立花宗茂の家は、常に分かれていた

2015年08月26日 16:56

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 03:07:40.90 ID:/MvixQL9
立花宗茂の家は、小野和泉(鎮幸)と立花三河(薦野増時)の両家老の二派に、常に分かれていた。

小野和泉は若年よりその武勇人に越え、九州においては隠れなき武人であった。
彼の生まれたちは卑しく、物を言う様子も全く下郎たちと同じで、分別もなく、
普段は何の役にも立たない人物のように見えるのだが、度々の手柄は肩を並べる者も居らず、
そのため六千石を取り一の家老となり、その威勢を誇っていた。

立花三河は男柄良く、口上も明らかで分別厚く、その利発さは人に越え、田舎侍には稀なる人材であると、
同僚たちも思い、他家からも賞賛され、その頃の大名衆たちも欲しいと思うような人物であった。
今は物事を素早く進行させるのが良いと思う時代であるが、とりわけこの者ははややかであった。
武辺においては小野和泉ほど回数を重ねていないが、居合わせた合戦のごとに、武功を加えていた。

しかし、智謀があって分別立てをするような大人しい人物は、武儀は二番のように言われるのが、
今の世の習いである。そして人は、分別がなく傍若無人なことを言いまわり、大抵は愚鈍で
子どもじみた作法の者を、武辺者と言うことが多い。これは珍しいことではないが、

立花三河も、能力のある人物であることは確かなのに、利根であることに押され、武儀は二番のように、
家中でも特に物慣れぬ若い衆たちは思っていたそうだ。

このようであったので、小野和泉派の者達は、何時も武辺事ならば我らの出番であるとし、
立花三河派の者達に対してが、それが誰であっても武辺事に仕る者とは常に思わなかった。
そして親しき友人、あるいは兄弟においてこの2つの派閥にわかれた者達の間では、
小野和泉派は相手を「比丘尼組」、立花三河派は相手を「羨ましいとも思わぬ」などと言って、
それぞれに腹を立てさせることもあったという。

(古郷物語)

立花宗茂の家中が2つの派閥に分かれていた、というお話。



216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 13:27:59.41 ID:rXq/zYu8
脳筋と能吏に別れるのは当主が盗賊まがいの脳筋のせい
福島しかり

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 22:30:30.65 ID:rhG4BBZU
柳川の戦いの時にこの二派の対立を直茂に突かれたりしている

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道雪の墓守

2014年05月07日 18:45

897 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/07(水) 01:54:43.27 ID:6sn+TDjP
道雪の墓守

立花山麓にある曹洞宗の古刹梅岳寺
立花道雪の墓所である
中央に母養孝院の墓所、右に道雪、そして何故か左に一回り小さな異名の墓石

主君から恩賞として死後も使えることを許され同じ墓所に葬られた
名を菰野増時という

898 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/07(水) 02:12:41.79 ID:6sn+TDjP
ミス 薦野だ
福岡県の現在地名だと新宮あたり
柳川立花藩改易後黒田に使えた理由の一つだとも
地味だけど忠誠が高い九州武将の典型だと思う