
射った矢は正利の右の耳を射切ったが、深手では無かったため事ともせず、二の矢を継がせないと逸足を
出して駆け付け、乗り違えざまに一太刀切ると、刀能く切れ首脇より乳の下にかけて切り落とし、首を取って
馳帰り、長政公の実検に備えると、「武運強き者には矢もたたぬものなのだな。」と雑談され、その武勇を
殊の外感じられた。

ところが、唐人の射る矢には、附子という毒をつけて射る故に、先に受けた矢の射切られた所が、当初は何とも
無かったのだが、次第に毒気が皮膚の内に深く入ったのか、後には右の耳の色赤くなり、常に膿、血が出て止まらず、
これ故に顔色もすべて恐ろしく厳しいものとなった。後には小児が泣く時に、正利の名を言って脅すと泣き止む、
などと言われた。かのもろこしの張遼が、小児が泣くのを止めたという故事もかくやと思い知らされる。

さて、このように菅正利は顔より常に膿汁が出て見苦しいものであったが、黒田如水公、長政公は少しもきたなく
思われず、正利が飲んだ盃を取って呑み、濃茶の跡をも召し上がられ、年若き家臣共に常に正利の武勇を語り
聞かせられ、「きたなくとも、あれにあやかれ。」と宣われた。

正利はこれを有難きことに思い、常に子供に対してこのように語り聞かせた。
「私の勇功によらなければどうしてこのように忝き御意に預かれるだろうか。ただ士の成しおくべき物は
武功である。」

(菅氏世譜)

大谷吉継の逸話みたいな話が、菅正利にもあるのですね。



517 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/14(火) 12:43:44.90 ID:a0wdp0Jx
附子の毒とは武士にあるまじき行為、無粋な奴らよ

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 13:37:20.44 ID:oH277gGr
膿と茶の話はもともとは利休だっけ?紹鴎だっけ?の弟子の話が元ネタだっけ

毒矢に関しては国によって戦い方が違うだけだからなんとも
日本も矢じりわざとゆるくとりつけて射られた敵の傷口に残るようにして苦しめてた、みたいな話もあるし

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 14:41:41.91 ID:qiXWHE6+
>>518
利休のやつは三成の三献茶の元ネタじゃ無かったかな?
吉継の茶の話はたしか未だに出典不明のはず。真面目にこれが元ネタじゃ
無いだろうか。

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 22:14:10.14 ID:+ig0gkR5
矢じりをゆるくつけると
二重の極み理論で貫通力がUPするらしい
https://i.imgur.com/gEfaFxQ.jpg
gEfaFxQ.jpg

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 22:18:34.48 ID:bO8Xz5cn
>>516
>ところが、唐人の射る矢には、附子という毒をつけて射る故に、

一休さん「附子茶(゚д゚)ウマー」

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 22:42:24.02 ID:dUCx40Wo
まとめの1963
「武田のゆる鏃」と家康・悪い話

まとめな5892
鏃の詰め方

武田の緩い鏃は非人道的だと家康激怒

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 00:15:15.78 ID:riOsz2RF
>>520
三献茶とごっちゃになってました、ご指摘ありがとうございます

にしてもほんとにこの手のお話は有名武将に話入れ替えられるのが多いですなー
江戸時代辺りに話から武将だけ入れ替えるって手法が多かったんですかね

525 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/15(水) 07:36:38.09 ID:A9SObay3
>>518
>>517は本気で異国の戦法を云々ではなく、ちょっと韻を踏んで頂けたら…

『斃秦』

2020年01月13日 16:31

菅正利   
507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 13:49:21.83 ID:FG5Q7KtQ
文禄三年、朝鮮在陣の日本勢の内、諸城警衛の兵の外は、和議が既に調ったため無用であるとして、
悉く日本へ帰国したが、黒田長政公は機張の城を守って居られたので未だ帰国されなかった。
しかし大明との和議が調った後であり、敵も皆退散したため合戦も無く、いたずらに異国に逗留し、
つれづれの余りに、時々勇士共を引き連れ山に入り虎狩りをされた。

二月十三日、長政公はまた山に入って虎を狩られた。この時長政公、鉄砲に寄って駆け来る虎を間近く寄って
撃ち殺された。その後、猛き虎が一つ駆けてくるのを、長政公がまた鉄砲を構えられた所に、虎は脇に人が
いるのを見つけると、長政公の方へは行かず、菅正利与力の足軽が並び居る所に駆けてきて、一人の肩を咥え
後ろに投げ、一人をその腕を喰らって倒した。これを見る者で恐怖しないという者は居なかった。

この時菅正利は朱塗りの鎧を着ていたため、人多き中にも著しく見えたのだろう、虎は正利をめがけて懸ってきた。
しかし正利(当時二十八歳)はこれを見ても少しも騒がず、刀を抜いて進み、駆け寄る虎を一刀、斬った。
刀能く切れ、虎は一声吼えて即時に倒れようとした所を、また一刀斬って首を打ち落とした。
この時正利の稀代の勇と、その刀の利が無ければ、虎口の害を免れ得なかったであろう。

この刀は備前吉次の作にて長さ二尺三寸一分あり、現在でも相伝わり菅の家にある。
その後、大徳寺の僧・春屋にこの刀の銘を乞うた所、『斃秦』と名付け、今その刀の中子にその刻がある。
秦は虎狼の国と言われるため、「虎を斃す」という心なのだという。

また後に林道春に銘と名を乞うた所、普の周処が南山の虎を斬ったという故事を取り、その刀を『南山』と名付け、
その事を記し銘を書いて与えた。

誠に世には、自分と変わらない敵に向かってさえ恐れて進み得ず逃げ去る者も多く、いわんや怒れる虎は
その猛き事類なく、古よりの口ずさみにも、恐ろしいことを言うのに先ず虎をこそその第一とする。
これに向かい勇み懸って、あまつさえ短刀にてこれを斬り殺すこと、類なき武勇ではないか。
もろこしと言えどもそのためし少なく、いわんや日本には前代にも既に無く、後世にも有りがたるべし。

(菅氏世譜)

虎も斃したら首を打ち落としていたのか。



508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 14:40:18.90 ID:dXipE+7V
周処は曹休を罠に嵌めて石亭の戦いで破ったので有名な呉の周魴の息子だから普じゃなくて晋
(周処の墓からアルミニウムが見つかった!と大騒ぎされたが
発掘の途中で紛れ込んだだけ、という話もあった)

三国志演義といえば菅正利の中国語wiki
https://zh.m.wikipedia.org/wiki/菅正利
戦争で顔に傷を負ってなく子を黙らせるのに使われたことから
「日本之張遼」扱いされちゃってる
張遼の息子は虎なのに

509 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/13(月) 16:21:17.88 ID:PjOK7w71
日本や中国も昔は人攫い(を妖怪に喩えたりして)が来るぞって言って泣く子を泣き止ませたとか聞いたことあるけど、謙信または越後軍が来るぞっつったら同義になったんだろうか?

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 17:40:39.44 ID:5XRBh6Zd
2箇所に銘を頼んでるのが合見積みたいだ
南山より斃秦のほうがオリジナリティあるな

終いには頭のてっぺんを削ることになるぞ?

2015年08月11日 14:12

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/11(火) 10:25:51.50 ID:8wQ5baPO
後藤又兵衛基次は黒田如水の家臣であった。

天正15年(1587)、黒田長政が大将となり、後藤又兵衛など大剛の者大勢を動員し、城井谷城の
城井鎮房を攻めたが大敗北を喫し、撤退時に長政は、馬が深田に嵌り込んでしまい動けなくなった。
ここに菅六之助(正利)という大剛の者走りきて

「西国一の名馬であっても、殿の御命に代える事は出来ません!」と長政を馬から下ろし
「早々に退いて下さい。この馬は私が引き上げて後から参ります!」
そう言って自分の馬に長政を乗せ、菅は後に残って馬を何とか引き上げようとしたが上手く行かず、
片鐙を外して持ち帰った。この菅六之助の行為に人々はみな感じ入った。

ちなみに長政が馬を深田に嵌まり込ませた時、最初に通りかかった後藤又兵衛に声をかけたが、
又兵衛は知らぬ顔で通り過ぎた。

さて、この戦では如水の下知を用いずに敗軍したため、物頭などは恐れて寺に入り、或いは元結を切り落として
出仕を止め引き篭もったが、後藤又兵衛一人は常のごとく出仕のため登城した。

そこで人々が又兵衛に「じ、如水公の御機嫌はいかがだろか!?」と心配したが、又兵衛は大いに笑い

「主君の怒りを恐れて引きこもるような者は忠臣ではない!殊に戦の習い、勝つも負けるも常のことなのだから、
その度に髻を切るのなら、終いには頭のてっぺんを削ることになるぞ?さてもさても小気な事だ。
我らが主人は、そのような小気ではないぞ。」

そういって出仕した所、如水の機嫌も治った。これを見て長政初め皆々も如水の前に出仕した。

(明良洪範)




170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/11(火) 10:47:26.97 ID:SpSvfI1H
このあと又兵衛は死にかけるのか

にしても相変わらず長政には素っ気ないなあ

合渡川合戦の黒田長政

2013年06月09日 18:53

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/09(日) 01:07:31.99 ID:qmUPC9jE
慶長5年(1600)関ヶ原の役が進行する中、8月23日、内府(家康)方諸将は岐阜城を攻めた。

しかし、この時黒田長政は城攻めには構わず、合渡川の方に向い、石田、島津などの軍が、岐阜城を救援する後詰として
出撃しているのを見て、諸軍に先立って合渡川を渡り、石田方の兵を追い散らしに懸った。

黒田家中では神吉小助が真っ先に進んで敵陣に駆け入り、その後ろに続くのが菅正利、平松金十郎(後に村山角左衛門)、
海津市左衛門らが、みな命を惜しまずひとかたまりに攻め懸った。
敵陣より来る鉄砲は雨のごとしであったが、これをも恐れず、「鉄砲に怯むな!」と互いに声をかけ合い進んだ。

この後ろから松浦八左衛門が騎馬でやってきたが、やがて後ろに引き返していった。
菅正利はこれを見ると引き下がっていく松浦八左衛門に向かって

「鉄砲を恐れたか!?汚し、戻ってこい!そうでなければ武士を辞めよ!」

と怒鳴りつけていると、また後ろから一騎進んできた。これをよく見ると、なんと黒田長政ではないか。
大将自ら、また最前線に進んできたのだ。
松浦八左衛門もその後から進んできた。彼は長政のお伴をするために一旦引き返したのである。

敵からの鉄砲は激しくなる一方で、菅正利を始めとした騎馬の者達は長政の矢面に乗りふさがり、
勇み進んで敵陣へ乗り入れた。
長政が進むのを見て、黒田家の家人たちも後から続いた。

この日の合戦で神吉小助が負傷した後に、一番に進んだのは菅正利であった。
その後から平松金十郎、海津市左衛門なども続けて進み、正利を始めとして何れも粉骨の働きをなし多くの敵を追い散らし、
高名を成したのである。
(菅氏世譜)

合渡川合戦でも最前線に突き進んでいた黒田長政公であった。




800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/09(日) 08:38:20.20 ID:kUj/bC3P
前半はまとめにあるな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4427.html

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/09(日) 19:24:19.88 ID:7Pka2Axt
大将が最前線にいる意味がわからん。
又兵衛の呆れ顔が目に浮かぶ

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/09(日) 22:25:15.14 ID:icJsmgm2
工場長が何か言いたげです

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 00:18:43.89 ID:hTRVJ6RE
信長「待ってろ光秀!今助けるぞ!」
義光「反撃開始!上杉を追撃だ!」
秀秋「今だ!明の奴らを蹴散らせ!」
元繁「それ崩れたぞ!元就覚悟!」

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 08:14:28.83 ID:SQXMZ9Tm
一番下の人はちょっと落ち着いたほうが良かった。つーか、他3人に比べてマイナー

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 11:28:19.44 ID:Q/GyJD7k
古参連中には親父と比べられちまうから不運だったのかね
それとも単に性格の不一致だっただけかね

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 17:39:59.91 ID:L6BHVRIx
>803、志村さんどこー!止めて!

菅正利、平安川の戦い

2013年06月06日 19:51

菅正利   
402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 22:26:54.06 ID:CPdK6HUg
文禄元年(1592)、豊臣秀吉は兵を発して朝鮮を征伐した。
このとき黒田長政もその軍勢の先手三大将の一員であり、長政の家臣である
菅正利(当時26歳・後に黒田二十四騎の一人)も長政に従って朝鮮へと赴いた。

これ以前に菅正利は知行200石を給わっており、足軽10人を預けられていたため、今度の軍行では先手を
勤めた。

この年の6月14日、黒田長政の軍勢が朝鮮人と、平安川において激戦となった。
菅正利も命を惜しまず真っ先に進んで励み、戦ったが、川岸の上で敵と暫く組み合い、ついに組み伏せ
止めを刺そうとしている所に、別の敵が駆け寄ってきて上の正利に飛びつき、引き退けようとした。

正利は下の敵を押さえながら上の敵と取組んだが、そのうちに3人とも川の中に落ちてしまった。

川に流されている中、正利は下の敵の上に乗り、もう一人の敵と組み合い戦い続ける。
そうしてどんどん川下へと流れていく中、味方の兵が正利の鳥の丸の指物を見つけ

「六ノ介(正利)かー!?」

と、川に向かって声をかけた。

やがて少し岸際に流れ寄った所を、正利の下人が川下から川に入り彼を引き上げたのだが、
敵と3人、組み合いながら陸へと上がってきた。まだやってたのだ。

敵の内一人は前に傷を負っており、水に入ってすっかり弱っていたのだが、
もう一人は大兵で大変力の強かったので、陸に上がって正利を組み伏せようとした。
しかし正利は咄嗟に脇差を抜いて敵の脇をしたたかに突き通した。
これで敵がようやくに弱った所を、正利は彼の首を取り、もう一人の弱った敵の首も取った。

この働きを黒田長政はよく見られており、後に褒美を与えられた。
(菅氏世譜)




403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 23:00:49.70 ID:zCmh6slc
二対一でも虎殺し相手には役不足だったか

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 23:10:27.14 ID:MTdHQHeE
川の中で敵と格闘していて指物がどーのこーの
NGMSにも同じ話があったな、と思って調べたら菅さんの話自体既出だった
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5572.html
ドキッ☆KURODAだらけの水泳大会(首ポロリもあるよ)!

しかし、NGMSの時は助けなかったのに、こっちは引っ張りあげたんだな

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 23:21:06.70 ID:kVGk6KDr
川から引き上げても三人取っ組み合い状態って、どんな修羅場だ

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/06(木) 08:19:29.29 ID:F93NLtNY
最後には三人が渾然一体となった、妖気漂う濃厚なバターが

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/06(木) 09:56:38.69 ID:gUMHqu1a
如水さんが美味しいパンケーキを作ってくれるんですね