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イチョウの漢字を御存じないのか?

2013年01月28日 19:52

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 20:14:38.40 ID:awzvNXJe
1525年、六角家臣・蒲生高郷(氏郷の曽祖父)は、
当主の座から追った甥・秀紀を毒殺した(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1276.html)。

蒲生氏は京の将軍家とも関係の深い家だったため、秀紀毒殺について将軍家から六角氏に追及があり、
六角義賢(※)は毒殺犯の僧・善知客を捕え、五十五度もの拷問にかけ真相を白状させようとした。
しかし僧は拷問に耐え抜き、自白しないので処刑するわけにもいかず、
とりあえず獄舎につないでおいた。

しばらく後、義賢は銀杏の紋の入った鞍を他国へ遣わそうとしていた。
しかし担当の者は無学だったので、漢字でイチョウをどう書くのか知らず(送る物の品目を書く
必要があったのだろう)
更に周りの者共にも聞いてみたが、誰一人その漢字を知る者はいなかったのである。

「ま、まさか仮名書きで書いて送るわけにもいかないだろ…どうすりゃいいんだ…?」

どうすべきか話し合っていると、獄中の僧がこれを聞きつけ、
「イチョウの漢字を御存じないのか? 銀杏と書き、鴨脚という異名もある。」

と教えたので、義賢は「良いことを申したものだ。これで今回は恥をかかずに済んだ…」
と深く感じ入り、僧を助命したのであった。


(蒲生軍記)


(※)原文では義賢だが、義賢は1521年生まれなので父の定頼の間違いのはず




318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 21:08:09.76 ID:GK/Zq8Q+
結局、毒殺の真相はどうなったんだ?。
それにしても55回の拷問に耐えるってのも凄いな

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 21:39:54.17 ID:nTGBlkvA
>>318
良く生き延びたよな
それとも僧侶相手だから直接痛めつけない拷問だったんだろうか

寝かさないとか

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 22:11:07.94 ID:fsrXLPkh
クッションの刑とか安楽椅子の刑とかの恐ろしい拷問を…

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 23:52:34.90 ID:ZU0288WA
当主毒殺の疑いがあるので僧を拷問することにした。
他人の目に触れるとまずいので家に連れ帰る事にする。
嫌がる僧を風呂場に連れ込みお湯攻め。
充分お湯をかけた後は薬品を体中に塗りたくりゴシゴシする。
薬品で体中が汚染された事を確認し、再びお湯攻め。
お湯攻めの後は布でゴシゴシと体をこする。
風呂場での攻めの後は、全身にくまなく熱風をかける。

その後に、乾燥した不味そうな塊を食わせる事にする。
そして俺はとてもじゃないが飲めない白い飲み物を買ってきて飲ませる。
もちろん、温めた後にわざと冷やしてぬるくなったものをだ。

その後は棒の先端に無数の針状の突起が付いた物体を左右に振り回して僧の闘争本能を著しく刺激させ、
体力を消耗させる。
ぐったりとした僧をダンボールの中にタオルをしいただけの質素な入れ物に放り込み
寝るまで監視した後に就寝。

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/28(月) 00:00:35.99 ID:WtrO6cYH
>>322
井伊直孝、島津義弘「まさかおぬし、そのような拷問を猫に対して行なっているのではあるまいな」

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/28(月) 01:02:22.84 ID:c1txSWuX
僧の玉を抜くとき聞いたところ
お湯攻めの後は熱風ではなく冷風がお勧めだそうじゃぞ。
でも冷風だと捗らないんですけど。

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/28(月) 01:27:02.00 ID:lbee8xBg
>>324
>>僧の玉を抜くとき聞いたところ

それが一番の拷問や(; ;)
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血塗られた蒲生氏前史

2010年12月31日 00:00

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 14:42:06 ID:RNPfTcUl
血塗られた蒲生氏前史


蒲生氏14代当主、蒲生貞秀には秀行、高郷、秀順という3人の息子がいた。

年老いた貞秀は情勢不安な近江の勢力として生き残りを賭けて長男秀行に蒲生氏の家督を譲ると次男高郷を
六角氏へ、三男秀順は細川家へと仕えさせる。
しかしながら長男の秀行は父に先立って早世してしまい、貞秀は新たな後継者の指名を迫られた。
そこで真っ先に名乗りを挙げたのが・・・

高郷「兄の子である秀紀はまだ幼少の身でございます。私にお任せください父上。」

次男の高郷である。しかしながら貞秀は了承せず嫡孫である秀紀を後継者に指名した。
そして1513年に貞秀は死去。正式に秀紀が蒲生氏の家督を継ぐことになったのだが、
高郷はここに至っても所領の配分に不満を漏らすなど全く納得していなかった。

この後、高郷は六角家臣としての足場固めに腐心し始め、息子定秀の嫁を六角氏家臣の名家
馬淵氏(佐々木氏庶流)から迎えるなど血縁の結び付きも持った。
長い年月をかけて六角氏当主である定頼の信任を得た高郷はついに長年胸のうちに燻っていた野望を実行に移す。

高郷「秀紀を討ちます。定頼様も力をお貸しください。」

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 14:43:57 ID:RNPfTcUl
六角定頼としても秀紀を廃して蒲生氏を本流ともども配下に取り込むよい機会であると考えこれを快諾した。
1522年8月、蒲生秀紀の篭る音羽城は蒲生高郷と六角定頼の軍に攻囲され、8ヶ月に及ぶ籠城戦の末に
秀紀は定頼の呼び掛けに応じて降服した。
これにより秀紀は蒲生家の家督を高郷の息子である定秀に譲らされた上に音羽城を退去させられ、
同城は廃城となっている。(日本最古の城割と言われる)

しかしながら家督を奪われた秀紀はこの理不尽極まりない一件にもちろん納得がいかない。
新たに鎌掛城という要害の堅城を築きそこを居城としていた。
一方、家督を簒奪したものの完全に二つに蒲生家が分裂してしまった事が高郷・定秀親子は不満であった。
高郷らは鎌掛城の秀紀の抹殺を決意する。

1525年12月。蒲生親子の刺客である禅僧、祥善に毒を盛られた蒲生秀紀は苦しさに悶えながら腹を切り裂くと
池に身を投げて息絶え、
鎌掛城も定頼の名によりわずか3年で廃城処分となった。
これにより蒲生氏嫡流は断絶し高郷-定秀流が蒲生氏の嫡流に成り代わったのだった。

後に92万石の大大名となる蒲生氏郷は定秀の孫に当たる人物である。