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本能寺の変と近江情勢

2018年06月07日 11:05

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/06(水) 22:59:53.83 ID:+taDBLgq
本能寺の変のあと、明智光秀が近江国安土城を接収すると、同国の住人たちは我も我もと
光秀に降参し、その幕下に属さない者一人もなしという有様であった。
その中で、蒲生賢秀・氏郷父子は「故信長公からの御恩を何れの世にか報い奉るべきか、
ただ一合戦して腹を掻っ切り御供せずにはしかず。」と、居城である日野城に立てこもり
要害を普請し軍勢を集めた。その数1500余騎という。

これを知った光秀は、蒲生に使いを出し『今度光秀に同心すれば近江半国を与える』と
伝えたが、蒲生父子は全く同心しなかった。

近江の住人である多賀豊前守、布施忠兵衛たちも既に明智方となっていたが、
何れも蒲生と疎意の無い人々であったので、彼らからも「罷り向かって異見を申そう」と、
自ら日野を訪れ出し再三に渡り諫言を行った。

しかし賢秀・氏郷父子は彼らと対面すらせず、ただ『武士たらん者は恩を知って以て人であると
申す。御辺たちは降参を能きと思ってそように申されるのか。」と返答した。

嘲られた両人は口惜しく感じ、馳せ帰ると光秀に申し上げた
「蒲生親子は以ての外に奇怪なる者にて候。急ぎ御退治有るべし」
特に布施忠兵衛は進み出て
「現在日野城は未だ普請中であり、堀、櫓は生壁の状態ですので、破壊も容易いでしょう。
1日も早く攻め寄せられるべきです」と積極的に提言した。
これを聞いて光秀も、尤もであると考え、すぐに蒲生攻めの準備を始めようとした。

ところがここで、信長の三男である神戸信孝が大阪より引き返し、光秀の婿であった
織田信澄を討ったという情報が入り、光秀は近江のことを明智弥平次に任せて
自らは信孝に対処するため攻め上がった。

(氏鄕記)

本能寺の変の後の近江情勢の事など



975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/07(木) 09:35:25.55 ID:PBC4CLeq
意外と、信孝の動きって重要だったということなのかな。
四国遠征軍は瓦解して、たいした働きはできなかったと言う話だが。

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/07(木) 11:06:11.75 ID:GbR2xIHX
味方になるかはわからないけど婿だし
これに対応しないと味方を見殺しにするってイメージを降った者に持たれて士気が下がる要因になるし最悪離反される恐れがあるからね
あと大溝城の接収にも関係してくる
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氏郷初陣

2018年06月04日 17:50

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/03(日) 21:36:20.96 ID:RYlmtq2o
永禄2年8月、織田信長による伊勢北畠攻めにおいて、北畠方の徳山城も、織田掃部助(忠寛か)、
蒲生賢秀、その他約1万余騎にて攻め寄せ、揉みに揉んで攻め落とした。

この時、蒲生賢秀の嫡男である忠三郎(氏郷)も14歳にて軍始であったため、賢秀は殊に
気を使い、彼に結城十郎兵衛、種村伝左衛門という、家中の剛の者を付けた。

さて、賢秀が士卒を下知して駆け回っていると、「忠三郎様の姿が見えない!」という
声を聞いた。賢秀は驚愕して、結城、種村を呼びつけ
「汝等を付けたのは何のためか!?討たれてしまったのかも知れない、どうすれば…。」
そう悩み悶て居た所、そこにひょっこり、忠三郎は敵の頸を取って帰ってきた。
賢秀はその姿を見るや、感涙し鎧の袖を濡らした。

忠三郎の取った頸はやがて信長の見参に備えられ、信長は感じ入り、自ら打アワビを
取って与えたという。

(氏鄕記)

初陣のときから一騎駆け大好きなレオン様であった



973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/03(日) 22:57:26.59 ID:PvhrymRI
一騎駆けで、生き延びる人間と死ぬ人間の格差が・・・

近江に蒲生忠三郎という利口なる若者がいる

2014年11月21日 18:43

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 00:23:41.07 ID:DkPo+BuD
ある時内藤修理(昌豊)が言われた

「俵藤太(藤原秀郷)の子孫は、近江国日野の蒲生の一党である。
今、近江に蒲生忠三郎(氏郷)という利口なる若者がいる。これは三河の家康などに少し相似た武士で、
江州においては浅井備前守(長政)に次いで、この忠三郎が心ばせあると聞き及んでいる。

かの蒲生の家は、交互に一代弱く一代強い状態が続いているという。その理由は、かつて先祖の
俵藤太は王威を以って平将門公を討った。しかし将門も名大将であったので、それを討った罰があり、
討った功徳と罰の両方が、かの家の侍大将に、順番に弱み、強みと成って現れるのだそうだ。

忠三郎の親(蒲生賢秀)に対して、下劣な者共が作った歌に
『日野の蒲生は武者けたよ 陣と申せばしもごしおこる。具足をうりやれ衣めせ』
(日野の蒲生は武者ぶっているだけだ。戦と聞けば臆病風に吹かれている。具足を売って風よけの衣を召したほうが良い)
こう歌われたそうだ。

しかしその子の忠三郎は、世の常ならぬ若者と聞く。親と子は違うものだ。

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑に見える、若き日の蒲生氏郷の評判である。




226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 00:45:21.19 ID:kZjBsizg
>>225
小山・結城「...」

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 12:07:48.52 ID:jRwsxZfR
父ちゃん散々な言われようだな

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 12:58:53.30 ID:WlCvwZtb
蒲生のメイン盾ですので

229 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/11/21(金) 19:48:11.61 ID:pAQqNgnM
さすが名門藤原氏の蒲生家

蒲生氏郷は昔を思って

2014年03月17日 19:08

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/17(月) 13:16:19.32 ID:vZJIuX8Q
蒲生とは江州の士であり、佐々木承禎(六角義賢)の家臣であった。後に信長に属し、また太閤(秀吉)に仕えた。

蒲生氏郷は優れた人物であった。初めは伊勢松坂で12万国を所領し、その直後に会津120万石を領した。
これは太閤の時代のことであり、その時彼は40歳ほどであった。

佐々木承禎は江州一国を領した大名であったが、織田信長に滅ぼされて江州を取られた。承禎の子は四郎殿(六角義治
と言って、太閤の時代には咄の者(御伽衆)となって二百石であった。
蒲生は元々その家臣であったのだが、その時は百万余石を領していた。

しかし、伏見などで太閤の御前に侍り、退散の時、氏郷は昔を思って、六角四郎殿の刀を持って従われる事もあったという。

蒲生が江州で承禎の家臣だった時代には、日野を領していた。氏郷の父(蒲生賢秀)は頑愚にして天性臆病の人であった、
その頃、俗人の間では小歌に

『日野の蒲生殿は、陣さえ云やへをこきやる』(日野の蒲生殿は、戦と聞いただけで臆病風にふかれる)

と言ったのは、この人のことを指しているのである。

(老人雑話)

蒲生氏郷が、旧主六角氏にも義理を通していた、という逸話である





安土城留守居・蒲生賢秀の動向

2014年01月08日 18:50

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/07(火) 19:55:35.31 ID:3Qbwx6mS
天正10年(1582)6月2日、織田信長は本能寺に斃れる。

その日の申の刻(午後4時頃)には明智光秀は遣いを勢多の山岡美作守・同対馬守兄弟に送り、
自分の味方をするように伝えたが、山岡兄弟はこれを拒絶。遣いの首を刎ね勢多橋を焼き、
山中へと引きこもった。

この日の未明、この山岡兄弟が勢多橋を焼いたという情報が安土城に伝えられ、
一体何が起こったのかと疑念に思っていたところ、安土城の留守居であった蒲生賢秀の家中の
者達が京都から帰ってきて本能寺の変を伝えた。
同2日、山崎源太左衛門も屋敷に火をかけ、山崎に引きこもった。

蒲生賢秀も、もはや安土には居られないと思案し、信長の公達女房達を皆、自分の領地である
日野に退かせようと迎え馬を呼び、翌朝移動することを伝え、故郷である日野の谷へ引き退いた。
この時女房衆はこのように言った

「安土城の色々な宝物が敵の物になるのは無念です。蒲生殿がそれらを取った上で、城に火を
懸けて下さい。」

蒲生賢秀は「それは欲に耽った話です。そんな事をすれば後難は如何なものとなるでしょうか。」
と言って安土状のものを何一つ取ること無く、また家屋も焼かず、家臣の森次郎左衛門に
「よくよくここを守るように」と言い置き日野へと退去した。

と、ここまでは清潔なのだが、その後は多少違ったようである。
心変わりがあったのか、もしくは策であったのか、明智とも交渉を持ったようなのだ。
そして明智が滅びると、この事を家臣の布施藤九郎の科であるとして、藤九郎を牢人させた。
この藤九郎は、蒲生賢秀の聟であったのである。

(当代記)

本能寺の変が起こった後の、安土城留守居・蒲生賢秀の動向についての記録である。




224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/08(水) 21:34:28.61 ID:gy+T4pSw
あとで安土が燃えてるだけに、
何とも言えないスマートな対応。
上手に両天秤掛けてる所も含めて。

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/09(木) 10:35:17.16 ID:wlZWOU3O
>>223
森次郎左衛門はその後どうしたんだろうか
というようなどうでも良い枝葉ばかりいつも気になる・・・

関家を相続する者は、代々乳首を四つ持っており

2013年08月30日 19:57

関盛信   
245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 22:57:08.43 ID:U6F1NnDr
伊勢国鈴鹿郡に、関氏という国人がいた。
伊勢平氏の一族であり、一説には平清盛の孫・資盛を祖とするともいわれ、
関・神戸・峰・鹿伏兎・国府の五家に分かれて、関家を総領として五千人を動員できる勢力を有していた。
そんな由緒を持つ関家であったが、この関家の当主には代々ある身体的特徴があった・・・


天正10年、伊勢亀山城主・関盛信は、後継ぎを決めるために家老達を集め、
意見を求めた。(盛信の長男盛忠は既に長島一向一揆討伐の際に戦死していた。)
家老達の内、葉若藤左衛門は次男の一政を推した。
一政は足が悪かったので、僧になるべく当時は比叡山の稚児になっていた。
これに対し、岩間八左衛門は三男の勝蔵を推した。

なぜなら、一政は足が悪い以外は常人と変わらなかったが、勝蔵は違っていた。
勝蔵の体には乳首が『四つ』あったからだ。
関家を相続する者は、代々乳首を四つ持っており、勝蔵はこの条件に適っていたのだ。
勝蔵はこの頃、柴田家に仕えていた。

盛信は結局、葉若藤左衛門の意見を容れて一政を後継ぎにすることにし、
一政には蒲生賢秀の娘(氏郷の姉妹)を娶らせることにした。
(盛信自身も蒲生賢秀の姉妹を娶っていたから、蒲生家とはこれで二重に婚姻を結ぶことになった。)
この結果一政を推した葉若藤左衛門が権勢を握り、逆に岩間八左衛門の勢力は衰えてしまった。

その頃、羽柴秀吉は関家に対し、当時関家が従っていた織田信孝からの離反を勧めた。
盛信は、
「蒲生家と一致して行動することにしているので、蒲生の去就に任せる」と答えた。
蒲生家は既に秀吉の一味だったので、関家もまた秀吉に付いたわけである。

翌年(天正11年)の正月、関盛信・一政父子は秀吉に挨拶するため、
葉若藤左衛門を連れて亀山城を出発した。
ところが、この留守を窺っていた岩間八左衛門は、一類四十三人と共謀して反乱を起こし、
亀山城を奪い、隣領の滝川一益の軍勢を引き入れてしまった。
関父子は仕方なく蒲生家に逃げ込み、秀吉にこの事を報告した。

これを聞いた秀吉は大軍を率いて北伊勢に出陣し、一益との間で賤ヶ岳の戦いの前哨戦となる
戦いを繰り広げることになったのである。
秀吉軍の攻撃の結果、亀山城は開城し、関父子も領国に復帰したが、
そもそもの原因となった岩間一族は降伏して許され、元通り仕えることになったという。
(特に咎めがあったとは書かれていない。)


(勢州軍記)より


>>237の千葉氏の話と似たような話があったので投稿。
あちらは総領の証?がある方に継がせたら酷いことになったという話だが、
こちらはない方に継がせたら謀反を起こされたというお話。




246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 06:06:09.94 ID:AcGrhOjk
何が蒲生に従うだよ、本能寺の変を聞いて大坂から逃げ出した爺のくせに
信孝軍を瓦解させた張本人

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 06:50:06.88 ID:1v1N2ah2
乳首4つとか…今なら萌えキャラで人気者になるけど
当時はどういう見られ方をしたんだろうか

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 08:30:06.15 ID:RE6nHA/V
はしゃいでて取れちゃった乳首をまたくっつけたんだな

いつだったか、ラジオでパーソナリティー(♀)が自分の婆ちゃんがそんなことしてたって驚いてたわ

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 08:37:39.41 ID:A6Rtcu9B
「五雑俎」人部一より
堯八眉,舜四瞳子,禹目跳,湯偏,文王四乳,仲尼面如蒙?,周公身如斷,?陶色如削爪,?夭面無見膚,
傳?身如植鰭,伊尹面無須麋,故知大聖、大賢不可以形貌相也。

周の文王も4つ乳があったとか
副乳のwikiみたら、女性の5%、男性の2%が副乳を持つとあったから
大きいものでなければそこまで珍しくはないな

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 08:45:37.39 ID:A6Rtcu9B
ついでにググったらグラビアアイドルの熊田曜子も副乳とあった
出身が岐阜市で高校が岐阜県関市とあるが
平姓関氏でなく、美濃関氏ならぴったりだったのに

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 12:29:39.21 ID:1AYzvXOQ
熊田は全身整形と小阪由佳が言っていたが
乳首はいじくってないのかな

蒲生氏郷の父は

2013年06月04日 19:52

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/04(火) 18:08:48.17 ID:8/FaK1vm
蒲生氏は江州で六角承禎の家臣だった時は日野を領していた。
蒲生氏郷の父は頑愚にして天性臆病の人であった。

その時の俗間の小歌に「日野の蒲生殿は、陣とさへ云やへをこきやる」
というのは、この人の事である。

――『老人雑話』




780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 02:05:46.13 ID:UPw/lbKI
賢秀さんは頑固で愚かで筋金入りの臆病者…
しかし本当にそんな人物なら信長に気に入られたり、本能寺後のあの対応なんか出来ないような気もするが

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 09:25:52.36 ID:JInKUswq
賦秀さんが勇敢なのは反面教師が身近にいたからか

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 12:49:07.38 ID:ycDzp1hB
賢秀が臆病と言われたのって安土城番だったのに日野へ引き退いたことを言ってるんだと思うが、
あんなあけっぴろげな城で玉砕するよりは勝手知ったる自領のほうがいいわな
いざとなれば信長の妻子は伊勢へ落とせるし