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森川出羽守の殉死

2015年09月11日 18:00

302 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/09/11(金) 09:37:28.50 ID:K6Lsh9cn
森川重俊は大相国家(徳川秀忠)にお仕えし、並びのないほど懇意にされて、ついに執政(老中)に任ぜられた。(秀忠が)西城に移られた時も従い、御書院の番頭を兼ねた。
寛永九年正月二十四日、大相国家がお亡くなりになられた夜に、宿所に帰って一門の人々を集め、夜通し暇乞いをして、暁に腹を切って殉死した。年四十九歳という。

世の伝えるところに、大相国家の世継ぎの君が未だ決まっていない時に、奥方様が、国松殿を御寵愛されることが深かったので、この出羽守(重俊)等をはじめとして、天下をこの君が統治なされるのだろうと思い、
竹千代殿にいつも参上する事をおろそかにしていたら、大相国家がお亡くなりになられ、(秀光が)将軍の御代になったので、きっと罪を蒙るだろうと思い、将来のことを考えて殉死したということだ。

案ずるに、出羽守の甥に森川若狭というものがおり、童の時天下無双の容色であった。大御所の御外孫の、蒲生下野守(忠郷)殿の御寵愛が深く所領をあまた下さり、彼の家で当時その権勢に肩を並べる人はいなかった。
しかし、下野守殿は御年二十五歳で、寛永四年正月四日にお亡くなりになられた。
このころのならわしで、色で寵を受けた者は、必ずその君のために殉死しなければならないという事であった。その家は言うに及ばず、天下の人々は、下野守殿にお供して死ぬものは、この森川に違いないと思った。

若狭の母は、若狭を諫めて、

「おまえさまは下野守殿にお供して死のうと思っているのか。未だ盛りにもなっていない身体で先立って、母はどうしてこの世に生きながらえるだろうか。たとえおまえが死んだとて、下野守殿を生きかえられるわけでもない。
そうであるので心ある人は、殉死とやらのいうことはよからぬ事と言っているが、近頃のならわしなので、世の人々も無駄に命を捨てている。
実の道でもない死で、母も共に失うことは、忠にも考にも恥じる事なので、決してお供しようと思うな。
母の縁の者が都には多い。どうにかして、ここを忍び出て上ってください。またおまえが一生を送り過ごせる程に、年頃賜った唐や大和の宝物は多い。金銀も少なくない。
おまえが出て行った後のことは、私がうまく計りましょう。さあ、早く忍び出てください。」

と言われると、供を少々引き連れて、奥州の会津を夜に紛れて忍び出て、東海道に差し掛かり都に上った。

若狭の一族で北川、土佐といわれたものは、蒲生家で有名な剛の者で特に家の長老であった。

「不思議だ。若狭ははやく腹を切るべき身である。どうしてこんなに遅いのだ。」

と一日二日待ったが、そういった事が聞こえないので、最期を催促したが、はじめは母が計って、若狭が答えたようにしてなんとか答えていたが、後に逃げ出たことが発覚した。
北川は大いに驚いて、手の者どもに言いつけて、急いで追いかけて(若狭を)絡め取ってこいと下知して、江戸へも飛脚を走らせて、このことを出羽守に告げた。

303 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/09/11(金) 09:37:54.61 ID:K6Lsh9cn
出羽守は以ての外なことに激怒して、家子郎従一人も残らず、東海道を指して追いかけて打ちとれと下知したので、弓よ鉄砲よとひしめき、鞭をあてるのに合わせて鐙をあおって追いかけた。
追手の軍勢が箱根の関に着いたとき、関守たちは固く止めて一人も通さなかった。

出羽守の一族人々は集まって、
「おまえさまは現在執政であり、世に騒ぎを起こしなさることはするべきではありません。事はすでにこのようである。世に知れ渡ったうえに、彼を討っても、一族の恥は免れることでもない。罪を作ることは捨て置いてください。」
というので、追手の軍勢も箱根より引き返した。

どんな時代にもあることで、当時権勢のある人には、上には従うように見えるけれども、下には嫉み謗るは、よくない人の習慣であり、天下の人々は、親しい仲間同士で集まると、
「出羽守は日ごろ、自分が将軍からの覚えがいいことのありがたさから、君に御大事があったときは、真っ先に死んで恩に報い奉ろうと思っている様子だが、親しい甥にあのような大臆病な人もいた。
それの伯父である、実際のところ疑わしいなあ。」

などと嘲り笑うことが聞こえてくるので、出羽守はいよいよ口惜しいと思っていた。

ほどなく大相国家がお亡くなりになられて、お供する人もなく、(重俊は)深く御恩を感じる事が多かったので、あのように殉死したのだと思われる。
このときもまた、お供すべき人だなどと言われていたがそうすることもなく世にいた者を、出羽守の事を例に出して謗る人々がいた。
謗られた人々のうちに、出羽守が死んだのを嫉ましく思うものもいて、こんなよからぬように言い立てた。

また、どうしたことか、大相国家に親しく召し使われた人々に、(秀忠が)お亡くなりになられた後、どういうわけか、将軍のお覚えがよくない者も多かったので、このように言われたのも無理はない。
かれこれ、もっぱら出羽守の不幸と言うべきである。このような内々の事は、世に知る人が今はいないので、出羽守の志の程が空しくなるのも哀れなので、事が長くなったけれどもここに記しておいた。

かの若狭は、後に京に住んで商人のようになって、笹屋宗句といって寛文の頃まで永らえていた。その後は、どうであるか詳しくは知らない。

(藩翰譜)

これまで逸話のなかった森川さんところの話
後味の悪い話にのりそうな出来事ですね



304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/11(金) 12:04:03.44 ID:yMh8rwxj
森川家が生実に根付いたのは重俊が殉死したおかげなんかね
てか、老中若年寄の家が万石止まりなんか
ご近所の佐倉とはえらい違うな

368 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/09/29(火) 00:27:39.10 ID:pXOpUCxJ
>>303
森川若狭は殉死してる、ってことになってるはずなんだけどなぁ…

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/29(火) 15:42:04.71 ID:LyqsFZYw
>>368
殉死した若狭って秀行の時でしょ?
しかも近江以来の家だから別人では
供をしろと新藤五国光を渡された半弥が逃げた若狭になるのかな?
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使いの不首尾も

2014年11月16日 17:28

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:27:01.02 ID:9qNWEAcA
土井大炊頭利勝殿へ、蒲生下野守殿(忠郷)より子細あって安達内匠という者が
使いに遣わされた。大炊頭殿がお会いになって用事を申されたところ、

内匠は暫く黙して手を突いていたので、大炊頭殿は「腹痛などではないだろうか」
と案じなさった。すると、内匠は「口上を忘却いたしましので、恐れ入りますが、
御次の間で思案いたして申し上げたいのです」との旨を述べたため、

大炊頭殿は「それならばゆるゆると思案しなさい」と申された。やや暫くして、
内匠は御目にかかり、口上の首尾を案じ出して申し上げたということである。

大炊頭殿は「人多しといえども内匠の如き使いはおるまい。ひたすら当座の首尾に
合わせてしまって、忘れたことも押し隠すものである。嘘偽りの無いことだ」と、
甚だ感心なさり、

下野侯に「褒美なさいませ」と申されたということである。大炊頭殿の寛仁により、
使いの不首尾もよく取り成して申されたことは、有り難きことである。

――『責而者草(三河の物語)』




それは、伊達政宗が江戸参勤のときいつもいつも

2013年10月13日 19:07

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/13(日) 13:26:53.64 ID:R4JTkaBC
蒲生忠郷は、ある不快な問題に頭を悩ませていた。
それは、伊達政宗が江戸参勤のときいつもいつも城下に本陣を
置くことであった。

時に、その忠郷には蒲生源左衛門という家来がいた。
源左衛門、その主君の不平を聞いて「次に来たら私にお任せください。
二度とそういうマネはさせんようにします」と政宗を待ち構える。

はたして政宗はやってきて、またしても忠郷の城下にて本陣を置いた。
源左衛門、それを聞くやすかさず本陣宿屋に直行、宿屋の主人が
制止も「本人が来たら退くから心配するな」と一蹴し、ズカズカと
着座の間まで突入した。

やがて到着した政宗が部屋に入ってみたものは、床を枕にして堂々と
空鼾をかいて寝そべる大男の姿。
思わず「お前誰だ!」と聞いた政宗の前に、悠々と起き上がるや
「蒲生源左衛門と申します。鷹野の帰りで疲れたもんでここで休んで
いました。いやぁここが御本陣とも知らずに無礼仕りました」
と畏まって見せる源左衛門。

政宗、「かねてから源左衛門の名はよく聞いてたぞ。これもまた縁というもの、
今後の知人となるうえで、ここに一つ面会の祝儀をやろう」と腰の脇差を
手に取り、「これは名物というものでもないが、かつてはその方のような
大男を袈裟に切ったら股まで切り裂いた代物だ。(其の方の様なる大男を
大袈裟に切りたるに、股の下まで切り下げたり)」と源左衛門に賜った。

源左衛門、それを恭しく受け取ると、「お腰を空にさせるわけには。
畏れながら私の脇差をお受け取りください」と今度は自分の脇差を差し上げると、
「この脇差は私の領内の片目の大男を頭より尻まで真っ二つにしてみせた
業物です。(私領内の片目の大男を天窓より尻の割目まで真二つにしたる業物也)」
と、言い残してそのまま退出した。

後にのこった政宗、「蒲生には氏郷以来の良い家来がいると聞いたが、
なるほど源左衛門とは大したものだ」と一人感服。

以後、政宗は城下に宿泊することはなかったとのことだ。
(一話一言)

ライバル関係な御家の、主君と家臣が豪気なエールを交し合い、八方丸く
収まった良い話。

話中の源左衛門は多分この人かな。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-849.html




317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/13(日) 14:15:07.56 ID:TzT7j2MZ
本当、伊達さんと蒲生さんは仲良くケンカしてるなぁ

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/13(日) 17:43:42.76 ID:faE1hxnm
>>蒲生源左衛門
どの蒲生さんなんだろうか。

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/13(日) 18:50:36.60 ID:AB+OJ64y
この蒲生のシリアルナンバーは10032号です、と蒲生は説明します

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/13(日) 20:11:43.65 ID:HEooxCmD
戦陣に挑むとすべての蒲生は37564号にモデルチェンジ