FC2ブログ

奥州押さえの働き

2017年10月03日 18:14

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 14:17:29.19 ID:iQtwkKN2
蒲生秀行は、一時宇都宮に転封され、後に60万石にて会津に復帰した。
この時彼は、とある家臣を召して聞いた

「わが父氏郷は、百万石にて会津に在城し、奥州の押さえとなっていた。
しかし今私は60万石にて奥州に有るのだが、この石高では思い通りに、奥州の押さえが
出来ないのではないだろうか?この事について尋ねたいのだ。」

家臣は申し上げた
「氏郷様が百万石にて奥州に召し置かれた時分は、太閤殿下は遠く離れた大阪に居られましたから、
百万石であっても独りでの行動はしにくいものでした。
しかし現在は御旗本が江戸となりました。江戸から会津までは僅か5,6日を過ぎないほどの行程です。
60万石であっても、かつての百万石より危うさはなく、奥州の押さえとして、充分に働くことが出来ます。」

これに秀行は、速やかに言上したことを神妙であると感心した。

(士談)



277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 16:15:10.82 ID:gcVt3+vJ
儒教特有の家臣age
スポンサーサイト



蒲生騒動

2015年02月13日 18:38

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 18:25:49.33 ID:j/b2UuRK
太閤様(豊臣秀吉)の時代、蒲生飛騨守氏郷に、会津百万石が下された。彼はその前には、伊勢の津で
12万石を領していた。

この氏郷が死去すると、跡目は子息の藤三郎秀行が継いだ。そういった所で、家中が2つに割れた。
それぞ亘八郎右衛門方、蒲生四郎兵衛(郷安)方と呼ばれ、両派による大きな紛争が起こった。

主君である蒲生秀行は、亘八郎右衛門方に心入れしていた。並びに秀行の舅である徳川家康も同様であった。
蒲生四郎兵衛に対しては、石田治部少輔(三成)が取り持ちをしていた。

この騒動は蒲生家内部では処理できず、ついに秀吉の上聞に達し、亘八郎右衛門に切腹が仰せ付けられた。
蒲生四郎兵衛はこの公事に勝利したものの、彼は「五畿内に召し置いてはならない」と、秀吉より
仰せ付けられたため、肥後に下り、加藤主計頭清正の所に召し置かれた。

(細川忠興軍功記)

以上、蒲生騒動についての記事である。



408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 20:04:40.21 ID:AZ50p0zu
wiki見ると蒲生郷安が亘八右衛門を斬殺してるね

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/14(土) 11:44:32.80 ID:/DikPuV2
ご…郷安

慶長16年、会津地震

2014年03月07日 18:51

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/06(木) 21:13:21.28 ID:v/CCyRB7
慶長16年(1611)8月21日、奥州会津の周辺で大地震があり、会津若松城の石垣は尽く崩れ、
屏や櫓も尽く崩落したし、殿守も破壊し傾き、瓦なども全て落ち、人馬多く死んだ。

近辺の山は崩れ川の流れを留め、これによって知行二万石あまりの土地が湖水と化した。

他国ではこの地震の被害はなく、また柳津本堂が倒れ在家が多く殺された山崩れのあったことなどから、
これは会津の国主である飛騨守(蒲生秀行)が神仏を蔑ろにし我意に任せた政治を行って
いたために、天罰を受けたのだと、当地では言われているそうである。

(当代記)

慶長16年の会津地震についての、当代記の記事である




669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/07(金) 02:09:07.73 ID:FtHODBlz
>>668
http://www.town.yanaizu.fukushima.jp/s_akabeko.php

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/07(金) 22:31:56.93 ID:ivkUz/AM
南部領がさらに酷い被害を受けているのも天意でしょうか

その後の守銭奴

2012年02月23日 22:13

岡左内   
51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 22:45:53.89 ID:T4qMyPMW
その後の守銭奴

上杉景勝の家臣・岡左内定俊は、主家の米沢転封後、その苦しい台所事情を思い上杉家を退転した。

武門名誉の家にあってなお勇名を馳せた左内は、たちまち諸大名から引く手あまたとなったが、左内自身は
「馴染みがあり申すゆえ」と、上杉家以前に仕えていた蒲生氏郷の子・秀行のもとに馳せ参じた。

秀行は、六十万石で会津に復帰すると、左内に知行一万石を与え、猪苗代城代の重職を任せた。
小大名並みの禄を手にするに至った左内だったが、相も変わらず憑かれたように金を貯めこみ、月に二、三度は
例の小判を敷き詰めた上に、素っ裸で寝転がる奇癖を繰り返す日々を送った。


秀行が亡くなり、忠郷の代になったころ、左内も床に伏せたきりになった。
『もはや、これまで』と思い定めた左内は忠郷とその弟・忠知に、「おかげを持ちまして蓄えることが出来申した。」
と書状を添え、忠郷には黄金三万両と正宗の太刀、忠知には三千両に景光の刀と貞宗の脇差を贈った。

残った金も、知人あてに五両・十両と包んで贈った左内の手元には、大きな鋏箱のみが残された。
「この箱は、いかがいたしましょう?」
「焼き捨てよ。上杉を去るに及んでも、やったことだ。世を去るに及んでも同じことよ。」

箱には、山のような借用証文が入っていた。

箱が炎の中に消え、最後の心残りが消えたのを見届けた左内は、静かに息を引き取った。
(増補武辺談他より)




52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 22:51:57.54 ID:FkJRvtkB
>>51
いい話だが、子供とか孫はいなかったのか気になるわ

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 22:56:47.53 ID:2aJOXZC0
>>51
相変わらず岡左内はかっこ良いな
お金は大好きだけど、お金より価値がある物が何か、きちんと知っている所がかっこいい

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 07:26:40.45 ID:lxGdZQgQ
>>52
蒲生改易後には黒田、津軽と転仕したみたい

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 07:41:23.83 ID:P4RxIOwS
岡左内ってwikipediaに記事無いのか
岡定俊なのか岡野定俊なのか不明だからか?

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 07:48:09.58 ID:1uU3n+KI
>>58
諱が不明な場合は、通称や受領名でも問題ない。

そこそこ有名な人でも記事が無いのはよくある。
初回投稿が書籍の丸写しで削除されりすることもあるし。

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 08:59:52.85 ID:rWmunvUq
札束プールの起源がこんなところに

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 19:13:36.18 ID:0tI0QjdN
上杉家から退去するさい千両箱山積みにして出奔したのか?
よく野武士に襲われないな

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 20:07:42.89 ID:3dhPOhoW
>>61
全部人に配るなりして処分したんじゃない?
>焼き捨てよ。上杉を去るに及んでも、やったことだ。
ってあるし、空箱を一度燃やしたと読んだ

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 20:12:06.78 ID:2ksx7cdF
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-574.html
焼き捨てた話はこれだろう(上杉の武将たちの借金の証文を燃やした話)

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 20:31:24.83 ID:RKPdtbmy
上杉の窮状をみて退去なら、この性格からして献上してると思う

戦仕度で使いきってるかもしれんが

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 20:34:14.41 ID:1LgKJCwU
>>64
戦になる前に、既に献上してるじゃないか。

70 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/25(土) 15:36:45.71 ID:csoDdknR
>>51
>>63
爆発炎上する車を後にして去っていくアクションヒーローみたいに
燃えさかる借金証文の箱の山を後にして退去する岡左内の姿が
脳内再生されたwww

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 17:22:13.21 ID:Oew1FANc
岡左内「上杉家から(家中の証文を)燃やして参った!」

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 18:16:06.25 ID:4CDCr6mD
利家が拾いに行きそうだ

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 18:22:28.36 ID:OwtqLm62
利家も死ぬときに借金の証文燃やしたんじゃなかったか、

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 21:15:08.01 ID:PVk/WZBd
官兵衛「某も半兵衛殿に殿から頂いた書状を燃やされ申した」

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/26(日) 13:41:58.01 ID:C/BifgBn
織田信長「燃やすだけでは駄目だ、灰を水に溶いて飲まないと!」

会津城安寺の怪異

2011年08月12日 23:04

冬姫   
385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/12(金) 00:54:54.62 ID:p/d1Cp+K
会津若松は融通寺町に、城安寺という寺があった。
長らく住職もいない寺だったが、いつからか覚夢という修行僧が住み着き、勤行や行事など勤めていた。

覚夢は縁あって領主・蒲生氏郷の嫡男、鶴千代(のちの秀行)の乳母と親しくなったが、ある時から乳母は
まだ若いのに「私に何かあれば、後のことはよろしくお願いします。」と言うようになった。

その言葉通り、乳母は何者かに讒言によって鶴千代の母・冬姫の怒りを買い、自害を強いられた。

覚夢は故人の希望に従い、城安寺で葬儀を執り行ったが、覚夢が引導を渡そうと読経を始めたとたん、
棺のフタがガタガタと動き出した。
やむを得ず、覚夢は近所の力自慢たちを集めてムリヤリ棺を押さえさせ、やっと葬儀を終える事が出来た。

翌日から、城安寺には乳母の幽霊が出るようになった。

幽霊は決まって寺の御堂に現れて御堂の真ん中で座り込んだままで、数時間も過ぎると何処かへ去った。

噂を伝え聞いて、ある絵師が寺にやって来て、幽霊の姿を描くことに挑戦した。
何日か経ち、絵は瞳を入れることで完成、というところまで来たが、絵師が瞳の上に筆を持ってきた瞬間、
幽霊はスッと消え失せ、二度と寺に現れることは無かった。

絵は一幅の掛け軸にされて城安寺に伝わり、檀家の求めに応じて観覧させていたが、いつからか
「子が絵を見れば父母が、妻が見れば夫が死ぬ」
と『目上の者に祟る』と言われるようになってからは、みだりに観覧を許さなかった。


旧会津藩士・小川渉の「志ぐれ草紙」によると、絵は戊辰戦争の戦火を逃れ、新発田の好事家の手に渡った
と伝わるが、定かではないという。

ほら。貴方の近所の骨董品店、いわくありげな掛け軸、置いてないですか・・・?




386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/12(金) 01:55:42.43 ID:d1QFz5Up
ちょっと怖い話だこれー

387 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/12(金) 10:22:07.93 ID:Fk+4L6Jh
乳母が仕えた蒲生家自体が以後に呪われたような末路をたどる訳だが、怨み足りなかったのかね
どうでも良いが棺桶を押さえつけて読経したり幽霊を放置する覚夢さんマジありえんッス

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/12(金) 10:26:27.78 ID:TuqoDfaD
冬姫って信長の娘?

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/12(金) 14:02:01.72 ID:HEBsJj8j
>>388
Exactly.(その通りでございます)

コレって家族がいない侍が見たらどうなるんだろうな
蒲生秀行やその子供ってみんな30前後で死んでるんだけど…

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/12(金) 20:27:52.51 ID:jyTJ+mAO
恨みが冬姫に向かうわけではないんだな。
長生きしたよね冬姫って。

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/12(金) 20:51:22.88 ID:pYI34HCL
>覚夢が引導を渡そうと読経を始めたとたん、
>棺のフタがガタガタと動き出した。




ぶっちゃけコレ息吹き返してるよね?

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/12(金) 20:57:02.22 ID:6X2HmRnO
蘇生してますね

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/12(金) 21:09:45.24 ID:0Xi78XVX
たぶん冬姫に疎まれていた乳母に冬姫から頼まれて覚夢が乳母に接近
親しくなった覚夢のお寺におびき出して生き埋め
覚夢自体は野伏集団の頭目、力自慢の村人はその一党

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/13(土) 01:14:10.66 ID:Lrnv1mbI
>>393
痴情の縺れ的な、御手付きさんと正室の複雑な争いが有ったんだろうか

血塗られた蒲生氏前史

2010年12月31日 00:00

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 14:42:06 ID:RNPfTcUl
血塗られた蒲生氏前史


蒲生氏14代当主、蒲生貞秀には秀行、高郷、秀順という3人の息子がいた。

年老いた貞秀は情勢不安な近江の勢力として生き残りを賭けて長男秀行に蒲生氏の家督を譲ると次男高郷を
六角氏へ、三男秀順は細川家へと仕えさせる。
しかしながら長男の秀行は父に先立って早世してしまい、貞秀は新たな後継者の指名を迫られた。
そこで真っ先に名乗りを挙げたのが・・・

高郷「兄の子である秀紀はまだ幼少の身でございます。私にお任せください父上。」

次男の高郷である。しかしながら貞秀は了承せず嫡孫である秀紀を後継者に指名した。
そして1513年に貞秀は死去。正式に秀紀が蒲生氏の家督を継ぐことになったのだが、
高郷はここに至っても所領の配分に不満を漏らすなど全く納得していなかった。

この後、高郷は六角家臣としての足場固めに腐心し始め、息子定秀の嫁を六角氏家臣の名家
馬淵氏(佐々木氏庶流)から迎えるなど血縁の結び付きも持った。
長い年月をかけて六角氏当主である定頼の信任を得た高郷はついに長年胸のうちに燻っていた野望を実行に移す。

高郷「秀紀を討ちます。定頼様も力をお貸しください。」

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 14:43:57 ID:RNPfTcUl
六角定頼としても秀紀を廃して蒲生氏を本流ともども配下に取り込むよい機会であると考えこれを快諾した。
1522年8月、蒲生秀紀の篭る音羽城は蒲生高郷と六角定頼の軍に攻囲され、8ヶ月に及ぶ籠城戦の末に
秀紀は定頼の呼び掛けに応じて降服した。
これにより秀紀は蒲生家の家督を高郷の息子である定秀に譲らされた上に音羽城を退去させられ、
同城は廃城となっている。(日本最古の城割と言われる)

しかしながら家督を奪われた秀紀はこの理不尽極まりない一件にもちろん納得がいかない。
新たに鎌掛城という要害の堅城を築きそこを居城としていた。
一方、家督を簒奪したものの完全に二つに蒲生家が分裂してしまった事が高郷・定秀親子は不満であった。
高郷らは鎌掛城の秀紀の抹殺を決意する。

1525年12月。蒲生親子の刺客である禅僧、祥善に毒を盛られた蒲生秀紀は苦しさに悶えながら腹を切り裂くと
池に身を投げて息絶え、
鎌掛城も定頼の名によりわずか3年で廃城処分となった。
これにより蒲生氏嫡流は断絶し高郷-定秀流が蒲生氏の嫡流に成り代わったのだった。

後に92万石の大大名となる蒲生氏郷は定秀の孫に当たる人物である。