蒲生氏郷の勤務管理

2017年09月19日 14:37

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 00:17:03.10 ID:IG/5qCrB
蒲生氏郷は伊勢松島の頃、1日に3度ずつ着到(出勤帳)を付けさせ、人々の勤務状況を確認し
働きを励ましたという。また勤務状況を調べるため、山伏の姿に変装させた間者も使っていた。

これを考えるに、勤務において人を励ましたるまないようにするためには、このように詳しく
調べなければ通用しないものなのだ。自分の身を省みても、聊か油断あればやがて放埒に至る。
他の人もまたそのような物だろうから、度々に気をつけ、勤務状況を究明することが必要なのだ。

(士談)

蒲生氏郷の勤務管理エグいな



134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 00:19:47.20 ID:dH0BVuCT
だって工場長だし

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 00:32:57.94 ID:FfJk9yvS
当時「働く」ったら武力行使のことだよな?

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 00:42:33.79 ID:Yut3aWsC
「着到」も連れて来た軍勢の内容確認だわな。
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前足か後ろ足か

2017年07月23日 15:30

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 12:03:46.98 ID:1Pz0svPG
蒲生氏郷が、その頃の伯楽(馬を見分ける名人)である”こつひら”という者に尋ねた

「早い馬というのは、前足の地面を蹴る力の故に早いのだろうか、それとも後ろ足の捌きが良い故に
早いのだろうか?」

こちひらは申し上げた
「馬は、後ろ足の捌きが良い物が早いと存じます。」

これに氏郷
「私は幼若の頃より織田信長卿の傍に昵近して、目にも見、耳にも聞いたこと多い。
弓矢のことは、先を追い立てられた場合、二の手を以って持ち返すのは非常に難しく、
ただ先を第一とするのが肝要なのだと、信長卿は常に仰っていた。
ここを以って考えれば、前足のよく効いた馬の方が早いのではないかと、私は思ったのだ。」

こつひら、謹んで申し上げた
「私はいやしき業の者ですから、左様な高きわざの事は存じません。ですが、私は元西国の出身なのですが、
船の往来を見た時、前櫓よりは後ろのとも櫓に上手な水夫を立てて押したほうが、船は早くなります。
前櫓が良くても、とも櫓の押し手の能力が低いと、船は満足に動かないものなのだと見えました。
船も馬も、遅速のことわりは同一の物であると考え、ご返答したのです。」

(士談)



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 12:10:18.68 ID:UWC8+0GP
新庄「バッティングで大事なのは腕ですか?腰ですか?」

野村監督「どっちもや」

を思い出した

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 12:27:22.34 ID:NJfbG9iN
こういうのを拗らせると、拍子を打った時に音が鳴るのは右手か?左手か?みたいな話になっていくんだな

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 14:36:31.16 ID:5Vt6clig
マキバオーのマスタング走法

「見るべき所を見ている」

2017年07月12日 18:13

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/12(水) 16:08:52.56 ID:7chqTk7M
天正15年、豊臣秀吉の九州征伐の時、豊前の岩石城に熊谷越中という者が、多くの人数とともに立て籠もった。
この方面の先手の大将は堀左衛門督(秀政)であり
「岩石は良き城なれば攻め損じては後に影響を与える」と、蒲生氏郷をこの城の押さえとし、
秀吉は秋月へと向かった。

この時、蒲生氏郷は岩石城の様子を詳しく見届けるために、斥候の侍として、吉田兵助、周防長丞の二人を
派遣した。二人は岩石城の状態、また麓の様子などを見て回ったが、そこにはひと一人無く、食を食べた
跡もあったが、飯粒は乾いていた。
これを見届け、その通りに報告した。

次に氏郷は、布施二郎右衛門、土田久助の二名を岩石城に遣わした。
二人が帰って報告する話も、前の報告と特に違いはなく、また先の飯粒の他に、一体いつ退去したのかを
知れる証拠も無かった。

その後さらに、蒲生四郎兵衛に「見てくるように」と斥候に出した。
四郎兵衛は見て帰り

「岩石城の者たちは10日以上前に退去しました」

と報告した。

「その仔細は?」

「このあたりでは10日ほど前に雨が降りましたが、その後降っていません。
また、道道には足跡が見つかりませんでした。雨の降った後まで居たのであれば、必ず足跡が
残っているはずです。」

この報告に氏郷は「見るべき所を見ている」と、褒美を与えたという。

(士談)


博打を用いる

2017年05月23日 11:45

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/23(火) 09:43:52.33 ID:YoCIryPr
蒲生氏郷は陣屋においては、諸侍に博打をすることを許していた。
これは陣屋にて番を勤める輩は、ややもすれば眠ってしまうもので、
ために博打を以て気をいさめ、夜寝ないように戒めるためであったという。

博打というのは人が生きる中で戒めるべきことである。だが、時に取ってこれを用いるのも、
また人君の究理より出た心得と言うべきだろう。
(士談)



951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/23(火) 10:11:45.05 ID:KRcfvKOY
博打に集中して監視がおろそかになりそうだが。寝ちゃうよりましか

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/23(火) 14:32:49.49 ID:DUfe8gBt
敵襲がきたらこっそり賽の目に細工してやるんだ

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/23(火) 18:43:00.23 ID:goqKRjOi
博打をした家臣を咎めなかったエピソードといえば、やっぱり官兵衛さんかな。

その勇功といい義を守ることといい

2017年05月02日 18:07

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/02(火) 14:23:41.27 ID:GWMsMAq8
天正18年に、蒲生氏郷豊臣秀吉より奥州会津を賜り、木村伊勢守(吉清)が葛西大崎を賜った。

その冬、木村の領分にて一揆が蜂起したとの知らせが氏郷の元に入った。
氏郷は雪中にも拘わらず、急ぎ妙佐沼へと救援に向かった。
この時、この一揆は伊達政宗が起こしたものだという風聞があった。

氏郷は速やかに出陣して所々の一揆を追い落としたが、ここに新国上総という者、彼は永沼の城主であり、
元は蘆名に属し、その後伊達政宗に従った人物であったのだが、彼が氏郷に面謁して言った

「この度の一揆は、悉く伊達政宗が扇動したものです。しかし現在雪中であり、分国の通路すら
自由にならず、また蒲生様は未だこの土地の案内も詳しくご存知ありません。であればこのような
救援の軍はうまくいかないでしょう。」

これを聞いて氏郷は答えた
「汝の言うことも尤もである。しかし、太閤殿下が奥州の背炙山まで御動座あって、奥州の仕置を
仰せ付けられたとき、木村伊勢守と私を左右に置いて立たれ、二人の肩をつかみ

『伊勢守は氏郷を兄と存じ、氏郷は伊勢守を弟と存じて、奥州のこと、互いに相談して仕置をするように。』

そう命ぜられたのである。であれば、たとえ途中においてこの氏郷が一命を失ったとしても、伊勢守を
見捨てては君命を蔑ろにし、義理を失ってしまう。
私は確かに昨今この土地に至り、地利を知らず、また雪中の時期であり、人馬の苦しみは言葉にならないほどだ。
しかし、だからといって伊勢守を棄てるというのは、義において欠ける行為である。
伊勢守が討たれて私の命が残っても、一体何の面目があって太閤殿下にお目通りできるだろうか。

これが、私が兵を起こして救援に向かう由縁である。」

そして氏郷は遂に勝利を得て、思いのままに一揆を退治し奥州を平均せしめた。
その勇功といい義を守ることといい、共に武士の本意に当たると言えるだろう。

(士談)


名ある勇士である上は

2017年04月25日 18:40

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/25(火) 05:13:46.15 ID:+SgLkxQo
蒲生氏郷が伊勢国松島在城の時、蒲生主計栗生美濃との間に口論があった。
ふと気づくと、蒲生主計の後ろには山中大運が、栗生美濃の後ろには倅の東が小脇差を持って
つめかけ、この二人が刀を抜けば、即座に突き掛かろうとの風情であった。
これに主計も美濃も、冬であるというのに大汗を流したという。

この時の評に、主計も美濃も大汗を流すほどに思っていたが、両人ともに相手を討ち果たせば
この場で多くの人が損ずると思って、そのようにならなかったのだ、という。
どちらも特別な勇士どもであり、いずれにも越度という物はない。
「両人ともに後ろ詰めに迷惑して汗を流した」と言うべきだが、その頃の評も殊勝である。

加藤清正、加藤嘉明、福島正則といった人々も、1年に2,3度づつは口論問答があったが、
それによって争いごとに成るということは聊かも無かった。
名ある勇士である上は、そうあるべき事である。

(士談)


東照宮聚樂にて秀吉公に御対面の事

2016年11月17日 10:32

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/17(木) 00:45:43.15 ID:nsYOTjzX
東照宮聚樂にて秀吉公に御対面の事


 東照宮が聚楽で秀吉に御対面され饗礼が有った日に、
秀吉は白い紙子を羽織に縫ったものを着られていた。
その頃三十二歳だった蒲生氏郷が狐紙子と名付けそう呼ばれていたという。

浅野弾正長政が東照宮に「その羽織を御所望してください」とささやいた。
東照宮はみだりに人の物をもらう事となるからと断ったが、

「御所望されましたら秀吉様は大いに喜ばれるでしょう。
この羽織はもともと具足の上に着るために仕立てられたものなので、
一旦は断られるかもしれませんが、そこをなんとか羽織を求め手に入れてください。
秀吉様はこれにまさることがないほど喜ばれるでしょう。」

と長政は重ねて申してきたので、
東照宮はやむをえず言葉に従うことになった。

 そして聚楽の城門で毛利宇喜多を始めとした者と居並んで拝謁し、
さて茶を献上された後、東照宮はかの羽織の事を仰せられた。
秀吉は喜んで羽織を自ら着せられ、大名に向かって、
「わたしに具足を着させまいとの事である。
秀吉は誠に天の冥加に叶ったものである。」
と語られた。

 東照宮は帰られた後、長臣達に聚楽の事々を話されたときに、
「私に羽織を贈った後に秀吉は『私に具足を着させまいとの志である』と
諸大名に向かって言われた。
『これからは私が具足を着て出向くことになるのだから、秀吉の鉾先に向かうこと誰ができようか。』
と中国四国に語りつがせるためである。
広く世人の口にされることとなり、筑紫の末まで聞かれることになるだろう。
天下の大名に威を示す謀略である。
その遠大な謀をたやすく計ることはできない。
秀吉のこの計略には力で推し量ろうにも及び難い。
されども私が志すところは別にある。」
との仰せがあったという。
(常山紀談)


秀吉にいいようにつかわれ、プロパガンダに利用される家康....
この年は天正14年(1586年)なので、蒲生さんは三十一歳なのでは?



331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/17(木) 07:56:39.35 ID:GDJQT7/A
>>330
聚楽第だったという設定なら天正15年だから合ってるでしょ。

この話はここかしこにて囁かれ

2016年03月23日 18:45

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/23(水) 18:05:18.90 ID:69exh12o
賞の隠れたるはこれを探り、罰の顕れたるはこれを押さえる事こそ、名将の為す所である。
天下泰平の時代でさえ、人の心を疑い、善悪の偽説が往々に流言すること、これ世の常である。

いわんや戦国の人心、昨日は今日に替り、明日は今日に変ずる。これ乱世の常である。
おおよそ兵家において、その時によって虚偽を謀るのは一時の変であり、あえて不信不実の沙汰には
及ばない。ただ、君を欺き親を欺く徒のみその罪逃れる所なかった。

天下一定しない内は、諸侯互いにこれを謀ること、これは乱世の覇将たるもの専らすることであるので、
その事績においては虚実紛々である。

伊達政宗豊臣秀吉の糾明によって私戦の伝評を立てられ、太閤の機嫌を損ね、首尾は他に異なる
ほどであったのに、合戦粉骨で得た地である仙道会津を召し上げられ、蒲生氏郷に与えられた事、
時の盛衰とは言いながら、時日も経ない眼前の賞罰に、伊達家の家臣たちは或いは怨み、或いは憤る者
多かったため、政宗自身の心中もああだろうと推察した者たちが言い広めたのだろうか、
ただ誰となく、このような話が唱えられた

『今度の奥郡発向を幸いに、大崎・葛西・南部の端々の者共一揆の結成を勧め、不日に蜂起すれば、
蒲生氏郷は兵を発してこれを制するであろう。その時政宗もかねてよりの先鋒であるから、出陣するも
一揆と密通して、時所を計り、土地の案内を知らない氏郷を引き入れ、包囲して討ち果たせ、
その後に自ら一揆を鎮めれば、氏郷は不運に滅亡したということに落ち着き、一揆を鎮めた功は
政宗に帰され、その賞として再び会津仙道を得る。その陰謀は実に巧みである。
見ていよ、不日に奥郡に一揆が起こるであろう。』

この話はここかしこにて囁かれ、会津仙道においては只事ではなく、この流言のみ飛び交っていた。

(伊逹秘鑑)

秀吉の奥州仕置の後の、風聞についてのお話。



だからこそわざと隣同士において

2016年03月13日 18:50

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 05:23:41.44 ID:J76LvMUu
この年、天正19年は改元して、文禄元年となった。
諸国の軍兵は豊臣秀吉の命を受け、筑紫に赴き、朝鮮に入る準備をした。

12月28日、近江中納言豊臣秀次は関白に任じられ、天下の政治を掌握した。
そして秀吉は太閤と称した。

秀次はこの日参内し、日本中の大小名の内在京しているものは、尽くこれに供奉した。
その行列は予め定められ、1番に蒲生氏郷、2番に伊達政宗、3番が山形(最上)出羽守義光であった。
ところがこの事に対し、蒲生氏郷が秀吉に訴え出た

「山形は源氏の末裔であり、また伊達政宗に対して母方の伯父であります。それなのに義光が
政宗の跡に立つのは本意に非ずと、出羽守は頻りに嘆いています。」

秀吉はこれを聞くと
「誠に私の過ちである。山形は源氏、政宗は藤原氏。山形は伯父、政宗は甥である。
また山形は忠節人、政宗は降参人であるので、山形を先にするのが道理である。」

こうして義光が政宗の先に立つことに決まった。
義光は大いに喜び、蒲生氏郷に対し
「天下に面目を立てることが出来ました。一生この恩は忘れません。もし会津に一乱有れば、
必ず義光が救いに参ります。」
その証人として、息子の駿河守を人質として会津まで送ったが、氏郷はこれを丁重に送り返した。

さて、伊達政宗は、これに間に合うよう年内に上洛していたのに、その甲斐もなく義光が
行列の2番に立つことになった。政宗はこの顛末を聞くと、蒲生氏郷を憎むこと骨髄に至るほどであった。

蒲生氏郷伊達政宗の関係が、水と火の如くであることを、秀吉はよく知っていた。
だからこそわざと隣同士においてその境を守らせたのである。

(伊逹秘鑑)

蒲生氏郷伊達政宗の悪関係、実は秀吉が煽っていた、というお話



兵は偽りの道である

2016年03月05日 14:08

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/05(土) 07:35:27.90 ID:3KJccw/e
ある時、徳川家康物語の折、大久保忠世が言った
「奥州一揆(葛西大崎一揆)の時のことです。蒲生氏郷伊達政宗に謀られ、名生城を攻め懸けましたが、
危うい合戦に打ち勝ったのはまさに武功の大将です」

家康はこれを聞くと
蒲生氏郷は武勇の士であり、武功とは言いがたい。
おおよそ”功”と言えば、智謀勇あって勝つことを武功と呼ぶ。”功”は”いさお”と読むと、
これは「功績」を意味する。
また”剛”は強きを意味する。氏郷は武剛と呼べるであろうが、謀は不足している。
第一客戦(敵の領内での戦争)の法をわかっていない。

敵国に入るには、郷導を5人も10人も求めて、地理および士民の風俗、粮の有無を案内者に
尋ねた上で働くのが定まった法である。然るに案内者を求めなかったのは智謀の足らざる所である。
これによって不覚を取ったといえる。

氏郷が伊達政宗を唯一の案内者と頼み、彼が申すのを真実としたのは智の不足である。
政宗が味方だからといって、その言葉を真実と受け取るのは愚かなことだ。
勇士の習いとして、人を出し抜き独り功を立てんと思う輩は、偽り、謀を構えること、
その例多い。昔、佐々木高綱は梶原景季の馬の腹帯が伸びていると偽って先に登った。
近くでは九戸城攻めの時、堀尾帯刀が病気と偽り、先陣と定められていた氏郷を出し抜き、
九戸城をただ一人で攻め落として蒲生の手を失わせたという例がある。

そもそも名生を攻める前、政宗に思うところあって氏郷を茶に招いた時、氏郷は政宗の
企みを察し、郎党も含めて用心していた。それなのに政宗の、高清水のほか敵は居ないという
言葉を事実と心得、案内者も求めず名生城を攻め立てたのは、正直に言って全く智謀がない。

兵は偽りの道である。ではあるが、偽りを以って躰とはしない。実を以って躰とし、偽りを
権に用いる。
戦争では虚実の変がある。これを判断できなければ、いざという時、必ず失う物が多くなる。」

この言葉に、一座伺候の者達は皆感心した。

(伊逹秘鑑)



279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/05(土) 09:59:03.17 ID:6uru3vLx
俺が氏郷ならDQNをぶっ殺してラスボスには、こいつが黒幕でした
って事後報告するわ

DQN殺して、咎められるとは到底思えん

280 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/05(土) 10:31:57.42 ID:rfLBdCmG
何、このゲーム脳

281 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/05(土) 11:24:16.14 ID:RMpi+8RN
>>278 一行にまとめると「政宗を信用するとか、バカなの?死ぬの?」ってことか。

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/05(土) 11:51:18.60 ID:2PJRhSNT
家康は甲斐で一揆を扇動して、河尻秀隆を殺してるから
大崎葛西で一揆を扇動した政宗の心理も良く分かった事だろう

工場長は優秀なんだけど順風満帆な人生のせいで、悪人に対応する
スキルが不足している気がする

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/05(土) 14:17:51.74 ID:ZeMm1oSb
上手いこと言うね

エムベロルの覚え目出度からんためには

2016年02月20日 12:54

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 21:59:32.75 ID:2fmnXVf9
それより両エムベロル(豊臣秀吉・秀次)は、その随行全員とともに、日本最大の諸侯である
飛弾殿(Fidandono 蒲生氏郷?)の宴に招かれたが、これもまた善美を尽くしたもので、
皿を覆っている金箔だけでも4千クラウンを要し、酒宴の費えはこれよりも遥かに多額を要した。
どういう事かといえば、エムベロルに対して飲む酒盃の数は九献にして、第一杯には献品として
1万クラウンを要し、第二杯より暫時上がって、最期には一杯目の倍、2万クラウンとなる。
故に饗宴費はほとんど計算することすら出来ない。エムベロルの覚え目出度からんためには、その費用を
惜しむことなど出来ないのだ。

翌日、太閤様はまた、八州の太守ギエタゾ(Gietazo 徳川家康?)の邸に赴き、飛弾殿のそれにも劣らない
饗宴に臨んだ。

(モンタヌス日本誌)

蒲生氏郷が、秀吉の御成りを受けた饗宴の模様。しかし、ギエタゾ…?



185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 22:15:09.13 ID:EWxuNQyH
ポルトガル語なら
giはジ、もし最後のoがなければzはスに近くなるから
ジエタスにはなるか
や行の発音はたしかなかったからこのあたりが曖昧になるんだろう
前のレスを見ても「山口」を「アマングチウム」とか書いてたし

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 08:39:46.73 ID:T0tcXj2W
ジエタス→いえやす にはなるか
でも家康を家康って呼ぶ人はいないよなあ
トクガワヌスとかにならんのか

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 11:13:36.47 ID:+HWr++cl
>>187
当時の家康くらい高位になると「徳川」と書かかれたりすることの方が少ないよ

諱を書かれることについて「政宗」がよくネタにされるけど、書状なんかで「家康」
と書かれてる事がかなり多い。
ある程度のビッグネームには多い現象なんだよね。

もちろん当人への書状の宛名に使われるのは「江戸大納言」等だけどね。

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 11:24:45.82 ID:fgf6N03W
歴史上の人物は諱OK、雲の上の人も諱OK
宛名での諱を名指しも場合によっては一周回って厚礼になったりする場合もあるから複雑

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 17:31:11.87 ID:D1hnpXG6
諱呼びは「大名の中でも有名人枠」みたいな扱いじゃね
名字も領地も官職も書かないけど皆知ってるよねポジション
政宗と景勝が特に諱でほいほい出てくるせいか
北国でその傾向が特に強いんじゃないかって話は見たことがある

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 21:01:53.13 ID:1/ck4STB
「みなさん、本物の政宗でございますよ」
「偽物がいたら見てみたいんですけどね」

じゃねえよなあ

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 14:27:00.42 ID:ou0lTV7q
>>195
佐竹家老梅津政景の日記で、義宣と親しい景勝が普通に日記上で諱で登場するんだが
景勝が亡くなって定勝に代替わりすると普通に「上杉弾正少弼」に表記が変わるので
身分の上下などでは表せない個人に対する敬意や親しみなんかが
諱表記で表現されるんだろうって研究がある

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 20:56:04.71 ID:+cazqg1Z
>>201
親疎や経緯はありそうだけど、定勝は景勝に比べて官位などが
恐ろしくグレードダウンしてるから比較対象としてどうなんでしょう?

かぎりあれば 吹かねど花はちるものを

2016年01月23日 10:10

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/22(金) 18:52:25.90 ID:Ckr/msp4
蒲生氏郷は名護屋に陣していた文禄2年の春、俄に体調を崩し下血夥しく、諸医術をなしたるも
験無く本国の会津へと帰還した。
同3年正月、病をおして上洛した。この年の11月、太閤秀吉は氏郷の邸に入り、饗宴の事があった。
その後も氏郷の病は日々重くなり、40歳という、文禄4年2月7日、都において死去した。

『かぎりあれば 吹かねど花はちるものを 心みじかき春の山風』

この歌を、氏郷は仮初の筆ずさみのように書き残していた。
この歌についてこういう説がある

去る天正19年、九戸での戦いが終わり、石田三成は都に帰還すると秀吉にこう報告した

「今回、蒲生氏郷が軍を運用する模様を見ましたが、彼はただ人ではありません。
彼の軍勢が道を通過するのに、7日ほども引きも切らないほどでした。
その上一人も軍法を犯すものがありません。

彼は殿下のお為に、二心を持たない限りは、あのような御固め世にも二つとないでしょう。
能く注意して見ておくべき人物だと思います。」

これを聞いて秀吉は、氏郷に密かに毒を與え、それによってたちまち病に冒され、終に空しくなった。
氏郷はこのことを察していて、このような詩を綴ったのだという。

(藩翰譜)




7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/22(金) 19:48:52.60 ID:8sLYXkgQ
徳川の世だし、悪口しかないよね

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/22(金) 20:39:59.59 ID:nTLumAyT
まぁ、結局辻褄の合わない話が多いね
後世の創作は…

武功の者の鑓は

2015年12月10日 17:23

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/10(木) 02:04:42.19 ID:9nbKXfmu
蒲生の家老・田丸中書(直昌)が伊勢国の長井というところを押領した時、
入道円通庵と田丸の家来・村山半八が槍を合わせた。

円通庵の槍は5本にも10本にも見えて、半八は負けそうにばかり見えたが、
最後には半八が円通庵に槍を付けて首を取った。

「武功の者の槍は“地神”や“荒神”といって、多数に見えるものである」と、
老功の者たちは言ったそうである。

(武功の者の鑓は地神荒神とて数に見ゆるものなりと。老功の者共申候由。)

――『武功雑記』




太閤は少しも物惜しみすることのない気質だった。されども

2015年12月01日 08:26

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/01(火) 02:36:06.63 ID:gLlmeV0S
太閤は心も言葉も行跡も、少しも物惜しみすることのない気質だった。

されども、加藤遠江(光泰)に甲州一国を賜るが、遠江が死ぬとすぐに取り上げて、
その子(貞泰)に2万石を与えた。

丹羽五郎左衛門(長秀)には70万石を賜るが死んですぐに65万石を取り上げて、
4万5千石をその子・五郎左衛門(長重)に与えた。

蒲生飛騨(氏郷)には会津100万石を賜り、四郎兵衛の裁判(蒲生騒動)以後、
80万石を取り上げた。

――『老人雑話』




刈田夜合戦

2015年11月22日 07:43

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/21(土) 16:41:08.46 ID:8PIo0dPf
刈田夜合戦

天正12年、小牧長久手の戦いの時のこと。
蒲生氏郷は羽柴秀吉から織田信雄より奪った伊勢国松ヶ島城を与えられたが、
周辺には未だ信雄に与して抵抗する戸木城の木造具康や小倭の諸士がおり、氏郷は織田信包と共にこれらを討伐することになった。
氏郷と信包は戸木城の周囲に付城を築いて包囲したが、具康の抵抗と天然の要害に攻めあぐね、
城内からの出撃に備えて合図の鉄砲を所々に置くと、信包からは分部光嘉、氏郷からは蒲生郷可らを残して引き揚げた。
そのうちに早苗取の頃となり、農民を悩ますは天恩に背くに非ずやと双方弓鉄砲を止めて田畑の営みを許し、
その間に城中では鏃を研ぎ兵糧玉薬の調議をし、氏郷の方では小倭の諸士を討伐していた。


かくて九月十五日の夜の事である。
戸木の城中より、田中仁左衛門尉、畑作兵衛尉、金子十助、堀金右衛門尉、中川庄蔵
天花寺勘太郎、畑千次郎などの者が小川表(城の南方)へ刈田をしようと忍び出て来た。
木造勢は思うままに刈り取って心静かに引き揚げようという所、これに気付いた蒲生勢が迎撃してきたが散々に打ち破り、
勝鬨をあげて城へ引き揚げにかかった。

一方、松ヶ島の氏郷は兼て用意の合図の鉄砲でこれを知り、得たりや応!と唯一騎で馳せ付け、
木造勢に菅瀬(須賀瀬)村辺りで追い付いて散々に戦った。
その後、追々後続の蒲生勢が氏郷に追い付き、木造勢と入り乱れての戦闘となった。

そんな中、木造勢の一人である中川庄蔵という者、菅瀬村の見永という辺りを歩いていたが、そこで出会ったのは何と敵の大将・氏郷。
たちまち斬り合いとなり、庄蔵は氏郷の乗馬の平首をしたたかに斬り付け、氏郷も危うく見えたが
そこに氏郷の従兵田中新平という者が割って入り、庄蔵と新平は火花を散らして戦った。
しばらくはどちらが勝るとも見えない戦いであったが、遂には新平が打ち負け庄蔵に討たれた。
(氏郷はその間にどこかに行ってしまったようである。)

さて新平を倒した庄蔵はまた歩いて菅瀬村の高橋という所まで来たが、そこで“またも”氏郷に出くわした。
氏郷は庄蔵目がけて馬上から長刀を投擲、庄蔵はそれに兜の真向を切られてしまったが怯まず斬りかかる。
そこに、又も氏郷の馬前に黒川西と名乗って乗り入れた者があり、庄蔵は彼をも討ち取った。
(氏郷はまたその間にどこかに行ってしまい、)庄蔵は近くを味方の堀金右衛門尉の下人が通りかかったのを見つけると、
討ち取った田中・黒川の首を持たせ、心静かに引き揚げようとした。

が、庄蔵が庄村という所(見永から4km程の地点)までやってくると、そこで“三度”氏郷と出会ったのである。
斬りかかる庄蔵。だが、氏郷は何を思ったか突然槍を振り上げるとそのまま駈け通っていった。
徒歩の庄蔵は追うに追えず、ただ立ちつくすのみであった。
その間に首を持たせた下人は敵に生け捕られたのか、姿が見えなくなってしまっていた。


さて木造勢が漸く戸木城へ引き揚げた翌日のこと。行方知れずになっていた例の下人が松ヶ島城から戻されてきた。
その下人に敵方の様子を問うてみると、昨夜の戦いでは氏郷の兜に鉄砲が三発命中したそうで、
また中川庄蔵と二度三度馳せ違い、三か所で激しく戦うなど誠に軽率な大将だということだ。
下人が持っていた田中・黒川の首が露見したのでこの首を取った者は誰かと尋ねられ、
中川庄蔵だと下人が答えると、氏郷に三度まで渡り合った働きを敵方では大将(氏郷)を初め感心していたそうである。
下人を解放したのはそれを伝えるためだということは後になって知られたことであった。


その後の何度かの戦闘で城方の名のある者が幾人も討死し、寄手は諸方から一度に攻め寄せようと談合していると、
近くの一身田の門跡が来て和議の仲介を申し出、また信雄と秀吉も和睦したので十月下旬に戸木城を明け渡し、
木造具康は尾張へ逃れて行ったのであった。

(勢陽雑記)


夜の田んぼで敵の総大将に頻繁に出くわす羽目になった中川さんのお話。



16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 15:56:28.24 ID:oPGCguPz
中川さんは相当すごいけど、なんというグダグダな話w

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 17:00:44.43 ID:ZKG53IaR
自分の功績もどきと不幸の自慢なら
よそでやってくれ

蒲生氏郷、遅れた体の者に気づき

2015年11月19日 07:01

6 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/11/18(水) 23:17:48.97 ID:ymBsGgqT
蒲生氏郷が追鳥狩をしていた時、氏郷が進むのに遅れた体の者があった。
氏郷がそれに気づき「あれはどういうことか!?」と指し示すと、氏郷の側近くのもの一人が
急ぎその者に駆け寄り引き立て、足の真ん中に小刀を突き、出血させ、そのまま引きずってくると氏郷に申し上げた

「この者は踏抜きをしてしまったようで、そのため歩き兼ねているのです。」

(武功雑記)

単純に遅れたと言っちゃうと、氏郷に手討ちにされますからね。



7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/18(水) 23:30:58.40 ID:qjIYofm2
工場長はそんな人では無い

浅野長政「今の殿下は、古狐が入れ替わった者だ。」

2015年11月10日 15:32

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/09(月) 23:14:11.25 ID:xI4lJMJz
文禄2年の冬、豊臣秀吉は朝鮮での戦がはかばかしからぬを怒り、徳川家康を始め配下の大名を
名護屋の陣に集めこのように言った

「朝鮮の軍、今のままではいつになったら戦況が定まるかもわからぬ。そこで今は、この秀吉自ら
向かおうと思う。30万の軍勢を3手に分けて、前田利家蒲生氏郷に大将をさせ、三道より向かい、
朝鮮を打ち破り、真っ直ぐに大明に攻め入ろうと思う。
我が国のことは家康に任せれば心配もない。
方々、これをどう思うか?」

ところがこれを聞いた家康は、怒りも顕に利家、氏郷の方に向かい
「日本の大名も多き中に、あなた方二人が選び出されて一方の大将を賜ったのは、
弓矢取っての面目、何がこれに過ぎるでしょうか?
かく言う家康も、弓馬の家に生まれ戦いの中で年老いました。今、この大事に及んで、どうして
人々の跡に留まって、徒に本朝を守っていられるでしょうか?
少勢ではあっても、この家康も軍勢を率いて、必ず一方の先陣を承りたい!
そのためにも、あなた方のご推挙を仰ぎたい。」

ここに浅野弾正長政が進み出た
「暫く待たれよ徳川殿!殿下のここ近年の御振舞、昔の御心のままと思われているのか?
今の殿下は、古狐が入れ替わった者だ。それに何を言っても…」

この言葉が終わらぬ前に、秀吉は激怒し刀に手をかけ叫んだ
「やあ秀吉が心、狐が入れ替わったとはどういう事か!?その理由を申せ!
もし説明できないのなら、その素っ首打ち落としてくれん!」

浅野長政は少しも騒がず、
「この長政ごときが何百人首刎ねられても、どれほどの事がありましょうか?
仰せですので言いましょう。近年、意味もない戦を起こし、異国のみではない、
我が国内においても、父を討たせ子を打たせ、兄弟を失い、夫に別れ、妻に離れ、
嘆き悲しむ者天下に満ちている!
また、その戦のための兵糧の徴収、軍勢のための賦役、これにより六十余州の内は
悉く荒れ野となった!
今日、五畿七道の内は群盗強盗が蜂の如く沸き出て、安心できる場所すらない。

徳川殿がどのように思っても、これを防ぎ動揺することなく御跡を守るのは不可能です。
これらの事を理解されているからこそ、徳川殿は先陣を望んだのです。

ここで、昔の殿下であればこの程度のこと、気が付かないはずがありません。
しかし気がついていない。これはただ事ではない!きっと古狐が入れ替わったに違いない!

賤しき者達の諺にこんなものがあります。『人を取ろうとするスッポンは、必ず人に取られる』と。
それはまさにこの事です!」

そう憚ることなく言ってのけると、秀吉も怒りのまま
「狐であろうがスッポンであろうが、おのれが主人と頼っている者に、雑言を吐くこと奇怪である!」
そう叫んで長政に飛びかかろうとするのを、利家と氏郷が慌てて二人の間に入り押し隔てた。
「殿下、多くの者達が御前に伺候しております!長政の首を刎ねるのにお手を下されるまでも
ありません!弾正!弾正も何とか言え!」

しかしそう言われても長政はさらぬ体で受け流し、その場の人々に挨拶して、自分の陣に帰り、
御使を待って腹を切ろうとしていた。しかし秀吉は、長政の処分について重ねて言い出そうと
しなかった。

このような時に、肥後国に逆徒が起こったとの早馬が参った。秀吉は大いに驚き、徳川家康に使いして、
浅野長政を連れて参上するように』と仰せ下した。そして長政は召され、赦免された。

(藩翰譜)



611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 03:44:41.59 ID:O6IysmEn
さりげなくやれば良いのに主張するから・・・

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 05:58:58.21 ID:QjSotLI4
この話同様の内容で岩淵夜話や常山紀談にもあるな

成田十左衛門、一矢報いる

2015年10月26日 18:53

889 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/25(日) 16:45:45.59 ID:Mf6eo+pI
「お前たちは人間じゃない」(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7244.html)

成田十左衛門が、細やかではあるが一矢報いたいい話。



成田道徳に謀反の計画があるということで、豊臣秀吉は蒲生氏郷に命じて町野左近を
討手として道徳を攻めさせた。そして道徳の首を刎ね、京の一条戻り橋(勢多橋という説もある。)にて梟した。

その後、たまたま梟し場を通りかかった秀吉が台上の道徳の首級を見て「何者の首か、不浄なり」と糾問すると、
道徳の首級はカッと目を見開き今にも飛びかからんばかりに秀吉をにらみつけた。秀吉は一瞬たじろぐも、
家臣の「成田弥左衛門尉道徳の首級にござりまする」の声に気を取り直し、「成田弥左、勇者なり。
豪の者なり」と、静かに呼びかけた。
すると、道徳の首級は静かに目を閉じ、円満な仏顔に変貌したという。



890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/25(日) 19:42:06.12 ID:jaBqglJz
暑さで目やにが緩んだのかな

蒲生氏郷の陣が夜討ちを仕掛けられた時のこと

2015年10月10日 18:38


428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/10(土) 11:57:43.35 ID:8ZCLhqrc
小田原の役で蒲生氏郷の陣が夜討ちを仕掛けられた時のこと

北条勢は広沢兵庫秀信を大将として蒲生氏郷の陣に夜襲を仕掛けてきた。
蒲生側も予め警戒していたため、蒲生郷成や田丸直昌らも討って出て激戦となった。
氏郷も兜の緒を締め一丈余の槍を持って北条勢を追い散らしにかかったが、北条側も負けじと追ってくる蒲生勢に鉄砲を撃ちかけた。
この時、広沢は大豪の者であったので堀より大声で「かかってこい」と叫ぶや否や氏郷が聞きつけて向かって来た。蒲生勢も主に続けと突撃してくる。
更に広沢、続けて「今晩の夜襲の一番槍は大将の俺だ」と叫ぶと氏郷も「堀の中に飛び込んででも野郎を討ち取ってやんよ!」と槍を広沢に叩きつけたが、
敵兵に阻まれ逆に槍を奪われそうになること7、8回あった末に広沢を討ち漏らしてしまった。
広沢は城まで逃げようとするが、氏郷も諦めずに執拗に追い回した。結局、城内に逃げ込まれ、鉄砲を撃ちかけてきたので氏郷も帰っていった。
この時の戦闘で氏郷の兜には矢が二本折れて刺さり、具足は槍の傷跡だらけ、十文字槍に至っては刃が簓(今でいうタワシ)のようになっていたという。
秀吉もこれを見て、佐々の例の馬印を許したそうな。

『常山紀談』
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-16.html
こっちと微妙に話が違うので 敵の大将が可哀想な話



429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/10(土) 12:47:09.77 ID:DN3tbO2c
いつ裸になるかヒヤヒヤした。

蒲生氏郷、たった一人で

2015年09月21日 12:00

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/21(月) 10:43:13.89 ID:ci+j6nbh
豊臣秀吉による小田原征伐の時、城中より夜討が行われたことが在った。
これに先手の者達が対応したが、この時蒲生氏郷は、具足も着けず鑓を引っさげて、正面の敵に構わず
敵の後ろにたった一人でまわり、後方から突き立て散々に攻撃した。

驚いた夜討勢は城に引き取ろうとしたが、氏郷一人に責められ堀に飛び入るなどした。
その様子を見て後ろに回ってきた侍たち、我も我もと氏郷に続き、敵の首を討ち取った。
氏郷自身、敵をあまた討ち取り、多くの頸を取った。

豊臣秀吉はこの氏郷の働きを聞くと大いに感じ入り、「氏郷が働きを成すのは珍しいことではないが、
今回、夜討してきた敵の後ろにまわり、跡を一人で切り取り数多の頸を討ち取ったという。この気概、
古今稀なる働きである」そう激賞した。

蒲生氏郷記)