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汝は正直なる者かな

2021年02月07日 16:28

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 15:25:36.33 ID:5gFfphl4
これは吉田又左衛門が語ったことなのだが、佃又左衛門には武道の心懸けがあり、度々の用に立った
侍であった。その佃の物語に、

「総じて主君が言ってくる事で、無理なことを言ってきたとしても、さしあたりの申し訳をするのは、
事にもよるが、基本的に固く慎むべきである。

私が蒲生氏郷に仕えていた時、奥州において敵の城中に押し寄せ、陣取りをしたのだが、そこに大将で
ある氏郷自ら忍んで、夜な夜な陣中を巡り、勤めるを勇め怠るを戒められた。

ある時、敵が夜討ちに出た。私は真っ先にそれと渡り合い、氏郷の見ている所で、鑓にて競り合い、
終に敵を追い払った。

翌日、軍功の評価の時、氏郷はこう言われた
「佃は常々の心がけに違わず、先駆けしたこと大功である。さりながら、少し狼狽えていたと見えた。
鑓の鞘を外さずに突き合いをしていた。」

私は承って、「誠に夜討ち厳しく、鑓の鞘を外したのか外さなかったのかもわきまえ難き状況でしたが、
奇特にご覧になられたものです。」と申し上げた。

氏郷は「汝は正直なる者かな。世の常の者なら、今のようには申さないだろう。誠の武士である。」
と褒美された。」

思うに、合戦という時に臨んで、鑓の鞘を外さないという事はありえないのだが、主君の言葉が
違えないため、自身の身を顧みないという気持ちが、常にその心内にあったため、こういった事態に
臨んで外に顕したのだと見える。尤も殊勝な事である。

備前老人物語

つまり蒲生氏郷の勘違いをうまくフォローしました、という話ですね。



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雪にはおれぬ青柳の枝

2021年01月04日 17:47

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/04(月) 15:55:09.68 ID:fnVE6c2t
蒲生氏郷が病に伏せられた時、利休が見舞いに来た。この人は氏郷の茶の湯の師であったので、
寝床に迎え入れて対面した。

利休は病の有様を見て、
「御患いの御養生は、未だ半ばと見えます。あなたは第一には。御年も若く、文武の二道の御大将であり、
日本において一人二人というほどの御大名であり、どれもこれも大切な事共です。
慮外ながら、あなたは御保養を疎かにしているように存じます。どうかご油断なさりませんように。」

そう言うと、氏郷は

「かきりあれは ふかねと花はちる物を 心みしかき春の山風」

と詠まれた。これに利休は涙を流し「殊勝千万の御事かな。」と言うと、しばらく言葉もなかったが、
やがて「さようには候へども」と言いながら、涙を抑えて

「ふるとみは つもらぬさきに はらへかし 雪にはおれぬ青柳の枝」
(あなたは、雪が降ってきても積もる前にそれを払い返し、雪の重みに折れることのない青柳ではありませんか)

と言って、その後物語一つ二つして立ち帰った。

備前老人物語

これは実際には、氏郷と、利休の養子である千少庵の間の逸話のようですね。



腰抜の吹は鳴らぬ物ぞ

2020年11月20日 16:42

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/20(金) 11:53:31.97 ID:iz2k0goG
本多三弥(正重)は、隠れ無き剛直の武士で、元は本多美濃守の家臣であり、後に蒲生氏郷に属した。

蒲生氏郷が九州の役で、筑紫の岩石の城を攻められた時、氏郷が貝を吹こうとされたがが、この時三弥は氏郷に
「腰抜けが吹いても鳴らぬものだ!(腰抜の吹は鳴らぬ物ぞ)」
と云って、引き奪って音高く吹いた。

帰陣の後、氏郷はこれを意趣に思い、ある時、三弥が禁所にて鳥を打った事を理由として、三弥の屋敷を
取り囲んでこれを誅殺しようとした。

この時、都筑惣左衛門と云って、東照宮(徳川家康)旗下の武士が通り合わせ、その故を問うた。
しかじかと理由を聞くと、彼は三弥の大知音であったので、鑓一本を持って三弥宅へ駆け入った。
攻める者達はこの事態を氏郷に注進し、「この者、共に討ち取るべきでしょうか?」と尋ねた所、
どういうわけか「二人ともに逃がすように」と云われた。これによって、遂に命を全うした。

この都筑は面相が生まれつき、猿に似た人であった。現在も幕府の旗下にその子孫がある。

老人雑話



それ以降、斎藤内蔵助の異見の如く

2020年11月06日 18:16

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/06(金) 13:59:28.90 ID:ZA1G15La
私(蒲生氏郷)が儒道歌道茶湯ばかりに心がけていた頃、弓矢修行を仕っていた斎藤内蔵助(利三)と言う者が申すには、
「入らぬことに心を尽くすより、家職に心を入れよ」と云い、私は度々諌められたのだが、若輩故か、さほども
耳に留めず、そのまま打ち過ぎていった。

そんな所に、織田信長公が江州観音寺へ御出馬され、先手は伊賀衆、二番に美濃衆・近江衆の寄り合い勢であった。
その中に私も在り、敵に打ち向かっていた所、斎藤内蔵助はただ一騎来たりて、
「伊賀衆は今日先手を成すが、軍立、足軽の使いようが非常に乱雑に見える。あれでは城中より人数を押し出し
かかって来れば、敗軍するだろう。

その方、備えを西の山本、竹藪の内に隠し置き、先手が崩れたならば通し過ごし、敵陣の真ん中に横入りに
駆け入れば、必ず勝利を成すだろう。

また、崩れず恙無く引き取るようであれば、その時は伊賀衆に乗り向かい
『今朝よりの御働きのため、御草臥れに成られたことでしょう。私が入れ替わって跡を受け持ちます』と
断りを入れて殿を仕れば、これも高名となる。両方とも変わらない。」

そう申したので、その意に任せ、西の山本竹藪の中に人数を入れて待っていた所、案の定、伊賀衆は深入りし
観音寺の足軽に押し立てられ敗軍した故に、私は横入りにかかり、敵は逆に敗軍し、十四、五町追い討ちをし、
三十人ばかりの首を討ち取り、信長公の御目にかけた。そして『若輩が神妙の働きである』と、御感になり、
二字國俊の御腰の物を拝領仕った。

それ以降、斎藤内蔵助の異見の如く、武士に遊芸の誉れは要らぬと会得したのである。

蒲生飛騨守氏鄕書状之写

蒲生氏郷が、斎藤利三に武士としての有り様を教えられたというお話



684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/06(金) 16:11:28.16 ID:bqJKElpR
なんで斎藤利三蒲生氏郷に対してこんなに偉そうなの
方や当時は稲葉一鉄の家臣、こなた信長の娘を娶り自ら烏帽子親を務めたほどの御曹司
弓の師匠であっても戦場では身分違いで気安く指示するような立場ではなくね?
あるいは軍監として付けられてたとか? でも陪臣を軍監として他の家の軍勢に付けたりするの?

あと斎藤利三蒲生氏郷も結局のちのち茶の湯はやってるじゃんというツッコミも

686 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/11/06(金) 23:15:19.49 ID:Q61bka++
>>684
この場合の弓矢って弓術じゃなくて戦のことじゃない?
アドバイス自体も「こうやるとどう転んでも手柄になるよ」って感じだから
受け入れ易いと思うし

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/07(土) 22:42:13.47 ID:8aJnR1j9
近江の国人の蒲生と美濃の国人の稲葉と斎藤の三者は身分違いつえるほど身分は違わないから特に違和感はないな

わいの先祖。

2020年08月13日 18:08

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 20:09:10.92 ID:z6EQmOdD
わいの先祖。
近江の土豪で蒲生氏郷に使え会津まで付いてくも、当主の早死にが続き減封でリストラ。
運良く近江の名家京極家にデューダするが関ヶ原で大津城籠城に参加し、落城落ち延びる。
またまた運良く親戚が有力大名に使えててその縁で再就職。その親戚が大阪の陣で大活躍して永代家老職になり、先祖安泰。
しかし有力大名が粗相して切腹。わいの先祖は討ち入りに参加。
おとんは長男には秘密にして次男は養子にだして御家存続を図るも、いざ集合場にいったら家族三人勢揃い。お家はなくなっちゃいました。



254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 21:04:07.35 ID:mb3/KsK0
デューダするって21世紀になって初めて見た気がするw

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 21:05:14.67 ID:v7GOyqug
奉行に届けてるだけ理知的だなって思ってしまった

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 21:17:50.26 ID:tsLUhoru
>>253
間喜兵衛か

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/24(月) 05:14:25.16 ID:VJwm7SWo
>>256
マイナーなのによく分かるな。すごい。

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/24(月) 17:21:29.52 ID:Wzvp7A45
>>292
47人のうち一家三人参加で考えると間家しか

天正十二年、美濃賀々城攻め

2020年03月09日 18:28

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/09(月) 18:02:57.78 ID:oiSUTUIE
小牧長久手合戦の時のこと。
尾張国竹ヶ鼻城では不破権内(綱村)の子息である源六郎が立て籠もり、織田信雄に合力していた。
そこで羽柴筑前守秀吉はじめ、その他の大名はこの城に押し寄せ攻め寄せ、水攻めに然るべしとして
大河小河を切かけ攻め破った。それより直に美濃国賀々城へ押し寄せ攻められた。

これに城中の兵たちは
「寄せ手の軍勢に比べれば、自分たちは大海の一滴、九牛の一毛である」と、叶うとも見えなかった。

城主の賀々井駿河守は謀りを廻らし、五月六日の夜、寄せ手の陣へ夜討ちをかけようと、伊勢国住人である
嶺、久須、千草、上木の四人を大将として、子の刻(深夜0時ころ)に追手の門より打ち出た。

実はこの内の千草は、蒲生飛騨守氏郷の母方の叔父であり、宵の頃より飛騨守に対して知らせが有ったという。
されば蒲生氏郷は「氏郷でなければ手に合わない」と、真一番に掛け合って戦われた。それに続いて
上坂左文、小坂といった侍たちが左右に従った。
その他、寄せ手の軍兵我も我もと追手の陣へ向かった。

五月の暗闇は大変暗く、敵も味方も見分けることが出来なかった。敵が二人落ちて来たのを、氏郷が
「何者か!?」と声をかけると、彼らは偽って「浅野弥兵衛家臣、生駒弥五左衛門!」と名乗った。
しかしこれを聞くと「そんなわけがない」と二人共に打ち留めた、

ここに城方の嶺孫三郎は、生年十八歳、容貌美麗、また人に優れて心優しい人物であったで、天下の男女恋焦がれて
小唄などを作って謡うほどであったが、彼も真っ先に駆けて戦ったところ、味方の兵たちと共に中に取り囲まれて
生け捕りと成り、片陰にて頸を斬った。

次に久須は生年十六歳、これも無双の若衆であったが、同じく氏郷勢に生け捕られ頸を斬られた。

千草は当時六十歳ばかりの人物であったが、これも氏郷勢に生け捕られ頸を斬られた。

上木は歳三十ばかりと見えたが、これも討ち死にした。

こうして城方は敗北し、落ちてくる敵はその数を知れぬ程であった。
また関勝蔵の家子・佃又右衛門は追手の門際まで攻め寄せ、比類ない働きをして良き頸を取ってきた。
或いは、敵が「蒲生の者である」と名乗って氏郷の前に来たのを討ち留めたのも多かった。

敵は蜘蛛の子を散らすように落ちていくのを、氏郷主従三人はその真ん前にて突き倒し、斬り伏せ、頸を獲った。
その他、寄せ手も大勢が頸を取ること、その数が知れぬほどであった。

暫く戦っているうちに夜も白々と明けると、氏郷は左文、小阪を召して、自分の鑓を突き出し「これを見よ」と
言った。その鑓はササラのように成っていた。氏郷の鑓下の頸が曲がって、鑓の柄に血が朱に流れていた。
左文、小坂の鑓も見た所、ササラのように成っていた。
その時氏郷は
「今夜の合戦は、この三人のみが骨を折ったのだ。」と申された。
寄手の方が討ち取った頸数、都合四百余の内、氏郷の手にて百余を取ったと云う。

寄手の軍兵が我も我もと追手へ寄せ戦う間に、城の大将である林与五郎賀々井駿河守は密かに搦手より出て、
遂に尾張国へ落ち行った。

氏鄕記

蒲生氏郷等による、美濃賀々城めについての記事である。


滋賀京都辺りの妖怪 ガオーさん

2020年01月14日 17:17

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 17:51:10.32 ID:2v3QEvLh
滋賀京都辺りの妖怪でガオーさんってのがいて
それは戦国時代六角氏の領民が蒲生氏郷を恐れて蒲生が来るぞがなまったとされる
みたいなニュースは見たことはあるなぁ、どの程度信ぴょう性があるかはしらないけれど

ガオーなんて怖い生き物の鳴き声からの着想で十分ありそうだし



512 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/13(月) 18:32:37.48 ID:2jgCXgsI
>>511
我王かな?と思って火の鳥を思い出したのは俺だけで良い

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 18:39:43.01 ID:FG5Q7KtQ
能登には逆に、上杉謙信の襲来の時、鬼や幽霊の格好で太鼓を成り響かせて上杉軍を
恐怖させ撤退させたという、「御陣乗太鼓」の伝承があったりするね。

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 18:47:47.72 ID:Ox4dFlNG
謙信「わっ、お化け!怖いから越後に帰ろう…」

かわいいじゃん。

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 00:11:12.70 ID:bKDKxVUo
>>511
滋賀の街にガオー
夜の京都にガオー
すみません言ってみたかったんです…

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 14:25:33.63 ID:aQvqBDrV
>>511
京都の町人は氏郷をおちょくった
『大石を道の蒲生に引き捨て
  飛騨の匠も成らぬものかな』
の落首で氏郷をぶちギレさせて
方広寺まで一直線で巨石を運ばれてるからな…

ぶちギレたガモーさんに町を破壊される恐怖を実際に体験してる事を考えると
コクリムクリのようにガオーさんの元ネタと言われても違和感ないわ

豆州韮山城攻め

2019年11月03日 17:15

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/03(日) 10:54:29.02 ID:5cUHPvts
豊臣秀吉による小田原征伐、豆州韮山城攻めでの事

この韮山城主である北条美濃守氏規は知勇兼ね備わり、信義仁徳に厚い武将であったため、
配下の者もよく美濃守に懐き、この度の戦いでは尽くが、主人とともに城を枕にと互いに誓い合った。

そして美濃守は平時より弓を良くし、その配下にも二人張り、三人張りの弓を引き、百発百中という
者が多かった。そのようであったので、箙(えびら)、胡祿(やなぐい)、尻籠(しりこ)、空穂(うつぼ)
といった矢入れも上等のものをあつらえ、そこから手早く取り出し射る矢は、刺矢も遠矢も威力があり、
雨あられと降る矢に仇矢は一本もなかったのである。

さらに加えて、鉄砲の名人が櫓の上や塀の狭間より眼下の敵を撃つのである。寄せ手は見る見るうちに
撃ち殺され、死人の山となった。

この時、寄せ手の蒲生氏郷勢の先鋒である蒲生左門(郷可か)は、采配を振るいよく下知していたが、
城中よりの鉄砲が左門の従卒に持たせていた槍の柄を真っ二つにした。さらにその弾丸は弾み、左門の
左目に当たった。しかし左門は血が滝のように流れ出ている左目に指を突っ込み弾丸を取り出すと、
そのまま尚も先頭に立って進んだ。この姿を見た味方も城方の兵も一様に感嘆し、

「彼は鎌倉源五郎景政(後三年の役で右目を射られながらも奮闘したという逸話が有る)の再来か」

と語り合ったという。

(関八州古戦録)

小田原役における韮山城攻めの様子



309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/03(日) 19:06:57.66 ID:tZVaJSMw
目ん玉取り出して食べた話かと思った

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/04(月) 02:43:07.67 ID:lxC86Rew
有能だったんだねえ

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/04(月) 06:13:54.90 ID:Op4v5g6D
目に弓矢ささる逸話は世界各国ありそうだ

蒲生氏郷、小田原役に際して

2019年10月30日 17:17

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 15:24:11.20 ID:CG1Gj3kI
蒲生飛騨守氏郷は、南伊勢五郡12万石を領する飯野郡松坂の城主であるが、今度秀吉の命で
一軍の将として、天正十八年三月二日居城を出て関東(小田原征伐)へと向かった。

出発に当たり氏郷は、領内で家中を整え勢揃いをした。前駆、後駆の手当もし、隊伍の備えも済ませ、
自身は家重代の鯰尾兜を近臣に持たせ、ここに居よと命じて軍勢の見聞をし、その場に戻った所
兜を持たせた家臣は居なかった。その最初の失態に氏郷は何も言わず、二度目の見聞の後、その場に戻ると
又もその家臣は居なかった。何かの事情でやむなく場を外したのであろうが、主人の命を二度まで
蔑ろにしたということで、氏郷は即刻太刀を抜いてその家臣を切り捨てた。これを見た諸士たちは
唇を震わせ恐れ、小田原及び奥羽の陣中。誰もが厳しく軍法を守り命に背く者は居なかった。

またこの当時、氏郷の馬印は熊の毛の棒であったが、今回関東に発向するにあたって、その馬印を止めて
三階笠を用いたいと、秀吉に願い出た。三階笠の馬印とは、越中の佐々内蔵助成政の馬印で、天下周知の
ものであるだけに、秀吉はこれを許さなかった。
氏郷が「では私の武勇は成政に劣ると言われるのでしょうか?。」と問うと、秀吉は
「今暫く待つように。小田原表での働き次第で許すとする。」と答えた。
氏郷は黙って引き下がったが、今度の出陣に命を捨てる覚悟であることが見て取れた。

氏郷は松坂を出発前に画工に命じ、綾の小袖を着し手に扇を持った自分の姿を旗指物に描かせ、
例の三階笠も内緒に仕立てた。そして門出に当たって重臣である町野左近将監繁仍の妻を呼んだ。
この女性は氏郷の乳母であった。

氏郷は彼女に語った
「私は関東に下って討ち死にする覚悟である。なのでこの旗を江州蒲生郡日野の菩提所に送り
納めるように。」
そう言って旗を渡した所、乳母は涙を流して
「殿は未だ歳もお若いのに、そのように、旗を菩提所に納めるなどというのは忌々しき事です。」
そう承知しなかったが、氏郷はこれを笑って
「この度はるばる関東に下れば、生死のほどはおぼつかない。もし予想したように討死したのなら、
我が子藤三郎秀行が成長の折、父の平生の姿を見たいと思うことも有るだろう。その時はお前が
長生きをして、この絵姿を見せ、また我が事もよく語り聞かせて欲しい。」
そのように言った。

また三階笠の馬印は、その後小田原攻めでの斉田口の夜討ちで戦功を立て秀吉より御感を賜り、
翌日三階笠の馬印を許されたという。

(関八州古戦録)

小田原役に際しての、蒲生氏郷の事



292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 17:36:57.94 ID:c98Y6W1Y
小田原では死なないけどその数年後だよね
若くして死ぬのは乳母不幸でもあるな

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 18:11:05.23 ID:ziwIggb6
工場長は人生が漫画チックだな。原哲夫にお願いしたい。

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/31(木) 06:23:50.17 ID:uednysj4
ぶった斬る前に叱ってやって欲しいよね...無茶苦茶腹を壊してたかもしれないしさあヽ(´Д`;)ノ

世の中すべての床天井は高くなった

2019年07月25日 16:25

千利休   
112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/25(木) 13:59:39.80 ID:CM8ckPJ8
芝山監物は秀吉公の御伽衆であった。
住吉にある一休禅師の寺の方丈に『初祖菩提達磨大師』という一休の墨跡が残されており、
これを佐久間甚九郎が購入し、芝山へと差し上げた。
すると千利休が、これが村田珠光の表具である事に気がつき
「珠光以外の誰がこのような表具を出来るでしょうか。さてもさても。」と絶賛した。
村田珠光は一休に参禅していたと言われる。

ところがこれは非常に長い掛物だったため、床に掛けることが出来なかった。
芝山監物蒲生氏郷と細川三斎(忠興)に、「利休に表具のことを頼みたいので、仲介をお願いしたい。」
と頼んだ。

ある時、利休、氏郷、三斎の三人を、芝山監物が茶会に呼んだ。この時あの墨跡を、床天井の前に、
上を巻ため、弱竹で角を押し入れて掛け、下の方も巻きためて置いた。
そして芝山は「この掛物を床に掛かるようにして頂きたい。」と利休に頼んだ。

しかし利休は「これに誰が手を入れることが出来るでしょうか。」と同意しなかった。

これに芝山は憤り
「たとえ珠光であってもナニ光であっても、床に掛かるよう直して頂けませんか。竹で押し入れているので、
毎回壁も傷み、どうしても掛けられないのです。」と訴えた。
相客の氏郷、三斎も「あれほど望まれているのですから、お直し下さい。」と言った。

だがこれに
「それはどういう事でしょうか。良いものを悪くする事を私は致しません。どうしてもそうしたいのであれば、
あなた方がなされば良い!」と、利休は散々に叱りつけ、不機嫌になられた。

「珠光のされたことを決して変えてはならないのだ。であるから、床の天井を高くして掛けられよ。」
そう利休は言った。

この事が有ってから、世の中すべての床天井は高くなった。利休の功績である。確かに文字は
高く掛けたほうが見事である。寺の山門の額も、上に打ってこそ見事であるからだ。

この掛物は今は将軍様の元にある。『天下一の一休』とはこれの事である。

(三斎伝書)



119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 23:51:50.50 ID:amHD0ylJ
>>112
>「たとえ珠光であってもナニ光であっても、床に掛かるよう直して頂けませんか。

鮭様「一体ナニ光なんだ」

千利休の切腹と石灯籠

2019年07月21日 16:59

千利休   
103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 01:13:32.35 ID:tvy6NoWG
千利休の切腹は堺で行うと、秀吉公の御意があり、この時、淀に於いて船に乗るまでの乗物を、
三斎公(細川忠興)と古田織部殿の両人が手配された。利休の内儀がこの時礼を申されたが、
利休は
「もはや、それも要らぬことです。日本国の人々は皆私を知っていますが、このお二人ほどの事は
有りません。」と言った、

切腹を行う堺の屋敷に於いて、四畳半の小座敷で利休は「少しお待ち下さい。」と、炭を直した。
湯がたぎった時に四尺床に腰を掛けたが、勝手方に臂がつかえたので、「この置き合わせではない。」と、
床真中に寄った。

そして「介錯の人々は声を掛けるまでお待ち下さい。もし言葉が出ないようであれば、手を上げて
合図致します。」と言って、脇差を腹に突き立てた。

しかし思うように行かなかったため、また引き抜き、同じ所に突き立て直し、引き回して腸袋を
自在の蛭釘に掛け、そこで介錯があった。古今に無いものであった。

利休切腹の後、秀吉公の後悔は限りないものであった。彼が切腹した後は、秀吉公は釜の形の切紙が
上手く切れず、誰彼にかかわらず切らせたが、御意に入るものはなかった。
蒲生氏郷と三斎公が行かれた時も、「ハァ、一応参りましたというだけの面だ。」と仰せになった。
「たしかにその通りだった。」と、後に三斎公は語られた。

利休が天下一と褒めた石灯籠が有った。利休自身が打ち欠いて、色々に直し、天下無双であると気に入った
ものであった。
その石灯籠を三斎公が所持され、任国が代わる度、丹後に取り寄せ、小倉へ下し、肥後の八代に下し、
現在はまた京へ上らせておられる。そしてこれを大徳寺高桐院に立て置き、三斎公自身の墓標として、
名を彫りつけるおつもりでおられる。「灯明などを灯せば丁度よい。」と仰られている。
少し手軽く見える灯籠で、角々が丸く、大形では無いものである。

(筆者注・現在この石灯籠は細川忠興の墓石として、大徳寺高桐院の墓地に有る。)

(三斎伝書)



104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 13:52:30.21 ID:cN9uq2nD
お茶くらい気にすんなよ

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/22(月) 12:12:38.25 ID:umL4DwKU
よく知ってるね

三斎公はいつも利休に蒲生氏郷の悪口を言い、また氏郷も

2019年07月13日 15:20

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 00:45:39.47 ID:Kk+VP0qq
若い頃、三斎公(細川忠興)はいつも利休に蒲生氏郷の悪口を言い、また氏郷も利休に三斎公の悪口を
言っていた。

ある時三斎公は利休の所で
「氏郷は数寄者ぶっていますが、裏口を開けてみれば乗馬用の沓や鼻紙などが散らばっている有様です。
彼は絶対に数寄者などではありません。」
と言った所、利休は
「それも良いでしょう。数寄さえすれば、それでも構いません。」
と答えられた。

そうしているうちに蒲生氏郷が勝手の障子を開け
「誰だかが私の悪口を言ったようだ。しかしその者が恥をかいたのは嬉しい」
と言った。

後で三斎公は「誰かがすぐに告げ口したのだ」と大笑いされた。

(三斎伝書)



255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 11:19:11.37 ID:YjWTGmPq
どんだけ仲悪いんだよ

花入はご覧になりましたか

2019年07月12日 16:48

千利休   
83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 01:02:31.24 ID:BhNSOonv
千利休より「花入が到来しましたので、今お待ちしています。」と、前田肥前守(利長)、
蒲生氏郷、細川三斎(忠興)の元に使いが来た。早速三人で出かけて席入したものの、初座、後座ともに
花入は出なかった。三人は利休に花入を所望すべきかと相談したが、恐れてついに言い出せず、退席した。

利休が露地に送りに出た時、「今日は花入をお見せするためお招きしましたが、花入はご覧になりましたか。」
と尋ねた。客である三人は「とうとう花入を拝見出来ませんでした。座敷、露地ともよく見廻したのですが、
花入はありませんでした。」と答えた。

利休は「尤もです。」と言って、露地の塵穴を示した。そこには落ちた椿の花を、なるほど見事に入れてあった。
「その見事さには驚き入った。」と、後に三斎様がお話になった。

またある時、利休よりこの三人が御茶に呼ばれた。にじり口を開けると、そこに茶壺が置いてあり席入することが
出来なかった。三人は困惑し、どうして良いか解らず様々に相談したが、勝手に床に上げるわけにもいかないと、
先ず座敷の真ん中に茶壺を移して席入し、亭主である利休に「茶壺を床へ」と申した。利休は機嫌よく
これを床へ上げた。「客の思案が良かったのでしょう」と、後にお話になった。

(三斎伝書)



85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 05:26:24.74 ID:FVr7QC+1
>>83
わびってるなあ

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 08:12:56.70 ID:kTIihdCu
>>83
深すぎてわかんねーw

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 11:50:52.94 ID:YjWTGmPq
わびさび俺には無理だと分かった

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/14(日) 04:25:07.42 ID:9odMhzGb
とんち比べかな?奇をてらって遊んでる風にしかみえない

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/15(月) 10:07:51.99 ID:wf+p/I6R
こういうのが和歌の世界だと古今伝授みたいになるんだな

その心持が面白かった

2019年07月08日 17:50

千利休   
71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 21:56:58.28 ID:v9H8Sln5
ある時、千利休が、「圜悟(えんご)の墨跡(中国宋代の臨済宗の僧、圜悟克勤の墨跡。村田珠光が
一休宗純より印可証明として与えられたとされる)を御覧ください。」と、前田肥前守(利長)、蒲生氏郷
牧村兵部、細川三斎(忠興)の四人を、その墨跡を所持する人の茶会に案内する段取りを付けた。

ところがこの茶会の当日、急にこの利休ら5人に豊臣秀次公よりお召があり、時刻も過ぎて茶会に間に合わなく
なったため、利休は人を遣わして「御前に用が出来たのでご容赦していただきたい。料理も結構ですので、
御用意なされませんように。菓子にて御茶を頂きたいと思います。」と伝えた所、「やむを得ません、
御用が終わり次第お出で下さい。」と返事が有った。

そうして日が暮れてから、手燭を出しての席入と成った。入る時に利休が「手燭を持って床の掛け物をよく
御覧になって下さい。」と申した所、亭主である墨跡の所有者は障子を開けて出て、利休に対し
「どうぞ墨跡をお焼き下さい。」と言った。これに利休は「面目を失った。」と言った。

中に入ると金銀を散りばめ、土器などにも絵を描いた豪華な料理が出た。これを見た利休が
「料理は無用と御連絡したではないですか。さてさて合点の行かないことです。」と申した所、亭主は
「ご尤もです。しかしこれは、食事を召し上がるように、との事ではありません。皆様が私のところへ
お出でになられるということで、ただ忝なさのあまりこれを用意したのです。召し上がるには及びません。」
と答えた。利休は「また恥をかいた。」と言った。

後に三斎公は「その心持が面白かった。」と言われた。

(三斎伝書)



72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 22:17:22.94 ID:3+H2OFSP
いわゆる小者

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 05:56:03.31 ID:PErBWv+E
当日キャンセルをかます成り上がり者に対する亭主の抵抗が窺える

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 19:30:32.72 ID:FDy5Rb+b
戦国時代とはいえ割と面倒くさいこともしてんだなw

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 21:10:55.98 ID:6lk5Uw6S
小者ってのは いつの時代も大して変わりゃしない

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:31:12.85 ID:BTnI+Yho
どこの誰なんでしょうね

老人雑話より、蒲生氏郷の逸話まとめ

2019年04月12日 17:54

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 20:20:47.89 ID:lNjfT+Y9
・蒲生は近江の士なり。佐々木承禎(六角義賢)の家臣であったが、後に信長に仕え、また太閤に仕えた。

 氏郷は優れた人なり。初めは伊勢松坂で12万石を所領した。それより直ちに会津120万石を領した。
 太閤の時である。この時、40歳ほどなり。

 承禎は近江1ヶ国を領した大名なり。信長に滅ぼされて近江を取られる。承禎の子は四郎殿(六角義治)
 といって太閤の時は咄の者となり、知行2百石なり。蒲生はその家臣だったが、100万石余りを領す。
 伏見などで四郎殿が太閤の御前に侍って退参する時、氏郷は昔を思い刀を持って従われたことがあった
 という。

 蒲生が近江で承禎の家臣だった時は日野を領した。氏郷の父(蒲生賢秀)は頑愚で天性臆病の人である。
 その時の俗間の小歌に、「日野の蒲生殿は陣とさへ云やへをこきやる」と言ったが、この人の事なり。

・小田原開陣の後、太閤が諸将を会して宣うには「会津は関東八州の要地、優れた大将を置いて鎮めなけ
 ればならない地である。各々は遠慮なく所存を書き付けて見せよ」と言った(原注:今はそのような事
 を“入札”という。その頃は“かくし起請”という)。
 
 すると「細川越中守(忠興)が然るべき」という者が10人中8,9人であった。太閤は開き見て曰く、
 「汝らは愚昧も甚だしい。私が天下を容易く取ったのも道理である。この地は蒲生忠三郎でなければ、
 置くべき者なし」と言い、忠三郎を会津に置いた。

・太閤は小田原開陣の後に蒲生飛騨守を会津に封じた。会津は大事の要地なり。そのうえ敵が上野から通
 行して、もし武蔵・相模に事があれば、上野佐野から一檄を伝えて少しも敵を働かせないためである。

・太閤が氏郷を会津に封じた後に氏郷が出仕した。太閤は他事を問わずに曰く「汝は手を良く書けり。謡
 の本を一番書いてくれよ。紙と硯を持って参れ」と宣ったという。君臣心安き間柄なり。

・氏郷はある時に諸士を饗応した時、自ら頭を包んで風呂の火を焼いたという。

・氏郷も日野で2万石の身上なり。太閤は伊勢松坂に15万石を与えた。後に会津100余万石を与えた。

・氏郷の近習の者が氏郷に問うて曰く「太閤以後は関白殿(豊臣秀次)に馬を繋がれるのですか」と。氏
 郷は答えて曰く「かの愚人に従うような者は誰もいない」と。

 また問うて曰く「天下の主たらん者は誰でしょう」と。答えて曰く「加賀の又左衛門(前田利家)であ
 る」と。また問うて曰く「又左衛門が天下を得なければどうなりますか」と。答えて曰く「又左衛門が
 得なければ、私が得るだろう」と。

 東照宮(徳川家康)の事を問うと曰く「この人は天下を得られる人にあらず。人に知行を過分に与える
 器量がない。又左衛門は人に加増を分に過ぎて与える切れ物である。取るであろう人はこの人なり」と
 言ったという。

――『老人雑話』

老人雑話より、蒲生氏郷の逸話まとめ



792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/12(金) 00:09:06.99 ID:gXKzQX1o
利家が家臣に気前のいい器量者?

793 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/12(金) 05:35:11.47 ID:2v+tybTJ
>>790
「日野の蒲生殿は陣とさへ云やへをこきやる」

 ('A`) プウ
  ノヽノ) =3 'A`)ノ
  くく  へヘノ


799 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 17:48:57.53 ID:DhdKHX4V
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906666
老人雑話はこの国会図書館デジタルで戦前の翻刻本が読めるが
さてどこの部分か読んでみるかな

吾陰嚢の垢ほどもあらぬ物を

2018年12月22日 10:56

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 08:19:09.12 ID:G2ELcZP/
朝鮮の役で、明の援兵が大軍で朝鮮へ派遣されたことで、名護屋の本営では日本軍危うしと
太閤秀吉にも報告され、軍評定を行った所、蒲生氏郷が進み出て発言した
「何程の事がありましょうか。この氏郷に朝鮮を賜れば、切り取りにして打ち破りましょう。」
しかし秀吉はこれにより、氏郷に大志有ることを忌み憎んだ。

また朝鮮に在陣する小早川隆景より遣いを以て報告があった
「この隆景が考える所は、十万の軍が渡海いたせば、それに城々を守らせ、隆景は先陣して明朝に押し入り、
北京を攻め落とすという事であり、この旨を申すように。」

秀吉はこれを聞くと
「小早川の智謀さもあらん。人々よく聞け、仮にこの秀吉が功を遂げずに死んだとしても、秀次を
大将として明朝に攻め入った時は、私の魂魄が雲に乗じて鉄の盾を突き、唐土の奴原を一々に蹴殺して
捨てるであろう。昔、柘榴を噛んで火とした者もあったと聞く。その小男の名は忘れたが。」

そう言うと、側の施薬院全宗が「それは北野の天神(菅原道真)の御事でございます。」と申し上げた。
秀吉
「それである!雷に成って天に上ったと言い伝わっているが、私のキンタマの垢ほどにも無い者だというのに!」
(吾陰嚢の垢ほどもあらぬ物を)
そう大声で言い放ち、聞く人はみな驚いたという。
(常山紀談)



539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 08:47:25.91 ID:xsQjQ3yv
ω

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 09:56:33.68 ID:mOD0npr1
赤松満祐「お前が他人の事を小男とか言えんのかよwww」

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 09:59:10.68 ID:q05OBV9W
まとめの6912
全くその男は、我が睾丸の垢ほども


でも「武士道美譚」出典で同じ話が

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 14:42:39.03 ID:F7/rhJiV
>>538
>私のキンタマの垢ほどにも無い者
なんJ民かな?

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 20:37:09.64 ID:Z5u25ia/
大○義隆「キンタマの垢とな!?」

一方の大将たらん者は、

2018年10月02日 18:31

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/02(火) 11:55:40.26 ID:UGo9HjLG

天正二年七月、織田信長が長島の一揆を伐った時、蒲生氏郷は大剛の者を組み討ちにして首を取り
実検に入れた。しかし信長はこれを冷笑し褒詞無かった。

暫くして氏郷に言った
「凡そ勝負は時の運に寄るもので、兼ねて計ることは出来ない。功名は武士の本意というが、それは
品によるものだ。今の汝の功名は、軽卒のやることである。一方の大将たらん者は、更に好むべきではない。
身の危うきを顧みないのは、それほどの功とは言えない。今後、この心を忘れるな。」
そう戒めたという。

(名将言行録)

信長「この時注意したのに…」



255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/02(火) 12:17:40.56 ID:sUtctfiJ
婿じゃなかったら褒めてたろ

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/02(火) 13:12:35.48 ID:u24CW0IM
>>255
鬼武蔵相手なら激賞だったろうな

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/03(水) 00:40:35.31 ID:AUGOf0r/
鬼武蔵は敵にけしかける狂戦士だが氏郷は士官候補だからな

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/03(水) 05:45:34.46 ID:KOBAUlk+
バーサーカー武蔵

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/03(水) 07:06:44.21 ID:iHzjGr8g
特殊奥義持ってる武蔵にモブが敵うわけないじゃろ

この家には銀の兜をつけた侍が

2018年08月30日 17:59

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 22:02:07.71 ID:hN7iYod7
蒲生氏郷は常にこう言っていた
「人衆を戦場にて使うに、ただかかれかかれと計り下知していてたかからない物である。
かかれと思う所には、大将自身がその場に至り『この所へ来たれ!』と言えば、あえて大将を
見捨てるような者は居らぬものである。しかし大将自身は後に居て、ただ士卒をかからしめんと
しても、かかることは無いものなのだ。」

氏郷はその言葉の如く、人を新たに抱えた時は常に
「この家には銀の兜をつけた侍が、いつでも一番に乗り出して、諸卒に先立って働いている。
なのでこの男に劣らぬように稼ぐべし。」
そう言い教えたという。
これ則ち、氏郷の鯰尾の銀兜のことであり、働きを諸軍に先んじていた故であるという。

(士談)



240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 23:46:43.97 ID:p31L3AQN
足利義明「その通りである」

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 08:29:23.45 ID:vtjT338y
>>240
S「目障りだから置いてくわ」

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 10:15:04.89 ID:WpX3rZhX
お、おう

日置の夜合戦

2018年07月02日 18:38

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 17:32:24.99 ID:+lDXEXb7
蒲生氏郷が羽柴秀吉より勢州松島を拝領した頃は、伊勢に限らず諸国未だ静謐成らなず、
小牧・長久手の戦いが始まっていた。

氏郷は松島に入部すると、先ず領地の仕置を優先し日置へ押し寄せようという気持ちは全く無かったにも
関わらず、織田信雄の家臣である木造左衛門佐(長政)の支配する日置方面からは、氏郷の領内へ夜な夜な
人数が出て苅田などを行った。
氏郷はこれを聞くと「哀れ足長にも出てきたか。討ち果たしてやろう。」と、方々に物聞(見張り)を
置き、苅田をする者たちが侵入してくれば鉄砲を撃ち、これを合図に松島より出撃しこれを討つ決まりとし、
これにより度々侵入者を撃退した。この時、氏郷は早馬を以って真っ先に乗り懸かった。
これを見た木造長政は、謀略によって氏郷を討ち取ろうと工夫を考えた。

9月15日の夜、木造長政勢は氏郷の領分である会原という場所に侵入した。この時、木造の家中において
物頭をし、発言権を持つほどの兵は残らずこの会原周辺のよき場所に伏兵として起き、氏郷が駆けてくれば
即座に討ち取れる準備をさせ、あとはいつものように苅田をさせた。

これに蒲生の見張りが気づき鉄砲を撃って知らせ、この音を聞き松島より蒲生氏郷が駆けつけた。
その夜は月が冴えて、まるで日中のような明るさであったが、氏郷はそこに真っ先に駆けつけ、
その後に早馬を持つ兵たち7,8人が続いた。彼らが入ってくると伏兵たちが一斉に起き上がり、
氏郷たちを包囲し攻めた。この時は流石に危うく見えたが、氏郷は馬の達者でありその騎馬も逸物で、
四角八面に懸け破り、突き倒しては駆け回り、乗り散らし乗り返し、その戦いにおいて蒲生方の
外池長吉、黒川ノ西、田中新平などと言った者たちは散々に戦い討ち死にした。
小姓の姿であった外池孫左衛門という者は氏郷の矢面に立ち塞がり防戦した。
この時、氏郷の銀の鯰尾兜に銃弾3つが当たり、鎧にも傷数ヶ所があったが、その身には薄手すら
負っていなかった。

このようなうちに、氏郷勢が追々駆けつけ、騎馬のもの7,80騎となると、氏郷は敵の少ない所へ
そのまま馬を乗り入れ東西南北に懸け破り蹴散らし、敗北した者は手下に討ち取らせ自身は追い打ちをかけ
日置の城下まで追い詰め、木造家中にて物頭を勤める屈強の兵30余人、その他甲冑をつけた者36,
雑兵数多を討ち取り勝鬨を作り、日置の城下から10町ばかり引き取った場所に陣を取った。
これにより、木造長政は在城を諦め、翌日詫び言をし命を助けることで城より退去した。

世間において「日置の夜合戦」と呼ばれるのがこれである。

(蒲生氏鄕記)

敵の計略どおり単騎突撃してまんまと罠にハマったけれども特に何ということもない氏郷であった。



48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 20:20:12.31 ID:rLUgrkrt
連邦のモビルスーツか

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 20:33:58.80 ID:rorhF+dI
え-、なにそのチート…

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 20:39:34.50 ID:AoEQtwek
秀吉「氏郷が活躍するのは珍しいことではないから」

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/03(火) 11:07:03.37 ID:MtOOE3S3
>>47
花の慶次かな?漫画のキャラみたいな活躍で草

敵の後にただ一人

2018年06月21日 21:49

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 08:54:19.80 ID:tSvrzezH
小田原の役の時、北条氏直の陣所に対する豊臣方の仕寄場へ、城中より夜討が仕掛けられ先手の者たちが
これに対応したが、この時蒲生氏郷は、具足も付けず鑓を持つと、正面の敵に構わず、敵の後に
ただ一人廻り、敵の後から突き倒し、散々に相働いた。

これにたまらず敵方は城中に引き取ろうとしたが、氏郷一人に責め立てられ、逃げ惑い堀に飛び込む
者まで居た。これを見て後から駆けてきた侍たち、我も我もと頸を討ち取った。
氏郷は数多の敵を突き倒し、その頸を取った者も多かったという。

関白秀吉はその働きを聞いて感じ入り、「氏郷が活躍するのは珍しいことではないが、今回の
夜討に敵の後ろに回り、一人で切り取り数多の頸を討ち取ったこと、当意の機転、古今稀なる働き
である」と讃えたという。

(蒲生氏鄕記)

氏郷の単騎攻撃のお陰で敵の夜討がボーナスステージに成ったお話。



28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 10:51:47.16 ID:R6dkeP0Z
単騎突撃で死なない人・・・
夜討の混乱状態で後ろに回った機転が、武功と生存の鍵なのか。

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 19:02:19.99 ID:ZEe/6+m0
夜襲したら後ろから奇襲されたでござる
ゲームの主人公かな?

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 20:26:59.26 ID:z22uOANl
>>27
またしても裸アーマーか