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バラッバラな量産型蒲生さん達

2018年06月16日 21:16

3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/16(土) 00:14:15.64 ID:K4wdcAWg
朝鮮の役にて、秀吉が本営である肥前名護屋城に滞在する間、蒲生氏郷もこれに従っていたため、
本国の会津には留守居を置いていたのだが、その留守居である蒲生四郎兵衛と蒲生左門とが、
私に合戦を行いかけた事があった。

この蒲生左文郷可というのは北近江の住人で、上坂伊賀守の子、上坂兵庫助の養子であり、
氏郷にとっては従兄弟の婿であったのだが、かつて浅井長政に味方して本領を失い、
その後柴田勝家に仕えたが、勝家死去の後、左文は氏郷を頼って秀吉に仕えることを望んだ。
しかし氏郷は彼の武芸を常々見聞きしていたので、「先ず我が家中に迎えたい」と、彼を
召し抱えた。このように望まれての奉公であったため、何事も自由に出来、やがて蒲生家中でも
屈指の存在と成った。

去る年も、蒲生氏郷より。米沢城に3万8千石を副えて、ここに左文を置き「百万石の
仕置をしてもらいたい。」と懇願された。しかし左文はそのような仕置は自分には出来ないと、
固く辞した。「では、誰に仕置を任せるのが良いか」と尋ねられ、「蒲生四郎兵衛尉こそ
然るべきです。」と答えた。これを聞いて氏郷も「私もそう思う」と同意し、米沢城は
蒲生四郎兵衛に任された。

ところが近年になり、この蒲生左文と蒲生四郎兵衛の関係が悪化した。
蒲生四郎兵衛は左文に「あなたは筋目の者だからこそこのように指図をしているのだ」と
語ったが、関係はますます悪化するばかりであった。
また双方の領地である米沢、中山は近接した地域であったため、四郎兵衛の領地より
逃亡してくる者があれば左文はこれを保護し、左文の領地から逃亡する者があれば四郎兵衛が
保護した。

ある時、蒲生左文の領内の者が逃亡したが、左文は侍分の者たちに下知して米沢領分へ押し込み、
これを搦め捕って帰った。
また四郎兵衛の領内の者が逃亡してきた時、侍たちがこれを取り返そうと、文禄元年10月16日に
押しかけたが、左文側によって寄騎の侍5騎、その他大勢が討たれる事態となり、これにより
事が大きくなり、合戦に及ばんとした。

左文方の武士たちは、中山、宮内の両城に立て籠もった。さらに白石の蒲生源左衛門も四郎兵衛と
仲が悪かったため、左文に味方し加勢を送った。また左文の舎弟上坂源之丞も加勢として参った。

しかしながら、蒲生四郎兵衛方の長谷川如水の分別のお陰で、合戦にはならなかった。

この時蒲生四郎兵衛も蒲生左文も会津に居たので、蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、蒲生喜内等が
扱いを入れ、無事に調停されたという。

(氏鄕記)

氏郷が居ないとバラッバラな量産型蒲生さん達であった。



864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/16(土) 09:57:16.32 ID:A+3bsZ1O
長谷川如水の分別って、なんだったんだろう。
しかし、関わっているのが、蒲生さんばっかりで、区別がつかない・・・

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/16(土) 10:24:43.23 ID:UBwsR3+g
蒲生だらけの運動会
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蒲生騒動

2015年02月13日 18:38

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 18:25:49.33 ID:j/b2UuRK
太閤様(豊臣秀吉)の時代、蒲生飛騨守氏郷に、会津百万石が下された。彼はその前には、伊勢の津で
12万石を領していた。

この氏郷が死去すると、跡目は子息の藤三郎秀行が継いだ。そういった所で、家中が2つに割れた。
それぞ亘八郎右衛門方、蒲生四郎兵衛(郷安)方と呼ばれ、両派による大きな紛争が起こった。

主君である蒲生秀行は、亘八郎右衛門方に心入れしていた。並びに秀行の舅である徳川家康も同様であった。
蒲生四郎兵衛に対しては、石田治部少輔(三成)が取り持ちをしていた。

この騒動は蒲生家内部では処理できず、ついに秀吉の上聞に達し、亘八郎右衛門に切腹が仰せ付けられた。
蒲生四郎兵衛はこの公事に勝利したものの、彼は「五畿内に召し置いてはならない」と、秀吉より
仰せ付けられたため、肥後に下り、加藤主計頭清正の所に召し置かれた。

(細川忠興軍功記)

以上、蒲生騒動についての記事である。



408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 20:04:40.21 ID:AZ50p0zu
wiki見ると蒲生郷安が亘八右衛門を斬殺してるね

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/14(土) 11:44:32.80 ID:/DikPuV2
ご…郷安