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世の中すべての床天井は高くなった

2019年07月25日 16:25

千利休   
112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/25(木) 13:59:39.80 ID:CM8ckPJ8
芝山監物は秀吉公の御伽衆であった。
住吉にある一休禅師の寺の方丈に『初祖菩提達磨大師』という一休の墨跡が残されており、
これを佐久間甚九郎が購入し、芝山へと差し上げた。
すると千利休が、これが村田珠光の表具である事に気がつき
「珠光以外の誰がこのような表具を出来るでしょうか。さてもさても。」と絶賛した。
村田珠光は一休に参禅していたと言われる。

ところがこれは非常に長い掛物だったため、床に掛けることが出来なかった。
芝山監物蒲生氏郷と細川三斎(忠興)に、「利休に表具のことを頼みたいので、仲介をお願いしたい。」
と頼んだ。

ある時、利休、氏郷、三斎の三人を、芝山監物が茶会に呼んだ。この時あの墨跡を、床天井の前に、
上を巻ため、弱竹で角を押し入れて掛け、下の方も巻きためて置いた。
そして芝山は「この掛物を床に掛かるようにして頂きたい。」と利休に頼んだ。

しかし利休は「これに誰が手を入れることが出来るでしょうか。」と同意しなかった。

これに芝山は憤り
「たとえ珠光であってもナニ光であっても、床に掛かるよう直して頂けませんか。竹で押し入れているので、
毎回壁も傷み、どうしても掛けられないのです。」と訴えた。
相客の氏郷、三斎も「あれほど望まれているのですから、お直し下さい。」と言った。

だがこれに
「それはどういう事でしょうか。良いものを悪くする事を私は致しません。どうしてもそうしたいのであれば、
あなた方がなされば良い!」と、利休は散々に叱りつけ、不機嫌になられた。

「珠光のされたことを決して変えてはならないのだ。であるから、床の天井を高くして掛けられよ。」
そう利休は言った。

この事が有ってから、世の中すべての床天井は高くなった。利休の功績である。確かに文字は
高く掛けたほうが見事である。寺の山門の額も、上に打ってこそ見事であるからだ。

この掛物は今は将軍様の元にある。『天下一の一休』とはこれの事である。

(三斎伝書)



119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 23:51:50.50 ID:amHD0ylJ
>>112
>「たとえ珠光であってもナニ光であっても、床に掛かるよう直して頂けませんか。

鮭様「一体ナニ光なんだ」
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千利休の切腹と石灯籠

2019年07月21日 16:59

千利休   
103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 01:13:32.35 ID:tvy6NoWG
千利休の切腹は堺で行うと、秀吉公の御意があり、この時、淀に於いて船に乗るまでの乗物を、
三斎公(細川忠興)と古田織部殿の両人が手配された。利休の内儀がこの時礼を申されたが、
利休は
「もはや、それも要らぬことです。日本国の人々は皆私を知っていますが、このお二人ほどの事は
有りません。」と言った、

切腹を行う堺の屋敷に於いて、四畳半の小座敷で利休は「少しお待ち下さい。」と、炭を直した。
湯がたぎった時に四尺床に腰を掛けたが、勝手方に臂がつかえたので、「この置き合わせではない。」と、
床真中に寄った。

そして「介錯の人々は声を掛けるまでお待ち下さい。もし言葉が出ないようであれば、手を上げて
合図致します。」と言って、脇差を腹に突き立てた。

しかし思うように行かなかったため、また引き抜き、同じ所に突き立て直し、引き回して腸袋を
自在の蛭釘に掛け、そこで介錯があった。古今に無いものであった。

利休切腹の後、秀吉公の後悔は限りないものであった。彼が切腹した後は、秀吉公は釜の形の切紙が
上手く切れず、誰彼にかかわらず切らせたが、御意に入るものはなかった。
蒲生氏郷と三斎公が行かれた時も、「ハァ、一応参りましたというだけの面だ。」と仰せになった。
「たしかにその通りだった。」と、後に三斎公は語られた。

利休が天下一と褒めた石灯籠が有った。利休自身が打ち欠いて、色々に直し、天下無双であると気に入った
ものであった。
その石灯籠を三斎公が所持され、任国が代わる度、丹後に取り寄せ、小倉へ下し、肥後の八代に下し、
現在はまた京へ上らせておられる。そしてこれを大徳寺高桐院に立て置き、三斎公自身の墓標として、
名を彫りつけるおつもりでおられる。「灯明などを灯せば丁度よい。」と仰られている。
少し手軽く見える灯籠で、角々が丸く、大形では無いものである。

(筆者注・現在この石灯籠は細川忠興の墓石として、大徳寺高桐院の墓地に有る。)

(三斎伝書)



104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 13:52:30.21 ID:cN9uq2nD
お茶くらい気にすんなよ

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/22(月) 12:12:38.25 ID:umL4DwKU
よく知ってるね

三斎公はいつも利休に蒲生氏郷の悪口を言い、また氏郷も

2019年07月13日 15:20

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 00:45:39.47 ID:Kk+VP0qq
若い頃、三斎公(細川忠興)はいつも利休に蒲生氏郷の悪口を言い、また氏郷も利休に三斎公の悪口を
言っていた。

ある時三斎公は利休の所で
「氏郷は数寄者ぶっていますが、裏口を開けてみれば乗馬用の沓や鼻紙などが散らばっている有様です。
彼は絶対に数寄者などではありません。」
と言った所、利休は
「それも良いでしょう。数寄さえすれば、それでも構いません。」
と答えられた。

そうしているうちに蒲生氏郷が勝手の障子を開け
「誰だかが私の悪口を言ったようだ。しかしその者が恥をかいたのは嬉しい」
と言った。

後で三斎公は「誰かがすぐに告げ口したのだ」と大笑いされた。

(三斎伝書)



255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 11:19:11.37 ID:YjWTGmPq
どんだけ仲悪いんだよ

花入はご覧になりましたか

2019年07月12日 16:48

千利休   
83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 01:02:31.24 ID:BhNSOonv
千利休より「花入が到来しましたので、今お待ちしています。」と、前田肥前守(利長)、
蒲生氏郷、細川三斎(忠興)の元に使いが来た。早速三人で出かけて席入したものの、初座、後座ともに
花入は出なかった。三人は利休に花入を所望すべきかと相談したが、恐れてついに言い出せず、退席した。

利休が露地に送りに出た時、「今日は花入をお見せするためお招きしましたが、花入はご覧になりましたか。」
と尋ねた。客である三人は「とうとう花入を拝見出来ませんでした。座敷、露地ともよく見廻したのですが、
花入はありませんでした。」と答えた。

利休は「尤もです。」と言って、露地の塵穴を示した。そこには落ちた椿の花を、なるほど見事に入れてあった。
「その見事さには驚き入った。」と、後に三斎様がお話になった。

またある時、利休よりこの三人が御茶に呼ばれた。にじり口を開けると、そこに茶壺が置いてあり席入することが
出来なかった。三人は困惑し、どうして良いか解らず様々に相談したが、勝手に床に上げるわけにもいかないと、
先ず座敷の真ん中に茶壺を移して席入し、亭主である利休に「茶壺を床へ」と申した。利休は機嫌よく
これを床へ上げた。「客の思案が良かったのでしょう」と、後にお話になった。

(三斎伝書)



85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 05:26:24.74 ID:FVr7QC+1
>>83
わびってるなあ

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 08:12:56.70 ID:kTIihdCu
>>83
深すぎてわかんねーw

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 11:50:52.94 ID:YjWTGmPq
わびさび俺には無理だと分かった

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/14(日) 04:25:07.42 ID:9odMhzGb
とんち比べかな?奇をてらって遊んでる風にしかみえない

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/15(月) 10:07:51.99 ID:wf+p/I6R
こういうのが和歌の世界だと古今伝授みたいになるんだな

その心持が面白かった

2019年07月08日 17:50

千利休   
71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 21:56:58.28 ID:v9H8Sln5
ある時、千利休が、「圜悟(えんご)の墨跡(中国宋代の臨済宗の僧、圜悟克勤の墨跡。村田珠光が
一休宗純より印可証明として与えられたとされる)を御覧ください。」と、前田肥前守(利長)、蒲生氏郷
牧村兵部、細川三斎(忠興)の四人を、その墨跡を所持する人の茶会に案内する段取りを付けた。

ところがこの茶会の当日、急にこの利休ら5人に豊臣秀次公よりお召があり、時刻も過ぎて茶会に間に合わなく
なったため、利休は人を遣わして「御前に用が出来たのでご容赦していただきたい。料理も結構ですので、
御用意なされませんように。菓子にて御茶を頂きたいと思います。」と伝えた所、「やむを得ません、
御用が終わり次第お出で下さい。」と返事が有った。

そうして日が暮れてから、手燭を出しての席入と成った。入る時に利休が「手燭を持って床の掛け物をよく
御覧になって下さい。」と申した所、亭主である墨跡の所有者は障子を開けて出て、利休に対し
「どうぞ墨跡をお焼き下さい。」と言った。これに利休は「面目を失った。」と言った。

中に入ると金銀を散りばめ、土器などにも絵を描いた豪華な料理が出た。これを見た利休が
「料理は無用と御連絡したではないですか。さてさて合点の行かないことです。」と申した所、亭主は
「ご尤もです。しかしこれは、食事を召し上がるように、との事ではありません。皆様が私のところへ
お出でになられるということで、ただ忝なさのあまりこれを用意したのです。召し上がるには及びません。」
と答えた。利休は「また恥をかいた。」と言った。

後に三斎公は「その心持が面白かった。」と言われた。

(三斎伝書)



72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 22:17:22.94 ID:3+H2OFSP
いわゆる小者

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 05:56:03.31 ID:PErBWv+E
当日キャンセルをかます成り上がり者に対する亭主の抵抗が窺える

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 19:30:32.72 ID:FDy5Rb+b
戦国時代とはいえ割と面倒くさいこともしてんだなw

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 21:10:55.98 ID:6lk5Uw6S
小者ってのは いつの時代も大して変わりゃしない

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:31:12.85 ID:BTnI+Yho
どこの誰なんでしょうね

老人雑話より、蒲生氏郷の逸話まとめ

2019年04月12日 17:54

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 20:20:47.89 ID:lNjfT+Y9
・蒲生は近江の士なり。佐々木承禎(六角義賢)の家臣であったが、後に信長に仕え、また太閤に仕えた。

 氏郷は優れた人なり。初めは伊勢松坂で12万石を所領した。それより直ちに会津120万石を領した。
 太閤の時である。この時、40歳ほどなり。

 承禎は近江1ヶ国を領した大名なり。信長に滅ぼされて近江を取られる。承禎の子は四郎殿(六角義治)
 といって太閤の時は咄の者となり、知行2百石なり。蒲生はその家臣だったが、100万石余りを領す。
 伏見などで四郎殿が太閤の御前に侍って退参する時、氏郷は昔を思い刀を持って従われたことがあった
 という。

 蒲生が近江で承禎の家臣だった時は日野を領した。氏郷の父(蒲生賢秀)は頑愚で天性臆病の人である。
 その時の俗間の小歌に、「日野の蒲生殿は陣とさへ云やへをこきやる」と言ったが、この人の事なり。

・小田原開陣の後、太閤が諸将を会して宣うには「会津は関東八州の要地、優れた大将を置いて鎮めなけ
 ればならない地である。各々は遠慮なく所存を書き付けて見せよ」と言った(原注:今はそのような事
 を“入札”という。その頃は“かくし起請”という)。
 
 すると「細川越中守(忠興)が然るべき」という者が10人中8,9人であった。太閤は開き見て曰く、
 「汝らは愚昧も甚だしい。私が天下を容易く取ったのも道理である。この地は蒲生忠三郎でなければ、
 置くべき者なし」と言い、忠三郎を会津に置いた。

・太閤は小田原開陣の後に蒲生飛騨守を会津に封じた。会津は大事の要地なり。そのうえ敵が上野から通
 行して、もし武蔵・相模に事があれば、上野佐野から一檄を伝えて少しも敵を働かせないためである。

・太閤が氏郷を会津に封じた後に氏郷が出仕した。太閤は他事を問わずに曰く「汝は手を良く書けり。謡
 の本を一番書いてくれよ。紙と硯を持って参れ」と宣ったという。君臣心安き間柄なり。

・氏郷はある時に諸士を饗応した時、自ら頭を包んで風呂の火を焼いたという。

・氏郷も日野で2万石の身上なり。太閤は伊勢松坂に15万石を与えた。後に会津100余万石を与えた。

・氏郷の近習の者が氏郷に問うて曰く「太閤以後は関白殿(豊臣秀次)に馬を繋がれるのですか」と。氏
 郷は答えて曰く「かの愚人に従うような者は誰もいない」と。

 また問うて曰く「天下の主たらん者は誰でしょう」と。答えて曰く「加賀の又左衛門(前田利家)であ
 る」と。また問うて曰く「又左衛門が天下を得なければどうなりますか」と。答えて曰く「又左衛門が
 得なければ、私が得るだろう」と。

 東照宮(徳川家康)の事を問うと曰く「この人は天下を得られる人にあらず。人に知行を過分に与える
 器量がない。又左衛門は人に加増を分に過ぎて与える切れ物である。取るであろう人はこの人なり」と
 言ったという。

――『老人雑話』

老人雑話より、蒲生氏郷の逸話まとめ



792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/12(金) 00:09:06.99 ID:gXKzQX1o
利家が家臣に気前のいい器量者?

793 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/12(金) 05:35:11.47 ID:2v+tybTJ
>>790
「日野の蒲生殿は陣とさへ云やへをこきやる」

 ('A`) プウ
  ノヽノ) =3 'A`)ノ
  くく  へヘノ


799 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 17:48:57.53 ID:DhdKHX4V
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906666
老人雑話はこの国会図書館デジタルで戦前の翻刻本が読めるが
さてどこの部分か読んでみるかな

吾陰嚢の垢ほどもあらぬ物を

2018年12月22日 10:56

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 08:19:09.12 ID:G2ELcZP/
朝鮮の役で、明の援兵が大軍で朝鮮へ派遣されたことで、名護屋の本営では日本軍危うしと
太閤秀吉にも報告され、軍評定を行った所、蒲生氏郷が進み出て発言した
「何程の事がありましょうか。この氏郷に朝鮮を賜れば、切り取りにして打ち破りましょう。」
しかし秀吉はこれにより、氏郷に大志有ることを忌み憎んだ。

また朝鮮に在陣する小早川隆景より遣いを以て報告があった
「この隆景が考える所は、十万の軍が渡海いたせば、それに城々を守らせ、隆景は先陣して明朝に押し入り、
北京を攻め落とすという事であり、この旨を申すように。」

秀吉はこれを聞くと
「小早川の智謀さもあらん。人々よく聞け、仮にこの秀吉が功を遂げずに死んだとしても、秀次を
大将として明朝に攻め入った時は、私の魂魄が雲に乗じて鉄の盾を突き、唐土の奴原を一々に蹴殺して
捨てるであろう。昔、柘榴を噛んで火とした者もあったと聞く。その小男の名は忘れたが。」

そう言うと、側の施薬院全宗が「それは北野の天神(菅原道真)の御事でございます。」と申し上げた。
秀吉
「それである!雷に成って天に上ったと言い伝わっているが、私のキンタマの垢ほどにも無い者だというのに!」
(吾陰嚢の垢ほどもあらぬ物を)
そう大声で言い放ち、聞く人はみな驚いたという。
(常山紀談)



539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 08:47:25.91 ID:xsQjQ3yv
ω

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 09:56:33.68 ID:mOD0npr1
赤松満祐「お前が他人の事を小男とか言えんのかよwww」

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 09:59:10.68 ID:q05OBV9W
まとめの6912
全くその男は、我が睾丸の垢ほども


でも「武士道美譚」出典で同じ話が

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 14:42:39.03 ID:F7/rhJiV
>>538
>私のキンタマの垢ほどにも無い者
なんJ民かな?

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 20:37:09.64 ID:Z5u25ia/
大○義隆「キンタマの垢とな!?」

一方の大将たらん者は、

2018年10月02日 18:31

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/02(火) 11:55:40.26 ID:UGo9HjLG

天正二年七月、織田信長が長島の一揆を伐った時、蒲生氏郷は大剛の者を組み討ちにして首を取り
実検に入れた。しかし信長はこれを冷笑し褒詞無かった。

暫くして氏郷に言った
「凡そ勝負は時の運に寄るもので、兼ねて計ることは出来ない。功名は武士の本意というが、それは
品によるものだ。今の汝の功名は、軽卒のやることである。一方の大将たらん者は、更に好むべきではない。
身の危うきを顧みないのは、それほどの功とは言えない。今後、この心を忘れるな。」
そう戒めたという。

(名将言行録)

信長「この時注意したのに…」



255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/02(火) 12:17:40.56 ID:sUtctfiJ
婿じゃなかったら褒めてたろ

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/02(火) 13:12:35.48 ID:u24CW0IM
>>255
鬼武蔵相手なら激賞だったろうな

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/03(水) 00:40:35.31 ID:AUGOf0r/
鬼武蔵は敵にけしかける狂戦士だが氏郷は士官候補だからな

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/03(水) 05:45:34.46 ID:KOBAUlk+
バーサーカー武蔵

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/03(水) 07:06:44.21 ID:iHzjGr8g
特殊奥義持ってる武蔵にモブが敵うわけないじゃろ

この家には銀の兜をつけた侍が

2018年08月30日 17:59

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 22:02:07.71 ID:hN7iYod7
蒲生氏郷は常にこう言っていた
「人衆を戦場にて使うに、ただかかれかかれと計り下知していてたかからない物である。
かかれと思う所には、大将自身がその場に至り『この所へ来たれ!』と言えば、あえて大将を
見捨てるような者は居らぬものである。しかし大将自身は後に居て、ただ士卒をかからしめんと
しても、かかることは無いものなのだ。」

氏郷はその言葉の如く、人を新たに抱えた時は常に
「この家には銀の兜をつけた侍が、いつでも一番に乗り出して、諸卒に先立って働いている。
なのでこの男に劣らぬように稼ぐべし。」
そう言い教えたという。
これ則ち、氏郷の鯰尾の銀兜のことであり、働きを諸軍に先んじていた故であるという。

(士談)



240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 23:46:43.97 ID:p31L3AQN
足利義明「その通りである」

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 08:29:23.45 ID:vtjT338y
>>240
S「目障りだから置いてくわ」

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 10:15:04.89 ID:WpX3rZhX
お、おう

日置の夜合戦

2018年07月02日 18:38

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 17:32:24.99 ID:+lDXEXb7
蒲生氏郷が羽柴秀吉より勢州松島を拝領した頃は、伊勢に限らず諸国未だ静謐成らなず、
小牧・長久手の戦いが始まっていた。

氏郷は松島に入部すると、先ず領地の仕置を優先し日置へ押し寄せようという気持ちは全く無かったにも
関わらず、織田信雄の家臣である木造左衛門佐(長政)の支配する日置方面からは、氏郷の領内へ夜な夜な
人数が出て苅田などを行った。
氏郷はこれを聞くと「哀れ足長にも出てきたか。討ち果たしてやろう。」と、方々に物聞(見張り)を
置き、苅田をする者たちが侵入してくれば鉄砲を撃ち、これを合図に松島より出撃しこれを討つ決まりとし、
これにより度々侵入者を撃退した。この時、氏郷は早馬を以って真っ先に乗り懸かった。
これを見た木造長政は、謀略によって氏郷を討ち取ろうと工夫を考えた。

9月15日の夜、木造長政勢は氏郷の領分である会原という場所に侵入した。この時、木造の家中において
物頭をし、発言権を持つほどの兵は残らずこの会原周辺のよき場所に伏兵として起き、氏郷が駆けてくれば
即座に討ち取れる準備をさせ、あとはいつものように苅田をさせた。

これに蒲生の見張りが気づき鉄砲を撃って知らせ、この音を聞き松島より蒲生氏郷が駆けつけた。
その夜は月が冴えて、まるで日中のような明るさであったが、氏郷はそこに真っ先に駆けつけ、
その後に早馬を持つ兵たち7,8人が続いた。彼らが入ってくると伏兵たちが一斉に起き上がり、
氏郷たちを包囲し攻めた。この時は流石に危うく見えたが、氏郷は馬の達者でありその騎馬も逸物で、
四角八面に懸け破り、突き倒しては駆け回り、乗り散らし乗り返し、その戦いにおいて蒲生方の
外池長吉、黒川ノ西、田中新平などと言った者たちは散々に戦い討ち死にした。
小姓の姿であった外池孫左衛門という者は氏郷の矢面に立ち塞がり防戦した。
この時、氏郷の銀の鯰尾兜に銃弾3つが当たり、鎧にも傷数ヶ所があったが、その身には薄手すら
負っていなかった。

このようなうちに、氏郷勢が追々駆けつけ、騎馬のもの7,80騎となると、氏郷は敵の少ない所へ
そのまま馬を乗り入れ東西南北に懸け破り蹴散らし、敗北した者は手下に討ち取らせ自身は追い打ちをかけ
日置の城下まで追い詰め、木造家中にて物頭を勤める屈強の兵30余人、その他甲冑をつけた者36,
雑兵数多を討ち取り勝鬨を作り、日置の城下から10町ばかり引き取った場所に陣を取った。
これにより、木造長政は在城を諦め、翌日詫び言をし命を助けることで城より退去した。

世間において「日置の夜合戦」と呼ばれるのがこれである。

(蒲生氏鄕記)

敵の計略どおり単騎突撃してまんまと罠にハマったけれども特に何ということもない氏郷であった。



48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 20:20:12.31 ID:rLUgrkrt
連邦のモビルスーツか

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 20:33:58.80 ID:rorhF+dI
え-、なにそのチート…

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 20:39:34.50 ID:AoEQtwek
秀吉「氏郷が活躍するのは珍しいことではないから」

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/03(火) 11:07:03.37 ID:MtOOE3S3
>>47
花の慶次かな?漫画のキャラみたいな活躍で草

敵の後にただ一人

2018年06月21日 21:49

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 08:54:19.80 ID:tSvrzezH
小田原の役の時、北条氏直の陣所に対する豊臣方の仕寄場へ、城中より夜討が仕掛けられ先手の者たちが
これに対応したが、この時蒲生氏郷は、具足も付けず鑓を持つと、正面の敵に構わず、敵の後に
ただ一人廻り、敵の後から突き倒し、散々に相働いた。

これにたまらず敵方は城中に引き取ろうとしたが、氏郷一人に責め立てられ、逃げ惑い堀に飛び込む
者まで居た。これを見て後から駆けてきた侍たち、我も我もと頸を討ち取った。
氏郷は数多の敵を突き倒し、その頸を取った者も多かったという。

関白秀吉はその働きを聞いて感じ入り、「氏郷が活躍するのは珍しいことではないが、今回の
夜討に敵の後ろに回り、一人で切り取り数多の頸を討ち取ったこと、当意の機転、古今稀なる働き
である」と讃えたという。

(蒲生氏鄕記)

氏郷の単騎攻撃のお陰で敵の夜討がボーナスステージに成ったお話。



28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 10:51:47.16 ID:R6dkeP0Z
単騎突撃で死なない人・・・
夜討の混乱状態で後ろに回った機転が、武功と生存の鍵なのか。

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 19:02:19.99 ID:ZEe/6+m0
夜襲したら後ろから奇襲されたでござる
ゲームの主人公かな?

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 20:26:59.26 ID:z22uOANl
>>27
またしても裸アーマーか

吹かねど花は散るものを

2018年06月20日 20:56

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 08:14:50.40 ID:snSb52k0
石田治部少輔三成は、昔の梶原平三景時を越えた讒臣であった。彼はある時、太閤秀吉に密かに申し上げた
「現在は、御世長久に治まり四海の内に旗を立てる(反乱を起こす)者は一人も居りません。
さりながら、会津宰相(蒲生氏郷)は、謀も優れ、良き侍をも数多持っており、先年九戸一乱のみぎり、
私は現地に下って彼の計略を見たのですが、彼の軍勢の人数、そして実施されている法度の数々には
目を驚かされました。

あのような良将を愛して置いては、虎を養えば必ず踵を返すとも言います。」

秀吉も常々、氏郷を訝しく思っていたため、彼を失わせるための談合評定を行わせた。
その頃、天下一の大名で、殊に武道に優れていたのは江戸大納言(徳川)家康であったが、家康は謀に達していた
故に、秀吉の前では作って凡人を装っていた。

しかし氏郷は錐が袋に収まらぬ風情にて、言葉のはしにも人に指をさされまいと心がけていたため、秀吉が
警戒したのも仕方がないのだが、かといって忠功第一の人であるのでどうにも手出しできなかったため
「人知れず毒飼いをせよ」
という結論に至り、ある時、氏郷に毒を盛った。

この毒が祟ったのだろうか、朝鮮征伐の頃、下血を病み、さらにその頃から気色常ならず、面色は黄色くなり、
頬の肉が痩せ、目の下もすこし浮腫した。
秋頃、法眼正純を召して養生薬を用いたが、その後も腫腫やや甚だしく、名護屋にて宗叔の薬が合うのでは
ないかと言われ、彼を召してその薬を用いいたが、その験無かった。

この年の12月朔日、太閤秀吉は何を思ったか江戸大納言(家康)、加賀中納言(前田利家)に、
「諸医者を集め氏郷の脈を見せよ」と命じた。
両人承って、竹田半井道三以下の名医を集め脈を見せた。彼らは皆「重体です」と答えた。
明けて文禄4年正月まで、宗叔の薬を服用していたが、氏郷の気力は次第に衰え、それより道三の薬を
用いた。しかしながら回復はもはや叶わず、同2月7日、生年40歳で、京都にて朝の露と消えたのである。
この時の辞世の句はこのようなものであった

「限りあれば 吹かねど花は散るものを 心短き春の山風」

未だ勇々しき年歳を一期と見捨てられたこと哀れなる事どもである。近習外様の老若男女、賤男賤女に至るまで
泣き悲しんだが、もはや詮無きことであった。その後葬礼が美々しく取り繕われ、紫野大徳寺の和尚を請して
一時の烟となった。その戒名は『昌林院殿前参議従三位高岩忠公大禅定門神祇』と号された。

(氏鄕記)

有名な蒲生氏郷毒殺説のお話



872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 08:58:13.97 ID:KwLVBxqB
氏郷記って、政宗が毒を持ったという話もあるし、毒が大好きなんだな。

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 11:09:28.61 ID:88yyrNxx
病気で早世したというよりは、有能さを恐れられて毒殺のほうがカッコイイということか。

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 11:10:19.19 ID:9mDsavLx
肝硬変の症状だな

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 11:20:23.02 ID:aKAhGxdn
肝硬変、肝臓がん、直腸がんなどの説があるねい。
んで、症状や闘病期間から毒殺はまずありえないというのが定説。

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 14:29:44.68 ID:v/cke0Ys
氏郷の病状は医学天正記にも書いてたな
確かまとめにもあったような…

心の問はば如何こたへん

2018年06月19日 18:12

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/19(火) 00:25:10.18 ID:LF7ESyC8
長岡越中守(細川)忠興が蒲生氏郷に、蒲生家重代の宝である”佐々木鎧”を所望したことがあった。
氏郷の家臣である錦利八右衛門は、「似せの鎧を遣わしましょう」と申し上げたが、氏郷は

「『なきなどと 人には言て有なまし 心の問はば如何こたへん』という古歌がある。
お前の言う事、我が心は恥ずかしい。

確かに佐々木鎧は天下に一足の鎧であるから、それが如何なるものか知る者はほとんど居ない。
だが、私は一度忠興に遣わすと言ってしまったのだ。そうである以上、後に残ったとしてもそれは重宝ではない。」

そう言って佐々木鎧を忠興へと遣わした。後になって忠興は、その鎧が蒲生家重代の宝であることを知り
様々に返還しようと働きかけたが、氏郷は決して受け取ろうとしなかった。

この鎧は氏郷逝去の後、跡を継いだ秀行へ返還されたという。

(氏鄕記)



20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/19(火) 05:34:44.11 ID:PX6q8q1U
半分にされなくてよかったな

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/19(火) 08:36:19.46 ID:FtljizKO
後で知って慌てる三斎さんw
ちょっと珍しいパターンかも。

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/19(火) 17:39:01.63 ID:780zjbW0
忠興さんええ人やな
氏郷さんもええ人やな

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/19(火) 18:55:35.55 ID:TBSus3I3
>忠興さんええ人やな
ええっ?……

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/19(火) 19:13:09.28 ID:MQw5BSy8
鎧の由来とか説明を聞いてなかったのね

物事に分別のある人

2018年06月17日 17:47

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/17(日) 15:34:15.91 ID:p3ch8gs1
ある時、蒲生氏郷が伏見の前田利家の屋敷を訪ねた時、蒲生家と前田家はもとより縁辺であるので
(利家の次男・利政の妻が氏郷の娘)、供の侍たちは蒲生家、前田家共に座敷に入るのであるが、
その時は蒲生家の侍たちは、座敷には入らなかった。

ところが、氏郷の小姓である岡半七という者、これを知らずいつものように番所の戸を開けて
座敷に入ろうとした所、傍輩が一人も居ないことに気が付き、驚いて座敷の戸を閉めて退出した。
この姿を番所に居た者たちが小声で笑った。

その瞬間、岡半七は太刀の柄に手をかけた
「汝ら何を笑うのか!?」

声高に過ぎたその声を氏郷は聞き付け
「また半七めか。いつもの大声だな。」と、つるつると座を立ち半七を呼んで、特に用があったわけでは
無かったが、当座の事について長岡越中守(細川忠興)への使いに出した。これによって喧嘩を止めたのである。
このように氏郷は、物事に分別のある人であった。

(氏鄕記)



18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/17(日) 17:04:59.83 ID:UyI9nnUz
ぷーくすくすされたら、刀を抜かないといけない。これ、侍の掟。

バラッバラな量産型蒲生さん達

2018年06月16日 21:16

3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/16(土) 00:14:15.64 ID:K4wdcAWg
朝鮮の役にて、秀吉が本営である肥前名護屋城に滞在する間、蒲生氏郷もこれに従っていたため、
本国の会津には留守居を置いていたのだが、その留守居である蒲生四郎兵衛と蒲生左門とが、
私に合戦を行いかけた事があった。

この蒲生左文郷可というのは北近江の住人で、上坂伊賀守の子、上坂兵庫助の養子であり、
氏郷にとっては従兄弟の婿であったのだが、かつて浅井長政に味方して本領を失い、
その後柴田勝家に仕えたが、勝家死去の後、左文は氏郷を頼って秀吉に仕えることを望んだ。
しかし氏郷は彼の武芸を常々見聞きしていたので、「先ず我が家中に迎えたい」と、彼を
召し抱えた。このように望まれての奉公であったため、何事も自由に出来、やがて蒲生家中でも
屈指の存在と成った。

去る年も、蒲生氏郷より。米沢城に3万8千石を副えて、ここに左文を置き「百万石の
仕置をしてもらいたい。」と懇願された。しかし左文はそのような仕置は自分には出来ないと、
固く辞した。「では、誰に仕置を任せるのが良いか」と尋ねられ、「蒲生四郎兵衛尉こそ
然るべきです。」と答えた。これを聞いて氏郷も「私もそう思う」と同意し、米沢城は
蒲生四郎兵衛に任された。

ところが近年になり、この蒲生左文と蒲生四郎兵衛の関係が悪化した。
蒲生四郎兵衛は左文に「あなたは筋目の者だからこそこのように指図をしているのだ」と
語ったが、関係はますます悪化するばかりであった。
また双方の領地である米沢、中山は近接した地域であったため、四郎兵衛の領地より
逃亡してくる者があれば左文はこれを保護し、左文の領地から逃亡する者があれば四郎兵衛が
保護した。

ある時、蒲生左文の領内の者が逃亡したが、左文は侍分の者たちに下知して米沢領分へ押し込み、
これを搦め捕って帰った。
また四郎兵衛の領内の者が逃亡してきた時、侍たちがこれを取り返そうと、文禄元年10月16日に
押しかけたが、左文側によって寄騎の侍5騎、その他大勢が討たれる事態となり、これにより
事が大きくなり、合戦に及ばんとした。

左文方の武士たちは、中山、宮内の両城に立て籠もった。さらに白石の蒲生源左衛門も四郎兵衛と
仲が悪かったため、左文に味方し加勢を送った。また左文の舎弟上坂源之丞も加勢として参った。

しかしながら、蒲生四郎兵衛方の長谷川如水の分別のお陰で、合戦にはならなかった。

この時蒲生四郎兵衛も蒲生左文も会津に居たので、蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、蒲生喜内等が
扱いを入れ、無事に調停されたという。

(氏鄕記)

氏郷が居ないとバラッバラな量産型蒲生さん達であった。



864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/16(土) 09:57:16.32 ID:A+3bsZ1O
長谷川如水の分別って、なんだったんだろう。
しかし、関わっているのが、蒲生さんばっかりで、区別がつかない・・・

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/16(土) 10:24:43.23 ID:UBwsR3+g
蒲生だらけの運動会

世の中に 我は何をか那須ノ原

2018年06月15日 20:58

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/15(金) 00:04:24.55 ID:ldS390FA
文禄元年、朝鮮の役のため、会津より上洛の途に付いた蒲生氏郷は、途中那須ノ原という場所を
通った。そこはあまりに人気無く、非常に物寂しい場所であった。
ここで氏郷は思いつくままに、一首詠んだ

『世の中に 我は何をか那須ノ原 なすわざもなく年や経ぬべき』

そう言葉にして、打ち過ぎたという、

(氏鄕記)

氏郷みたいな人でも「俺は何も成さずに今まで生きてきてしまった」みたいに思うこと
あったのですね。



14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/15(金) 00:38:12.36 ID:aqx17Q8P
天下鳥以外は、「成した事」に入らないみたいなノリだったりして。

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/16(土) 10:50:45.33 ID:OPn9dD68
意識高い系戦国武将

お陰を以って天下に面目を

2018年06月14日 18:18

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/14(木) 17:07:32.39 ID:MnYHqCft
天正19年(1591)、豊臣秀吉は隠居し、天下並びに聚楽城を猶子である三好中納言秀次へ譲った。
その官位昇進のため、同年12月28日、秀吉秀次以下天下の諸大名は、位次第に車にて参内を
することとなった。

この時秀吉は、蒲生氏郷の次に伊達政宗、その次に山形出羽守(最上)義光と定めた。
ところが氏郷は御前に進み出て

「山形(最上)は源氏の縁であり、その上政宗にとっては母方の叔父にあたります。
政宗の後にすべきではありません。」

このように申し上げたところ、秀吉も「そういう事なら」と、最上義光を政宗の前に立てた。

これを知った義光は謹んで氏郷に申し上げた
「お陰を以って天下に面目を雪ぎました。この御恩はいつの世に忘れることが有るでしょうか。
氏郷殿御一代、それがし一世の間に、会津に何事か有れば、その御用に立ちましょう。
その証拠として人質を進上しましょう。」

それより子息の一人駿河守(家親)を、氏郷の生きている間は差し置いた。

(氏鄕記)



11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/14(木) 17:10:00.88 ID:NpoWDhvU
氏郷が、最上家の取次だったのかな。わざわざ人質まで送るとは。

セキレイの目

2018年06月13日 17:53

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 16:12:05.73 ID:jXBncqBZ
葛西大崎一揆が終結すると、蒲生氏郷は二本松城へと帰陣した。ここで秀吉より派遣された
浅野長政と対面した。長政は「今回の働きは大変な誉れでした」と氏郷を讃え、今後のことを
相談し、先ずは伊達政宗より取った人質を連れて上洛し、今回の事態に至った経過を申し上げると
決まった。去年のうちに出した飛脚も京都に到着し、豊臣秀吉は浅野に加えて石田三成をも
会津に下すとの事であった。

このような所に、何を思ったのか伊達政宗が「私もあなた方と相伴して上洛したい」との旨を
二本松に伝えてきた。両人は「一段然るべし」とこれを許諾し、先に浅野長政が出立し、
その次に伊達政宗が立った。氏郷は「この上は必要ない」と、政宗からの人質を返した。

しかしこの時の政宗の風情は聞くも恐ろしいものであった。死に装束の出で立ちで、金箔を貼った
磔ものの杭を馬の先に持たせて上洛したのだという。

政宗の後に氏郷も出立し、上洛すると秀吉の御前にて一揆の様子を順々に申し上げ、並びに
政宗の家来であった山戸田八兵衛、牛越宗兵衛が持参した、葛西大崎一揆を政宗が扇動した
証拠となる證文を渡した。
秀吉は氏郷に「今度の手柄に勝ることはない」と激賞し、「こんな事があるかも知れないと思って、
御辺を名代として会津に置いたのだ。」と語りかけた。

その後、政宗への尋問が行われたが、政宗は
「今度逆心を起こした山戸田、牛越と申す者たちは、彼らが幼少の頃より身近くにあり、
また祐筆も申し付けていたので、今回は私への恨みのままに、偽判をしてしまったのでしょう。」
り申し上げた。これを聞いた人々はみな「嘘くさい言い分だ(実しからぬ云分かな)」と言ったが、
政宗は
「疑われるのなら、その判を御見せ候へ」
と請うてこれを見ると

「さてこそ、これは偽判です。私の判は、セキレイの形を模しておりますが、これには、その目が
ありません。本物の判には目が付いています!」

そう陳述した。これにより秀吉は、諸大名小名を詮索し政宗の書状を取り寄せたが、それらには全て、
確かに目が付いていた。
伊達政宗の謀は非常に奥深いものだと感じられた。

これによって言い分が一つ立ち、また秀吉としても、政宗がこのように京都にいる以上
おかしな動きはできないと、再び柔和を加えて、政宗は京都に押し止め、長く在京させたのである。

(氏鄕記)

有名な「セキレイの目」の逸話



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 17:08:15.98 ID:NO0axVvC
一応、言い訳はできたけど、信用はされなかったわけね。政宗自身が人質になったようなものか。
しかし、よく取り潰しにならなかったなあ。もっと薄弱な理由で改易された大名は多かろうに。
秀吉を機嫌よくすれば勝ちなのだろうか。

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:37:04.33 ID:EXL6zAuI
その後、ラスボスのお気に入りになったからな。なにかを感じたんだろうw

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:49:34.96 ID:9Iw3leKK
伊達家潰して新たな騒動の火種を作るより火中の栗を拾わせたほうがマシってことじゃね

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:59:59.61 ID:TpbmBOju
>>856
お気に入りと言っても、減封の上さらに僻地に転封し、その上、中央の政局には一切関わらせないようにしたわけで。

関ヶ原まではプライベートで叫んでいるだけの存在。

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 20:28:35.17 ID:EXL6zAuI
東北勢みんなそうやろ。

大仏殿普請の事

2018年06月12日 21:01

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/12(火) 00:05:21.87 ID:6bYuvtCd
大仏殿普請の事

去る程に四海八島の外も波静かに治まり、関白左大臣豊臣秀吉公は京都に大仏殿を御建立あるべしと、
天正17年の春より人夫を揃え、京に石を引かせた。
大仏殿は五条の橋の方で、その大門の石は松坂少将蒲生氏郷の担当と成った。
それは一辺が2間(約3.6メートル)の、四角形の大石であった。
大津三井寺の上より、漸く道まで引き出したが、そこで秀吉から氏郷に
「あの大石は人夫への負担が大きいので輸送は中止するように。」
と伝えられたため、氏郷も畏まりこれを中止した所、それを京童が一首の狂歌を詠んで
落書にして立てた

『大石を 道の蒲生に引き捨てて 飛騨の匠も成らぬものかな』

もちろん飛騨とは氏郷の受領名「飛騨守」の事である。氏郷はこれを知ると
「京童に嘲られる事こそ口惜しい!ならば引いてみせよう!」
そう決意し、再びこの大石に取り付き引き始めた。

蒲生源左衛門尉郷成の、その日の装束は太布の帷子の、袖裾を外し背には大きな朱の丸をつけ
小麦藁の笠に采配を取って石の上に上り、木遣をした。
その他には、蒲生左門家来である中西善内が笛の役、蒲生四郎兵衛郷安家来、赤佐一蔵は太鼓の
役で、拍子を取り、これが誠に面白いと人夫共もこれに勇を得て引いた。
また氏郷自身がこれを奉行したので、氏郷の侍たちも皆、石を引く本綱末綱に取り付き、
我劣らじと引いた。

ここで、戸賀十兵衛の人足の一人が、草鞋の奉行であるからと傍に居たのを氏郷が見つけ
「あれは如何にも悪き奴かな!搦め捕ってこい!」
と命じ、土田久介という小姓がこれを承り、走り寄り手巾にてかの者を搦めて来ると、
氏郷はこれを田の畦に引き据え、腰の脇差を抜いて、立ちどころに頸を落とした。

これを見た者たちは興醒め顔にて、なお一層石引に精を出した。しかしながらやはり大石
であり、なかなかうまく進まず、人夫たちにも次第に疲れの色が濃くなった。
そこで「彼らに力を与えよう」と、都より傾城十余人を呼び寄せ、石の上に登らせ
小歌を謡わせると、これにひときわ気力を得た。

しかし、日岡峠を登らせる時は流石に不可能に思えたが、氏郷は源左衛門尉郷成に、
「どうにか精を出して引き登らせよ!」と命じた。
郷成は「承り候」と言うや、わざと田の中に転び落ちた。彼は装束を泥だらけにして
起き上がると、それを見た人夫たちは、一斉にどっと笑った。その夥しい笑い声は
暫く鳴り止まないほどであった。
そしてその勢いでこの峠をついに越えたのである。氏郷は非常に喜び、彼に秘蔵の名馬を
与えた。

その後も人々精を出して引いたが、どうしたことか鎖綱が引きちぎれ、額に当たって
人夫一人が死んだ。しかし別の鎖に付け替えて引き、ついに加茂川へと引き入れ、都の内へと入った。

ここで氏郷は「今度の京童共による狂歌への返報である」と、人夫共を京の民家の上に
上らせで石を引かせた。このため大仏殿の方向にある家々は踏み破られた。

そこに関白秀吉が氏郷を迎えに御出になられた。御供は木村常陸介で、彼らは石の上に
上がってきた。これを見て赤佐一蔵は驚いて石より飛び降り、郷成、中西善内も下りようとしたが、
秀吉は「そのまま罷りあれ!」と彼らを留め、自身は帷子に着替えて木遣を成された。
常陸介は太鼓を打ち、中西善内はまた笛を吹いた。こうなった以上、秀吉の御供として
付き従っていた大名小名もみな石に取り付いて引いたため、そこからは飛ぶように進み、
程なく大仏殿へと到着した。
この時、一番の大石を尋ねた所、この氏郷の引いてきたものより大きな物は無かった。

(氏鄕記)

有名な話ですが、出典付きで



6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/12(火) 01:03:03.38 ID:gXqWeN7x
男塾の直進行軍を思い浮かべてしまうな

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/12(火) 09:24:59.36 ID:5Fu7ixea
蹴上あたりから、どういうルートを通ったんだろう。お寺も、犠牲になってそうだけどw

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/12(火) 11:34:45.72 ID:7/r2BUUk
約2名を除いて楽しそうだな(小並感

富士には似ぬぞ松坂の

2018年06月11日 19:16

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 18:36:07.89 ID:3S+RqTvu
種村大蔵入道慮斎は元は織田信長に仕えた御咄の衆で、信長死後は蒲生氏郷に、
同じく御咄の衆として仕えた。

さて、氏郷が豊臣秀吉より伊勢松坂を拝領すると、蒲生家中の面々は屋敷を取り立て、
美々しく家を建てた。
この慮斎も屋敷を造り、その庭には富士山を築いたと評判であった。
そこで氏郷もある時、「そういう事ならば御辺の庭を見たい」と、わざわざ彼の屋敷へと
参った。

所が、慮斎の築いた山を見ると、頂上が丸い。
氏郷は去る年、織田信長による武田征伐の時東国へ赴き、富士山を見たことがあったので
思わず笑いだした

「これはどういう事だ、こんな富士山は聞いたこともない!」

そして興に乗り、硯と紙を持ってこさせ、短冊に一首を詠んでこの築山に立てて帰った。
その短冊には

『富士見ぬか 富士には似ぬぞ松坂の 慮斎が庭の擂粉木ヶ嶽』

(氏鄕記)



994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 19:55:02.89 ID:6u0nRO91
すりこぎヶ岳って、どんだけ丸かったんだ。ハワイの火山みたいなものか。